目次
はじめに
本講座の運営者(以下「私」)はトッドの人類学の忠実な学生です。彼の理論の妥当性とその可能性を信じている度合いは、ひょっとすると本人以上ではないかと思うほどです。
しかし、理論の使い方というか、理論の解釈の仕方という点では、私とトッドの間にはかなりの違いがあります。その点では、私は少しもトッドに忠実ではないのです。
もともと、このウェブサイトでは、「トッドの理論は誰にでも使える」ということを強調していますし、随所で違いを説明してもいます。それでも、「入門講座」と銘打ちつつ、あまり自由な解釈を展開することには、多少の罪悪感というか、引っかかりもありました。
それでも、このやり方を変えるつもりがないのは、私が行っているのは、トッドの理論の可能性を追究する作業であると確信しているからです。彼の理論には大いなる可能性があります。ヨーロッパ人であるという彼自身の背景に制約されるなんてもったいないのです。
「だったら、本人に伝えてみては?」とは、以前から考えていました。この度、個人的によいタイミングとなったので、お礼とともに、私の考えをお伝えする手紙を出してみました。
*宛先はフランスの出版社seuil。フランスの出版社のウェブサイトには「著者の連絡先は教えられないが、出版社宛に送ってくれたら本人に届ける」と書いてくれているところが多いのです。
基本的にはファンレターである手紙ですが、本ウェブサイトをご利用下さる方には、本講座の運営者がどのようにトッドの理論を受け止め、どの点で異なる意見を持っているのかをまとめた文書としてお読みいただけると思うので、以下に日本語訳を掲載させていただきます(原文は英語です)。
返事は来るかな?
もし万一返事があった場合にはもちろんご紹介させていただきます。
トッド本人と本講座の主な相違(まとめ)
手紙は長くて(読むのが)面倒なので、講座運営者から見たトッドと本講座の違いをまとめておきます。
1️⃣大前提として、家族型の分類、家族型とイデオロギーの関係、家族型の分化(進化)に関する理論は共通です。
2️⃣社会における各イデオロギーの作用の中で、トッドは平等の持つ作用(具体的には平等の不在がもたらす負の影響)に目が行く傾向があるのに対し、本講座は権威の作用(権威の不在がもたらす負の影響)に目が行く傾向がある。
3️⃣権威の作用を重視する結果、本講座は家族型の進化(原初的核家族→直系家族→共同体家族)を人類の平和的共存に役立つものとして肯定的に評価する。他方、トッドは、これが「進化」であるということは認めるが、肯定的な評価は示していない(秩序よりも自由を好む性向のためと思われる)。
4️⃣トッドは家族システムから来る権威の作用がピンとこないが、宗教に基づく権威なら理解できるため、本講座が権威の観点から行う説明を、宗教の次元の問題として論じる傾向がある。
→4️⃣のせいで、トッドの議論においては、①宗教の重要性が課題に評価されている、②家族システムの次元(無意識の次元)で説明可能な問題を一段浅い次元(宗教=潜在意識/下意識の次元)で説明するために分析が不必要に複雑になっている、と本講座は感じています。
手紙本文(翻訳)
*ウェブ上での読みやすさの観点から、見出しや改行、強調を付け加えています。
*内容は本ウェブサイトや姉妹サイトの記事にすでに書かれていることが多いので、参照先としてそれらの記事を示します。
冒頭の挨拶
私は日本人の研究者で、あなたの本の熱心な読者です。家族システムに関するあなたの発見のおかげで、世界を見る見方が完全に刷新され、ある意味で人生そのものも大きく変わりました。あなたへのお礼は何度言っても足りませんが、まずは一度、心からのお礼を伝えさせてください。あなたの発見をわれわれにシェアしてくださり、本当にありがとうございます!
今回、お手紙を差し上げているのは、家族システムの理論を用いたあなたの歴史解釈のいくつかの点について、異議を申し立てるためです‥‥というのは冗談ですが、しかし、私がいくつかの点であなたと違う見方をしていることは本当です。日本人である私の視点を共有することによって、家族システムを基礎とする人類学的分析による歴史の再解釈というあなたのプロジェクトをより豊かなものとできるのではないかと考え、お手紙を書くことにしました。
私はあなたのご研究から本当に大きな影響を受け、もはやあなたの理論を頭に置くことなしに世界を見ることはできなくなりました。あなたの発見を必要な人々に届けるために「エマニュエル・トッド入門講座」(www.emmanueltoddstudy.com)という日本語のウェブサイトまで運営しているほどです。私は、あなたの分析のほとんど全てに賛同しますが、しかし、日本人として「これは絶対に違う!」と感じるところもあるのです。
筆者の自己紹介(学問的背景)と手紙の趣旨
ごく簡単に、私の学問的背景をご説明させてください。私は1970年生まれで、2021年までの約20年間、法学の教授として日本の大学に勤めていました。
ご存じのように、日本は西洋の法制度を受容し、現在は欧米と「自由、民主主義、法の支配といった基本的価値観を共有するパートナー」ということになっています。しかし、制度は似ていても、その実際の機能の仕方は、西欧と日本では大きく異なっています。そのため、日本の法学者の仕事の大部分は、日本の中に西欧との違いを発見して、それを批判し、あるいは正当化することに向けられてきました。
日本で法学者であるということは、日本を西欧に変革するための革命の綱領を書き続けるようなものといえるかもしれません。穏健派もいれば、急進派もいる。それでも、基本的な方向性に違いはありません。そのような仕事を、一生、情熱的に続けることができる人もいますが、私にはできませんでした。
仕事を続けるうち、私は、日本と西欧では何かが根本的に異なっており、日本を西欧に変革するという革命が成就することは決してないという端的な事実に気づきました。私は仕方なく大学を辞め、一人で、近代史を見直す作業を始めることになりました。その作業に際して、あなたのお仕事がどれだけ重要な意味を持ったかを、私があなたにご説明するのは馬鹿げたことのように思われます。
この手紙の中で、私は、無意識のレベルに権威を備えた社会に生まれ育った人間が立てたいくつかの仮説を披露したいと思います。仮説は、宗教、権威、そしてドイツに関連し、最終的に、ヨーロッパ人、アメリカ人の問題性ーー人間でいっぱいの世界の中で他の人間集団と共存する適性を欠いていることーーを強調することになります(それが私の目的というわけではありません。念のため)。
宗教と家族システム1️⃣ 直系家族の宗教
宗教と家族システムの関係から話を始めましょう。いくつかの本の中で、あなたは、一神教を直系家族と結びつけています。直系家族は、唯一全能の父という権威をその心性に有するが故に、一神教に親和的な家族システムであると。
まず第一に、ドイツのことを一旦忘れていただくようお願いします。後でご説明しますが、私の考えでは、ドイツの人類学的基底には、単に直系家族であるということを超える特殊性があります。しかし、あなたは、ドイツを、直系家族の典型とみなしている。そのことが、あなたの直系家族理解をやや歪めているように思われるからです。
私は、日本人の信仰が多神教的である点についてほぼ絶対的な確信を持っています。それはもちろん家族システムに起因します。神は父親の似姿である、言い換えると、宗教体系は地上の権威体系の反映である、という考えを私は受け入れています。そこで、直系家族の権威の性格について考えてみたいと思います。
直系家族において、父親が子どもに対して権威的な地位にあるのは事実です。しかし、一方で、彼の権威が、祖先に由来し、まもなく長子に引き継がれる、仮初のものにすぎないという事実も見逃せません。元法学者として、私は、権威の機能の一つは、社会に正義の基準を供給する点にあると考えています。直系家族の日本の場合、そのようなものとしての権威は、先祖から子孫に連なる系の中に存在しており、歴代の父親たちは、誰一人、何が正しく、何が正しくないかを、自ら決定できるだけの強い権威を持っているわけではありません。
その意味で、父親の権威だけに着目した場合も、その権威構造は極めて分散的であるということができます。加えて、家系の維持は、決して本家の父親(総領息子)だけで成しうる仕事ではなく、母親、叔父、叔母など、一族全体が、それなりの役目を果たし、したがって、一定の権威性を有しています。
直系家族の社会とは、こうした分散的な権威構造を持つ家系が多数存在し、家系同士が互いに尊重し合い、それぞれの家系の維持に努めることで成り立っている社会です。
彼岸における神の配置が、地上の権威体系の反映であるなら、直系家族の社会には、各家系のご先祖たちを象徴する神が、ほとんど無限に存在するはずです。そして、人々は、その全ての神にそれなりの敬意を払うーー特別に贔屓にする神がいたとしてもーーというのが通常のあり方であると思われます。
実際、日本の人は、由来や素性を問わず、ありとあらゆる神様に対して、尊崇の感情を抱くのが普通です。土着の信仰は、祖先や偉人の霊を含むありとあらゆる物を神として崇めますし、仏教伝来以降は、中国やインドから来た神様も当然のように尊崇の対象に含まれることになりました。自分の家の葬式は浄土真宗で出すけれど、正月には近所にある手頃な神社仏閣に詣で、旅先ではありとあらゆる神様に手を合わせ、結婚式は教会で行い、クリスマスにはパーティーを開きます。実際、家系の中に西洋人が混ざっていたって全くおかしくないのですから、もしキリスト教側が許してくれさえしたならば、キリスト教の神はもより正式に日本人の信仰の対象に含まれることになったでしょう(「キリスト神社」とかができたりして)。こうした行動をおかしいと感じるのは、あたまでっかちなインテリだけです(もちろん、私もかつてはその一人でした)。
浄土真宗は確かに阿弥陀如来を重要視しますが、それは、浄土真宗が民衆を「他力本願」によって救うことを重視した教えであるためにすぎないように思えます。もちろん、私は仏教の専門家ではありませんが、ここは日本なので、浄土真宗に関する情報は潤沢です。聞くところでは、浄土真宗が、数ある仏の中で阿弥陀如来を特別視するのは、阿弥陀如来が、自ら仏道修行を行うことで救済を得ることができない人々に対して、他力による救済を与えることを約束する仏であるからです。浄土真宗にとって、阿弥陀はもっともパワフルな存在ではあるけれど、阿弥陀がすべてであるというわけでは決してありません。
浄土真宗は、仏教の他の宗派を否定するわけではなく、「自分たちはこのやり方でいく」ということを宣言しているにすぎません。その意味で、浄土真宗を含む、仏教各宗派の存在の仕方には、社会に多数の家系があって、それぞれの家系がそれぞれの権威に依拠してそれぞれのやり方を貫くことをよしとする、直系家族らしさが如実に表れている、と私は考えます。他力による救済を叶えるという一種の便宜のために阿弥陀を選択する浄土真宗を、神とは唯一絶対であるとする一神教に近いものとみるのは、やはり妥当ではないと思います。
そして、浄土真宗の教えは、阿弥陀如来は、いかなる者であっても、念仏を唱えるものであればすべて救済する、というものであって、その教えはきわめて平等主義的です。ルターの神の厳しさはまったくないのです。
家族システムと宗教2️⃣ 一神教を必要とするのは誰か?
そういうわけで、一神教は直系家族の宗教ではないと仮定しましょう。では、一神教を必要とするのは誰でしょうか?
共同体家族?
私の考えは違います。
共同体家族の場合、生身の人間である父親の人格こそが権威の源泉です。国政に置き換えていえば、現在の皇帝の人格ということになります。現実の世界で、絶対的な権力を掌握している皇帝にとって、唯一絶対の神(the only true God)の存在は有害でしかありません。唯一絶対の神が皇帝に服従するという事態はおよそ考えられないわけですから。
共同体家族の帝国では、王は何らかの形で神格化され、王に化身するその神は最高神とされるでしょう。しかし、ほかにもさまざまな神、例えば、妃や母に当たる女神や、帝国に服属する地域の神などがいて、皆が揃って最高神を崇める、といった形で、現世の王の権威を支えるのが典型的ではないかと思われます。
直系家族にも言えることですが、現世に確固たる権威が存在し、その権威のもとで政治的秩序が保たれている場合、宗教の役割はその補強にとどまります。世俗の権威を凌駕するような強大な神の存在は、不要なだけでなくむしろ邪魔なのです。
では、一神教の神を必要とするのは誰でしょう。
答えはすでに明らかだと思います。そう、核家族です。
原初的核家族(the undifferentiated nuclear family)であるユダヤ人が、ユダヤ教を作り上げたのは、バビロニアやアッシリアの圧力にさらされた彼らが、国家らしきものを作り、それを維持していく必要に迫られる中でした。
私の仮説は、このプロセスにおいて、天上の唯一絶対の神は、地上の権威の代替物として機能したというものです。
キリスト教やイスラム教の場合、それらは、未分化の核家族の国家建設を可能にするとともに、帝国を統治する手段として、つまり、未分化の核家族を含む多様な集団を一つの権威の下に統合するための手段としても用いられたように思われます。
人類史における権威の役割
直系家族の誕生が、国家(都市国家)の誕生と同期していることを、私はあなたの研究から教わりました。私は膝を打ちました。
満員の世界の中に、縦型の権威の軸が生まれ、その軸を基礎として、バラバラに散らばっていた核家族社会が、法、文字の体系、行政機構を持つ国家的秩序に一気に組み上げられていく様が、目に浮かぶようでした。
この時以来、権威の軸が、国家というものを成り立たせるために不可欠のツールであること、そして、それは、満員の世界で平和的に共存するために不可欠なメンタリティを人類に付与するものであり、こういってよければ、人類史における最大の発明品の一つである、ということが、私にとっては絶対的な命題となりました。この命題をめぐる私の経験は、ローレンス・ストーンの理論があなたに与えたのと同じようなものであったかもしれません。
誤解のないように申し上げますが、私が権威に魅了されているということは決してありません。私は記憶にあるもっとも古い幼少期から、日本社会の権威的な側面に違和感があり、そのことが私を社会科学の世界に導いたようなものなのです。
そして、その私は、あなたの導きに従って歴史を読み直してみて初めて、権威が人類の平和的共存のために果たしてきた役割を認識し、好むと好まざるとに関わらず、これは必要不可欠なものなのだと観念するに至りました。
しかし、あなた自身は、権威というものが、人類の共存にとっていかに重要な機能を担ってきたかということに、比較的無頓着であるように思えます。「我々はどこから来て、今どこにいるのか」の中で、あなたは、ファーガソンの言葉を引用し、人間の集団に絶対的なアイデンティティなど存在せず、他の集団に対する敵意のみが集団の一体性の源なのだと断言します。
私には、あなたが、これを家族システムに関わらない、人間の本性だと捉えているように読めるのですが、もしそうだとしたら、私はあなたの見立てに反対します。
人間の集団に絶対的なアイデンティティが存在しないという点に異論はありません。しかし、それでも、他者を排除する以外のやり方で、各社会の内的一体感を醸成したり、集団の連帯感を高めることは可能だと思います。それを可能にするものこそが、権威なのです。
権威とは、荒野に建てられた一本の柱のようなものである、と私は考えています。柱があれば、人はそこに旗を立て、集まることができます。柱の周りでダンスを踊り、歌を歌うことだってできる。そうすれば、自ずと、一体感は醸成されます。権威が確立した社会では、常に右と左に分かれて争うことをしなくても、常に外部に敵を探すことをしなくても、中心を保ち、集団をある程度平和的に維持していくことが可能なのです。
もちろん、直系家族や共同体家族の場合も権威の威力は絶対的ではなく、危機に瀕しては「他者の排除」という古典的な手段が用いられることがあります。しかし、一度、柱を手に入れ、自分たちの集団を平和的に維持することを覚えた集団には、他の集団は必ずしも敵ではない、と想定することができます。他の集団もまた、自分たちと同じように、権威の下で平和に暮らす集団なのかもしれない以上、他者をいきなり攻撃するという動きになるはずはない(私はヴァスコ・ダ・ガマのことを思い浮かべています)。その意味で、権威のもたらすメンタリティは、国家間の平和的共存にとっても、不可欠なものだと見ることができます。
信仰の喪失が「西洋の敗北」をもたらしたのはなぜか
近著、『西洋の敗北』の中で、あなたは西洋の没落の根底に「宗教ゼロ」状態があることを指摘しています(私は日本語で読んだので用語が正確かどうかわかりません)。信仰の喪失が西欧の混乱の基礎にあるという指摘には賛成です。しかし、私の考えでは、真の問題は信仰の喪失ではなく、権威の喪失です。
信仰の喪失は、直系家族や共同体家族地域においても相応のインパクトを持つでしょう。信仰は多くの場合、地上の権威を補強する役割を担っていたからです。しかし、たとえ弱まったとしても、地上の権威は残ります。
他方、西欧においては、神は地上の権威の完全な代替物でした。西欧は、神を信じることによって国家を作り、信仰を喪失する過程では、学問の形で科学的真理(神の代替物です!)を追究し、イデオロギーを活性化させて、近代国家を運営しました。西欧では、信仰の喪失は、曲がりなりにも機能していた代替権威の喪失、つまり、権威の完全な喪失を意味したのです。
だからこそ、信仰の喪失は、西欧だけに特別な影響を及ぼしました。あなたのいうとおり、西欧文化圏は完全なニヒリズムに陥り、彼らの国家は、その延命のためならいかなる行為も辞さない存在となった。ひょっとすると、このニヒリズムは、核家族が満員の世界に投げ込まれた場合に示す、標準的な反応なのかもしれません(私は今イスラエルとアメリカを思い浮かべています)。
西欧の覇権は、過去500年間の世界を規定してきましたから、その終了によって大きな影響を受けない国も地域もあり得ないでしょう。その時代がすっかり終わるまでの間に、この先さらにどんな事態が起こるのか、私には想像もつきません。
それでも、英米を中心とする西欧が、「乳と蜜の流れる土地」を求めて大航海に出て以来、作り上げてきた世界が、いささか異常な世界であったことは間違いなく、これが終了することは自然であり、かつ、健全なことだと私には思えます。世界には、正気を保ち、また強靭な権威を備えた文化圏がいくつかあります。今後、世界を支えていくのが、彼らであることは疑いない以上、当面の混乱を乗り越えた先に、世界は、おそらく相当程度に人口を減らした上で、より持続可能で、安定性のあるあり方を回復していくのではないでしょうか。
人口をどう評価するかという点でも、私はあなたと意見を異にしているかもしれません。私は、人類の未来のためには、人口の減少が必要であると考えています。人類の文明が継続するには、豊かさだけではなく、平和(=ある程度公正な秩序)も必要です。世界が一つの帝国に組織されるという事態が考えにくい以上、人類が殺し合いを止めて、ある程度平和に共存していくためには、相当程度の人口の減少が不可欠だと考えます。
ドイツと日本:ドイツの特殊性
最後に、ドイツについて触れましょう。核家族が中心の西欧にあって、ドイツは直系家族です。しかし、そのドイツは、一神教であるキリスト教を受容し、宗教改革の立役者を輩出した。脱宗教化の影響を、もっとも強く受けたのもドイツです。一見すると、ドイツは、一神教を必要とするのは核家族であるという私の仮説、脱宗教化は権威主義家族には決定的なダメージを及ぼさないという私の仮説を覆す存在であるように見えます。
ここでも、私たちは「国家は直系家族の権威の誕生とともに生成した」という(あなたが私に教えてくれた)仮説から出発する必要があります。文明の発祥地に妥当するこの仮説は、周縁地域であるヨーロッパや日本に当てはめる際には、若干の修正を必要とします。これらの地域は、中心地からの影響によって、権威が誕生する以前に国家を経験したからです。
これらの地域が、自生的な権威が発生していない段階で、国家を生成・維持することができたのはなぜか。私は、彼らが、どこかから権威を借り受けたからである、と考えています。
日本の場合、権威を貸してくれたのは中国です。古代の天皇は中国の皇帝に並び立つべき存在である」という観念によって権威性を獲得しました。その権威は、中国の皇帝の権威を日本の鏡に映したものに他なりません。
ヨーロッパの場合はもちろんキリスト教ですね。私はあなたから教わったのだと思っていますが、ヨーロッパは、ローマ帝国の遺産としてのキリスト教から、その権威と組織を借り受ることによって、国家を建設することができた。
借り物の権威によって国家を生成した国では、人口が増え、教育レベルが上がってくると、この借り物の権威と地物の勢力の間の綱引きが始まります。これは、借り物の国家を、生成過程にある家族システムに見合った国家に生まれ変わらせる過程です。
ヨーロッパの核家族地域の場合、このプロセスは、キリスト教およびキリスト教に力を借りていた勢力を放逐するプロセスとなります。
フランスは、まずはカペー朝の王が教皇を屈服させ、次には国王そのものが放逐されて、共和国が成立する。
直系家族がどこにも定着しなかったイギリスの場合、彼らはもちろん自由を望みますが、国家を維持するため、彼らは何らかの形で借り物の権威を保持し続ける必要がありました。そこで、彼らは、教会制度を国王の下に置き、王制を維持しつつ、それを形骸化させていくというやり方でこの必要に対応した、と私は見ています。
それでも、王の権威が日増しに薄れていく中、国家の統合を保つには、犠牲が必要でした。イギリスの場合、アメリカにおける先住民と黒人にあたるそれは、アイルランドだったのではないでしょうか。やや脱線しますが、私には、クロムウェルのアイルランド征服戦争は、イスラエルによるガザでの蛮行とまったく同じ現象に見えます。
直系家族のドイツでは、綱引きは、借り物の権威と、新たに生成した直系家族の権威との間で行われ、最終的には後者が勝利します。勝利した諸侯たちは、しかし、決してキリスト教そのものを放逐しようとはしません。そのメンタリティの奥深くに権威を抱えもつ彼らは、一神教の神の権威に憧れこそすれ、反感を抱くことはないからです。
権威との親和性の高さゆえに、綱引きで地物の権威が勝利した後も、借り物の権威を大切に持ち続けたのは日本も同じです。日本では、綱引きは「借り物の」天皇および貴族と「地物の」(直系家族の)武士の間で行われ、16世紀以降は地物の権威が実権を握る体制が確立します。それでも、天皇が放逐されることはなく、天皇は、今日に至るまで、ある種の文化的な権威、国民統合の「象徴」としての地位を保っています。
では、やはりドイツと日本はそっくりだと見るべきなのでしょうか? 実をいうと、この点は、あなたの議論の中で、私がずっと違和感を感じていたポイントでした。私の感覚では、ドイツと日本の文化にはかなり大きな違いがあります。日本と韓国の違いは婚姻制度の相違(内婚と外婚)によって説明することが可能です。しかし、ドイツと日本の違いはそれを遥かに超えていると思います。
私は法学の教授でしたので、ドイツの文化には比較的馴染みがあります。言わせてもらえば、とにかく、日本はドイツほどパワフルではないし、ドイツほど生真面目でもないし、何につけても、ドイツほど徹底的ではありません。荘厳なドイツ音楽も、カントやヘーゲルやマルクスの仕事も、そして分厚くて体系的で網羅的でしょっちゅう改訂されるドイツの法律コンメンタールも、私にはとても人間業とは思えません。あれらに比べれば、日本人のやることは、どれもこれも、ずっと散漫でいい加減です。日本人がドイツのあれこれに魅了されがちであるのは事実であり、日本とドイツの間に親和性があることは確かです。しかし、両者がそっくりであるとは到底言えないと私は思います。
何がドイツの特殊性を形作っているのでしょうか。私は、両者の違いは、借り物の権威の性格の相違に由来すると考えています。
日本の場合、それは「日本の鏡に映した中国」でした。実体をもたないそれは、必要に応じていくらでも形を変えることができ、新たに確立された日本のシステムにとって邪魔になることはありませんでした。
他方、キリスト教は歴とした世界宗教であり、ルターといえども聖書を書き換えることはできません。そのため、直系家族となったドイツは、核家族のために作られた宗教を抱き続けることになりました。
私の仮説によれば、一神教は、権威を持たない核家族に、権威の観念を植え付けるのに適した仕様になっています。原初的な自由を謳歌する人々を法に従わせるために、神は、超越的な、唯一絶対の存在でなければならなかったし、キリストは全人類の罪を背負って十字架にかけられなければならなかった。しかし、そのような脅迫的な存在が、法に従うという構えを十二分に備えた直系家族の心に取り憑いたらどうなるでしょうか。
全人類の罪を背負って十字架にかけられたキリストの像を前に、直系家族は悩みます。この罪を贖うために、自分には何ができるのか、と。
13世紀、第4回ラテラノ公会議は、「罪の告白」の年に一度の実施を信者の義務と定めます。私は、この事実の背景には、直系家族の成立があると私は睨んでいます(「罪の告白」の重要性については、フーコーが論じているということですが、私にはフーコーを読む習慣はありません。日本人の歴史学者阿部謹也の著書で知っただけです)。
同じ頃、絵に描かれるキリストの像は、痩せ細り、苦悩に顔を歪める受難者の姿に変わっていきます。核家族であった人々の目には単に神々しいものと映ったキリストは、直系家族化した人々の目には、苦悩に打ち震える存在にしか見えなくなった。そうです。苦悩するキリストは、強大な一神教の神の権威に押しつぶされそうになりながら、正しい行いを求めて苦悩する直系家族の内面の表れなのです。
一言でいうと、私の立てた仮説は、ドイツの人類学的基盤の特殊性は権威の過剰にある、というものです。数式で表すとこうなります。
キリスト教(一神教の神)の権威+直系家族の権威
= ドイツのメンタリティ
直系家族の、それ自体はさほど強靭ではない権威の軸の先に、彼らは一神教の神を接続した。そのことによって、ドイツは、凄まじいパワーを獲得し、同時に、あなたがしばしば指摘する、リーダーシップの不安定さももたらされたのです。
ドイツのリーダーとは、普通の家庭のお父さんが会社でがんばって働いて出世したら、なぜか神の代理人になっていた、というようなものですから、不安定にならないほうがおかしいといえます。あなたは日本のリーダーも同様だと言いますが、日本にはそもそも強いリーダーなど生まれません。昭和天皇だって実態は専制君主とは程遠いものだったのです。
権威と平等
今回、あなたにお伝えしたい内容はこれですべてです。もしかしたら、あなたには、私の歴史の見方が、権威の観点を重視しすぎに見えるかもしれません。しかし、実は、それこそが、私があなたの分析に対して感じることなのです。
「平等の不在」という観点から、アメリカの民主主義を論じるあなたの手際に、私は心底感銘を受けました。教育の推移と黒人差別の関連を論じたところなど、「すごい!自分には絶対に思いつけない!」と興奮しながら読みました。しかし、一方で、こう感じるのも事実なのです。
「ちょっと平等の観点のみをを重視しすぎでは? アメリカは、権威と平等の両方を欠いている。権威の欠如という観点から分析することも必要ではないかしら」と。
家族システムの分化に関するあなたの仮説を前提にすると、それぞれの家族型が担っている諸価値をつぎのように解釈することができるのではないでしょうか。
人口が増大し続ける地球上で、人類は、平和的な共存のために、二つのツールを開発した。最初が権威、つぎが平等である。
中心部の家族システムはその両方を備え、辺境はそのどちらも持たない。その中にあって、フランスは平等のみを持ち、日本は権威のみを持っている。それぞれの社会に属するあなたと私は、それぞれ、平等の機能、権威の機能にとくに敏感な感受性を持つことになった、と。
何度でも言います。家族システムと社会のイデオロギーの関係や、家族システムの分化に関するあなたの発見によって、私はこの世界を信じられないほど明晰に見ることができるようになりました。あなたのおかげで、あれがいい、これがよくないと批評し、ああしろ、こうしろと意見をいえば世界を良い方向に変えられると考える傲慢さと完全に手を切ることができました。
権威の観点から見た私の解釈が、家族システムの観点から歴史を読み直すというあなたの真に画期的なプロジェクトに対して、ほんの少しでも貢献できたとしたら、これほど嬉しいことはありません。
長文をお読みいただいてありがとうございました。これからもあなたの素晴らしい直感と叡智をわけていただくことを楽しみにしています。