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トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(2)都市国家から「帝国」まで

目次

都市文明のはじまり

補講 気候と人類」に、最終氷期が終わり間氷期(温暖で安定)に入った頃に農耕が始まったこと(約12000-11000年前)、巨大氷床の融解による海水面の上昇が終わったことで、長期の定住が可能になったことを書きました(約7000年前)。

定住集落の点在状況から、都市文明の誕生に至る過程にも、気候変動が関係しています。

気候は、間氷期であれば一定というわけではないそうです(当たり前でしょうか)。海水面上昇が終わった頃、地球は「気候最適期」と呼ばれる温暖な期間にあったのですが、約5500年前(メソ紀前200(前3500)年頃)にこれが終わり、寒冷な時期がやってきます。

寒冷化が何をもたらしたかというと、気候の乾燥化です。乾燥のため、周期的な干ばつに見まわれるようになったメソポタミアやエジプトでは、それまで山麓で天水農耕をしていた人々が、大きな河川沿いの低地に集まって住むようになります。こうした生まれたものが、都市であり、都市文明である。とこのように考えられているようです1田家康『気候文明史』(2019年, 日経ビジネス人文庫)147-148頁(同書では松本健「メソポタミア文明の興亡と画期」『講座 文明と環境 第2巻 地球と文明の画期』(朝倉書店, 1996年)91-103頁が参照されています(私は読んでいません)

メソポタミア南部では、メソ紀元年(前3300年)の前後、ちょうど文字が生まれたのと同じ頃に、ティグリス・ユーフラテス川流域のシュメールにウル、ウルクといった都市が生まれ、メソ紀400年頃(前2900年)までには、各都市は王が治める都市国家に成長しました(初期王朝時代)。

気候の寒冷化→乾燥化により人々が河川沿いの低地に集まり、
都市文明の誕生につながった

初期シュメールの家族システム

シュメールの初期、家族システムは、やはり、原初的な核家族であったと考えられます。

文献記録に限りがある時代の家族システムを知るためには、芸術が大きな役割を果たしますが、メソポタミアの場合、男性、女性、夫婦をかたどる彫像が重要です(以下 起源1・下 733頁以下を参照)。

メソポタミアにおける家族システムの変遷を示す一つの鍵は、初期には女性を表象したものが数多く見つかっているのに(一例として、こちらの写真をご覧ください)、その後次第に減少し、古バビロニア王国(メソ紀1300年(前2000年))以降はほとんど存在しなくなるという事実です。

女性への敬意がうかがわれる美しい女性の彫像は失われ、多産性を称えるためのでっぷり太った女性像が少しと、大量の男性像、それも、「様式化された‥多量のあご髭をはやした男」(例えばこちら)の像に置き換わってゆくのです。

文献や芸術、各種先行研究の吟味を経て、トッドは次のように結論しています。

現在の南部イラクは、今日地球上で最も強力な父系システムの一つに占められている。しかし、今から5000年以上前、シュメールの初期には、まさにこの場所において、いわゆる近代ヨーロッパのそれにおそらく近い家族形態と親族システムが支配していた。

起源1・下736頁

トッドが同書に掲載している図像をネット上で見つけました。メソ紀600-700年(前2700-2500年)頃のシュメールの夫婦像です(イラク国立博物館所蔵)。 

このタイプの夫婦像は多数発掘されているようで、その全体について、トッドは次のように述べています。

古い時代についてもっとも有意的で、女性のステータスとシュメールの親族システムとに関して決定的な判断をもたらすのは、考古学的遺跡の中から見出される夫婦を表す小像である。その姿勢が夫婦の対等の関係を喚起することには、いかなる疑いも容れない。

起源1・下 734頁

そして、シュメールの都市の一つ、ニップルの神殿で発見された上の図像については、

比類ないものという訳ではないが、遺憾なく特徴を示していると思われる …… 信頼と情愛と平等性を結びつけたこのような夫婦のイメージを産み出すことができたのは、唯一、男女両性の関係について平等主義的な考え方をし、当時はまだ未分化の親族システムを持っていた社会だけであると、私は考える。このような型の男女の結びつきがその後、姿を消したことは、全く単に、メソポタミアの歴史の中での父系原則の勢力伸張の証明に他ならないのである。

同・734頁

シュメールの図像が表象する夫婦の対等性は、未分化の親族システム(原初的核家族)の存在を示唆している

つまり、初期シュメールの家族システムは原初的核家族だった

最初の進化
 — 長子相続制の誕生

家族システムの「進化」の第一段階は、すでにシュメールの初期王朝時代に起きていたと見られています。

長子相続制の誕生です。

例えば、シュメールの都市の遺産相続の規則には、長子に二人分の取り分あるいは10%の優先取り分の付与を認めるものが確認されています。また、ギルガメシュ叙事詩2シュメールの物語をまとめたもの。編纂はメソ紀2000年紀の中頃(前3000年紀末頃)に描かれる伝説的なウルクの王ギルガメッシュは、三分の二が神で、三分の一が人間という不思議な設定なのですが、これは、長子に二人分の取り分を認める長子相続制文化が象徴的に現れたものと考えられています(起源1・下725頁)。 

ギルガメッシュのレリーフ A hero taming a lion. Bas-relief from the façade of the throne room, in the Assyrian Palace of Sargon II at Khorsabad (Dur Sharrukin), 713–706 BCE. (public domain) 

では、何が長子相続制を促したのか。

確認できるのは、ここでも「満員の世界」と戦乱という二つの要素が揃っていたことです(この点の説明はこちら)。

この時期、シュメールでは定住民の人口が増加し、すでに「満員の世界」が生じていました。そして、都市国家が分立して対立抗争を繰り返す一種の戦国時代であったことも確実なのです(小林登志子『シュメル―人類最古の文明』(中公新書、2005年))。

*(1)でも述べた通り、「満員の世界」と「戦国」状況が直系家族を促進したのは、日本も全く同じです。「戦国」は説明不要と思いますが、「満員の世界」については、12世紀末には生じていたことが確認されています(「当時の技術水準で開発可能な土地は開発し尽くされていた」(近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)207頁)

シュメールは「人口が多すぎるという感情をこれほど明確に形式化する社会」は「」とトッドが言うほど、その文化の中に、人口抑制の志向を含み持っていました。

以下は、シュメールの主題を引き継いで後代に書かれた叙事詩です。

いまだ1200年も過ぎてはいないのに、
国は広がり、人口は増加した。
大地は牡牛のごとく唸り声をあげていた‥‥

叙事詩の中で、神は人口過剰に激しい怒りを表します。
そして、神々は伝染病、干ばつ、洪水を解き放ち、
ある神などは、女性の不妊、乳幼児の死亡、女性が祭司(=一生独身)となるべきことを預言するのです。

以上を総合すると、長子相続制は、定石通り、「男性優位と父系の選好」を促す戦乱を背景に、「満員の世界の中で世襲財産の細分化を妨げようとする努力」(725頁)として、メソポタミアに姿を現したことになります。

なお、シュメールの直系家族は、長子相続制を採用する一方で、世代間の同居を伴わない(=居住は核家族的)、不完全な形態であったとされています。

したがって、ここでは、シュメール期には、未分化の核家族を、一歩、直系家族の方向に進める変化が起きていたという事実を確認しておきましょう。

都市文明が成立すると間もなく満員の時代がやってきて、
小ぶりな都市国家が分立して対立抗争を繰り返す。
このとき、同時に直系家族への傾き(長子相続制)が観測される

統一国家の誕生— 共同体家族の発生と強化

メソポタミアにおける共同体家族システムは、統一国家の誕生と同時期に発生したことが確認されています。いずれも「世界初」の事件です。

共同体家族の生成は、ここでも、「定住民の直系家族+遊牧民の対称原則=共同体家族」という定式によるものと想定することができます。メソポタミア中心部でも遊牧民(とくにアムル人)が活発に活動していたからです。

資料からほぼ確実といえるのは、全メソポタミアを統一したハンムラビ王の時代(バビロン第一王朝)(在位:メソ紀 1508-1550(前1792-1750))には、すでに共同体家族が成立していたという点です。

 

ハンムラビ法典(左がハンムラビ、右は太陽神)

アムル人は、ウル第三王朝(メソ紀1188-1296(前2112-2004))の頃から資料に現れます(wiki)。傭兵、労働者、役人などとしてメソポタミア社会に浸透したということですが、ウル第三王朝崩壊後は一躍メソポタミアの主役に躍り出て、メソポタミア各地の都市に王国を築き、互いに覇権を争いました。ハンムラビ王もその一人、つまり、遊牧民アムルの王でした。

アムル人は、ステップの遊牧民クランと同様に、「穏健な父系原則と‥‥対称化の概念とに立脚した幅広い親族集団」を持っていました。彼らの部族は、「実際にはそれぞれ戦闘単位たる部隊に相当」し、「家畜の飼育に必要な土地を占拠するため、あるいは豊かで文明化された定住民の居住地の中心に侵入するために、行進隊形をとって前進するのである」(748頁)。

こうした事実から、トッドはまず次のような仮説を示します。

対称化と兄弟間の平等を必要とする共同体段階への移行は、中国におけるのと同様に、対称化された遊牧民の家系システムの征服的侵入によって可能になったのであろう。家族の平等主義と統一帝国的考え方の間には機能的連関が存在するがゆえに、バビロン第一王朝を、中国の最初の帝国家系の厳密な等価物とすることができるであろう。

起源1・下750頁

このストーリーは、何というか、感動的といえます。メソポタミアではハンムラビ王が、2000年後の中国では、その意識せざる反復者、秦の始皇帝が、それぞれに、共同体家族の誕生と同時に、統一国家の樹立を成し遂げていた、ということになるわけですから。

ただし、中国のケースとは異なり、メソポタミアで統一国家を築いたのは、ハンムラビがはじめてではありません。シュメールでは、都市国家が分立する初期王朝時代の末期に、統一を目指す動きが現れ、アッカドの王サルゴンが、シュメールおよびアッカド一帯の統一に成功しているのです(メソ紀1000年(前2300年)頃)。

詳細は省きますが、結局、トッドは、アムル人は上記資料に登場する以前からメソポタミア中心部に入り込んでいたと考えられること等から、バビロン第一王朝の500年前、サルゴン王による統一直前のアッカドで、不完全な直系家族から、「対称化された父系イデオロギー」を持つ共同体家族的システムへの変化が実現していたと推定するに至りました。

この変換は、サルゴン王によるメソポタミア統一のほとんど直前に、アッカドで実行されていたと想像することすらできるのである。

起源1・下751頁

ただし、中国に大幅に先行して成立したメソポタミアの共同体家族は、「はるかに不明瞭であり、疑わしいものでさえある」と、トッドは述べています。その父系および共同体性の強度はずっと低く、「おそらくその共同体家族は、アラブ人中心の近年の中東の持つ緩和された共同体家族3次回扱いますを先取りしているのであろう」。

ともかく、世界で初めて、メソポタミアに誕生した共同体家族の原型は、この地に定着し、強化され、新アッシリア帝国(メソ紀2400年(前900年)頃-)の時代には、女性のステータスの最大限の低下という局面に到達するのです。

アッシリアでは、女性が芸術で表象されることが全くなくなります。

残存する数多くの見事なレリーフは、たいていの場合、戦争を描いたものであるが、そこでは女性と子供は、流刑に処された者としてか、アッシリアの戦士が行った虐殺の犠牲者として姿を現すにすぎない。

起源1・下743頁
https://blog.britishmuseum.org/3d-imaging-the-assyrian-reliefs-at-the-british-museum-from-the-1850s-to-today/

そして、アッシリア法において初めて、女性のヴェール着用義務が記述されるのです。トッドは言います。

反女性主義の急進化という形で自己流の革新を行うアッシリアという仮説は、その戦士的強迫観念と見事に両立する

統一国家の誕生とともに共同体家族が成立し、父系原則の強化(女性の地位の最大限の低下)とともに帝国が現れる

共同体家族の生成要因を考える

この後、共同体家族の伝播と変形を見ていくのですが、その前に、なぜ、メソポタミアで共同体家族が生成し、定着・拡大するに至ったのかを考えておきたいと思います。

共同体家族の特長は、何よりもまず、その組織力の高さにあるといえます。

親子関係を規律する「権威」はリーダーの統率力を、そして、兄弟の「平等」とくにその初期形態である「対称性」は、組織内の役割への自動的な割り振りを通じて、効率的かつ安定的な秩序を基礎づける。共同体家族システムは、そのような仕組みで成り立っています。

歴史において発揮される共同体家族の威力は、二つの側面で発揮されます。一つは、外敵に対する戦闘力、もう一つは、内側をまとめる統率力の強さです。

共同体家族の組織力:2つの側面
①外敵に対する戦闘力
②内側をまとめる統率力

サルゴンのアッカド統一帝国、ハンムラビのメソポタミア全土統一を可能にしたのは、まずは、共同体家族が支える軍事力であったと思われます。

しかし、軍事力だけで、広い領土を治めることはできません。共同体家族システムの組織力は、多様な民族からなる人々を一つのまとめ、領域内の平和を保つ力としても、大いに機能していると考えるべきでしょう。

前項で見たように、共同体家族システムは、サルゴンによる統一の直前に形成された後、次第に強化され、女性のステータスの最大限の低下という局面を迎えます。その間、メソポタミアの覇権は、アッカド帝国、古バビロニア、新アッシリア帝国、新バビロニアアケメネス朝ペルシャと推移し、時代を進むにつれてその版図を拡大していくのです。

なぜ、共同体家族の行き着く先に、女性のステータスの低下という「進化」が見られるのか。

女性の地位の格下げは、(女性以外の)構成員全員の格上げと、(女性を排除することによる)平等性の強化につながります。それによって組織の統率力ないし凝集力が一層強まり、大帝国の設立・維持に役立った、と考えることは、理にかなっているように思えます。

・ ・ ・

なぜユーラシア大陸中央部で共同体家族システムが生成、定着、拡大、強化したのか、という問いへの答えは、おそらく、非常に単純なものだと思われます。

共同体家族は、その地域の平和と安定のため、つまり地域における人類の生存に適したシステムだったからです。

前回も述べましたが、メソポタミアの人々は、「共同体家族・権威と平等・帝国」の三位一体による地域の安定を歓迎したはずです。単純に考えて、異民族の侵入、略奪、戦乱の絶えない世界と、平和で安定した世界のどちらがよいかといえば、後者に決まっていますから。

肥沃な土壌を持つ交易の中心地、多様な人々が行き交い、侵入し、覇権を争う土地で、平和と安定を保つのは、容易な仕事ではありません。共同体家族システムは、それをどうにか可能にしてくれるシステムであったのです。

共同体家族のイデオロギーおよび国家体制である「権威」「帝国」「専制」といったものは、現代の常識ではネガティブな価値の代表と扱われています。しかし、平和と安定を維持するという理にかなった目的のために、共同体家族の強力な凝集力がどうしても必要な状況というものがあるのだということは、頭に入れておく必要があると思います。

共同体家族・権威(専制)・帝国」の三位一体は、
多様な人々が行き交い、相争う大陸の中心地における平和と安定に大いに役立った

*余談ですが、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「帝国」の項目を見てちょっと呆れてしまいました。「通常は自国の国境を越えて多数・広大な領土や民族を強大な軍事力を背景に支配する国家をいう(大英帝国,大日本帝国など) 」というところまではよいでしょう(例示には若干疑問があります)。しかし、その次、「その原型は古代ローマ帝国にあるが…‥」というのはいかがでしょうか。古代ローマの帝政開始は紀元前27年。「帝国」一般でいえば、2000年以上遡るアッカド帝国、ハンムラビのバビロニア帝国があり、より広域の「世界帝国」の意味でも、新アッシリア帝国もあれば、アケメネス朝ペルシャ帝国もある。この後確認していくことになりますが、ローマ帝国は明らかに、こうした中東地域の遺産のもとに成り立っているのです。

権威主義の伝播と反転—古代ローマの場合

古代の文明は一貫して「東高西低」です。したがって、家族システムも、東のメソポタミアから、まずは周辺に広がり、それから西へ伝播するという順番で広がります。

具体的には、メソポタミアで「進化」したシステムは、地中海を経由し、まずはギリシャ、つぎにローマに影響を与えることになりました。

古代ローマの最古期(メソ紀2550年-)に「ゲンス」と呼ばれる氏族集団があったことが知られています。

ローマの軍事的で系統的な領土拡大は、父系のクランに他ならないゲンスの存在の結果である。ゲンスは、左右対称化されており、兄弟とイトコが左右対称の位置を占めている。ローマのゲンスは、モンゴルのクランと同じように、戦争と征服にうってつけの制度であった。

起源1・下462頁

父親の権威、兄弟の「対称化」の概念、遺産相続に見られる平等原則。古代ローマは、同居に関してはある程度柔軟であったものの4この点はメソポタミアも同じ。トッドはローマの起源において牧畜が重要であったことを記し、同居ではなく近接居住を行う遊牧民的システムを持っていた可能性を示唆している(463頁)、共和制期から帝政初期までのローマの家族システムは、共同体家族に類似するものであり、そのことが、ローマ帝国の版図拡大に寄与したと考えられます。

要するにローマはおそらく、父系制と軍人気質を組み合わせた特殊な文化を持っていたがゆえに、地中海地域の征服に成功したのだろう。

起源1・下 484頁
Detail from the Column of Marcus Aurelius 
by user Barosaurus Lentus from Finnish Wikipedia.

ところが、ローマでは、この後、父系制から双方制へ(男性の系統重視→未分化へ)、共同体性から核家族性への「退化」が起こるのです。

共和制末期から後期ローマ帝国までの、少なくとも6世紀にわたる期間に、家族関係の硬直性は緩和され、女性の自立とステータスは上昇したのである。

起源1・下 478頁

何がこのような現象をもたらしたのか。トッドはローマの地理的かつ文化的な位置に注意を促します。

ローマは確かに共同体的なシステムを持っていましたが、システムの中心地、メソポタミアからは遠く離れています。ローマは、東から押し寄せてくる伝播の波をギリギリで被る位置にあり、その北と西には、未分化の核家族システム地域が鎮座していました。

ローマのもともと脆弱であった共同体家族システムは、征服した西ヨーロッパ、そしてエジプト(古代エジプトは女性のステータスの高さと核家族性を特徴とします)の影響を受けて次第に「退化」し、核家族的なシステムに回帰していくのです。

こうして、晩期ローマに生まれた平等主義核家族システム(自由+平等)は、現在も、フランスに受け継がれています。

権威主義の弱体化がローマに何をもたらしたか。その後の歴史は、共同体家族システムの機能を雄弁に語っているように、私には思われます。

ご存知のように、ローマはメソ紀3695年(395年)に東西に分裂します。間もなく西ローマはゲルマン人の侵入による混乱の中で滅亡し(メソ紀3776年(476年))、私たちのよく知るバラバラのヨーロッパが始まります。一方、東ローマの方は、領土を減らしながらも、4753年(1453年)まで生き残り、覇権をオスマン帝国に譲り渡す。

共同体家族は「退化」したと書きましたが、今度は西から迫ってきた核家族化の波は、ローマの西部において特に強く作用したはずであり、東部には元のシステムが強く残っていたと考えるのが自然です5ローマにおける父系制の残存につき、起源1・下486頁

ローマ帝国は、共同体家族システムの作用によって生まれ、拡大し、「ローマの平和」を謳歌した。そして、核家族システムの浸透により分裂し、とくに核家族性が強かったであろう西ローマは瞬く間に砕け散った。

家族システムの変遷に着目すると、こんな世界史像を描くことができるのです。

Project Gutenberg’s Young Folks’ History of Rome, by Charlotte Mary Yonge Romulus Augustus resigns the Crown before Odoacer

ローマ帝国は東から伝播した共同体家族システムの威力で地域の征服・拡大に成功した

共同体家族は征服した広大な核家族地域の影響で退化。
西ローマ帝国はまもなく崩壊し、国家分立の西ヨーロッパが始まる