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トッド入門講座

「トッド後」の近代史
(1)近代以前の世界

はじめに

「自由で民主的で豊かな社会を目指して進んできたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか」という問いから、私の探究は始まりました(2020年頃)。

近代化の契機は核家族の識字化であったことはわかった。「自由と民主」は偉大な発明品というよりは、素朴な核家族メンタリティの反映であったこともわかったし、民主化とは大衆の教育レベルの上昇(識字化)であることもわかった。格差社会の根底に高等教育の普及があることもわかったし、アメリカが原初的核家族に退化しているらしいことも、おかねの増えすぎが世界を賭博場にしたこともわかった。

でも、私は、まだなんとなく釈然としません。

「だからって‥‥
 ここまでめちゃくちゃでなくてもよくないか?」

現在のこの世界を見ていると、どうしても、そう感じてしまう。

2024年現在、世界は、文字通り(=比喩ではなく)、殺戮、謀略、略奪、嘘で溢れています。主体は決してアメリカだけではなくて、とくに目につくのはイギリス、それからフランス、ドイツ。私たちがずっと憧れ、手本としてきた国々が、一斉に狂気に陥っている、といった風なのです。

いったい、どうなってしまったのでしょうか。

エマニュエル・トッドが、同じ気持ちで世界を眺めていることは、近年のインタビューから伺えます。

私はフランス人ですが、イギリスの大学で学び、研究者となりました。そんな経験から、私はイギリスに敬意を愛着を感じ、「イギリスは合理的で素晴らしい国、バランスのとれた国だ」とずっと思ってきたのです。

ところが、この戦争をめぐるイギリス政府の態度は、狂っているとしか言いようがありません。非常に好戦的な姿勢を見せています。そもそもアメリカとともに、ウクライナ軍を武装化してロシアと戦争するように嗾(けしか)けたのも、イギリスです。

非合理的な「ロシア嫌い」や「軍事主義(自国の兵士は送っていませんが)」へと逃げているのは、イギリスが深いところで精神的かつ社会的に病んでいるからだ、と考えざるを得ません。しかも近代民主主義が誕生したイギリスがこんな状態にあるだけに、大きな不安を感じています。

『第三次世界大戦はもう始まっている』(2022年)192-193頁(強調は辰井)

「病んでいる」。そう、たしかに、ウクライナをけしかけ、イスラエルに武器を提供し続ける彼らは、精神的かつ社会的に病んでいるように見えます。

しかし、健やかなるときも、病めるときも、社会は家族システムから逃れられない。それがトッドの教えです。

「たぶん、私たちは、自由だの、人権だの、なんちゃら主義だの、そんな言葉にうっとりしていただけで、西欧近代の何たるかを理解していなかったのだな。」

私はそのように理解しました。
そうとわかればやることは一つ。

探究を始めましょう。

「トッド後」の補助線

(1)「トッド前」

このシリーズのタイトルは「「トッド後」の近代史」です。何が「トッド後」なのか。趣旨をご説明させていただきます。

私たちが、歴史上の出来事を見て、何らかの評価を下すときには、一定の尺度というか、補助線を用いるのが通常です。ある事象が(例えば)「進歩」を示す事実なのか、「退歩」や「一時的停滞」なのか、といったことは、その事象単体では判断できませんから。

「トッド前」のわれわれは、非常に大まかにいうと、次のような補助線を用いて「近代」を見ていたと思います。

要するに、「なんだかんだいっても、世の中は進歩してきたのだ」ということですね。

私たちは、近代におけるヨーロッパの行動、彼らが起こした事件、作ってきた制度や仕組みを、この補助線の上に並べて理解し、それを「進歩」だと考えてきたわけです。

しかし、私たちが、西欧近代を正しく理解していなかったとするなら、その原因は、もしかすると、この補助線にこそ、あるのかもしれません。

‥‥ 思えば、エマニュエル・トッドは、明らかに、これとは異なる補助線の存在を、私たちに示唆していたではないですか。

(2)近代化の逆説

新たな補助線を求めるわれわれに、大いなる示唆を与えるトッドの理論とは「近代化の逆説」です。

  • 西欧近代の価値観(リベラル・デモクラシー、自由主義経済など)の基礎にあるのは、核家族システムである。
  • 核家族システムは、もっとも古く、もっとも「進化していない」家族システムである。

トッドが解明したこの2つの事実を組み合わせると、もっとも「進歩した」社会を構築したのは、もっとも「遅れた」家族システムであった、という命題が導かれます。これを「近代化の逆説」と呼びましょう。

トッド自身は、当初、この「近代化の逆説」を、どちらかといえば「喜ばしい発見」という風に捉えていたと思います。

自由という本来なら野蛮に属するものを、洗練したシステムに昇華して制度化できたのは、西欧に「遅れた」システムが残存していたからこそである。彼はそのように考えて「なんて素敵なことだろう」とときめいていたのです。

しかし、すでに「家族システムの変遷」の探究を終えた私たちは、これに簡単に同調することはできません。なぜなら、私たちは、原初的核家族から直系家族、共同体家族への進化は、人口密度が高まり、集団間の接触が増えた世界で、国家を形成し、帝国に発展させ、より広い領域に亘る秩序の維持を可能にするために、必要な発明であったことを知っているからです。

近代とは、原初的核家族と同じ価値観を持つ人たちが、識字の力で(=家族システムの進化をスキップして)、世界の覇者となった時代です。

権威もなければ、平等もない。そんな彼らに、いったい、世界帝国(グローバル化した世界)の盟主の役割が務まるのでしょうか?

(3)「トッド後」

識字化した核家族が主役となった「西欧近代」は、直系家族、共同体家族、緩和された共同体家族‥‥と進んできた世界の発展過程を、真っ直ぐにおし進めたものではありません。

1500年ごろ、識字化した核家族は、ふいに世界の中心部に現れて、世界の覇権を握りました。しかし、彼らが持っている家族システムは、類型化されたシステムの中で、もっとも「遅れた」、原初的なシステムである。

それぞれの家族システムがもっとも重視する価値を記載してみました(辰井の仮説です)

以上の事実を勘案して「トッド後」の補助線を描いてみたのが、下の図です(二層構造です)。

私たちが見ている事実(現象)は表層にすぎず、その深層には家族システムがあります(両者の関係性についてはこちらをご参照ください)。

近代以前、人間社会の発展は、大筋で、家族システムの進化と歩調をあわせていました。

ところが、近代になると、にわかに核家族が覇権を担う。家族システムに関していえば、5000年の進歩が一気にチャラになってしまったのです。

その後を襲う変化が、単純な「進歩」であるなどということは、むしろ、「およそ考えられない」というべきではないでしょうか。

上記の補助線をまじめに受け取るなら、西欧近代は、世界がそれまで進んできた軌道の延長線上で世界を進歩させたというよりは、世界が進む方向性に大きな変更を加えた可能性が高い。

そこで、このシリーズを貫く問いは、こうなります。

「西欧近代は、何をどう変えたのか?」

早速、確かめていきましょう。

近代以前の世界

近代は、一般に、「世界の一体化」の時代といわれます。世界史の教科書にはそう書かれています。地球の大部分が交易を通じて結び付けられ、社会・経済のグローバル化が進んだ時代であると。

この「世界の一体化」のストーリーは、基本的に、「トッド前」の補助線に依拠した筋立てになっています。

‥‥今までみてきたように、古代以来世界各地に成立・展開してきた諸地域世界は、決して孤立していたわけではなく、草原やオアシス、海上のルートをつうじてたがいに交流しており、またモンゴル時代のようにユーラシアの東西を結ぶ巨大な帝国がつくられた時代もあった。

改訂版 詳説世界史(世界史B)(山川出版社、2017年)176頁

というように、それ以前の「グローバル化」の進展を否定するわけでは決してない。以前から一定程度「グローバル化」は進んでいたのだが、それが質的・量的に飛躍的に発展したのが近代なのだ、というものです。

でも、それだけであるはずはない。
「トッド後」の補助線はそう訴えています。

「西欧近代は何をどう変えたのか?」

それを問うていくために、第1回の今回は、彼らが中心部に現れる以前の世界は、どんな風に進歩・発展していたのかを、概観します。

(1)イスラーム帝国の下での平和と繁栄

都市国家が成立して帝国に至るまでの歴史はこちら(↓)をご覧いただくとして、今回はいわゆる「世界帝国」に注目します。

①ペルシャ帝国

初めての「世界帝国」は、ペルシャ帝国(ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)(前550-330))でしょう。

順番としては、メソポタミア地域における帝国の完成(一応、新アッシリア帝国(前911-609)とします)の後。

ハカーマニシュ朝初代のキュロス2世のことはよくわかっていないようですが、パールサ地方(下の地図ではペルシス)か、エラム、あるいはより東方から出てオリエントを征服し、のちに帝国はアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる「真の世界帝国」となりました(↓)。

②イスラーム帝国

ハカーマニシュ朝の版図は、アレクサンドロス、ローマ帝国に継承されますが、この地に興った帝国の中で、「世界帝国」のレベルを一段階上げたといえるのは、イスラーム帝国だと思います。

イスラーム帝国は、ムハンマドの時代(622(ヒジュラ)-632)にアラビア半島を統一した後、正統カリフ時代を経て、ウマイヤ朝(661-750)、アッバース朝(750-1258)と展開し、版図を広げていきます。

アッバース朝の都、バクダードの繁栄ぶりについては、後藤明先生にお話をうかがっておきましょう。

平安の都と謳われたバグダードは、9世紀には繁栄の極に達し、その人口は100万人をこえていたとも想像される。まさに、当時の世界最大の巨大都市であった。

バグダードは‥‥軍事拠点としての円城と、その周囲の、民衆が住む街区よりなっていた。‥‥街区のいたるところにスーク(常設店舗市)があり、食料品、衣料品などの生活必需品から、金銀細工や宝石などの貴重品まで何でも売っていた。金さえあれば何でも手に入るのがバグダードなのであった。

バグダードは、古代にはメソポタミア文明を生んだ地であるイラクの平原にあった。ここは、この時代、無数の灌漑・排水のための運河が掘られ、高度な集約農業がおこなわれていた。それがバグダードの繁栄を直接ささえていた基盤であった。

一方で、運河は商品を運ぶ交通路でもあった。運河を行き来する船は、世界中から商品をバグダードに集めた。遠く中国からは絹、東南アジアやインドからは香辛料と木材、中央アジアからは銀、アフリカからは奴隷と象牙、ヨーロッパからは奴隷と木材、などなどがここにもたらされた。

イスラーム世界の外との貿易だけがさかんであったのではない。バグダードを中心とする商品流通のネットワークが、イスラーム世界の各地の都市を結び、さらにイスラーム世界の外部をも包み込んでいたのである。そのようなバグダードをはじめとするイスラーム世界の都市は、きわめて開放的な性格を保持していた。

後藤明「イスラーム国家の成立」『都市の文明イスラーム』(講談社現代新書、1993年)90-91頁
Illustration: Jean Soutif/Science Photo Library出典
One of the gates of the City of Peace. Source: Histoire Islamique(出典

(2)モンゴル帝国によるグローバル化の拡大 

世界のグローバル化という点で、その次に、大きな発展をもたらしたのは、モンゴル帝国です。

13世紀初頭、内陸アジアの片隅に突然現れたモンゴルは、150年ほどの間に、人類史上最大版図の帝国を成立させていきました。

彼らは、帝国を運営し発展させるにあたって、イスラーム国家を担ったムスリムたちを大いに重用したといわれています。彼らは、イスラームの作った土台の上に、世界帝国を発展させていったわけですね。

まずはモンゴル帝国史の杉山正明先生にお話を伺います。

軍事と通商の結合を主軸とするモンゴルとイラン系ムスリムとの「共生」ともいえる関係は、クビライが当時ユーラシア最大の富をもつ中国全土をも版図におさめて、遊牧世界と農耕世界、さらには海洋世界をもつつみこむ史上かつてない新型の世界国家「大元ウルス」、中国風には元朝をうちたててからは、いっそう大きな規模で展開することとなった。

南宋を接収し、海上ルートを手中にしたクビライ政権によって、モンゴル帝国は陸と海の巨大国家に変身した。陸上・海上でユーラシア大陸を循環する「世界通商圏」が成立し、空前の東西大交流が出現した

杉山正明「モンゴルが「世界史」をひらく」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)36-38頁(下の地図も同箇所より)

この点については、イスラーム社会経済史の専門家の家島彦一先生も、次のように書いています。

この[モンゴル時代に張りめぐらされた]陸上交通のネットワークは、中国から南シナ海〜ベンガル湾〜アラビア海にのびるインド洋の海上交通のネットワークとも連動して、ユーラシア大陸のうちと外を結ぶ壮大な海陸の交通が相互有機的に機能するようになった。インド洋の交通ネットワークは、イエメンを経由して、エジプト・紅海軸ネットワークとも結びつけられていた。

こうして13世紀半ばから14世紀半ばまでの100年間は、マルコ・ポーロや、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータの活躍に代表されるように、イスラーム世界を中心とした国際交易が広域的・多角的に機能し、未曾有の繁栄の時代が形成された。

家島彦一「国際通商ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)247-248頁

なるほど。「マルコ・ポーロ」が東方を見聞できたのも、鄭和率いる大艦隊がインド洋に遠征できたのも、その段階で、イスラム・モンゴルの連合体が、すでに世界のグローバル化を成し遂げていたからこそなのですね。

家島彦一「国際交易ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)249頁

そういうわけなので、世界史上の事実としては、インド航路の「発見」は、決して、ヴァスコ・ダ・ガマの功績というわけではありません。家島彦一先生に確認をお願いします。

一般にはヴァスコ・ダ・ガマによって「発見」されたと説かれているインド航路は、イスラーム世界に生活する人々にとっては、すでにそれより800年以上前から知られた交流圏の一部であった。特に13世紀半ば以後のインド洋は、東側は東シナ海・南シナ海から西側はアラビア海・ペルシア湾・紅海とインド洋西海域までをふくんで、一つに機能する「インド洋世界」を形づくっていた。

家島彦一「国際交易ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)251頁

(3)辺境のヨーロッパ

ヨーロッパが、中央部の「グローバル化」から完全に取り残されていたというわけではありません。

15世紀の終わり(1498年)になってようやくヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を「発見」したという事実が示すように、15世紀以前のヨーロッパは、インド洋を中心とするグローバルな通商ネットワークには接続していませんでした。

しかし、ヨーロッパには地中海という小窓がありました。おそらく、ローマ帝国時代の遺産だと思いますが、イタリア海洋都市(ヴェネツィア、ナポリ等)の商人たちが独占的に地中海交易を営んでおり、ヨーロッパは彼らを通じて、東方の文明にアクセスしていたのです。

辺境のヨーロッパから見て、アジアの豊かさがどれほど圧倒的であったか。ヴェネツィアの市場を訪れたあるヨーロッパ人の感想をお読みいただくのがよいでしょう。

まさしく、世界の品物のすべてがここに集まっているといっても過言ではない。ここにいる人間という人間のすべてが、死に物狂いで貿易にいそしんでいる。‥‥行き届いた設備をそなえて立ち並ぶ数多の商店は品物であふれ、まるで倉庫のようだ。そこには、あらゆる製法による膨大な数の布地ーータペストリー、ブロケード、多様な意匠のカーテン、種々のカーペット、色とりどりのキャムレット、あらゆる種類の絹地ーーがあり、また別の倉庫には、香辛料、食品、薬、そして見事な蜜蝋までが大量にあって、見る者を唖然とさせる光景だ。

ジェリー・ブロトン(高山芳樹訳)『はじめてわかるルネサンス』(ちくま学芸文庫、2013年)51-52頁

当時のヨーロッパは、世界の辺境に位置する貧しい地域だった。この事実はとても重要なので、もう一つ、エピソードをご紹介させていただきます。

インド洋航路を「発見」し、カリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマは、現地の王(カリカット王)に謁見したときの話です。

謁見に備えて、ポルトガル王から託された贈り物を調えていたガマのところへ、王の役人やイスラム教徒の商人が様子を見にやってきました。彼らは贈り物を見て笑い出し、次のようにいったそうです。

「これは王への贈り物などではない。この町にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している。もし王に何かを求める気なら、金を贈らないと。」

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)45頁

(4)ヨーロッパはなぜ「大航海」に出たのか

すでにお気づきかもしれませんが、この「貧しさ」、もう少しロマンチックにいうと「東方への憧れ」こそが、ヨーロッパが「大航海」に乗り出した根本的な理由です。

コロンブス(クリストバル・コロン)が黄金の国ジパングを求めて大西洋に乗り出したというのは俗説で、実際には、「マルコ・ポーロ」の東方見聞録に書かれた「大カアンの国」、すなわちクビライの巨大帝国への旅であったことが、『航海誌』の冒頭に明記されているそうです。

地球を西へひたすらゆけば、モンゴル帝国の宗主国に辿りつけるはずだとの考えであった。

杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』303頁

ヴァスコ・ダ・ガマが目指したのは、極東の地「インド」にあるとされた「乳と蜜が流れる」キリスト教帝国でした。ガマはポルトガル王から、帝国の支配者とされたプレステ・ジョアンへの親書を託されてすらいたというのです(福井・38頁)。

なお、ポルトガルがインド洋に進出した背景について、西洋史の文献を探ってみると、この頃のインド洋貿易は「イスラーム商人に独占されていた」と記載するものが少なからず存在します。

それほどはっきり書かれているわけではありませんが、この筋書きの場合、ヨーロッパは「イスラーム商人による貿易の独占を打破するためにインド洋に進出した」という解釈になるのでしょう。

しかし、当時のインド洋貿易がムスリムに独占されていたというのは、おそらく、当時の無知ないし被害妄想に端を発する誤解です。

少し長い引用になりますが、大事なことなので、羽田正先生にしっかりご説明いただきましょう。

インド洋で活躍する商人は、各々血縁や出身地、それに宗教ごとに共同体を作り、その仲間が協力して商業活動に従事していた。8~9世紀以後にアラビア語を話すイスラーム教徒が進出したこの海域は、ときに「イスラームの海」と見なされることがある。しかし、これは当時の現実を単純化しすぎた誤った見方である。確かにこの地域には、ムスリムの商人や船乗りも多かった。しかし、それ以外に、バニアと呼ばれたグジャラート地方のヒンドゥー系、それ以外の地域の別のヒンドゥー宗派系、ジャイナ教系、ユダヤ教系、アルメニア正教系、さらにはインドのキリスト教系などイスラーム教以外の宗教を信じる商人が、それぞれの共同体を作って活発な交易活動を展開していた。

また、ムスリムがすべて仲間となり、一つの集団を作っていたわけでもない。アラビア半島のアデンを拠点とするアラブ系の人々、ペルシャ湾入り口のホルムズに根拠を持つイラン系やアラブ系の人々、北西インドのグジャラート各地を拠点とするスンナ派やシーア派の人々、インド・マラバール海岸のカンナノール郊外とポンナニ近郊に集住するマーッピラと呼ばれる集団に属する人々など、ムスリムの集団がいくつも併存しており、それぞれの集団の間で、貿易の方法や利益をめぐって争いが起こることもあった。

「イスラームの海」という言葉は、ムスリムが一体となってインド洋海域の貿易を自分たちのやり方で完全に支配していたかのように思わせるが、そのような実態はない。異なった宗教を信じる多様なエスニック集団が、共存して競争しながら貿易を行うのが、この海域の商業活動の特徴だった。ガマに率いられたポルトガル人は、自分たちがキリスト教徒であることを隠す必要はまったくなかった。彼らがこの海域の基本的なルールに従って貿易を行うかぎり、他の商人たちは彼らを新しい競争相手として特に問題なく受け入れただろうからである。

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)39-40頁

次回に向けて

以上に見てきたように、近代以前、つまり、西洋人が「大航海」を始め、近代化の道を開くより前に、世界は、共存共栄を旨とする、グローバルな自由貿易圏を実現していました。

共同体家族(とくに内婚制)を中心に営まれていたこの自由な海に、識字化した核家族が乗り込んだとき、彼らはどんな行動を取り、世界をどのように変えていくのでしょうか。

次回に続きます。


おまけ:「大航海」の背景【気候編】

コロンブスはモンゴル帝国を目指し、ガマは架空のインド・キリスト教王国を夢見て大海に乗り出したと書きました。しかし、偽書が出回ったのは12世紀ですし、「マルコ・ポーロ」の見聞録が広まりだしたのは14世紀初頭。なぜ、彼らは、15世紀中葉になって、突然「大航海」を始めたのでしょうか。

田家康『気候文明史』(日経ビジネス人文庫、2019年)235頁

識字率の上昇傾向は大前提として、それ以外にも、彼らのメンタリティに大きな影響を与えたと見られる要素があります。気候です。

上の人口の推移の表をご覧ください。表には500年からのデータが記されていますが、ここでは1000年以降に着目します。

まず、ヨーロッパ全域の人口は、1000-1340年(340年間)の間に倍増しています。しかし、直後の1340-1450年(110年間)には、再び大幅な減少局面を迎えるのです。

1000年からの人口増と1340年からの人口減は、どちらも気候変動から説明できます。

https://cdn.britannica.com/15/149415-050-8DFF938D/Estimates-temperature-variations-Northern-Hemisphere-England-2000-ce.jpg

気候史において、10世紀から14世紀(900-1300年頃)は「中世温暖期」と呼ばれる、ヨーロッパが温暖な気候に恵まれた時代で、ヨーロッパでは農業生産が増大し、人口も大いに増えました(グラフの通り、世界的な現象ではなかったようです)。

一方、移行期を挟んで、14世紀中頃から19世紀後半は「小氷期」と呼ばれる寒冷化の時代です。中でも(移行期を含む)以下の4期は、とくに厳しい寒さとなりました。

  • 1️⃣1280-1340頃
  • 2️⃣1420-1530頃
  • 3️⃣1645-1715頃
  • 4️⃣1790-1830頃

ヨーロッパの人口は、1️⃣の期間の後に大幅に減少します(↓)。

西ヨーロッパの人口と人口増加率(statista)

そして、15世紀半ば、人口が底に達したヨーロッパを(↑)、再度の厳寒期(2️⃣)が襲うのです。

まさにこの時に、大航海時代は始まりました。

私たちは、大航海時代以降のヨーロッパの歴史を、なんとなく、地道に国力を蓄えたヨーロッパが、満を持して、世界で大活躍を始めた歴史、というように捉えがちです(私はそうでした)。

しかし、その出発点において、彼らの気分が、「時は来た。いまこそ世界制覇に乗り出そう」といった威勢のよいものでなかったことは明らかです。

ヨーロッパは、どちらかといえば、食うに困り、どこかにあるはずの「豊かさ」を求めて旅立った。その気分は、この先の彼らの行動に、一定の影響を及ぼしていくことでしょう。

  • われわれが西欧のことを正しく理解していないのは「なんだかんだいっても、世の中は進歩してきた」という前提が誤っているからかもしれない。
  • 家族システムの理論によれば、西欧近代とは、最も遅れた家族システムを持つ集団が識字の力で覇権を取った時代であり、彼らは世界を単純に進歩させたというより世界が進む方向性を大きく捻じ曲げた可能性が高い
  • 西欧近代を正しく理解するためには、家族システムの進化と連動していた近代以前の世界史の流れと比較し「西欧近代は何をどう変えたのか」を見ていく必要がある。
  • 大航海時代に辺境のヨーロッパが初めて足を踏み入れたインド洋には、すでに共存共栄を旨とする開放的なグローバル交易圏が成立していた。
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アメリカ I
-差別と教育とデモクラシー(下)-

 

アメリカ社会に何が起きたのか?

前回からの続きです。

アメリカ社会における「人種主義のその後」について、
ここまで確認できたことをまとめます。

  • 白人非エリート層の人種感情は消えなかった。
  • 白人非エリート層の反黒人感情には、エリートとの敵対関係を転嫁した面があった。
  • 政治家は白人非エリート層の反黒人感情を煽り、利用し、新自由主義的政策を実現した。
  • 政治家は黒人を刑務所に大量収監して「新たな奴隷制」ともいえる状況を作った。

以上の事実は、アメリカ社会の心性に何が起きたことを表しているのでしょうか?

今回はその分析を行います。

*以下の分析は、『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』に書かれている内容を最大限分かりやすく咀嚼した(つもりの)ものです。私の独自解釈ではありません。

①三段論法 ver.1 は高等教育組の間で作用した可能性がある。

「平等」崩壊の三段論法 ver.1

① 白人は「劣った者=黒人」ではないゆえに平等である。
② 黒人は「劣った者」ではない(黒人と白人は平等である)。
③ ∴ 白人は平等ではない。

上記の三段論法の中の「②黒人と白人は平等である」というメンタリティを実際に獲得した可能性があるのは、高等教育組だけです。

したがって、高等教育組においては、三段論法ver.1が機能し、また「デモクラシー衰退の公式」(↓)が働いた可能性があるといえます。

デモクラシー衰退の公式

平等の不在+(教育の不平等+黒人の包摂による白人の平等の崩壊)
=極端な不平等

*平等指数

デモクラシー成立の公式と比較して「平等指数」を算出すると、ここで起きたメンタリティの変化が分かりやすくなるかもしれません。やってみます。

成立平等の不在(0)教育の平等
(1)
黒人排除による白人の平等
(1)
衰退平等の不在(0)教育の階層化(-1)黒人包摂による白人の平等の崩壊(0)-1

絶対核家族ないし原初的核家族の「平等の不在」は単に「平等に無関心」な状態なので0点です。

0点から出発したアメリカは、教育の平等(1点)、黒人排除による白人の平等(1点)を加えて平等指数2点を達成し、全員参加型デモクラシーを成立させました。

高等教育の進展は階層化という不平等の下意識をもたらすため-1点、他方「黒人包摂による白人の平等の崩壊」は「平等」から「無関心」への回帰を意味するので0点で算出します。 

高等教育の進展と黒人包摂による白人の平等の崩壊がダブルパンチとなって、高等教育組の「平等」メンタリティは一挙に3点のマイナスとなり+2点から-1点に落ち込んだわけです。

新自由主義政策を推し進め、極端な「格差と分断」を実現させたのは高等教育組のエリートですから、彼らのメンタリティーが「デモクラシー衰退の公式」に支配されていたと考えるのはそれなりに合理的といえるでしょう。

エリート層は、①教育の平等に基づくメンタリティ、②黒人排除による白人の平等メンタリティの2つを失い、高等教育の進展に基づく階層化意識に支配されるようになった。

②エリートにおける三段論法ver.2の浸透は白人非エリート層にとって脅威となった可能性がある。

一方、白人非エリート層には「黒人と白人は平等である」というメンタリティーは浸透しませんでした。

しかし、黒人だけでなくエリートの白人が積極的に人種差別撤廃に乗り出したことは、白人非エリート層の間につぎのような不安や恐怖をかき立てたかもしれません。

白人非エリート層の不安

①自分たちは「黒人=劣った者」ではない者として平等であり、然るべき社会的・経済的地位を得るはずだった。
②エリートは「黒人は劣った者ではない」(黒人と白人は平等だ)という社会を作ろうとしている。
③自分たちが得るはずだった社会的・経済的地位は黒人に奪われ、自分たちは底辺に追われるかもしれない。

白人非エリート層は、エリート層と黒人が主導する人種差別撤廃運動によって、「平等な白人」としての地位を失うことへの不安、社会的・経済的地位を奪われる恐怖を抱いた

③白人非エリート層の人種感情を利用した新自由主義政策の推進は、白人エリート層の中で「白人の平等」が崩壊したことの表れである。

政治家(基本的にエリート層です)の当該行為は、倫理的にみると、白人非エリート層に対する裏切りであり、同時に黒人に対する裏切りでもあります。ここではまず前者を論じます。

このとき(というか、現在に至るまで)、白人エリート層は、非エリート層の反黒人感情を利用して、本来なら敵対するはずの彼らを味方につけ、非エリートの利益に反する政策を追い求めました。

白人エリート層にこうした行為をなさしめた、そのメンタリティの基礎にあったのは、①で示したメンタリティ、とりわけ高等教育の進展による階層化意識(②)と黒人の包摂による「白人の平等」の崩壊(③)であったと考えられます。

エリートたちはもう、労働者階級の白人に対して、同じ仲間、「われら人民」という感覚を持てなくなってしまったのです。

では、黒人に対する「裏切り」を許したものは何だったのか。次項でまず、もっとも極端な「裏切り」事例、「黒人の大量収監」とは何だったのかを考えた後、白人エリートの内面を探ります。

④「新たな奴隷制」は白人層の不安に対するセラピーであった可能性がある。

政権による「大量収監」を理解する鍵となるのは、②で検討した白人非エリート層の不安です。

1980年から2015年の間、アメリカは、不平等と雇用の不安定化が急速かつ着実に進行するのを経験した。人々は病や老いに対処できないのではないかという潜在的な不安を経験し、その不安は社会的地位が低ければ低いほど大きかった。監獄の拡大は、こうした不安を、収監の不安という別の不安によって治癒しようとするものだった。新自由主義の前進は、自然でもなければ、容易な経験でもなかったのだ。‥‥しかし、なぜ黒人がターゲットとなったのだろうか?‥‥ われわれは、人種をターゲットとした抑圧が、白人の平等主義に邪悪な変容をもたらしたことを心に刻む必要がある。白人の平等は、教育へのアクセスと所得配分からは消え失せたが、今なおネガティブな形でそこにある。いま白人が共有するもの、それは、そう頻繁には収監されないという特権なのだ。

下・96頁、英語版240頁

白人非エリート層は不安を感じていた。彼らは、自分たちは「劣った者=黒人」ではないがゆえに平等であり、価値があり、希望があるという、慣れ親しんだ考え方に戻りたがっていた。

彼らの不安を治癒するために、もっとも有効な方法の一つは、「黒人の地位を体系的におとしめる」ことであったでしょう。

そこで取られた策が、黒人の中の教育水準の低い層をターゲットとした大量収監であったと、トッドはそのように述べているのです。

トッドは、共和党や民主党の政治家が正気の頭でこのような解決策を見出したと考えているわけではありません。

彼は、大量収監の文脈として、この時期のアメリカ社会がある種の移行期にあって、社会全体が不安と混乱に陥っていた点を強調しています。

ここまで「エリート/非エリート」(高等教育組/初等・中等教育組)という二分法を採用してきましたが、1980年代以降、この区分に変化が生じたことを確認する必要があるでしょう。

1970年代には、将来に不安を抱いたのは労働者だけであったかもしれません。しかし、1980年代から顕著になった市場原理主義の「超格差社会」では、大卒組を含め、ごく一部の超エリート以外のほぼすべての人にこの不安が拡大したと考えられます。

トッドの解釈では、アメリカ社会における「新たな奴隷制」の登場は、こうした社会全体の心的混乱の表現なのです。

下のグラフをご覧いただくと(トッドが引用するこの論文からの転載です)、ちょうどこの頃から、アメリカの白人の死亡率が顕著に上昇していることがわかります。

*トッドは「このような死亡率上昇は、世界中の他の先進社会にも類例がない」(下・103頁)としていますが、その通りのようです。

All-cause mortality, ages 45–54 for US White non-Hispanics (USW), US Hispanics (USH), and six comparison countries: France (FRA), Germany (GER), the United Kingdom (UK), Canada (CAN), Australia (AUS), and Sweden (SWE).

さらに次のグラフをご覧いただくと、主な死亡原因が「明らかに社会心理的なもの」であることが分かります(上昇している3項目は上から薬物中毒、自殺、慢性肝臓疾患)。 

Mortality by cause, white non-Hispanics ages 45–54.

ドナルド・トランプが共和党の大統領候補に選出され、2016年には大統領に当選するという事態を説明すると思われるのは、まさしくこの成人死亡率の上昇である。これは、1970-1974年のロシアにおける乳児死亡率の上昇が私に旧ソ連の崩壊を予見させたのと同じ性質の事象といえる。

下・103-104頁、英語版 243頁

なるほど‥‥。しかし、まだ疑問は残ります。

社会全体が不安に包まれたとはいえ、エリートたちは、「黒人は劣っている」という観念を逃れつつあったはずです。

彼らはいったい、刑務所送りになり、二度と社会に復帰できないかもしれない黒人たちのことをどう考えていたのでしょうか。

⑤高等教育組のエリートの間に、別種の「三段論法」が働いた可能性がある。

おそらく次のように考えてみることが許されるだろう。高等教育の進展によって平等の感覚が揺さぶられた白人の世界で、「黒人の劣等性」がその機能を失ったのではないかと。

下・78頁 英語版228頁

ひえ〜、怖い!
怖いけど説明します。

アメリカ社会において、「黒人の劣等性」の観念は「白人の平等」を基礎付ける機能を担っていました。

しかし、高等教育組のエリートはもう「白人の平等」を信じていませんでしたし、非エリート層とは違って「白人の平等」にしがみつく必要もなかった。彼らにとって「白人の平等」は用済みの、守る価値のない観念となったのです。

「黒人の劣等性」は「白人の平等」を基礎付けるための観念なので、後者が不要になったことで、前者も不要になりました。

「黒人の劣等性」が放逐されたなら「平等」に近づくか。

原初的(ないし絶対)核家族の場合、そのようには行きません。彼らにおける「平等の不在」とは平等への無関心を意味するからです。

「関心がない」。つまり、「どっちだっていい」。

そういうわけで、「白人の平等」の根拠としての機能を失った「黒人の劣等性」は、無関心の海を漂います。もはや、黒人が劣等であろうがなかろうが、平等であろうがなかろうが、どっちだっていいのです。

高等教育組に作用したと見られる「別種の三段論法」。あえて言葉にするなら、このようになるでしょう。

「平等」崩壊の三段論法 ver.2

① 白人が平等である限り、黒人も平等でなければならない。

② 白人は平等ではない。

③ ∴ 黒人が平等でなくても問題ではない。

なお、この三段論法 ver.2は、一見、①の三段論法 ver.1およびデモクラシー衰退の公式と矛盾しそうですが、そうではありません。

三段論法 ver.1を次のように読み替えていただくと、両者が両立することが分かります。

 ver.1 ②「黒人と白人は平等である」
         ↓
     「黒人と白人は平等に平等でない」

そして、デモクラシー衰退の法則における「黒人の包摂」とは、「平等な市民」としての包摂ではなく、「平等に平等でない市民」としての包摂を意味しているのです。      

超格差社会へのシークエンス

前回から取り組んでいるこちらの謎。

「教育の平等の崩壊→格差の拡大というメカニズムを先進国が共有する中で、アメリカにおける「格差と分断」が飛び抜けて急速かつ極端なものとなったのはなぜか?」

いよいよ解明できるときがやってきました。

順を追っていきましょう。 

  1. 平等不在のアメリカ社会におけるデモクラシー成立の基礎は、
    ①教育の平等②白人の平等を基礎付ける人種主義 にあった。 
  2. 高等教育の進展で①が崩壊した。
  3. 2の結果、白人の平等を信じなくなった高等教育組の間で人種主義が消失に向かった結果、エリートの心性は ①教育による階層化、②平等への無関心 の2つに支配された。
  4. 「黒人の劣等性」が不要になったエリートが人種差別撤廃政策を推進する一方、「白人の平等を基礎付ける人種主義」の消失は非エリート不安にした。
  5. 教育による階層化を内面化し、かつ、平等に無関心になったエリートは、非エリートの人種感情を煽って階級闘争を回避しつつ、社会保障を切り詰め「上」の所得の無限定な上昇を可能にする新自由主義的政策を追求した。
  6. 過度の自由競争と格差の増大で社会全体が不安定化した。
  7. 社会不安の緩和のため、大量収監によって、下層の黒人の地位が体系的に下げられた
  8. 上下に向けて際限のない格差の拡大が可能になった。 

デモクラシー成立の公式」に対応させて公式を作るなら、次のようになるでしょう。

デモクラシー粉砕の公式

平等の不在+(教育の不平等+人種感情の利用)
=「急速で極端な」格差・分断によるデモクラシーの粉砕

*「白人の平等」が崩壊した結果、平等への無関心が蔓延した点は、もともとの「平等の不在」に回収されたものとして表現しています。ちなみに「粉砕」の平等指数は、(0)+(-1)+(-1)=(-2)かな、と思います。

アメリカにおける「飛び抜けて急速かつ極端な」格差と分断は、
(1)エリート層を中心に
①教育に基づく階層化、②平等への無関心 の心性が蔓延したこと
(2)人種感情が

①敵意をかわす楯、②不安を癒すセラピー として機能したこと
で可能になった

なぜ人種感情なのか?
ー原始の民のデモクラシー

アメリカのデモクラシーは、成立に際して、人種感情を「白人の平等」構築のために役立てました。

その同じ人種感情が、衰退のときには、際限のない格差増大への怒りをかわし、不安に対処するために用いられた。

どうも、アメリカ社会は、人種感情を調整弁のように利用することで、そのときどきの(教育の次元が命じる)モードに応じて最大限「急速かつ極端」に進行する仕組みになっているようです。

しかし、なぜ人種感情なのでしょうか?

トッドは、アメリカが、原始のホモ・サピエンスにもっとも近いシステム(原初的核家族に近い絶対核家族)を持つ社会であることに、その理由を求めています。

James G. Fergusonの指摘によれば、人間の集団は、「われわれ/彼ら」という集団相互の対置においてのみ存在しうる。

下・27頁、英語版 199頁

*日本語版には「アダム・ファーガソン」とありますが、トッドがここで哲学者を引き合いに出すとは思えないので、James G. Ferguson(人類学者)とする英語版に従います。

‥‥歴史的に特定できる最古の人間集団(ゲルマン人、ローマ人その他多くの民族)の行動からは、彼らが種族としての強固なアイデンティティと、征服した民族に属する個人や集団を統合、消化、同化する能力を併せ持っていることが感じ取れる。‥‥アメリカにおける、オープンさと人種主義の併存、ヨーロッパ系を同化する一方先住民や黒人は拒絶するというその在り方は、おそらく、貪欲な同化吸収者であると同時に差別主義者でもあった原初のホモ・サピエンスモデルが現代の大陸に完全復活したにすぎないのだ。

下・27-28頁、英語版 199頁

原初のホモ・サピエンスは征服した民族を同化吸収する一方、異民族を差別・排斥することで集団としての統合性を保った。アメリカ社会の開放性と人種主義はその再現である

アメリカ II に向けて

正直、解明できてこれほど嬉しくない謎も珍しいです。

しかし、「平等不在」のアメリカにおける全員参加型デモクラシーの成立と衰退というテーマについては、私は概ね納得しました。

皆さんはいかがでしょうか。ご感想などありましたらお気軽にお寄せ下さい(反応するかどうかは分かりません)。

ーーー

アメリカに関する探究はまだ続きます。

予告編のとおり、家族システムの観点から見たとき、アメリカという国には、2つの謎があります。

1つは「平等不在」のアメリカがなぜ全員参加型のデモクラシーを成立させたのか、という謎で、こちらは「粉砕」までの過程を含めて、トッドが見事に解明してくれました。

残るのは、「権威不在」のアメリカになぜ国家の形成が可能であったのか、という謎です。

「平等」を中核としたトッドの分析は、社会・経済的事象の説明が中心でしたが、「権威」の分析では、アメリカ社会の政治や外交に焦点が当たることになるでしょう。


「アメリカ II」(satokotatsui.com)でお目にかかれますように。

今日のまとめ

  • アメリカにおける「急速かつ極端な」格差と分断は以下の2つの要素により可能になった。
  • エリート層を中心に、①教育に基づく階層化、②平等への無関心 のメンタリティが蔓延したこと(1)
  • 人種感情が、①敵意をかわす楯、②不安を癒すセラピー として機能したこと(2)。
  • 原初のホモ・サピエンスは征服した民族を同化吸収する一方、異民族を差別・排斥することで集団としての統合性を保った。アメリカ社会の開放性と人種主義はその再現である。
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トッド入門講座

アメリカ I
-差別と教育とデモクラシー(中)-

 

前回のおさらい

アメリカにおけるデモクラシーの成立と衰退の「なぜ」を問うている「アメリカ I 」。

トッドとともにわれわれが探究していたのは次の2つの問いでした。
 問① 平等不在のアメリカになぜデモクラシーが成立したのか
 問② そのデモクラシーはなぜ衰退したのか

今回のテーマは

「すべての人は生まれながらにして平等であり‥‥生命、自由、および幸福の追及を含む不可侵の権利を与えられている」と信じていたアメリカは、なぜ、格差と分断のアメリカになってしまったのか、という問いです。

前回の内容をおさらいしましょう。

トッドは、問①に対し、「アメリカのデモクラシー」成立の基礎は、次の2つである、という答えを出しました。
 ①教育水準の平等
 ②人種主義による白人の平等

問②に向けては、次の事実が確認されました。
「高等教育の進展(+頭打ち)による ①教育水準の平等 の崩壊がアメリカの平等の基盤を掘り崩した。」

これから取り組むのは、次の謎です。

「教育の平等の崩壊→格差の拡大というメカニズムを先進国が共有する中で、アメリカにおける「格差と分断」が飛び抜けて急速かつ極端なものとなったのはなぜか?」

アメリカに平等をもたらした魔法が①と②であった以上、アメリカにおける「格差と分断」にも、「②人種主義による白人の平等」が関係していることが予想されます。

そこで、アメリカにおける人種主義のその後を確認するところから始めましょう。

ここからのテーマは、「アメリカの「格差と分断」が飛び抜けて急速かつ極端なのはなぜか?」

黒人解放運動 1955-

高等教育が平等の基盤にヒビを入れ始めていた頃、黒人解放運動も本格化しようとしていました。

1955年12月、南部アラバマ州モンゴメリーで、黒人女性ローザ・パークスは、勤務先のデパートから帰る途中のバスの中で、後から乗り込んできた白人に席を譲れという運転手の命令を拒絶し、警察に逮捕されます。バス・ボイコット運動の発端となった事件です。

トッドは、黒人解放運動が黒人コミュニティの自発的な動きであり、同時に、アメリカ社会の内発的な動きでもあったことを指摘しています。

彼らの教育水準が、隔離政策への服従をばかげたこととみなしたのだ。

下・75-76頁、英語版 226頁
1955年のローザ・パークス
後ろにマーティン・ルーサー・キング

アメリカで、人種隔離は、黒人の教育を否定するものではありませんでした。1900年の時点で黒人の識字率は55%に達し(白人は95%。ただしこの時期の55%はイタリア、スペイン等の諸国より高い)、1930年頃に生まれたアメリカ人(1955年時点で25歳)の平均通学期間は、白人11年半に対し黒人9年に達していました。

初等・中等教育の拡大が黒人・白人双方の心に平等意識を醸成し、差別撤廃運動に駆り立てた。黒人解放運動の重要な一側面です。

他方、この時期の「運動」活性化には、冷戦という外的な要因も寄与しています。

当時、共産主義陣営は、人種差別をアメリカ文化の劣等性の証拠として喧伝するようになっていました。アメリカとしてはどうにかこれを克服する(少なくともその姿勢を見せる)必要があったのです。

様々な民族の人が仲良くモスクワの街を歩く様子を描いた1957年のポスター
https://www.theguardian.com/artanddesign/shortcuts/2016/jan/24/racial-harmony-in-a-marxist-utopia-how-the-soviet-union-capitalised-on-us-discrimination-in-pictures

一方では初等・中等教育拡大による平等意識の自然な表れとして、他方では冷戦の勝利に向けた戦略的アピールとして、ともかく、黒人と白人のアメリカ人は、人種差別撤廃に向けてともに進み始めたのです。

ちょうど高等教育の拡大が平等の下意識に亀裂を入れ始めた頃、黒人解放運動が始まった

黒人解放運動には、①初等・中等教育拡大による平等の下意識を基礎とした内発的な社会改良運動、②冷戦に勝利するための戦略的アピール の2つの性格があった

「黒人解放」が「白人の平等」を崩したのか?

この時点で、アメリカにおけるあまりにも激しい不平等を説明する仮説として考えられるのは、「黒人の解放が「白人の平等」を破壊し、高等教育による不平等に拍車をかけた」というものでしょう。

アメリカのデモクラシーの「成立」に関するトッドの理論を公式化してみると、こんな感じになりそうです。

デモクラシー成立の公式

平等の不在+(教育の平等+黒人排除による白人の平等)
=全員参加型デモクラシー

この括弧内の条件を、高等教育の進展による不平等+黒人の包摂に変えると、つぎのような式が導かれます。

デモクラシー衰退の公式

平等の不在+(教育の不平等+黒人包摂による白人の平等の破壊)
=極端な不平等

トッドは「黒人の包摂」が「白人の平等の破壊」に至る機序を、つぎの「三段論法」の形で説明しています。

 *「恐るべき(terrible)三段論法」(下・77頁、英語版227頁)

「平等」崩壊の三段論法 ver.1

① 白人は「劣った者=黒人」ではないゆえに平等である。

② 黒人は「劣った者」ではない(黒人と白人は平等である)。

③ ∴ 白人は平等ではない。

ええ、確かに、このような三段論法によって平等が崩れるということはありそうですね。でも疑問もあります。

黒人解放運動によって、実際のところ、黒人と白人の平等は実現したのでしょうか?

アメリカの人々の意識下において、「黒人は劣った者である」ないし「黒人は白人とは異なる者である」という観念は、どの程度消失して、どの程度残っているのでしょうか?

このシークエンスの実現加減はその点にかかっています。
事実を確認しましょう。

「黒人解放→白人の平等の崩壊→極端な不平等」はありそうな展開だが、人種間の平等はどの程度実現したのか?

「黒人解放」の現実

(1)人種間結婚

婚姻は人種問題の中核である。人種間結婚の率が高ければ、人種は希薄になり、やがては消滅するのだから。

下・79頁、英語版 228頁

アメリカにおける人種間結婚については、世論調査が継続的に行われています。その数字は、アメリカ社会が一貫して人種間結婚に寛容になっていることを示しています。2021年など94%が賛成です。なんて素晴らしい。 

https://www.axios.com/2022/09/07/approval-of-interracial-marriage-america

しかし、意識・イデオロギーの次元の現実に対する影響力が大きくないことを知っている私たちとしては、この数字を真に受けるわけにはいかない。現実の婚姻の方をしっかり確認しましょう。

人種間結婚の割合(2010年

アジア系・ヒスパニック25%
黒人17%
– 黒人男性24%
– 黒人女性 9%
下・79頁

17%という数字を見ると、「人種間結婚はまあまあ進んでいるじゃないか」と感じるかもしれません。

17%というのは「結婚した人の中の」割合ですが、黒人の場合、そもそも、結婚できる人の割合が非常に低いのです。

黒人の婚姻率(2010年)31%

比較対象がないと判断できないので、2021年の数字ですが、白人の婚姻率を補足します(https://www.jbhe.com/2022/11/the-significant-racial-gap-in-marriage-rates-in-the-united-states/)。

アメリカ人の婚姻率(2021年)

白人の婚姻率(男性・女性)54%(55.5%・52.4%)
黒人の婚姻率(男性・女性)31.2%(34.4%・28.6%)

31.2%の中の17%、とくに女性の28.6%の中の9%という数字は、あまり意味のある数字とはいえないでしょう(あまり変化がないようなので2021年と2010年で計算しています)。

なお、婚姻率のデータは、離婚によって「現在」婚姻状態にない人が非婚姻者として扱われるため、とくに白人の婚姻率が低めに出る傾向があります。婚姻未経験者のデータで補足しましょう。

婚姻未経験者の割合(2021年)

白人27.5%
黒人(男性・女性)50%(51.1%・48%)

ざっくりいうと、白人の場合、7割以上が結婚しその3割程度が離婚、黒人は半分しか結婚できずその4割が離婚、という感じです。

とくに黒人女性の状況の過酷さを表すデータとして、トッドは出産した女性の中の未婚者率に注意を喚起していますので、それも見ましょう。

出産した女性のうちの未婚者率(2008年)

白人40.6%
ヒスパニック52.6%
黒人71.8%
下・79−80頁

黒人女性の場合、「子供がいる人は未婚なのがスタンダード」ということになっているわけです。

ただし、人種間結婚の割合は学歴によって有意に差があり、高等教育に達した層では、黒人と白人の結婚(黒人女性と白人男性を含む)に増加が見られることが指摘されています(下・80頁)。

高等教育組は、たしかに、社会生活を人種を基礎に把握するというやり方から逃れつつあるのかもしれない。

下・80頁、英語版 229頁


経年変化ではありませんが、学歴による違いを示すデータとして、2つのグラフをご紹介します(いずれも2014-15)。

人種別の人種間結婚率。一番下のグレーが大学修了者です。真ん中は大学に行ったが学位を持っていない者。

黒人の男女別データ。一番下が大学修了者。
https://www.pewresearch.org/social-trends/2017/05/18/1-trends-and-patterns-in-intermarriage/pst_2017-05-15-intermarriage-01-06/

黒人への差別感情は失われていないが、高等教育を受けた層では解消に向かっている可能性がある。

(2)非エリートとエリート

高等教育に達したエリートとそれ以外の人々では、人種に対する態度が異なるようだ、ということが分かりました。

そこで、アメリカ社会を「非エリート/エリート」の2つに分けて、それぞれの動きがアメリカの「平等」にどう影響したかを見ていきましょう。

①非エリートに残る人種主義

人種差別撤廃・人種解放のために行われた各種政策は、黒人の包摂を進めたと同時に、とくに非エリートの白人が黒人に対して敵意を抱く原因になったことが指摘されています。

「感情的な社会分断」をもたらしたものとしてとくに知られているのは、「バス通学」とアファーマティブ・アクションです(中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』シリーズ アメリカ合衆国史③(岩波新書 2019年)225頁以下参照)。

「バス通学」については、中野先生に教えていただきます。

「バス通学」とは、公教育の人種統合を進めるために、遠距離のバス輸送でもって郊外の白人児童と都市中心部の黒人児童を一定数シャッフルし、既存の学校の「共学化」を進めようとする取り組みである。

中野耕太郎『20世紀アメリカの夢 世紀転換期から1970年代』シリーズアメリカ合衆国史③(岩波新書 2019年)227頁

ほうほう。

当初から白人の親の反発は強く、ノースカロライナではバス通学を用いた統合の「強制性」が違憲だとして提訴された。だが、これに対する1970年の最高裁判決‥‥は、「バス通学」は生徒の人種比率の不均衡を改善する方途として‥‥適切なものであると宣言した。この決定は、居住区による人種分離が歴史的に存在してきた北部都市圏でも同様の不均衡是正が求められることを意味した。そして、北部に移住し、都市内部の貧困地区に暮らす黒人の親は、「バス通学」による子供世代の格差解消=「社会的な平等」に期待をかけた。

同 227-228頁

一般に、黒人に対する差別意識という点では、奴隷制という形をとりつつも歴史的に共存してきた南部よりも、北部の方が強かったと言われています。

北部は、奴隷制に反対してきた手前、あからさまに差別的な制度を設けることはせず、居住区を分け、学校を分けるというやり方で、黒人と白人を「事実上」分離し、差別感情を満たしてきたわけですが、「それもダメ」と言われてさあ大変。

‥‥この北部都市の「バス通学」は激烈な反発を各地の白人労働者層の間に巻き起こした。例えば、ボストンのアイルランド系白人地区サウスボストンでは、バス通学する黒人児童に対するヘイトスピーチや投石が常態化した。当時ボストンで組織された反「バス通学」団体の名称ーー「我々の疎外された権利の回復」(ROAR)〔Restore Our Alienated  Rights〕には、市民権運動や左翼カウンターカルチャーに圧迫されてきた、かつてのサイレント・マジョリティの偽らざる感情が表現されている。

同 228頁

 

https://www.archivespublichistory.org/?p=1555

一点、注目しておくべきことは、白人の非エリート層が黒人に向けた反感は、実際には、白人のエリートに向けられてもおかしくない性質のものだったということでしょう。

「バス通学」や雇用等における黒人優遇を義務付けるアファーマティブ・アクションが本格的に実施され、感情的な争いを引き起こしたのは1970年代です。

基本的に高等教育組である「都市リベラル」が、60年代後半からの延長で女性や黒人を含むマイノリティの権利を主張していた1970年代は、一方で、米国産業の国際競争力の低下があらわになり、貿易収支がマイナスに転じたときでもありました。

物価が高騰する中、失業率は上昇、賃金は下落したため、郵便や鉄道、製造業の労働者は困窮し、ストライキ、デモなどを含む激しい労働争議を展開していました。

アファーマティブ・アクションが「優遇枠」の対象にしたのは、警察、消防、行政の仕事を請け負う建設業などの「非エリート」的職種です。

ベトナム反戦運動のときと同様、黒人解放・人種差別撤廃を主張するのはエリート、実際に影響を受けて生活が困窮するのは非エリート(労働者)という明白な「非対称性」がそこにはあったのです。

庶民地区で黒人の子供と白人の子供を混ぜ合わせようと試みた「強制バス通学」が、そして次には、大学の入学許可に、また警察、消防隊をはじめ、あらゆる種類の行政部門の人員採用に黒人枠の割り当てを押し付けたアファーマティブ・アクションが、自由貿易によって引き起こされた米国産業の崩壊という文脈の中で、直接の影響を被る階層の白人集団の敵意をかき立てるという結果を生んだ。

下・81頁

黒人解放闘争は、実際、いずれは中流になれると信じていた白人労働者たちが再び無産階級に転落する過程と、歴史的に一体のものとして捉えられてきたのだ。

下・81頁、英語版 230頁
トッドが(この問題の分析として)「最も重要」とする
Thomas/Mary Edsall, Chain Reaction, 1991

黒人解放運動は、非エリートの白人の反黒人感情をかき立てた。

反黒人感情の背後には、自由貿易による国内産業の低迷という文脈における白人間の対立(エリート VS 非エリート)という構図も隠れていた

②人種感情の政治利用:共和党の場合

こうした非エリートによる(ある程度やむを得ない)人種感情の高まりに、エリートはどう対応したのか。

国内の経済環境の悪化で労働者階級が困窮し、その怒りの矛先が黒人に向いてしまったというのが当時の状況です。

理想の政治家なら何をするかというと‥‥そうですね、さしあたり社会保障を充実させた上で、国内産業を再建し、同時に黒人の地位向上のために尽力する、という感じでしょうか。

アメリカの政治家はすべてにおいてその裏を行きました。社会保障を切り詰め、産業の競争力低下の元凶である自由貿易主義をいっそう推し進め、それらの政策に支持を得るために、非エリートの人種感情を利用したのです。

人種感情は、高等教育享受層に属する政治家によって、ニューディールと第二次世界大戦の遺産である平等主義的政治経済システムの崩壊を推し進めるために利用された。1960年前後までは白人間の平等の原動力であった人種感情は、1980年以後は、白人の経済的平等を破壊するための道具となったのだ。

下・80頁、英語版 229頁

本来、とくにこの経済的苦境の中では、社会保障(生活保護、各種給付金など)は労働者階級の白人にとってこそ欠かせないものです。

しかし、人種差別撤廃運動に対する敵意がつのって、労働者階級の白人には、中央政府による福祉政策が「黒人優遇政策」にしか見えなくなってしまった。

この状況を巧みに利用したのが共和党です。

レーガン政権は、黒人のシングルマザーを(生活保護で楽に暮らしている)「社会福祉の女王(Welfare queens)」として槍玉に挙げ、労働者階級を煽って「反福祉国家」論者に仕立て上げ、富裕層に対する減税と社会福祉の徹底した縮減を実現したのです(スゴイですね‥‥)。

こうして、かつてはリンカーン率いる奴隷制廃止党であった共和党は、「減税」「反社会福祉」を謳って非エリートの白人有権者の心を掴み、「白人の党」に変貌していきました。

人種差別撤廃を謳う中央政府への憎悪によって、共和党は社会福祉や税金の正当性に異議を唱えることが可能になった。福祉や税金はマイノリティーを利するものとして誇張して捉えられていたからだ。新保守主義が隆盛し、レーガンがニューディール以来の国家像に異議を唱えることができたのは、こうした人種・教育・経済的な文脈のゆえである。経済学の論争とはほぼ関係がなかったというべきであろう。

下・82頁、英語版 231頁

共和党は、新自由主義的政策(社会福祉削減、富裕層の減税等)を推進するために、非エリート層の白人の人種感情を利用した

③リベラルな言説の裏で:民主党の場合

共和党が「白人の党」に舵を切ったことで、「リベラル」の民主党は、黒人の圧倒的支持を得るようになりました。しかし、民主党の方も、白人の反黒人感情を利用という点では、決して共和党に引けをとりません。

ビル・クリントンは、黒人のジャズ・ミュージシャンと共に舞台上でサックスを吹くパフォーマンスを何度も行なって、そのリベラルな姿勢をアピールした大統領です。

https://edition.cnn.com/videos/politics/2012/02/22/vo-clinton-saxophone-inaugural-ball.cnn

同時に、彼は、犯罪者に甘いという民主党のイメージを覆すべく、犯罪に厳格に臨む立場を強調しました。しかし、厳罰と人種主義の間に何の関係があるのでしょうか。

「犯罪との戦い」。それは共和党と民主党がともに反黒人感情をあおるために用いた「暗号」でした。

クリントンは、アーカンソー州の知事として大統領選に臨んでいた最中、勝負を決める予備選の前日に、地元に戻って死刑囚の死刑執行に立ち会っています。「犯罪との戦い」をアピールするために選んだのは、いうまでもなく、黒人死刑囚の死刑執行でした。

1982年に「薬物との戦争」を始めたのはレーガンの共和党です。トッドは、どちらかといえば薬物犯罪が減少傾向にあった時期に「戦争」が開始されたこと、そして、薬物全体では白人の使用率の方が高かったのに、わざわざクラック(安価だったため黒人コミュニティでの使用者が多かった)を対象としたキャンペーンを展開し、黒人を集中的に刑務所に入れたことを指摘しています。

中等教育最終学年の生徒の薬物使用率(英語版 233頁)
薬物関連犯罪の逮捕率(英語版 234頁)

しかし、薬物戦争がクライマックスに達し、「アメリカの収監率がめまいのするほどの高さに達した」のは、クリントン大統領(任期1993-2001)の時代だったのです。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:U.S._incarceration_rates_1925_onwards.png

共和党と民主党はともに「犯罪との戦い」の標語の下、反黒人感情を煽った。

(3)黒人の大量投獄:奴隷制の再来?

この時期の収監者数の上昇に占める黒人の比率を見れば、「薬物戦争」が黒人をターゲットとしたものであったことは明らかといえるでしょう。 

人口10万人当りの収監者数(男性)
https://www.statista.com/chart/18376/us-incarceration-rates-by-sex-and-race-ethnic-origin/

トッドはまた、1965年から69年生まれの人が生涯に刑務所に入るリスクの数値を示しています(基準など詳細が分かりませんが、出典は2006年のこの本)。 とくに高等教育に達していない黒人の数字は驚くべきものです。

生涯に刑務所に入るリスク

白人全体(高等教育機関入学者・非入学者)2.9%(0.7%・5.3%)
黒人全体(高等教育機関入学者・非入学者)20.5%(4.9%・30.2%
下・87-90頁

アメリカで刑務所に入るということは、その経歴が一生つきまとい、公的住宅の利用や雇用の機会が制限されることを意味します(選挙権も剥奪されることが多いそうです)。

拘禁刑は、その期間そのものの長短にかかわらず、社会からの非常に長期にわたる排除を意味する。その意味で、アメリカにおける大量投獄を、奴隷制という「奇妙な制度(peculiar institution)」の再来とみなすLoic Wacquantの指摘は、きわめて適切であると思われる。

下・90頁、英語版 234−235頁

1980-2000年代初頭、政府(共和党・民主党)は、「薬物戦争」の名目で大量の黒人を収監し「新たな奴隷制」を構築した。

今日のまとめ

  • 高等教育の進展が社会に亀裂を入れ始めていたのと同じ頃、黒人解放運動が始まった。
  • 黒人への差別感情は失われていないが高等教育層では解消に向かっている可能性がある。
  • 人種差別撤廃のための施策は、労働者階級の白人の反黒人感情をかき立てた。
  • 反黒人感情の背後には、自由貿易による国内産業の低迷という文脈における白人間の対立(エリート VS 非エリート)の構図も隠れていた。
  • 政治家は、白人非エリート層の人種感情を煽り、新自由主義的政策(社会福祉削減、富裕層減税等)の推進のために利用した。
  • 1980-2000年代初頭には「薬物戦争」の名目で大量の黒人が投獄され「新たな奴隷制」と評価された。
カテゴリー
トッド入門講座

アメリカ I
-差別と教育とデモクラシー(上)-

家族システムとデモクラシー
:アメリカの謎

トッドの探究は、「平等の価値を持たないアメリカが、なぜデモクラシーを成立させることができたのか」という問いから始まります。

しかし、私たちにとって、デモクラシーといえばアメリカ、アメリカといえばデモクラシーです。そもそも「アメリカのデモクラシー」の何がそんなに不思議なのでしょうか。

①イギリスの場合:議会制寡頭政治

世界に先駆けてリベラル・デモクラシーを確立した(とされている)のは、イギリスです。1642年にピューリタン革命が起きて、1688年の名誉革命以後は立憲君主制で安定しました。

ピューリタン革命の頃の議会の様子(たぶん)

イギリスが民主主義発祥の地(?)となったのは、イギリスには最初から議会があったからです。原始民主制の意思決定の場である集会。中東、インド、中国では(家族システムの進化とともに)とっくに失われた素朴な意思決定システムが、代表制の議会という形で、イギリス(とヨーロッパの一部)には残っていた。

‥‥中世末期のヨーロッパには、世界の他の主要文明と画然と区別される政治的特徴が数多く存在していた。それらの特徴ーなかでも最も重要なのは代表者たちの集会であったーが自由主義的民主制の基礎を成したのであり、それらこそは‥‥現代の発展途上の国々で再生産されることが決してあり得ないであろう素質なのであった。

Brian Downing, The Military Revolution and Political Change. Origins of Democracy and Autocracy in Early Modern Europe, Princeton University Press, 1992(下・16頁に引用)

Downingは代表制集会を先進性の証拠と誤解していますが、実際には、イギリスは、ユーラシアの辺境に位置し、家族システムの進化から取り残されていたがために、リベラル・デモクラシーの先駆者の地位を獲得することになったのです。

ただし、この段階のイギリスの政治システムを本当に「デモクラシー」と呼んでよいかどうか。

イギリスで選挙権を持つ者の割合は、18世紀初頭で全国民の4.7%(成人男性の人口比では15%)、18世紀を通して見ても成人男性の20%程度にとどまっていた。

選挙による代表制ということで「民主主義」と言われるのですが、有権者の数を考えると、その実態は「議会制寡頭政治」(parliamentary olicarchy)であったのです*。

 *青木康『議会を歴史する』(2018年、清水書院)64-65頁参照

②フランスの場合:平等へのこだわり

イギリスが「議会制寡頭政治」の状態で落ち着いてしまった理由は、その家族システム(自由+非平等 or 権威なし+平等なし)から説明できます。権威は倒さなければならない。平等でなくても気にしない。それが絶対核家族ですから。

他方、フランスの難産(革命による共和国の誕生からその安定化に至るまで100年を要しました)もまた、家族システムの影響のなせる技です。

自由と平等(権威なし+平等)のフランスは、国王を倒しただけでは満足できません。貴族が上に立てば市民が不満を持ち、市民が満足すれば労働者が暴れる、といった具合に、最終的に平等が達成されるまで戦いが続いてしまう。

しかし、その甲斐あって(?)、フランスは1848年の二月革命後には、21歳以上の男性普通選挙を確立させます(イギリスは1918年)。政治的混乱はまだまだ続きますが‥

Lithograph of the end of the Paris Commune. Photograph: Johansen Krause/Archivo Iconografico, SA/Corbis

③アメリカの場合:「平等」なしの平等?

こうして見てくれば、トッドが「なぜ、アメリカが?」と首を傾げる理由がお分かりいただけると思います。

イギリスと同じく、アメリカの家族システム(絶対核家族ないし原初的核家族)に「平等」の価値はありません。

それなのにアメリカは、1776年の独立宣言で高らかに平等を謳い上げ、早くも1820-40年には各州が男性普通選挙を実現させるのです。

われわれは、自明の理として、すべての人は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追及を含む不可侵の権利を与えられていると信じる

アメリカ 独立宣言(1776年) https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/(一部を取り出すにあたり文章に手を加えています)

アメリカに全員参加型のデモクラシーが実現したのは「あたりまえ」ではない。

人種主義と教育:「アメリカのデモクラシー」の基礎

「アメリカのデモクラシー」の秘密として、トッドが検知したのは次の2つです。

①識字率の高さ(白人間の均等な教育水準)
②排除することで「われら人民」の一体性の元となる先住民・黒人奴隷の存在

*「われら人民(We the people)」はアメリカ合衆国憲法前文の主語

①については、あまり問題はないでしょう。イギリスは当時もっとも識字率の高い地域でしたが、アメリカに植民した人々の多くはとくに熱心なプロテスタントだったので、建国当初のアメリカの(白人)識字率はイギリスと同等かそれ以上であったと考えられます。

 *識字と民主化の関係についてはこちらをご覧ください。 

問題なのは、②でしょうか。

トッド自身による説明をお聞きください。

謎の答えは独立宣言そのものにある。独立宣言は、カルヴァン的不平等主義から民主主義的平等主義への転換の過程を明示的に説明してくれているのである。

独立宣言によれば、先住民は「慈悲を欠く野蛮人(merciless savages)」である。平等な人類の次に置かれるのは「人類でないもの」。あたかも、白人の共同体から放逐された不平等が、共同体の外に居場所を確保したというかのように。

独立宣言、そしてアメリカ北部の社会の現実において、それは先住民だった。南部では黒人だ。

トクヴィルは南部の奴隷州に独特の白人平等主義が見られることに気づいていた。

「奇妙なことに、民主主義の勢いは、とりわけ上流階級が強固な地位を占める州で圧倒的だった。メリーランド州ー上流の者たちが建設した州であるーは、普通選挙制を宣言し、政府にもっとも民主的な制度を導入した最初の州となった。」

これらの州では、多数の黒人奴隷の存在が、白人間の平等の意識を強化したのである。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』下・22-23頁
 英語版196頁(適宜改行しました)

*英語版は Lineages of Modernity, Polity Press, 2019
以下、引用文に英語版の頁数を併記するときは辰井による英語版からの訳出です。

先ほど、アメリカでは1920-40年に男性普通選挙が拡大したと書きましたが、その勢いが最も強かったのはアンドリュー・ジャクソン大統領(任期1829-1837)の時期でした(「ジャクソニアン・デモクラシー」)。そのジャクソン大統領は、奴隷制の熱心な擁護者であり、先住民の強制移住を決然と推進した人物でもあった。

また、1860年から1900年、西部でエリートを排した平等主義的な社会が開花したその時期は、ちょうど、黒人に対するリンチが激化し、「マニフェスト・デスティニー」の標語の下で西部大平原のインディアン(Great Plains Indians)が駆逐されていった時期でもあったのです。

‥‥人種主義をアメリカのデモクラシーの欠陥とみなすことはできない。事実は正反対で、人種主義はアメリカのデモクラシーの礎石の一つなのである。建国期には、人種主義は白人の平等意識を促進した。移民流入の過程では、先住民でも黒人でもないという事実が、新たな移民の統合を容易にした。まず北部ヨーロッパ人、若干の躊躇の時期を経て、少し肌の色の濃いイタリア人、ユダヤ人のような非キリスト教徒。もっと最近では、日系、韓国系、ベトナム系、中国系のアメリカ人が、別扱いされる黒人の存在ゆえに、白人と同じ区分に分類されるようになっている。

いまや、アメリカのデモクラシーの魔法を、次のように定式化することができよう。

 平等の不在+黒人と先住民の排除→人種的デモクラシー 

このシークエンスは、アメリカにおけるデモクラシーの発展がかくも容易に達成され、ごく自然で調和的に見える理由も説明する。どれもこれも、民主化のプロセスといえば1789年、1830年、1848年の革命と1871年のパリコミューンの歴史を一通り学ばなければならないわれわれフランス人には心穏やかでないのだが。アメリカの民主制はイギリスの寡頭制と同様に安定している。それは、フランスでは政治的平等を求める大衆の蜂起を幾度も引き起こした「平等」の原則が、彼らの家族の無意識には存在しないからなのだ。

下・24頁、英語版197頁(太字は筆者)

アメリカのデモクラシーを可能にしたのは、次の2要素である。
 ①平等な教育水準
 ②人種主義による「白人の平等」

デモクラシーの最盛期(1950-70年代)

(1)経済的平等の達成
 ーニューディールのアメリカ

現代のアメリカは格差と分断の最先進国(後で確認しますが日本よりはるかに激しいです)となっているわけですが、20世紀中盤に、経済面でも平等に近づいた時期があったことをご存じでしょうか。

19世紀後半から20世紀初頭には、資本主義の急速な発展で大変な格差社会となっていたアメリカは、1929年の経済危機で立ち止まります。

ルーズベルトのニューディールが導入した平等主義的な福祉国家政策で、国による経済への介入、課税の強化がなされた結果、不平等は着実に縮小します。

下にグラフを載せましたが、最も豊かな10%の取り分は1928年の46%から1952年には32%に、最も豊かな1%の取り分は1928年の20%から1953年には9%に低下し、いずれも1970年代まで同程度で推移したのです(T. Piketty and E. Saez, Income and Wage Inequality in the United States, 1913-2002, Atkinson and Piketty, Top Incomes over the Twentieth Century, Oxford University Press, 2007, pp147-149)。

上位10% 1942年から80年代前半まで低めで安定している。
トップ10%の中の下から5%(P90-95)、4%(P95-99)、1%(P99-100)の取り分1%に注目すると1943年から1980年代前半まで低め
これは0.01% 同じ傾向

(2)中等教育の拡大(1900-1940)

19世紀から継続した民主的なメンタリティ、19世紀末から20世紀前半の革新主義を経て、20世紀中盤に達成された経済的平等。

なぜ、このときのアメリカは、一度は行くところまで行った経済的格差から立ち戻り、「デモクラシーの最盛期」に到達することができたのか。

トッドはその解を、中等教育の拡大(第二次教育革命)に求めます。

下の表の通り、1900年の時点で、欧米諸国の識字率はプロテスタント国を中心に高いレベルで平準化していました。

10歳以上の識字率
イギリス95%
アメリカ(白人、アメリカ生まれ)95%
アメリカ(白人、外国出身)87%
アメリカ(黒人)55%
スウェーデン95%以上
ドイツ95%以上
オーストリア94%
フランス83%
イタリア52%
スペイン44%
出典:Carlo M, Cipolla, Literacy and Development in the West, Penguin, 1969, P.99 et p.127-128(下・39頁より)

しかし、中等教育(日本の区分だと中学・高校レベル)をいち早く普及させたのは、イギリスでもドイツでもなく、アメリカだったのです。

ハイスクールへの入学率は、1900年の10%から1940年には70%に達していました(修了率は6%から50%)。1941年、アメリカが第二次世界大戦に参戦したときには、若い世代の半数はハイスクールの教育を受けていたことになります。

これがどれほど高い水準であったかは、1955-56年の各国の高校進学率を見ると分かります。アメリカは80%。しかし、ヨーロッパ諸国は、もっとも高いスウェーデンで25%、それ以外の国はせいぜい15-20%にすぎません(下・41頁)。

*なお、大陸の遅れはエリート主義的な教育政策のせいだというのがトッドの解釈です。

*ちなみに日本は結構高くて40%強です。80%を超えたのは1970年 http://honkawa2.sakura.ne.jp/3927.html

中等教育の拡大は、アメリカを世界の覇権国に導くとともに、「アメリカのデモクラシー」の最盛期をもたらしました。

アメリカはより高いレベルでの教育の平準化を達成した一方で、意地悪く確認しておくと、この時期、黒人差別はまだ制度として温存されていました。

識字率の高さと先住民・黒人奴隷の存在が可能にした「アメリカのデモクラシー」は、以下の二つを基礎にそのピークを迎えたわけです。

 ①より高いレベルでの教育水準の平準化
 ②黒人差別の制度的温存

アメリカのデモクラシーは、以下の状況下で最盛期を迎えた。
 ①中等教育の拡大(より高いレベルでの平等な教育水準)
 ②黒人差別の制度的温存

衰退するデモクラシー
:教育による平等の侵蝕

(1)中等教育から高等教育へ

ところで、トッドは1900-40年の教育革命が、連邦政府のプロジェクトとしてではなく、地域社会の主導で実施されたことを指摘しています。

第二次教育革命は、民主的・平等主義的な気分を反映したイデオロギーがダイレクトに引き起こしたものだったのである。

下・41頁、英語版206頁

民主的・平等主義的なメンタリティが地域における公教育の充実をもたらし、公教育の充実がさらに民主主義を向上させる。理想的に見えるこの循環を止め、逆回転にまで至らせたものは何か。

高等教育の拡大です。

1900年には男性の3%、女性の2%(25歳時点・以下同じ)、1940年でも男性7.5%、女性5%に過ぎなかった大卒者の割合が、1975年には男性27%、女性22.5%に達していました。

アメリカ社会がデモクラシーを謳歌しているそのとき、すでに社会の基層には亀裂が入りかけていた。

英語版208頁
https://www.statista.com/statistics/184260/educational-attainment-in-the-us/

初等教育が行き渡れば次は中等教育、その次は高等教育(=大学以上)と進むのは当然といえます。いったいその何がいけないのか。

初等教育、中等教育と比較したとき、高等教育には2つの顕著な特徴があります。

 ①全員には行き渡らない
 ②高等教育内部に激しい序列がある

 *もう一つ付け加えることもできるでしょう。
  ③教育内容が役に立つかどうか不明な場合が多い

多くの国で、高等教育の普及は30-40%程度で頭打ちとなりました。日本では50%、韓国では70%とかなり高くなっていますが、いずれも子供の数が異常に少ないという状況下での現象です。

初等教育の普及が「We the people(われら人民)」の基礎を構築したのと正反対に、高等教育は、まずは大学入学者とそれ以外を分ち、大学入学者を、ハーバードの博士課程を終了した者から三流大学中退者まで、無限に広がるランキングの中に振り分けます。

 *こうした事態に鑑み、トッドはアカデミアを「不平等製造マシン」(下・59頁)と表現しています。

‥‥当初、高等教育の進展は純粋な進歩と捉えられていた。人々は高等教育に達する人口の増加が均質な社会に亀裂をもたらすことに気づかなかった。人々が新たな文化的階層化を感知したのは、高等教育修了者という名誉あるカテゴリーに全員が到達できるわけではないと気づいたときだった。初等教育、続いて中等教育の普及は社会に民主的な種類の平等主義的下意識を涵養した。他方、高等教育の頭打ちは、アメリカでもどこでも、不平等の下意識を生み出したのである。

下・30頁、英語版212頁

(2)ベトナム戦争:「労働者階級の戦争」

教育の層が生み出した不平等の下意識は、この時期のイデオロギーに現れました。

ハーバード大学の心理学教授Herrnsteinが論文「IQ」を公刊し(Richard J.  Herrnstein “IQ”, The Atlantic, 1971)、「知能指数に差があり、その指数が諸個人の社会的パフォーマンスに確実な影響を与える以上、不平等は今後とも解消しないと断定」(下・55頁)したのは1971年。

1972年には同じくハーバードの社会学教授 Christpher  Jencksが『不平等(Inequality) 』を出版し、「教育の力で平等を実現する」というリベラルの夢を幻想として「真正面から攻撃」しました。

 *私はどちらも読んでいません。

しかし、彼らが階層社会の到来を予言していたそのとき、すでに平等主義は崩壊していた。それを白日の下にさらしたのは、ベトナム戦争でした。

第二次世界大戦は、アメリカ社会にとって、平等主義の偉大なる達成の瞬間だった。ルーズベルトの社会民主主義の成熟の象徴であったとすらいえるかもしれない。中等教育がほぼ全員に行き渡り、高等教育の進展はまだ初期段階であったそのとき、国民皆徴兵の名の下、すべての若いアメリカ人男性が兵役に就いた。アメリカの政治家たちは、そのため、ジョージ・ブッシュ(シニア)までは、その出身階層に関わらず、概してかなり輝かしい軍歴を有していた。報道ジャーナリストが、ベトナム戦争の兵役を逃れた政治家の追跡を始めるのは、ブッシュ以後である。

下・57頁 英語版216頁

ベトナム戦争では大量の若者が動員されましたが、兵役を逃れた者も多く、大統領経験者ではジョージ・ブッシュ(ジュニア)、ビル・クリントン、ドナルド・トランプらが「兵役逃れ組」として知られています。

クリントンはベトナム反戦運動に参加したことでも知られているのですが、さて、恵まれた大学生が行う反戦運動を、出征した兵士たちはどう捉えていたのか。

以下は、Christian Appy『労働者階級の戦争』からのトッドによる引用です。

ほとんどの兵士たちは反戦運動を本質的に中流階級のものと受け止めていた。マスメディアで流れる反戦活動家といえば左派の大学生のイメージだった。労働者階級の兵士たちにとって大学は特権の象徴であり、大学生は、ベトナムという文脈とは無関係に、恨み、怒り、自信のなさ、羨望、野心といった、階級に関わる一連の深い感情を掻き立てる存在だった。兵士たちが大学生の徴兵猶予の事実を知ると、階級間の溝は一層深まっていった。

Christian Appy, Working-Class War: American Combat Sodiers and Vietnam, 1993, p220 (下・58頁、英語版216頁)

(3)新自由主義の採用と格差の増大

1980年以降、行きすぎたグローバリズムによる経済格差の時代が訪れる前段階にあったのは、教育、そしてその結果としてのメンタリティの変化でした。大事なことなので、トッドに復唱してもらいましょう。

1968年までに教育による不平等の下意識は完全に出来上がっていた。他方で経済的な不平等はまだそれほど大きくなっていなかった。ここでも、歴史を追うだけで、どちらが原因でどちらが結果かを特定することができる。文化が経済を決定する。その逆ではない

下・62頁、英語版218頁(太字は筆者)

こうしたメンタリティの変化を受け、政治・経済のレベルでは、ニューディール政策に見られた平等主義が崩壊し、新保守主義・新自由主義が最高潮を迎えることになります。

上のグラフは2002年までですが、こちらのグラフを見ると、現在も同じ傾向であることが分かります。

https://ourworldindata.org/grapher/income-share-of-the-top-1-pretax-national-income?country=~USA

高等教育の拡大による「①平等な教育水準」の侵蝕が、アメリカ社会の格差・分断をもたらした。

残された謎

1980年以後、不平等がアメリカの時代精神となり、時代精神に即したあらゆる理論と政策が動員され、誰も抵抗できないうちに、著しい格差の増大と社会的分断が発生した。なるほど、と思わせる説明です。

しかし、「謎」はまだ残っています。

高等教育の進展は全ての先進国で国民の階層化をもたらし、全ての先進国は経済的格差の増大を経験しました。しかし、アメリカほど急速かつ極端な変化を経験した国は他にないのです。

まずは上位1%の取り分の推移(グラフ↓)。1980年から2000年の変化をご確認ください。

英語版225頁

こちら(↓)はアメリカの大企業350社における代表取締役と平均的労働者の所得格差の変遷のグラフです。取締役の所得は1960年には労働者の20倍でしたが80年代から上昇を始め、2022年は何と400倍です。

https://www.statista.com/statistics/261463/ceo-to-worker-compensation-ratio-of-top-firms-in-the-us/

いったいどういう仕組みで、アメリカの不平等はここまで激化することになったのか。トッドはいいます。

アメリカにおける平等という価値の崩壊は、あまりにも突然で、あまりにも激しく、あまりにも広範だった。これを完全に説明するためには、人類学システムの核心により深く踏み込んで行かなければならない。

下・70頁、英語版223頁

人類学システムの核心とは、家族システムにおける「平等の不在」をカバーしていた「魔法」。人種主義の展開にほかなりません。(つづく)

アメリカにおける急速かつ極端な不平等拡大のメカニズムを解明するには、「②人種主義による白人の平等」の展開を確認する必要がある。

今日のまとめ

  • アメリカに全員参加型のデモクラシーが実現したのは「当たり前」ではない。
  • デモクラシーの成立を可能にしたのは、①平等な教育水準、②人種主義による「白人の平等」の2要素である。
  • アメリカのデモクラシーは、①中等教育の拡大(より高いレベルでの平等な教育水準)②黒人差別の制度的温存 という状況下で最盛期を迎えた。
  • 高等教育の拡大による「①平等な教育水準」の侵蝕が、経済的格差・社会的分断をもたらした。
  • アメリカにおける急速かつ極端な不平等拡大のメカニズムを解明するには、「②人種主義による白人の平等」の展開を確認する必要がある。 
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アメリカの家族システム

 

はじめに

トッドによれば、現代アメリカの家族システムは「原初的核家族に接近した絶対核家族」です。

その情報だけお持ちいただければ「アメリカ I・II 」をお読みいただくのに支障はありませんが、一応、トッド入門講座なので、イギリスから持ち込んだ絶対核家族がどのように変化していったのか、トッドの理論の概略をご紹介させていただきます。

植民開始時のイギリス

(1)絶対核家族の成立

イギリスが本格的にアメリカへの植民を開始したのはエリザベス1世(在位1558-1603)の時代です。1584年にスタートしたプロジェクトで開拓された土地はVirginiaと命名され、ジェイムズ1世(在位1603-1625)の時代に同地に入った入植団がジェイムズタウンを建設(1607年)。ここから入植が本格化していきます。 

*画像をクリックすると詳細をご覧いただけます(statista.com

トッドは、イギリスに絶対核家族が成立した時期を「1550年から1650年の間」としており、住民リストのデータから「エリザベス1世の治世(1558年-1603年)の終わり頃のイギリスについては絶対核家族が成立していた可能性を具体的に語ることができる」と述べています(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上 298頁、英語版159頁)。

*以下単に「上」「下」という場合この本の引用を指します。また英語版の頁数を併記する場合、引用文は辰井が英語版から訳出したものです(日本語版も参照しています)。

したがって、イギリスからアメリカに植民した人々は、絶対核家族か、少なくともそれが成立しつつあった地域の出身であったと考えてよいでしょう。

(2)イギリスの個人主義

その頃のイギリスの家族が、具体的にどんな風であったかを見ておきましょう。

イギリスにおいて、絶対核家族の成立は、「ルールなし」の原初的核家族から「個人主義」、つまり、親族との絆の最小化を規範とする社会への変化を意味します。

ゆるやかにつながっていた親族集団は解体され、成長した子供は(ほぼ)必ず家を出て自立する。生涯独身者の割合が増大し(1555年頃に生まれた世代と1605年頃に生まれた世代の比較で8%から25%へ)、結婚年齢も上昇する(結婚年齢は1640-49年に女性26歳、男性28歳)。

そう。イギリスではすでにこの段階で、親族集団とのつながりを持たず、単身ないし夫婦二人で暮らす世帯が「標準」となっているのです。

もちろん、誰にでも、病や老い、身近な親族の死といった苦境は訪れます。したがって、これほどの「個人主義」は、何らかの公的な扶助制度がなければ成り立たないでしょう。では、当時のイギリスにそれがあったのか、というと、(何と?)あったのです。

イギリスはもっとも早期に「救貧法」を成立させた国ですが、それ以前から、地域共同体を主体とする給付システムが存在していたと見られています(ちなみにこの地域共同体は古代ローマ時代の遺産です(上・308-314頁))。

偉大な中世史家リチャード・スミスは、エリザベス時代の救貧法に先立って、地域の運営による老齢年金が存在していたことを示唆している。想定されているのは、荘園裁判所の監督下で、引退した小作農とその後継者(親族とは限らない)を関連づけるシステムである。

上・300頁、英語版159頁

*小作用の農地を引き継ぐ人が何らかの形で支払いをするという趣旨かと思います。

大規模農園で一労働者として働き、単身か夫婦(と子供)で暮らして、老後は社会福祉の世話になる、という私たちにはきわめて「現代的」に思える暮らしは、イギリスでは「伝統的」なものでした。

*「昔からそうだった」というだけで「進んでいる」というわけではありません。お間違えのないように!

トッドはイギリスの歴史家 David Thomsonの言葉を引いています(上・300頁、英語版159頁。

チューダー朝やステュアート朝の教区民がなぜか1990年代のイギリスにタイムスリップしたとしたら、分からないことだらけだろうが、社会福祉のあり方をめぐる現代の議論にはまったく違和感を感じないだろう。

上・300頁、英語版159頁

 *チューダー朝は1485-1603年、ステュアート朝は1603-1714年

アメリカにおける変容

(1)植民地時代:原初的核家族への退行

新天地を求めてアメリカに渡った人々が、安定した農村で培われたこうしたライフスタイルを維持できたかといえば、答えはもちろん「NO」でしょう。

さしあたり大規模農場もないしローマ由来の共同体もない。もちろん国による社会保障も望めない。全部自分たちでやっていかなければならないわけですから。

当初のアメリカの核家族は、イギリスの絶対核家族が強化されたバージョンというより、その正反対で、絶対核家族の特徴が著しく弱められたバージョンだったといえる。あらゆる領域で、未分化核家族への退行が見られた。世帯規模は大きくなり、遺産が分割されることが増え、兄弟姉妹の絆が復活した。植民地時代の状況は、親族の絆が最小限であることを特徴とする現代のアメリカモデルとは全くかけ離れていたのである。

上・331頁、英語版176頁

女性の地位という点でも、当時の核家族は「原初的」でした。

女性のステータスという点でも、現代のあり方からはかけ離れていた。トクヴィルを含め、建国期のアメリカを観察した者はみな、女性のステータスの高さに注目している。その始めから、ピューリタン農民の妻たちは宗教生活および社会生活において尊敬され、活動的だった。一方で、いかなる宗派においても、女性は土地と家の相続からは排除されていた。

最初のプロテスタント・アメリカ人の間での経済・社会生活における性の区別は、狩猟採集民のそれと同様に厳格だった。財の分配が当初女性にとって不利だったことは、父系制の初期の導入の例というよりは、ホモ・サピエンスの原初的男女分業の観点から解釈されるべきであるように思われる。T・Ditz が明らかにしたように、男性に有利な処遇に家系の後継指名の意図が見られない以上、これを父系制の第一歩とみなすことはできない。

上・332頁、英語版176頁

(2)20世紀初頭:絶対核家族への回帰

その後、1720-1770年(入植の第3世代から第4世代)の間に絶対核家族の台頭が進んだと推定されていますが(上・334頁)、アメリカ全土にイギリスと同様の絶対核家族が戻ってきたのは20世紀に入る頃です。

結構時間がかかりました。

理由の一つに、開拓が続いたことが挙げられます。フロンティアの消滅(宣言が出されたのは1890年)までは西へ向かう開拓の波が続いたので、その度に「原初的核家族への退行→社会の安定→絶対核家族への回帰」の推移が繰り返されることとなり、全体としての絶対核家族化は進まなかった。

もう一つは、産業革命が遅かったこと。イギリスの産業革命の開始は、1780年とされますが、アメリカは1840年です*。労働人口の大半が小規模の個人事業主であるうちは、親族との絆なしには立ち行きません。賃金生活者が増えてようやく、核家族への回帰に弾みがつくのです。

*トッドが W・W・ロストウ『経済成長の諸段階』(初版1960年。最新の改訂版が1990年)に依拠して用いる数字です。

(3)1950-70 : 絶対核家族の絶頂期

トッドが「絶対核家族の絶頂期」と呼ぶ1950-70年に、ある世代以上の日本人が「アメリカン・ファミリー」として思い描くであろう豊かで呑気な家族の時期がやってきます。

大企業が安定的に給与を支払う。

国家はニューディール政策で社会保障(失業保険、退職金、老齢年金等)を整備する。

16-17世紀のイギリスで大規模農園と救貧法がその役を果たしたように、アメリカでも、大資本と国家が、親族の絆を最小限とする絶対核家族の完成に寄与しました。

ところで、「アメリカン・ファミリー」といえば、郊外の一軒家、夫はサラリーマン、妻は専業主婦、子供が2、3人いて、犬の一匹も飼っている、というイメージですが、この男女の関係はどう理解したらよいのか?

テレビドラマ「奥様は魔女(Bewitched)」(ABC 1964-72)
日本ではもう少し後? 妻の親族がいろいろ出てきた記憶がありますが‥

トッドは次のように述べています。

この時期、男女の関係性は、対等な立場での男女分業という原初的ホモ・サピエンス型に戻っていたように思える。夫は外で働き、妻は家内をやりくりする。最新の家電製品の助けを借りて。

上・336頁、英語版176頁

「子供が2、3人」というのはもしかすると日本の高度成長期のイメージで、アメリカの場合は「3、4人」のレベルに達していたそうです。

この男女の分業体制が戦後のベビーブームを牽引し、合計特殊出生率を1950年には(女性一人当たり)3.1人、1960年には3.65人にまで引き上げた。出生率は1940年には2.30人にまで落ち込んでいたのだ。(上・336頁、英語版178頁)

上・336頁、英語版178頁

しかし、これが「絶頂期」ということは‥‥。そうです。大変意外なことに、アメリカはこの後、「絶対核家族」の凋落期を迎えていきます。

現代:グローバリズムの果て

トッドが繰り返し指摘していることですが、自由貿易は先進国の労働者の給与を押し下げます。その第一の犠牲者となるのは若者と非熟練労働者。彼らは家を出たくてもその余裕がなく、やむなく親と同居します。

そのようにして親族のつながりが復活し、現在のアメリカは「むしろ原初的核家族では?」という様相を呈しているというのです。

25-29歳65-69歳70-74歳
アメリカ−9%+28%+25%
イギリス−2%+62%+66%
ドイツ−5%+5%+9%
フランス−8%+49%+31%
オーストラリア+27%+14%+2%
年代別 世帯あたり可処分所得上昇率の平均との差(1979-2010年のデータ)
下・130頁より

上の表は、1979-2010年における世帯あたり可処分所得の上昇率を、世帯主の年齢別に、平均上昇率との差で示したものです。オーストラリアを除いて、若年層の上昇率が低く、高齢者の上昇率が高いことがわかります。

人口の最若年層の所得減少は、新自由主義革命、とりわけ自由貿易の機械的な結果である。自由貿易は資本を持たない者を一律に、情け容赦なく粉砕する。最初に犠牲に供されたのは若い世代と労働者だった。市場原理主義は高学歴の者を含む若年層の親への経済的依存度を劇的に高めた。中年のエリートがかつてないほど個人の自由を謳歌し称揚していた正にそのとき、若い個人は自立の可能性すら失いつつあったのだ。

下・129頁、英語版258頁

アメリカの調査機関(ビュー研究所)は、2016年5月に、18-34歳の若者の親との同居率が1880年と同じ水準に達したことを示すデータを公表しているそうです(下・130頁)。

トッドはいいます。

いま、アメリカの核家族は、端的に「絶対」核家族の性格を失いつつある。彼らは明らかに、成人した若者の親との一時的同居そして原初的な未分化家族への(部分的な)反転を経験している。‥‥ 新自由主義革命は、雇用へのアクセスを困難にし、国家を弱体化させることで、アメリカの家族に、歴史上二度目となる、原初的ホモ・サピエンス型の未分化核家族への退行をもたらしたのである。

下・130頁、英語版259頁

おわりに 

以上のように、トッドの示す解釈によると、アメリカの家族システムは、「絶対核家族→原初的核家族→絶対核家族→原初的核家族」と推移したことになります。

しかし、読んでいて、こう思った方はおられないでしょうか。

「これ、家族システムっていうか、単なる家族の観察じゃね?」

そうなんですよ!!

アメリカ以外の地域で、家族システムの特定は、近代以前の家族のデータを使用して行われています。「農村時代の方がシステムが見えやすいから」というのがその理由ですが、その前提には、家族システムとは「場所の記憶(the memory of places)」として固着し、人々のメンタリティに永く刻印を残すものであるという認識がありました。

現代日本の家族はたいてい核家族で、アメリカやフランスと大して変わらない。しかし、集合的なメンタリティに見られる確かな違いを、近代以前の家族のありようが説明する、というところに、トッドの理論の驚きというかときめきがあるわけです。

しかし、アメリカ社会は、最初から近代社会として誕生し、それ以前の「場所の記憶」というものを持たない社会です。この点をどう考えたらよいのでしょうか。

*人口が500万人に達したのが1800年頃ですが、その頃識字率はとうに男性50%を超えています(イギリスと同時期として1700年)。

私は、アメリカで観察された「絶対核家族」(20世紀から1950-70)については、次のように問うてみる必要があるのではないかと考えています。

「それって、本当に絶対核家族システムなのか?」

大規模農園や救貧法といった要素はイギリスの絶対核家族を可能にする条件ではありましたが、システムとしての凝固を促した要素は別にあります。長子相続を営むノルマン貴族や、地方組織の縦型の権威構造(ローマの痕跡!)の存在です。イギリス庶民は、それらを横目に見ていたからこそ、核家族を「規範」にまで高めることを選択したのです。

往時のアメリカには、大会社があり、国家による社会保障があった。しかし、直系家族の王侯貴族やローマ帝国の遺産といった、システムの鍵となる「場所の記憶」はない。

ということは、もしかすると、アメリカで見られた「絶対核家族風の暮らし」は、単なる事実状態にすぎず、「絶対核家族システムの成立」を意味するものではないのではないか。

「脳内の記憶」としての絶対核家族のイメージはあったかもしれないが、「場所の記憶」としての家族システムが成立したことはないのではないか。

そのような解釈は十分に成り立つように思えます。

「トッド入門講座」では、トッドの解釈に従い、「アメリカは原初的核家族に近い絶対核家族」ということで話を進めます。

しかし、ひょっとして「システム以前」の純然たる原初的核家族かもしれない、という可能性も捨てないでおくと、よりいっそう興味深い仮説を展開できる気がします。

今日のまとめ

  • アメリカへの植民が始まった頃のイギリスはすでに絶対核家族だった。
  • 植民地時代のアメリカは原初的核家族に回帰した。
  • 絶対核家族は18世紀中盤から台頭し、20世紀初頭に全土に普及、1950-70年に絶頂期を迎える。
  • グローバリズムの進行による経済環境の悪化から、親族との相互扶助の絆が復活している。
  • システム」としての絶対核家族の成立には疑問の余地がある。
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トッド入門講座

〈特集〉アメリカ
-予告編-

はじめに

21世紀前半を生き、世界の真実に近づくことを目指す私たちにとって、アメリカほど興味深く、重要な研究対象はありません。

私たちがいまどんな世界に生きていて、どうしてこの世界を生きることになったのか。アメリカという国を理解することなしに、その答えに近づくことはできないでしょう。

トッドもそう考えたのだと思います。彼は『我々はどこから来て、今どこにいるのか』(2017年(日本語版は文藝春秋 2022年))の中で、アメリカの人類学的分析に最も多くの紙面と労力を費やしました。

以前にも少し書きましたが、彼の分析は本当に鮮やかで、アメリカに関する部分(とくに11章から14章)の骨子はいつか必ず紹介しなければと思っていました。

しかし、彼の分析によって、アメリカをすっかり理解できるか。私たちの生きるこの世界がなぜこのようになったのかを理解して、その先を考えることができるか。‥‥ ということになると「何かが足りない」と感じることも事実なのです。

そこで、トッドに学んだ日本の私は「何か」を付け足すための準備に勤しんでいたのですが、ようやく準備が整ったので、はじめましょう。

それにしても‥‥ トッド入門講座のくせに「足りない」なんて、いったいどういう了見なんでしょうか。

ご説明させていただきます。

トッドのアメリカ観

アメリカの未来、そしてアメリカが主導する世界の未来についてのトッドの感触は、この20年ほどの間に、悲観→楽観→悲観 と揺れ動いています。順番にご覧いただきましょう。

(1)帝国以後:悲観するトッド

2002年、トッドは、「帝国」としてのアメリカ、つまり世界の覇権国としてのアメリカに焦点を当てたこの本を、次のような言葉ではじめました。

アメリカ合衆国は現在、世界にとって問題となりつつある。これまでわれわれはとかくアメリカ合衆国が問題の解答だと考えるのに慣れて来た。アメリカ合衆国は半世紀もの間、政治的自由と経済的秩序の保証人であったのが、ここに来て不安定と紛争を、それが可能な場所では必ず維持しようとし、国際的秩序崩壊の要因としての様相をますます強めるようになっている。

‥‥「孤高の超大国」はなぜ、第二次世界大戦直後に確立した伝統に従って、基本的に寛大で穏当な態度を保持することをやめたのか?なぜかくも動き回り、安定を揺るがすようなことをするのだろうか?全能だからか?それとも逆に、今まさに生まれつつある世界が自分の手をのがれようとしているのを感じるからか?

『帝国以後ーアメリカ・システムの崩壊』(藤原書店、2003年)19-20頁、25頁

本の中盤では、アメリカにおける民主主義の衰退(≒ 万人を平等に扱う普遍主義の衰退)と軍事的・経済的実力のお粗末さを指摘した上で、「‥‥2050年前後にはアメリカ帝国は存在しないだろうと、確実に予言することができる」(117頁)とまで述べています。

要するに、彼はアメリカに絶望していたのです。ところが、この時期までに行われた分析のほぼすべてを維持したまま、この後、彼のアメリカ観は上向きに転じます。

(2)我々はどこから来て、今どこにいるのか?:「原始的なアメリカ」への期待

理由ははっきりしていて、彼はこの間(2002年から2017年)に、「民主制はすべて原始的である」そして「ホモ・アメリカヌスはほぼ狩猟採集民である」という着想を得たのです。

ホモ・サピエンスの人類学的な最初のシステムは核家族であり、重要な親族との関係でできた小さなグループの社会なのです。この核家族の個人主義的な価値観は、リベラル・デモクラシーの基本的な思想につながっていると考えられます。そのことを考えていくうちに、こういう見方にたどり着きました。ならばリベラル・デモクラシー自体も古いものなのだ、と。核家族というシステムの発生に伴って、柔軟で、原初的なデモクラシーや原初的寡頭制という現象も登場したのです。

エマニュエル・トッド、ピエール・ロザンヴァロン他『世界の未来』(朝日新書 2018年)11-12頁

トッドは、2012年に刊行した『家族システムの起源』(翻訳は2016年)の中で、「大家族(複合家族)から核家族へ」という一般常識と異なり、核家族こそが、太古のすべての人類がもっていた普遍的なシステムであることを明らかにしていました

これを手がかりに、彼は『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の中で、リベラル・デモクラシーの本家と目されるイギリス、アメリカの人類学的分析に取り組みます。

その結果、アメリカのシステムが太古の狩猟採集民のシステムに最も近いことを理解した彼は、「民主制はすべて原始的である」という認識に到達し、「原始の民の活力が停滞する世界を切り開く」というイメージに希望を見出すのです。

例えば、出版直後に当時話題となっていたトランプ大統領選出やイギリスのEU離脱(Brexit)について語るトッドはこんな感じです。

私はトランプ大統領があまり好きではありませんし、英国の大衆層の排外的な部分も好きではありません。けれども、この排外性は民主主義と反対のことではなくて、民主主義の始まり、あるいは再登場の始まりなのです。‥‥

‥‥いずれにしろ家族という次元でも政治の次元でも自由であった方が、社会は創造的です。だから、英米世界はこれからも世界をリードし続けるだろうと思います。

『世界の未来』15-16頁

(3)ウクライナ戦争以後:再び悲観へ

しかし、ウクライナ危機の悪化によって、彼のアメリカ観は、再び下方修正されるのです。

タイミングよく(わるく?)2022年10月に公刊された日本語版『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』のあとがきで、トッドは次のように述べなければなりませんでした。

2017年に刊行した本書に関して、基本的な分析の枠組みや主張は、5年経った今でも妥当すると自負しています。

ただ、当時と比べて自分自身の認識を改めざるを得なかった点があります。それは、本書の主題でもあるアングロサクソン世界に対する見方です。本書の執筆時には、今よりも楽観的な見方をしていて、ブレグジットを決断したイギリスとトランプを大統領にした米国ー他の先進国に先んじて民主主義の失地回復を果たしたアングロサクソン世界ーに期待をかけていたのです。

ところが、その後の両国の動きに、少しずつ不安を感じるようになりました。世界を安定化させるどころか、率先して世界を不安定化させているように見えたからです。そのことが明白になったのが、ウクライナ戦争でした。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか』311頁

こうして、私たちは、再び『帝国以後』の冒頭に立ち戻った、といってよいでしょう。つぎの引用は、2023年1月に日本の新聞に掲載されたインタビューの末尾。日本へのメッセージですが、トッドがアメリカの将来に対して暗い見通しを持っていることをはっきりと伝えています。

守ってくれる米国が先につぶれることがあり得ます。ソ連が崩壊したように。日本はまるでソ連を構成した共和国のようですが、幸いなことにその国々よりも多くのリソースを持っている。生き延びていくチャンスは、そこにあるのです。

2023年1月25日 中国新聞(朝刊)

国家とデモクラシー:アメリカの2つの謎

トッドは、なぜ、アメリカの人類学システムを解明したその本で、アメリカの将来について(少なくとも短期的には)誤った見通しを抱くことになってしまったのでしょうか。

ちょっと意地の悪い問いですが、この問いこそが、私たちをより真実に近づけてくれることはまちがいない。

そこで、まず、彼が『我々はどこから来て、今どこにいるのか』の中で、人類学的知見をどのように役立て、どのような問題を解明したのかを確認しましょう。

(1)デモクラシーの成立と衰退ー「平等」の不在

アメリカの家族システムは、母国イギリスに由来する絶対核家族とされます。その表現する価値は、トッドのマトリックスによれば「自由+非平等」、講座版マトリックスによると「権威の不在+平等の不在」です。

*詳しくは「アメリカの家族システム」でご紹介しますが、トッドは、アメリカの核家族は、いったん絶対核家族から原初的(未分化)核家族に近づき、改めて絶対核家族に回帰したあとも(イギリスの絶対核家族と比べ)より柔軟性を保っていることを指摘しています。

この知見を前提に、彼が論じたテーマは「アメリカのデモクラシー」(*トクヴィルと同様、トッドも現地に滞在して執筆したようです)。

中心にある問いは、「デモクラシーはなぜ平等の価値を持たないアメリカで早期に成立し、のちに衰退したのか」です。彼は、「権威と平等」というアメリカに欠如する2つの価値のうち、もっぱら「平等」の方に着目したわけです。

この問いが重要な問いであることは間違いありません。

アメリカのデモクラシーとは「生まれながらにして平等」な人民の合意に基づく政治です。

→独立宣言 https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/

「平等の価値を持たない核家族のアメリカがなぜ ”自由と平等” のフランスよりも早くスムーズにデモクラシーを確立できたのか」は、大いなる謎であり、とりわけ人類学に信を置く者にとっては、絶対に解明しなければならない謎といえます。そして、トッドは確かにその謎を解いたのです。

しかし、それにもかかわらず、トランプ大統領の登場が、アメリカを安定に導く過程の始まりなのか、そうでないのかを見通せなかったのはなぜなのか。

「もう一つの謎が放置されたままになっているからだ」というのが私の考えです。

(2)国家の成立と衰退ー「権威」の不在

もう一つの謎とは何か。それは「「権威」の価値を持たないアメリカが、なぜ国家を成立させることができたのか?」です。

国家の誕生と家族システムにおける「権威」の誕生(=直系家族の誕生)が歴史的に同期するという事実、さらに、原初的(未分化)核家族には国家形成能がないという事実を、私はトッドから教わりました。

「これは決定的だ!」とピンと来て、どんどん仮説を立てているのですが、トッド自身は、国家における「権威」の重要性をあまり真剣に受け止めていないように感じられます(フランス人だからでしょうか‥)。

トッドは、イギリスには過去(古代ローマやノルマン)に由来する「上位の権威」が存在し、アメリカには存在しないことを明記していますし(『我々は‥』上 325頁)、次の部分にもその問題意識が見られます。

米国では、イギリスの社会システムの垂直的要素の大半、すなわち、貴族における長子相続、君主国家とその教会、昔からの支配階級、村落における安定的な寡頭制などが消えた。社会的・精神的システムの中枢を成していた原理そのものが、大西洋の西側では廃止されたのだ。消失したものとして語られるべきものは、超越性、他律性、社会的超自我であろうか。言葉の選択はさほど重要でない。要は、アメリカで姿を現し、拡がったシステムが、地域共同体の数々と連邦を構成する諸州を擁して、イギリスのシステムよりも遥かに水平的であり、原初的人類を構成した原始的集団のシステムに遥かに近いことを確認しておけば充分だ。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』下 26頁

ここまで来たら、つぎの問題は、「それにもかかわらず、アメリカはなぜ国家を形成できたのか」でなければならないはずであり、「アメリカにおいて法、秩序、国民の統合を可能にしているものは何なのか?」でなければならないはずです。

彼がこうした問題に「かすっている」ことは、つぎの文章に見て取れます。

建国の父たちが新たな人民に成文憲法を与えたことはいうまでもない。そのテクストは、しばしば修正を加えられたとはいえ、きっぱりと尊重された。そうして、たちまちのうちにアメリカという国家が存立し、その国家の具備する代表制が素晴らしくよく機能した。それは、高い教育水準のお陰であり、また、社会を不安定にしやすい平等主義的無意識の不在のお陰でもあった。しかし、われわれがすでに見てきたとおり、アメリカという国家はこれまで一度として、正統な暴力の独占を自らに確保し得たためしがない。米国の住民たちはまったく当たり前のように旧式で、武装しており、その他殺率はヨーロッパの水準の5倍から15倍の間で推移している。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』下 26頁

アメリカで、憲法が成立し、国家が存立し、代表制が機能した一方で、暴力をコントロールには失敗している。ここまで明瞭に指摘しておきながら、トッドはこれらのすべてを「原初性」に結びつけ、ロマンすら感じてしまい、「それほど水平的で、原初的であるのに、なぜ国家が成立したのか」を(真剣には‥)問わないのです。

「きーっ、もったいない!」と歯噛みをしつつ、日本人の「権威マニア」としては、フランス人トッドは「権威」の何たるかをよく理解していないか、「平等」に集中しすぎて「権威」のことを忘れてしまったと判断せざるを得ません。

しかし「権威の不在」に関する謎を置き去りにしていることが、トランプのアメリカが健全な民主主義のスタートであるというような「ロマン主義的誤謬」の大もとにあることは間違いないと思われ、私たちとしてはこの謎に取り組まないわけにはいかない。

ということで、「もう一つの謎」は、satokotatsui.comの方で探究することとさせていただきます。

〈特集〉アメリカ

以上の次第で、「特集・アメリカ」は、トッド入門講座とsatokotatsui.comの共同企画とし、三部構成でお送りいたします。

アメリカの家族システム
エマニュエル・トッド入門講座

アメリカ I (平等の不在)ーデモクラシーの成立と衰退ー
エマニュエル・トッド入門講座

アメリカ II(権威の不在)ー国家の成立と衰退ーsatokotatsui.com

どうぞお楽しみに。

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ヨーロッパのキリスト教
(4・完)脱宗教化 

 

1 カトリック地域では何が起きたか

プロテスタンティズムが直系家族地域に浸透し、絶対核家族地域では「変形」を被っていた頃、プロテスタンティズムを拒否した地域では何が起こっていたのでしょうか。

第2回で書いたように、ドイツの隣国フランスでは、プロテスタンティズムは、パリ盆地などの平等主義核家族地域には浸透せず、フランス内の共同体家族地域もカトリック側に付きました。

フランスの一部と並び、識字化が進んでいたにもかかわらずプロテスタンティズムを撥ねつけた地域を代表するのは、北部および中部イタリアです(北部は「絶対」ではない核家族だが、ローマは平等主義核家族、それ以外の中部イタリアは共同体家)。

*平等主義核家族と共同体家族はいずれも(ざっくり言うと)「ローマの遺産」なので、両者は地理的に近接しているのが普通です。この件についてはこちらをご参照ください。 
*なお、南イタリアは平等主義核家族ですが、文化的な遅れ(識字率の低さ)のために対抗宗教改革の中心地にはなっていません。

家族システムもさることながら、「当時のイタリアはローマとイコール」(『新ヨーロッパ大全 I』140頁)であり、ヴィッテンベルクがプロテスタンティズムの中心地であるのと同様、イタリアはカトリシズムの中心地なので、プロテスタンティズムが浸透する余地はないのです。

そこで、イタリア、そして、フランススペイン(の識字率の高い部分)は、その文化的な進歩性により、対抗宗教改革の中核を担うことになりました。

北部イタリアは神学者を提供する。北部フランスは、ユグノーに対して猛り狂った都市大衆を立ち上がらせる。スペインは軍隊を派遣し、ヨーロッパで最も発達した地帯の一つであるベルギーからラインラントまでの一帯で、宗教改革の拡大を軍事力を以って阻止するのである。

『新ヨーロッパ大全 I』150-151頁

彼らは、天上での自由と平等を守るため、ルターの予定説に対抗する教義を練り上げ、教会および聖職者勢力とは妥協して共存する道を選びます。

ところが、この選択は、思わぬ副作用をカトリック地域にもたらすことになりました。文化的進歩のスピードが、目に見えて低落したのです。

プロテスタンティズムは、信徒に自ら聖書を読むことを求めます。そのため、プロテスタンティズムは通常は識字率の高い地域に浸透し、そうでない場合には直ちにその地域の識字率を上げる。

これに対抗するカトリシズムは、聖職者以外の者に「読む」ことを事実上禁じます。

プロテスタントの文化的進歩主義に対して、カトリシズムは書物への紛う方なき憎悪によって素早く反応する。早くも1559年にローマ教会の異端審問所は、キリスト教徒の宗教的純血を守るために、読むことを禁じた書物を列挙した「禁書目録」の第1版を発表する。「目録」は、知的官僚主義の驚嘆すべき顕現に他ならないが、文字で書かれたものに対するカトリシズムの敵意のほんの一要素にすぎ[ない。]

‥‥実は、教会はあらゆる印刷物を脅威とみなしているのだ。カトリック圏には、ひとりでものを読む人間に対する猜疑の態度が一般に広まっている。聖書を所有するということそれ自体、ほとんど異端の兆候なのである。

181-182頁

1500年以前、文字文化の中核は、ベルギードイツ圏南部北イタリアでした。

このうち、プロテスタンティズムの中心地となったドイツは、さらに精力的に識字化を推し進め、1670年には世界初の男性識字率50%超えを達成します。

ところが、カトリック陣営に残ることを選択したベルギーイタリアの文化的発展は減速し、ヨーロッパの中では中くらいの凡庸なアクターに成り下がってしまう。

スウェーデンスコットランドがプロテスタントを受容したことによって識字先進国となったのと正反対に、ベルギーイタリアは、カトリックにとどまったことによって、先進国であることを止めるのです。

*フランスにもその面がありますが、ドイツ圏に近いことと、国内に直系家族地域があることでイタリアより有利であったと考えられます。「カトリック地域にとっては、文化的発展は、外部からの影響による外因性の過程となるのである。北フランスは、識字化の進んだドイツ圏に近く、地理的にイタリアより有利な立場にあったわけである。」(182頁)

*イギリスはプロテスタントですが、核家族なのが不利な点で、識字においてドイツ、スウェーデンに遅れをとった理由と考えられます。識字における直系家族の寄与についてはこちらをご覧ください。 

対抗宗教改革の中核となった地域は、カトリックにとどまったことにより、文化的先進地域であることを止める

2 脱宗教化の謎

宗教改革の決着が付くと、次のビッグイベントは、信仰そのものの放棄、脱宗教化です。

脱宗教化が近代化に付随する現象であることに疑問の余地はありません。したがって、普通に考えると、脱宗教化の時期は、識字化あるいは産業革命(工業化)等の時期と一致することになりそうです。

しかし、実際はそうではありませんでした。

脱宗教化の時期

第1期(1730-1800)
パリ盆地のフランス、中部・南部スペイン、南部ポルトガル、南イタリア

第2期(1880-1930)
イングランド、ドイツ圏、北欧

第3期(1965-1990)
ベルギー、南ドイツとラインラント、オーストリア、スイス、フランス周縁部、北部・中部イタリア、北部スペイン、北部ポルトガル
 

〔脱宗教化:進行過程の特徴〕

ヨーロッパにおける脱宗教化の進行過程には、2つの特徴が見て取れます。

第一に、その信仰崩壊の過程は、連続的ではありません。集中的に信仰が崩れる3回の「崩壊期」を経て、最終的に脱宗教化が完成する。

第二に、信仰崩壊の速さは、文化的ないし経済的発展とはリンクしていません。

いち早く脱宗教化したのは、識字・工業化のどちらも中程度であったフランスで、これに続くのは、スペイン、ポルトガルといった低開発国です。

これよりだいぶ遅れて、工業化先進国であるイングランド、識字先進国のドイツ北欧が脱宗教化を果たす。そして、この時期を乗り切った地域は20世紀後半まで、脱宗教化を持ち越すのです。

スウェーデン90%
プロイセン80%
スコットランド80%
イングランド65-70%
フランス55-60%
オーストリア・ハンガリー55-60%
ベルギー50-55%
イタリア20-25%
スペイン25%
1850年頃の識字率(『世界の多様性』331頁:資料 C.M.Cipolla, Literacy and Development in the west, London, Penguin, 1969, p115)
*脱宗教化の測定
 地域の住民にとって宗教が重要なものでなくなったという事実をどのように測定するのか。カトリックの場合、教会を通じた宗教実践の熱心さ(日曜のミサへの出席、幼児洗礼の比率、宗教結婚のパーセンテージなど)を基準にすることができます。聖職者の権威を否定するプロテスタントでは、ミサへの出席率の低さ、牧師の数の少なさは、それ自体では、不信仰の証にはなりません。しかし、ミサへの出席率や牧師の数を経年で比較して、急激な低落が見られるとすれば、それは充分な指標となるでしょう。

脱宗教化は3回に分けて断続的に進行。順番は文化的・経済的発展の度合いとは無関係だった

3 脱宗教化の仕組み

脱キリスト教化の過程が複雑な様相を呈するのは、キリスト教信仰の分解要因と抵抗要因とが存在し、その両方が1730年から1990年までに期間、同時に作用したからに他ならない。プラスの要素とマイナスの要素がぶつかり合い、宗教に関するそれぞれの地域の独特の運命が決定されるわけである。

『新ヨーロッパ大全 I』199頁

(1)信仰の解体要因と抵抗要因

脱宗教化の過程は、次の二つの要素を考慮することで、ほぼ説明し尽くすことができます。

1 信仰の解体要因:科学革命
   ①ニュートン革命(17世紀後半)
   ②ダーウィン革命(19世紀後半)
   

2 信仰の抵抗要因:信仰の強度
   ①家族システム
   ②農地制度(大規模農業経営の有無)
 

科学革命は、伝播にかかる時間や、受け手となる識字層の厚みなどによる相違はありますが、ある程度均等な作用を各地に及ぼします。

しかし、科学革命という作用に対する各地の反応は大きく異なる。それは、もともとの信仰の強度が、地域によって異なるためです。

(2)「信仰の強度」の決定要因

信仰の強度は、家族システムによって、第二に、農地制度(大規模農業経営の有無)によって決まります。

〔家族システムと信仰の抵抗力〕

親子関係
(権威 1 / 自由 0)
兄弟関係
(不平等 1/ 平等 0)
信仰の強度
直系家族112
絶対核家族011
共同体家族101
平等主義
核家族
000

神のイメージには、地上における父親のイメージが反映されるため、親子関係が権威的であるシステムでは神も権威的(強いイメージ)となり、自由主義的なシステムでは神も自由主義的(弱いイメージ)となります。

信仰の強度には、兄弟関係も影響します。神の権威を支えるのは、神の超越性(「人間とは異なる」)の感覚です。人間同士が不平等であるシステムは、神の超越性に疑問を持ちませんが、人間同士が平等であるシステムは「なぜ神だけが特別なのか?」という疑問を持ちやすい。その意味で、兄弟関係の不平等は権威を下支えし、平等は権威を掘り崩す作用を持つということができます。

親子関係、兄弟関係の指標を数値化すると、信仰の抵抗力がもっとも強いのが直系家族、もっとも弱いのが平等主義核家族となります。

〔農地システム:大規模農業経営の有無〕

大規模農業経営(直系家族の伝播の話で一度出てきました)とは、農民が自分の土地を持たず、他人の土地を耕して得た賃金で生活する仕組みです。

経済的な独立性の喪失(例えば自作農→工場労働者)が宗教感情の衰退をもたらすというのはウェーバー以来の命題ですが、ウェーバーが経済的自律性と「(地上および彼岸における)運命に対する感受性の強さ」とを結びつけたのに対し、トッドは、家族における父親のイメージの変化に着目した説明を試みます。

経済的独立は、家族を‥‥父親を企業主とする自律的生産単位にする。ところが‥‥賃金制度は家族から生産機能を奪い、‥‥消費単位の役割に押し込めてしまう。父親は家族の主ではあるが企業主ではない。‥‥父親の影響力は、子供の目にも見える日常の経済的決定の中に具体的な形を取って現れることをやめる。‥‥賃金制の下では父親の権威はより遠いものとなり、感情的な分野に限られてしまい、それさえもしばしば、家にいることの多い母親に中継されることとなる。経済的依存は父親の権威を抽象的なものにする‥‥。‥‥要するに賃金制は、工業においてであれ農業においてであれ、父親のイメージを脆弱なものとし、その結果、その反映に他ならない神のイメージを脆弱なものとするのである。

『新ヨーロッパ大全 I』208頁

大規模農業経営はそれ自体家族システムと相関性があり、大抵は核家族と結びついています。したがって、大規模農業経営は、核家族地域の神の「弱さ」に拍車をかけ、宗教を脆弱化させる要因として働くわけです。

信仰の強度が最も弱いのは、平等主義核家族 + 大規模農業経営

4 平等主義核家族の脱宗教化
(1730-1800)

そういうわけで、ヨーロッパにおける最初の脱宗教化が起こるのは、パリ盆地のフランス中部・南部スペイン南部ポルトガル南部イタリア。地図の通り、「平等主義核家族+大規模農業経営」の地域とぴったり重なっています。

1730-1800年という時期は、ごく大雑把にいえば、「ニュートン革命後」の時期にあたります。

「信仰の動揺」に着目すると、17世紀の中頃から、神の存在を合理的に証明しようという試みが増加する。1641年にはデカルト(『形而上学的省察』)、1657-58年にはパスカル(『パンセ』)が、この問題に挑みます。

もちろん論法はデカルトのとは異なっていた。しかし不安は同じだった。神は存在しないかもしれないという不安である。‥‥信仰によってはもはや到達できないものを数学者たちが証明しようとする、というのがこの経緯の特徴なのである。

『新ヨーロッパ大全 I』202頁

イギリス知識人の間で理神論が活発化したのは1690-1740年の間、「この理神論は、その後、万有引力の法則とともに大陸に渡り、フランスで先鋭化され、最終的には何人かの手によって無神論に作り変えられる。

18世紀、啓蒙期のフランスにおいて、伝統的な宗教の破壊は知識人の使命となり、「エリートの無宗教はヨーロッパ中に広がっていく」。

もちろん、ニュートンに代表される科学革命を受けた啓蒙期の理神論・無神論の影響を受けたのは、貴族やエリート層、ブルジョワ、聖職者といった都市の住民だけです。

カトリック陣営に属するこれらの地域では、識字率の上昇も緩慢で、農村の人口が啓蒙思想に感染するおそれはありません。それなのに、なぜ、脱宗教化が完了してしまうのか。

それは、これらの地域では、もともと、都市の住民だけがカトリックの信仰を支えていたからです。

平等主義核家族+大規模農業経営のこの地域では、農村の住民はそもそも信仰に無関心だった。

都市の識字層は対抗宗教改革に燃えたが、実のところ、彼らの抱く神の像は、自由主義的で平等主義的な弱々しいものでしかなかった。

こうして、これらの地域では、科学革命の衝撃によって、あっさり信仰が崩壊することになったのです。

*農村がカトリシズムに無関心であったという事実を、トッドは当時の新任聖職者の採用数のデータから導いています。同じフランスでも非大規模農業経営の地域では中流農民層から多くの聖職者が排出されているのに対し、大規模農業経営の地域では聖職者のほとんどが都市部から排出されている。この構造はスペイン、ポルトガル、イタリアでも同様に見られるそうです(219 頁)。

農民が宗教に無関心な地域(平等主義核家族+大規模農業経営)は、
科学革命の衝撃(→啓蒙思想の流行)であっさり信仰が崩壊

5 プロテスタンティズムの再活性化と
崩壊(1740-1930)

(1)プロテスタンティズムの再活性化

さて、平等主義核家族+大規模農業経営の地域でカトリック信仰が大打撃を被っていた頃、プロテスタンティズムは再活性化の時期を迎えていました。

理神論や無神論が流行したとしても、それはごく一部のインテリの間での現象に止まり、都市の一般市民、とりわけ農村の庶民たちに及ぶものではなかった。

そして、近代化に伴う「不安」は、かえって、信仰の一時的活性化をもたらしました。

イギリスでは産業革命の野蛮な第一局面のせいで、全般的不安が広がり、それが信仰の一時的再生をもたらすことになる。大陸では、イギリスの産業革命の半世紀後に始まったフランス革命が、それとは異なるタイプの恐れ、それとは別の信仰と形而上的安全の保証への欲求を生み出し、それが伝統的信仰の目覚めという同じ解決策に結びつくことになる。

223頁

なお、近代化の過程における伝統的信仰の活性化は一般的な現象で、比較的最近の事例はイスラム圏における原理主義の伸張に見られます。イスラム主義が高らかに掲げられ、女性の抑圧が強まったとしても、そのことは、彼らの近代化を疑う理由にはならない。

宗教の退潮と原理主義の伸張が時間的に合致するというのは、古典的な現象である。神の疑問視と再確認は、同じ現実の二つの面に他ならない。

『文明の接近』53頁

(2)続・イングランドのプロテスタンティズム

前回イングランドのプロテスタンティズムについてやや詳しく扱ったので、ここでもイングランドの事例で「活性化」の様相を追いたいと思います。

イングランドは、アルミニウス主義による変形を経て、地上でも自由、天上でも自由という最強の自由主義プロテスタンティズムを確立していました。

そのようなところで信仰が活性化すると何が起きるかというと、教団が分裂するのです。

真のプロテスタント信仰は、個人のレベルでは、‥‥回心を経験したという気持ちを持つことを前提とする。選ばれたものの回心は、ほとんど自動的に分裂を促進することになる。特に、組織内の規律に価値を付与しないアルミニウス派的気質の国では、その傾向は一層強まる。

プロテスタント国においては、教団分裂とは生命力が横溢していることを示す生のしるしに他ならない。所属教会から分離するということは、創始者たち、つまりルターとカルヴァンの物語を再び演じ直すこと、要するに自分をもう一度「改革派」として定義し直すことなのである。

223-224頁

そういうわけで、18世紀から19世紀にかけて、イギリスやアメリカでは、プロテスタントの教団が濫立します。

イギリスでは、1739年にメソジストの創始者の一人であるジョン・ウェスレーが説教を始めます。

“John Wesley,” by the English artist George Romney

同じくメソジストの創始者であるジョージ・ホィットフィールド(George Whitefield)は予定説を巡ってウェスレイと袂を分ち、ウェールズにおけるカルヴァン派メソジストの源流となる。

さらに、ウェスレイ・メソジストからは「ホーリネス運動」とともにホーリネス教会が生まれる、というように、どんどん分裂します。

メソジスト運動は16-17世紀にイギリスで生まれていた多数の宗派とともにアメリカに伝わり、宗教心が高揚して「目覚め」を経験した人たちは、さらに新たな宗派・運動を生んでいくのです。

こうした動きは、イギリスオランダスコットランドウェールズでは顕著で、ドイツでは「ほとんど目につかない」。スウェーデンデンマークノルウェーでは「測定可能」ということです。(権威主義の度合いと連動しているように見えますが、どうでしょう。)

(3)プロテスタンティズムの崩壊

しかし、一時的に活況を呈したプロテスタンティズムの信仰は、1880年から1930年の間に崩壊していきます。

この度の「崩壊期」をもたらしたのは、ダーウィン『種の起源』の公刊(1859年)でした。 

 

Charles Darwin (1809-1882)(public domain)

聖職者の権威を否定し、自ら聖書を読むことを大切にしたプロテスタントの人々は、旧約聖書の冒頭に書かれている天地創造の神話を、暗唱できるほど、繰り返し読んでいたはずです。

‥‥聖書を宗教的実践および反省の核心に据えるプロテスタンティズムにとって、自然淘汰説はとりわけ厳しい打撃となった。創世記を論破するというのは、聖書全体に疑惑の種を撒くことだった。プロテスタンティズムをその核心で掘り崩すことだったのである。

227頁

信仰を保持していたカトリック地域にはさしたる影響を与えなかったダーウィンの革命は、聖書を読むことに立脚していたプロテスタンティズムに、即時的かつ壊滅的な影響を与えたのです(どの地域でも、危機は1880年から1910年の間に開始しています)。

近代化にともなう「不安」を糧に再活性化したプロテスタンティズムは、
ダーウィンに天地創造神話を否定され、あえなく崩壊

(4)信仰崩壊の余波

多少の時間差はあったものの、プロテスタンティズムはすべての地域で一様に崩壊します。

しかし、信仰崩壊が社会に与えた影響(心理的ダメージ)は、地域によって大きく異なりました。それは、同じプロテスタントでも、それぞれの地域によって「神」のイメージが全く違ったためです。

ドイツ
(正統派)
イギリス
(アルミニウス説)
予定説
・神への絶対服従
・権威と不平等
予定説を緩和
・自由な行為による救済可能性の導入
・自由と非平等
強大な権威を持ち
理不尽を押し付けてくる神
多少気まぐれだが
自由を尊重する神

〔ピューリタンの「神」〕

プロテスタンティズムを受容した絶対核家族地域が生み出したアルミニウス説。その信仰を持つ人々にとって、神とはどのような存在だったのでしょうか。

正統プロテスタンティズム(ルター派・カルヴァン派)において、神の権威は強大です。神は人間には理解できない理由で一部の人間を予め選択して救済を与え、それ以外の人間には劫罰を下す。人間は、ただひたすらそれに従うだけの、非常に無力な存在として位置づけられます。

アルミニウス説でも、神の「恵み」(恩寵)が、選ばれた者にだけ与えられる、不平等なものである点に違いはありません(この点で「自由平等」のカトリックとは異なります)。

しかし、その「恵み」の作用、つまり、神の人間に対する働きかけの仕方は、大きく異なります。

アルミニウス派の「建白書」によると、「恵みは主導権をとって,力を与えて,人を悔い改めと信仰とに導くが,不可抗力的に人に圧力をかけることはない.すなわち,恵みは先行するが強要しない」。

ここでは、「神」は、強大な権威をもって、理不尽を押し付けてくる神ではありません。「恵み」の対象を選択するという点において、多少気まぐれかもしれないが、しかし「不可抗力的に人に圧力をかけることはない」。人々の自由意志を尊重する神なのです。

この傾向は、ピューリタンにおいて一層強まります。

アルミニウス説的傾向のイギリスの各宗派―クエーカー、独立派(ないし会衆派)の大部分、ジェネラル・バプティスト―は、人間の不平等を前提とする神の選択という概念を捨て去るわけではないが、選択とは、永遠者の下す命令の結果というよりは、何らかの自己宣言の結果であると考える。そうした自己宣言の典型的な現れがクエーカーの「内なる光」である。神はもはや外在する権威ではなく、小さな断片となって、選ばれた人間の例の中に臨在するのである。

148頁

多少気まぐれだが、人間の自由意志を尊重する神、それは、絶対核家族における親そのものといえます。彼らは子供の自由を尊重する。しかし、財産の分与に関しては、遺言を使って、自分が選んだ子供に選んだ分だけを相続させる。

絶対核家族は、自由主義的で平等に無関心というそのシステムに合わせるかのように、神の選択を受け容れる一方で、神の権威を弱めます。人間の内にあって、人間の自由にそっと力を添える「光」。こう言ってよければ、とても個人主義的な力に変えるのです。

このような神の概念を持つ集団にとって、神の消滅はほんの一歩前進するだけのことにすぎない。いささかも心を乱すようなことではないのである。

229頁

〔ルター派の神の消滅〕

これに対し、神の強い権威の下にあったルター派地域では、神の消滅は、

解放感をもたらすどころか、本物の不安、取り返しのつかない喪失という気分を醸し出した。

神は死んだ」と述べて(1882年『悦ばしき知識』)狂気に陥ったニーチェは、典型的です。しかし、

これに気づいたのはニーチェひとりに留まらない。この道徳的危機がドイツにどのような劇的な結果を生み出すかは、ナチスの台頭の際に明らかになるだろう。ナチスの台頭は、ルターの神の消滅の直後に起こった現象なのである。 

229頁
Portrait of Friedrich Nietzsche, 1882 (public domain)

ちなみに、ドイツにおける信仰崩壊は、1890年から1910年頃(1895年から1905年の間に聖職志願者の数が50%減少、1900年から1908年の間に神学専攻の学生数が4536人から2228人に低落1K.S.Latourette, Christianity in a Revolutionary Age, t.2, p98(『新ヨーロッパ大全 I』226頁による引用)ドイツ労働者党の結成は、1919年です。

移行期危機は、秩序と安定に価値を見出す直系家族地域において、より強く激しいものとなる傾向があるとされます。直系家族ドイツにおける移行期危機は、ルターの神の死を経由したことで、いっそう激しさを増すことになったと考えられます。

神のイメージが弱い地域の脱宗教化は容易だが、
権威主義的な神を頂く地域では、激しい喪失感と苦悩を伴う経験となる

6 反動的カトリシズムの存続
 (1900-1965)

(1)反動的カトリシズムの持続力

平等主義核家族+大規模農業経営のカトリック圏が崩れ、プロテスタント圏全般が崩れ、最後まで残ったのは、地図上のカトリック地域地域のみとなりました。

細かく見ると、中央にドイツ南部(山岳地帯)、ラインラント西部オーストリア中部スイスイタリアヴェネトロンバルディアの一部、ベルギーオランダ南部フランスの東部を含む塊(「第1ブロック」と呼びます)、フランスのバスク地方からスペイン北部ポルトガル北部に連なる塊(「第2ブロック」、フランス西部ブルターニュアンジューヴァンデ)、アイルランド

第1ブロックはすべて直系家族地域に属しており、「直系家族+カトリック」の組み合わせが信仰の持続力を高めたことがわかります。「父親の権威+聖職者の権威」と言い換えれば、「なるほど」という感じです。

第2ブロック以下の地域は、ぴったり直系家族地図に重なるとはいきません(下に並べてみました)。直系家族以外の部分には、絶対核家族も平等主義核家族も含まれています。

直系家族以外の地域の信仰の持続性を説明する要素として、トッドが指摘するのは、農村地帯であって、かつ、大規模農業経営ではないこと。つまり、経済的独立性です。この地域の場合には、「経済的独立性+カトリック」(父親の権威の具体性+聖職者の権威)が、信仰の強度を高めたということになります。

これらすべての地域で、第二次世界大戦の直後まで強固な宗教実践が残っていた。とはいえ内部的にはかなりの差異がある。最大限の忠実さはアイルランドに見られ、日曜のミサへの出席は90%に達する。最小の実践はドイツで見られ、日曜のミサへの出席率は1951年に50%ちょうどだった。とはいえこれらのすべての地域で、信仰は他の場所よりも長く、科学革命と産業革命との相乗的攻撃をしのいで生き延びたのである。

238頁

1500年、ヨーロッパに存在していたキリスト教は、(対抗宗教改革以前の素朴な)カトリック一つだけでした。そして、1950年、気がついてみれば、ヨーロッパに残るのはカトリックのみという状況に(再び?)なっていた。

ただし、この時点で残っていたカトリックの中身は、往時のカトリックとは大きく異なります。

直系家族が多数を占めるこれらの地域は、宗教改革の時期にプロテスタンティズムを受け容れる地上的条件(識字率)が整わなかったことにより、カトリックにとどまることになった地域です。

彼らの本来の価値観は、平等主義核家族が再定義した「自由と平等」のカトリックよりも、予定説の権威主義の方に親和性がある。

カトリックの世界から対抗宗教改革陣営(平等主義核家族)が消え、直系家族が多数派となったことで、当然のように、カトリックの教義は「変形」していくのです。

19世紀を通して、カトリシズムは権威主義の方向へと漂い続けた。形而上学的体系があからさまに修正されたわけではない。しかし討論の主題の全体が、次第に秩序と服従の原則を称揚する方向に向かって行った。1871年はこの変遷の終着点を示す。この年、教皇不謬説が宣言される。それは教皇をこの地上における神の似姿にしようとすることに他ならない。

240頁

最後に残ったのは、対抗宗教改革のカトリシズム(自由と平等)とは全く異なる、権威主義的なカトリシズムだった

(2)脱宗教化の完成(1965-1985)

最後まで残った「反動的カトリシズム」も1965年−1985年の間には失われ、ついに西ヨーロッパの脱宗教化が完成します。

科学革命も産業革命も乗り越えて持続していたその信仰を、いったい何が崩壊させたのか。その答えを、トッドは中等教育の発達に求めています。

1900年から1965年までは、司祭は文化的水準からして大抵は信者より上であった。一般的には初等教育の段階を越えていなかった世界の中で、司祭は中等教育を代表していたのである。カトリックの教えが守られている地域では、司祭には特別の役割があるとするローマ教会の理論は、客観的な文化的上下関係によってしっかりと補強されていた。

識字化した司祭と文盲の信者という客観的な差異によって守られていた中世のカトリックは、聖職者以外の人々が識字能力を獲得した地域で、宗教改革の波に洗われることになりました。

文化水準の低い地域に残った最後のカトリシズムは、1965年頃、農村と都市の大衆が中等教育レベルに達し、司祭の権威を支える現実的基盤が失われたとき、ついにその役目を終えるのです。

文化的発展が遅れた地域に残った最後のカトリシズムは、中等教育の普及によって姿を消す

おわりに

最後にもう一度、6類型の一覧表を掲載しておきます。宗教の構成要素を地上成分と天上成分に分け、家族システムと文化・教育水準に照らし合わせることですべてが理解できてしまうこの喜びを、ご堪能いただけたら嬉しいです。

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トッド入門講座

ヨーロッパのキリスト教
(3)イングランドのプロテスタンティズム

はじめに

「イギリスのプロテスタントってよく分からない」とお思いの方は多いと思います(私がそうでした)。

1534 イングランド国教会の分離(ヘンリー8世)
1547-
プロテスタントの教義を導入(エドワード6世)
1553-
カトリック復活を企てプロテスタントを弾圧(メアリ1世)
1559
カルヴァン主義に基づく国教会体制の確立(エリザベス1世)
    *ピューリタンはカルヴァン主義の徹底を求める
1640 ピューリタン革命
1689  国教徒以外のプロテスタントに信教の自由(寛容法)

こうして教科書的事項を並べてみても「それで、結局、何なの?」という感じが拭えません。

イングランドはいち早くローマから離脱して、カルヴァン主義を採用したというのに、何で満足しないプロテスタントが残って、その後100年以上も争いが続くのか。

宗教上のプロテスト勢力であったピューリタンが、なぜ市民革命で大きな役割を果たすのか。

そして、絶対核家族のイングランドは本当にカルヴァン主義(神の権威への絶対的服従!)で満足できたのか。

疑問を解く鍵は、地上・天上の区別、そして家族システムにあります。

前回見たように、イングランドは「地上の自由」に惹かれてプロテスタンティズムを受容しますが、彼らの家族システムの価値観と正統プロテスタンティズムの天上成分は「部分一致」にとどまります(下表参照)。 

正統プロテスタントイングランド
地上成分聖職者の権威を否定(自由)高い識字率
天上成分予定説
(権威と不平等)
絶対核家族
自由と非平等)

そのため、イングランドでは、カルヴァン派を受け入れた後も、「予定説を緩和して自由を獲得する」という課題が残ります。これは「天上」の話です。

もう一つ、話をややこしくしているのが、イングランド国教会の存在です。

後述しますが、イングランド国教会の分離は、ヘンリー8世が世俗的動機からローマの権威から逃れたかっただけで、プロテスタンティズムとは関係がありません(この点、プロテスタンティズムの受容に伴って設立されたスウェーデン国教会とは異なります)。当初の実態は「イギリス版カトリック教会」であったのです。

しかし、その国教会が、やがてプロテスタンティズムの教義を受け入れる。

そのため、イングランドのプロテスタントは、「ローマの権威からは自由だが、国教会の権威には従属的である」という中途半端な状態に置かれてしまいます。「地上」にも、課題が残っていたわけです。

そういうわけで、イングランドでは、当初の改革の後も何かと騒動が続くことになりました。

英国プロテスタンティズム:改革後の課題
 ①聖職者の権威の残存(地上)
 ②絶対核家族の価値観との不一致(天上)
  →①②が解消されるまで争いは終わらない

そうした騒動のことは、世界史の教科書にも書かれてはいます。しかし、例えば「ピューリタンはカルヴァン派の徹底を求めた」と書かれていたとして、それが、天上成分(予定説)の徹底を求めたものなのか、地上成分(聖職者の権威の否定)の徹底を求めたものなのかによって、その歴史的意味はまったく異なります。

教科書や、歴史の概説書では、そこら辺が曖昧なままなので、結局「なんかよく分からない」で終わってしまうのです。

しかし、地上成分と天上成分を区別しさえすればイングランドの宗教改革はとてもよく分かる。その上、イングランドの宗教改革がきちんと分かると「近代化」の理解が確実に一段深まるのです。

というわけで、以下では、トッドの叙述を基礎に、一般的な知識を適宜付け加えながら、説明を試みてまいります。

カルヴァン主義の確立

(1)イギリス国教会の分離

まず、イングランドでは、1534年にヘンリー8世が離婚問題で教皇と対立しイングランド国教会を作ります。

 

ヘンリー8世

しかし、ヘンリー8世は、ルターを論駁する論文を書いてローマ教皇に褒められたほどのカトリック信仰の持ち主であり、この動きはプロテスタンティズムとは全く関係がありません。

この時点では、イングランドの「国教」は、完全にカトリックの枠内であり、単に、「地上における権威と不平等」の権威の頂点をローマ教会からイングランド国教会に置き換えたにすぎない、といってよいと思います。

ヘンリー8世によるイギリス国教会の分離は
プロテスタンティズムとは無関係

(2)プロテスタント天上成分の浸透ーカルヴァン主義の採用

それはそれとして、識字率が比較的高く、ローマからは遠いという条件の下で、プロテスタンティズムはイングランドの市民(主に貴族)の間に浸透していきます。

それを受けて、国教会の教義も、プロテスタント方向に傾斜していくのですが、その影響は主に「天上成分」に関するものでした。

「地上」の影響も全くないわけではなく、例えば聖書主義は採用されています(聖書主義、英訳聖書の作成は、ローマ教会からの自立の根拠としても有効だったと思われます)。しかし、教会組織や、聖職者の権威を前提とした儀式などは、多くがそのまま(=カトリック的なまま)残されたようです。

 

Frontispiece to the King James’ Bible, 1611

そういうわけで、国教会には、プロテスタントの天上成分(予定説)が浸透します。その教義は、カトリックへの回帰を目指してプロテスタントを弾圧した「ブラディ・メアリ」(メアリ1世)の治世が終わった後、エリザベス1世の時代に確立された体制の中で、(時代的に)カルヴァン主義の採用という形で、国教会の正統教義となりました。

「カルヴァン主義の採用」という形で、
 予定説が国教会の正統教義となる(天上成分)

カルヴァン主義の崩壊とアルミニウス主義の勝利

(1)アルミニウス主義の勝利‥とは?

ところが、イギリスのカルヴァン主義は、この後すぐ、あっという間に崩壊するのです。

「17世紀イギリスの知的歴史の最も魅惑的な問題の一つは、カルヴァン主義の崩壊である。それはまるで、社会にプロテスタント倫理の支配が行き渡った以上、歴史的使命を果たし終えたとでも言うかのようだった。1640年以前には、カルヴァン主義は賛課派および聖礼派のアルミニウス派による右からの攻撃に曝されていた。ところが革命の間は、ジョン・グッドウィン、ミルトン、クエーカー教徒といった左翼合理主義アルミニウス派に攻撃されたのである。」

『新ヨーロッパ大全 I』147-148によるChristpher Hill, The World Turned Upside Down, p342の引用

カルヴァン主義は、いろいろなアルミニウス派から「攻撃」されて、結局、アルミニウス派の側が勝利を収めるのですが、いったい、何が何を攻撃して何が実現されたのか。

ここら辺のことは、世界史の教科書を読んでもよくわかりません。というより、かえって混乱が深まります。

「1640年」とは、いわゆるピューリタン革命(イギリス革命)が勃発した年です。クロムウェルは「ピューリタンを中心によく統率された鉄騎隊を編制し、議会派を勝利に導いた」とありますが、そういえば、なぜピューリタン?

宗教改革と何か関係はあるのでしょうか?

チャールズ1世の処刑

(2)国教会におけるアルミニウス説の勝利(課題②の解決)

ここでも、地上成分と天上成分の区別を意識して、話を整理していきます。

上の引用文における「賛課派および聖礼派のアルミニウス派」というのは、国教会の内部(国教会所属の聖職者など)において、アルミニウス説を支持した人たちのことだと思われます。

彼らは当然、「地上」においては国教会の権威を受け入れている。しかし、絶対核家族の彼らは、カルヴァン派の天上成分(予定説)が気に入らないので、アルミニウス説を支持したのです。

トッドによると「1640年の革命の前夜、英国国教会の主教の大部分はアルミニウス派」でした。彼らは、アルミニウス説に従って、国教会の教義を整えていく。これで、「②絶対核家族のイデオロギーとの不一致(天上)」という課題は解決です。

国教会の教義としてアルミニウス説(予定説の緩和)が浸透し、
天上の課題が解決

(3)ピューリタンと市民革命

では、上の引用の中で「左翼合理主義アルミニウス派」と言われているものは何なのか。

これはいわゆる「ピューリタン」のことを指していると思われます。

*なお「ピューリタン」は高校世界史では「改革を求めるカルヴァン派」という整理になっているようですが、「16―17世紀の英国における改革派プロテスタントの総称」というマイペディアの説明が真実に近いと思われます。具体的には、独立派、長老派(プレスビテリアン)、ジェネラル・バプティスト、クエーカーなどを指します。以下、このサイトでも、こうした様々な改革派全体を指す語として「ピューリタン」を用います。

上の引用文では、この人たちも「カルヴァン派を攻撃した」側に入っていおり、世界史の教科書でも、「ピューリタン」は(宗教改革の過程で)「カルヴァン主義をより徹底することを求めた」人々であると紹介されています。

ということは、この人たちは、アルミニウス説を採用した国教会に対して、予定説を徹底するように求めた人たちなのでしょうか?

もちろん、そうではありません。

彼らが「徹底することを求めた」のは、プロテスタントの地上成分の方なのです。

イングランドでは、先に国教会制度が確立し、その国教会が後でプロテスタンティズムの教義を受け入れたため、「プロテスタンティズム」といいながら、カトリックに近い「地上の権威」が存続しました。

ローマからは離脱したものの、一般の信徒は、国教会の権威の下に置かれたままであったのです。

そのため、ピューリタンたちは、宗教改革の過程では、プロテスタンティズムの地上成分、「信仰の民主化」を求めて戦います(これが「カルヴァン主義の徹底」です)。

そして、次には、ピューリタン革命(イギリス革命)で戦うことになるのですが、宗教の変革を求めた彼らがなぜ市民革命で活躍するのか?

イングランドのプロテスタントにとって、「信仰の民主化」を求める戦いの敵はローマ教会ではなく、イングランド国教会です。

国教会の首長はイングランド国王であり、宗教的権威は王権の権威の源でもありました。当人たちの関心があくまで信仰にあったとしても、客観的に見れば、その戦いは政治的プロテストと紙一重です。

宗教改革の過程で、ピューリタンたちは、「信仰の民主化」を求めて戦い、十分な成果を得られずに終わる。

その彼らは、数十年後、識字率50%に近づいたイングランドで、今度は市民的自由を求めて立ち上がるのです。

宗教改革には「プレ民主化運動」の側面があると述べました(こちら)。

貴族を中心とする「信仰の民主化運動」が終わると、その次に、一般の市民を中心とする政治の民主化運動が始まる。

イングランドの歴史を見ると、宗教改革と市民革命は近代化の一連の過程なのだということがよく分かります。

ピューリタンは、まずは「信仰の民主化」(地上の自由)を求めて国教会と戦い、数十年後、今度は市民的自由を求めて国王と戦う

(4)ピューリタン的アルミニウス主義の定着

では、ピューリタンの求めた「地上の自由」はどうなっていくのか。

ピューリタンの敵は「国教会=王権」なので、その後の彼らの勢力は、王権のそれと反比例して進んでいきます。

ピューリタン革命の間に伸張した「地上の自由」は、王政復古によって弱まり、彼らは再び非国教徒として迫害を受ける立場に逆戻りする。

安定した地位を得るのは、名誉革命(1689年)後のことです。名誉革命と(少なくともほぼ)同時に制定された「寛容法」により、非国教徒のプロテスタントの信仰の自由が認められる。

ここにおいて、ようやく、課題①(地上の権威からの自由)が解決され、ピューリタンたちは大いにその信仰を活性化させていくことになるのです。

その「活性化」の内容は次回まわしとさせていただいて、ここでは、イングランドのプロテスタンティズムとアメリカの信仰との関係を、ちらと見ておきたいと思います。

ピューリタンたちは、王政復古で迫害を受けていた期間に、新天地を求めてアメリカに向かいます。最初のものは「ピルグリム・ファーザーズ」として有名ですが、その後も同様の動きは続きます。

さらに、イギリスで宗教的寛容が実現し、プロテスタントの信仰が活性化した後も、その渦中にある人たちはよくアメリカに渡り、説教を繰り広げたりするのです。

イギリスにおける信仰の再活性化(1740-1880)は、アメリカの国家建設の時期と重なっており、アメリカの信仰はイギリスのプロテスタントの動きに大きな影響を受けて形成されていきます。

したがって、アメリカのプロテスタンティズムについては、おおよそ、「急進的自由主義」であるイギリスのピューリタン(非国教徒のアルミニウス主義)と同様と考えていただいてよいと思います。

(次回見ますが)この超自由主義のプロテスタンティズムは活性化すると分裂を繰り返す。みんなが自分流のやり方で信仰運動を展開していくのです。

名誉革命に伴う宗教的寛容の実現で
ようやく地上の課題(聖職者の権威からの自由)が解決

 

スコットランド、ウェールズ、フランス —少数派直系家族地域のプロテスタンティズム

さて、ここまで、イングランドにおけるアルミニウス主義の定着を、「絶対核家族の価値観に合わせた変形」と決めつけて書いてきましたが、「本当にそうなの?」とお思いの方もおられるかもしれません。

アルミニウス主義は、地上の自由に加えて天上でも自由を実現しようとするものですから、従来の(トッド以前の(!))歴史理解からは「近代化に伴う普遍的な現象ではある」という仮説を立てることもできそうです。

これが絶対核家族地域にのみ起こった現象なのかを確めるめるため、周辺地域におけるプロテスタンティズムの展開を見ておきましょう。

まず、スコットランド。スコットランドは直系家族と絶対核家族がほぼ半々ですが、絶対核家族が多数派であるイングランドとの関係で、「相対的に直系家族的」という感じを持つ地域です。

スコットランドはイングランドと同時期にプロテスタンティズムを受容しますが、その後、アルミニウス説の影響が及ぶことはありません。

むしろ、直系家族地域を中心にカルヴァン主義の強化の動きを見せたりしつつ、全体としては、正統派のカルヴァン主義(予定説)を守り続ける。この安定性の原因を、トッドは「直系家族の比重が相対的に高い」点に求めています。

同じく直系家族が支配的なウェールズも同様です。ウェールズへのプロテスタンティズムの浸透は遅く(トッドは「言語的に孤立しているため」という)、イングランドでアルミニウス説が有力になった後であったので、何かにつけて「アルミニウス派か、予定説か」の選択を迫られます(17世紀にはバプティスト派の分裂、18世紀にはメソジスト派の分裂)。

ウェールズはその度に予定説を守り抜くのです。

ちなみに、この点は、フランスのカルヴァン派(ユグノー)も全く同じです。フランス南西部に根を下ろしたフランスのプロテスタンティズムは、イングランドがアルミニウス説に変わったその後も、「予定説にしがみつく強硬なカルヴァン主義者のままである」。

フランス南部、オクシタニア(Occitania オック語地方)と呼ばれるこの地域は(この地図の青で囲んだ部分です)直系家族地域、トッドによれば「ヨーロッパ有数の純粋かつ強硬な直系型家族構造」の地域です。

アルミニウス主義への変形は絶対核家族地域のみ。
直系家族地域は予定説を守り続ける

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ヨーロッパのキリスト教
(2)プロテスタンティズムの普及と変形

 

はじめにー教育、家族システム、宗教システム

プロテスタンティズムに対する各地の反応は、基本的に、①文化レベル(識字率)、②家族システム によって決まります。

地上・天上成分の内容と適合条件

プロテスタンティズムは、「聖職者に対する異議申立」であり、「信仰の民主化運動」であり、要するに「自分で聖書読むから神父なんかいらない!」というものですから、一定の識字率は不可欠です。

しかし、識字率が高ければ、どこでもプロテスタンティズムを受容するというわけではありません。

プロテスタンティズムの天上成分である予定説(神の権威への服従、人間の不平等)には、直系家族の価値観がそのまま反映されています。

そのため、家族システムに異なる価値観が刻まれている地域は、聖職者には文句があったとしても、天上成分が障害となり、プロテスタンティズムを受け容れることができないのです。 

ルターの予定説権威不平等適合性
①直系家族権威不平等
②絶対核家族自由非平等
③共同体家族権威平等
④平等主義核家族自由平等×
正統プロテスタンティズムの天上成分との適合性(赤字は不適合部分)

そういうわけで、プロテスタンティズムは、直系家族地域には順調に普及しますが、平等主義核家族地域にははっきり拒絶されます(共同体家族の地域もカトリック側に付いたようです)。

部分一致の絶対核家族地域は、地上での「自由」に心を奪われてプロテスタンティズムを受容しますが、やがて天上の「権威」に耐えられなくなり、教義を修正していく。

トッドの歴史理論は、社会の表層で起きているあらゆる事象は、教育および家族システムが作る集合的心性に規定されていると考えます(下の図のような感じです)。 

トッドがヨーロッパの宗教改革の分析において示して見せたのは、宗教現象も例外ではない、ということに他なりません。

以下では、まず、西ヨーロッパにおけるプロテスタンティズムの受容と拒絶の過程をざっと確認した後、イングランドにおける「変形」の過程を見ていきたいと思います。

プロテスタンティズムの受容と拒絶

(1)第1局面 直系家族への浸透(ドイツ、スイス)

ドイツ(ヴィッテンベルク)から発したプロテスタンティズムは、まず、ドイツおよび隣国スイスに浸透します。この両地域は、識字率、ヴィッテンベルクとの近さ、家族システム(ドイツは全体が直系家族スイス約88%直系家族)が揃い、プロテスタンティズムの浸透を妨げる要素は一つもありません。

スイスではツヴィングリが活躍しました(写真)

 Hans Asper – Winterthur KunstmuseumPortrait of Ulrich Zwingli (1484-1531)

1517   ルターの95ヵ条
1520  ルター 教皇の破門状を焼く
1523-31 ドイツ:北部諸侯と帝国都市の3分の2が改革派に
1523-29 スイス:チューリヒ、ベルン、バーゼルが改革派に
1524-25 ドイツ農民戦争

プロテスタンティズムは、識字率の高い直系家族地域に順調に浸透

(2)第2局面 続・直系家族への浸透(北欧)

プロテスタンティズムの波は、次に、北欧に向かいます。中核はスウェーデンとデンマークです。

スウェーデン79%直系家族なので、プロテスタンティズムの受容能力において理想的です。デンマークの直系家族は13%に過ぎませんが、残りの人口は絶対核家族(自由と非平等)であり、天上の「不平等」は受け入れ可能です。

この時点では、北欧の識字率は決して高くありませんでしたが、「ハンザ同盟によってドイツにぴったりと密着した地域である」(138頁)こと、そして家族システムの価値観が合致している(または「矛盾しない」)ことによってプロテスタンティズムが浸透する。すると今度は、プロテスタンティズムが、スウェーデンを識字先進国に変えていくのです(こちらの表では「適応反応」と表現しました)。

*なお、プロテスタンティズムはノルウェー(直系家族率50%)、フィンランド(25%)にも浸透していますが、トッドはこれを「デンマークとスウェーデンに遠隔誘導されたもの」としつつ、当時の両国の人口の少なさから「自律性を持った宗教現象とみなすことはできない」としています。

1527-1544 スウェーデン 内戦を経てプロテスタント国家に
1530-1539 デンマーク 内戦を経てプロテスタント国家に

プロテスタンティズムは、ドイツに近い直系家族地域に浸透し、識字率を上昇させる

3)第3局面 カルヴァン主義の展開

第3局面で、プロテスタンティズムは西へ進みます。

ジュネーヴを席巻したカルヴァン主義は、フランドル、アルトワ(フランス北部)、アルザスでかなり有力になります。しかし、パリ盆地にはどうしても浸透できない。パリ盆地は平等主義核家族地域です(下の地図のグレーの部分です)。

*なお、カルヴァン派も予定説であることに違いはないので、ここではルター派・カルヴァン派を「正統プロテスタンティズム」として一緒くたに扱います。

そこでパリ盆地を迂回し、スイスからフランス南部のオック語地域(オクシタニア)に根を下ろす。この地域は80%直系家族です(下の地図の青で囲んだ部分がそのフランス国内の部分)。

『不均衡という病』67頁

他方で、地中海沿岸のラングドックプロヴァンス(右下のグレーの部分)には定着しない。これらの地域は共同体家族平等主義核家族(いずれも「平等」)です。この地域は、パリ盆地を含む北部フランスと並んで、カトリック同盟の要塞地帯になっていきます。

ネーデルラント(直系家族率45%)、スコットランド(50%)、イングランド(ウェールズと合わせて25%)は、プロテスタンティズムを受け入れます。しかし、ネーデルラントイングランドでは多数を占める絶対核家族が、やがて、教義の変形をもたらすことになるのです。

*どうも、地上成分における条件の不一致は適応反応(自らを変える)を呼び、天上成分における不一致は教義の修正(教義の方を変える)をもたらすようです。家族システムの価値観の強固さを示す例証の一つといえそうです。

1534 イギリス国教会の成立
1536 カルヴァン、バーゼルで「キリスト教綱要」を出版 
ジュネーヴの宗教改革に協力 市当局に追放される
1541 ジュネーヴに戻り宗教改革を指導
1559  フランス南部で初の改革宗教会議
1559-1560 スコットランド 内戦を経てカルヴァン派教会樹立
1559-1572 イングランド カルヴァン派に転換
1566 ネーデルラント プロテスタントによる対スペイン民衆蜂起

平等主義核家族地域はプロテスタンティズムを拒絶する

絶対核家族地域はプロテスタンティズムを受け容れるが、やがて天上成分を変形させる

プロテスタンティズムの変形
—絶対核家族の「自由」への適応

(1)アルミニウス説の登場

プロテスタンティズムの変形は、1603年から1609年までライデン大学の神学教授を務めたアルミニウスが、カルヴァン派の正統教義である予定説に疑問を投げかけたことに始まります。

 

Portrait of Jacobus Arminius;

アルミニウスの死後、彼を支持するネーデルラントの牧師たちがまとめた「建白書」(Remonstrantie)によると、その立場は次のようなものでした。

(1)堕落後の人間はすべて,全的に腐敗しており,神の恵みを離れて善を行う力はない.
(2)神は誰が信じるか,誰が信じないかをあらかじめ知っており,その予知によって人を救いに予定している.
(3)誰でも悔い改めて信じるなら,救われることができるように,キリストの贖いはすべての人を対象としている.
(4)恵みは主導権をとって,力を与えて,人を悔い改めと信仰とに導くが,不可抗力的に人に圧力をかけることはない.すなわち,恵みは先行するが強要しない.
(5)信仰者であっても,恵みの働きかけにあえて耳を閉すことによって,救われた状態から転落することもあり得る.救いはキリストにあって耐え忍ぶ者に保証される.
   

『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991[藤本満]

アルミニウスは、救済における人間の自由意志の力を完全に否定するルターやカルヴァンを退け、神の「予定」の存在は認めつつ、その決定の力を弱め、自由意志に基づく人間の行いによる救済(および転落)の可能性を認める説を唱えたわけです。

(2)アルミニウス説のイデオロギー

予定説を緩和し、自由意志の理想と本人の行いによる救済の可能性を再導入することで、アルミニウスの「天上成分」は、カトリックのそれに限りなく近づきます。

しかし、プロテスタントの牧師であるアルミニウスにとって、「地上」における自由と平等(ローマ教会、聖職者の権威の否定)は大前提です。

その結果、アルミニウス説は、地上と天上の両方で自由を求める、もっとも急進的な自由主義に到達するのです。

「ルター派あるいはカルヴァン派の古典的プロテスタンティズムは、神への服従と教会に対する自由とを望んだ。対抗宗教改革のカトリシズムは、神の前での自由と教会への服従を要求した。ピューリタン的アルミニウス主義は、神に対しての、かつ教会に対しての人間の自由を主張する。この自由主義的急進主義は、ネーデルラントもさることながら、とりわけイングランドにおいて、まず初めに諸宗派の乱立を招来するが、ほどなくして宗教的寛容へと至ることになるのである。」

『新ヨーロッパ大全 I』150頁
正統プロテスタントカトリックアルミニウス説
地上成分自由と平等
・聖職者の権威を否定
・「われわれは皆聖職者だ」
権威と不平等
・聖職者の権威を肯定
・聖職身分と俗人身分の区別を認める
自由と平等
(正統プロテスタントと同じ)
天上成分権威と不平等
・救済を決めるのは神である
・人間は救済される者と劫罰に処される者に分かれる
自由と平等
・洗礼を受けた全ての者は原罪から洗い浄められる(救済の機会平等)
・救済か劫罰かは本人の行いによる
自由(と非平等)
・予定説を緩和
・本人の行いによる救済の可能性を認める

(3)アルミニウス説の定着と勝利

キリスト教信仰における急進的自由主義であるアルミニウス説のプロテスタンティズムは、「宗教的形而上学と家族構造の連合の仮説からすればまことに論理的に」、ヨーロッパの絶対核家族地域に現れ、定着していきます。

ネーデルラントでは、アルミニウス派は、一度は公権力により追放されますが(1618-19のドルドレヒト宗教会議で断罪)1625年には布教を許されます。

ライデンで生まれたアルミニウス主義は、アムステルダムを含む西部地域に根を下ろし、「非常に少数派ではあるが‥‥ネーデルラント・プロテスタンティズムに‥‥カルヴァン派やルター派から極めてかけ離れた色彩」を付け加えていくことになる。

なお、ネーデルラント絶対核家族率は55%ですが、ライデン、アムステルダムのある西部地域はまさにその中心地域です。

一方、全土の70%絶対核家族が占めるイングランドでは、アルミニウス派は、単に存在を許されるというだけでなく、全面的に勝利を収めることになっていきます。

イングランドについては、「国教会との関係は?」など、整理しなければならないことが多いので、回を改めてお送りします。

絶対核家族地域には、地上・天上の自由を説く急進的自由主義(アルミニウス主義)のプロテスタンティズムが広がる

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(1)プロテスタンティズムの登場

はじめにー宗教と家族システム

社会の最基層に位置し、歴史に最も永く深い影響を及ぼすものは家族システムである、というトッドの理論に対しては、「宗教は?」と疑問を持たれる方がいると思います。

人間を最も深い部分で動かしてきたのは宗教ではないの?」と。

トッドは、宗教が、経済や政治的イデオロギーよりも深い部分で社会を動かす重要な因子であることを認めます(たぶん、教育と同じ層です)。しかし、宗教自身もまた、家族システムの決定力から自由ではありません。

以下は、マックス・ウェーバ的な議論を念頭に置いたトッドのコメントです。

家族的決定因の存在を知らずに、宗教の死とイデオロギーの誕生、そして宗教とイデオロギーの間に存在する構造の類似性に気付く観察者はだれでも、諸価値が宗教的次元から政治的次元へと直接移動したという印象を持つだろう。そして、宗教的要素が政治的要素の形を決める‥‥と考えてしまうだろう。しかしそこに観察された移動は実は錯覚であって、それは家族制度という根本的決定因子の恒常性のなせるわざに他ならない。

『新ヨーロッパ大全 I』250頁

ウェーバーは、「心の動きの型」のようなものに着目した点で、心性を重視する歴史人類学の先駆者の一人といえますが、その彼が、人間の行動を通じて社会を動かす力としての「世界観」の出元として注目したのは、宗教でした。

よく知られているように、ウェーバーは、資本主義(あるいはまた、合理主義の精神を基礎とする西欧近代そのもの)をもたらしたのは、プロテスタンティズムが培った心性であると考えました。

また、彼に着想を与えた一人であるイェリネクは、基本的人権の思想に、宗教的な起源を見出していたといいます。

個人の、譲渡できない、生得的で、神聖な諸権利を法的に確定しようとする理念は、政治的ではなく、宗教的な起源をもつ。これまで革命の産物であると思われていたものは、実は、宗教改革およびその闘争の果実なのである。

野口雅弘『マックス・ウェーバー』(中公新書、2020年)74頁(ゲオルグ・イェリネック『人権宣言論争ーイェリネック対プトミー』(初宿正典訳)(みすず書房、1995年)99頁からの引用)

最近でも、世界のさまざまな事象について、根本的な原因は宗教である、という議論をする人は結構います。

こうした議論は、もちろん有効ではあります。宗教は、政治経済よりも深層で人間の心性に作用していますから、宗教を参照することが、社会をより深く理解することにつながることは間違いない。

しかし、今やわれわれは、宗教よりももっと深い部分にある家族システムに関する知識を手にしているのですから、それで満足するわけにはいかないのです。

・ ・ ・

『新ヨーロッパ大全』において、トッドは、宗教改革以降(すなわち近代化の過程)のヨーロッパにおける宗教的変遷を、家族システムを梃子に説明し尽くしました。

初めて読んだ時の驚きと興奮は忘れられません1忘れられないといえば、マルティン・ルターについて調べようと初めて英語で検索してみたときの衝撃も忘れられません(余談です)。何となく持ち続け、ときどき調べてみてもよく分からずに終わる疑問の数々(例えば下記のような)が、数ページの中で見事に解消されていく。口をぽかんと開けて読み進めると、ヨーロッパのいろいろへ理解が深まるだけでなく、「宗教という現象を等身大で捉えられるようになる」というおまけまでついてくる。

・カトリックとプロテスタントってどう違うのか。神父と牧師とか教会組織とかだけでなく、教義も違うのか。
・「プロテスタント」にもいろいろあるようだが、どこがどう同じで、どこがどう違うのか。
・イギリス国教会は結局何なのか。
・アメリカのプロテスタントがやたら細分化して、個性の立った牧師が激しい説教を繰り広げて熱狂を巻き起こしたりするのは何なのか。
・そもそもなぜ「自由・平等」のフランスがカトリックなのか
・性的放縦の代表のようなフランスと、アイルランドが同じカトリックってどういうことなのか。等々‥‥

そういうわけなので、皆さんには、基本的には『新ヨーロッパ大全』をお読みになることをお勧めします。とはいえ、読むにはそれなりに骨が折れ、時間もかかる。そこで、今回は、その「宗教」に関する部分のエッセンスを、歴史やキリスト教に関する基礎知識を付け加えつつ、ご紹介させていただきます。

トッドは宗教の形を決めているのも家族システムであることを明らかにした

宗教改革直前の状況(1500年)

話は宗教改革が起こる直前の1500年から始まります。

西暦1500年、西ヨーロッパのキリスト教は一つです。「イタリアからスウェーデン、ポルトガルからザクセンまで」、ローマ・カトリック教会の権威を認め、同一の信仰と同一の典礼を持ち、宗教的エリートはみなラテン語という一つの言語を用いていました。

とはいえ、キリスト教への改宗時期や、社会の中での重みはそれぞれに違います。

当時の文化的先進地域であった南部(フランス、イタリア、スペイン等)では、キリスト教の歴史は古く、1500年の段階で、1200年以上が経過していました。

しかし、その分だけ重みがあったかというと、そうではない。この地域には、キリスト教以前の古典古代の記憶が残っています。キリスト教は、もともと存在していた文明の中に、後からつけ加わった一要素にすぎません。

その意味で、この地域のキリスト教は、「長いけど軽い」。

他方、北部地域(フィンランド、スウェーデン、デンマーク、スコットランド、アイルランド、北部ネーデルラント、北部・中部ドイツ等)では、キリスト教の歴史は浅く、もっとも遅いフィンランドの改宗は13世紀末です。

それにもかかわらず、これらの地域のキリスト教は「重い」。それは、これらの地域では、「キリスト教への改宗」は、それ自体が、「文明への到達」あるいは「歴史時代のはじまり」(!)を意味するものであったからです。

無文字社会であったこの地域に、文字を持ち込んだのは教会です。教会がもたらしたラテン・アルファベットを、それぞれの言語の表記にも使うようになって、ヨーロッパ北部は初めて歴史時代に到達した。これらの地域にとって、キリスト教の存在感は、その分だけ大きく重いのです。

西暦1500年の西ヨーロッパは、古さと軽さ、新しさと重さがバランスを取る形で、単一のキリスト教を奉じる。そのような世界でした。

しかし、まもなく、ルターの口火により、宗教改革がヨーロッパを二分することになります。

以下で素描するのは、単一の信仰で覆われていたヨーロッパ世界にプロテスタンティズムが生まれ、ある地域では浸透し、ある地域では拒絶され、ある地域では変化した結果、宗教上の多様性がヨーロッパを満たした後、時間差を伴いながら、すべての地域で信仰が崩壊していく。その過程です。

西暦1500年、宗教改革がヨーロッパを二分する直前、ヨーロッパは単一のキリスト教で結ばれていた。

宗教改革と対抗宗教改革
ー直系家族 VS 平等主義核家族

(1)宗教システムの二面性地上成分と天上成分

現世において彼岸を問うのが「宗教」です。その必然的な帰結として、すべての宗教システムは、現世的成分(地上成分)と彼岸的成分(天上成分)を合わせ持っています。

この二つは、信仰を行う人の頭の中では一つに混じり合っているのですが、この二つを切り離すことが、トッドの分析の鍵となっています。この作業によって、各地域の異なる反応の意味を、正確に分析することが可能になるのです。

①地上成分:現世における宗教実践(教会の権威、聖書の位置付け等)
②天上成分:彼岸に関する教義

(2)プロテスタンティズムの登場

では、ルターのプロテスタンティズムを例に、「二面性」を説明してまいります。

Lucas Cranach workshop – Martin Luther (Uffizi)
*先に存在していたのはカトリックですが、宗教改革以降のカトリックは、プロテスタントの登場を受けて再定義されたものなので、プロテスタントを先に説明します。 

(宗教改革の始まり—世界史の教科書から)

ご関心のある方のために、宗教改革が起こる以前のキリスト教の状況について、世界史の教科書からの情報を抜粋します(山川出版社『詳説 世界史B』改訂版、2016年)。

「カトリック教会への批判はすでに14世紀ごろからみられたが、1517年、ドイツ中部ザクセンのヴィッテンベルク大学神学教授マルティン=ルターは、魂の救いは善行にはよらず、キリストの福音を信じること(福音信仰)のみによるとの確信から、贖宥状(免罪符)の悪弊を攻撃する95カ条の論題を発表した。当時、メディチ家出身の教皇レオ10世は、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の新築資金を調達するために、教会への喜捨などの善行を積めば、その功績によって過去におかした罪の赦されると説明して、贖宥状を売り出していた*。 ( *ドイツは政治的に分裂していたため、教皇による政治的干渉や財政上の搾取をうけやすく、「ローマの牝牛」といわれた。)」

だそうです。

もう少し遡りますと、ローマ帝国末期には五本山(ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)の一つであったローマ教会は、帝国分裂、西ローマ帝国滅亡の後に、それらから分離して独自の活動を展開するようになり、ゲルマン人への布教などを通じて西ヨーロッパにおいて権威を確立していきました。

しかし、その権威は、各国の王権の伸張によって弱まり、フランス王による「教皇のバビロン捕囚」、ローマとアヴィニョンに教皇が並び立つ教会大分裂により、教皇と教会の権威は決定的に失墜します。

その後、コンスタンツ公会議(1414-1418)で大分裂を解消、教皇・教会の堕落や腐敗を批判して改革運動を起こしたウィクリフやフスを異端とする(フスは処刑)などしましたが、教義の形骸化や聖職者の腐敗を改めることはできず、権威は回復しなかった。

という辺りが、宗教改革以前に関する教科書知識です。

(プロテスタンティズムの地上成分)

ルターの「地上」における目標は、聖職者による宗教生活の独占の廃止です。

教皇、司教、司祭、修道院の者たちは聖職身分と呼ばれ、諸侯、領主、職人、農民は俗人と呼ばれる、などということになっているが、これはまさしく巧妙な企みにして見事な偽善である。しかし何ぴともこのような区別に脅かされてはならない。何となれば、実はすべてのキリスト者は聖職身分に属するのであり、キリスト者の間には、役目の違いを除いて、いかなる違いも存在しないという正当な理由があるのである。このことはパウロが次のように述べて示したところである。すなわち、われわれは単一の集団をなすものであるが、その成員はそれぞれ固有の役目を持っている、と。

『ヨーロッパ大全 I』123頁による『ドイツ民族のキリスト教貴族に告ぐ』(1520年)からの引用

ルターは、聖職者の権威を否定してキリスト者の自由を謳い、聖職身分と俗人身分の区別を否定してキリスト者の平等を訴える。信仰における「自由と平等」、いわば、信仰の民主化運動を展開するのです。

聖書のみを拠り所とする福音主義、聖書と典礼の民衆の言葉への翻訳、聖職者の結婚を認めるべきこと、修道会の廃止、教皇の権威の拒否といったプロテスタントの綱領は、概ね、聖職者の権威の否定=キリスト者の自由・平等の要請から派生したものといえます。

プロテスタンティズムの地上成分は、聖職者の権威の否定

(プロテスタンティズムの天上成分)

他方、ルターの解釈による救済の条件、すなわち彼岸における「罪の贖いと永遠の生の獲得の条件」に見られるイデオロギーはこれと大きく異なります。

「神の全能」という命題(これ自体はキリスト教徒全員が理論上は認める)から、ルターは次のように解釈を進めます。

「しかしもしわれわれが神に前知と全能を認めるならば、その当然にして不可避の帰結として、われわれがわれわれ自身によって作られたのではなく、また、われわれが生き、行動するのは、われわれ自身によってではなく、ただ神の全能の力によってである、ということになる。もし神が永遠の昔より、われわれが如何なるものになるのかを知っており、もし神がわれわれを動かし、導くのであるのなら、われわれの裡に何らかの自由が存在するとか、神が予想したのとは別のことが起こり得るとかいうことは、想像もできないのである。神の前知と全能は、われわれの自由意志と完全に対立する。」

神はわれわれが如何なる者であるかを予め知っている。ということは、神はその「前知」に基づき、ある者を救い、他の者を劫罰に処することを、予め選択していることになる。これは、言い換えれば、現世の人間は、彼自身の意思とは全く無関係に、救済される者と、劫罰に処される者の二種類に分かれている、ということでもある。

聖アウグスティヌスから受け継がれた救霊予定説は、ルターによる解釈、カルヴァンによる明確化を経て、正統プロテスタンティズムの核心部分を構成することになります。

こうして「権威と不平等」すなわち以下の二つの命題が、「天上」を司る根本命題となるのです。

1 救済を決めるのは神である。人間は自らの力で救済を得ることはできない(神の権威への隷属

2 人間は救済される者と劫罰に処される者に分かれる(人間の不平等

プロテスタンティズムの天上成分は、権威と不平等

(なぜドイツ北部でプロテスタンティズムが発生したのか)

「地上における自由と平等」「天上における権威と不平等」を内容とする正統派のプロテンスタンティズムの運動は、なぜ、ドイツで始まったのでしょうか。

ドイツ北部正統プロテスタンティズム
地上成分高い識字率信仰の民主化(聖職者への異議申立)
・聖職者の権威を否定。
・「われわれは皆聖職者だ」
天上成分直系家族
・親の権威
・兄弟の不平等
権威と不平等
・救済を決めるのは神である
・人間は救済される者と劫罰に処される者に分かれる
表1 ドイツ北部の心性と正統プロテスタンティズムの対応関係

①地上成分

宗教改革には、「プレ民主化運動」という側面が濃厚にあります。1500年当時、識字能力を獲得しつつあったのは、貴族や商人。彼らが聖職者の支配から脱し、自律性を確保するための運動、それが宗教改革であったのです(識字化と民主化の関係についてはこちらをご覧ください)。

教会を攻撃し、その財産と土地を奪い取り、その組織を破壊したのは、貴族に他ならない。一千年近くも続いた教会への服従ののちに、聖職者の後見から身を解き放つ俗人とは、だれよりもまず、そしてとりわけ貴族である。‥‥

読み書きのできない中世の貴族ないし騎士は、最後の審判と地獄を予想しては恐怖に駆られ、天国における席を聖職者から買い取るのに汲々としていた。‥‥ ブルジョワや職人や農民以前に、貴族が聖職者に搾取されていたのだ。

163頁

信仰の民主化を要求するには、前提として、住民の識字率が一定程度に達していることが必要となります。聖書を読めなければ、聖職者なしに神の教えに触れることはできませんから。

下の地図は、1480年前後に1台以上の印刷機が稼働していた州(県)を示しています。文字文化の普及の証です。ドイツの密度はフランスよりもイギリスよりも高い。ドイツ北部は「高い識字率」という「地上」の条件を満たしていました。

②天上成分

正統プロテスタンティズムの天上成分、「権威と不平等」(神の権威と人間の不平等)は、ドイツの家族システムである直系家族の価値観にピッタリ合致しています。

家族制度は、子供たちの父に対する関係と兄弟間の関係をコード化したものである。宗教的形而上学は、人間の神に対する関係と人間相互の関係についての言及である。しかし権威もしくは自由という価値、平等もしくは不平等という価値は、概念的には大きな困難を伴わずに、家族に関する次元から形而上的次元へと乗り移ることができる。父の権威主義(もしくは自由主義)は、神のそれとなり、兄弟間の不平等(もしくは平等)は人間間のそれとなる。

141頁

のちに識字率50%を超えた地域が、それぞれ自らの家族システムに合致した政治イデオロギーを選択したように、識字化したドイツの貴族たちは直系家族の価値観に見合った教義(予定説)を選んだ。このように考えることができるのです。

高い識字率が地上成分(権威への異議申立て)を可能にし、
直系家族システムが天上成分(予定説:権威と不平等)を作った

(3)対抗宗教改革カトリックの再定義

直系家族と正反対の価値観を持つ家族システムは、平等主義核家族自由平等)です。

果たして、プロテスタントの攻勢に対してカトリックを守る対抗宗教改革の牙城となったのは、パリ盆地のフランス、北部および中部イタリア、スペイン。いずれも、平等主義核家族の地域だったのです。

「北部イタリアは神学者を提供する。北部フランスは、ユグノーに対して猛り狂った都市大衆を立ち上がらせる。スペインは軍隊を派遣し、ヨーロッパで最も発達した地帯の一つであるベルギーからラインラントまでの一帯で、宗教改革の拡大を軍事力を以て阻止するのである。」

150-152頁

これらの地域は、いずれも、当時としては文化的に発達した地域でした。したがって、地上成分に関していえば、聖職者の権威を退け、信仰の自由のために立ち上がっても決しておかしくはない。

しかし、「自由と平等」の基層の上に立つ彼らは、天上におけるルターの教義を受け入れることができません。

ローマとの心理的距離の近さも相まって、彼らはとりあえず聖職者の権威とは妥協を図ります。そして、対抗宗教改革の支柱として、カトリックを再定義していくのです。

 

フランス北部、イタリア、スペイン正統カトリシズム

地上成分
高い識字率聖職者と妥協
・聖職者の権威を肯定
・聖職身分と俗人身分の区別を認める

天上成分
平等主義核家族
・親子関係の自由
・兄弟間の平等
自由と平等
・洗礼を受けた全ての者は原罪から洗い浄められる(救済の機会平等)
・救済か劫罰かは本人の行いによる
表2 対抗宗教改革の中心地と正統カトリシズムの対応関係

*カトリシズムの再定義

(地上)対抗宗教改革の中心地域の「妥協」の前提は、聖職者の資質の向上です。カトリシズムは、聖職者養成のシステムを整え、権威を担うに相応しい(清廉潔白で教養のある)聖職者を育てる努力を始めます。
 他方で、俗人に対しては、聖書はもちろん、書物全般への接触を禁じる。教育の独占を通じて聖職者の権威を強化すること、それが対抗宗教改革の最大の目標でした。

(天上)ルターの予定説は聖アウグスティヌスも述べていたものであり、ルターの独自説というわけではありません。それだけに、カトリック側には難しい対応が迫られましたが、結局、トリエント公会議(1545-63)において、「神の恩寵も人間の意志もどちらも必要」という立場を明示して、「自由と平等」の方向性を明確にすることになりました。(上の表の説明もご覧ください)  

 

プロテスタントカトリック
地上成分自由と平等
・聖職者の権威を否定。
・「われわれは皆聖職者だ」
権威と不平等
・聖職者の権威を肯定
・聖職身分と俗人身分の区別を認める
天上成分権威と不平等
・救済を決めるのは神
・人間は救済される者と劫罰に処される者に分かれる
自由と平等
・洗礼を受けた全ての者は原罪から洗い浄められる(救済の機会平等)
・救済か劫罰かは本人の行いによる
表3 プロテスタントと再定義されたカトリック

文化的に発展した地域の平等主義核家族がプロテスタントからカトリックを守る対抗宗教改革の牙城となった

宗教改革への反応(6類型)

さて、この辺まで来ると、ヨーロッパで、どういう条件の地域がどういう信仰を持つようになったかを、類型化して示すことができます(詳しい説明は次回)。

  ○プロテスタンティズムに適した成分
   地上:高い識字率、ヴィッテンベルクとの相対的近距離
   天上:直系家族(権威と不平等)

 ○カトリシズムに適した成分
   地上:低い識字率、ローマとの相対的近距離
   天上:平等主義核家族(自由と平等)

①ドイツ型(正統派プロテスタンティズム)

地上成分天上成分信仰神の権威
ドイツ識字率高
→聖職者の権威否定(自由と平等)
直系家族
→予定説(権威と不平等)
正統派プロテスタンティズム

ドイツでは、識字率を高めた貴族階級が、聖職者からの自由を勝ち取り(地上)、自らの価値観(直系家族)に見合った教義として、「権威と不平等」の予定説を選びました(天上)。

なお、表に「神のイメージ」の項目を設けたのは、それが信仰の持続力(脱宗教化の容易性)と関係するためです。

家族システムと宗教システムの相関というトッドの仮説は、(家族における)父親のイメージが(信仰における)神のイメージに投影されると考えます。

父親の権威が強いところでは神も強い権威を担い、親子関係が自由主義的であるところでは、神もまた自由主義的で、その権威は弱い。

ドイツは、早期に識字率を上げた貴族が、おそらくカトリックの教えが彼らの好みに合わなかったことも関係して、どこよりも早く宗教改革を実現しました。

しかし、彼らは自ら、強い権威を持った神を戴き、その権威の下に従属する道を選んだ。そのために、ドイツは、脱キリスト教化においては遅れを取り、最終的な脱宗教化の過程で、深い心理的不安に陥るのです。

②スウェーデン型(正統派プロテスタンティズム)

地上成分天上成分信仰神のイメージ
スウェーデン識字率低・ドイツ寄り
→聖職者の権威否定(自由と平等)
直系家族
→予定説(権威と不平等) 
正統派プロテスタンティズム

なお、早期にプロテスタンティズムを受容した地域の中には、スウェーデンのように、ドイツへの心理的近距離、直系家族という要素を備えるが、識字率は高くなかった、という地域もあります。

しかし、「新しくて重い」(勢いのある?)キリスト教信仰を持つそれらの地域は、プロテスタンティズムに適合させるために自らを変えていきます。教育を普及させ、あっという間に識字先進国に変身するのです。

③フランス型(正統派カトリシズム)

地上成分天上成分信仰神のイメージ
フランス北部識字率高・ドイツに近い
→聖職者との妥協
平等主義核家族
→自由と平等     
正統派カトリシズム

フランス(パリ盆地のある北部)の場合、識字率は高く、地理的にはむしろヴィッテンベルクに近い。つまり、地上的条件においては、プロテスタンティズム(聖職者の権威の否定(自由と平等))に適しています。

しかし、平等主義核家族である彼らは、正統プロテスタンティズムが説く天上の「権威と不平等」に耐えられない。

そのため、彼らはカトリック陣営に残って対抗宗教改革の拠点となります。地上では聖職者の資質向上を条件に聖職者の権威と折り合い、天上での自由と平等を守る、正統派カトリックの担い手となるのです。

*トッドによると「教育のない放蕩者の人間的な中世の聖職者」の時代が終わり、「おそらくキリスト教の歴史で初めて、理想に合致した村の司祭、すなわち教育があり、かつ童貞の司祭が大量生産されることになる」(130-131頁)。つまり、カトリックは、現実の方を理論に近づけることで、「聖職者による独占」を守ろうとしたわけです。

しかし、ルター派への対抗上、熱心にカトリックを支持してはみたものの、彼らが戴く神のイメージは弱い。そのため、本格的な近代化局面に入ると、彼らは信仰そのものをあっけなく捨てていくことになります。

なお、文化的に発展していたにもかかわらずカトリック陣営に残ったこの地域は、発展途上であったにもかかわらずプロテスタントを受容したスウェーデン型と逆のコースを辿ります。識字率の上昇を抑え、文化の発展を抑制することによって、信者が聖書を読むことを嫌う正統カトリシズムの教義に自らを適合させていくのです。

④南イタリア型(正統派カトリシズム)

地上成分天上成分信仰神のイメージ
南イタリア識字率低・ローマに近い
→聖職者の権威を肯定
平等主義核家族
→自由と平等    
正統派カトリシズム

なお、平等主義核家族地域のうち、識字率が低い地域(中部・南部スペイン、南イタリア)は、当然のように、カトリシズムを維持します。しかし、彼らにおいても神のイメージは弱いので、近代化の過程では、比較的簡単に信仰を手放します。

⑤イギリス(修正プロテスタンティズム〔急進的自由主義〕)

地上成分天上成分信仰神のイメージ
イギリス識字率高・ローマから遠い
→聖職者の権威否定(自由と平等)
絶対核家族
 (自由と非平等)

→予定説を修正(アルミニウス説)    
修正
プロテスタンティズム
(急進的自由主義)

識字率が高く、ローマとの心理的距離が遠い彼らは、プロテスタンティズムの伝播をまずは喜んで受け入れます。最初の時点では、「天上の自由と平等」すなわち聖職者への異議申立という要素が彼らを魅了するのです。

しかし、導入の局面が過ぎると、やがて、彼らの基層にある「自由」が、天上の「権威」に耐えられなくなる。そこで彼らは、ルター・カルヴァンの正統プロテスタンティズムの教義に修正を加え、自由意志による救済可能性(アルミニウス説)を導入します。

地上の「自由と平等」に天上の「自由」を組み合わせたこの急進的自由主義のキリスト教は、宗派の乱立を招き、宗教的寛容を実現した後、信仰を捨てていきますが、その際、とり立てて大きな心の不安を感じることはありません。

⑥アイルランド型(反動的カトリシズム)

地上成分天上成分信仰神のイメージ
アイルランド識字率低
→聖職者への権威肯定(権威と不平等)
直系家族
→非公式に教義を修正(権威と不平等)
  
反動的カトリシズム

こちらは、正統派プロテスタンティズムに適した天上的条件(直系家族システム)を持ちながら、地上的条件が満たされずにカトリックにとどまることとなったケースです。

彼らは聖職者への異議申立の機縁を持たず、ローマカトリック教会の下にとどまることになります。しかし、彼らの心の中の神は、対抗宗教改革を経て再定義された「自由と平等」の神ではなく、それ以前、いわば、ルターとカルヴァンが典拠としたところの聖アウグスティヌスの予定説における神に近い。

そのように心の中で教義を「修正」し、地上では聖職者の権威、天上では神の権威に従属する、中世のカトリシズム同様の反動的な信仰を持ち続けたのがこの地域です。

当然のことながら、この地域では、脱キリスト教化は遅れ、第二次世界大戦直後に至るまで強固な宗教実践を保ち続けることになります。

(続く)