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トッド入門講座

「トッド後」の近代史
(4)近代のメンタリティ③ 敵 権利/自由(完)

目次

はじめに

本連載の最終回です。

しばし物騒な話が続きますが、最後はそれなりに落ち着くところに落ち着きます。どうか心安らかにご参加くださいますように。

(1)掠奪の法観念史

さて、前回予告した奇跡のような書物とは、こちら(↓)。

2024年5月に「増補新装版」が出ていますが、私の手元にあるのは旧版です(東京大学出版会、1993年)。

法制史家の山内進さんによる、
『掠奪の法観念史ー中・近世ヨーロッパの人・戦争・法』
です。 

まず、あらかじめお断りしておく必要がありますが、著者の山内さんこの本を書かれた目的は、「 ”抗争と掠奪と500年” の深層に迫ろう」という私たちの目的とは異なります。

少し長くなりますが、山内さんの前提とされている歴史認識が表れている部分を引用させていただきます。

近代以前のヨーロッパは、本質的には、「暴力」的社会だった。それは、権力分散的で、自力救済を基軸とする社会だった。人は自らの実力を頼りとし、生計を維持し紛争の解決をはかるにも、しばしば生の実力つまり暴力に訴えた。‥‥

言うまでもなく、近代世界はそうではない。「暴力」は、そのすべてを国家が権力として独占し、私人が暴力を振るうことは本質的に否定される。私人はあくまで「権力を持たない社会(societas sine imperio)」のうちに暮らす平和的市民であり、自力救済はごく限定的にしか認められない。正当防衛でさえ、その「正当」さが認められる範囲はかなり狭い。一般の国民が唯一公然と暴力を振るう機会である戦争においても、その暴力は完全に国家によって管理されている。その管理から逸脱する暴力行為はすべて不法であり、犯罪である。「掠奪」も、管理された暴力行使からの逸脱として犯罪とされる。われわれにとって、それは自明なことである。

山内進『掠奪の法観念史』ⅰ-ⅱ(はしがき)

山内さんご自身は、あくまで、近代以前のヨーロッパが持つ「暴力」性は、近代化によって克服されたという前提に立っている。その上で、われわれの住む世界とは「異なる」ものとしての「中・近世ヨーロッパ世界」を知るために、この本を書かれているのです。

しかし、私たちはもう「家族システムに基づく集合的メンタリティはそう簡単に変わらない」ことを知っていますので‥‥

そう。そんなわれわれにとって、この本は、近現代に通底する欧米世界のメンタリティを知るための本にほかなりません。

「掠奪」を主題に、戦争に関する法と法理論を探究するこの書物は、「自由だの、人権だの、なんちゃら主義だの・・」に飾られてキラキラ光る近代化ストーリーの陰に隠された深い穴の奥底で、ふつふつと煮えたぎっていた彼らの深層のメンタリティを白日の下に晒す、まさに奇跡の書、なのです。

著者の山内さんには、無断での「目的外使用」をお詫びするとともに、このような研究を残して下さったことについて、心よりお礼を申し上げます。

(2)三十年戦争:17世紀の破壊力

Jacques Callot, Plundering a Large Farmhouse(農家の略奪) c.1633
https://www.nga.gov/collection/art-object-page.51925.html

出発点は、三十年戦争(1618-1648)。ちょうど、イギリスがインド洋に出て行ったのと同じ頃に、ヨーロッパで起きていた戦争です。全ヨーロッパを巻き込んだその戦争は、近代化への一里塚(主権国家体制の確立)として知られるとともに、その破壊の凄まじさでも有名です。

死者数は、ヨーロッパ全体で推計450万人から800万人(wiki英語版)。主戦場となったドイツの人口は、なんと、戦争前の3分の1から4分の1にまで激減しました。

兵士だけでそれほど多くの死者が出るはずもなく、上述の死者数には、兵士よりもはるかに多い民間人の犠牲がカウントされています(死者数における兵士:民間人の比率は約1:5)。

しかし、当時は、銃火器の使用が始まっていたとはいえ、せいぜい、小銃の斉射戦術が取り入れられ、大砲が野戦で活用できるようになったという程度の時代です。もちろん、大量破壊兵器もないし、無差別爆撃の技術もない。

いったい、どうやると、これほど多くの民間人の犠牲を出せるのでしょうか?

まず、現象面について、山内さんのご説明をうかがいましょう。

三十年戦争下で非交戦者の被害が大きかったのは、‥‥ とにかく全住民が直接的に攻撃、掠奪されたからである。とりわけ広く見られたのは、敵や味方側の兵士による掠奪行為である。住民が殺害されるのは、しばしば掠奪行為と虐殺行為が密接に繋がるからである。その一連の行為が戦争規模の拡大によって非常に広範に生じたことが、戦場であったドイツのあまりにも多数の住民の死を招いたのである。

山内進『掠奪の法観念史』(東京大学出版会、1993年)6頁(本文中の引用も)

掠奪。
戦争には掠奪が付きもので、掠奪は虐殺につながりがちであると。

では、なにゆえ、戦争と掠奪は一体であり、戦争となると、全住民が当然のように攻撃・掠奪の対象とされたのか。

『掠奪の法観念史』は、直接的には、この問いに答えるために書かれた本といえます。再び少し長くなりますが、引用します。

では、この三十年戦争期に、交戦者のみならず、非交戦者の殺害、その財産の破壊、奪取を一般的にもたらした「掠奪」行為はなぜそれほど広範にみられたのであろうか。戦争一般における、人間の攻撃本能の解放ということだけでは、説明は十分につかない。なぜなら、たとえそのような本能がわれわれに備わっているとしても、この攻撃欲は、近代国際社会においては、ただ組織的に解放されるだけであって、その対象は本質的には交戦者である兵士=軍人にほかならず、直接的で公然とした、住民からの掠奪は行われないからである。無差別爆撃ですら、住民の生命や財産を直接、狙うものではなく、あくまで交戦者の能力を削減するためのものにすぎない。したがって、近代国際法は一般住民の殺害はもとより、彼らに対する攻撃や掠奪を厳しく禁止している。南京事件‥‥のごとき行為は道義的にも法的にも許されず、あくまで軍の本来の行動からの逸脱と考えられる。それは本来、あってはいけないことなのである。

ところが、三十年戦争期においては、戦時下の掠奪は必ずしも「逸脱」ではない。それは当時の時代環境の下では、なかば常識に属することであり、ある意味で必然的なものであった。だからこそ、それがいたるところで見られたのである。むろん、それが「戦争の惨禍」を生み出すものであるとの認識はあった。それは不幸なものであった。だが、掠奪は、実は広く行われる一般的な慣習であり、その行為自体における後ろめたさというものは、少なくとも今日に比すれば、殆どなかった。それは、公然と実行されたのであり、その行為を隠す必要すらない、いわば自明の出来事だったのである。

だが、問題は、その自明さの根拠であり、当時の人々の常識、共通感覚の在り方である。戦時下の掠奪はどのような意味において、どのような感覚の下で、自明だったのであろうか

山内進『掠奪の法観念史』6-7頁

「戦時下の掠奪は、どのような意味において、どのような感覚の下で、自明だったのであろうか。」

皆さんは、この問いが、「抗争と掠奪の500年」の深層にあるメンタリティを探究するわれわれの関心とピッタリ重なっていることにお気づきでしょう。

探り当てられた答えは、どんなものなのか。さっそく見てまいりましょう。

戦争の経済と掠奪:兵士と家族の食い扶持は‥

近代国家の成立以前、国家の戦争を主に戦ったのは傭兵です。彼らはいわば「兵士であることを職業とする、半ば独立的な自営業者」ですから、武器はもちろん、衣服や食料も自分で賄わなければならない。戦争と一体であった掠奪は、当然、彼らの生活の手段となりました。給与は大抵不十分でしたし、そもそも、傭兵の雇用主(君主です)は、最初から掠奪による補足分を見込んで給与の額を設定していたといいます。掠奪は、すでに、戦争の経済に組み込まれていたのです。

また、当時は、銃後の家族を国家が養ってくれるといったこともありませんので、兵士たちの行軍は家族と一緒。彼らもまた、掠奪に参加しました。

「被害の多くは、何百台もの荷車に乗り、何百頭もの家畜をひきつれて行軍につき従い、いなごの群れのように農村地帯をおおいかつ襲った、兵士たちの妻、売春婦、少年、子供、御者、召使の一団によるものであった。進軍するにつれて、軍隊はまるで集団移住といった相貌を呈するほどであった。」

掠奪が戦争の経済に組み込まれていたことが、戦場における掠奪の「原因」といわれることもありますが、おそらく順序は反対で、「戦争の際に掠奪を行うのは常識」という観念があったからこそ、掠奪が当然のように傭兵の食い扶持となったものと思われます。真実に近づくには、やはり「戦争と掠奪は一体」という感覚の根っこにあるメンタリティを知る必要があるのです。

(3)「敵」と戦うー掠奪のメンタリティ

①倫理的義務としての戦争

山内さんによると、戦争と掠奪が一体であった当時、戦争(+掠奪)は、単に許容される行為であるだけでなく、戦える立場の者にとっては、倫理的義務であり、名誉を高める行為でもありました。

何故に、戦争(+掠奪)が、倫理的義務なのか。その理由を示すのが、次の一文です。

封建的中世ヨーロッパの戦争は、その本質においてすべてフェーデであった。

山内進『掠奪の法観念史』34頁

フェーデ?
辞書を引きましょう。

侵害された権利を、実力で回復する。一種の自力救済のための戦いということですね。

なるほど、自力救済だから、掠奪を伴いがちである、ということはわかります。しかし、実力で回復する「権利」があるからといって、直ちに、それが「義務」である、ということにはなりませんね。

さしあたり、「上記の辞書の記載だけでは、なぜ当時の人々が戦争(+掠奪)を倫理的義務と感じ、熱心に掠奪に興じていたのかまではわからない」ということを確認し、次に進みましょう。

②「敵」

ほほう、これは‥‥。
「敵」ですか。

実をいいますと、『掠奪の法観念史』(全5章)の第4章のタイトルは「敵」。

『掠奪の法観念史』もまた、フェーデとしての戦争(+掠奪)、そして中・近世ヨーロッパの法観念の核心部分に「敵」の概念があった、という結論に達しているのです。

③権利のための闘争:相手は「敵」

いきなりの結論で恐縮ですが、『掠奪の法観念史』は、中・近世ヨーロッパ世界の根底にある「法観念」を、ひとことで、次のようにまとめています。

「中・近世ヨーロッパ世界」に特有の、そしてその根底にある「法観念」は、ひとことで表現するなら、「自己自身の生命、財産、名誉ならびに自身の親族もしくは親族類似のもののために実力をもって戦うことは正当である」というものであろう。この文字通りの「権利のための闘争」の観念こそ、人々の行動と意義、社会や政治的共同体そして共同体相互の関係を規律し、法と法理論を貫くものであった。「掠奪」もまた、この観念の一翼を担い、その下で実行され、自明視され、法的に正当とされたのである。

山内進『掠奪の法観念史』41頁(第1章)

ただし、これは冒頭部分の記載なので、端的に結論を知りたい私たちとしては、第4章で登場した「敵」の観念を補足して読む必要があります。

そこで、上の文章(マーカー部分)に、「敵」の観念を補足して修正してみたものが、つぎの文章です(大きく変えた部分だけマーカーします)。

「中・近世ヨーロッパ世界」に特有の、そしてその根底にある「法観念」は、ひとことで表現するなら、「自己自身(ならびに親族・親族類似のもの)の生命、財産、名誉を脅かす他者は敵であり、敵と戦うことは正義である」というものであろう。この「正義の回復=集団的懲罰としての戦争」の観念、「敵を懲らしめることは正義であり、正義の回復のために武器を取ることは義務である」という規範こそ、人々の行動と意義、社会や政治的共同体そして共同体相互の関係を規律し、法と法理論を貫くものであった。「掠奪」もまた、この観念の一翼を担い、その下で実行され、自明視され、法的に正当とされたのである。

いかがでしょう。修正前の文章と、修正後の文章では、ずいぶん雰囲気が違うと感じられるのではないでしょうか。

修正前の文章における「権利のための闘争」は、私たちの知るヨーロッパと地続きです。実力行使を許す点に荒っぽさが残るとはいえ、自由と権利を重んじる近代ヨーロッパの原風景がここにある、という感じがする。

修正後の方はどうでしょう。

純然たる復讐ではなく「正義」を論じる点にわずかに文明の息吹が感じられないことはない。しかし、利害の対立する他者は「敵」であり、「敵」と決まった相手とは戦うほかない、というあり方には、合理性のかけらも、人道主義の気配も感じられません。

それでも、山内さんが最終的にたどり着いた結論により近いのは、間違いなく、この後者の方なのです。

何故に、当時の人々は、戦争(+掠奪)を倫理的義務と捉え、激しい掠奪を実行したのか。その答えは、以下の引用部分に明確に記されています。

ヨーロッパ中世の戦争は本質的にフェーデであり、権利のための闘争(→「敵」に対する、正義の回復=集団的懲罰としての戦争)であった。この考え方が、根本のところで戦争つまりフェーデの実行方法を規定した。正しいフェーデの正当な実行手段は3つある。
(1) 敵対者およびその援助人の殺害、
(2) 敵対者およびその援助人の捕獲、つまり彼らを捕虜にすること、
(3) 敵対者およびその援助人に損害を与えることである。
第三の手段は、具体的にいうと、主に掠奪と放火である。オットー・ブルンナーは、この三つの手段のうち、第三の掠奪と放火を「フェーデ実行の主要な手段」と考えている。なぜなら、フェーデは、敵対者(敵対集団)から損なわれた権利を回復し、不法を排除することを本来の目的としているから、血讐の場合を除けば、相手を殺害するよりも、むしろ相手集団に損害を与えてその力を弱め、自己の権利を実現すべく強制することの方がより妥当と考えられたからである。「そのようなわけで、フェーデはとくに『掠奪と放火(Raub und Brand)』、劫掠と破壊によって実行された。人は敵の勢力下に侵攻して『領国を破壊しなければならない(ad destruendam terram)』。そして、敵の領国を『荒廃させ(oede machen)』ねばならない」。

36-37頁(文中の引用はブルンナー 太字は辰井の加筆

当時の人々が、「権利のための闘争」を、(単なる権利ではなく)「倫理的義務」と感じていたのは、大前提として、「利害が対立する他者はおしなべて敵である」、もっといえば、「利害が対立する他者は不法=悪であり、懲罰の対象である」という観念があったからです。

フェーデとは、したがって、決して、単なる自力救済のための戦いではない。その主目的は、むしろ、「敵」を懲らしめ、その戦闘力(=敵対的に行動する能力)を奪うことにこそあるのです。

当時のヨーロッパの戦争は、すべて、その本質において、「敵を懲らしめ、敵の戦闘力を奪う」ためのフェーデであった。

だからこそ、当時の人々は、敵対する共同体の全成員に対して、共同体が求める倫理的義務として、堂々と、熾烈な掠奪を実行したのです。

(4)近代とは何か

①なぜ「敵」なのかー「文明との遭遇」再び

では、この「敵」の観念、利害が異なる他者を「敵」と見て、懲らしめることを義務と見る。その感じ方は、どこから来たものなのでしょうか。

トッドに学んで、探究を続けてきた私たちには、すでに、かなりのことが明らかだと思います。

当時のヨーロッパの大部分は核家族(原初的核家族)であり、一部に生まれていた直系家族もまだ確固としたものではなかった。

つまり、この頃のヨーロッパ人は、再び、文明世界に投げ込まれた狩猟採集民そのものだったのですから。

前々回(狩猟採集社会)、前回(旧約聖書)の探究を踏まえて、彼らのメンタリティを追体験してみましょう。

見渡す限り、親族集団以外の人間は存在せず、他の集団とすれ違っても関わりを持たない(他者は存在しない)。万一攻撃をしてくる人間がいたら、そのときは「敵」と見做し、戦って追い払う。

そんな暮らしをしていた人々が、反対に、見渡す限り人が住まない土地はない、人口密度の高い世界に暮らすことになったとき、何が起きるか。

身内以外のすべての人間が、本来存在してはならない幽霊か、牙を向いて向かってくる「敵」に見えてしまう彼らにとって、「満員の世界」はホラーの世界です。

「こんなところでは、生きていけない!」

恐怖に震える彼らは、自分たちの周りを線で囲い「入ってくるな」というでしょう。

ズカズカと入ってくる(と彼らが感じた)人間は誰であれ「敵」と見做して追い払い、二度と自分たちの領域が侵されることがないよう、全力で戦うでしょう(フェーデですね)。

その実態は、自力救済や正当防衛というよりは、「やられる前にやる」方式の、かなり攻撃的な戦いであることがほとんどだと思います。

しかし、彼らから見れば、それは、純然たる「自衛のための戦い」であり、「敵」から共同体を守るための、正義と名誉をかけた戦いなのです。武器を取って戦いに赴くことは、当然、成年男子の義務、と感じられるでしょう。

こうして、「敵」と戦うことによって、「敵」と戦うことによってのみ、彼らは、「満員の世界」を生き抜き、国家の形成に向かうことができたのではないか。

第1回で紹介した「人間の本性」に関するトッドのコメント(↓)は、おそらく、「文明との遭遇を果たした原初的核家族」という限定された対象にこそ、もっともよく当てはまるものなのです。

集団の一体性は、他の集団への敵意に依存する。内部での道徳性と外部への暴力性は機能的に結合している。したがって、外部への暴力性のあらゆる低下は、最終的には、集団内で道徳性と一体性を脅かす。平和は、社会的に問題なのである。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上』154頁

②「文明化」への歩み

こうして何とか文明に適合し、国家を作り上げた彼らが、のちに家族システムを進化させたかといえば、さにあらず。彼らの多くは、人口を増やし、教育水準を上げてもなお、核家族であり続けました。

その代わり、彼らは、ローマ帝国の遺産を譲り受け、一神教という「代替権威」を支柱として用いた。キリスト教の存在は、彼らの「文明化」にとって、本当に貴重で、有意義なものだったと思います。

しかし、信仰は、彼らの最も深い部分のメンタリティ(家族システム)にまで影響を及ぼすことはなく、やがて、彼らは、識字化の進展とともにそれを投げうってしまう。

結局、集団の一体性を保つための道具として、彼らがその集合的メンタリティの中に一貫して持ち続けたのは「敵意原則」それだけだったのです。

「利害が対立する他者は敵である」「敵と戦うことは権利であり義務である」という前提に立つ彼らは、文明国家の流儀に則り、その規範を、仔細に法律文書に書き込みました(『掠奪の法観念史』の資料となったものです)。

ところが、そのままスクスクと成長を続けた彼らが、「正義」「名誉」「権利の回復」などといいながら、「敵との戦い」を続けると、17世紀のある時、地上に地獄が現れた。

三十年戦争の壮大な破壊を目の当たりにした人々は、粛然とし、「敵である以上、そのすべてを破壊し荒廃させることこそが正義であり、名誉ある者の義務である」という規範の問題性に気づきます。

そこで、彼らは、規範のとげとげしさを緩和するなどの方法で、さらなる「文明化」を図ろうとしました。

三十年戦争の戦後処理の過程では、主権国家の概念を確立し、国家間の関係を律する法律を作り(国際法)、勢力均衡を図って、戦争の惨禍を軽減しようと努めた。二つの世界大戦を経ては、各種の国際組織を作り、戦争を原則として違法とし、紛争の平和的解決を義務付けたりもした。

そうして、彼らは「文明化」を成し遂げた、というのが、教科書的な筋書きなのですが。‥‥

本当のところは、どうだったのでしょうか?

③西欧は変わったのか?

そうした様々な試み、様々な努力は、果たして、彼らの集合的メンタリティに変化をもたらしたのか。

いま、私たちが、躊躇うことなく、問わなければならないのはこの問いだと思います。

急いで付け加えますが、私は、もちろん、彼らの努力を軽く見ているわけではありません。

ウェストファリア条約(三十年戦争の講和条約・世界初の近代的国際条約であるとされる)、国際法、国際社会、国際組織の確立、こうした事象は、紛れもなく「文明化」への第一歩であったでしょう。

他者は存在しない。眼前に現れた他者は敵である。集団性を保つ唯一の方法は、敵と戦うこと。そんなメンタリティの人々が、曲がりなりにも、「他者との平和的共存」を目指して進み始めたのですから。

彼らにとって「文明化」への道は、苦痛と恐怖を伴うものであったに違いなく、それでも、文明の高みを目指した彼らの真率に対して、私は、いささかの疑義も持ちません。

しかし、果たして、その努力は報われ、彼らは「文明人」に変貌を遂げることができたのか。

彼らのメンタリティは、多少なりとも、進化した家族システムのメンタリティに近づき、この地球上において、「人類の平和的共存」を支えうる存在となったのか。

答えは「否」である、と私は考えます。

④核家族にとって「文明化」とは何か

事実を確認しましょう。

西欧の中で戦争を律する機運が生まれていたちょうどその頃、地球の裏側では「抗争と掠奪」の活性化が観測されていました。主体は、彼ら自身です。

近代国家の生成に際しては、イギリスはアイルランド人、アメリカは先住民に対して、旧約聖書の神もかくやと思われるほどの、激しい殲滅戦争を展開しました。

その後、主に欧米圏内部での多数の国際戦争と、二度の世界大戦を経て、彼らはついに、西側諸国の間では、戦争をやめたように見える。しかし、世界各地での彼らの戦争行動はむしろ活性化しているのです。

最初は冷戦(舞台は全世界でした)。

ソ連崩壊後は、西アジアや中央アジアに「敵」が見出されました。

ここ最近は、ロシアを「敵」と定めてウクライナ戦争を引き起こし、中国に対する敵意を煽って「台湾有事」を目論み、西アジアでの掠奪と破壊と虐殺に(控えめにいっても)大いに加担している。

彼らの集合的無意識の中で「平和的共存」に資する要素がそれなりの位置を占めているとは到底思えない様相である、といわなければなりません。

一方、彼らのメンタリティが狩猟採集時代のままであると仮定すると、以上の事実は、次のように説明できると思います。

狩猟採集民にとっては、彼らが暮らす世界がすべて。世界は一つです。

そんな彼らが、そのままの状態で文明に放り込まれると、世界は二つに分離します。自分たち(以下「身内」)の住む世界と、「他者=敵」の住む世界です。

彼らはまず、他者を敵とみなし、「敵意原則」を活用して集団をまとめ、国家を成立・発展させました。

しかし、「敵と戦う」という、彼らなりの正義の追究が、地上に地獄を顕現させたのを見て、彼らはついに「文明化」を志す。

その「文明化」とは何であったかが、ここでの問題です。

「文明化」のために彼らが行ったのは、実質的には「身内の拡大」ではなかったか、と私は見ています。

身内とは、(彼らの世界観では)「敵」の反対概念です。「自分の延長」とでもいったらよいでしょうか。

多少の利害の対立(もめごと)があったとしても、(少なくとも直ちには)「敵」と観念されることはなく、したがって、フェーデ(戦争)の対象にはならない。そういう対象がここでいう「身内」です。

古くは親族集団のみであった「身内」は、やがて地域の共同体(?)などに拡大したと思われますが、三十年戦争終結後にはこれが主権国家にまで拡大します。 

以後、第二次世界大戦の終結までの期間に、「身内」の範囲は漸次拡大を続け、最終的には、西ヨーロッパとその派生地域のすべてが「身内」の範疇に入ったのです。

狩猟採集時代の自由なメンタリティのままで、これほど広い範囲を「身内」に収めることができるなんて、なんて素晴らしい達成でしょう!

おそらく、この感嘆こそが、国際連合憲章の採択、世界人権宣言の起草・採択といった平和への動きに伴う多幸感の源にあったものです。

しかし、彼ら自身、気づいてはいなかったと思いますが、彼らの一体感を可能にしたものは、実際には、オスマン帝国やロシア帝国(→ソ連邦)、日本という明確な「敵」の存在にほかならなかったのです。

絶大な国力を誇るアメリカという覇権国が誕生し、誰もがアメリカの下での平和を願ったにもかかわらず、実現しなかったのは、おそらく、彼らにとってはいささか広すぎる「身内」の結束を維持するために、それに見合った「敵」が必要だったからです。

彼らは、必要に迫られて、まずは冷戦を戦いました。「必要」こそが、彼らを戦いに駆り立てているのですから、冷戦が終わったからといって、戦争をやめることはできない。一つの敵が倒れたら、また新たな敵を探すだけです。

ちょうど、この間、世界各地では、それまで彼らにとって「存在しない他者」でしかなかった人々が、識字率を上げ、存在感を増していた。この人々は、もちろん、彼らの目には「自分たちの権利を侵害する敵」にしか見えません。

世界を圧倒する豊かさを実現したにもかかわらず、なお、周辺の民を帝国の臣民として同化させるというやり方を知らない彼らは、すべての「敵」に、従属(隷属?)を求めます。

しかし、別に戦争をして負けたわけでもないのに、誰も彼もが大人しく従属する道を選ぶはずはない。まして、その「敵」は、近代化の過程を歩んでいる最中の、勢いのある人々なのですから。

世界の半分以上を占める「敵」に怯える彼らは、彼らの「自由」と「権利」を守るため、「敵」が強者となって彼らの前に現れることが決してないように、「敵」を蹂躙し、掠奪し、その力を奪い尽くそうとします。三十年戦争の頃の掠奪とまったく同じように。

それでも抵抗をやめない者には消えてもらうしかない。彼らはそう考えるでしょう。

ああ、そして、もし、彼らの集団が真に存続の危機に陥った(と彼らが感じた)ときには、他者のすべてを殺害し、文明のすべてを破壊しても、自分たちだけは生き延びようとするのではないでしょうか。

世界は、こうして、現在のこの局面に到達した、ということではないでしょうか。

⑤近代とは何かー核家族の現在

近代の基礎にあるのは、原初的核家族が文明と接触したことで生成した「他者は敵」という観念であり、「敵とは戦わなければならない」という強迫観念である(いずれも無意識の次元に存在します)。

以上が本連載(近代のメンタリティ)の結論です。なんとまあ、物騒な仮説にたどり着いたことでしょう。

しかし、研究者としての私は、大いに満足しています。なぜって、この仮説は、私が長年感じていたモヤモヤの全てを払拭して余りあるものであるからです。

人類が、地球上の一生物(いちせいぶつ)として破格の物質的豊かさ(安定した生存環境)を手に入れてもなお、競争に明け暮れ、経済成長を続けなければならないのはなぜなのか。

二度に渡る凄惨な世界大戦を経てアメリカという圧倒的な覇者を得た世界が、少しも平和にならなかったのはなぜなのか。

敵対する相手(大抵自分より弱い)を、挑発して挑発して挑発して挑発して、耐えられなくなった相手が攻撃を仕掛けてくると、鬼の首でも取ったように「権利」を主張し、正義の名の下に、激しい殲滅戦を展開して破滅に追い込む。そんなことを、17世紀から現代まで、ずっと繰り返しているのはなぜなのか。

仕方ありません。だって、「他者は敵」であり、「敵とは戦わなければならない」。そして、そうしなければ、自分たちの生存が危うい、と彼らの無意識は信じているのですから。

彼らは彼らなりに努力をしたけれど、結局、本物の「帝国」や「世界帝国」のメンタリティを持つことはできなかった。それは、私たちが、努力に努力を重ねても、西欧近代のメンタリティを持つことができなかったのと全く同じです。

戦って、戦って、築いてきた覇権が失われようとしている現在、彼らがその心の奥深くで感じている恐怖のほどは、想像に余りある、といわなければなりません。

新しい世界が顕現する過程で、彼らが見せるであろう狂気と混乱。同じ人類として、しっかりと受け止めましょう。

権利/自由

(1)近代法の本質ー権利とは何か

えーっと、後ろの方で手を挙げている方がいるようです。ご質問、あるいは抗議でしょうか。どうぞ。

「彼らは、自由、基本的人権、民主主義、法の支配といった普遍的価値を世界にもたらしてくれた人々です。そんな彼らを駆動していたメンタリティが「他者は敵である」「敵とは戦わなければならない」だなんて、あり得ない。何かの間違いではないでしょうか。」

質問者は以前の私、あるいは、ひょっとして私の元学生さんかも‥‥貴重な機会を与えていただいてありがとうございます! しっかりとお答えします。

最初に申し上げますが、私は、これらの「普遍的価値」が、日本において、また世界において、果たしてきた役割を、否定するつもりも、軽視するつもりもありません。

しかし、これからも、世界の中心で燦然と輝く、特別な存在であり続けるべきなのか、と問われれば、現在の私の答えは「否」です。その点に迷いはありません。

理由を説明させていただきますね。

(2)民主化を指南した「権利」

まず、自由、基本的人権、(欧米流の)民主主義、法の支配。これらすべての「普遍的価値」の根本にあるのが「権利」の観念である、ということはご理解いただけると思います。

一人ひとりの人間には、守られるべき「権利」というものがあり、人民は自ら戦うことで「権利」を勝ち取ることができる。この「権利のための闘争」こそが、自由で民主的な社会における、人民の責務なのだ。

それまで、「お上には従うもの」とばかり思っていた日本の、そして非西欧世界の若い国民たちは、このロックな(?)考え方に激しい衝撃を受け、自分たちもまた、拳を振り上げる彼らの一員に加わることを決めたわけです。

では、その「闘争」は、誰に対する戦いであったのか、というと、日本、そして非西欧世界の文脈で想定された「敵」は、いうまでもなく、上位者として民衆を支配する権威(政治権力、既得権益層、帝国主義支配を行う宗主国等)でした。その場合、「権利のための闘争」とは、要するに、民主化闘争ですよね?

西欧から少し遅れて識字率を上げた諸国民にとって、「権利のための闘争」の思想は、先を行く西欧が託してくれた「民主化の指南書」として機能し、彼らを励まし、支えることになったのです。

(3)「敵」とともに「権利」は生まれた

もちろん、西欧でも、識字率の上昇局面(民主化過程)での「闘争」相手が、教会や国王に代表される支配層であったことに違いはありません。

しかし、私たちがあまり意識してこなかった、非常に重要なことは、「権利」の観念は、彼らにとっては、近代よりもずっと前、まだもっともらしい権力など存在しなかった(彼らの)歴史の最初期から、馴染みの観念であった、ということなのです。

ヨーロッパにやってきた原初的核家族のゲルマン社会は、フェーデの由来である「血の復讐」(blood feud)を行なっていたとき、すでに「権利」の観念を持っていました。

血讐
けっしゅう

古代国家の形成過程に現れた復讐制度をいう。古ゲルマン社会において、氏族(ゲンス、ジッペ)の構成員が他の氏族の構成員から法益(生命、身体、財産、名誉)を侵害された場合、被害者の氏族の構成員には復讐の義務があった。氏族構成員が殺された場合、加害者の属する氏族のだれに対しても血の復讐をしなければならなかった。‥‥ [佐藤篤士]

ー日本大百科全書(ニッポニカ)ー より一部を抜粋

上の説明でニュートラルに「法益」と表現されているものが、ここでいう「権利」に当たります。

権利は、いつ、どのように発生したのか。実は、私たちは、その瞬間をすでに追体験しています。大事なところなので、少し長めに再掲します(飛ばして読んでください)。

見渡す限り、親族集団以外の人間は存在せず、他の集団とすれ違っても関わりを持たない(他者は存在しない)。万一攻撃をしてくる人間がいたら、そのときは「敵」と見做し、戦って追い払う。

そんな暮らしをしていた人々が、反対に、見渡す限り人が住まない土地はない、人口密度の高い世界に暮らすことになったとき、何が起きるか。

身内以外のすべての人間が、本来存在してはならない幽霊か、牙を向いて向かってくる「敵」に見えてしまう彼らにとって、「満員の世界」はホラーの世界です。

「こんなところでは、生きていけない!」

恐怖に震える彼らは、自分たちの周りを線で囲い「入ってくるな」というでしょう。(→「権利」が発生しました!)

ズカズカと入ってくる(と彼らが感じた)人間は誰であれ「敵」と見做して追い払い、二度と自分たちの領域が侵されることがないよう、全力で戦うでしょう(フェーデの由来です)。

「敵」(≒ 悪)に怯える彼らは、自分たちの領域を、絶対に侵されてはならない「権利」(right)の領域と観念し、戦いによってこれを守り抜くことを誓いました。

そして、彼らが彼らのやり方で戦っても、地獄に落ちたり、お尋ね者になったりしないよう、戦うための「権利」を確保し、制度を整えていきました。

ざっくりいえば、こうして誕生したのが「権利」の観念であり、西欧が世界に誇る「近代法システム」なのです。

(4)日本の場合ー不当なことは何もない

欧米人は一般に権利意識が高く、裁判を通じてであれ、自らの正義を主張し、権利を守るためには、徹底的に戦う意志を持っている。彼らのそうした態度こそが、自由で民主的で「法の支配」の行き届いた「進んだ」文明の証とされてきました。

それに引き換え、日本の国民は、権利主体としての意識に欠け、お上にいわれるがままで、司法制度の利用率も低くて‥‥ということが、明治期以来、一貫して「問題」とされてきたわけです。

しかし、いまや、日本や非西欧諸国に「権利」という強い観念が生まれなかった理由は明白だと思います。

集団の共存のために進化した(「権威」を伴う)家族システムを持つ人々にとって、他者とは「何とかうまくやっていくべき相手」であり、「敵」ではありません。

利害の対立は、相互の調整によって解決されるべきものであり、相手を「敵」とみなして打ちのめし、自分だけが「権利=利益」を勝ち取ろうなんてもってのほかだ。

このようなメンタリティが、「権利の擁護」よりも「共存のための調整」を重視する法や社会制度をもたらした。この点に、不当なところは何もないと言わなければなりません。

「すべての人間には天から与えられた権利があって、幸福を追求する自由があるなんて、なんて素敵なことだろう‥‥」

こう、うっとりした後、皆さんの多くは、ハタと立ち止まりましたでしょう?

「でも、そのためには、裁判で戦ったり、選挙に打って出たり、声高に意見を主張したり、デモ行進をしたり、議論を戦わせたりしないといけないんですよね?」(そんなこと、ちょっと、私にはできないな‥‥)

真面目な方なら、そんな自分に罪悪感を感じ、自分自身を責めたり、一所懸命に努力して攻撃性を身につけたり(!)したかもしれません。

しかし、そのメンタリティは、明らかに、他者との平和的共存のために進化した家族システムから来るものであり、断じて「遅れている」わけではない。

このことは、はっきりさせておきたいと思います。

(5)権利と自由 ー「戦い」以外の方法を探そう

西欧近代は、私たちに、人間は、文明国家の国民である以前に、狩猟採集時代と変わらぬ一個の人間であることを教えてくれました。

人間には、一個の生物として、自らに関わることを自分で決めたいという自然な願望がある。この自由の観念こそが、世界中の人々の共感を呼んだのです。

しかし、その自由を得るためには、私たちも、権利意識を高め、徹底的に戦う姿勢を身につけなければ‥‥いけないのでしょうか?

「自由」はなぜつねに戦いや競争を要求するのか。これは、私が法学の研究者であった頃から、いつも何となく疑問に思っていたことなのですが、いま、ようやく、その理由がわかりました。

原初的核家族は、自分たちが狩猟採集社会において持っていた単純な自由(事実状態としての自由、とでもいいましょうか)を、「権利としての自由」に変えてしまった。

そのせいで、「自由」は、個人や集団が「権利のための(敵との!)闘争」によって死守しなければならない対象に変わってしまったのです。

もちろん、この顛末は、まったく必然的ではありません。

私たちにとって、他者は敵ではありません。他者との共存のためには、人類が狩猟採集時代に持っていた自由を(一定程度)制限する必要があることだって、百も承知している。

そうしたメンタリティの社会において、「もう少し自由の領域を広げた方が‥」とか「私たちにこういう自由を認めてほしいんですけど‥」といった意見は、「社会をよりよくするための建設的な提案」にすぎません。戦いなんか、必要ない。

ああ、それなのに、私たちの社会は、「自由=権利を守るために敵と戦う」ことを基本仕様とする法・政治制度を(公式には)採用しているのです。

「なんで、戦わなければならないの?」
「戦うくらいなら、自分ががまんした方が100倍まし」

となるのは、当然ではないでしょうか。

私は、日本の人たちが、社会に対する関心が薄いとはまったく思いません。多くの人は、社会に関心もあるし、社会の役に立ちたいと願っている。

政治や司法や言論が「戦いの場」となっているから、一般の人たちは関わろうとしない。それを、欧米基準の指標で測って「日本人は政治に関心が低い」「社会正義に関する意識が弱い」「社会に対する主体性が低い」などとレッテルを貼り、当人たちもそう思い込んでしまう。

何と馬鹿げたことでしょう!!

「権利」という観念の根っこにある「他者は敵」という世界観が、毎日毎日、絶えることなく、抗争と掠奪、暴力と殺戮、そして凄まじい破壊を生じ続けている現状を見るにつけ、この期に及んで(欧米流の)「普遍的価値」の称揚を続けるのは、ちょっと非常識だし、無責任である、と思われてなりません。

私たちに必要なのは「戦い」以外の方法だし、たぶん、世界も、「戦い」以外の方法を必要としている(平和のためです!)。

私たちが、「普遍的価値」の無批判な称揚をやめ、足元を見つめ直し、これまで目を向けて来なかった文化圏のあり方を真剣に学ぶことを始めれば、その方法は、案外簡単に見つかるのではないでしょうか。

おわりに

ふう‥‥ ようやく終わりましたね。

まずは、探究にご同行いただいた皆さんに、心からお礼を申し上げます。どうもありがとう!

なかなか激しい旅であったと思うので、もしよければ、感想などお聞かせくださいね。

ところで、今回の探究は、「抗争と掠奪の500年と和解する」というミッションを帯びていました。

私自身は「なるほど、まあ仕方なかったんだな」と感じ、それなりに納得感を得ましたが、皆さんはいかがでしょうか。

きっと、「和解はまだ無理」という方もおられると思います。それはそれでもっともなので、「こんなめちゃめちゃな世界にしたのは、あんたたちだ!」と、彼らを非難してみてもいいと思います。

しかし、想像してみると‥‥
彼らは、多分、こう答えるのでは。

「私たちは、何も間違ったことをしていません。私たちは、ただ、神のお造りになったまま、全き人間であっただけです。あなた方が、文明とやらを打ち立て、無闇に人間の数を増やしたから、こんなことになったのではないですか?」

西アジアの惨状を横目に、宇宙からこのやりとりを眺めている生命体がいたら、泣きながら爆笑してしまうのではないでしょうか‥‥

・ ・ ・

最後に一つ、誤解があってはいけないので、ずっと空欄であった右下のマスを埋めておきましょう。

識字化した核家族の基幹的価値には、何と書き込めばよいでしょう。「敵」それとも「敵と戦う」?

本講座は、正解は(原初的核家族と同じ)「自己保存」であると考えています。

「自己保存」という価値は、すべての生物の基本であって、何ら不穏当なものではありませんね。

それなのに、なぜ、近現代は「抗争と掠奪」「暴力と殺戮」の時代になってしまったのか。

本講座の仮説によると、それは、彼らが「満員の世界」への適応(=権威)を持たないまま、文明社会を生きる羽目になったためにほかなりません。それ以上でも、それ以下でもないのです。

この先、この世界をどう生きるかは、全面的に、私たちの創意工夫に委ねられている。私は、以前にも増して、強くそう感じています。

だって、決まりきった正しさなんて、もう、本当に、どこにもないでしょう?

今日のまとめ

  • 17世紀ヨーロッパの戦争では民間人に膨大な死者が出た
  • ヨーロッパの法観念の基礎には「利害が対立する他者は敵であり、敵と戦うことは正義である」という観念があった
  • 当時の戦争は「敵」から自分たちの権利を守るための戦い(フェーデ)であり、人々は「敵を懲らしめ、敵の戦闘力を奪う」べく、倫理的義務として、熾烈な掠奪(+往々にして虐殺)を遂行した
  • ヨーロッパは「満員の世界」に投げ込まれた狩猟採集民の恐怖が生み出した「敵」の観念を持ち続けた
  • 識字化した核家族は、「身内の拡大」によって「敵との戦い」の対象範囲を縮減し、欧米世界内部の戦争を克服したが、「敵との戦い」を集団をまとめる唯一の手段とする集合的メンタリティは克服していない
  • 「敵」の観念と同時に「権利」の観念が生まれ(=自由が「権利」に変わり)、やがて「敵から権利を守るための戦い」を正当化する仕組みとして近代法体系が生成した
  • 近代の基礎にあるのは、原初的核家族が文明と接触したことで生成した「他者は敵」「敵とは戦わなければならない」という強迫観念である
  • 識字化した核家族の基幹的価値は「自己保存」。それが「敵との戦い」に転じたのは、彼らが「満員の世界」に適応するためのツール(権威)を持たないためである

カテゴリー
トッド入門講座

「トッド後」の近代史
(4)近代のメンタリティ② 旧約聖書

目次

はじめに:原初的核家族と文明の遭遇

原初的核家族が文明と出会うとどんなメンタリティが醸成されるのか。探究する最初の資料は旧約聖書です。なぜでしょう。

前回、アッシリア帝国の付近で暮らすことになった狩猟採集民の人たちがいましたよね?

実をいうと、あの人たちは実在の民族で、その苦闘によって、歴史に名を残すこととなったのです。その彼らが作った文書が、旧約聖書。

「本当?」とお思いの方のために、専門家のレーマーさんの所見を添付します。

アッシリア帝国なくしては、旧約聖書はけっして存在しなかったであろう。前9世紀から前7世紀末までレバント地方を支配していたアッシリア人たちは、イスラエル王国とユダ王国を属国とし、前722年にイスラエル王国の滅亡を招いた。しかし彼らは、ユダ王国の設立文書を執筆するためのモデルを、はからずも王国の知識人にもたらした。ユダ王国の設立文書は、アッシリア文書のレトリックや思考様式から大いに着想を得ている。たとえば、申命記はアッシリアの宗主権条約のような手法で書かれている。この書には、アッシリアの条約文と同じような構成や語彙がみられる。しかし、申命記においてイスラエルが絶対的忠誠を誓う宗主は、アッシリア王ではなくヤハウェである。ようするに、神がアッシリア王にとってかわっているのだ。

トーマス・レーマー著 久保田剛史訳 『100語でわかる旧約聖書』(白水社、2021年)20-21頁

レーマーさんの見立ては、トッドに学ぶ本講座の見立てとかなり通じるところがあり、この後も何かとお教えをいただくことになりますが、ここでは、上の引用から一つ。

「神がアッシリア王にとってかわっている」。

これを読んで「やっぱり!」と(私が)喜んだのは、姉妹サイトの方で、これとよく似た仮説を提起したことがあるからです。私の理解は今も変わっていないので、そのまま引用させていただきます。

原初的核家族とは、関係性を律する規則を持たない「家族システム以前」の状態(あるいはそれに近い状態)を指し、彼らは内発的に国家を生み出すことはない。

それでも、近隣に都市国家やら帝国やらが林立してその勢力が迫ってくると、自身も国家を組織しなければアイデンティティを保つことができない状況に陥るであろう。しかし、彼らの家族システムは国家形成に必要な権威を欠いている。

窮地に陥った彼らは、天上にその権威を求める。
それが一神教の神である。

世俗の人々を導いてくれる強い神、全知全能で唯一絶対の神の姿を彼岸に描き、その支配を受け入れることで、世俗の権威に代替するのである。

https://www.satokotatsui.com/state-and-religion/

こうして、彼らは、アッシリア帝国の文書や、アッシリアを通じて触れたメソポタミア文明の蓄積に学び、のちに旧約聖書と呼ばれることになる文書群を構築しました。そこには、もっともらしい系譜が記され、歴史が記され、律法、聖歌、預言が記されている。あたかも、共同体家族や、直系家族が営む文明の成果物のように。

それでも、書き手が原初的核家族であり、想定される読み手も原初的核家族であった以上、彼らがまとめた旧約聖書の文書群には、彼らのメンタリティが色濃く投影されているに違いありません。

さて、いったいどんなものなのか。探ってまいりましょう。

原初的核家族の宇宙

旧約聖書には、「ああ、原初的核家族だな」と思える要素がいろいろあります。恋愛やエロティシズムの礼賛とか、婚姻外の(近親間を含む)性関係がやたらたくさん出てくるとか。しかし、そうした事どもを逐一見ていくことが、この講義の目的ではありません。

本講義のテーマは近代史。

「抗争と略奪」「暴力と殺戮」「おかねがすべて」の近現代を導くことになったメンタリティを解明することが目的ですので、これに関連しそうな案件に絞り、「これは!」と思える特徴をご紹介させていただきます。

(1)他者は存在しない

①天地創造

ヒエロニムス・ボスの描いた天地創造時の地球。人間が作られる前の三日目の天地だそうです(wiki)。

旧約聖書は、創世記から始まります。冒頭は、「初めに、神は天地を創造された」。

古代イスラエルの人々が、定住し、国家を作ったのは前1000年頃。定住以前から集団としてのアイデンティティを持っていたことも考えられなくはないですが、いずれにせよ、彼らの周りには、すでに「満員の時代」を迎えて発展を遂げた文明があって、地球上、とりわけユーラシア大陸には、大勢の人が住むようになっていたはずです。

それでも、旧約聖書は、彼らの神が、宇宙を創造したと書くのです。

なぜか。

彼らが原初的核家族であったことを考えると、答えは明らかであるように思われます。

本来の居場所である狩猟採集社会で、彼らは、夫婦と子供(核家族)の世帯を基本単位とし、緩やかな親族集団に囲まれ、必要に応じて移動をしながら暮らしています。

そんな彼らが、世界というものをどう見ているか、と考えてみると、おそらく、彼らにとっての世界とは、「彼らと自然界」であり、それが全てです。

他の集団とすれ違うこともあったかもしれませんが、遠くに人がいようがいまいが、具体的に接点がない限り、樹木や草花、蛇や亀なんかと変わりはないでしょう。

単純に「彼らの世界」こそが天地の全てである以上、彼らの神が、天地を創造するのはまったく自然です。

旧約聖書が、前1200年頃に始まった彼らの歴史を、創世記から始めるのは、当時の知識人による知的創作でも、大言壮語でもなく、彼らの世界観の自然な表れなのではないでしょうか。

アッシリア帝国に伍していくというプラグマティックな目的のために、全知全能・唯一絶対の神が必要であったことはたしかです。唯一絶対の神である以上、「天地創造」が必須であるということも。

とはいえ、彼らが「われわれの弱点を補うにはこれが必要だから‥」と計算したとは考えられません。

原初的核家族の彼らが、アッシリアを通してメソポタミア文明に接し、「自分たちもこんな風なものを‥‥」と、彼らのメンタリティの赴くままに話を紡いでいたら、一神教ができ上がり、文明の中で生きる彼らの必要性を満たした。

旧約聖書とはそのようなものであり、だからこそ、神は、当然のように、天地を一から創造するのではないでしょうか。

②カインとアベル

大勢の人間が住み、文明の栄えるユーラシア大陸の上にありながら、彼らは「この世界にいるのは自分たちだけ」と感じていた。その雰囲気は、旧約聖書の全体に漂っていて、有名なカインとアベルのエピソードにも、一例が見て取れます。

兄のカインはアベルを殺し、そのことによって神から追放処分を受けるのですが、そのとき、カインは神に次のようにいうのです。

「わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」

創世記 4:14

そこで、神は、カインが誰かに殺されることがないように、カインにしるしを付けてあげます。でも、この世にアダムとイブとカインしかいないのなら、いったいカインは誰に殺されるというのでしょうか?

何しろこれは旧約聖書の話なので、この「謎」については、各種の合理的解釈が存在しているようです。

しかし、彼らが原初的核家族であったことを知る私たちには、これが謎でも、矛盾でもないことがわかります。

彼らが暮らす界隈が全世界であると感じている彼らにとって、自分たちと関係のない人間たちは、存在しないのと一緒です。普段は、すれ違っても関わらず、万一、攻撃を仕掛けてくるようなことがあれば、その瞬間に「敵」となる。そのような相手です(野獣と一緒です)。

神の元、すなわち「彼らの世界」を追い出されるとなれば、カインは、当然、そうした人間たちと出会わなければなりません。ひとりぼっちのカインに、よそ者たちは、野獣となって襲いかかってくるでしょう。そのことは、カインも、神も、知っているのです。

カインが、彼らの存在を想定し、敵か野獣のように恐れるのは、そのようなメンタリティの単純な発露である、と私は感じます。

③選民思想

あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。

申命記7:6

神がイスラエルの民を「選んだ」とするいわゆる選民思想も、単純に、「他者は存在しない」という彼らの世界観を、さまざまな民族が共存する現実の中で合理化するための表現と考えられます。

彼らにとって、世界は彼らだけのものである。彼らの神は唯一絶対で、当然、宇宙の創造主である。しかし、彼らが投げ込まれた(?)場所には、アッシリアやらエジプトやら、彼らよりも偉そうな感じの人間たちがたくさんいる。

そうした現実の前でも、「他者は存在しない」「世界は自分たちだけのもの」という狩猟採集民的感覚を持ち続けた彼らは、その感覚を正当化するために、自ずと「神はわれらを選んだ」と考えることになった、と。

「自分たちは特別だ」「選ばれた偉大な国民である」という思想・感覚は、現代のイスラエルにも、アメリカにも見られるものですが、かなり単純に「原初的核家族と文明の遭遇」の所産かなという気がします。

(2)神は和睦を望まない

旧約聖書の神には、彼が選んだイスラエルの民と、現実には存在する他の諸民族とを和睦させるという発想がありません。

あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。‥‥ あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。

申命記7:1-5

神は、彼が選んだイスラエルの民に対し、約束の地に行くよう命じます。とはいえ、べつに、すでに誰かが住んでいるその地に行って、支配者としてふるまうことを期待しているわけではない。ただ、神に忠実であれば、神は彼らの数を増やし(子孫繁栄ですね)、「乳と蜜の流れる土地」での何不自由ない暮らしを約束する、というばかりです。

でも、そこには実際に、異なる集団が住んでいるわけです。彼らに、他者と和睦する(共存する)という発想がない以上、残された方法は一つしかありません。

追い払う、あるいは殺す。
民族浄化です。

約束の地で繁栄するために、邪魔者を滅ぼせという神の命は執拗です(執拗さを実感していただくために、もう1箇所引用します)。彼らは、エジプトのような強大な敵からは逃げ、それ以外の諸国の民は(邪魔になるときは)滅ぼすのです。

あなたの神、主があなたに渡される諸国の民をことごとく滅ぼし、彼らに憐れみをかけてはならない。彼らの神に仕えてはならない。それはあなたを捕らえる罠となる。あなたが、「これらの国々の民はこちらよりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう」と考えるときにも、彼らを恐れることなく、あなたの神、主がファラオおよびエジプトの全土になさったことを思い起こしなさい。すなわち、あなたが目撃したあの大いなる試み、あなたを導き出されたあなたの神、主のしるしと奇跡、力ある御手と伸ばされた御腕をもってなされたことを思い起こしなさい。あなたの神、主は、今あなたが恐れているすべての民にも同じことを行われる。あなたの神、主はまた、彼らに恐怖を送り、生き残って隠れている者も滅ぼし尽くされる

申命記7:16-20

原初的核家族には、国家を作る素質がありません。利害の異なる多数の集団を一つにまとめるには「縦型の権威の軸」が必要ですが、彼らはそれを持っていない。彼らが、「統合」「和睦」の可能性を顧慮せず、つねに、他の集団を抹殺しようとするのは、そのためと考えられます。

旧約聖書におけるこれらの記述が、北米大陸に渡った元イギリス人のアメリカ人や、近代イスラエル国家を建国したユダヤ人に影響を与え、先住民インディアンやパレスチナ人の虐殺につながった、とする議論があります。しかし、順序は逆だと思います。

彼らが旧約聖書を読み続けたのは、おそらく、それが彼らのメンタリティに合致したからです。ユーラシア大陸の大文明の影響から離れて、未知の土地に向かう核家族の彼らは、旧約聖書の中に、自分たちのメンタリティを支え、強化する要素を見出した。

旧約聖書が彼らに命じたから、彼らがそれを行なったわけではない。彼らのメンタリティが、旧約聖書を選ばせたのです。

(3)神は問題を解決しない

もう一つ、旧約聖書を読んでいて、「すごく特徴的だよなー」と(私が)感じるのは、神は一切の問題を解決しようとはしないし、民を使って問題を解決させようともしない、という点です。

「問題を解決する」という発想を持たない神は、気に入らない事が起こると、全てを消し去ります。全消去するのです。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。 「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

創世記6:5-7

有名な、ノアの方舟(大洪水)のエピソード。創造主である神は、自らがつくった人類が悪いことばかりするのを見て嫌になり、お気に入りのノアの一族だけを残して、すべてを滅ぼしてしまいます。

全知全能の神なのですから、人々を教え諭したりして、よい方向に導く努力をしたっていいと思うのですが、どうも、旧約聖書の神にそういう発想はない。「悪い者は悪い者。滅ぼすしかない」というハードボイルドな考えのようなのです。

大洪水を経て、全人類をノアの子孫とするところからやり直した神ですが、その後も、その態度に変化はありません。

「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」

創世記18:20-21

もちろん、神は、確かめた後、ソドムとゴモラを滅ぼそうと考えています。

話を聞いたアブラハムが「10人でも正しい者がいるなら、町全体を滅ぼすのは正義に反するんじゃないか」みたいなことを言ったので、神は「じゃあ10人正しい者がいたら滅ぼさない」というところまで妥協します。しかし、結局、ソドムとゴモラに正しい者はいなかった。

主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。

創世記 19:24-25

なぜ、旧約聖書の神は問題を解決しようとしないのか。私は、書き手である人々に、その発想(能力)がないからだと考えます。

国家以前(家族システム以前)の世界では、争いの解決は実力によるしかないのだが、権威が生まれたことで、法に基づく解決が可能になる。前述の契約〔「親の権威を認め、親の権威が長子に受け継がれることを認め、家の繁栄と永続のために結束する」という直系家族の社会契約〕に基づき、権威者の裁定に従い、権威者の定めるルールに従うことが、人々の義務となる。

https://www.satokotatsui.com/birth-of-state/

社会の秩序を正すには、まずは、社会の成員が、社会の共有物としての「正しさ」が存在するという感覚を持っている必要があります。その上で、はじめて、人々は、具体的な規範を共有し、規範の遵守を義務とし、正しい(公正な)秩序を構築することができる。この一連のプロセスを可能にするものが、(家族システムにおける)権威にほかなりません。

旧約聖書の書き手は、知識としては、「正しさ」の存在を知っています(何しろアッシリア帝国の付近で暮らしていますから)。その「正しさ」が、一定規模の集団を成り立たせるのに不可欠であることについても、知識があるようです。

しかし、彼らには、「正しさ」が具体的にどのような内容を持ちうるのかは、皆目見当がつかない。もちろん、それを世の中に行き渡らせる方法も。

旧約聖書の神は、途方に暮れ、仕方なく「全消去」ボタンを押すのです。

(4)神の偉大さは、暴力の激しさによって示される

そういうわけなので、旧約聖書の神は、自らの正しさや、徳の高さによって、その偉大さを証明することができません。では、どうやってその偉大さを証明するのか。

破壊です。

神はすでに大洪水を起こしてノアの一家(と方舟に乗せたいくらかの動植物)以外を全滅させ、ソドムとゴモラでも、硫黄の火を降らせて生きとし生きるもののすべてを滅ぼしましたが、それ以外にも、とにかくやたらと殺戮し、破壊します。

例えば、エジプトを出た後、モーセに率いられて約束の地を目指していたイスラエルの民の間に、徒党を組んでモーセに反逆する者たちが現れたときの、神の態度はこうです。

主の栄光はそのとき、共同体全体に現れた。主はモーセとアロンに仰せになった。「この共同体と分かれて立ちなさい。わたしは直ちに彼らを滅ぼす。」

民数記 16:19-20

神はこう宣言し、破壊を実行する。

地は口を開き、彼らとコラの仲間たち、その持ち物一切を、家もろとも呑み込んだ。彼らと彼らに属するものはすべて、生きたまま、陰府へ落ち、地がそれを覆った。彼らはこうして、会衆の間から滅び去った。彼らの周りにいた全イスラエルは、彼らの叫び声を聞いて、大地に呑み込まれることのないようにと言って逃げた。また火が主のもとから出て、香をささげた二百五十人を焼き尽くした。

民数記 16:32-35

なお、このとき、神は追加で疫病を放ち、さらに14700人を殺害しています。

旧約聖書では、神がこうですから、イスラエルの民も、神の遣わす天使たちも、皆、破壊と殺戮に明け暮れます。

破壊が、神が自らの偉大さ(ないし存在)を示す方法であることは、神自身が語っています。

それゆえ、彼らにこう言いなさい。主なる神はこう言われる。わたしは生きている。廃虚にいる者たちは必ず剣に倒れる。野にいる者はすべて、獣に餌食として与え、砦と洞穴にいる者たちは疫病によって死ぬ。わたしはこの土地を荒れ地とし、荒廃した土地とする。この土地が誇った力はうせ、イスラエルの山山は荒れ果て、そこを通る者はなくなる。彼らが行ったすべての忌まわしいことのゆえに、わたしがこの土地を荒れ地とし、荒廃した地にするとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる

エゼキエル書 33:27-29(神が預言者エゼキエルに語りかけた言葉(多分))

なお、旧約聖書における神やイスラエルの民の暴虐については、それを「アッシリアの軍国主義を告発するもの」として正当化する見方があります。

約束の地に入ったイスラエルの民が、神の命令に従って、先住の人々に対して民族浄化を敢行するヨシュア記について、レーマーさんは次のように述べています。

ヨシュア記を読んで衝撃を受ける者もいるであろう。なにしろこの書では、イスラエルとその神が異常な残酷さを見せているからだ。

ヨシュア記の最古の資料は、前7世紀、ユダ王国がアッシリア帝国に脅かされていた時代に書かれた。アッシリア人は、全民族に対する支配権をみずからの神々から授かったと主張し、暴力のかぎりをつくしていた。ユダ王国の書記たちは、ヨシュア記の征服物語を書くことにより、イスラエルの神がアッシリアの神々よりも強いことを訴えようとした。また、ヨシュア記において、他民族にはカナンを占有する権利がいっさいないということが示されるとき、この発言は第一にアッシリア人に向けられているのである。

したがって、ヨシュア記は、アッシリアの軍国主義を告発した「カウンター・ヒストリー」となっているのだ。

トーマス・レーマー著(久保田剛史訳)『100語でわかる旧約聖書』(白水社、2021年)147-148頁

大変興味深い指摘です。ヨシュア記がアッシリアを告発する「カウンターヒストリー」であるということは、旧約聖書の書き手たちには、アッシリア帝国の行動が、このヨシュア記におけるイスラエルの行動のように見えていた、ということですから。

ヨシュア記の中で、ヨシュア率いるイスラエルの民は、エリコの町を滅ぼします。攻撃の前に探りを入れ、「土地の住民は皆おじけづいている」という情報を得たにもかかわらず、エリコの人々に降伏の機会を与えることもなく、ただ、神に与えられた土地(約束の地)に彼らが住んでいたというだけの理由で、全滅させるのです。

彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。

ヨシュア記 6:21

アッシリアは、たしかに、軍事力を用いて領土を拡大し、他民族を支配下に置いた帝国でした。しかし、アッシリアは、もちろん、ただ「神に言われたから」地域を征服したわけではありませんし、征服した土地の民を皆殺しにしていたわけでもありません(それでは帝国は成り立ちません)。

アッシリアが広域支配を目指したのは、バビロニアとの覇権争い、大国エジプトとの関係、絶えざる異民族の侵入、新興国の台頭といった歴史的な諸条件の中で、アッシリアが生き抜き、その繁栄を保つために必要だったからです。軍事力は欠かせないとはいえ、軍事力だけで帝国支配が実現できるというものでもない。アッシュルバニパルは、治世初期に、次のように語っています(記念碑の草稿だそうです)。

‥‥神々の父たるアッシュル神は、私がまだ母の胎内にいるときに、王となる運命を私に定められた。偉大なる母神ムリッスは、この地と人民を統治するために私を召命された。エア神とベーレト・イリ女神は、私の姿を主権者にふさわしく創造された。清らかなシン神は、私が王権を行使することについて縁起のよい印を記された。[シャマシュ神とアダド神]は、占い師の業、変わることなき技術を私に授けられた。神々のなかの知恵者マルドゥク神は、広い知恵とはるかなる知識を私に与えられた。すべての書記術の神ナブーは、その知恵の習得を私への贈り物とされた。ニヌルタ神とネルガル神は、力、男らしさ、比類なき強さを私に授与された。

山田重郎『アッシリア 人類最古の帝国』(ちくま新書、2024年)250-251頁
Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg)
馬上で弓を打つアッシュルバニパル(写真:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg))

「神に授けられた」とするアッシュルバニパルは傲岸不遜でしょうか。しかし、いずれにせよ、彼はその治世において、主権者としての威厳、先を見る力、広い知恵とはるかなる知識、学び続ける姿勢、比類のない強さを、発揮し続けなければなりません。

偉大なる帝国とは、義務を進んで引き受ける偉大な君主と、進んで君主に従い、君主の下で力を尽くす官や民がいて初めて成し遂げられる大事業なのですから。

しかし、狩猟採集民のメンタリティを持つ人々に、「偉大なる帝国」の存在意義を理解することはできません。どういう事情、どういう理由があると、「偉大なる君主」が現れ、人々が自発的にそれに従うなどという事態が発生しうるのか、見当もつかない。

「親の権威に従う」という発想すらない彼らにとって、帝国という巨大な秩序の存在は、恐怖と嫌悪の対象でしかないのです。

そこで、彼らは、帝国を「悪」と決めつけ、その原因を、為政者の個人的な資質に求めます。「悪い奴が力で人々を押さえつけている」。そのように理解します。

こうして、旧約聖書はアッシリアの王を悪しざまに罵り、旧約聖書の神は、アッシリアの王を超える力を見せつけるために、ひたすら理不尽な破壊に興じるのです。

次回に向けて

古代イスラエルの人々が、「文明」の圧力にさらされた際の原初的核家族の心性を見事に書き記して離散した後、ユーラシア大陸では、再度、「狩猟採集民が文明の付近に投げ込まれる」(に近い)事件が発生します。

いわゆる「ゲルマン人の大移動」の中で、北方からやってきた原初的核家族の民は、ローマ帝国(西ローマ帝国のこと。以下同じ)崩壊(前)後のヨーロッパに居を定め、ローマ帝国の遺産(キリスト教を含む文明知識、行政組織など)を享受して集団として成長していく。

そして、識字率の急速な向上が始まった15世紀の終わり頃、彼らは「大航海」に乗り出し、世界を大きく変えていくのです。

旧約聖書には、確かに原初的核家族の秘密が記載されています。しかし、情報量に限りがあることも事実です。

核家族が能動的なアクターとして登場したその頃、彼らがその心の奥底に、どんなメンタリティを醸成していたのか。

「知りたいよなー」

と思って文献を探していた私の元に、神は、奇跡のような書物を遣わしたのです。

どうぞ、お楽しみに!

今日のまとめ

  • アッシリア帝国を通じて「文明との遭遇」を果たした原初的核家族がまとめた文書群が、旧約聖書である
  • 原初的核家族にとっては「彼らの世界」が全宇宙。他者は存在しない
  • 関わりのない他者は「存在しない」扱いだが、万一攻撃してくれば「敵」となる(≒ 他者はつねに敵である)
  • 和睦するという発想(能力)がないため、邪魔者は消すしかない
  • 法(正しさ)を通じた平和的な問題解決能力を欠き、窮地に陥ると世界を消そうとする
  • 神は、徳の高さではなく、破壊の大きさによって偉大さを示す
  • 一切の権威を欠く彼らにとって、帝国という巨大な秩序は、恐怖と嫌悪の対象でしかない
カテゴリー
トッド入門講座

「トッド後」の近代史
(4)近代のメンタリティ① エマニュエル・トッドとの対話

目次

はじめに

トッドの歴史観の基礎には、歴史を動かすのは人間の集合的心性(メンタリティ)である、という命題があります。

心性に影響を与える要素はいろいろありますが、もっとも本源的な規定力を持ち、かつ、もっとも持続力が高い(容易に変化しない)のが、家族システムの影響である。この事実を発見し、両者の関係性を具体的に示してみせたのが、トッドの最大の功績といえるでしょう。

初出:エマニュエル・トッド入門講座「家族システムについてのよくある誤解

本講座は、トッドのこの見解を受け入れ、「家族システムの変遷-国家とイデオロギーの世界史」などの連載をしているうちに、「それぞれの家族システムには、それぞれの基幹的価値(core value) のようなものがあるのではないか」と感じるようになりました。

表にしてみたのがこちらです。

では、空欄の「識字化した(=近現代の)核家族」の部分には、どんな価値が入るでしょう。

家系の永続も、国家安寧も、世界平和も気にしない。それでいて、自由には固着する核家族。

彼らが率いた世界がどんな世界だったかはすでに見てきましたが、その「抗争と掠奪」(そして「暴力と殺戮」‥‥ )の世界は、どんな価値・メンタリティの上に成り立ったものなのか。

それを解明しよう、というのが、今回のテーマです。

【注意】「彼ら」とは何か

この連載で、私はしきりに「彼ら」「彼ら」と書いてきました。そして、今回の課題は、その「彼ら」のメンタリティの解明です。しかし、そもそも、「彼ら」って誰のことなのでしょうか。

ここで、是非とも思い出していただきたいことがあります。それは、トッドの専門である人類学は、科学の視点から人類を研究する学問であるということ、そして本講座もまた「人類を生物種の一種として眺める」視点に立っている、ということです。

このウェブサイトを始めた初期の頃、番外編として「文明以前の人類史ー人間はどういう生物か」という講義をお届けしたことがあります。このとき私が提示した仮説は次のようなものでした。

  • 人間は「社会」というフィクションの中で生きるように進化した生物である
  • 人間は「社会」の構築・適合のために「人間らしさ」を身につけた
  • 「人間らしい」脳の機能(理性や感情)の最重要の目的は「社会を作り社会に適合すること」なので、その働きは通常理解されているほど「自由」ではない

そのときにも(おずおずと‥)書きましたように、本講座は、エマニュエル・トッドの理論は、こうした人間の心の仕組みの一端を解明するものであると考えています。そこで、彼の発見を参考に、上記の仮説に続けて、いくつかの仮説を加えてみましょう。

  • 社会構築の母体は、集合的心性である
  • 家族システムが表現しているのは、人間が構築する社会の型である
  • 人間の心と社会は、集合的心性を介して、双方向のベクトルでつながっている
  • 集合的心性は、社会を構成する個々人の心の集合体である。したがって、社会の特徴(個性)は、社会を構成する人間の多くが共通に保有する心的成分によって形成される
  • 社会を構成する個々人の心には社会の型(家族システム)に合致しない成分も多く含まれており、社会の型の相違に伴う個々人の相違はわずかである。また個々人の心は、異なる社会への適応が必要となったときには、比較的容易に変化する
  • 集合的心性の特徴(社会の個性)は、社会の構成員の心だけではなく、歴史的に形成された習慣や制度に刻み込まれているため、変化は緩慢で漸進的である。

このウェブサイトで、私が用いる「彼ら」の語は、たいていの場合、この「集合的心性」を指しています。

集合的心性とは、個々人の心の集合体ですから、社会の成員一人ひとりと無関係ではありません。

では、一人ひとりの人間が、集合的心性を変えることができるか、といえば、一人の行動、一人の心の変化が、実際上、目にみえる変化をもたらすことができないことは明らかです。

集合的心性から見れば、一人の人間の心はまさに大海の一滴。その上、その大海には、いま生きている人間の心的成分だけでなく、制度や慣習といった形で、歴史を通じて選りぬかれた集合的心性の粋(すい)が流れ込んでいるのですから。

例えば、直系家族の日本に生まれ育った一人の(平均的な)人間の心と、核家族のイギリスに生まれ育った一人の(平均的な)人間の心は、そんなに大きくは違いません。日本の人の中にも、核家族っぽい要素はあるし、イギリスの人の中にも、直系家族っぽい要素もある。

それにもかかわらず、その「一人」がたくさん集まって社会を作り、歴史を重ねると、そこには、簡単には変わらない、明確な特徴が刻まれてしまう。それこそが、社会というものの、厄介で、かつ、おもしろいところなのです。

今回より、私たちは、「抗争と掠奪」「暴力と殺戮」そして「おかねがすべて」の時代を作ることとなった(識字化した)核家族のメンタリティの解明を目指し、探究を始めます。ここでも、観察の対象となるのは、もちろん、集合的心性です。

参加者の皆さんは、「彼ら」を社会を構成する個々人と同視して感情的になったり、はたまた、真相の究明を躊躇ったりすることのないよう、肝に銘じてくださいね。

銘じましたか?

はい。それで準備はOKです。
早速、本編の探究を始めましょう。

原初的核家族のメンタリティ:未開人は暴力的か?

近代の(絶対)核家族と原初的核家族には、「権威・平等の双方を欠く」という共通点があります。

この点を頭に入れて、「なぜ近代はこんな時代になってしまったのか・・」と考えると、最初に思い浮かぶのは、つぎのような仮説だと思います。

なかなかもっともらしい仮説ですけど、この仮説に依拠して検討を進めるには、その前に、確かめておかなければならないことがありますね。

そう、未開社会の人々のことです。

未開社会の人々は、家族システムを構築していなかったので、権威も平等も持たなかった。だからといって、彼らは「野蛮」で、争い、奪い、殺し合ってばかりいた、と考えてよいのでしょうか?

狩猟採集社会の人類の暴力性については、比較的最近になって、改めて議論が活性化しているらしく、興味のある情報を得ることができました。

まず、20世紀を通じて、考古学などの研究者の間で主流であった見方は、狩猟採集社会は比較的平和であった、というものだそうです。

ところが、21世紀に入ろうという頃から、「いや、違う」という人たちが現れます。彼らは「未開の人類は非常に暴力的で、戦争も頻繁だった。むしろ、現代の人類の方が平和的なのだ」と主張するのです。

考古学者の松本直子さんに教えていただきましょう。

‥‥近年、むしろ文明や国家が発達する以前の社会は暴力的であり、国家の成立によって戦争は減少しているという見方が台頭してきた。平和で豊かな狩猟採集民というイメージは、イデオロギー的な幻想であり、実態はむしろ戦争の世紀と呼ばれる20世紀よりも戦死者の比率が高かったとする説が複数の研究者によって唱えられ、世界は国家による統制により平和になってきているという主張が多く見られるようになった(Keeley 1996, ガット2012, ピンカー2015)。さらに、頻繁な戦争状態がヒトの特性である利他的な性質の進化を促したとする説も出されている(Bowles 2009)。

松本直子「狩猟採集社会における戦争ー集団間の暴力を促進/抑制する要因について考えるー」考古学研究65巻3号(259号)(2018年12月) 22頁

狩猟採集時代の人類(原初的核家族)は、近現代の人類と比べて、平和的だったのか、暴力的だったのか。どちらなのでしょうか。

松本さんによりますと、これまでのデータを総合すると、軍配は前者の「どちらかといえば平和だった」説の方に上がるようです。

「未開人は暴力的」派の人々も、もちろん、根拠となるデータを示しているのですが、彼らのデータの用い方には偏りがあるようなのです。

ピンカーのデータについては、松本さんご自身も、次のように指摘しておられます。

戦争による死亡率平均14%の産出の根拠としてピンカーが用いている先史時代のデータは、時代も地域もさまざまな21か所の遺跡から得られたものであり、東アジアのデータはおそらく英語であまり公表されていないため全く使われていない。また、民族誌における戦争による死亡率についても、やはり平均14%程度と算出されているが、民族誌に基づくデータは、たとえ狩猟採集民のものとされていても、さまざまな形で農耕社会との接触があるケースがほとんどであり、先史時代の狩猟採集社会と同等に扱うことはできない。‥‥データに偏りがあるという批判はすでになされており(Fry 2013, Fry and Soederberg 2013)、より体系的・網羅的なデータによって検証することが求められている。

松本直子「狩猟採集社会における戦争ー集団間の暴力を促進/抑制する要因について考えるー」考古学研究65巻3号(259号)(2018年12月) 26頁 

そこで、東アジアのデータとして、日本列島で出土した縄文時代と弥生時代の遺跡のデータを付け加えて検証を行った松本さんは、つぎのような結論に達しています(松本さんの言葉を借りながら私の言葉でまとめます)。 

遊動的なバンド社会に限れば集団的な暴力はほとんど見られず、また、体系的にデータを集めると受傷率はそれほど高くない。したがって、先史時代の狩猟採集社会で戦争が頻発していたとは考えられない。

集団的な暴力(戦争)は、人類史の初源から頻発しているわけではなく、ある段階で発生し、拡大したとみるべきである

松本直子「狩猟採集社会における戦争ー集団間の暴力を促進/抑制する要因について考えるー」考古学研究65巻3号(259号)2018年12月 参照

そういうわけで、本講座は「狩猟採集社会に暮らした原初的核家族は、それほど暴力的ではなかった」という立場に立ち、近代の暴力性の原因を「未開人類似の野蛮なメンタリティ」に求める仮説①を「不採用」とさせていただきます。

エマニュエル・トッドとの対話ー人間集団には「敵」が必要なのか

(1)核家族か人類か

では他にどんな仮説がありうるか‥‥と考える私の中では、近現代の暴力性が、何らかの形で、それを率いた西欧の核家族性と関わりがある、ということは大前提です。

しかし、近現代のある種の「野蛮さ」を核家族の特性に結びつける私の立場には、見過ごすことのできない有力な反対者がいるのです。

その人とは、なんと、エマニュエル・トッド。

いうまでもないことですが、私たちに、西欧近代を率いた核家族と、狩猟採集民との近接性を教示してくれたのはトッドです。

彼は、『我々はどこから来て、今どこにいるのか』(文藝春秋、2022年)の中で、狩猟採集時代の人類と核家族(とくにアングロサクソン)の類似性を論じており、同書(日本語版)の上巻・下巻の副題はそれぞれ、
「アングロサクソンはなぜ覇権を握ったか」
「民主主義の野蛮な起源」。

これに対するトッドの答えは、
「アングロサクソンが覇権を握ったのは、彼らが原初の狩猟採集民と同じメンタリティと持っているから」
「民主主義の起源は、メンバーが集会を開き、合議し、その集団に関わる決定を行なっていた原始社会の意思決定にある」。

彼ら〔アメリカ人〕は、ほとんどまったく洗練されていないからこそ、先を行っているのである。ほかでもない原初のホモ・サピエンスが、あちこち動き回り、いろいろ経験し、男女間の緊張と補完性を生きて、動物種として成功したのだ。

上・351頁

西欧近代の西欧近代たるゆえんを、核家族のメンタリティに求める彼の立場は、ここまでは、われわれの想定とほぼ同じです。しかし、暴力性ということになると、彼のトーンは少し変わります。

トッドは、現代の人間が、他者を敵視し、戦争を厭わないことの淵源を、狩猟採集民のメンタリティに求めます。その上で、彼は、そうしたメンタリティを、「核家族の個性」ではなく、「人間の本性」。つまり、全人類に共通の属性と見るのです。

(2)「人間の本性」とは?ートッドの立論

では、彼の見る「人間の本性」とはどのようなものなのか。一言でまとめるとこうなります。

このような理解を導くために、彼が大いに参照しているのが、スコットランド啓蒙期の歴史家・哲学者、アダム・ファーガソンです。

アダム・ファーガソンという人が何をいっているのか。トッドによる引用を少しご紹介しましょう。

《 近年の発見によって、我々は、地球上のありとあらゆる状況における人類の暮らしを知ることとなった。広く大きい大陸で、交通が開け、民族や部族の連携が容易な環境に暮らすものがあれば、山や大河、入江に周囲を囲まれた狭小な地域に暮らすものもある。小さな島で、住民たちは容易に集まることができ、そうした協力関係を活かして生活するものもある。しかし、そうしたすべての状況において、人類は、等しく、複数の集落に分かれ、〔他と区別するための〕名前を付けた共同体を組織して暮らしていた。「同胞」や「同郷人」といった呼称は、対立概念である「よそ者」「異郷人」なしには、用いられることもないし、意味を持ち得ないものであろう。》

《これらの観察はわれわれ人類を告発し、人間というものについて好ましくないイメージを生み出すように思われる。通常、戦士たちを自国の防衛に立ち上がらせるのは、高潔寛大な無私の感情であると考えられている。それらは、人類が持ちうる最も好ましい性質であるとも考えられている。[これらの観察によれば]こうしたものが、すべて、他者を敵とみなすという人類全般に見られる行動規範に還元されてしまうのだ。国家間のライバル関係がなければ、そして実際に戦争を遂行することがなければ、市民社会が存在する目的を見出すことも、形になることも、おそらくできなかったであろう。》

上・152-153頁(日本語版がベースですが、英語版を参照して翻訳には大いに手を入れました)

ファーガソンに対するトッドのコメントはこうです(↓)。

この〔ファーガソンの〕捉え方がいかに生々しく現代に通じているか、われわれは、ヨーロッパのネイション間の平和が持つ社会解体的効果を確認することをとおして痛感する。ファーガソンを読んだあとでよりよく理解できるのは、現代の先進諸国の社会が、自らのバランスを取り戻すために、国内でイスラム教徒たちを独特の集団として意識したり、対外的にはロシアを悪魔化したりする必要に駆られているということだ。突き詰めれば、そのバランスは諸国家の和解によって脅かされているのである。米国で黒人たちがひとつの集団として切り離される状況が永く続くのも、人類固有の同じ論理に起因している

集団の一体性は、他の集団への敵意に依存する。内部での道徳性と外部への暴力性は機能的に結合している。したがって、外部への暴力性のあらゆる低下は、最終的には、集団内で道徳性と一体性を脅かす。平和は、社会的に問題なのである。

こうしてトッドは、ファーガソンの観察を受け容れ、以後「人間は相互に他の集団を敵視することで集団としてのアイデンティティを形成する生物である」という命題を公理(自明の真理)として採用する、と宣言するのです。

‥‥肝腎なのは、どの集団にも、他の集団との関係に依存しない絶対的なアイデンティティなど存在しない、ということを理解することなのである。フランスがフランスとして本当に存在し始めたのは、14世紀におけるイギリスとの紛争によってだった。米国の白人が白人として存在しているのは、黒人との関係においてだけだ。古代ギリシア人がギリシア人だったのは、現在の「野蛮人」に通じる「バルバロイ」〔訳の分からぬ言葉を話す者〕という呼称で呼ばれた他民族との区別においてだけだった。アテナイ人のアイデンティティはスパルタ人との対抗関係に、キリスト教徒の集団としてのそれは異教徒およびユダヤ教徒との違いに依存していた。たしかに人間社会はさまざまで、経済システム、家族構造、宗教的信仰、政治組織のいずれを見ても、それぞれに固有の性格があるしかし、どの社会も、外部の指示対象‥‥なしには考えられないし、記述され得ない。外部の指示対象が、相互影響や拒否の長年にわたる絡み合いの中でそれぞれの社会の性格の定着に寄与するだけでなく、各社会の内的一体感の醸成や、外部もしくは内部の「他者」に対する集団の連帯感の活性化を可能にするのだ。いかなる絶対的アイデンティティも存在しない。ホモ・サピエンスという種において、集団のアイデンティティはつねに相対的である

(3)トッドへの反論

①家族システムの進化とは何か

本講座は、フランスはイギリスとの紛争(百年戦争ですね)によって初めてフランスになった、というトッドの見立てには賛同します。アメリカの白人は黒人、古代ギリシャ人は「バルバロイ」、アテネはスパルタ、キリスト教徒は異教徒やユダヤ人という「敵」がいたから、集団としてのアイデンティティを確立できたという点にも、異論はありません。

しかし、これを、「経済システム、家族構造、宗教的信仰、政治組織」の性格とは無関係の、すべての人間に共通の性質であるとする彼の推論には、論理の飛躍があります。

まさか、トッドが気づいていないはずはないと思いますが、彼が挙げている事例はすべて(トッドの仮説によれば)核家族のものなのです。

われわれは、トッドに学ぶ学究の徒ではあっても、トッド信者であってはなりません。うっかり彼に追従することなく、しかと検証してまいりましょう。

ファーガソンが観察した原初的核家族の人類は、家族システムの進化を経験していない「システム以前」の人々です。したがって、彼らの行動がホモ・サピエンスの初期状態を示しているという点に、大きな誤りはないでしょう。

トッドは、ファーガソンの観察による原初的核家族の行動原理(「集団の一体性は他の集団への敵意に依存する」)を、家族システムその他の社会構造を問わず、全ての人類に妥当する公理であると断定します。

このとき、彼は、家族システムの進化には、始原的人類が持つ(とされる)「敵意原則」を修正する力はない、と宣言していることになるのですが、本当にそうなのか。

私がトッドに問いたいのはこの点です。

②文明の誕生

メソポタミアに最初の国家(都市国家)が生まれたときのことを考えてみましょう。

人類がメソポタミア南部に定住を始めたのは前5500年頃、前3000年紀に、ウル、ウルク、ラガシュといった都市国家が誕生します。

都市国家は20ほどあったそうです
都市国家ウルのイメージ Source: Ancient Mesopotamia – By Miles Hodges

都市国家の誕生は、文字、王、官僚、軍隊、宗教、法が生まれたのとほぼ同時です。つまり、この時期に、現代に連なる「文明」が一気に開花していくわけですが、一体何がこの「文明化」をもたらしたのか。

親族関係の体系化(家族システムの成立)です。

それまでは未分化で、柔軟性を最大の特徴としていた人間集団は、定住し、人口を増やし、「満員の世界」を迎えたとき、長子相続制(=直系家族)のルールを編み出します。

長子相続制(=直系家族)の完成によって、親子をつなぐ縦の絆は、家系をつなぐ一本の線となり、親から子(長子)、子から孫(長子)へと連綿と受け継がれることになる。社会の中に、確固たる縦型の権威の軸が据えられるのである。

https://www.satokotatsui.com/birth-of-state/

この「縦型の権威の軸」が、文字、国家、王家、官僚制度、国家的宗教、法の成立を可能にした、というのが、私が自信をもって提示する仮説です。

この仮説によると、国家という「人間の集団」は、人口が増え、密度が上がった世界で、人間が永く平和的に共存していくために生まれたことになります。

人類は、「満員の世界」という新たな環境に適応するために、家族システムを進化させ、その結果として、国家(や文字や法や・・)が誕生した。権威こそが、そのすべてを可能にしたのです。

③トッドは「権威」を理解していない

文字、国家、官僚等と直系家族の関連性を指摘し、シュメールにおける直系家族の成立を突き止めることで、上の仮説に必要な材料のすべてをわれわれに与えてくれたのは、もちろん、トッドです。

しかし、私はかねてから不審に思っているのですが、彼はどうも、直系家族の中の何が、どういう仕組みで、国家の誕生、文明の開花を可能にしたのかをうまく認識できていない。

歴史の始原において、権威こそが世界を変えたのだという事実を、十分に理解できていないようなのです。

先ほど引用した「アメリカ人は洗練されていないからこそ動物種として成功した」という趣旨の文章。彼は、それに続けて、次のように書いています。

他方、中東、中国、インドの父系制社会は、女性のステータスを低下させ、個人の創造的自由を破壊する洗練された諸文化の発明によって麻痺し、その結果、停止してしまった

‥(中略)‥

直系家族は父系制レベル1であり、過剰な完璧さをもって規範に適合した人類学的典型となってしまわないかぎり、成長を加速させる力を持っている。イギリスには、フランス系ノルマン人に由来する直系家族的構成要素があった。実は米国にも ‥(以下略)

上 351頁

彼は、ひょっとして、権威を「自由を抑圧するもの」としてしか理解していないのではないか。私はそのような疑念を持っています。

「ほどほどの権威(=抑圧)は教育効果を高めるけれど、それを超えれば創造性を潰すことにしかならない」と。そうでなければ、西アジア、中国、インドの文明について、このようには書けないと思います。

しかし、人類が、人間を抑圧するために家族システムを進化させ、その創造性を抑えることで、5000年の歴史を紡いできた、などということがありうるでしょうか。

ですから、みなさん、いいですか。
ぜひとも、ここで覚悟を決めてください。

私たちは、権威の何たるかがわからないトッドにはまだ見えていない真実の領域に近づこうとしています。

この先、私たちは、トッドにも、他の西欧の知識人にも、頼ることはできません。

私たちは、ついに、西欧と異なる家族システムを持っているからこそ容易に近づくことができる領域に分け入って、「近代」の真実を探り当てようとしているのです。

なーんてね。
ちょっと大袈裟になりました。

でも、本当。
私たちには、割と、簡単にわかっちゃうことなんです。

◼️ トッドとマクファーレン

現代の欧米諸国が見せる好戦性やレイシズムを「人間の本性」に結びつけて説明するとき、トッドは、彼が批判してやまないアラン・マクファーレンと似た過ちを犯しているように思えます。

イギリス人であるマクファーレンは、イギリスの個人主義(自由主義的な政治制度や経済のダイナミズム)と家族システム(核家族)との関連性に気づきながら、(トッドのいう)「英国人ナルシシズム」のあまり、そのすべてを、イギリスに固有の、歴史的産物とみなしました。

他方、トッドは、西欧近代の基礎にある核家族システムと狩猟採集民の家族システム(原初的核家族)の共通性に気づいたにもかかわらず、フランス人的普遍主義のゆえに、核家族に固有の特質を、全人類に共通の属性とみなしてしまうのです。

マクファーレンが「英国人ナルシシズム」に浸ることができたのも、トッドが「敵意原則」を人類普遍の原則とみなしてしまうのも、彼らが核家族の問題性、裏を返せば、核家族以外のすべての家族システムが保有する権威の重要性を理解していないからにほかなりません。

「西欧中心主義」といいたくなりますが、ひょっとすると、彼らの反応は、
「核家族(より未分化なシステム)の側が、進化した家族システムのメンタリティを追体験するのは極めて困難である」ということを示唆しているのかもしれません。

*逆は真ではない(マクドナルドのおいしさが万人に理解できるのと同じ)と私は見ていますが、どうでしょう。
トッドとマクファーレンの関係はこちらの記事で少し扱っています(批判については言及していません)。

④「権威」の効用

人類は、「満員の世界」に適応するために、家族システムを進化させ、権威の軸を生み出しました。

権威が発生したとき、人類が国家を形成することになった理由は単純で、そこに、人間が集まるための「中心」が生まれたからです。

何もなかった荒野に、柱が一本。
これが「権威」です。

せっかくの柱だから、旗でも掲げるとしましょうか。そうすれば、人々は、旗を中心に集まり、アイデンティティを形成することができます。旗印に照らして、何が正しいか、正しくないかを判断し、価値意識を共有することができます。旗を中心に、踊ったり歌ったりして、共に楽しみ、一体感を味わうこともできます。

中心に柱が一本ありさえすれば、敵がいなくたって、人間集団は一つにまとまることができるのです。

繰り返しますが、親族関係の体系化(=家族システムの構築)とは、「満員の世界」を生き抜くための、人類の適応です。

その第一段階で発生した権威の軸を、かりに人類の発明品とみるならば、それは人類史上最大の発明であったといってよいと思います。何しろ、歴史も、文字も、法も、国家も、みなこの一本の柱から始まったのですから。

かりに、権威の軸が生まれなければ、人類は、人口密度が上がると同時に「敵意原則」を活性化させ、戦いに明け暮れることになったでしょう。それでは、人類が、地球上で、増え、栄えることはできません。

だからこそ、人類は、「敵意の共有」以外の方法で、集団をまとめる方法を編み出した。人類は、権威の軸を支えに家族システムを構築することで、「敵意原則」を乗り越えたのです。

新たな仮説に向けてー文明との遭遇

(1)第二の仮説

そういうわけなので、本講座は、問題含みの近現代の鍵を握っているのは核家族のメンタリティである、という前提を堅持します。

しかし、狩猟採集時代の原初的核家族は、権威は持っていなかったけれど、取り立てて暴力的でも好戦的でもなかったという。

ということは‥‥考えられるのは、こんな感じの仮説ではないでしょうか。

仮説② 原初的核家族が文明と出会ったとき、何かが起こった。

ご存じのように、権威の誕生(直系家族の成立)から始まった家族システム(人間関係のシステム化)は、ユーラシア大陸の中心部では、その後も進化を続けていきます。

 *こちらの連載で扱っています。

荒野に生じた一本の柱は、だんだん大きく豪華になって、遊牧民や商人が行き交う文明の中心地では、高くそびえる、豪壮な構造物に進化したわけです。

強大で威厳に満ちた権威の存在により、集団間の争いは平定され、まずは、地域一体を統一的に支配する帝国が生み出された。

そして、さらなる進化を経て、公明正大で気前よく、強さに加えて温かみや柔軟さをも持ち合わせた魅力的な権威に変貌すると、帝国は、さらに広範囲の人々を惹きつけ、緩やかに広がる世界帝国へと成長していった、と。

以上が、輝かしい「家族システムの進化」のストーリーですが、実は、ここには、これまで(本講座では)焦点が当たることのなかった「書かれざる歴史」も潜んでいます。

それは、文明の中心地であっても、家族システムの進化は満遍なく起こったわけではない、ということで、実際、アッシリア帝国の時代に至っても、周辺にはなお、原初的核家族の地域が残っていたのです。

(2)狩猟採集民、アッシリア帝国の隣人となる

原初的核家族が文明と出会ったら、何が起きるか。ちょっと、想像してみましょうか。

かりに、原始時代の狩猟採集民の一群が、時空を超えて、アッシリア帝国の付近に飛んできたとします。元の場所に戻る術はない。つまり、彼らは、隣人として、帝国と共に生きていかなければならない運命です。

とりあえず、帝国の様子を見に行くと、そこには壁で守られた都市があり、壮麗な神殿、豪華な王宮、ほかにも様々な建造物があります。ひと目でそれとわかる姿の威厳ある王がいて、強大な軍隊、行政機構、法制度を司り、民を従わせ、広大な領土を治めている。聞けば、この国には1500年以上の歴史があって、歴代の王の事蹟は詳細に碑文に刻まれているのだとか。

宮殿の中には図書館があります。王が所有する粘土板には、文明発祥以来蓄積された知識のすべてが刻まれているそうです。収蔵書は、卜占(占いですね)に関するものが35%、祈祷や呪術や儀礼などの宗教関連が35%、残りは医学書、叙事詩、神話、歴史書、語彙表、辞書、数学書等の学術書で占められています。王は、偉大な君主であるためには、軍事面での強さだけでなく、あらゆる知識を身につけ、正しい判断、優れた行動に生かすことが必要と考えていたのです。

街に出れば、住民は、さまざまな職業に就き、日々の暮らしを楽しんでいました。

都市部では王宮と神殿を中心に、様々な職業の人々によって構成される複雑な階層社会が営まれた。宮廷官吏、祭司、占い師、呪術師、医師、預言者、歌手、楽人、商人、パン屋、ビール醸造人、料理人、菓子職人、搾油者、漁師、庭師、大工、鍛冶屋、石工、皮革加工者、衣服の仕立屋、家庭教師、書記、外交官、軍人など様々な職業人が暮らしていた。人々は、季節ごとに神殿を中心に催される祭礼に参加し、豊作、健康、安全を祈願し、非日常的な祝祭を楽しんだ。

山田重郎『アッシリア 人類最古の帝国』(ちくま新書、2024年)331頁

夫婦と子供のセットを基本に、何となく存在する親族集団を背景に、ひたすら柔軟な関係性の中で暮らしてきた狩猟採集の民は、この光景をどのように見るでしょうか。

彼らはまずは茫然と立ちつくし、やがて、ある者は荘厳な建築物に圧倒され、ある者は武人の隊列に目を見張るでしょう。物質的な豊かさに心を奪われる者がいれば、国王の権威に皆がひれ伏す様子に違和感を覚える者がいるかもしれない。しかし、何にせよ、彼らはここで生きていかなければなりません。

かりに、彼らのメンタリティの中に「権威」があったなら(例えば直系家族なら)、進んで王に帰順し、帝国の臣民として生きていくことを選ぶのではないかと思うのですが、そこは原初的核家族。

彼らは、「自由・自律・独立」といったものを、価値として認識してはいません(この点は近代以降の核家族とは異なります)。それらは、むしろ、習慣であり、彼らに染み付いた事実である。事実として「自由・自律・独立」を生きる民である以上、彼らが自ら帝国への服属を願うことはないでしょう。

帝国に服属しないとはどういうことか。それは、つまり、帝国の外で、帝国と伍していかなければならないということです。「システム以前」の狩猟採集民なのに‥‥

ど、どうしたらいいのでしょうか?

彼らは、家族システムを持っていませんが、ホモ・サピエンスとしての脳機能を備えていますから、おそらく、真似をすることはできるはずです。

彼らは、見よう見まねで、国家を作る。見よう見まねで、歴史を書き、法律を作り、王を立て、戦争をするでしょう。

彼らにとっては、どんな帝国の臣民にも劣らない脳機能(ホモ・サピエンスなので)が唯一の頼みの綱ですから、何より、文明発祥以来蓄積されたという学術知識を熱心に学び、研究もして、帝国文化に一気に追いつき、追い越そうとするでしょう。

そうして、彼らは、国を持ち、歴史書を持ち、法律を持ち、国王を持ち、学術に優れた、どこからどう見ても、立派な文明国家の国民だ、という風を身につけるでしょう。

でも、中身はどうでしょう?

どんなに上手に帝国を真似しても、彼らが「システム以前」の原初的核家族であるという事実に変わりはありません。

家族システムが未分化のままである以上、彼らのメンタリティは、基本的に、狩猟採集民のままなのではないでしょうか。

幸い、そして大変興味深いことに、彼らは、自らの手で、各種の文書をふんだんに書き残してくれています(たぶん、学術が頼りだからでしょう)。

原初的核家族が文明と出会うと、どういうメンタリティが形成され、それがどのように近現代につながっているのか。

次回に続きます!

今日のまとめ

  • 未開社会の原初的核家族はとくに暴力的・好戦的ではなかった
  • 近代の核家族が原初的核家族に近いメンタリティを持つことは事実だが、それ自体が「抗争と掠奪」「暴力と殺戮」の要因とはいえない
  • トッドは「集団の一体性は他の集団への敵意に依存する」という命題(敵意原則)を、家族システムを問わず全人類に妥当する公理と宣言するが、支持できない
  • 親族関係の体系化(家族システムの進化)は「満員の世界」への適応であり、人類は「権威」の構築により敵意原則によらずに集団をまとめる方法を得て、国家文明を築き上げたと考えられる
  • 「抗争と掠奪」「暴力と殺戮」につながるメンタリティは、「満員の世界」への適応を持たない核家族が文明と遭遇したときに生まれたものではないか(仮説)

カテゴリー
トッド入門講座

「トッド後」の近代史
(3-③)おかねが変えた世界

目次

はじめに

イギリスの街角で生まれた「民間の商人が発行する、広域的掠奪の資本としてのおかね」。

今回は、このおかねが国家の中枢に入り込み、世界を変えていく様子をお届けします。

近代国家とは何か。
資本主義とは何か。

核心に近づいています。

近代イギリス国家の誕生

(1)国王と富裕層の契約関係

当時のイギリス国王はウィリアム3世。いわゆる名誉革命(1688-89)のときにオランダからやってきて、妻のメアリ2世とともに王位に就いた人物です。

ウィリアム3世とメアリ2世

前回、イギリス国王(政府)はいつもおかねに困っていたと書きましたが、ウィリアム3世の場合もその点に違いはありません。

しかし、時代は変化していました。この頃、ロンドンにはすでに銀行業が興り、新しいおかねの仕組みが動き始めていたのです。

民間の業者が易々と事業資金を借り入れているのですから、国王が同じことをしていけない理由はないでしょう。

そして、ウィリアム3世には、銀行を納得させるだけの、立派な事業計画があった。

「フランスと戦って勝つ」。

それが、彼の事業計画でした。

再び、イギリスで新たに生まれた信用通貨の「金回り」図(信用基盤)をご覧ください。

「貿易等」に対する大量貸付 → 全世界での掠奪 → 大量の富の還流

「貿易等」で稼いだ富裕層、そしてロンドンに大集合した商人の金融業者が一体となって、このループを回し始めてしまった以上、彼らはこれを続けなければならない運命です。

そして、前回見たように、世界での大量掠奪を続ける条件は、勝ち続けること。ヨーロッパの競争相手とりわけフランスとの熾烈な勢力争いに勝利し、なるべく多くの土地と人を支配下に置くことが不可欠なのです。

そこに、フランスとの戦争に並々ならぬ執念を燃やすウィリアム3世がやってきて、「戦争をしたいがおかねがない」というのですから、富裕層としては、彼に協力をしない手はないでしょう。

国王(政府)と富裕層はにこやかに握手をし、共同で事業を行う契約(合弁契約とでもいいましょうか)を結びました。

この契約によって生まれたイギリス国家のあり方を、専門家は「財政=軍事国家(fiscal military state)」と呼んだりしています。

しかし、私の理解では、この契約は、近代国家イギリスを誕生させた契約です。

富裕層の協力により「資本としてのおかね」を国家の中枢に招き入れることなしに、イギリス国家が安定した財源を確立することは決してなく、国家として軍事行動を活性化し「帝国」を築くこともあり得なかった。

国王(政府)と富裕層の協力関係は近代イギリス国家の基礎であり、この両者の利害が一致したとき、近代国家イギリスが生まれたのです。

(2)契約内容

このとき、両者の間で交わされた契約の内容は、以下の3点に及びます。

第1 国王と富裕層は、以下の役割分担により、イギリスの世界覇権を目指す。
 1️⃣国王は戦争に勝ち、支配領域を拡大する
 2️⃣富裕層は掠奪を進め、海外の富を国内に流入させる

第2 当該目的を達成するため、巨大銀行を設立し、1️⃣2️⃣の事業にかかる資金の融通を容易にする。

第3 巨大銀行の設立にあたっては、国王(政府)が国債の引受銀行となることを条件に株式銀行としての設立を認可し、富裕層がその設立・運営を担うこととする。

要するに、国王と富裕層はタッグを組み、この新しい「広域的掠奪の資本としてのおかね」を武器に、覇権を取りに行くことを決めたのです。

その威力は絶大でした。

18世紀前半のイギリスは、‥‥対仏戦争に次々と勝利していった。とすれば、なぜそのようなことが可能になったのか。戦術や兵士の士気に至っては、プレス・ギャング〔強制徴募〕の犠牲となって、誘拐されて入隊した者の多かったイギリス軍のそれがとくに高かったとはとても思えない。問題は、イギリス政府が大量の資金を短期間に集めえたことにあった

川北稔・木畑洋一『イギリスの歴史』(有斐閣、2000年)84頁

ブリテンで行政府が、1688年以降、議会によって保証された収入を担保に広範に借入れえた事実は、世界史において決定的な役割を演じた。それは大部分ブリテンの一級国としての出現の原因であった‥‥大規模に借入れる能力にもとづく国家財政制度のお陰で、ブリテンは革命に続く数世紀間、費用のかかる戦争を賄い、あるいは大陸の同盟者を援助することができたのである。

P. Einzig, p179(佐藤芳彦「近代イギリス予算制度成立史研究」170頁からの孫引き)

(3)イングランド銀行:国王と手を組んだのは誰か

ここまで、「国王と契約を結んで協力関係に立ち、イングランド銀行を設立・運営したのは「貿易等」で稼いだ富裕層である」という事実を前提に書いてきましたが、「本当?」と思われる方もいるでしょう。

実際のところ、イングランド銀行を設立・運営し、国王に貸付を行なったのは誰なのか。それを知るには、当初のイングランド銀行の取締役や議決権を持つ株主の顔ぶれを見るのがよいと思います。

イングランド銀行の取締役会は、総裁・副総裁を含め、計26名の取締役によって構成された。取締役に就任する要件は、イングランド銀行の株式を額面金額にして2000ポンド以上保有することであった。候補者は額面金額1000ポンド以上の同行株式保有者で構成される株主総会で取締役に選出された。総裁や副総裁に就任するには、さらにそれぞれ3000ポンドおよび4000ポンドの高額におよぶ株式を保有することが必要であった。

坂本優一郎『投資社会の勃興 財政金融革命の波及とイギリス』(名古屋大学出版会、2015年)22頁


なるほど。とりあえず金持ちってことですね。

シティの有力なホイッグ系市参事会員は、イングランド銀行の創立後25年の間、取締役会に強い影響力をもっていた。‥‥

坂本・22頁

ほうほう。

なお、シティの市参事会員は「政治的にも経済的にも、シティの支配者層」であったといいますが、その要件にも

1710年時点で少なくとも15000ポンド、18世紀前半期には約30000ポンド以上の財産保有

が含まれていて、

実際に就任することができたのは、商業社会のなかでも豊かな経済力をもつ最上層の人々であった

そうです。

具体的にはどういう人々であったのか、といえば‥‥

‥‥〔市参事会は〕17世紀にレヴァント貿易や東インド貿易に従事した商人が富裕層を占めたさいには、市参事会員の構成もそれに合わせて変化し、経済構造の変動に適応することで18世紀まではその政治的な権力を維持し続ける。

坂本・25-26頁


ということですから、大まかにいえば、17-18世紀に「貿易等」で稼いだ人々こそが、当時の市参事会員であり、かつ、イングランド銀行の株主であり、取締役であったはずだ、と考えてよいと思います。

以上は、イングランド銀行の場合ですが、国債の仕組が生まれ出た当初、その引受を行ったのは、イングランド銀行だけではありません。

他に、東インド会社と、南海会社(西インド諸島の貿易に従事)がその役目を果たしているのです。

こうした点から見ても、国王と協力関係に立ち、近代国家イギリスの財政基盤の確立に貢献したのは、もっぱら「貿易等」で稼いだ人々であったことがわかります。

(4)イングランド銀行の立ち位置

イングランド銀行を設立・所有・運営したのが、「貿易等」で稼いだ富裕層であることはわかりましたが、そのイングランド銀行とは一体何なのでしょうか。

現在のイングランド銀行は、イギリス政府が所有する、イギリスの中央銀行です。しかし、イングランド銀行が国有化されたのは1946年。有り体にいえば、イギリスのおかねが一回「終わった」後のことです。

イギリスが覇権を握っていた当時のイングランド銀行は、何をする、どういう位置付けの銀行だったのか。この問いこそが、われわれの探究にとって鍵となる問いです。

当時、イングランド銀行は、普通の民間銀行でした(本当です!)。

イングランド銀行は国債を引受けましたが、それ以外の点は、ほかの民間銀行と全く同じ、収益目的で銀行業務を行う普通の銀行だったのです。

イングランド銀行は、政府へ貸し付けることを条件に株式銀行としての設立を特別に許可された特権的銀行として出発した。当時のイングランド・ウェールズにおいては株式会社組織の銀行は認められていなかったので、他の銀行に比べれば飛びぬけて大きく、政府との関係もはじめから深かった。しかし、あくまで民間の一株式銀行以上のものではなく、株主たちは同行が収益を上げて少しでも大きく配当することを期待していたのである

金井雄一「信用システムの生成と展開」金井雄一・中西聡・福澤直樹編『世界経済の歴史 グローバル経済史入門』(名古屋大学出版会、2010年)207頁

イングランド銀行は、19世紀前半に、「最後の貸し手」(「銀行の銀行」)として信用制度全体を支える存在となり、ポンド覇権が確立した19世紀後半からは「通貨の番人」として金融政策を司るようになっていきます。

要するに、中央銀行になっていくわけですが、まず、前者(「銀行の銀行」化)に関しては、それは、イングランド銀行が一番大きく頼りになる銀行だったから他の銀行が頼って来てそうなった、という自然発生的な結果にすぎません(経緯は以下の通り)。

・イングランド銀行は、他の銀行と同様に、銀行業務を行なっていた
・イングランド銀行は、他の銀行と比べて突出して大きかったため、自然と他の銀行に頼られるようになる(他の銀行の資金需要が逼迫したときに信用供与を求められるようになる)
・信用制度の安定を保持することの重要性に鑑み、イングランド銀行が「銀行の銀行」の役目を担うようになった現実を追認する形で法制度が整備される

後者(金融政策への影響力)に関しても、富裕層そしてシティ(マーチャント・バンクを代表とするロンドン金融界)を代表する存在であるイングランド銀行には、事実上、それだけの影響力があったということにすぎないのです。

また、1833年には、イングランド銀行券が法貨(Legal Tender)と定められ、イングランド銀行はポンド紙幣を発行する立場を得ているのですが、だからといって、イングランド銀行が官営になったわけではない。

要するに、こういうことではないでしょうか。

近代国家イギリスの基盤は、政府と富裕層の協力関係であるが、両者は利害が一致する限りで「覇権国家イギリス」という合弁事業を営んでいたにすぎず、一体化したわけでもなければ、富裕層が自己利益の追求を諦め、国家の利益(公益)のために尽くすことを約束したわけでもなかった。

イングランド銀行は、あくまで「シティの親分」であり、富裕層の利益のために行動するという軸は揺るがない。

だからこそ、ごく当然のこととして、イングランド銀行は、政府から独立した、民間銀行であり続けたのです。

(5)資本主義とは

では、一方の政府の方は、いったいどのような利害を代表していたのでしょうか。

契約にサインをした当人であるウィリアム3世は、たしかに「フランスとの戦争に勝つ」という彼に固有の目的を持っていました。しかし、まもなく、国王は君臨するだけで統治はしなくなり、政府の実権は議会の信任に基づく内閣に移ります。

議院内閣制の下での内閣は、富裕層と異なる、独自の利害を代表する存在であったのか。結論からいうと、それはかなり疑わしい。なぜなら、当時のイギリス議会は、基本的に、富裕層によって構成されていたからです。

議員に歳費支給もない当時、実際に議員を務めることができたのは、爵位貴族やそれに準ずる大地主であった有力ジェントリ‥‥の家に生まれた者や、中流層の最上位に位置した富裕な商人や専門職業人にほぼ限られました。厳守されていたわけではありませんが、庶民院議員の収入の下限を定めた法律も作られていました。‥‥ 18世紀イギリスの庶民院議員選挙の有権者は全体で30万人から40万人程度と考えられ、これは成人男性人口のせいぜい20パーセント程度であったと思われます。18世紀イギリスの議会政治は、広く国民を代表する議会民主政治(parliamentary democracy)ではなく、少数者のみがそこにかかわることのできる議会寡頭政治(parliamentary oligarchy)であったのです。

青木康『議会を歴史する』(清水書院、2018年)63-65頁

要するに、政権を担っていたのは、富裕層が選んだ「富裕層の中の富裕層」で、その彼らが、金融界を代表する富裕層と協力して営んでいたのが、近代国家イギリスなのです。

まあしかし、私は、そのことをとやかくいうつもりはありません。

だって、「貿易等」で稼いだ富裕層こそが、辺境のパッとしない国家であったイギリスを、一夜にして覇権国家に変えたのです。

「貿易等」による彼らの稼ぎ、そして、彼らが育てた金融の力がなければ、近代イギリスが栄え、ましてや覇権を取ることなど、絶対にあり得なかったのですから、イギリスが「富裕層の、富裕層による、富裕層のための国家」となるのは、極めて自然な成り行きです。

とはいえ、私たちがそのことをよく知らないのはやはり問題なので、はっきりさせておきましょう。

広域的掠奪によって豊かになった国が、広域的掠奪の資本として生み出された、民間の商人が自由に発行することができるおかねを武器に、広域的掠奪による豊かさを永遠のものとするために作り上げたシステム。

それが資本主義である、と。

(6)すり替わったおかね

以上の経緯を、おかねの変化という観点からまとめておきましょう。

イギリスは、800年頃からずっと「ポンド(£)」を通貨の基本単位としています。

当初は銀貨のみを鋳造していたようですが、ヨーロッパの他の国との貿易で金貨が入ってきた関係で、1344年に初めての金貨が鋳造され、金銀複本位制となりました。

それから現在まで、ずっと基本単位はポンドですし、貨幣(硬貨)も使われ続けている。だから「おかねそのものが変わった」という事実は、気づかれにくいし、見逃されやすいのです。

しかし、銀行が貸付のときに発行する銀行券(および預金口座の数字)が信用通貨として機能するようになり、イングランド銀行の設立や中央銀行化などでそれが事実上国家公認となったことで、おかねの性格は根本的に変化しました。

おかねは金や銀を用いて国家が作るものから、信用に基づいて市中銀行が作るものに変わりました。硬貨は変わらず王立造幣局(the Royal Mint)が作っていますが、その硬貨は、国家が作ったおかねというよりは、銀行が作出したおかねにあてがわれる媒体にすぎません。

同じポンド硬貨でも、中身は、貸付が生む、イギリスの場合には「広域的掠奪の資本としてのおかね」にすり代わっているのです。

このおかねを使ってイギリスは世界をどう変えたのか。それを最後のテーマとしましょう。

イギリスの天下とその終わりーおかねが変えた世界

(1)イギリスの天下

「貿易等」の中心地であったイギリスは、世界金融の中心地となり、ポンド、またの名を「民間銀行が発行する、世界で富を掠奪する資本としてのおかね」は、世界中で通用するおかねになりました。

このときイギリスが手にした権力が、歴史上類のない、真に途方もないものであったことが、今のわれわれには理解できます。

なにしろ、イギリスが開発したおかねは、金鉱や銀鉱を開拓する必要もなければ、せっせと集めて金庫に貯めておく必要もない。貸付を行えば、魔法のように、そこに発生するものなのです。

その魔法のおかねを使って、彼らはイギリスとヨーロッパに鉄道網を敷き詰め、植民地、準植民地など各地の鉄道や港湾を整備し、運河を通し、海洋航路を開いて、世界をヨーロッパを中心とする「貿易等」の渦に巻き込みました。

スエズ運河の開通(1869)

世界中を有線・無線の電気通信網で結び、これを、政府は植民地を支配し戦争を遂行するための連絡や情報収集に、民間は国際ニュースの配信や銀行業務(貿易の決済や送金)に使った。世界はいよいよ「一体化」したのです。

インフラさえ整えてしまえば、欧米以外の地域を、この魔法のおかねの世界に引きずり込むのは簡単でした。

皆さんならどうします?

そう。貸せばいいのです。基軸通貨ポンドを発行できるのはイギリスの銀行だけなのですから、親切な顔をして、世界に通用するおかねを貸してやり、時期が来たら「返せ」といえばいいのです。

借りたおかねを順調に増やして、利子を付けて返してくれる国は「パートナー」です。ますます関係を強化して投資を増やし、彼らの発展をイギリスの富に接続しましょう。

借りたおかねを増やすことができず、返せない国がでてきたら、そのときこそ、合法的に掠奪を進めるチャンスです。

「私たちは、国家の代表でも何でもなく、営利を目的とする民間銀行にすぎません。大変残念ですが、債権確保のために必要な措置を取ることが、私たちの責務なのです。」

そういって、利権とか税収とか、金目のものを要求すればよい。それで相手国が弱体化したら、あとは政府に任せましょう。保護国にするなりなんなり、うまくやってくれるでしょう。

被害者代表として、まず、オスマン帝国の事例を紹介します。

外債による資金調達は、1854年に、クリミア戦争の戦費を調達すべくはじめられた。その後、うちつづく戦争の膨大な戦費負担が、外債依存をいっそう強めさせた。明確な経済発展政策を欠いた、関税などを担保にする外債への安易な依存は、のちにオスマン帝国の財政の破綻と、西欧列強への経済的従属への道をひらくこととなった

鈴木董「『西洋化』するオスマン帝国」坂本勉ほか編『イスラーム復興はなるか』(講談社現代新書、1993年)40頁

オスマン帝国は、鉄道投資の対象にもなりました。

イスタンブルとパリを結ぶオリエント急行が開業したのも、この時代のことであった。1883年に開通したこの鉄道は、のちにはロンドンにまでのび、豪奢な寝台車、舞踏会もひらけるサロン車をそなえ、欧米人にとり東洋情緒のシンボルとなった。

その背景には、19世紀後半にはじまった、西欧列強によるオスマン帝国への鉄道ブームがあった。1856年、イズミルとアイドゥンを結ぶ鉄道がイギリスによって敷設されて以来、列強はアナトリアでもつぎつぎと鉄道敷設権をあたえられ、鉄道を敷設した。

これらの鉄道は、大都市とその後背地とのあいだの物資と人の移動を容易にし、各地の社会と経済の発展をもたらした。しかし、それは同時に、西欧列強が鉄道をつうじて各地に経済的影響のみならず、政治的影響をも浸透させる手段ともなった。こうして鉄道敷設権は、外債で身動きできなくなりつつあるオスマン帝国における利権争奪戦の、最も重要な対象の一つとなった

タンズィマート改革時代の1854年に第1回国債が発行されて以来の外債は、改革のための膨大な費用だけでなく、たびかさなる戦争の巨額の戦費のためにも、発行されつづけてきた。その総額は、アブデュルハミト専制時代の1881年には、総額1億9000万英ポンドに達した

このため、この年、債権者代表とオスマン帝国のあいだで、外債返還についての協定が結ばれ、オスマン帝国債務管理委員会が設置されることとなった。イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、オランダの6カ国からなる債権者代表も加わった委員会が設置され、帝国の税収の多くがその管理下におかれた

アブデュルハミトも、この外債返済のために緊縮財政を余儀なくされ、海軍をはじめ軍備の革新さえ困難となっていった。‥‥

鈴木・51-52頁

つぎはエジプト。

近代化を急ぎ、また戦争によって莫大な債務をかかえこんだエジプトは、1860年代からイギリス・フランスの財務管理下におかれ、内政の支配もうけるようになった。とくにイギリスは1875年、債務に苦しむエジプトからスエズ運河株式会社株の4割を購入して、エジプトへの介入を強めた。このような外国支配に反抗して軍人のウラービー(オラービー)がたちあがると(81-82頁)、イギリスは単独でエジプトを軍事占領して、事実上ここを保護下においた。

世界史285頁

中国の場合、ヨーロッパ諸国から貸付を受けることには慎重であったといいます。しかし、

清朝は従来から外債の募集には消極的であり、1874-95年までの外債発行額は、わずか1200万ポンドにすぎなかった。しかし、日清戦争の敗北による賠償金2億テール(約3800万ポンド)の支払財源は、外債発行に頼るほかなかった

そこでパートナーとして登場したのが、シティ金融界と緊密な関係を持つ香港上海銀行の副支配人C・アディスである。アディスは、北京の中央政府の政治的権威が維持され、中国の領土が保全される一方で、イギリスが主導する「責任ある借款」計画を通じて、中国への影響力を拡大することをめざした。中国の賠償金借款引き受けをめぐるドイツ、ロシアとの国際的競争が展開される中で、イギリス外務省の協力を得た香港上海銀行は、中国政府に1896-1900年の5年間に、3200万ポンドもの巨額の資金を提供した。

世紀転換期以降も、イギリスからの借款はゆるやかに増え続け、1902-14年の間に倍増した。‥‥

秋田茂『イギリス帝国の歴史』172頁

「責任ある借款」 。私は、まったく同じ標語を、現代のIMF(国際通貨基金)が掲げていたとしても驚きません(「借款」は「融資」に変えましょう)。

私は比較的最近にアメリカ支配下のIMFの悪行を知り「アメリカって‥」と思っていましたが、イギリス(とヨーロッパ)のやっていることは、最初から、IMFそのものなのです。

IMFの所業についてはこちらをご覧ください。

(2)貸付(金融)がイギリスの生業となった

ポンドを基軸通貨とする体制が確立したとされる1880年頃から先、イギリスの貿易赤字は増え続けます。

第二次世界大戦後のアメリカと同じで、競争力のある産業が育たなかったのに消費が止まらなかったからですが、それでも消費を続けることができたのは、世界にポンドを貸付ける「資本輸出」(海外投資)によって、収益を得ることができたからです。

商品貿易収支と投資収益にご注目ください。
https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F11172226&contentNo=1(富田ほか)

新大陸の銀から始まり、砂糖やタバコ、インドの綿、胡椒、中国の紅茶、陶器などを掠奪的に入手する過程で、新種のおかねを発明し、「世界の銀行」の地位についたイギリスは、すぐに、自分で富を奪いに行かなくても、おかねを貸付けさえすればそれだけで、世界中を思うままに開発し、魅力的な商品・サービスを供給させ、投資収益を得て、欲しいものを何でも手に入れられることを学びました。

イギリスには、自給自足できるだけの資源も、十分な産業競争力もありません。ポンドを貸付けて投資収益を得ることこそが、彼らが豊かな暮らしを成り立たせるのに不可欠な、基幹産業となったのです。

(3)おかねがなければ生きられず、永遠に経済発展を続けなければならない世界へ

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界は大きく変わりました。このときに起きた変化は、世界中の人々が、自分たちの暮らしの必要を満たすやり方を根本的に変えてしまう、世界史上類例のないほど大きな変化だったと私は思います。

世界中に大量のおかねが貸付けられ、交通・電信網が敷かれ、世界は「一体化」しました。資本を投下され、開発された地域は、おかねを返すとともに、自分たちも負けじとおかねを作り、ビルを建て、会社を作り、後進地域に貸付けることもしました。

おかねそのものが売り買いされ、外国の資本を受け入れてもっともらしく稼がなければ、自国のおかねの価値を下げられてしまったりさえする。

おかねがすべての尺度となり、誰もがおかねを稼がなければ生きていけない、そういう世の中になったのです。

何がこの変化をもたらしたのか。多くの国において、原動力は、進歩に向かう人類の性向、ではありませんでした。かなり単純に、貸付(投資)によって収益を得たい、得なければならない、基軸通貨国イギリス(および当時の列強)の都合こそが、その原動力だったのです。 

貸付(投資)を生業(なりわい)としている国が世界の中心にいる以上、世界は、一般には「経済発展」と呼ばれる、資源やコストのかかる変化を止めることはできません。

世界中が、なるべく多くの融資を受け入れ、なるべく多くの新規事業を起こし、なるべく多くの収益をもたらしてくれること。それこそが、彼らの富を支える収入源です。「私たちはもうこれ以上「発展」などしなくても満足に暮らしていけます。これ以上の投資は受け入れません」などという国が出てきては困るのです。

だからこそ、彼らは、世界中に鉄道が通り、工業化が進んで、各地域がそこそこ豊かに暮らせるようになっても、決してその手を緩めることはなく、もっとよい暮らし、新しい未来、見たことのない景色を追い求めるように煽り、世界の人々を競争に駆り立てます。

私たちが、自然環境や人類の将来を犠牲にしても、経済発展を止めることができないのは、世界の中心に「掠奪の資本としてのおかね」を貸付けることを生業とする人たちが居座っているからなのですね。

(4)覇権の終わり

イギリスが世界で初めて手に入れたこの途方もない権力の源泉は、彼らが発明したおかねにあります。

基軸通貨ポンドの地位を得てますます肥大化した金回りのループ(↓)を継続する方法は、競争に勝ち続け、勢力範囲を広げ続けて、覇権を維持すること。それ以外にありません。

「貿易等」に対する大量貸付 → 全世界での掠奪 → 大量の富の還流

イギリスは戦い続けました。

植民地100年戦争でフランスを破った後も、アヘン戦争(1840-42)で中国権益を確保し、クリミア戦争(1853-56)でロシアの野心をくじき、南アフリカ戦争(ブール戦争/ボーア戦争 1899-02)で鉱物資源豊かな(ダイヤモンドとゴールド)植民地を確保し、第一次世界大戦(1914-18)に辛勝して挑戦者ドイツを退けた。

しかし、二つの大戦の間に、「真の勝者」の地位をアメリカに奪われ、イギリスの覇権は終わりました

「決してイギリスのようにはなるまい」と誓い、産業大国として世界に君臨するはずであったアメリカは、あっという間に、通貨覇権に基づく金融をなりわいとする国に堕し、往時のイギリスそのままに、覇権をかけて戦い続けていると。

これが「おかねが変えた世界」の現在地、ということではないでしょうか。

おわりに

いかがでしょうか。

なぜ、おかねがないと生きられないのか。なぜ、経済は成長し続けなければいけないのか。なぜ、アメリカと西側諸国はこの期に及んでわけのわからない戦争ばかりしているのか。

私は納得しました。

今回の調査を始めるまで、私は、「ここまで極端な状況をもたらした元凶はアメリカ」と見ていました。でも、違いましたね。

アメリカが現在やっていることは、イギリスが過去にやっていたことに酷似しています。「どうしてこんなことに‥‥」も何もなくて、近代はその最初から、掠奪と暴力に溢れていた。私たちは、まだ、識字化した核家族が敷いたレールの上を走っている。それだけのことだったのです。

識字化した核家族の時代が終わった後(もうすぐ終わりますのでご安心ください)、世界が新たな「共存共栄」の時代を迎えるには、おかねの仕組みを刷新することが欠かせません。

通貨覇権国とその周辺国(現在はG7)に世界の富を掠奪する権能が与えられるシステム(↔️multipolar system)を何とかしなければならないという点は、BRICSやグローバル・サウスの国々の間の了解事項なので、何らかの手当が行われるでしょう。

おかねの凶暴性を制御して、真に「共存共栄」に役立つ道具とするには、もう一段、大きな変化が必要だと思いますが、今の私には具体的な道筋は見えません。

野放図に増えて地球上の資源を吸い込んでいく現在のおかねの仕組みがどのように崩れ、この世界がどんなふうに変わっていくのか。途中段階ではいろいろ大変なこともあると思いますが、でもやっぱり、楽しみではないですか?


そういうわけで、私は、現在の世界がなぜこんなふうであるかについて、完全に納得しましたが、連載はもう少しだけ(あと1回?)続けます。

「識字化した核家族」と和解するためです。

だって、物心ついた頃からずっと憧れて、尊敬して、見倣うべきお手本だと信じてきた西欧が、実は、最初から最後まで「抗争と掠奪」に明け暮れる広域暴力団連合だったなんて(そして日本はその末端のパシリだったなんて‥)、あんまりではないですか。

ショックが大きすぎて、暴れたくなる。そうでしょう?

幕末以来の(日本の)苦闘を思えば「可愛さ余って憎さ100倍」。日本中で暴動が起きたっておかしくない。そのくらいの衝撃です。

しかし、彼らだって、決して、好きで「抗争と掠奪」に明け暮れているわけではないはずです。そのことは、150年間、西欧人になろうと努力し続けた私たちが一番よく知っている。私たちがなんか知らないけどつい長いものに巻かれて周囲と同じように行動してしまうように、彼らは彼らで、なんか知らないけど、自由を叫び、争い、奪ってしまうのです。

エマニュエル・トッドの理論は、日本人にとって、「西欧のようになれない日本」を受け入れ、和解するための、最高のメディエーター(仲介者)でした。

その彼の理論を、今度は、「抗争と掠奪の500年」と和解するために、使うのです。

今日のまとめ

  • 近代イギリスの基礎にあるのは、「貿易等」で稼いだ富裕層と政府の協力関係である
  • 彼らが共同で成し遂げたのは、「広域的掠奪の資本としてのおかね」を武器に世界の覇権を取ることだった
  • 政府と富裕層の協力関係とは、最初から最後まで、政府と「私的利益の追求を第一とする」富裕層の協力関係だった
  • 民間銀行が発行する資本としてのおかねが世の中で便利に使われるようになり、これを国家が公認したことで、おかねは金や銀を用いて国家が作るものから、民間銀行が貸付によって作るものに変わった
  • 資本主義とは、広域的掠奪によって豊かになった国が、広域的掠奪の資本としてのおかねを武器に、広域的掠奪による豊かさを永遠のものとするために作り上げたシステムである
  • 基軸通貨国イギリスは金融(貸付・投資)を生業とするようになり、世界を「おかねがすべて」の世界に変えた
  • 世界が「永遠の経済発展」を義務付けられているのは、金融(貸付・投資)を生業とする人々が世界の中心にいるからである
  • イギリスは通貨覇権の維持のために戦争や資源の掠奪を続け、覇権を引き継いだアメリカは、現在、最後の戦い(戦争と掠奪)に臨んでいる

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トッド入門講座

「トッド後」の近代史
(3-②)イギリスで生まれたおかねの仕組み

目次

はじめに:イギリスで生まれるおかねの条件

いよいよイギリスです。

前回、「近代」以前の3種のおかねの例を見ていただきました。

「官の権威と信用(=国の経済力)に基づく、国の商業活動を支えるためのおかね」(中華帝国(宋))

「皇帝の権威と信用に基づく、広域的商業の促進により富を帝国内外に広く行き渡らせるためのおかね」(モンゴル帝国)

「官が旗を振る、領内の産業振興の資本としてのおかね」(江戸日本の藩)

この3種は、それぞれ、帝国(共同体家族)、世界帝国(緩和された共同体家族)、都市国家(直系家族)の典型例といって差し支えないと思います。

共同体家族帝国では、大きな権威を担う政府が、帝国に相応しい安定した経済力を基礎に、広く帝国内の経済活動を支えるおかねのシステムを整備する責任を担う。

緩和された共同体家族世界帝国では、巨大な権威を担う皇帝が、やはり帝国内の充実した経済力を基礎に、富をより広く帝国内外に行き渡らせることを目的として、おかねのシステムを運営する。

直系家族都市国家では、巨大な権威や大盤振る舞いをするだけの経済力に恵まれない代わりに、長としての権威を担う政府が主導して、堅実な経済成長のための資本としての利用経路を確立することで、おかねの信用を成立させる。

それぞれの国家は、それぞれのシステムに相応しい強度の権威を軸に、国が培ってきた経済力に見合ったやり方で信用を成り立たせ、それぞれの国の経済を安定的に持続・成長させるために、おかねの仕組みを構築する。

「近代」以前の3種のおかねのあり方は、この点では、完全に一致しています。

では、「識字化した核家族」(↓)である近代イギリスが、おかねの仕組みを作るとしたら、どんなふうになるか。

「それぞれのシステムに相応しい強度の権威」といっても、イギリスにそもそも権威の軸はありません。

「国が培ってきた経済力に見合ったやり方で信用を成り立たせ」「経済を安定的に持続・成長させる」といっても、イギリスの富は、「貿易等」によって唐突に、外からもたらされたものでした。

そう。イギリスで生まれるおかねは、1️⃣権威を確立しておらず、2️⃣国内の経済活動ではなく外部からの掠奪によって「成長」を果たした国家で、その経済を持続・成長させるという、かなり特殊な任務に見合った「仕組み」を持つ必要があります。

「ちょっと、想像が付きませんが‥‥」

ええ、でも、これこそが、イギリスが官民あげて、確かに成し遂げたことなのです。

前提条件

(1)商業は発達していなかった

先ほど、私は、イギリスの富は、それまで国が培ってきた経済力とは無関係に、唐突に「貿易等」によってもたらされたものであると書きました。本当にそうだったのでしょうか?

ロンドンは、近代以前から、イギリス最大の都市ではありました。しかし、大勢の人が行き交う商業の中心地であったか、というと、決してそうではなかったようです。

GDPなどは信頼できる数値がないので人口を指標に、「100万都市」を何となく大都市の基準として見てみましょう(深い考えはありません)。

「100万都市」の最も早期の事例は、9世紀のバクダードかと思われます(第1回で見ました)。

「交子」の生まれた北宋(960-1127)の都、開封も、商業が栄え、人口は100万に達していたとされているようです。

張択端  清明上河図(12世紀) 北宋時代の開封の繁栄を伝える

日本について見ると、ちょうど藩札が軌道に乗り出した頃(1801年)の江戸の人口が100万、関西圏も全体でそのレベル(大坂42万・京都34万)に達していたそうです(NHK高校講座)。

日本の場合、いわゆる「近代化」以前の段階で、都市=商業が相当に発展していたことがわかります。

イギリスはちょっと違います。

「近代化」直前ということで14-15世紀の数字を探すと、1350年のロンドンの人口は2.5-5万と推定されています(wiki)。

16世紀に進んでも、1500年が5-10万、1550年12万、1600年が20万。100万都市には程遠い、小ぶりな都市であったのです。

そういうわけで、結論はこうなります。

「貿易等」が始まる以前、イギリスの都市=商業はあまり発展していなかった。

17世紀に本格化した「商業革命」(「貿易等」による革命です)とは、まだまだパッとしない辺境の小都市であったロンドンに、突如として世界中から大量の金銀財宝が流れ込んでくる。そういう唐突感のある大事件だったのである。

17世紀のイギリスに、信用通貨を支えるに足る、国内で着実に培われた経済力というようなものはありません。

何もないところに、突然大量の富が流れ込んできた。その状況にどう対応するか、というところから、イギリスのおかねは生まれていくのです。

(2)国家は権威も信用も確立していなかった

権威の軸を中心に構築されている通常の国家の場合、おかねのシステムを整備する役目を担うのは国家です。

充実した経済力を備えていればもちろん(中華帝国やモンゴル帝国)、なければないなりに(江戸時代の藩)、工夫して商業を支える仕組みを作ろうとするものです。

しかし、イギリスの場合は違いました。

17世紀のロンドンで民間銀行が栄え、信用貨幣(紙幣・預金)が誕生する。それを、そのままの形で、国家が法定通貨として採用する。

そうやって、「主たるおかねは預金であり、貸付の際に市中銀行が発行しているが、その価値を保証しているのは政府である」という、「なんか変!」なおかねの仕組みが生まれていくのです。

そうなった理由は、はっきりしているでしょう。

唐突に「貿易等」が始まり、ビジネスを支えるおかねの仕組みが必要になったそのとき、イギリスに、それを差配する力量のある国家権力は確立していなかったのです。

「前近代」のイギリス王室(当時は政府)の財政基盤は不安定で、歴代の国王は大体いつもおかねに困っていたことが知られていますが、1640年、同様の状況にあったチャールズ1世は、支払いに窮して(戦費と思われます)、王立造幣局(the Royal Mint)が富裕層(貴族や商人)から預かって保管していた鋳貨や地金20万ポンド相当を、全て没収。自ら使ってしまったのです。

この事件によって、王立造幣局金庫の信用は崩壊。富裕層の貨幣はすべて、金融サービスの提供を始めていた街角のゴールドスミス(金匠)のもとに向かい、そこで、信用貨幣(紙幣・預金)が誕生していくのです。

かりに、イギリス国家がこの時点で、安定した財政基盤を持ち、経済的信用を確立し、国王が王立金庫横領事件を引き起こすようなこともなかったならば、王立造幣局金庫がそのまま国立銀行に発展し、国家を中心とした信用通貨のシステムが生成していく、というのが順当な成り行きのように思えます。

イギリスがその道を歩まなかったのは、国家が未成熟だったからにほかなりません。

国家は権威と経済的信用を欠き、国内に着実な経済発展のための基盤も確立されていなかった。

だからこそ、イギリスでは、街角の金匠(ゴールドスミス)が信用通貨のシステムを作り、「貿易等」の盛況を見て外国から集まってきた商売人たちが、それを発展させていくことになるのです。

新しいおかねの仕組み

では、ゴールドスミスの元で生まれた新しいおかね(信用通貨)とは、どういう仕組みの、どういうおかねなのか。

詳しく見ていきましょう。

・預金の預かり証が支払手段として通用するようになる
・貸付サービスを証書で行うようになる
・貸付証書は貨幣と交換できることが前提だが、貨幣との交換を求める客はほぼいない
・手元資金に縛られずに貸付を行えるようになる
・この時点で、手元資金を貸付けているようなフリをしながら、実際には貸付処理(証書の発行or 通帳への記入)によっておかねが生まれている
 →貸付が生む現代のおかねの仕組みが確立!

(1)「貸付が生むおかね」とは

現代われわれが使っているおかねは、銀行の貸付によって生まれます。前回少し説明しましたが、今回も少し説明します。

現代のおかねの基本は預金です。
そして、それを発行しているのは市中銀行です。

銀行が顧客に100ポンドの融資を決めて顧客の口座に「100ポンド」の入金処理を行うと(or 100ポンドと書いた銀行券を渡すと)そこにおかねが発生する、というのが基本的な仕組みです。

1699年のイングランド銀行の銀行券。金額や日付、名宛人(?)などは手書きです。
https://www.bankofengland.co.uk/museum/whats-on/2018/feliks-topolski/history-of-banknote-printing

金貨や銀貨の預かり証に由来する仕組みなので、銀行は、発行したおかねについて、貨幣(金貨や銀貨)との交換可能性を保証します。

しかし、現実には、銀行券は銀行券のまま、預金は預金のままおかねとして流通し、「銀貨に変えてくれ」などといってくる人間はいない。

銀行は、自らに対する信用が保たれる限り(≒ 取付け騒ぎがおきない限り)、いくらでもおかねを作り出すことができるのです。

いったい、これは、どういう仕組みなのか。4つの問いを通じて、その実態を解明していきたいと思います。

(2)銀行は何を貸しているのか

第一の問いは、「銀行は何を貸しているのか?」です。

ここまで、私は、銀行は、手元にある資金を顧客に貸付けているわけではなく、貸付によっておかねを作り出しているのである、と説明してまいりました。

でも、それが「貸付」といわれるからには、銀行は何かを貸しているはずです。持っているおかねを貸しているのではないとしたら、銀行はいったい何を顧客に貸しているのでしょうか。

説明しましょう。

A銀行が、額面100ポンドの銀行券(or 預金)を作成して顧客に渡し、顧客に貸付を行なったとします。

銀行が額面100ポンドの銀行券(or 預金)を発行する行為とは、銀行が、その銀行券を持ってきた人(預金の場合は権利者)に対して、100ポンドの現金を支払うことを約束する行為です。

銀行は「これを持ってきてくれたら、いつでも100ポンド支払いますよ」といって、銀行券や預金通帳を渡すわけです。

支払い等を行う義務のことを少し専門的ないい方で「債務」といいます。このいい方を使うと、このとき、銀行は、100ポンドの支払債務を引受けているのです。

銀行が「これ持ってきてくれたら100ポンド払うから」と約束し(債務を引受け)、証書を発行すると、銀行の約束を信用する人々の間では、その証書が100ポンドの支払手段(おかね)として機能する。

これが貸付によっておかねが生まれる仕組みです。

銀行は自ら債務を引き受けることでおかねを発生させ、それを顧客に貸すわけですから、実質的には、銀行は自らの経済的信用を顧客に貸し与えているのだ、ということになるでしょう。

(3)銀行の信用はどこから来るのか

①信用の源泉は「金回り」

銀行が「払うよ」と約束した(債務を引受けた)証書がおかねとして機能するのは、みんなが銀行が約束を守ると信じているからです。

したがって、「貸付がおかねを生む」という仕組みが働くためには、予め、貸付を行う主体の信用が確立していないといけません。では、その「信用」とはどういうもので、どこから来るものなのでしょうか。

約束の内容が「払うよ」なのですから、その約束を信じてもらうために必要なもっとも基本的な要素は「支払可能性」です。「発行者の元には、いつでもそれだけのカネはある」と思ってもらわなければならない。

しかし、いくら使ってもなくならない無尽蔵の蔵というものは存在しません。したがって「いつでもそれだけのカネがある」ということは、実質的には、「金回りのよさ」を意味します。どれだけ出ていっても、いつもそれ以上に戻って来ている。その意味での信用が確立してしてはじめて、信用通貨を成り立たせることが可能になるのです。

それは、いうほど簡単なことではありません。

すでに経済が大いに発達し、税制も整備されていた中華帝国(宋)の政府や、グローバル通商帝国の皇帝にとっては、信用通貨を機能させることは、それほど難しいことではなかったでしょう。具体的に「このカネはこうやってこうやって国庫に戻ってきます」などと説明しなくても、人々は彼らの「金回りのよさ」を信じることができます。

しかし、江戸時代の日本では、藩の政府の権威をもってしても、漫然と発行された藩札がうまく流通することはありませんでした。藩札の流通を安定させるには、高松藩のように、領域内の産業振興と結び付け、「砂糖生産者に対する貸付→砂糖生産→砂糖売却代金(銀)の還流」といった循環の輪を構築することが必要だったのです。

②イギリスの場合

イギリスの場合はどうでしょう。

ロンドンには、17世紀後半から、ごく短期間の間に多数の銀行が生まれていきます。ゴールドスミスに始まり、18世紀になると、ドイツなどから商人がやってきて金融業を開始(「マーチャント・バンク」と呼ばれます。ベアリング商会、ロスチャイルド商会が代表格)。シティを拠点に、国際金融を展開していく。

ベアリングス銀行(1954年の写真)

要するに、彼らは、大量のおかねを作り、世界に流通させていくのです。

大した国内産業もなかったイギリスの、「パッとしない辺境の都市」であったロンドンで、なぜ、民間銀行がそんなに大量のおかねを作って世界中で通用させることができたのか。

それを可能にしたものは、いうまでもなく「貿易等」の成功です。

いまや、ロンドンには、日々、世界中から大量の富が流入してきている。この「貿易等」が軌道に乗っている限り、銀行が貸付ければ貸付けた分だけ、新たな「貿易等」の事業が起こされ、さらなる富が流入してくることは間違いない。その「金回り」に対する信用こそが、ロンドンの銀行に大いなる信用を与えたのです。

イギリスにおいて、信用通貨の基盤を構築したのが「外部からの富の流入」(貿易等)であった、という事実は重要だと思います。

そのことによって、イギリスの「金回り」のプロトタイプは、次のようなものとなったからです。

「貿易等」に対する貸付 → 「貿易等」の成功 → 国内への富の還流

高松藩のケース(↓)と比較してみてください。

砂糖生産者に対する貸付 → 砂糖の生産・販売 → 砂糖売却代金(銀)の藩財政への還流

高松藩の「金回り」の基礎は、砂糖生産に代表される領内の産業振興ですが、「領内の産業」には資源や人員、地域性からくる限界があり、おかねを注ぎ込めば注ぎ込むだけどんどん儲かる、というわけにはいきません。そのことは、当然、信用通貨の発行量に反映されるでしょう。

しかし「金回り」の基礎が、イギリスの場合のように「貿易等」すなわち外国における掠奪であったらどうでしょう。

当時の世界を前提とする限り、地球上の、イギリス本国以外の土地における掠奪機会はほぼ無限です。おかねを注ぎ込めば注ぎ込むだけどんどん儲かる。少なくともその蓋然性がきわめて高い状況です。

そして、信用通貨というものは、信用が保たれる限りは、いくらでも発行することができるのです。

ということはつまり‥‥。

そうです。イギリスの民間銀行は、このとき、「外国における掠奪」を中心とした「金回り」を信用基盤とすることで、無限におかねを発行し、無限に「掠奪」のための資金を供給することができる、という恐るべき権力を獲得した、のではないでしょうか?

(4)なぜ「貸付」なのか ー 資本としてのおかね

先ほど、おかねとは、銀行が債務を引受けることによって生み出す支払手段(交換価値)であることを確認しました。

では、彼らはなぜそれを「貸す」というやり方で世の中に流通させるのでしょうか。

前回から見て来た4種のおかねの中で、貸付によっておかねを流通させていたのは、藩札とイギリスのおかねの二つ。そして、両者の信用基盤は共通の構造を持っていました。

高松藩の場合はこう(↓)。

砂糖生産者に対する貸付 → 砂糖の生産・販売 → 砂糖売却代金(銀)の藩財政への還流

イギリスの場合はこうです(↓)。

「貿易等」に対する貸付 → 「貿易等」の成功 → 国内への富の還流

他方、同じ信用通貨でも、北宋やモンゴル帝国のおかねの流通の仕方は(おそらく)違います。

モンゴル帝国は、塩引を売却しました(代金は基本通貨である銀で支払います)。銀行が貸付けたわけではないのです。

両者の違いはどこから来るのか。おそらく、こういうことだと思います。

モンゴル帝国や中華帝国のように、国内にすでに充実した経済があり、そこから税金を徴収する仕組み(あわせて「大いなる信用基盤」と呼びましょう)が整っている国家であれば、「いつでもそれだけのカネがある」という状態(とそれに対する信用)は容易に作ることができます。

いちいち細かく「このカネはこうやってこうやって国庫に戻ってきますから大丈夫です」などと説明しなくても信用してもらえるし、実際、大抵の場合には、「いつでもそれだけのカネはある」のです。

しかし、辺境の都市国家の大名や、一介のゴールドスミス銀行に「大いなる信用基盤」はありません。

高松藩の事例は大変わかりやすい例ですが、藩の政府であっても、漠然と発行した信用通貨をうまく流通させることはできなかった。「大いなる信用基盤」がなかったからです。

そこで、高松藩が、信用基盤を確立する手立てとしたのが、「見込みのある事業に貸付けることで金回りを担保する」システムでした。

彼らに「大いなる信用基盤」はない。しかし、有望な事業に貸付けて、事業から得られた収益が還流する仕組みが確立されているなら話は別だ。それならまあ、そこそこ信用できるよね。‥‥ということで、藩札はおかねとして機能し、流通することができました。

イギリスの場合も同じで、ゴールドスミス銀行やマーチャントバンクに「大いなる信用基盤」なんかあるはずがない。しかし、彼らの元には「貿易等」で稼いだ人たちの金銀がどんどん集まっていて、一旗揚げたい事業者の資金需要も引きを切らない。目の前で、おかねが回っているのですから、いったい、何を疑う必要があるでしょう。

江戸の日本や17世紀のイギリスで生まれたおかねは、本質的に、資本としてのおかねです。その信用は「発行されたおかねが事業に使われ、量を増やして戻ってくる」という「見込み」にかかっている。

だからこそ、このおかねは「貸付」という形で発行されなければなりません。発行者が、有望な事業を見定めて貸付を行い、利子を付けて返してもらう。この循環こそが、おかねの信用の基盤なのです。

資本としてのおかねは、資本として投下され、帰ってくる見込みがある限り、いくらでも発行することができます。

そして、そのおかねは、世に出た以上、必ず量を増やして戻ってこなければならないという宿命を負っているのです。

(5)信用が終わるとき

信用通貨には「信用が失墜したら終わり」という本質的な危険性があります。北宋で、交子の信用が破綻して銭引を出し、会子を出し‥となった顛末が物語るように、信用基盤が失われたが最後、新規発行ができないだけでなく、それまで発行したすべてのおかねが紙屑となってしまうのです。

そこで、最後の問いは、「このおかねの信用はいつ終わるのか」と致しましょう。

17世紀イギリスのおかねの信用基盤は、このような循環によって成立しました(↓)。

「貿易等」に対する貸付 →「貿易等」の成功 → 国内への富の還流

江戸の大名の狭い領内の産業振興とは違い、イギリス本国の外での掠奪の機会は無限であり、その機会を狙う商人がヨーロッパ中から集まって金融業を始めたりしましたので、この循環は、あっという間に、こんな感じの循環になりました(↓)。

「貿易等」に対する大量貸付 → 全世界での掠奪 → 大量の富の還流

突然の繁栄に沸くイギリス。「大量貸付→大量掠奪→大量還流」のループを永遠に続けることができるなら、彼らの繁栄も永遠です。

これが、単なるビジネスの話でないことは明らかでしょう。「抗争と掠奪」のルールのもとで、彼らが大量掠奪のループを続けるには、競争相手との争いに勝ち続け、なるべく多くの土地と人を、彼らの「自由」の下に服従させなければならない。

競争に敗れ、世界を舞台とした大量掠奪がかなわなくなったとき、このおかねの信用は終わります。

拡大する一方の循環に「ソフトランディング」はありません。すべては一気にはじけ、うたかたとなって消えていくのです。

次回に向けて

民間の主導で生まれたイギリスのおかね。その性格は、ひとまず、このように表現しておきたいと思います。

「民間の商人が発行する、広域的掠奪の資本としてのおかね」

このおかねは、「貿易等」(外国での掠奪)に従事する人々に無限の事業資金を与え、民による無限の掠奪を可能にしました。しかし、信用を成り立たせる条件は「勝ち続けること」。負けたら一巻の終わりです。

何と凶暴で不安定なおかねが生まれてしまったことでしょう。

民間でこんなおかねが発生した場合、おそらく、近代以前の為政者なら、何らかの形で規制をかけたはずです。

領民がやたらと海外で掠奪するなんて、外国に「わが国を攻撃してください」と頼んでいるようなものですし、民間人が国家財政をはるかに超える資産を形成するのを放置すれば、いつ政権転覆の試みがなされるかもわからない。

何より、こんなおかねを基礎とした繁栄は、信用崩壊とともに一瞬で崩れ去る砂上の楼閣です。国の発展をそんな脆弱な基盤の上に築くなど、まっとうな国のやることではありません。

しかし、あいにく、17世紀のイギリスはそんな「まっとうな」国家ではなかった。

彼らは何と、その凶暴なおかねを、国家の中枢に招き入れ、新たな国づくりに乗り出していくのです。

(次回に続きます)

今日のまとめ

  • 「貿易等」の隆盛は、辺境の小都市にすぎなかったロンドンに、突然の経済的繁栄をもたらした
  • 国家は権威も信用も確立していなかったため、事業を支えるおかねの仕組みは民間主導で作られることになった
  • 一介の商人(銀行)に「大いなる信用基盤」はないので、「事業への貸付 → 事業の成功 → 還流」の金回りを信用源とする「資本としてのおかね」が生まれた
  • 「貿易等(外国での掠奪)」という無限の可能性を持つ事業が信用の基礎となったため、銀行は無限におかねを発行し、事業者は無限に掠奪を続けることができるようになった
  • 「大量貸付→大量掠奪→大量の富の(国内への)還流」というループを続ける条件は「競争に勝ち続けること」。競争に敗れ、大量掠奪が不可能になるときが、イギリスのおかねが終わるときである
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「トッド後」の近代史
(3-①)近代以前のおかねの仕組み

目次

はじめに:おかねの仕組みが問題だ

現在、私たちは、おかねがなければ生きていけない世界に暮らしています。

普通にお米を作り魚を取って近隣の住民に供給しているだけではロクに食べてもいけず、次々と新しい商品やサービスを開発し、付加価値を付け、世界のお客様に選んでいただかなくてはならない。

そんなことを続けていれば、環境への負荷は増し、いよいよ地球は住める場所でなくなる。誰もがそれを知っていて、何とかしたいと思っているにもかかわらず、です。

「何なんだ、これは?」
「どうやったらここから出られるんだろう?」

私はずっとそう思っていましたが、このたび、「トッド後の補助線」のおかげで、ついにそのカラクリがわかりました。

私が立てた仮説はこうです。

①識字化した核家族は、それまで商業や交易の手段であったおかねを「掠奪の資本としてのおかね」に変えた。

②17-18世紀のイギリスで作られたこのおかねが、私たちを「抗争と掠奪」の世界に閉じ込めている。

おかねの仕組みがポイントなので、話はそれなりにややこしいです。でも、仕組みがわかったら、そこから出る方法もわかるかもしれませんよね?

ぜひぜひ、共有させてください。

現代のおかねの基本

探究を始めるに当たっては、現代のおかねについての認識を共有しておく必要があるでしょう。

言葉に慣れていただく意味もあるので、少し(だけ)専門的な用語を使って、説明をさせていただきます。

(1)信用通貨である

現代のおかねは、いわゆる「信用通貨」です。金貨や銀貨のように、その価値が素材自体の価値に裏付けられている通貨ではなく、もっぱら発行主体などの信用に依存している通貨、という意味です。

例えば、1万円札(日本銀行券)は、紙製です。デザインや印刷に工夫が凝らされてはいますが、物自体に1万円の価値があるわけではありません。

日本政府が1万円の価値を保証していること、そして、みんながそれを信用していることによって、1万円札は1万円の交換価値を持つものとして通用しているわけです。

(2)預金がメインである

1万円札の話をした直後で申し訳ないのですが、実際のところ、私たちが使っているおかねのメインは預金です。そう、銀行口座に入っているやつです。

日本銀行(以下「日銀」)は、金融機関から経済全体に供給されている通貨(おかね)の総量を示す「マネーストック統計」を毎年作成・公表していますが、その解説の中に次のようにあります。

通貨(マネー)としてどのような金融商品を含めるかについては、国や時代によっても異なり、一義的には決まっていないが、わが国の場合対象とする通貨および通貨発行主体の範囲に応じて、M1、M2、M3、広義流動性の4つの指標を作成・公表している。

日本銀行統計調査局「マネーストック統計の解説」(2023年6月)
日本銀行調査統計局「マネーストック統計の解説」2023年6月

上の図は、4種の通貨指標の定義を示したものですが、ここでは一番狭い「M1」に注目して下さい。

M1に含まれるのは現金通貨と預金通貨。以下が大体の定義です。

M1 :現金通貨(日本銀行券+硬貨)+要求払預金(普通預金・当座預金)

ちなみに、比率でいうと、M1に占める現金の比率は約1割。残りの9割は預金です。

現代において、おかねとは、基本的に預金通貨の形で存在しているのです。

(3)おかねを発行しているのは市中銀行である

では、その預金通貨を発行するのは誰かといえば、市中銀行です。「え、そうなの?」とお思いでしょうか。

上の図の左側、「通貨発行主体」のところをご覧いただくと、「M1」の発行主体には、銀行機能を有するすべての金融機関が含まれていることがわかります。

日銀も含まれていますが、日銀が発行するのは現金だけで、預金通貨は発行しません。

つまり、預金通貨を発行しているのは、日銀以外のすべての金融機関。おおまかにいえば、市中銀行なのです。

(4)おかねは貸付によって生まれる

では、銀行はどうやって「預金通貨を発行」しているのか。あとで(次回)詳しく説明しますが、銀行は、貸付によっておかねを発行する仕組みになっています。

例えば、顧客が銀行から2000万円の住宅ローンを借りる場合、銀行は顧客の口座に2000万円の入金処理をします。そのとき、銀行は、2000万円の預金通貨を発行しているのです。

銀行は預金者から預かったおかねを貸していると思っている方がいらっしゃると思います(私もずっとそう思っていました)。

たしかに銀行の主な業務は、預金の受入れと資金の貸付けですが(銀行法2条2項参照)、しかし、銀行の貸付の総額が、保有する預金の金額に拘束されるということはありません。両者はまったく無関係なのです。

現在の日本では、銀行の貸付額には、銀行の経営の健全性を担保するという観点から、上限が定められています(専門家の説明を引用します↓)。しかし、そのような規制が必要なのは、銀行が実際上「無から有を産むことができる」からこそなのです。

然らば、次に、こうした市中銀行による、無から有を産むが如き信用創造は無限なのか。答えはノー。有限なのである。

‥‥市中銀行は、先に述べたように法令によって、自己の与信行動による資産総額(J)の膨張を、自己資本(M)の一定倍(現行の規定ではJ/M≦12•5倍、海外業務のない向きは25倍。それぞれ前記自己比率規制値8%、4%の逆数)までに留めるべきものと定められている。

これは、経済循環の血液たる通貨を創造・供給・媒介するという、特殊の権能を与えられた銀行(その他あらゆる信用創造機構)に課せられた、金融行政上の究極の存立規範とでも言うべきものであ‥‥る。

横山昭雄『真説 経済・金融の仕組み』(日本評論社、2015年)105頁

(5)現代のおかね(まとめ)

「なんか変!」

変でしょう?

でも、この仕組みこそが、現代のおかねが、17-18世紀のイギリスに由来することの証しなのです。いったい、何がどうするとこうなって、これにどんな意味があるのか。

探究を始めましょう。

官の信用に基づくおかね:中国の場合 

(1)おかねの見方

今回の基本テーマは、「識字化した核家族は、おかねの仕組みをどのように変えたのか?」ですので、「近代」以前のおかね(信用通貨)の事例をいくつか確認していきたいと思います。

信用に基づいて支払手段として用いられる媒体のことを「信用通貨」と呼ぶとすると、信用通貨そのものは、商業の発祥と同じ程度に古くから(つまりメソポタミア文明の初期の頃から)用いられていたと考えられます。

日頃の商売を通じてそれなりの信用を培っている商人同士の間では、信用取引(ツケ払いとか)が行われるのが普通です。というか、行われないことの方が珍しい。そして、その証拠として交わされる媒体が、一定の範囲内の商人間で支払手段として通用するのも、かなり普遍的に見られる事象なのです。

その媒体は、限定的な、「知り合いの知り合いの知り合い」くらいの関係性の中で通用する、私的な信用通貨といえるでしょう。

しかし、信用通貨を、より広く、不特定多数人の間で流通させようとすると、実現はがぜん難しくなります。

だって、紙切れ一枚に、金貨や銀貨と同じ価値があるなんていわれたって、そうやすやすと信用できませんでしょう?

というわけなので、信用通貨には、必ず、それを通貨として成り立たせる信用源が存在します。

そして、その信用源、つまり、誰の、どういうタイプの信用によって成り立っているのかを特定できると、どうも、そのおかねの性格がわかるようなのです。

ちょっと、やってみましょうか。

(2)北宋の紙幣:交子

政府やそれに類する機関が、その公的信用を基礎として発行・通用させた信用通貨(紙幣)に限ると、「世界初」は11世紀初頭の中国(北宋)である、とするのが一般的です。

10世紀末の蜀地方(四川省)では、商人たちの組合が「交子」と呼ばれる私的な信用通貨を発行・使用していた。

貨幣は量が増えると持ち運びが困難なので、預金サービスが生まれます

やがて、組合は、政府の認可を受けて(蜀での)交子発行を独占し、その信用力から、蜀の交子は他の地域の類似の手形を圧倒する通用力を持つようになったのですが、準備不足で不払いを起こし、あえなく破綻(wiki)。

この交子発行の事業を、北宋の政府が引き継ぐこととなり、ここに初めて、公的な信用に基づく、本物のおかねとしての紙幣が誕生したのです(1023年)。

北宋の交子(額面77000銭)

紙幣は本来銭との交換を前提に発行されたわけだが、信用や権威を背景にすれば、引き替える銭がなくても流通させることができる。国家財政が窮迫してくると、政府がこの利点に目をつけないわけはなく、政府発行の紙幣が現れるのは、当然のなりゆきだった。

東野治之『貨幣の日本史』(朝日新書、1997年)89-90頁

北宋政府は、交子の発行を官業とし、民間の発行を禁止することで、政府の信用に基づく紙幣としての性格を明確にします。

その上で、36万貫の準備金に対し発行限度額を125万余貫と定めて、財政規律を保とうとしたようです。

実際には、戦費の必要性などから濫発気味になって「兌換停止→信用崩壊」の道を辿り、改めて交子に代わる「銭引」という紙幣を出し、その信用が低下したらまた別の紙幣(会子)を出し‥‥といった試行錯誤もあったようですが、そこを含めて、「官」(政府)が責任を持とうとする中国のおかねのあり方は、日本のわれわれから見ると、いたって常識的といえるでしょう。

(3)官の信用に基づく、商業活動を支えるおかね

では、北宋の信用通貨「交子」は、いかなる信用構造で成り立っていたのか。

宋代は、中央集権が強まった時代で、経済的繁栄も著しかったとされています。米を中心とした農業生産力の向上、商業=都市の発達、地域間の流通や貿易の活発化で経済は活況を呈し、国家は、農業など各種生産に対する税金、塩や茶の専売、商税を通じて税収を確保した。

つまり、交子の信用は、政府の権威と、国全体の経済力に裏打ちされた経済的信用に基づくものだったと見ることができるでしょう。

交子(紙幣)が必要とされるようになったのは、その由来(商人組合発行の私的信用通貨)が物語るように、商業活動が活性化する中で、貨幣が足りなくなったか、あるいは高額の取引が増えて貨幣では不便になったといった事情によるものと考えられます。

交子というおかねは、どういう性格のおかねであったか。このように表現してみたいと思います。

官の権威と信用(=国の経済力)に基づく、国の商業活動を支えるためのおかね

世界通商帝国のおかねーモンゴル帝国の場合

つぎは13世紀、モンゴル帝国の事例です。

モンゴル帝国の中興の祖、クビライ(1215-1294)は、商業の振興を重視したことで知られており、彼らが構築したおかねの仕組みは、モンゴル帝国の通商政策と大いに関わっています。イギリス帝国のあり方との違いをイメージしていただくために、少し詳しめにご紹介させていただきます。

(1)クビライの国家構想

杉山正明先生は、帝位継承戦争(1260-1264)を制したクビライが単独の皇帝の地位に着いた後のモンゴル国家を「第二の創業」期と表現します。

チンギスの国家草創を第一の創業とすれば、これはまさに、第二の創業とよぶにふさわしい根本からの変容であった。

杉山・149頁

クビライは、広大な帝国の領土を維持し、領民から永続的に承認を受け続けるためには、軍事力による威嚇だけでは足りないことに気づいていて、もう一つ、何かが必要だと考えていたといいます。反対勢力を含む全モンゴルに皇帝の権力を承認させ続けるための、別の力。

それは、富であった。モンゴルの大カアン〔皇帝〕は、モンゴル共同体の人びとに安寧と繁栄をもたらすからこそ、ゆいいつ絶対の権力者としてえらばれる余人では不可能な富を、かれらにあたえつづける仕組みをつくりだせばよいのであった。そうすれば、すべてのモンゴル成員たちは、クビライとその血脈の権力をモンゴル大カアンとして、いただきつづける。

杉山正明『クビライの挑戦』(講談社学術文庫、2010年)147頁

クビライとそのブレインたちは、政権発足当初から、そのための構想を抱いていた。杉山先生によれば、こうです。

ここに、クビライ新国家の基本構想は、草原の軍事力、中華の経済力、そしてムスリムの商業力というユーラシア史を貫く三つの歴史伝統のうえに立ち、その三者を融合するものとなった。クビライ政権は、草原の軍事力の優位を支配の根源として保持しつつ、中華帝国の行政パターンを一部導入して中華世界を富の根源として管理する。そして、ムスリム商業網を利用しつつ、国家主導による超大型の通商・流通をつくりだす

とうぜん、草原と中華を組みあわせる軍事・政治体制が必要である。政治権力と物流システムのかなめとなる巨大都市が必要である。その巨大都市を発着・終着の地とする交通・運輸・移動の網目状組織が必要である。

そのうえで、大カアン〔皇帝〕はすべての構成要素をとりしきるかなめにいて、軍事・政治・行政・経済の要点をおさえ、物流・通商に課税して国家財政を充実させるその収入から賜与というかたちのものをモンゴルたちにわけあたえ、モンゴル連合体を維持する柱とするその賜与は、おそらくその多くが、ふたたびムスリム商業資本をつうじて、物流・通商活動に投入され、モンゴル全域でいっそうの経済活動の活性化をもたらす。こういう図式であった。

こうであれば、モンゴル国家そのものや、さらにその属領が、たとえいかに、さまざまなレヴェルの分権勢力によって細分され、モザイク状になっていても、物流と通商は、そうした分有体制をのりこえてしまうのである。そして、富の根源と流通のシステムをにぎった大カアンは、かつてない巨大な富の所有者となり、帝国の分立はのりこえられてしまうのである。それが、クビライとそのブレインたちが構想した大統合のプランであった。

杉山・148–149頁

ふうむ、なるほど。こうやって生まれたのが、第1回で見た「共存共栄」の世界通商圏だったのですね。

この構想において、特徴的なのは、非常にグローバルな自由貿易圏の構想でありながら、富の流れの源泉は、あくまでも国家=皇帝であるという点です。

世界に中心にいるのは皇帝である。その皇帝は、まず国家財政を充実させて、それを分け与える形で富を流通させ、そのことで、経済活動を活性化する。そのようなシステムが考えられているのです。

では、この「国家主導のグローバル自由貿易圏」のために、彼らは、どのようなおかねの仕組みを生み出したのか。

(2)モンゴルのおかね

①基軸通貨:銀

超大型の通商・流通を作り出すことで、帝国を豊かさで満たし続けることを構想した彼らにとって、何よりも必要なものは、決済において共通の価値基準を提供する財貨です。モンゴルは、を選び、その全領域で銀を用いた徴税・財政体制をとりました。

モンゴルが覇権を取った13世紀までにはすでに、銀はユーラシア大陸のほぼ全域で国際通貨(外国との決済手段)として使われていましたから、彼らの選択は、まあ、普通です。

彼らが普通でなかったのは、この銀を、徹底して、国を安定させ、かつ、豊かにするための道具として用いたことかもしれません。

クビライと彼のブレインは、銀が以下のような流れで帝国内外を循環するように仕組みました。

1️⃣中央政府:まず、中央政府は、塩の専売と税金により国庫に銀を集めます(中央政府の収入の80%以上は塩の専売による利潤)。

2️⃣モンゴル帝室・王族・貴族:皇帝はこうして集めた銀を政府の事業(交通・運輸網の整備・維持・管理など)に用いるとともに、王族や貴族に「賜与」として分け与えます。毎年正月に与えられる「定例賜与」が総額で5000錠(銀10トン)、これ以外にさまざまな臨時の賜与があり、その総額は定例賜与の総額をはるかに上回ることが多かったそうです。

3️⃣オルトク:多額の賜与によって莫大な銀の所有者となった王族・貴族たちは、その銀を「オルトク」というムスリム商人などが作る会社組織に貸し与えます。

4️⃣帝国内外の村々、人々:王族・貴族から銀の融資を受けたオルトクは、各地に出かけていって、商売、貿易、その他ありとあらゆる事業を営みました。その結果、帝国内外の隅々に銀使用の習慣が行き渡り、「銀立て経済圏」が作られていった。

モンゴルとそれにかかわる人たちは、軍人・商人・旅人など、立場はさまざまだが、江西、湖南、四川、雲南、鬼国、広西、ティベトなどの山の奥、谷あい、山のひだまでわけいっていった。

こうした人々のなかでも、とくに、オルトクたちは、そうであった。文献上、ヴェトナムにも、大型のオルトクがはやくから入り込んでいた明証がある。しかも、モンゴル軍団の進攻よりやや先立つ時期である。経済が、政治や軍事に先行している一例である。

そうした軍人や商人をつうじて、「銀使用」「銀だて経済」は、それまで「文明世界」からとりのこされてきたような人々、村々にまで、ともかく到達した。‥‥

クビライと大都を中心とする巨大な「人」と「もの」のサーキュレイションも、じつは銀のサーキュレイションであったといってもさしつかえない。こうした状況が、クビライの大元ウルスを中心に、程度の差こそあれ、モンゴルの全領域で展開したのである。

杉山・234頁

皇帝は、1️⃣塩の専売と税金(つまり、国内の資源と経済活動から得られる富)によって国庫に銀を集め、2️⃣銀の賜与によって国家や属領を支配する王族・貴族の忠誠を保ち、3️⃣彼らからの貸与を通じてオルトクの経済活動を支援・促進することで、4️⃣帝国の隅々にまで、文明と富を循環させる。

帝国内の通貨である銀は、すでに国際通貨でもありますから、その循環の輪は、帝国の外にまで広がっていきます。

クビライと大都を中心に、銀はめぐる。モンゴル帝国ばかりでなく、ユーラシア大陸もまた、めぐる銀とともに、見えない手でゆっくりと、しかし確実に、むすびつけられていった。そして、それは世界がひとつの経済構造につつまれるはるかなる近現代という名の後世へむけて、巨大な歴史のあゆみが誰にも気づかれることなく静かにスタートをきっていたことを意味する。

杉山・235–236頁

②信用通貨(紙幣)としての塩引

基本通貨は銀とされましたが、必要な流通量に対して、銀の絶対量は不足しがちであったとされます。モンゴルで、紙幣は(持ち運びのしやすさにより)遠隔地貿易を助けるため、そして、銀を補うためにも必要でした。

モンゴルの紙幣というと「交鈔(こうしょう)」が有名だそうで、たしかに、クビライは、即位した1260年(中統元年)に「中統元宝交鈔」(略して「中統鈔」)という紙幣を発行しています(↓)。

新疆トルファン地区で発見された『中通元宝鈔』の写本

しかし、これは少額通貨であって、オルトクの遠隔地交易に役立てられるようなものではなかった。

本当に銀と同等の価値を持つものとして用いられたのは、塩引(えんいん)。つまり、塩を専売制としていたモンゴルで、中央政府が発行した塩の引換券です。

中国で、塩はとても高価だったので(歴代政権が価格を吊り上げた結果ですが)、塩引にはもともと「高価な塩と交換できる有価証券」という性質が備わっています。クビライは、その塩引に「中統鈔」の額面金額を記載し、政府がその価値を保証する紙幣という性格を同時に持たせることで、非常に信用度の高いおかね(高額紙幣)として通用させることに成功したわけです。

杉山正明『クビライの挑戦』249頁から転載

(3)皇帝の権威と信用に基づく、富を行き渡らせるためのおかね

モンゴル帝国のおかねについて、要点をまとめましょう。

  • 商業の促進により帝国を富で満たすことを構想し、国家主導で巨大な通商・流通網を整備。その一環として通貨システムが構築された。
  • グローバル通商網を循環する富の源泉は、皇帝が国内の経済活動を基礎に構築した国家財政にあった。
  • すでに国際通貨として(事実上)機能していたを帝国の基本通貨とし、銀は帝国の内外で通用する基軸通貨となった。
  • 帝国政府が発行する塩引に紙幣としての機能を持たせることで、信用度の高い紙幣を実現し、帝国内外におけるおかねの流通を促進した。
  • 銀は、主に塩の売却益として中央政府が稼いだ銀が、王族・貴族に賜与され、賜与されたものがオルトクに融資されるという流れで供給され、オルトクによる商業活動を通じて、帝国の隅々に行き渡った。

では、モンゴル帝国で流通した高額信用通貨、塩引とは、どのような性格のおかねであったか。こんな感じでいかがでしょうか。

「皇帝の権威と信用に基づく、広域的商業の促進により富を帝国内外に広く行き渡らせるためのおかね」

産業振興のためのおかね:江戸日本の信用貨幣

「近代」以前の例として、最後に、江戸時代の日本を取り上げたいと思います。

中国、モンゴル帝国のような巨大文明の中心地とは異なる、辺境の、直系家族のおかねの一例です。

(1)江戸のおかね

直系家族が作る国家の基本型は都市国家です。日本の場合、中国の影響で成立した天皇制のおかげで比較的容易に統一できたというのが私の仮説ですが、それでも、江戸期の幕藩体制は、いわゆる中央集権国家とは違います。

中央の地方に対する統制力、そして、官の民に対する統制力は、いずれもさほど強固ではない。しかし、中央も地方も、官も民も、それぞれが周りに配慮して行動する結果、全体としてはそれなりに秩序立ったまとまりが形成されるという、そういうあり方です。

そのことは、おかねの仕組みにもよく表れているといえます。

徳川家康は、政権掌握後まもなく、統一的な貨幣制度の樹立を目指して金貨、銀貨を発行し、慶長貨幣法(1608年)を制定して、金貨・銀貨・銭の比価を定めました。貨幣(金属貨幣)については、幕府が独占的に供給・管理することを明確にしたわけです。

他方、それ以外の信用通貨(紙幣、手形など)については、幕府が独占権を主張することはなく、基本的には、室町時代から引き継いだあり方がそのまま温存されます。

室町時代から織豊時代にかけて、市場経済の進展に合わせ、信用貨幣は、大名、旗本、宮家、公家、神社、諸団体(町村の行政機構、村落の連合組織、同業者の組織)、商人など、様々な主体によって供給され、それぞれの地域および人的関係の中で流通していました。そのあり方が、そのまま続けられたわけです。

とはいえ、幕府は、信用貨幣の流通を全く無関心に放置していたというわけではありません。藩札(藩が発行する紙幣)を許可制としていたことに見られるように、「必要があれば介入する」というのが基本姿勢であったようです。

江戸期の初頭から、金銀銅を産出する大名領国では鋳貨を発行したり、札遣いが見られた所領もあり、領主は自領における貨幣の流通について相対的独立性を保持していたと考えられる。相対的としたのは、こうした権限が無条件で認められたわけではないからである。

制約の要点は二つである。第一に、幕府の貨幣(鋳貨)はその他の貨幣に優越すること、幕府貨幣の流通を妨げない限り札遣いも許容されているのである。

第二に、札の越境などによって他領の貨幣流通を侵犯しない限り、すなわち領主間の争いを惹起しない限り、幕府の許可を得て札遣いが実施される

幕府だけが貨幣発行権限を独占しているかに見える背景に分け入れば、このような幕府と藩の了解があったと考えられる。

安国良一「藩札発行における領主の機能」鎮目雅人編『信用貨幣の生成と展開』(慶應義塾大学出版会、2020年)175-176頁
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/

(2)藩札の運用

本で紹介されている藩札の運用状況を見ると、限られた地域であっても、信用貨幣を成立させ、安定的に流通させることは、そう簡単ではないのだということがよくわかります。

藩札は多くの藩で発行されましたが、実態を調査してみると、長期に渡って価値の安定を保ち、順調に流通させていた藩の数は決して多くはなかったそうで、18世紀(1730年以後)についてみると、10年以上札価をさほど下げることなく流通できた藩は8藩にすぎません。

19世紀に入っても、藩札を安定的に流通させていた藩が少数であることに違いはないのですが、それでも、その数は24藩に増えるのです。

18世紀の失敗の典型は、1️⃣発行したが流通が振るわない、2️⃣流通したが過剰発行により信用が停止して流通停止に追い込まれる、の2パターンでした。

藩は「札を刷ればおかねが作れるの?」と思って作ってみるのですが、単に「おかねが足りない」という理由で作ってみても、そもそも信用が得られずに流通しなかったり(1️⃣)、「作りすぎじゃね?」ということで信用が揺らぎ、取付騒ぎが起きたりしてしまう(2️⃣)。

各藩はどうやってこれを克服したのでしょうか。

(3)高松藩の事例

高松藩は、18世紀の「8藩」、19世紀の「24藩」(かつ岩橋先生のいう「12藩」)のすべてに含まれていますが、18世紀には失敗もありました。

高松藩は、18世紀末までに「讃岐三白」と呼ばれる塩・綿・砂糖(うどんは入っていません)の生産を奨励する経済政策を取っていて、藩札の発行を生産者への融資のために用いていました。

しかし、当初は、藩札の貸付を対生産者に限定せず、単に窮乏した藩士に貸付けて信用を損ねたり、生産者に事業資金として貸付けた場合も、産物の販売代金として回収できた銀を準備に回さず江戸での藩費用に使ってしまったりして、藩札の安定を損ないました。

こうして、彼らは、藩札の信用を維持するには、1️⃣有望な事業(この場合は「讃岐三白」の生産)に対して貸付けること、2️⃣事業の成功で得られた資金を還流させることが必要であることを学びます。

19世紀の高松藩は、藩札発行を専売制に結び付けることで、これを実現しました。

(例えば)「砂糖為替」を事業者に貸付け、藩は生産された砂糖を受け取って独占的に(主に大坂で)販売し、その代金(銀)を準備として藩の財政に組み込む、という形を取って、貸付から還流までの流れを構築したのです。

高松では現在も砂糖が栽培されているそうです(https://yukui-sanshin.com/gourmet/sugarcane/

(4)産業振興の資本としてのおかね

藩札は、一応、藩政府が発行しているおかねなので、官が面倒を見ているおかねであるとはいえます。

しかし、藩の政府に、藩札の通用性を支えるだけの権威と信用がなかったことは明らかといえるでしょう。宋の皇帝やクビライのように、強大な権威と十分な富(経済力)によって、単純に信用通貨を流通させることはできなかったのです。

そこで、各藩は、産業振興と結びつけることで、信用通貨を成り立たせる仕組みを編み出したわけですが、この事実をどう理解したらよいのか。

私はこう考えます。ここに発生しているのは「資本としてのおかね」ではないでしょうか?

高松藩は、砂糖栽培の資本金として「砂糖為替」を貸付け、砂糖を販売した代金を藩の財政(準備銀)に還流するという流れを構築することで、藩札(砂糖為替)の信用を確立しました。

これって、現代の銀行が発行しているおかねと同じですよね? 銀行は、有望な事業計画を持つ企業に対して融資を行い、融資したおかねは事業の成功によって銀行に戻ってくる。

銀行は、決して、皇帝の権威や帝国の財力を持っているわけではありません。しかし「有望な事業に対する融資→事業の成功→還流」という流れを構築することによって、信用を成立させているのです。

このおかねは、皇帝の下に集まる富を(交易の促進によって)帝国全体に行き渡らせるためのおかね(モンゴル世界帝国のおかね)や、すでに豊かな国の商業を支えるためのおかね(宋のおかね)とは、少し性格が違います。

このおかねは、資本として用いられることを前提として初めて交換手段として成立するおかね、つまり、資本としてのおかねなのです。

江戸後期の各藩は、藩札を、地域の産業振興の資本として用いることによって成立させ、これを非常に堅実な経済成長の手段として用いました。

高松藩などで流通した藩札。このおかねの性格は、「官が旗を振る、領内の産業振興の資本としてのおかね」としておきたいと思います。

次回に向けて

「近代」以前の事例として挙げた3例のおかね(信用通貨)は、すべて、国家(官)が発行しています。

それぞれに、比較的堅実な信用基盤があり、有用で、サステナビリティも高い。また、全体のおかねの仕組みは、個々の信用通貨を包み込む形で別途存在し、仮にその信用通貨が破綻したとしても、通貨システム全体が脅かされることはありません。その意味でも、安定感のあるおかねの体系であるといってよいでしょう。

では、識字化した核家族はどんなおかねを作ったのか。彼らは、期待を裏切りません。17-18世紀にイギリスが作り上げ、19世紀以降の世界を席巻したのは、これらとは全く違う「⁉️」というおかねなのです。

乞うご期待!

(次回に続く)

今日のまとめ

  • 現代のおかねの仕組みは、17-18世紀のイギリスで生まれた独特のものである
  • 近代以前にも信用通貨が公的な地位を占めることはあったが、金属貨幣や銀を基礎とする通貨体系の中で「サブ」として使われただけだった
  • 近代以前のおかね(信用通貨)は、国が自らの責任で(自らの権威と自ら成り立たせる信用に基づいて)、国の経済を支えるために発行するのが通例だった
  • 識字化した核家族が作る信用通貨はこれとは全く違う「⁉️」な性格のものである
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トッド入門講座

「トッド後」の近代史
(2-②)イギリス帝国のふるまいと経済

目次

インド洋でのイギリス

時代は再び1600年前後に戻ります。

イギリスが持っていたものは、毛織物、そして主にスペイン経由でヨーロッパに入ってくる新大陸の銀。

当時、アジアからの物産の購入に充てるためには、イングランド産の毛織物(従来の厚手に代わる薄手の新毛織物)はまったく輸出品として役に立たず、新大陸からヨーロッパにもたらされる銀塊を交換手段とするしか方策がなかった。

秋田・26-27頁

アジアの海に進出したイギリスが当初「欲しい」と思っていたのは香辛料で、イギリス東インド会社(1600年設立)は、まずは東南アジアの香辛料貿易への参入を狙います。しかし、オランダとの抗争に敗れて断念。

彼らが代わりに目をつけたのが、南アジアのインド亜大陸のベンガルや南インド地方で生産されていた薄手のキャラコやモスリンであった。

秋田・67頁

ここから、イギリスのアジアにおける「商業革命」が始まります。あまり気が進まない方もいると思いますけど‥‥

元気を出して!
再び、お手並みを見せてもらいましょう。

現地支配者の好意で拠点を確保し、綿織物を仕入れる

イギリス東インド会社が、初めて西北インド(グジャラート州のスーラト)に船を送ったのは1608年。

ガマの航海から約100年。ヨーロッパ人の間でも、現地の商取引事情はかなり知られるようになっていたので、彼らはいきなり大砲を放つようなことはなく、平静に現地の支配者との交渉を試みました。

これは100年前のガマにぜひ教えてあげたいことなのですが、礼儀正しく交渉にいくと、現地の人たちは、すごく良くしてくれるのです。

グジャラートはボンベイのさらに北です

東インド会社は、まず、ムガール帝国の皇帝(ジャハンギール)から、スーラトを拠点に貿易を行う許可をもらいました。条件は、会社にとってかなり有利なものであったようです。

ジャハンギール(在位1605-1627)

1611年には、やはり現地の支配者の許可を得て、マスリパトナム(マドラスの少し北)に商館を設置。

1639年、今度は地元の領主から招かれて、マドラスを新たな拠点と定めました。

この地方領主は、招聘にあたってイギリス東インド会社に一定の土地を貸し与え、そこに要塞を築くことを認めた。

また、イギリス東インド会社のマドラスでの貿易については関税を免除し、イギリス東インド会社以外の商人が貿易を行う際にかかる関税収入の半額を会社に与えることとした。

これは、イギリス東インド会社にとっては願ってもない破格の条件である。

ポルトガル人がゴアを、またオランダ人がバタヴィアを、力ずくで奪ったのとは異なり、彼らは地元の領主に請われて、平和裡に亜大陸に橋頭堡を築くことができたのである。

羽田・101頁(改行しました)

イギリス東インド会社に「破格」の好条件での貿易を認めたこの地方領主が、「共存共栄の自由貿易圏」の住人であることは、間違いないでしょう。

イギリス人であっても、キリスト教徒であっても関係ない。ただ「この人たちとはよい取引ができそうだ」「これで地域は潤うだろう」と、そう思ったから、特権の下での貿易を認めたのです。

ともかく、こうしてインドに貿易拠点を確保した東インド会社が、商品として手に入れたのは、インド産の綿織物でした。

1613年に東インド会社が綿織物を初めてイギリス本国に輸入して以後、インドの綿織物はイギリスのあらゆる階層の間で大人気となり、17世紀後半から18世紀初頭には全輸入額の70%を占める超主力商品に成長していきます。

インド財政(税金、賄賂、その他)

(1)フランスとの戦争:植民地化開始

イギリス東インド会社は、1709年の組織再編で、ボンベイ、マドラス、ベンガルの3地点に管区を形成する体制を確立しました(上の地図を参照)。

ちょうどその頃、一足遅れのフランスが、フランス東インド会社を作ってインドに進出(拠点はボンディシェリ(上の地図を参照))。どこでも争っているイギリスとフランスはここでも抗争状態に入り、両者は他人の土地であるインドで、派手に戦争を繰り広げるのです。

https://the-new-era.fandom.com/wiki/Carnatic_Wars

この三次にわたったカーナティック戦争は、‥‥基本的にはイギリスとフランスとの争いであったが、在地勢力をも巻き込んでインドの地で行われ、その過程で、インドの諸勢力に対するヨーロッパの軍事力の優秀さが立証されることになったのであった。これは、続いて起こる軍事力によるインド植民地化の第一歩としての意味を持っていた

辛島・136-137頁

(2)インドの現地勢力との戦争:なぜか領主となる東インド会社

これに勝利したイギリス東インド会社は、インドでの商売をさらに活発化させ、現地の(インド人の)支配層と衝突。再び戦争が始まります。

有名なプラッシーの戦い(1757年)はその一つで、イギリス東インド会社がベンガルの政治権力と戦って勝利。

その結果、イギリス東インド会社は、ベンガル太守に傀儡を立て、実際上、ベンガルの領主になってしまうのです(民間企業なのに!)。

傀儡領主となったミール・ジャーファル(左) 右は息子
勝利の立役者 ロバート・クライヴ

もはや彼らを単なる貿易商人と考えてはいけない。彼らはインドの領主なのだ。

東インド会社軍を率いたロバート・クライヴの友人(1758年)(羽田・310頁)

東インド会社が現地勢力を破りインドの領主となる際の立役者であったロバート・クライヴは、さらにムガール皇帝にインドの徴税権(ディーワーニー)を割譲させ、次のように語っています。

純益は165万ポンドにのぼります。インドでの輸出用商品と中国の特産品をすべて購入し、インドの他地域の商館の要求に応えた上で、なお相当の残りがでる額です。

普通東インドで貿易を行う人々は商品を購入するために銀を持ってきます。ディーワーニーの獲得によって、この銀の運搬はイギリス東インド会社にとって不要となりました。1ピアストル銀貨さえも送ることなく、我々の投資は実行され、行政と軍事の費用は支払われ、多くの銀が中国へ送られます。ディーワーニーの獲得以来、ナワーブ〔太守〕に属していた権力はすべて東インド会社に移り、ナワーブには名目的な権威だけしか残っていません。

羽田・315頁

(3)インド財政からの私的収奪

インドの徴税権は、長期的には、イギリスの財政を支えていくことになるのですが、当面のイギリス東インド会社にとってはかえって重荷となり、会社の財務状況は顕著に悪化、破産寸前までいきました。

しかし、それにもかかわらず、東インド会社によるインドの政治的支配の拡大は、インドからイギリスへの大量の資金流入をもたらし、イギリスの経済を大いに活性化するのです。

なぜか。それは、東インド会社の社員や軍人などの関係者が、各種利権をフルに活用して巨額の資産を築き、本国に持ち帰ったからです。

クライヴはその代表格で、彼が自己の取り分としてインドからヨーロッパに送金した手形の総額は、わかっているだけで31万7000ポンドに達しています。

18世紀後半にベンガルからイギリス本国に送金された個人資産の総額は、約1800万ポンド(うち1500万ポンドは1757年以降)。

インドからの私的な資産の送金額は、年平均に換算すると約50万ポンド。その額は、ジャマイカ島の砂糖プランテーション経営者(不在地主)の年間収益(約20万ポンド/1773年)を大きく上回ります。

インド財政からの収奪という形で、東インド会社の関係者は、これだけの金額を稼ぐことができたのです。

◼️  イギリス東インド会社とは何か?

イギリス東インド会社は、民間企業である。イギリス国王によって(イギリスの)インド貿易の独占権を与えられてはいたが、1858年にインド統治権をイギリス国王に譲り渡し、1874年に解散するまで、私企業であったことに違いはない。

その私企業が、インド領主の地位を(事実上)得て、徴税権まで取得したというのは不思議な感じがするが、当時のイギリスでの受け止めは普通に好意的なものだったという(クライヴがのちにイギリス国内での批判にさらされるのは、本文で書いたように、彼が個人として「いささか常軌を逸する財産形成」(羽田・310頁)を行っていたためであり、インドを支配したからではない)。

先ほど、西インド諸島の砂糖プランテーション経営者を「IT長者」に準えたが、東インド会社もまさにそれで、とくに寡占が進んだ段階でのAppleとかGoogleみたいなものと考えるとよいと思う。

民間企業としてはいささか不穏当なほどの権力を持ち、やがては国の中枢にくい込み、政府と協力関係に立つ(目立った行き過ぎがあれば規制がかかることもある)。関係者は莫大な資産を築き、個人的にも大きな社会的影響力を持つ(クライヴは個人としてもインドの地方領主の地位を得ていた)。そんな存在である。

なぜイギリスやアメリカからつねにこのような存在が生まれるのか、という点については、いつかどこかで考察することになると思う。

インド支配の手法と方針

イギリス東インド会社の活動を通じてベンガルの領主となり、インド全土に支配権を広げていくイギリス。彼らはどうやって支配を拡大し、どんな風に統治をしたのでしょうか。

(1)軍事保護同盟による支配領域の拡大

プラッシーの戦い以後、支配領域をインド全土に広げていく過程でイギリスが用いた手法は主に二つ。一つは直接的な軍事力の行使、もう一つは軍事保護同盟の締結です。

軍事保護同盟とは、通常その国を軍事的に保護することを名目に、イギリスが軍隊および駐在官を駐留させ、その国が費用を負担する関係をいう。被保護国は、他国との関係についてイギリスの承認なしには何の交渉も成しえず、外交権の喪失を意味していた。また、イギリスは、しばしば内政に干渉し、巨額の軍事費を要求し、やがて条約を結んだ国は経済的に破綻し、ついにはイギリスに領土を割譲せざるをえなくなることが多かった

18世紀末から、イギリスは、このような条約を多くの勢力と結んだが、その最初が1798年のハイダラーバードであった。

辛島・141頁

軍事的保護を名目に(費用は相手持ちで)軍隊と駐在官を駐留させて、経済・外交政策の自律性を奪う。それは、第二次世界大戦後のアメリカが盛んに用いている方法ですが、イギリスが始めたことなのですね。

「軍事力を提供する以上、見返りを求めるのは当然」という、民間企業らしい発想から生まれたやり方のようですが(羽田・312頁)、ともかく、文中のハイダラーバードの政権は領地の割譲を強いられ(1800年)、アワドの王国は軍事同盟を結び(1801年)、カーナティックの太守はマイソール王国の王との内通を理由に領土を奪われ‥‥といった具合に、インド各地の勢力は、次々に、主権と領土を失っていったのです。

(2)イギリスのためだけのインド統治

東インド会社がひたすらに商売上の利益の追求した結果、成り行きでインドを統治することとなったイギリスです。

それでも19世紀前半までは、当時流行の「自由・平等・博愛」(フランス革命)の精神で「インドのためにインド社会を改良しよう」という動きが起きたこともあったようです。

しかし、1857-58年のインド大反乱を契機として、イギリス政府は腹を決めます。

すなわち、イギリスは、この反乱をきっかけに、インドを自国の経済発展の道具としてのみ利用する政策を明確にしたのであった。

辛島・159頁

イギリスは、現地社会に存在する様々な相違(地域、宗教、カーストなど)間の対立を煽る「分割統治」に専念し、「進歩的」政策も放棄して、ただひたすら、自国の利益に奉仕するべき存在として、インドを利用していくのです。

イギリス人が描いたインド大反乱(反乱を鎮圧している様子だろう)

中国とインド(紅茶とアヘン)

インド洋におけるイギリスのふるまいを検証するのに欠かせないのは、紅茶です。

東インド会社が本格的に紅茶の輸入を始めたのは1678年。紅茶の輸入量は、会社が広州に拠点を置いた1713年以降に大幅に増え、1760年には、インド綿を抑えて、イギリスの輸入に占めるシェアのトップに躍り出ます(総輸入額の40%)。

当時、イギリス本国の製品(毛織物など)は中国でも全く人気がなかったので、イギリスは、銀と引き換えにお茶を買っていました。つまり、イギリスで紅茶の人気が高まり、紅茶を輸入すればするほど、イギリス国内から中国に銀が流出していくという構造です。

紅茶は欲しい。もっともっと欲しい。しかし、当時の銀(や金)は基軸通貨ですから、流出する一方では困ります。

そこで、イギリス東インド会社は、インド産の商品の中から、中国で売れる商品を見繕って、それと交換に紅茶を手にいれるという方法を編み出します。「中国で売れる商品」とは何かというと、綿花、そして何より、アヘンです。

上の図をご覧いただくと、まず1825年から1850年の間に中国へのアヘン輸出が激増していることがわかります。そのとき、アヘン戦争(1840-42)が起きました。

アヘン戦争は、大まかにいうと、再三のアヘン輸入停止要請に応じないイギリスに怒った中国が強硬措置(商館閉鎖、貿易停止、アヘンの押収・焼却)を取ったのに対し、逆ギレした体で、イギリスが仕掛けた戦争です。

イギリスはこれに勝利して、上海など5港の開港、香港島の割譲、5港の治外法権、固定低関税(関税自主権の放棄)、片務的最恵国待遇などの不平等条約を結びます。

結局のところ、アヘン戦争は、中国を、「イギリスのために奉仕する市場」に作り変えるための侵略戦争だったのですね。

なお、銀の流出を回避するためにイギリスが編み出したこの取引手法は、「アジア三角貿易」と呼ばれます。

しかし、1850年までのイギリスー中国間の「貿易」を見ると、イギリスは、嫌がる中国にアヘンを押し付けて、その対価として紅茶を手に入れているだけです。強盗や恐喝‥とまではいえないかもしれませんが、少なくとも、真っ当な商売ではありません。

また、19世紀末になると、イギリスから中国への綿製品の輸出が激増しています。これは、いわゆる「産業革命」によるものなのですが‥‥。

これが何を意味するものなのか。インドのケースと合わせて、次章で検討したいと思います。

イギリス経済の飛躍ー産業革命は関与したのか?

(1)「商業革命」の概要

さて、いよいよ、「産業革命ではなく、産業革命以前の商業の活性化(商業革命)こそが、イギリスの経済的発展の本体であった」という見解の真偽を確かめるときがやってきました。

ここでいったん、「産業革命以前」(17世紀ー18世紀末)のその時期に、イギリスが行った「貿易等」の内容を整理しておきましょう。

17世紀初頭、ロクな輸出品を持っていなかったヨーロッパは、新大陸でを手に入れ(イギリスもそのおこぼれに与り)、世界の交易網に参入する糸口を得ます。

イギリス人は西インド諸島や北米に植民し、砂糖と奴隷を中核とする「大西洋三角貿易」を確立し、イギリス人の間で財をぐるぐる回して、経済を活性化。

アジアでは、銀と交換にインド産の綿織物を手に入れます。綿織物は本国で大人気商品に成長したほか、独占的な権利を得たため、再輸出に回すこともできました。

イギリス東インド会社は、インドでの取引を有利に進めようと努力するうちに、なぜかインド領主の地位を獲得することに。関係者はその利権を大いに活用し、インド財政から収奪する形で巨額の資産を形成。イギリス本国に送金して、やはりイギリス経済を大いに活性化しました。

また、中国からは紅茶を大量に購入しますが、赤字による銀の流出を補填したのは、インドで独占権を得たアヘンでした。

こうした取引によって、イギリスの貿易額は激増(↓)。

川北・木畑 74頁の表から一部を抜粋(秋田・35頁も同じ表を掲載)

貿易量のこのような激増は、経済構造はもとより、イギリス人の生活や社会の構造、さらには政治の趨勢をも大きく変化させたため、「商業革命」の名を与えられている。

川北・木畑 75頁[川北]

(2)検証

「本当にそれだけなのか?」とお思いですよね?

私なら思います。こんなものを「革命」と呼ぶのはちょっと非常識ですから、他に真っ当な取引があったのではないかと考えるのが当然です。

そこで、できる範囲で、データを確認していきましょう。

川北・木畑 74頁の表から一部を抜粋(秋田・35頁も同じ表を掲載)

上の表は、1640年と1772/74年の輸出の内訳です(金額ベース)。

イギリス伝統の毛織物の輸出や食料品(農産物)等も増えてはいますが、激増しているのは再輸出、そして雑工業製品の輸出です(赤字部分)。

再輸出というのはつまり、イギリス人が西インド諸島や北米に出かけていって、武力で現地を制圧するなどして拠点を作り、現地の人々や奴隷を黎明期の工場労働者同様に働かせて大量に生産させた現地産の砂糖やタバコ、そして、インドの現地勢力を屈服させて好条件で手に入れた綿織物などのことです。

雑工業製品は国産品ですが、これは海外に出かけて現地に住むようになったイギリス人の需要に応えて供給された日用品です。

輸入については内訳がありませんが、「新大陸からの砂糖、タバコ、コーヒー、アジア方面からの綿織物、絹織物の輸入が激増」した(秋田・34頁)、とされています。

要するに、イギリス人が西インド諸島や北米に出かけていって‥‥(以下略)‥‥。

ここまでの段階では、イギリスは、世界が欲しがる商品を自ら生産したわけでも、魅力的なサービスを開発したわけでもありません。ただ、暴力や手練手管や「合理的経営」を駆使して外国の魅力的な商品を安価で手に入れ、すべてを一旦本国の港に運んで、半分を自国で消費し、半分を売りに出した。それだけです。

本当に、これだけが、イギリス経済の飛躍の「本体」だったのでしょうか。「産業革命」は?

(3)イギリスの産業革命

18世紀後半の時点で、イギリスは「外国の商品を手に入れる」という仕事に没頭しています。

イギリスの輸出は、従来からの毛織物(主にヨーロッパ向け)と植民地のイギリス人向け雑工業製品以外は、基本的にすべて「再輸出」ですから。

しかし、ここで改めて下の図を見てください。

秋田・74頁(同書における出典は加藤祐三「アジア三角貿易の展開」『週刊朝日百科・世界の歴史87』朝日新聞社、1990年)

19世紀になると、イギリスは、今まで綿織物の輸入元(輸出する側)だったインドに対して、綿製品を輸出していくようになるのです。

これはいったい、なんでしょう?

① 輸入代替工業化としての産業革命

世界史の教科書に出てくる一連の発明をご覧いただくと明らかなように、イギリスの「産業革命」は、紡績・織物の分野で始まります(↓)。

  • 1733年 ジョン=ケイ 飛び杼
  • 1764年 ハーグリーヴズ ジェニー紡績機
  • 1769年 アークライト 水力紡績機
  • 1779年 クロンプトン ミュール紡績機
  • 1785年 カートライト 力織機 ‥‥‥

なぜかというと、イギリスの「産業革命」は、ずっとインドから輸入していた綿織物を自分たちで作るために起きた「革命」であったからです。

17世紀以来の大量輸入で、綿はイギリス人の必需品になりました。毛織物業者の圧力で綿織物の輸入・使用が禁止されても効果はなく、結局、禁止法は廃止(1774年)。そのとき、彼らは考えるのです。

「こんなに人気があるのなら、輸入ばかりしていないで、国内で作ればいいのでは?」。

彼らは識字化したイギリス人です。糸車で糸を紡ぎ、手で綿布を織るなんてあり得ない。「そうだ、科学の力を使おう」ということで、綿織物工業が発達を始めたのです。

つまり、イギリスの「産業革命」とは、「ずっとアジアの先進国から輸入していたものを、これからは自分たちの力で作ろう」という、いわゆる輸入代替工業化のための「革命」であったのです。

② イギリスの工業製品は売れたのか

その後、イギリスは、近代的な製鉄技術を開発し、蒸気機関を熱源とする鉄道も作れるようになりました(最初の鉄道は1825年)。

https://www.flickr.com/photos/camperdown/14420542493/in/album-72157627912565553/

その頃から、イギリスは、自らを「世界の工場」と自賛するようになるのですが‥‥ イギリスの工業製品は、本当に売れたのでしょうか。

いろいろな数字などを確認してみますと、イギリスの製品は、最初は売れたようです。イギリスの工業製品の中で、本当に国際競争力があり、世界中から引き合いがあったのは鉄鋼製品(鉄道含む)で、世界中で、最初の鉄道は大抵イギリス製です(日本もそうです)。

しかし、先行者の優位はあっという間に失われ、イギリスは早くも1873年には「大不況」(1873-96年)に陥ることになるのです。

「大不況」の原因は、後発の資本主義諸国の急速な工業化と、第一次産品生産国が本格的に世界市場に編入されたことによる世界の一体化、グローバル化の急速な進展であった。この時期には、アメリカ合衆国とドイツが急速な工業化を進め、鉄鋼をはじめとする資本材や石炭の生産でイギリスを追い抜き、1890年代にはロシア、イタリア、日本などの「半周辺」の資本主義国も工業化に乗り出して、世界経済はこれらの後発の資本主義諸国が工業化を競う段階に移行した。イギリスは「世界の工場」から三大工業国の一つに転落し、製造業の国際競争力も低下して工業製品の輸出が停滞した

秋田・135頁

③ インドがイギリスの貿易収支を支えた

そうした中で、唯一、綿製品だけは売れ続けました(↓)。

湯沢・52頁

イギリスの綿製品が人気があったからでしょうか?

下の図(左)を見ていただくと、1825年から1880年の間にイギリスからインドへの綿製品の輸出量が激増し、1898年も同じ規模で保たれていることがわかります。対中国も、かなり増えています。

19世紀後半、イギリスの綿製品を世界で一番輸入し、輸入量およびシェアを増やしていくのはインド(↓)。その次に輸入しているのは中国です。

湯沢・56頁

いったいなぜ、ずっと綿織物を作ってイギリス(を通じて世界中)に売っていたインドが、イギリスが綿を作り始めたからといって、それを買わなければならないのでしょうか?

答えは一つ。インドを統治していたのがイギリスだったからです。

先ほど、イギリスは、インド大反乱を契機に、インドを「自国の経済発展の道具として利用する」方針を明確にしたと書きました。イギリスはインドを「利用」するために何をしたのでしょうか。

一つは鉄道建設です。

インドでは1853年にアジア最初の鉄道が開業。現在も約6万4000kmの鉄道路線を有する世界屈指の鉄道王国ですが、大々的な鉄道敷設の目的の一つは治安(軍の出動を容易にする)、もう一つは「イギリスの利益のための」商業的開発でした。

その〔鉄道開発の〕第一の要因は、自由貿易帝国主義と密接に関連していた。すなわち、イギリス本国の消費財市場、とくに綿製品の市場として、さらに本国への食糧・原料(第一次産品)の供給地として、インドを商業的に開発することであった。マンチェスターの綿工業利害、英印間の貿易にかかわる商社や経営代理商会、茶農園などの開発と運営にあたったプランテーション業者などが、インド内陸部への経済的浸透を実現する手段として鉄道建設を必要とした。

秋田・109-110頁

同時並行で、イギリスは、やはり「マンチェスターの綿業資本の政治的圧力を受け」、綿製品の輸入関税率を引き下げ、インドの産業保護の必要性を考慮せず、本国で大量生産した安価な綿製品をインドに持ち込みます。

こうして、強制的にイギリスの安い綿製品を流通させられた結果、伝統的な綿織物産業は崩壊。元々、ヨーロッパの憧れの的であった「豊かなインド」は、一転して、「イギリスに一方的に奉仕する市場」に貶められたのです。

(4)「帝国」経済の真実

私は以前、「基軸通貨の誕生ーポンドの場合ー」という記事の中で、つぎのように書いたことがあります。

イギリスの地に基軸通貨が誕生した理由は明快で、イギリスが世界貿易の中心地となっていたからである。

世界貿易で先行したのはオランダ。しかしイギリスは18世紀には毛織物貿易や海運でオランダをしのぎ、19世紀には産業革命による「世界の工場」化と交通・通信革命の効果として、多角的な貿易機構の中心地としての地位を確たるものとした、というのが教科書的な説明である。

少し先には、次のような記述も。

国際金本位制〔ポンド覇権〕が確立した頃、貿易立国としてのイギリスはすでに盛りを過ぎていた。‥‥

輸出入の双方に積極的だったイギリスの貿易収支は最初から赤字(輸入超過)なのだが、経常収支は一貫して黒字である。

当初、貿易赤字を埋めていたのは、貿易にまつわるサービス収支(海運や保険)だった。‥‥

これを書いた時の私は、イギリスは、産業革命によって「世界の工場」となり、主にそのことによって「世界貿易の中心地」になったと信じています。

イギリスが「輸出入の双方に積極的だった」のは、原料の輸入を行う必要があるためだったと信じています。

19世紀後半に「貿易立国としてのイギリスの盛りが過ぎていた」のは、他国が工業化で追い上げてきたからだと信じています。

しかし、これらはすべて間違いでした(今回わかりました)。真実はこうです(↓)。

  • イギリスは、外国の物産が欲しかった。
  • イギリスは「売れる商品」を持たなかったので、外国から半ば不法に掠め取ってくるか、掠め取ってきた品を売って得た資金で外国から購入するしかなかった。
  • こうした「三角貿易」をどんどん行なっているうちに、イギリスは「世界貿易の中心地」となった。

こうした中、産業革命はイギリスに初めて「売れる商品」をもたらしましたが、それでもイギリスの貿易収支が黒字になることはなく、多少はあった(かもしれない)赤字削減効果もわずか10年程度で消滅。

イギリスは、インドや中国を自国製品の市場に仕立て、多額の綿製品を購入させたにも関わらず、それをはるかに上回る旺盛な消費のために、貿易赤字はますます増加の一途をたどるのです。

こうした貿易赤字の継続を可能にしたのは、最初はサービス収支(海運や保険)の黒字、その後は投資収益の黒字です。

彼らのやってきたことは、世界の海を舞台に海賊行為や奴隷貿易その他ありとあらゆる不法を働いて稼いだ後、カタギになって、得意の海運や金融サービスを独占的に営むようになった広域暴力団、という以外のなにものでもない。私にはそう思えるのですが、いかがでしょうか。

「共存共栄」の海から「抗争と略奪」の海へ 

共同体家族を中心に営まれてきた「共存共栄の海」は、識字化した核家族の参入によってどう変わったのか。これが今回までのテーマでした。

識字化した核家族は、ムスリム商人などを蹴散らし、世界中の海と陸で、最初はアジアの商品を奪い合って競争し、工業化を果たすと、今度は資源と市場を奪い合って競争した。

彼らが展開した競争は「自由競争」などといえるものではない。ルールなしの対立抗争であり、正真正銘の戦争でもありました。

そして、彼らは、競争に勝つためにはいっさい手段を選ばず、非キリスト教徒、非白人を蹂躙することを厭わなかった。

「共存共栄」の海は、こうして「抗争と略奪」の海に変わった。私はそのように結論します。

次回に向けて

識字化した核家族によるルール変更があったといっても、それは条約や法律に書き込まれたわけではありません。

「確かに、帝国主義とか、植民地主義とか、”抗争と略奪” 的な時代はあったけど、それは一時的なものであって‥‥ 少なくとも第二次世界大戦の後くらいからは、みんな、共存共栄、世界の平和を目指していたはずでは?」

そう思いたくなるのも無理からぬところです(ええ、私はずっとそう思っていました)。

しかし、今回の探究の過程で、私は発見しました。その新しいルールが刻み込まれ、その後の世界に広く深く長い影響を与えることになる媒体が、やはりこの時期に生まれていたという事実を。

その媒体とは、おかねです。

もちろん、おかねそのものは以前から存在しました。そこで、次回のテーマは「識字化した核家族は、おかねを仕組みをどのように変えたのか?」となります。

お楽しみに!

  • イギリス東インド会社は平和裡にインドでの貿易拠点を獲得し綿織物を商品として仕入れたが、商業上の利権をめぐる現地を巻き込んだフランスとの戦争および現地勢力との軍事衝突を経てなぜかインドの統治者となった
  • イギリス東インド会社の関係者がインド財政を私的に収奪して築いた巨額の財産の流入で本国の経済は大いに活性化した
  • 大反乱以後、イギリスは自国の経済発展のための道具としてのみインドを利用する方針を確定させ、インドをイギリスに奉仕する市場として開発し、アヘン戦争を通じて中国も同様の市場に仕立てた
  • 「産業革命」は綿織物の「輸入代替」から始まったが、綿製品の大量生産に成功したイギリスはすぐにそれをインドで大々的に販売した
  • イギリスが「産業革命」の成果として好調な輸出を誇ったのはごく短期間で、競争力が失われた後も継続してイギリス製品を買ったのは植民地・準植民地とされたインドと中国のみだった
  • 近代イギリスの経済的飛躍は、もっぱら「貿易等」によってもたらされたもので、産業革命はほぼ関与していない
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「トッド後」の近代史
(2-①)ヨーロッパのふるまい

はじめに

世界の中央に進出してきた「識字化した核家族」は、そのふるまいによって、世界の進む方向性をどう変えたのか。今回は、共同体家族を中心に営まれてきた「共存共栄の海」で、ヨーロッパが何をして、世界をどのように変えたかを追っていきます。

核家族のふるまいーヴァスコ・ダ・ガマの場合

西アジアの海に最初に踏み込んだ「識字化した核家族」出身者(の一人)は、ヴァスコ・ダ・ガマです。

カリカット(Calicut(現在はKozhikode))の役人に笑いものにされた後、再び戻ってきたガマ(1502年)がどんな行動を取ったのかについては、詳細が残っています。

‥‥インド西海岸カンナノール沖に到着したガマの船隊は、港には入らず、そこで紅海方面からカリカットへ向かってくる船を待ち伏せした。‥‥ ガマは、敵であるカリカットへ向かう船は、すべて掠奪の対象と見なした。すでに一隻を拿捕し、一隻を取り逃していた29日、大きな船が一隻水平線上に姿を現した。この船には、メッカへの巡礼を終えた240人とも380人ともいわれる男と多くの女子供が乗っていた。

ポルトガル船隊は大砲を撃ってこの船を停めた。巡礼者の中にいた裕福な商人が、身代金を払うから見逃して欲しいと願い出たが、ガマは許さず、船を徹底的に掠奪すると、人々を乗せたまま火を付けた。助けを求めて泣き叫ぶ婦人や子供を見ても、ガマは顔色一つ変えなかったという。これは一定額の身代金を払えば船と人を解放する海賊よりもさらにたちの悪い行為である。十字軍的な精神に凝り固まっていたガマやポルトガル人にとっては、イスラーム教徒を満載した船は、丸ごと破壊しても構わないものだった。この時奪った財宝の額は、3万クルザード。ポルトガル王室の年間収入の10分の1に相当したと言う。

その後カリカットへ至ったガマの船隊は、冷静に交渉を進めようとするカリカット王の提案を相手にせず、カブラルがこの町に来た時に被った人的物的被害の賠償とアラブ人ムスリムを町から追放することを要求した。王がこれに応じないと、通りかかったムスリムの小舟を次々と捕縛し、先に捕虜にしていたムスリムを処刑してそのマストにぶらさげたという。その数34人と伝えられる。そして、様子を見に浜に集まった大勢の人々に向けて突然大砲が放たれた。砲撃は2日間続き、400発の砲弾が撃ち込まれた。海岸に近い場所に建っていた家屋や建物は完全に破壊された。

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)53-54頁

英雄ヴァスコ・ダ・ガマの行動がこれというのは正直ちょっと引いてしまいますが、より重要なのは、彼の行動は当時のヨーロッパ人の行動としては完全に正常である、という点です。

①掠奪

まず、巡礼船の掠奪(前段)について。

当時のヨーロッパでは、戦争状態にある国や地域(=敵)に属する船の掠奪は完全に適法で、推奨される行為ですらありました。この種の掠奪は、正当な経済活動とみなされていて、それを生業(なりわい)にする民間人も少なくなかったといいます。

‥‥前近代のヨーロッパにおいてはそれは必ずしも非合法な行為ではなかった。中・近世のヨーロッパでは経済活動はしばしば「暴力」と密接に結びついており、掠奪はそのような連関がもっとも端的に表れたものであった。そしてそれは当時の法観念では正当な行為、場合によっては名誉な行為とすらみなされていたのである。

薩摩真介『〈海賊〉の大英帝国 ー 掠奪と交易の400年史』(講談社、2018年)14頁

そして、当時のヨーロッパ人、とりわけレコンキスタ(ウマイヤ朝以後イスラーム勢力の支配を受けたイベリア半島の再キリスト教化)を完了したばかりであったスペイン・ポルトガル人にとって、「異教徒」とは「敵」の代名詞のようなものです。

そういうわけで、メッカへの巡礼船を襲い、キリスト教地域ではない外国の港を大砲で破壊するガマの行為は、何ら恥じるところのない、正当で勇敢な行為だったのです。

②貿易独占のための制圧行動(後段)

後段には、ガマが、「ムスリム排除」等の要求に応じさせるため、ムスリムを処刑して晒し者にし、2日間に渡る激しい砲撃で町を破壊したことが書かれています。ガマは、いったいどういうつもりで、このような行動を取ったのでしょうか。

前回の航海での体験から、ガマには、一つの確信があったのだ。それは、武力でインド洋を制圧すれば、投資金額は絶対に回収でき、さらに大きな利益をあげることができるという確信だった。

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)52頁

ガマは、最初の航海のときに、インド洋には大砲を備えた強力な艦隊がいないこと、また沿岸地域には武器が普及していないことに気づいていました(平和だからですね)。武力でインド洋を制圧して貿易を独占すれば莫大な利益が得られると確信した彼は、国王に進言し、それを自ら実践してみせたのです。

ガマの進言の通り、ポルトガルは、アルブケルケなどの軍人を送り込み、1503年から1515年までの間に、インド洋海域の主要な港町を武力で制圧し、貿易の独占を図りました。

インド洋の征服者  アフォンソ・デ・アルブケルケ

異なった宗教を持つ様々な民族が共存し、切磋琢磨しながら商業活動を行う、共存共栄の海であったインド洋に、当時のヨーロッパはなじむことができず、自分たちのやり方を持ち込みました。

自分たち(キリスト教圏)の間でも、小さな国や地域に分かれ、絶えず武力で抗争していた彼らに、「敵」である異教徒との「共存共栄」というあり方は、理解を超えていたのかもしれません。

羽田先生にまとめていただきます。

ポルトガル人は、港町を征服し、この海域の「主人」として、そこで行われる貿易活動を武力によって支配し、管理しようとした。これは、海は誰でも自由に航行でき、港町は誰でも自由に利用できるというそれまでのこの海域におけるルールの根本的な変更を意味した。地中海や北海などヨーロッパ周辺の海は別として、インド洋ではこの時まで海とそれを利用した交通や貿易を支配しようとした者はいなかった。ポルトガル人が姿を現してわずか10年あまりで、インド洋海域の秩序は大きな変更を迫られることとなった

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)57-58頁

勢力争い→イギリスの覇権へ

ポルトガルのインド洋支配は100年程度で落日を迎えますが、もちろん、それで「共存共栄の海の復活」とはなりません。

ポルトガルの後退をチャンスと見たオランダ、イギリス、フランスが、われもわれもとやってきて、勢力争いを繰り広げたからです。

「やたらと競争をする」というのは、この時代のヨーロッパの大きな特徴です。「なぜか?」は後で(最終回で)考えますが、ともかく、彼らは、インド洋でも新大陸でも、互いに対立抗争し、競争相手の誰よりも有利な条件を確保し誰より多くを稼ぐために、あの手この手を繰り出します。

その一途な努力の結果として、彼らは、「世界を征服する」というような英雄的精神とはまったく無関係に、世界を政治的・経済的に従属させていくことになるわけですが‥‥ ご承知の通り、その競争を勝ち抜いて、世界の覇権にもっとも近づいたのは、イギリスです。

そこで、以下では、イギリスを「識字化した核家族」の代表とみなし、彼らの行動を中心に話を進めます。

イギリスはどうやって覇者となったか

ここで皆さんに質問です。

辺境のヨーロッパ(の中でもさらに辺境)に位置したイギリスは、なぜ、どういう風にして、世界の覇者の地位に上り詰めることができたのでしょうか。

皆さんの「常識」は、どんな感じですか?

「えーっと・・まず、産業革命ですよね。イギリスが、世界で最初に産業革命を実現して「世界の工場」になって・・」

「あと、北米やインドでの植民地獲得競争に勝ってたくさんの植民地を手に入れたので、植民地から資源を輸入して、本国で加工した製品を輸出するというやり方で、貿易で覇権を取って・・」

「貿易で覇権を取ったことで、ポンドが基軸通貨になって、その後は多少物が売れなくなっても、「世界の銀行」としての立場で何とかなった、みたいな感じですよね?」

・・という、感じですよね?

私は大体こんなような感じで理解していました。
でも、調べてみると、なんか、全然違うみたいなのです。

まず、産業革命についていうと、専門家の間では、「そもそも、イギリスに産業革命なんてあったのか?」という議論が活発に行われているほどで、「仮にあったとしても、イギリス経済に与えた影響はそれほど大きくなかった」というのが常識となっているようです。

18世紀後半のイギリスは、世界で初めて農業社会から商工業社会へと変化し、社会の構造や人々の生活が大きく変化したといわれる。このような社会経済構造の大きな変化を「産業革命」と呼び、世界で最初の現象として、英語で表現する場合は、定冠詞theを冠してthe Industrial Revolutionと表現するのが一般的である。ところが近年のイギリスにおける経済史研究では、産業革命に否定的な見解が一般的になりつつある

秋田茂『イギリス帝国の歴史』(中公新書、2012年)79頁(強調は辰井)

では、何が、イギリス経済の飛躍をもたらしたのか。この点についても、専門家の間では、大筋で合意が得られており、その骨子は世界史の教科書にも記載されています。

大航海時代の到来とともに、世界の一体化が始まった。ヨーロッパ商業は世界的な広がりをもつようになり、商品の種類・取引額が拡大し、ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心地は地中海から大西洋にのぞむ国々へと移動した(商業革命)。世界商業圏の形成は、広大な海外市場を開くことで、すでにめばえはじめていた資本主義経済の発達をうながした。‥‥

商業革命により、西欧諸国は商工業が活発な経済的先進地域となった。‥‥

木村靖二・岸本美緒・小松久男『詳説 世界史(世界史B) 改訂版』(山川出版社、2017年)204頁(太字原文)

要するに、貿易量の飛躍的拡大(しばしば「商業革命」と呼ばれます)が、ヨーロッパの経済的飛躍の源泉だった、というのです。

ふうむ、どうも、あれですねえ‥‥

大航海時代にヨーロッパが世界の海に乗り出していった、というところはいいでしょう。

ヨーロッパは、アジアで取引されている商品群に魅了され、その豊かさを手に入れるべく、アジアの海に向かいました。

しかし、市場というのは「蜜と乳が湧き出し、流れる」楽園ではないわけで、欲しい物を手に入れるには、こちらにも、相手が欲しがる商品の持ち合わせが必要です。

国王からの贈り物すら物笑いの種になっていた貧しいヨーロッパ。産業革命の寄与がないとすると、彼らはいったい何を売って「商業革命」を成し遂げたのでしょうか?

毛織物は売れない

16世紀以前、イギリスの主な売り物(輸出品)は毛織物です。

イギリスの毛織物は、ヨーロッパではよく売れました。しかし、ウールといえば(当時は)冬物、アジアとの交易ではまったく役に立ちません。

この時代には、ヨーロッパから積極的に売りに出せるような商品価値の高い物産は、まだほとんどなかった。あえていえば毛織物とか高級な工芸品のたぐい、あるいは毛皮、北欧からの木材、といったところであろうが、いずれも遠隔地を結ぶ交易で大量に扱われるには限界があった。

福井憲彦『近代ヨーロッパの覇権』(講談社学術文庫、2017年)

基本的に、アジアが欲しがる商品をほとんど持っていなかったヨーロッパが、どうやって貿易を拡大し、覇者の地位に上り詰めていくのか。お手並み拝見といきましょう。

銀を手に入れた

ヨーロッパが初めて手に入れた「売れる商品」は、銀でした。

最初に銀をふんだんに手に入れたのはポルトガル。彼らは、アジアでの取引に使う銀を、日本との交易で入手していたことが知られています。

しかし、ヨーロッパ全体にとっての銀の供給源となったのは、南米です。

インカ帝国の銀製アルパカ(https://www.worldhistory.org/image/4619/inca-silver-alpaca/

スペインは、武力で征服したアステカ帝国(1521年)やインカ帝国(1533年)からも、金銀財宝を掠奪していましたが、その後、世界最大のポトシ銀山が発見されたことで(1545年)、絶頂期を迎えるのです。

1553年のポトシ景観図(https://www.kufs.ac.jp/ielak/pdf/kiyou12_01.pdf)

ではスペインは、ポトシ銀山の銀を、どうやって掘り出したのか。南米に植民した彼らは、自分たちでせっせと働いて、鉱山から銀を掘り出した‥‥というわけではありません。

スペインの征服者(政府から統治を任されていた)は、インディオと呼ばれた現地の住民たちを労働力として酷使し、それによって銀を得たのです。

現場を目撃していた宣教師たちの話を聞きましょう。

4年ほど前でしょうか。この土地を滅亡させんがために、地獄への入り口が発見され、その時以来、大勢の人々がそこに入っていくようになりました。彼らはスペイン人の貪欲が神に捧げた人々なのです。そしてここぞポトシ、陛下の銀鉱ポトシなのであります。

ドミンゴ・デ・サント・トマス(1550年ごろの記述)(網野徹哉『インカとスペイン 帝国の交錯』(講談社学術文庫、2018年)202頁)

四六時中暗くて、昼と夜も弁じがたい。そして、太陽がぜったい見えない場所なので、いつも暗闇であるばかりか、寒さもひどく、空気も重っくるしくて、人間居住の常態からは外れている。だから、初めて中に入った者は、胃がむかつき、苦しくなって吐き気をもよおす。この私もそういう目にあったーー金属はふつう硬い。そこで小さな鉄棒で、火打石を叩き割るようなふうに割ってそれを取り出す。それから、それを背に負って登る‥‥。

イエズス会士アコスタ(1580年ごろ)(網野・202-203頁)

そして、インディオ労働者の心身の疲労、というか過酷で非人道的な労働環境からくる苦痛を癒したのは、コカの葉とチチャ酒でした。

コカの葉は、インカ帝国の統治の下では、宗教儀礼と結び付けられ、消費も生産も国家や共同体によって管理されていたといいます。しかし、その麻薬としての効果を知ったスペイン人企業家は、コカの生産と販売を独占し、インディオ社会に大量投与するのです。

‥‥ちょうど漆のような葉をもつ、だいたい人の背丈ほどの木で、コカと呼ばれるものです。この葉を土地のインディオは食します。呑み込むのではなく、噛みます。彼らの間では、とても有り難がられているのですが、この生産はほぼ我々スペイン人の手中にあります‥‥。コカは、この地の最良の貨幣です。というのも、コカがあれば、インディオたちのもつものすべてを手に入れることができるからです。金や銀、衣服や家畜などなど、彼らは、ただ葉を噛みたいばかりに、手放すのです。

クスコ在住のスペイン人からイベリア半島の兄弟に宛てた手紙(網野・203−204頁)

苛烈な労働環境、死亡事故の多発、水銀中毒、そしてヨーロッパから持ち込まれた感染症(天然痘やはしか)の流行で、先住民人口は激減。

労働力不足に陥った現地のスペイン企業は、どうしたかというと、アフリカの住民を買い付けてきて、奴隷として働かせたのです。


いかがでしょうか。

「植民地経営」というと何かもっともらしく聞こえてしまいますが、虚心坦懐に見ると、スペイン人は、武力で現地を制圧し、現地人と奴隷をコキ使って銀を略奪しただけ、そしてヨーロッパはそのおこぼれに与っただけ、といわなければならないと思います。

しかし、まだ世界に通用する貨幣(通貨)というものが存在しなかった当時、彼らが手に入れた銀は、紛うかたない基軸通貨です。

取り立てて売るものを持っていなかったヨーロッパは、新大陸における銀の発掘(略奪)によって見事に「成り金」となり、世界交易における地歩を固めたのです。

新大陸でのイギリス

(1)西インド諸島

さて、われらが主人公イギリスは、1600年前後から、アメリカ大陸とインド洋に同時進行で進出します。アメリカ大陸の方が先に終わる(下火になる)ので、そちらを先に見ていくことにしましょう。

イギリスはクロムウェル時代にジャマイカ島、バルバドス島、トリニダード・トバゴなどを征服し、王政復古(1660年)後に入植を本格化させました。イギリス(やオランダ、フランス)が、アメリカ大陸の中で、主に西インド諸島と北米に向かったのは、南米はすでにポルトガルとスペインが抑えていたためですね。

① 砂糖でIT長者

大西洋三角貿易(https://ywl.jp/content/9BKD6

西インド諸島で、イギリスが手に入れたものは、砂糖です。

イギリスの入植者は、奴隷として買ってきたアフリカの人を使って、砂糖の生産(栽培・加工)を行いました。

https://www.liverpoolmuseums.org.uk/archaeologyofslavery/slavery-caribbean

このビジネスは大当たり。彼らはこの新規ビジネスで大金を稼ぎます(↓)。

  • 1674-1701年(平均):1954ポンド
    (現在の20万ポンド[4000万円])
  • 1740年代:7956ポンド
    (現在の94万ポンド[1億8000万円] )
  • 1770年代:19000ポンド
    (現在の166万ポンド[3億2000万円])

*川北稔による試算(私は秋田・43頁から引用しています)。現在の価値への換算はこちらのサイトを利用しました。

その破格の収入により、本国では「疑似ジェントルマン」として上流階級の暮らしを謳歌し、名望と政治的影響力を駆使してさらに安定した収益を確保する。

そう。彼らの立ち位置は、現在でいう「IT長者」にそっくりだったといってよいでしょう。

② 「合理的経営」というイノベーション

しかし、砂糖栽培といえば、本来、典型的な労働集約型産業です。彼らはいったいどうやってそんなにおかねを稼いだのでしょうか。

‥‥ジャマイカでは、徹底的な砂糖の単一栽培(モノカルチャー)がおこなわれ、大規模プランテーションが展開した。現地では、サトウキビの栽培、刈り入れたサトウキビの搾汁、それを煮詰め蒸留し結晶させる粗糖の生産が連続的におこなわれ、初期のプランテーションは、農場と加工工場が結びついた農・工業複合体(agroindustrial complex)であった。

そこでは、限られた時間内に粗糖を生産するために、厳格な時間規律と、熟練労働者と黒人奴隷による未熟練労働者の有機的な結合が求められた。18世紀末に本国で産業革命が起こり大規模工場の出現する前に、すでに西インド諸島では工業化に不可欠な、時間と労働の近代的な管理が行われていたのである。

秋田・43頁

要するに、こうです。

プランターたちは、まず、武力で現地を制圧し、現地人を安い労働力として使い、足りない労働力はアフリカ人奴隷で補いました。

しかし、彼らは、それだけでは満足せず、もっと多く、もっと効率的に稼ごうと、工夫を凝らします。

結果、彼らは、奴隷や現地人労働者の時間と労働を厳格に管理するという「合理的経営」を編み出し、この「イノベーション」こそが、まるで産業革命後の大資本家のような稼ぎを可能にしたのです。

通常、「産業革命」という言葉は、技術革新に基づく工場制機械工業の発達による社会の変革(農業中心から工業中心へ)を指して用いられます。

しかし、「産業革命」の核心を、以下のような点に求めるなら、本当の「革命」は、17世紀後半から18世紀にかけての西インド諸島の砂糖プランテーションの現場で、やはりイギリス人の手によって成し遂げられていた、ということになりそうです。

  • 大規模経営による大量生産
  • 資本家が労働者に賃金を支払って労働させる資本・賃労働の関係の確立
  • 効率的生産のための厳格な労働管理
  • 時間意識の強化
  • 長時間労働の一般化 ‥‥

③「疑似ジェントルマン」の政治力

もう一点、彼らが、砂糖栽培によるもうけを確保するために、「疑似ジェントルマン」として(イギリス本国で)得た政治力を十二分に活用していたことも、確認しておく必要があります。

彼らが砂糖栽培を始めた17世紀後半からの約100年(1663-1775)の間に、砂糖はイギリス人の生活に欠かせない必需品となっており、彼らが西インド諸島で作った砂糖のほとんどはイギリス本国の市場で販売されました。国際市場には価格競争が付きものでも、国内向けの独占販売なら、政治力で何とかなる。

西インド諸島利害関係者は、その政治的影響力をフルに行使して、英領西インド諸島産砂糖の価格操作に成功し、莫大な収益を確保したのである。

秋田・49頁

(2)北米:本国製品の市場

https://www.worldhistory.org/article/1677/a-brief-history-of-tobacco-in-the-americas/

一方、北米植民地の主要産品はタバコ。こちらは大陸ヨーロッパが主要な販売先だったので、砂糖のような法外な収益にはつながりませんでした。

しかし、こちらはこちらで、イギリスに、その経済成長に欠かせない機能を提供することになります。

北米がイギリスに提供したもの。
それはイギリス製品の市場としての機能です。

西インド諸島とは異なり、北米に植民したイギリス人は、現地の気候になじんで定着しました。タバコ栽培は、彼らに「疑似ジェントルマン」ほどの稼ぎは与えませんでしたが、それなりに十分な購買力を与えました。

イギリス出身の人間の多くが、つねに喉から手が出るほどほしがるものは何かといえば、イギリスの商品です。

そうです。これまで、ヨーロッパの域外に、自国製品を買ってくれる市場を見出すことができなかったイギリスは、この北米の地に初めて、自国製品を熱烈に求める市場を発見したのです。

本国側の雑工業製品の生産者にとって、北米タバコ植民地は、優位に立てる数少ない輸出市場であった。ヨーロッパ市場に十分な競争力、製品販売市場を持てなかったイギリス本国の雑工業製品は、高い国際競争力を持つ北米のタバコを介して、北米市場においてその輸出市場を確保することができた。

秋田・51頁

「大西洋三角貿易」は貿易か?

こうして、西インド諸島の砂糖、アフリカの奴隷、北米の市場が出揃いました。いわゆる大西洋三角貿易の完成です。

井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(講談社学術文庫、2017年)149頁

しかし、「言葉に惑わされず、ヨーロッパが何をしたかをはっきりさせよう」というミッションを担っているわれわれにとって、この名称は要注意です。

「貿易」と聞くと、異なる国と国の間で交易が行われ、それなりに「win-win」の関係が成り立っている、という事実を連想しますよね?

しかし、この「三角貿易」の中に、異国間の「win-win」的関係というようなものは存在しません。この交易に参加し、大きな利益を得ているのは、基本的に、全員イギリス人なのです。

上の図の提供者である井野瀬先生のご説明にしたがって、それぞれの取引について、利益を得ている主体を確認していきましょう。

‥‥三角貿易の手順はこうである。ブリストル(あるいはロンドン、後にはリヴァプール)から出港した船には、植民地向けの多種多様な日用品、食料や食器、靴や衣料、石鹸やろうそく、農工具、さらには奴隷の衣服などが満載された。

船は途中、西アフリカ沿岸に立ち寄り、仲介にあたる現地アフリカ人商人との間で、銃や弾薬、ラム酒、綿布やビーズなどと交換で、彼らが内陸部から調達してきた奴隷を船内に詰め込む。

その後、船は西インド諸島へ向かい、ジャマイカやバルバドスなどで奴隷をおろし、代わりに現地で生産された砂糖(茶色の原糖)やタバコ、木綿、染料のインディゴ、ココアなどを大量に積み込むと、ブリストルへと帰還した。

井野瀬・149-150頁

一般に、15世紀から18世紀前半のイギリスの商業は、この大西洋三角貿易によって大いに活性化し「商業革命」の基礎を築いたということになっています。

しかし、この「貿易」がそれほど儲かったのはなぜかというと、

  • 武力で砂糖やタバコ栽培に適した土地と安い労働力を獲得し、
  • アフリカ奴隷を格安で入手し、
  • 廉価かつ不自由な労働力を厳格に管理し、超効率的に砂糖を生産

‥したからです。

そうやって得られた砂糖やタバコ、奴隷と、イギリス製品(日用品)を、イギリス人の間でぐるぐる回し、「イギリスの商業を活性化」した。

むむ、これはいったい‥
これはいったい「貿易」でしょうか?

自慢げに「商業革命」などといえるようなことでしょうか。

国内ではおよそ許されないやり方で外から奪ってきたものを、イギリス人の間で山分けしているだけでは? ‥‥

次回に向けて

普通、奴隷貿易とか植民地の収奪といった事実は、「先進国も昔はいろいろあった」「輝かしい近代史の中の恥ずべき汚点」といった感じで、つまり、瑣末とはいえないにせよ、本筋ではないものとして捉えられていると思います。

なぜ、そのような扱いが可能であったのかと考えてみると、それは、その後に「産業革命による大いなる飛躍」という物語が控えていたからではないでしょうか?

ヨーロッパの創造性、科学と情熱の賜物である「産業革命」という本編があったからこそ、それらは「残念なエピソード」で済んでいたのです。

しかし、その「産業革命」は(仮にあったとしても)イギリスの飛躍にはほとんど寄与しておらず、掠奪してきた銀、砂糖にタバコ、奴隷の交易こそが主役なのだとしたら。

「西欧近代」のイメージは、相当大きく変わってくるのではないでしょうか。

いったい、どちらがより真実に近いのか。
引き続き、探究を続けましょう。

  • インド洋に参入したポルトガル武力で貿易を独占しようとした
  • ポルトガルが後退すると他のヨーロッパ諸国が参入してきて競争を繰り広げた
  • 売れる商品を持たなかったヨーロッパは、新大陸で獲得(略奪)したを世界交易参入の足がかりとした
  • イギリスは、西インド諸島で砂糖、北米植民地に本国製品の市場を見出し、アフリカで得る奴隷とともに、基本的に国外で略奪的に取得した富イギリス人の間でぐるぐる回す仕組み(三角貿易)を確立し、イギリス商業を活性化した
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トッド入門講座

「トッド後」の近代史
(1)近代以前の世界

はじめに

「自由で民主的で豊かな社会を目指して進んできたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか」という問いから、私の探究は始まりました(2020年頃)。

近代化の契機は核家族の識字化であったことはわかった。「自由と民主」は偉大な発明品というよりは、素朴な核家族メンタリティの反映であったこともわかったし、民主化とは大衆の教育レベルの上昇(識字化)であることもわかった。格差社会の根底に高等教育の普及があることもわかったし、アメリカが原初的核家族に退化しているらしいことも、おかねの増えすぎが世界を賭博場にしたこともわかった。

でも、私は、まだなんとなく釈然としません。

「だからって‥‥
 ここまでめちゃくちゃでなくてもよくないか?」

現在のこの世界を見ていると、どうしても、そう感じてしまう。

2024年現在、世界は、文字通り(=比喩ではなく)、殺戮、謀略、略奪、嘘で溢れています。主体は決してアメリカだけではなくて、とくに目につくのはイギリス、それからフランス、ドイツ。私たちがずっと憧れ、手本としてきた国々が、一斉に狂気に陥っている、といった風なのです。

いったい、どうなってしまったのでしょうか。

エマニュエル・トッドが、同じ気持ちで世界を眺めていることは、近年のインタビューから伺えます。

私はフランス人ですが、イギリスの大学で学び、研究者となりました。そんな経験から、私はイギリスに敬意を愛着を感じ、「イギリスは合理的で素晴らしい国、バランスのとれた国だ」とずっと思ってきたのです。

ところが、この戦争をめぐるイギリス政府の態度は、狂っているとしか言いようがありません。非常に好戦的な姿勢を見せています。そもそもアメリカとともに、ウクライナ軍を武装化してロシアと戦争するように嗾(けしか)けたのも、イギリスです。

非合理的な「ロシア嫌い」や「軍事主義(自国の兵士は送っていませんが)」へと逃げているのは、イギリスが深いところで精神的かつ社会的に病んでいるからだ、と考えざるを得ません。しかも近代民主主義が誕生したイギリスがこんな状態にあるだけに、大きな不安を感じています。

『第三次世界大戦はもう始まっている』(2022年)192-193頁(強調は辰井)

「病んでいる」。そう、たしかに、ウクライナをけしかけ、イスラエルに武器を提供し続ける彼らは、精神的かつ社会的に病んでいるように見えます。

しかし、健やかなるときも、病めるときも、社会は家族システムから逃れられない。それがトッドの教えです。

「たぶん、私たちは、自由だの、人権だの、なんちゃら主義だの、そんな言葉にうっとりしていただけで、西欧近代の何たるかを理解していなかったのだな。」

私はそのように理解しました。
そうとわかればやることは一つ。

探究を始めましょう。

「トッド後」の補助線

(1)「トッド前」

このシリーズのタイトルは「「トッド後」の近代史」です。何が「トッド後」なのか。趣旨をご説明させていただきます。

私たちが、歴史上の出来事を見て、何らかの評価を下すときには、一定の尺度というか、補助線を用いるのが通常です。ある事象が(例えば)「進歩」を示す事実なのか、「退歩」や「一時的停滞」なのか、といったことは、その事象単体では判断できませんから。

「トッド前」のわれわれは、非常に大まかにいうと、次のような補助線を用いて「近代」を見ていたと思います。

要するに、「なんだかんだいっても、世の中は進歩してきたのだ」ということですね。

私たちは、近代におけるヨーロッパの行動、彼らが起こした事件、作ってきた制度や仕組みを、この補助線の上に並べて理解し、それを「進歩」だと考えてきたわけです。

しかし、私たちが、西欧近代を正しく理解していなかったとするなら、その原因は、もしかすると、この補助線にこそ、あるのかもしれません。

‥‥ 思えば、エマニュエル・トッドは、明らかに、これとは異なる補助線の存在を、私たちに示唆していたではないですか。

(2)近代化の逆説

新たな補助線を求めるわれわれに、大いなる示唆を与えるトッドの理論とは「近代化の逆説」です。

  • 西欧近代の価値観(リベラル・デモクラシー、自由主義経済など)の基礎にあるのは、核家族システムである。
  • 核家族システムは、もっとも古く、もっとも「進化していない」家族システムである。

トッドが解明したこの2つの事実を組み合わせると、もっとも「進歩した」社会を構築したのは、もっとも「遅れた」家族システムであった、という命題が導かれます。これを「近代化の逆説」と呼びましょう。

トッド自身は、当初、この「近代化の逆説」を、どちらかといえば「喜ばしい発見」という風に捉えていたと思います。

自由という本来なら野蛮に属するものを、洗練したシステムに昇華して制度化できたのは、西欧に「遅れた」システムが残存していたからこそである。彼はそのように考えて「なんて素敵なことだろう」とときめいていたのです。

しかし、すでに「家族システムの変遷」の探究を終えた私たちは、これに簡単に同調することはできません。なぜなら、私たちは、原初的核家族から直系家族、共同体家族への進化は、人口密度が高まり、集団間の接触が増えた世界で、国家を形成し、帝国に発展させ、より広い領域に亘る秩序の維持を可能にするために、必要な発明であったことを知っているからです。

近代とは、原初的核家族と同じ価値観を持つ人たちが、識字の力で(=家族システムの進化をスキップして)、世界の覇者となった時代です。

権威もなければ、平等もない。そんな彼らに、いったい、世界帝国(グローバル化した世界)の盟主の役割が務まるのでしょうか?

(3)「トッド後」

識字化した核家族が主役となった「西欧近代」は、直系家族、共同体家族、緩和された共同体家族‥‥と進んできた世界の発展過程を、真っ直ぐにおし進めたものではありません。

1500年ごろ、識字化した核家族は、ふいに世界の中心部に現れて、世界の覇権を握りました。しかし、彼らが持っている家族システムは、類型化されたシステムの中で、もっとも「遅れた」、原初的なシステムである。

それぞれの家族システムがもっとも重視する価値を記載してみました(辰井の仮説です)

以上の事実を勘案して「トッド後」の補助線を描いてみたのが、下の図です(二層構造です)。

私たちが見ている事実(現象)は表層にすぎず、その深層には家族システムがあります(両者の関係性についてはこちらをご参照ください)。

近代以前、人間社会の発展は、大筋で、家族システムの進化と歩調をあわせていました。

ところが、近代になると、にわかに核家族が覇権を担う。家族システムに関していえば、5000年の進歩が一気にチャラになってしまったのです。

その後を襲う変化が、単純な「進歩」であるなどということは、むしろ、「およそ考えられない」というべきではないでしょうか。

上記の補助線をまじめに受け取るなら、西欧近代は、世界がそれまで進んできた軌道の延長線上で世界を進歩させたというよりは、世界が進む方向性に大きな変更を加えた可能性が高い。

そこで、このシリーズを貫く問いは、こうなります。

「西欧近代は、何をどう変えたのか?」

早速、確かめていきましょう。

近代以前の世界

近代は、一般に、「世界の一体化」の時代といわれます。世界史の教科書にはそう書かれています。地球の大部分が交易を通じて結び付けられ、社会・経済のグローバル化が進んだ時代であると。

この「世界の一体化」のストーリーは、基本的に、「トッド前」の補助線に依拠した筋立てになっています。

‥‥今までみてきたように、古代以来世界各地に成立・展開してきた諸地域世界は、決して孤立していたわけではなく、草原やオアシス、海上のルートをつうじてたがいに交流しており、またモンゴル時代のようにユーラシアの東西を結ぶ巨大な帝国がつくられた時代もあった。

改訂版 詳説世界史(世界史B)(山川出版社、2017年)176頁

というように、それ以前の「グローバル化」の進展を否定するわけでは決してない。以前から一定程度「グローバル化」は進んでいたのだが、それが質的・量的に飛躍的に発展したのが近代なのだ、というものです。

でも、それだけであるはずはない。
「トッド後」の補助線はそう訴えています。

「西欧近代は何をどう変えたのか?」

それを問うていくために、第1回の今回は、彼らが中心部に現れる以前の世界は、どんな風に進歩・発展していたのかを、概観します。

(1)イスラーム帝国の下での平和と繁栄

都市国家が成立して帝国に至るまでの歴史はこちら(↓)をご覧いただくとして、今回はいわゆる「世界帝国」に注目します。

①ペルシャ帝国

初めての「世界帝国」は、ペルシャ帝国(ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)(前550-330))でしょう。

順番としては、メソポタミア地域における帝国の完成(一応、新アッシリア帝国(前911-609)とします)の後。

ハカーマニシュ朝初代のキュロス2世のことはよくわかっていないようですが、パールサ地方(下の地図ではペルシス)か、エラム、あるいはより東方から出てオリエントを征服し、のちに帝国はアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる「真の世界帝国」となりました(↓)。

②イスラーム帝国

ハカーマニシュ朝の版図は、アレクサンドロス、ローマ帝国に継承されますが、この地に興った帝国の中で、「世界帝国」のレベルを一段階上げたといえるのは、イスラーム帝国だと思います。

イスラーム帝国は、ムハンマドの時代(622(ヒジュラ)-632)にアラビア半島を統一した後、正統カリフ時代を経て、ウマイヤ朝(661-750)、アッバース朝(750-1258)と展開し、版図を広げていきます。

アッバース朝の都、バクダードの繁栄ぶりについては、後藤明先生にお話をうかがっておきましょう。

平安の都と謳われたバグダードは、9世紀には繁栄の極に達し、その人口は100万人をこえていたとも想像される。まさに、当時の世界最大の巨大都市であった。

バグダードは‥‥軍事拠点としての円城と、その周囲の、民衆が住む街区よりなっていた。‥‥街区のいたるところにスーク(常設店舗市)があり、食料品、衣料品などの生活必需品から、金銀細工や宝石などの貴重品まで何でも売っていた。金さえあれば何でも手に入るのがバグダードなのであった。

バグダードは、古代にはメソポタミア文明を生んだ地であるイラクの平原にあった。ここは、この時代、無数の灌漑・排水のための運河が掘られ、高度な集約農業がおこなわれていた。それがバグダードの繁栄を直接ささえていた基盤であった。

一方で、運河は商品を運ぶ交通路でもあった。運河を行き来する船は、世界中から商品をバグダードに集めた。遠く中国からは絹、東南アジアやインドからは香辛料と木材、中央アジアからは銀、アフリカからは奴隷と象牙、ヨーロッパからは奴隷と木材、などなどがここにもたらされた。

イスラーム世界の外との貿易だけがさかんであったのではない。バグダードを中心とする商品流通のネットワークが、イスラーム世界の各地の都市を結び、さらにイスラーム世界の外部をも包み込んでいたのである。そのようなバグダードをはじめとするイスラーム世界の都市は、きわめて開放的な性格を保持していた。

後藤明「イスラーム国家の成立」『都市の文明イスラーム』(講談社現代新書、1993年)90-91頁
Illustration: Jean Soutif/Science Photo Library出典
One of the gates of the City of Peace. Source: Histoire Islamique(出典

(2)モンゴル帝国によるグローバル化の拡大 

世界のグローバル化という点で、その次に、大きな発展をもたらしたのは、モンゴル帝国です。

13世紀初頭、内陸アジアの片隅に突然現れたモンゴルは、150年ほどの間に、人類史上最大版図の帝国を成立させていきました。

彼らは、帝国を運営し発展させるにあたって、イスラーム国家を担ったムスリムたちを大いに重用したといわれています。彼らは、イスラームの作った土台の上に、世界帝国を発展させていったわけですね。

まずはモンゴル帝国史の杉山正明先生にお話を伺います。

軍事と通商の結合を主軸とするモンゴルとイラン系ムスリムとの「共生」ともいえる関係は、クビライが当時ユーラシア最大の富をもつ中国全土をも版図におさめて、遊牧世界と農耕世界、さらには海洋世界をもつつみこむ史上かつてない新型の世界国家「大元ウルス」、中国風には元朝をうちたててからは、いっそう大きな規模で展開することとなった。

南宋を接収し、海上ルートを手中にしたクビライ政権によって、モンゴル帝国は陸と海の巨大国家に変身した。陸上・海上でユーラシア大陸を循環する「世界通商圏」が成立し、空前の東西大交流が出現した

杉山正明「モンゴルが「世界史」をひらく」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)36-38頁(下の地図も同箇所より)

この点については、イスラーム社会経済史の専門家の家島彦一先生も、次のように書いています。

この[モンゴル時代に張りめぐらされた]陸上交通のネットワークは、中国から南シナ海〜ベンガル湾〜アラビア海にのびるインド洋の海上交通のネットワークとも連動して、ユーラシア大陸のうちと外を結ぶ壮大な海陸の交通が相互有機的に機能するようになった。インド洋の交通ネットワークは、イエメンを経由して、エジプト・紅海軸ネットワークとも結びつけられていた。

こうして13世紀半ばから14世紀半ばまでの100年間は、マルコ・ポーロや、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータの活躍に代表されるように、イスラーム世界を中心とした国際交易が広域的・多角的に機能し、未曾有の繁栄の時代が形成された。

家島彦一「国際通商ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)247-248頁

なるほど。「マルコ・ポーロ」が東方を見聞できたのも、鄭和率いる大艦隊がインド洋に遠征できたのも、その段階で、イスラム・モンゴルの連合体が、すでに世界のグローバル化を成し遂げていたからこそなのですね。

家島彦一「国際交易ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)249頁

そういうわけなので、世界史上の事実としては、インド航路の「発見」は、決して、ヴァスコ・ダ・ガマの功績というわけではありません。家島彦一先生に確認をお願いします。

一般にはヴァスコ・ダ・ガマによって「発見」されたと説かれているインド航路は、イスラーム世界に生活する人々にとっては、すでにそれより800年以上前から知られた交流圏の一部であった。特に13世紀半ば以後のインド洋は、東側は東シナ海・南シナ海から西側はアラビア海・ペルシア湾・紅海とインド洋西海域までをふくんで、一つに機能する「インド洋世界」を形づくっていた。

家島彦一「国際交易ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)251頁

(3)辺境のヨーロッパ

ヨーロッパが、中央部の「グローバル化」から完全に取り残されていたというわけではありません。

15世紀の終わり(1498年)になってようやくヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を「発見」したという事実が示すように、15世紀以前のヨーロッパは、インド洋を中心とするグローバルな通商ネットワークには接続していませんでした。

しかし、ヨーロッパには地中海という小窓がありました。おそらく、ローマ帝国時代の遺産だと思いますが、イタリア海洋都市(ヴェネツィア、ナポリ等)の商人たちが独占的に地中海交易を営んでおり、ヨーロッパは彼らを通じて、東方の文明にアクセスしていたのです。

辺境のヨーロッパから見て、アジアの豊かさがどれほど圧倒的であったか。ヴェネツィアの市場を訪れたあるヨーロッパ人の感想をお読みいただくのがよいでしょう。

まさしく、世界の品物のすべてがここに集まっているといっても過言ではない。ここにいる人間という人間のすべてが、死に物狂いで貿易にいそしんでいる。‥‥行き届いた設備をそなえて立ち並ぶ数多の商店は品物であふれ、まるで倉庫のようだ。そこには、あらゆる製法による膨大な数の布地ーータペストリー、ブロケード、多様な意匠のカーテン、種々のカーペット、色とりどりのキャムレット、あらゆる種類の絹地ーーがあり、また別の倉庫には、香辛料、食品、薬、そして見事な蜜蝋までが大量にあって、見る者を唖然とさせる光景だ。

ジェリー・ブロトン(高山芳樹訳)『はじめてわかるルネサンス』(ちくま学芸文庫、2013年)51-52頁

当時のヨーロッパは、世界の辺境に位置する貧しい地域だった。この事実はとても重要なので、もう一つ、エピソードをご紹介させていただきます。

インド洋航路を「発見」し、カリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマは、現地の王(カリカット王)に謁見したときの話です。

謁見に備えて、ポルトガル王から託された贈り物を調えていたガマのところへ、王の役人やイスラム教徒の商人が様子を見にやってきました。彼らは贈り物を見て笑い出し、次のようにいったそうです。

「これは王への贈り物などではない。この町にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している。もし王に何かを求める気なら、金を贈らないと。」

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)45頁

(4)ヨーロッパはなぜ「大航海」に出たのか

すでにお気づきかもしれませんが、この「貧しさ」、もう少しロマンチックにいうと「東方への憧れ」こそが、ヨーロッパが「大航海」に乗り出した根本的な理由です。

コロンブス(クリストバル・コロン)が黄金の国ジパングを求めて大西洋に乗り出したというのは俗説で、実際には、「マルコ・ポーロ」の東方見聞録に書かれた「大カアンの国」、すなわちクビライの巨大帝国への旅であったことが、『航海誌』の冒頭に明記されているそうです。

地球を西へひたすらゆけば、モンゴル帝国の宗主国に辿りつけるはずだとの考えであった。

杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』303頁

ヴァスコ・ダ・ガマが目指したのは、極東の地「インド」にあるとされた「乳と蜜が流れる」キリスト教帝国でした。ガマはポルトガル王から、帝国の支配者とされたプレステ・ジョアンへの親書を託されてすらいたというのです(福井・38頁)。

なお、ポルトガルがインド洋に進出した背景について、西洋史の文献を探ってみると、この頃のインド洋貿易は「イスラーム商人に独占されていた」と記載するものが少なからず存在します。

それほどはっきり書かれているわけではありませんが、この筋書きの場合、ヨーロッパは「イスラーム商人による貿易の独占を打破するためにインド洋に進出した」という解釈になるのでしょう。

しかし、当時のインド洋貿易がムスリムに独占されていたというのは、おそらく、当時の無知ないし被害妄想に端を発する誤解です。

少し長い引用になりますが、大事なことなので、羽田正先生にしっかりご説明いただきましょう。

インド洋で活躍する商人は、各々血縁や出身地、それに宗教ごとに共同体を作り、その仲間が協力して商業活動に従事していた。8~9世紀以後にアラビア語を話すイスラーム教徒が進出したこの海域は、ときに「イスラームの海」と見なされることがある。しかし、これは当時の現実を単純化しすぎた誤った見方である。確かにこの地域には、ムスリムの商人や船乗りも多かった。しかし、それ以外に、バニアと呼ばれたグジャラート地方のヒンドゥー系、それ以外の地域の別のヒンドゥー宗派系、ジャイナ教系、ユダヤ教系、アルメニア正教系、さらにはインドのキリスト教系などイスラーム教以外の宗教を信じる商人が、それぞれの共同体を作って活発な交易活動を展開していた。

また、ムスリムがすべて仲間となり、一つの集団を作っていたわけでもない。アラビア半島のアデンを拠点とするアラブ系の人々、ペルシャ湾入り口のホルムズに根拠を持つイラン系やアラブ系の人々、北西インドのグジャラート各地を拠点とするスンナ派やシーア派の人々、インド・マラバール海岸のカンナノール郊外とポンナニ近郊に集住するマーッピラと呼ばれる集団に属する人々など、ムスリムの集団がいくつも併存しており、それぞれの集団の間で、貿易の方法や利益をめぐって争いが起こることもあった。

「イスラームの海」という言葉は、ムスリムが一体となってインド洋海域の貿易を自分たちのやり方で完全に支配していたかのように思わせるが、そのような実態はない。異なった宗教を信じる多様なエスニック集団が、共存して競争しながら貿易を行うのが、この海域の商業活動の特徴だった。ガマに率いられたポルトガル人は、自分たちがキリスト教徒であることを隠す必要はまったくなかった。彼らがこの海域の基本的なルールに従って貿易を行うかぎり、他の商人たちは彼らを新しい競争相手として特に問題なく受け入れただろうからである。

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)39-40頁

次回に向けて

以上に見てきたように、近代以前、つまり、西洋人が「大航海」を始め、近代化の道を開くより前に、世界は、共存共栄を旨とする、グローバルな自由貿易圏を実現していました。

共同体家族(とくに内婚制)を中心に営まれていたこの自由な海に、識字化した核家族が乗り込んだとき、彼らはどんな行動を取り、世界をどのように変えていくのでしょうか。

次回に続きます。


おまけ:「大航海」の背景【気候編】

コロンブスはモンゴル帝国を目指し、ガマは架空のインド・キリスト教王国を夢見て大海に乗り出したと書きました。しかし、偽書が出回ったのは12世紀ですし、「マルコ・ポーロ」の見聞録が広まりだしたのは14世紀初頭。なぜ、彼らは、15世紀中葉になって、突然「大航海」を始めたのでしょうか。

田家康『気候文明史』(日経ビジネス人文庫、2019年)235頁

識字率の上昇傾向は大前提として、それ以外にも、彼らのメンタリティに大きな影響を与えたと見られる要素があります。気候です。

上の人口の推移の表をご覧ください。表には500年からのデータが記されていますが、ここでは1000年以降に着目します。

まず、ヨーロッパ全域の人口は、1000-1340年(340年間)の間に倍増しています。しかし、直後の1340-1450年(110年間)には、再び大幅な減少局面を迎えるのです。

1000年からの人口増と1340年からの人口減は、どちらも気候変動から説明できます。

https://cdn.britannica.com/15/149415-050-8DFF938D/Estimates-temperature-variations-Northern-Hemisphere-England-2000-ce.jpg

気候史において、10世紀から14世紀(900-1300年頃)は「中世温暖期」と呼ばれる、ヨーロッパが温暖な気候に恵まれた時代で、ヨーロッパでは農業生産が増大し、人口も大いに増えました(グラフの通り、世界的な現象ではなかったようです)。

一方、移行期を挟んで、14世紀中頃から19世紀後半は「小氷期」と呼ばれる寒冷化の時代です。中でも(移行期を含む)以下の4期は、とくに厳しい寒さとなりました。

  • 1️⃣1280-1340頃
  • 2️⃣1420-1530頃
  • 3️⃣1645-1715頃
  • 4️⃣1790-1830頃

ヨーロッパの人口は、1️⃣の期間の後に大幅に減少します(↓)。

西ヨーロッパの人口と人口増加率(statista)

そして、15世紀半ば、人口が底に達したヨーロッパを(↑)、再度の厳寒期(2️⃣)が襲うのです。

まさにこの時に、大航海時代は始まりました。

私たちは、大航海時代以降のヨーロッパの歴史を、なんとなく、地道に国力を蓄えたヨーロッパが、満を持して、世界で大活躍を始めた歴史、というように捉えがちです(私はそうでした)。

しかし、その出発点において、彼らの気分が、「時は来た。いまこそ世界制覇に乗り出そう」といった威勢のよいものでなかったことは明らかです。

ヨーロッパは、どちらかといえば、食うに困り、どこかにあるはずの「豊かさ」を求めて旅立った。その気分は、この先の彼らの行動に、一定の影響を及ぼしていくことでしょう。

  • われわれが西欧のことを正しく理解していないのは「なんだかんだいっても、世の中は進歩してきた」という前提が誤っているからかもしれない。
  • 家族システムの理論によれば、西欧近代とは、最も遅れた家族システムを持つ集団が識字の力で覇権を取った時代であり、彼らは世界を単純に進歩させたというより世界が進む方向性を大きく捻じ曲げた可能性が高い
  • 西欧近代を正しく理解するためには、家族システムの進化と連動していた近代以前の世界史の流れと比較し「西欧近代は何をどう変えたのか」を見ていく必要がある。
  • 大航海時代に辺境のヨーロッパが初めて足を踏み入れたインド洋には、すでに共存共栄を旨とする開放的なグローバル交易圏が成立していた。
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トッド入門講座

アメリカ I
-差別と教育とデモクラシー(下)-

 

アメリカ社会に何が起きたのか?

前回からの続きです。

アメリカ社会における「人種主義のその後」について、
ここまで確認できたことをまとめます。

  • 白人非エリート層の人種感情は消えなかった。
  • 白人非エリート層の反黒人感情には、エリートとの敵対関係を転嫁した面があった。
  • 政治家は白人非エリート層の反黒人感情を煽り、利用し、新自由主義的政策を実現した。
  • 政治家は黒人を刑務所に大量収監して「新たな奴隷制」ともいえる状況を作った。

以上の事実は、アメリカ社会の心性に何が起きたことを表しているのでしょうか?

今回はその分析を行います。

*以下の分析は、『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』に書かれている内容を最大限分かりやすく咀嚼した(つもりの)ものです。私の独自解釈ではありません。

①三段論法 ver.1 は高等教育組の間で作用した可能性がある。

「平等」崩壊の三段論法 ver.1

① 白人は「劣った者=黒人」ではないゆえに平等である。
② 黒人は「劣った者」ではない(黒人と白人は平等である)。
③ ∴ 白人は平等ではない。

上記の三段論法の中の「②黒人と白人は平等である」というメンタリティを実際に獲得した可能性があるのは、高等教育組だけです。

したがって、高等教育組においては、三段論法ver.1が機能し、また「デモクラシー衰退の公式」(↓)が働いた可能性があるといえます。

デモクラシー衰退の公式

平等の不在+(教育の不平等+黒人の包摂による白人の平等の崩壊)
=極端な不平等

*平等指数

デモクラシー成立の公式と比較して「平等指数」を算出すると、ここで起きたメンタリティの変化が分かりやすくなるかもしれません。やってみます。

成立平等の不在(0)教育の平等
(1)
黒人排除による白人の平等
(1)
衰退平等の不在(0)教育の階層化(-1)黒人包摂による白人の平等の崩壊(0)-1

絶対核家族ないし原初的核家族の「平等の不在」は単に「平等に無関心」な状態なので0点です。

0点から出発したアメリカは、教育の平等(1点)、黒人排除による白人の平等(1点)を加えて平等指数2点を達成し、全員参加型デモクラシーを成立させました。

高等教育の進展は階層化という不平等の下意識をもたらすため-1点、他方「黒人包摂による白人の平等の崩壊」は「平等」から「無関心」への回帰を意味するので0点で算出します。 

高等教育の進展と黒人包摂による白人の平等の崩壊がダブルパンチとなって、高等教育組の「平等」メンタリティは一挙に3点のマイナスとなり+2点から-1点に落ち込んだわけです。

新自由主義政策を推し進め、極端な「格差と分断」を実現させたのは高等教育組のエリートですから、彼らのメンタリティーが「デモクラシー衰退の公式」に支配されていたと考えるのはそれなりに合理的といえるでしょう。

エリート層は、①教育の平等に基づくメンタリティ、②黒人排除による白人の平等メンタリティの2つを失い、高等教育の進展に基づく階層化意識に支配されるようになった。

②エリートにおける三段論法ver.2の浸透は白人非エリート層にとって脅威となった可能性がある。

一方、白人非エリート層には「黒人と白人は平等である」というメンタリティーは浸透しませんでした。

しかし、黒人だけでなくエリートの白人が積極的に人種差別撤廃に乗り出したことは、白人非エリート層の間につぎのような不安や恐怖をかき立てたかもしれません。

白人非エリート層の不安

①自分たちは「黒人=劣った者」ではない者として平等であり、然るべき社会的・経済的地位を得るはずだった。
②エリートは「黒人は劣った者ではない」(黒人と白人は平等だ)という社会を作ろうとしている。
③自分たちが得るはずだった社会的・経済的地位は黒人に奪われ、自分たちは底辺に追われるかもしれない。

白人非エリート層は、エリート層と黒人が主導する人種差別撤廃運動によって、「平等な白人」としての地位を失うことへの不安、社会的・経済的地位を奪われる恐怖を抱いた

③白人非エリート層の人種感情を利用した新自由主義政策の推進は、白人エリート層の中で「白人の平等」が崩壊したことの表れである。

政治家(基本的にエリート層です)の当該行為は、倫理的にみると、白人非エリート層に対する裏切りであり、同時に黒人に対する裏切りでもあります。ここではまず前者を論じます。

このとき(というか、現在に至るまで)、白人エリート層は、非エリート層の反黒人感情を利用して、本来なら敵対するはずの彼らを味方につけ、非エリートの利益に反する政策を追い求めました。

白人エリート層にこうした行為をなさしめた、そのメンタリティの基礎にあったのは、①で示したメンタリティ、とりわけ高等教育の進展による階層化意識(②)と黒人の包摂による「白人の平等」の崩壊(③)であったと考えられます。

エリートたちはもう、労働者階級の白人に対して、同じ仲間、「われら人民」という感覚を持てなくなってしまったのです。

では、黒人に対する「裏切り」を許したものは何だったのか。次項でまず、もっとも極端な「裏切り」事例、「黒人の大量収監」とは何だったのかを考えた後、白人エリートの内面を探ります。

④「新たな奴隷制」は白人層の不安に対するセラピーであった可能性がある。

政権による「大量収監」を理解する鍵となるのは、②で検討した白人非エリート層の不安です。

1980年から2015年の間、アメリカは、不平等と雇用の不安定化が急速かつ着実に進行するのを経験した。人々は病や老いに対処できないのではないかという潜在的な不安を経験し、その不安は社会的地位が低ければ低いほど大きかった。監獄の拡大は、こうした不安を、収監の不安という別の不安によって治癒しようとするものだった。新自由主義の前進は、自然でもなければ、容易な経験でもなかったのだ。‥‥しかし、なぜ黒人がターゲットとなったのだろうか?‥‥ われわれは、人種をターゲットとした抑圧が、白人の平等主義に邪悪な変容をもたらしたことを心に刻む必要がある。白人の平等は、教育へのアクセスと所得配分からは消え失せたが、今なおネガティブな形でそこにある。いま白人が共有するもの、それは、そう頻繁には収監されないという特権なのだ。

下・96頁、英語版240頁

白人非エリート層は不安を感じていた。彼らは、自分たちは「劣った者=黒人」ではないがゆえに平等であり、価値があり、希望があるという、慣れ親しんだ考え方に戻りたがっていた。

彼らの不安を治癒するために、もっとも有効な方法の一つは、「黒人の地位を体系的におとしめる」ことであったでしょう。

そこで取られた策が、黒人の中の教育水準の低い層をターゲットとした大量収監であったと、トッドはそのように述べているのです。

トッドは、共和党や民主党の政治家が正気の頭でこのような解決策を見出したと考えているわけではありません。

彼は、大量収監の文脈として、この時期のアメリカ社会がある種の移行期にあって、社会全体が不安と混乱に陥っていた点を強調しています。

ここまで「エリート/非エリート」(高等教育組/初等・中等教育組)という二分法を採用してきましたが、1980年代以降、この区分に変化が生じたことを確認する必要があるでしょう。

1970年代には、将来に不安を抱いたのは労働者だけであったかもしれません。しかし、1980年代から顕著になった市場原理主義の「超格差社会」では、大卒組を含め、ごく一部の超エリート以外のほぼすべての人にこの不安が拡大したと考えられます。

トッドの解釈では、アメリカ社会における「新たな奴隷制」の登場は、こうした社会全体の心的混乱の表現なのです。

下のグラフをご覧いただくと(トッドが引用するこの論文からの転載です)、ちょうどこの頃から、アメリカの白人の死亡率が顕著に上昇していることがわかります。

*トッドは「このような死亡率上昇は、世界中の他の先進社会にも類例がない」(下・103頁)としていますが、その通りのようです。

All-cause mortality, ages 45–54 for US White non-Hispanics (USW), US Hispanics (USH), and six comparison countries: France (FRA), Germany (GER), the United Kingdom (UK), Canada (CAN), Australia (AUS), and Sweden (SWE).

さらに次のグラフをご覧いただくと、主な死亡原因が「明らかに社会心理的なもの」であることが分かります(上昇している3項目は上から薬物中毒、自殺、慢性肝臓疾患)。 

Mortality by cause, white non-Hispanics ages 45–54.

ドナルド・トランプが共和党の大統領候補に選出され、2016年には大統領に当選するという事態を説明すると思われるのは、まさしくこの成人死亡率の上昇である。これは、1970-1974年のロシアにおける乳児死亡率の上昇が私に旧ソ連の崩壊を予見させたのと同じ性質の事象といえる。

下・103-104頁、英語版 243頁

なるほど‥‥。しかし、まだ疑問は残ります。

社会全体が不安に包まれたとはいえ、エリートたちは、「黒人は劣っている」という観念を逃れつつあったはずです。

彼らはいったい、刑務所送りになり、二度と社会に復帰できないかもしれない黒人たちのことをどう考えていたのでしょうか。

⑤高等教育組のエリートの間に、別種の「三段論法」が働いた可能性がある。

おそらく次のように考えてみることが許されるだろう。高等教育の進展によって平等の感覚が揺さぶられた白人の世界で、「黒人の劣等性」がその機能を失ったのではないかと。

下・78頁 英語版228頁

ひえ〜、怖い!
怖いけど説明します。

アメリカ社会において、「黒人の劣等性」の観念は「白人の平等」を基礎付ける機能を担っていました。

しかし、高等教育組のエリートはもう「白人の平等」を信じていませんでしたし、非エリート層とは違って「白人の平等」にしがみつく必要もなかった。彼らにとって「白人の平等」は用済みの、守る価値のない観念となったのです。

「黒人の劣等性」は「白人の平等」を基礎付けるための観念なので、後者が不要になったことで、前者も不要になりました。

「黒人の劣等性」が放逐されたなら「平等」に近づくか。

原初的(ないし絶対)核家族の場合、そのようには行きません。彼らにおける「平等の不在」とは平等への無関心を意味するからです。

「関心がない」。つまり、「どっちだっていい」。

そういうわけで、「白人の平等」の根拠としての機能を失った「黒人の劣等性」は、無関心の海を漂います。もはや、黒人が劣等であろうがなかろうが、平等であろうがなかろうが、どっちだっていいのです。

高等教育組に作用したと見られる「別種の三段論法」。あえて言葉にするなら、このようになるでしょう。

「平等」崩壊の三段論法 ver.2

① 白人が平等である限り、黒人も平等でなければならない。

② 白人は平等ではない。

③ ∴ 黒人が平等でなくても問題ではない。

なお、この三段論法 ver.2は、一見、①の三段論法 ver.1およびデモクラシー衰退の公式と矛盾しそうですが、そうではありません。

三段論法 ver.1を次のように読み替えていただくと、両者が両立することが分かります。

 ver.1 ②「黒人と白人は平等である」
         ↓
     「黒人と白人は平等に平等でない」

そして、デモクラシー衰退の法則における「黒人の包摂」とは、「平等な市民」としての包摂ではなく、「平等に平等でない市民」としての包摂を意味しているのです。      

超格差社会へのシークエンス

前回から取り組んでいるこちらの謎。

「教育の平等の崩壊→格差の拡大というメカニズムを先進国が共有する中で、アメリカにおける「格差と分断」が飛び抜けて急速かつ極端なものとなったのはなぜか?」

いよいよ解明できるときがやってきました。

順を追っていきましょう。 

  1. 平等不在のアメリカ社会におけるデモクラシー成立の基礎は、
    ①教育の平等②白人の平等を基礎付ける人種主義 にあった。 
  2. 高等教育の進展で①が崩壊した。
  3. 2の結果、白人の平等を信じなくなった高等教育組の間で人種主義が消失に向かった結果、エリートの心性は ①教育による階層化、②平等への無関心 の2つに支配された。
  4. 「黒人の劣等性」が不要になったエリートが人種差別撤廃政策を推進する一方、「白人の平等を基礎付ける人種主義」の消失は非エリート不安にした。
  5. 教育による階層化を内面化し、かつ、平等に無関心になったエリートは、非エリートの人種感情を煽って階級闘争を回避しつつ、社会保障を切り詰め「上」の所得の無限定な上昇を可能にする新自由主義的政策を追求した。
  6. 過度の自由競争と格差の増大で社会全体が不安定化した。
  7. 社会不安の緩和のため、大量収監によって、下層の黒人の地位が体系的に下げられた
  8. 上下に向けて際限のない格差の拡大が可能になった。 

デモクラシー成立の公式」に対応させて公式を作るなら、次のようになるでしょう。

デモクラシー粉砕の公式

平等の不在+(教育の不平等+人種感情の利用)
=「急速で極端な」格差・分断によるデモクラシーの粉砕

*「白人の平等」が崩壊した結果、平等への無関心が蔓延した点は、もともとの「平等の不在」に回収されたものとして表現しています。ちなみに「粉砕」の平等指数は、(0)+(-1)+(-1)=(-2)かな、と思います。

アメリカにおける「飛び抜けて急速かつ極端な」格差と分断は、
(1)エリート層を中心に
①教育に基づく階層化、②平等への無関心 の心性が蔓延したこと
(2)人種感情が

①敵意をかわす楯、②不安を癒すセラピー として機能したこと
で可能になった

なぜ人種感情なのか?
ー原始の民のデモクラシー

アメリカのデモクラシーは、成立に際して、人種感情を「白人の平等」構築のために役立てました。

その同じ人種感情が、衰退のときには、際限のない格差増大への怒りをかわし、不安に対処するために用いられた。

どうも、アメリカ社会は、人種感情を調整弁のように利用することで、そのときどきの(教育の次元が命じる)モードに応じて最大限「急速かつ極端」に進行する仕組みになっているようです。

しかし、なぜ人種感情なのでしょうか?

トッドは、アメリカが、原始のホモ・サピエンスにもっとも近いシステム(原初的核家族に近い絶対核家族)を持つ社会であることに、その理由を求めています。

James G. Fergusonの指摘によれば、人間の集団は、「われわれ/彼ら」という集団相互の対置においてのみ存在しうる。

下・27頁、英語版 199頁

*日本語版には「アダム・ファーガソン」とありますが、トッドがここで哲学者を引き合いに出すとは思えないので、James G. Ferguson(人類学者)とする英語版に従います。

‥‥歴史的に特定できる最古の人間集団(ゲルマン人、ローマ人その他多くの民族)の行動からは、彼らが種族としての強固なアイデンティティと、征服した民族に属する個人や集団を統合、消化、同化する能力を併せ持っていることが感じ取れる。‥‥アメリカにおける、オープンさと人種主義の併存、ヨーロッパ系を同化する一方先住民や黒人は拒絶するというその在り方は、おそらく、貪欲な同化吸収者であると同時に差別主義者でもあった原初のホモ・サピエンスモデルが現代の大陸に完全復活したにすぎないのだ。

下・27-28頁、英語版 199頁

原初のホモ・サピエンスは征服した民族を同化吸収する一方、異民族を差別・排斥することで集団としての統合性を保った。アメリカ社会の開放性と人種主義はその再現である

アメリカ II に向けて

正直、解明できてこれほど嬉しくない謎も珍しいです。

しかし、「平等不在」のアメリカにおける全員参加型デモクラシーの成立と衰退というテーマについては、私は概ね納得しました。

皆さんはいかがでしょうか。ご感想などありましたらお気軽にお寄せ下さい(反応するかどうかは分かりません)。

ーーー

アメリカに関する探究はまだ続きます。

予告編のとおり、家族システムの観点から見たとき、アメリカという国には、2つの謎があります。

1つは「平等不在」のアメリカがなぜ全員参加型のデモクラシーを成立させたのか、という謎で、こちらは「粉砕」までの過程を含めて、トッドが見事に解明してくれました。

残るのは、「権威不在」のアメリカになぜ国家の形成が可能であったのか、という謎です。

「平等」を中核としたトッドの分析は、社会・経済的事象の説明が中心でしたが、「権威」の分析では、アメリカ社会の政治や外交に焦点が当たることになるでしょう。


「アメリカ II」(satokotatsui.com)でお目にかかれますように。

今日のまとめ

  • アメリカにおける「急速かつ極端な」格差と分断は以下の2つの要素により可能になった。
  • エリート層を中心に、①教育に基づく階層化、②平等への無関心 のメンタリティが蔓延したこと(1)
  • 人種感情が、①敵意をかわす楯、②不安を癒すセラピー として機能したこと(2)。
  • 原初のホモ・サピエンスは征服した民族を同化吸収する一方、異民族を差別・排斥することで集団としての統合性を保った。アメリカ社会の開放性と人種主義はその再現である。