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トッド入門講座

「トッド後」の近代史(2-ⅱ)
イギリス帝国のふるまいと経済

目次

インド洋でのイギリス

時代は再び1600年前後に戻ります。

イギリスが持っていたものは、毛織物、そして主にスペイン経由でヨーロッパに入ってくる新大陸の銀。

当時、アジアからの物産の購入に充てるためには、イングランド産の毛織物(従来の厚手に代わる薄手の新毛織物)はまったく輸出品として役に立たず、新大陸からヨーロッパにもたらされる銀塊を交換手段とするしか方策がなかった。

秋田・26-27頁

アジアの海に進出したイギリスが当初「欲しい」と思っていたのは香辛料で、イギリス東インド会社(1600年設立)は、まずは東南アジアの香辛料貿易への参入を狙います。しかし、オランダとの抗争に敗れて断念。

彼らが代わりに目をつけたのが、南アジアのインド亜大陸のベンガルや南インド地方で生産されていた薄手のキャラコやモスリンであった。

秋田・67頁

ここから、イギリスのアジアにおける「商業革命」が始まります。あまり気が進まない方もいると思いますけど‥‥

元気を出して!
再び、お手並みを見せてもらいましょう。

現地支配者の好意で拠点を確保し、綿織物を仕入れる

イギリス東インド会社が、初めて西北インド(グジャラート州のスーラト)に船を送ったのは1608年。

ガマの航海から約100年。ヨーロッパ人の間でも、現地の商取引事情はかなり知られるようになっていたので、彼らはいきなり大砲を放つようなことはなく、平静に現地の支配者との交渉を試みました。

これは100年前のガマにぜひ教えてあげたいことなのですが、礼儀正しく交渉にいくと、現地の人たちは、すごく良くしてくれるのです。

グジャラートはボンベイのさらに北です

東インド会社は、まず、ムガール帝国の皇帝(ジャハンギール)から、スーラトを拠点に貿易を行う許可をもらいました。条件は、会社にとってかなり有利なものであったようです。

ジャハンギール(在位1605-1627)

1611年には、やはり現地の支配者の許可を得て、マスリパトナム(マドラスの少し北)に商館を設置。

1639年、今度は地元の領主から招かれて、マドラスを新たな拠点と定めました。

この地方領主は、招聘にあたってイギリス東インド会社に一定の土地を貸し与え、そこに要塞を築くことを認めた。

また、イギリス東インド会社のマドラスでの貿易については関税を免除し、イギリス東インド会社以外の商人が貿易を行う際にかかる関税収入の半額を会社に与えることとした。

これは、イギリス東インド会社にとっては願ってもない破格の条件である。

ポルトガル人がゴアを、またオランダ人がバタヴィアを、力ずくで奪ったのとは異なり、彼らは地元の領主に請われて、平和裡に亜大陸に橋頭堡を築くことができたのである。

羽田・101頁(改行しました)

イギリス東インド会社に「破格」の好条件での貿易を認めたこの地方領主が、「共存共栄の自由貿易圏」の住人であることは、間違いないでしょう。

イギリス人であっても、キリスト教徒であっても関係ない。ただ「この人たちとはよい取引ができそうだ」「これで地域は潤うだろう」と、そう思ったから、特権の下での貿易を認めたのです。

ともかく、こうしてインドに貿易拠点を確保した東インド会社が、商品として手に入れたのは、インド産の綿織物でした。

1613年に東インド会社が綿織物を初めてイギリス本国に輸入して以後、インドの綿織物はイギリスのあらゆる階層の間で大人気となり、17世紀後半から18世紀初頭には全輸入額の70%を占める超主力商品に成長していきます。

インド財政(税金、賄賂、その他)

(1)フランスとの戦争:植民地化開始

イギリス東インド会社は、1709年の組織再編で、ボンベイ、マドラス、ベンガルの3地点に管区を形成する体制を確立しました(上の地図を参照)。

ちょうどその頃、一足遅れのフランスが、フランス東インド会社を作ってインドに進出(拠点はボンディシェリ(上の地図を参照))。どこでも争っているイギリスとフランスはここでも抗争状態に入り、両者は他人の土地であるインドで、派手に戦争を繰り広げるのです。

https://the-new-era.fandom.com/wiki/Carnatic_Wars

この三次にわたったカーナティック戦争は、‥‥基本的にはイギリスとフランスとの争いであったが、在地勢力をも巻き込んでインドの地で行われ、その過程で、インドの諸勢力に対するヨーロッパの軍事力の優秀さが立証されることになったのであった。これは、続いて起こる軍事力によるインド植民地化の第一歩としての意味を持っていた

辛島・136-137頁

(2)インドの現地勢力との戦争:なぜか領主となる東インド会社

これに勝利したイギリス東インド会社は、インドでの商売をさらに活発化させ、現地の(インド人の)支配層と衝突。再び戦争が始まります。

有名なプラッシーの戦い(1757年)はその一つで、イギリス東インド会社がベンガルの政治権力と戦って勝利。

その結果、イギリス東インド会社は、ベンガル太守に傀儡を立て、実際上、ベンガルの領主になってしまうのです(民間企業なのに!)。

傀儡領主となったミール・ジャーファル(左) 右は息子
勝利の立役者 ロバート・クライヴ

もはや彼らを単なる貿易商人と考えてはいけない。彼らはインドの領主なのだ。

東インド会社軍を率いたロバート・クライヴの友人(1758年)(羽田・310頁)

東インド会社が現地勢力を破りインドの領主となる際の立役者であったロバート・クライヴは、さらにムガール皇帝にインドの徴税権(ディーワーニー)を割譲させ、次のように語っています。

純益は165万ポンドにのぼります。インドでの輸出用商品と中国の特産品をすべて購入し、インドの他地域の商館の要求に応えた上で、なお相当の残りがでる額です。

普通東インドで貿易を行う人々は商品を購入するために銀を持ってきます。ディーワーニーの獲得によって、この銀の運搬はイギリス東インド会社にとって不要となりました。1ピアストル銀貨さえも送ることなく、我々の投資は実行され、行政と軍事の費用は支払われ、多くの銀が中国へ送られます。ディーワーニーの獲得以来、ナワーブ〔太守〕に属していた権力はすべて東インド会社に移り、ナワーブには名目的な権威だけしか残っていません。

羽田・315頁

(3)インド財政からの私的収奪

インドの徴税権は、長期的には、イギリスの財政を支えていくことになるのですが、当面のイギリス東インド会社にとってはかえって重荷となり、会社の財務状況は顕著に悪化、破産寸前までいきました。

しかし、それにもかかわらず、東インド会社によるインドの政治的支配の拡大は、インドからイギリスへの大量の資金流入をもたらし、イギリスの経済を大いに活性化するのです。

なぜか。それは、東インド会社の社員や軍人などの関係者が、各種利権をフルに活用して巨額の資産を築き、本国に持ち帰ったからです。

クライヴはその代表格で、彼が自己の取り分としてインドからヨーロッパに送金した手形の総額は、わかっているだけで31万7000ポンドに達しています。

18世紀後半にベンガルからイギリス本国に送金された個人資産の総額は、約1800万ポンド(うち1500万ポンドは1757年以降)。

インドからの私的な資産の送金額は、年平均に換算すると約50万ポンド。その額は、ジャマイカ島の砂糖プランテーション経営者(不在地主)の年間収益(約20万ポンド/1773年)を大きく上回ります。

インド財政からの収奪という形で、東インド会社の関係者は、これだけの金額を稼ぐことができたのです。

◼️  イギリス東インド会社とは何か?

イギリス東インド会社は、民間企業である。イギリス国王によって(イギリスの)インド貿易の独占権を与えられてはいたが、1858年にインド統治権をイギリス国王に譲り渡し、1874年に解散するまで、私企業であったことに違いはない。

その私企業が、インド領主の地位を(事実上)得て、徴税権まで取得したというのは不思議な感じがするが、当時のイギリスでの受け止めは普通に好意的なものだったという(クライヴがのちにイギリス国内での批判にさらされるのは、本文で書いたように、彼が個人として「いささか常軌を逸する財産形成」(羽田・310頁)を行っていたためであり、インドを支配したからではない)。

先ほど、西インド諸島の砂糖プランテーション経営者を「IT長者」に準えたが、東インド会社もまさにそれで、とくに寡占が進んだ段階でのAppleとかGoogleみたいなものと考えるとよいと思う。

民間企業としてはいささか不穏当なほどの権力を持ち、やがては国の中枢にくい込み、政府と協力関係に立つ(目立った行き過ぎがあれば規制がかかることもある)。関係者は莫大な資産を築き、個人的にも大きな社会的影響力を持つ(クライヴは個人としてもインドの地方領主の地位を得ていた)。そんな存在である。

なぜイギリスやアメリカからつねにこのような存在が生まれるのか、という点については、いつかどこかで考察することになると思う。

インド支配の手法と方針

イギリス東インド会社の活動を通じてベンガルの領主となり、インド全土に支配権を広げていくイギリス。彼らはどうやって支配を拡大し、どんな風に統治をしたのでしょうか。

(1)軍事保護同盟による支配領域の拡大

プラッシーの戦い以後、支配領域をインド全土に広げていく過程でイギリスが用いた手法は主に二つ。一つは直接的な軍事力の行使、もう一つは軍事保護同盟の締結です。

軍事保護同盟とは、通常その国を軍事的に保護することを名目に、イギリスが軍隊および駐在官を駐留させ、その国が費用を負担する関係をいう。被保護国は、他国との関係についてイギリスの承認なしには何の交渉も成しえず、外交権の喪失を意味していた。また、イギリスは、しばしば内政に干渉し、巨額の軍事費を要求し、やがて条約を結んだ国は経済的に破綻し、ついにはイギリスに領土を割譲せざるをえなくなることが多かった

18世紀末から、イギリスは、このような条約を多くの勢力と結んだが、その最初が1798年のハイダラーバードであった。

辛島・141頁

軍事的保護を名目に(費用は相手持ちで)軍隊と駐在官を駐留させて、経済・外交政策の自律性を奪う。それは、第二次世界大戦後のアメリカが盛んに用いている方法ですが、イギリスが始めたことなのですね。

「軍事力を提供する以上、見返りを求めるのは当然」という、民間企業らしい発想から生まれたやり方のようですが(羽田・312頁)、ともかく、文中のハイダラーバードの政権は領地の割譲を強いられ(1800年)、アワドの王国は軍事同盟を結び(1801年)、カーナティックの太守はマイソール王国の王との内通を理由に領土を奪われ‥‥といった具合に、インド各地の勢力は、次々に、主権と領土を失っていったのです。

(2)イギリスのためだけのインド統治

東インド会社がひたすらに商売上の利益の追求した結果、成り行きでインドを統治することとなったイギリスです。

それでも19世紀前半までは、当時流行の「自由・平等・博愛」(フランス革命)の精神で「インドのためにインド社会を改良しよう」という動きが起きたこともあったようです。

しかし、1857-58年のインド大反乱を契機として、イギリス政府は腹を決めます。

すなわち、イギリスは、この反乱をきっかけに、インドを自国の経済発展の道具としてのみ利用する政策を明確にしたのであった。

辛島・159頁

イギリスは、現地社会に存在する様々な相違(地域、宗教、カーストなど)間の対立を煽る「分割統治」に専念し、「進歩的」政策も放棄して、ただひたすら、自国の利益に奉仕するべき存在として、インドを利用していくのです。

イギリス人が描いたインド大反乱(反乱を鎮圧している様子だろう)

中国とインド(紅茶とアヘン)

インド洋におけるイギリスのふるまいを検証するのに欠かせないのは、紅茶です。

東インド会社が本格的に紅茶の輸入を始めたのは1678年。紅茶の輸入量は、会社が広州に拠点を置いた1713年以降に大幅に増え、1760年には、インド綿を抑えて、イギリスの輸入に占めるシェアのトップに躍り出ます(総輸入額の40%)。

当時、イギリス本国の製品(毛織物など)は中国でも全く人気がなかったので、イギリスは、銀と引き換えにお茶を買っていました。つまり、イギリスで紅茶の人気が高まり、紅茶を輸入すればするほど、イギリス国内から中国に銀が流出していくという構造です。

紅茶は欲しい。もっともっと欲しい。しかし、当時の銀(や金)は基軸通貨ですから、流出する一方では困ります。

そこで、イギリス東インド会社は、インド産の商品の中から、中国で売れる商品を見繕って、それと交換に紅茶を手にいれるという方法を編み出します。「中国で売れる商品」とは何かというと、綿花、そして何より、アヘンです。

上の図をご覧いただくと、まず1825年から1850年の間に中国へのアヘン輸出が激増していることがわかります。そのとき、アヘン戦争(1840-42)が起きました。

アヘン戦争は、大まかにいうと、再三のアヘン輸入停止要請に応じないイギリスに怒った中国が強硬措置(商館閉鎖、貿易停止、アヘンの押収・焼却)を取ったのに対し、逆ギレした体で、イギリスが仕掛けた戦争です。

イギリスはこれに勝利して、上海など5港の開港、香港島の割譲、5港の治外法権、固定低関税(関税自主権の放棄)、片務的最恵国待遇などの不平等条約を結びます。

結局のところ、アヘン戦争は、中国を、「イギリスのために奉仕する市場」に作り変えるための侵略戦争だったのですね。

なお、銀の流出を回避するためにイギリスが編み出したこの取引手法は、「アジア三角貿易」と呼ばれます。

しかし、1850年までのイギリスー中国間の「貿易」を見ると、イギリスは、嫌がる中国にアヘンを押し付けて、その対価として紅茶を手に入れているだけです。強盗や恐喝‥とまではいえないかもしれませんが、少なくとも、真っ当な商売ではありません。

また、19世紀末になると、イギリスから中国への綿製品の輸出が激増しています。これは、いわゆる「産業革命」によるものなのですが‥‥。

これが何を意味するものなのか。インドのケースと合わせて、次章で検討したいと思います。

イギリス経済の飛躍ー産業革命は関与したのか?

(1)「商業革命」の概要

さて、いよいよ、「産業革命ではなく、産業革命以前の商業の活性化(商業革命)こそが、イギリスの経済的発展の本体であった」という見解の真偽を確かめるときがやってきました。

ここでいったん、「産業革命以前」(17世紀ー18世紀末)のその時期に、イギリスが行った「貿易等」の内容を整理しておきましょう。

17世紀初頭、ロクな輸出品を持っていなかったヨーロッパは、新大陸でを手に入れ(イギリスもそのおこぼれに与り)、世界の交易網に参入する糸口を得ます。

イギリス人は西インド諸島や北米に植民し、砂糖と奴隷を中核とする「大西洋三角貿易」を確立し、イギリス人の間で財をぐるぐる回して、経済を活性化。

アジアでは、銀と交換にインド産の綿織物を手に入れます。綿織物は本国で大人気商品に成長したほか、独占的な権利を得たため、再輸出に回すこともできました。

イギリス東インド会社は、インドでの取引を有利に進めようと努力するうちに、なぜかインド領主の地位を獲得することに。関係者はその利権を大いに活用し、インド財政から収奪する形で巨額の資産を形成。イギリス本国に送金して、やはりイギリス経済を大いに活性化しました。

また、中国からは紅茶を大量に購入しますが、赤字による銀の流出を補填したのは、インドで独占権を得たアヘンでした。

こうした取引によって、イギリスの貿易額は激増(↓)。

川北・木畑 74頁の表から一部を抜粋(秋田・35頁も同じ表を掲載)

貿易量のこのような激増は、経済構造はもとより、イギリス人の生活や社会の構造、さらには政治の趨勢をも大きく変化させたため、「商業革命」の名を与えられている。

川北・木畑 75頁[川北]

(2)検証

「本当にそれだけなのか?」とお思いですよね?

私なら思います。こんなものを「革命」と呼ぶのはちょっと非常識ですから、他に真っ当な取引があったのではないかと考えるのが当然です。

そこで、できる範囲で、データを確認していきましょう。

川北・木畑 74頁の表から一部を抜粋(秋田・35頁も同じ表を掲載)

上の表は、1640年と1772/74年の輸出の内訳です(金額ベース)。

イギリス伝統の毛織物の輸出や食料品(農産物)等も増えてはいますが、激増しているのは再輸出、そして雑工業製品の輸出です(赤字部分)。

再輸出というのはつまり、イギリス人が西インド諸島や北米に出かけていって、武力で現地を制圧するなどして拠点を作り、現地の人々や奴隷を黎明期の工場労働者同様に働かせて大量に生産させた現地産の砂糖やタバコ、そして、インドの現地勢力を屈服させて好条件で手に入れた綿織物などのことです。

雑工業製品は国産品ですが、これは海外に出かけて現地に住むようになったイギリス人の需要に応えて供給された日用品です。

輸入については内訳がありませんが、「新大陸からの砂糖、タバコ、コーヒー、アジア方面からの綿織物、絹織物の輸入が激増」した(秋田・34頁)、とされています。

要するに、イギリス人が西インド諸島や北米に出かけていって‥‥(以下略)‥‥。

ここまでの段階では、イギリスは、世界が欲しがる商品を自ら生産したわけでも、魅力的なサービスを開発したわけでもありません。ただ、暴力や手練手管や「合理的経営」を駆使して外国の魅力的な商品を安価で手に入れ、すべてを一旦本国の港に運んで、半分を自国で消費し、半分を売りに出した。それだけです。

本当に、これだけが、イギリス経済の飛躍の「本体」だったのでしょうか。「産業革命」は?

(3)イギリスの産業革命

18世紀後半の時点で、イギリスは「外国の商品を手に入れる」という仕事に没頭しています。

イギリスの輸出は、従来からの毛織物(主にヨーロッパ向け)と植民地のイギリス人向け雑工業製品以外は、基本的にすべて「再輸出」ですから。

しかし、ここで改めて下の図を見てください。

秋田・74頁(同書における出典は加藤祐三「アジア三角貿易の展開」『週刊朝日百科・世界の歴史87』朝日新聞社、1990年)

19世紀になると、イギリスは、今まで綿織物の輸入元(輸出する側)だったインドに対して、綿製品を輸出していくようになるのです。

これはいったい、なんでしょう?

① 輸入代替工業化としての産業革命

世界史の教科書に出てくる一連の発明をご覧いただくと明らかなように、イギリスの「産業革命」は、紡績・織物の分野で始まります(↓)。

  • 1733年 ジョン=ケイ 飛び杼
  • 1764年 ハーグリーヴズ ジェニー紡績機
  • 1769年 アークライト 水力紡績機
  • 1779年 クロンプトン ミュール紡績機
  • 1785年 カートライト 力織機 ‥‥‥

なぜかというと、イギリスの「産業革命」は、ずっとインドから輸入していた綿織物を自分たちで作るために起きた「革命」であったからです。

17世紀以来の大量輸入で、綿はイギリス人の必需品になりました。毛織物業者の圧力で綿織物の輸入・使用が禁止されても効果はなく、結局、禁止法は廃止(1774年)。そのとき、彼らは考えるのです。

「こんなに人気があるのなら、輸入ばかりしていないで、国内で作ればいいのでは?」。

彼らは識字化したイギリス人です。糸車で糸を紡ぎ、手で綿布を織るなんてあり得ない。「そうだ、科学の力を使おう」ということで、綿織物工業が発達を始めたのです。

つまり、イギリスの「産業革命」とは、「ずっとアジアの先進国から輸入していたものを、これからは自分たちの力で作ろう」という、いわゆる輸入代替工業化のための「革命」であったのです。

② イギリスの工業製品は売れたのか

その後、イギリスは、近代的な製鉄技術を開発し、蒸気機関を熱源とする鉄道も作れるようになりました(最初の鉄道は1825年)。

https://www.flickr.com/photos/camperdown/14420542493/in/album-72157627912565553/

その頃から、イギリスは、自らを「世界の工場」と自賛するようになるのですが‥‥ イギリスの工業製品は、本当に売れたのでしょうか。

いろいろな数字などを確認してみますと、イギリスの製品は、最初は売れたようです。イギリスの工業製品の中で、本当に国際競争力があり、世界中から引き合いがあったのは鉄鋼製品(鉄道含む)で、世界中で、最初の鉄道は大抵イギリス製です(日本もそうです)。

しかし、先行者の優位はあっという間に失われ、イギリスは早くも1873年には「大不況」(1873-96年)に陥ることになるのです。

「大不況」の原因は、後発の資本主義諸国の急速な工業化と、第一次産品生産国が本格的に世界市場に編入されたことによる世界の一体化、グローバル化の急速な進展であった。この時期には、アメリカ合衆国とドイツが急速な工業化を進め、鉄鋼をはじめとする資本材や石炭の生産でイギリスを追い抜き、1890年代にはロシア、イタリア、日本などの「半周辺」の資本主義国も工業化に乗り出して、世界経済はこれらの後発の資本主義諸国が工業化を競う段階に移行した。イギリスは「世界の工場」から三大工業国の一つに転落し、製造業の国際競争力も低下して工業製品の輸出が停滞した

秋田・135頁

③ インドがイギリスの貿易収支を支えた

そうした中で、唯一、綿製品だけは売れ続けました(↓)。

湯沢・52頁

イギリスの綿製品が人気があったからでしょうか?

下の図(左)を見ていただくと、1825年から1880年の間にイギリスからインドへの綿製品の輸出量が激増し、1898年も同じ規模で保たれていることがわかります。対中国も、かなり増えています。

19世紀後半、イギリスの綿製品を世界で一番輸入し、輸入量およびシェアを増やしていくのはインド(↓)。その次に輸入しているのは中国です。

湯沢・56頁

いったいなぜ、ずっと綿織物を作ってイギリス(を通じて世界中)に売っていたインドが、イギリスが綿を作り始めたからといって、それを買わなければならないのでしょうか?

答えは一つ。インドを統治していたのがイギリスだったからです。

先ほど、イギリスは、インド大反乱を契機に、インドを「自国の経済発展の道具として利用する」方針を明確にしたと書きました。イギリスはインドを「利用」するために何をしたのでしょうか。

一つは鉄道建設です。

インドでは1853年にアジア最初の鉄道が開業。現在も約6万4000kmの鉄道路線を有する世界屈指の鉄道王国ですが、大々的な鉄道敷設の目的の一つは治安(軍の出動を容易にする)、もう一つは「イギリスの利益のための」商業的開発でした。

その〔鉄道開発の〕第一の要因は、自由貿易帝国主義と密接に関連していた。すなわち、イギリス本国の消費財市場、とくに綿製品の市場として、さらに本国への食糧・原料(第一次産品)の供給地として、インドを商業的に開発することであった。マンチェスターの綿工業利害、英印間の貿易にかかわる商社や経営代理商会、茶農園などの開発と運営にあたったプランテーション業者などが、インド内陸部への経済的浸透を実現する手段として鉄道建設を必要とした。

秋田・109-110頁

同時並行で、イギリスは、やはり「マンチェスターの綿業資本の政治的圧力を受け」、綿製品の輸入関税率を引き下げ、インドの産業保護の必要性を考慮せず、本国で大量生産した安価な綿製品をインドに持ち込みます。

こうして、強制的にイギリスの安い綿製品を流通させられた結果、伝統的な綿織物産業は崩壊。元々、ヨーロッパの憧れの的であった「豊かなインド」は、一転して、「イギリスに一方的に奉仕する市場」に貶められたのです。

(4)「帝国」経済の真実

私は以前、「基軸通貨の誕生ーポンドの場合ー」という記事の中で、つぎのように書いたことがあります。

イギリスの地に基軸通貨が誕生した理由は明快で、イギリスが世界貿易の中心地となっていたからである。

世界貿易で先行したのはオランダ。しかしイギリスは18世紀には毛織物貿易や海運でオランダをしのぎ、19世紀には産業革命による「世界の工場」化と交通・通信革命の効果として、多角的な貿易機構の中心地としての地位を確たるものとした、というのが教科書的な説明である。

少し先には、次のような記述も。

国際金本位制〔ポンド覇権〕が確立した頃、貿易立国としてのイギリスはすでに盛りを過ぎていた。‥‥

輸出入の双方に積極的だったイギリスの貿易収支は最初から赤字(輸入超過)なのだが、経常収支は一貫して黒字である。

当初、貿易赤字を埋めていたのは、貿易にまつわるサービス収支(海運や保険)だった。‥‥

これを書いた時の私は、イギリスは、産業革命によって「世界の工場」となり、主にそのことによって「世界貿易の中心地」になったと信じています。

イギリスが「輸出入の双方に積極的だった」のは、原料の輸入を行う必要があるためだったと信じています。

19世紀後半に「貿易立国としてのイギリスの盛りが過ぎていた」のは、他国が工業化で追い上げてきたからだと信じています。

しかし、これらはすべて間違いでした(今回わかりました)。真実はこうです(↓)。

  • イギリスは、外国の物産が欲しかった。
  • イギリスは「売れる商品」を持たなかったので、外国から半ば不法に掠め取ってくるか、掠め取ってきた品を売って得た資金で外国から購入するしかなかった。
  • こうした「三角貿易」をどんどん行なっているうちに、イギリスは「世界貿易の中心地」となった。

こうした中、産業革命はイギリスに初めて「売れる商品」をもたらしましたが、それでもイギリスの貿易収支が黒字になることはなく、多少はあった(かもしれない)赤字削減効果もわずか10年程度で消滅。

イギリスは、インドや中国を自国製品の市場に仕立て、多額の綿製品を購入させたにも関わらず、それをはるかに上回る旺盛な消費のために、貿易赤字はますます増加の一途をたどるのです。

こうした貿易赤字の継続を可能にしたのは、最初はサービス収支(海運や保険)の黒字、その後は投資収益の黒字です。

彼らのやってきたことは、世界の海を舞台に海賊行為や奴隷貿易その他ありとあらゆる不法を働いて稼いだ後、カタギになって、得意の海運や金融サービスを独占的に営むようになった広域暴力団、という以外のなにものでもない。私にはそう思えるのですが、いかがでしょうか。

「共存共栄」の海から「抗争と略奪」の海へ 

共同体家族を中心に営まれてきた「共存共栄の海」は、識字化した核家族の参入によってどう変わったのか。これが今回までのテーマでした。

識字化した核家族は、ムスリム商人などを蹴散らし、世界中の海と陸で、最初はアジアの商品を奪い合って競争し、工業化を果たすと、今度は資源と市場を奪い合って競争した。

彼らが展開した競争は「自由競争」などといえるものではない。ルールなしの対立抗争であり、正真正銘の戦争でもありました。

そして、彼らは、競争に勝つためにはいっさい手段を選ばず、非キリスト教徒、非白人を蹂躙することを厭わなかった。

「共存共栄」の海は、こうして「抗争と略奪」の海に変わった。私はそのように結論します。

次回に向けて

識字化した核家族によるルール変更があったといっても、それは条約や法律に書き込まれたわけではありません。

「確かに、帝国主義とか、植民地主義とか、”抗争と略奪” 的な時代はあったけど、それは一時的なものであって‥‥ 少なくとも第二次世界大戦の後くらいからは、みんな、共存共栄、世界の平和を目指していたはずでは?」

そう思いたくなるのも無理からぬところです(ええ、私はずっとそう思っていました)。

しかし、今回の探究の過程で、私は発見しました。その新しいルールが刻み込まれ、その後の世界に広く深く長い影響を与えることになる媒体が、やはりこの時期に生まれていたという事実を。

その媒体とは、おかねです。

もちろん、おかねそのものは以前から存在しました。そこで、次回のテーマは「識字化した核家族は、おかねを仕組みをどのように変えたのか?」となります。

お楽しみに!

  • イギリス東インド会社は平和裡にインドでの貿易拠点を獲得し綿織物を商品として仕入れたが、商業上の利権をめぐる現地を巻き込んだフランスとの戦争および現地勢力との軍事衝突を経てなぜかインドの統治者となった
  • イギリス東インド会社の関係者がインド財政を私的に収奪して築いた巨額の財産の流入で本国の経済は大いに活性化した
  • 大反乱以後、イギリスは自国の経済発展のための道具としてのみインドを利用する方針を確定させ、インドをイギリスに奉仕する市場として開発し、アヘン戦争を通じて中国も同様の市場に仕立てた
  • 「産業革命」は綿織物の「輸入代替」から始まったが、綿製品の大量生産に成功したイギリスはすぐにそれをインドで大々的に販売した
  • イギリスが「産業革命」の成果として好調な輸出を誇ったのはごく短期間で、競争力が失われた後も継続してイギリス製品を買ったのは植民地・準植民地とされたインドと中国のみだった
  • 近代イギリスの経済的飛躍は、もっぱら「貿易等」によってもたらされたもので、産業革命はほぼ関与していない
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「トッド後」の近代史
(2-ⅰ)ヨーロッパのふるまい

はじめに

世界の中央に進出してきた「識字化した核家族」は、そのふるまいによって、世界の進む方向性をどう変えたのか。今回は、共同体家族を中心に営まれてきた「共存共栄の海」で、ヨーロッパが何をして、世界をどのように変えたかを追っていきます。

核家族のふるまいーヴァスコ・ダ・ガマの場合

西アジアの海に最初に踏み込んだ「識字化した核家族」出身者(の一人)は、ヴァスコ・ダ・ガマです。

カリカット(Calicut(現在はKozhikode))の役人に笑いものにされた後、再び戻ってきたガマ(1502年)がどんな行動を取ったのかについては、詳細が残っています。

‥‥インド西海岸カンナノール沖に到着したガマの船隊は、港には入らず、そこで紅海方面からカリカットへ向かってくる船を待ち伏せした。‥‥ ガマは、敵であるカリカットへ向かう船は、すべて掠奪の対象と見なした。すでに一隻を拿捕し、一隻を取り逃していた29日、大きな船が一隻水平線上に姿を現した。この船には、メッカへの巡礼を終えた240人とも380人ともいわれる男と多くの女子供が乗っていた。

ポルトガル船隊は大砲を撃ってこの船を停めた。巡礼者の中にいた裕福な商人が、身代金を払うから見逃して欲しいと願い出たが、ガマは許さず、船を徹底的に掠奪すると、人々を乗せたまま火を付けた。助けを求めて泣き叫ぶ婦人や子供を見ても、ガマは顔色一つ変えなかったという。これは一定額の身代金を払えば船と人を解放する海賊よりもさらにたちの悪い行為である。十字軍的な精神に凝り固まっていたガマやポルトガル人にとっては、イスラーム教徒を満載した船は、丸ごと破壊しても構わないものだった。この時奪った財宝の額は、3万クルザード。ポルトガル王室の年間収入の10分の1に相当したと言う。

その後カリカットへ至ったガマの船隊は、冷静に交渉を進めようとするカリカット王の提案を相手にせず、カブラルがこの町に来た時に被った人的物的被害の賠償とアラブ人ムスリムを町から追放することを要求した。王がこれに応じないと、通りかかったムスリムの小舟を次々と捕縛し、先に捕虜にしていたムスリムを処刑してそのマストにぶらさげたという。その数34人と伝えられる。そして、様子を見に浜に集まった大勢の人々に向けて突然大砲が放たれた。砲撃は2日間続き、400発の砲弾が撃ち込まれた。海岸に近い場所に建っていた家屋や建物は完全に破壊された。

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)53-54頁

英雄ヴァスコ・ダ・ガマの行動がこれというのは正直ちょっと引いてしまいますが、より重要なのは、彼の行動は当時のヨーロッパ人の行動としては完全に正常である、という点です。

①掠奪

まず、巡礼船の掠奪(前段)について。

当時のヨーロッパでは、戦争状態にある国や地域(=敵)に属する船の掠奪は完全に適法で、推奨される行為ですらありました。この種の掠奪は、正当な経済活動とみなされていて、それを生業(なりわい)にする民間人も少なくなかったといいます。

‥‥前近代のヨーロッパにおいてはそれは必ずしも非合法な行為ではなかった。中・近世のヨーロッパでは経済活動はしばしば「暴力」と密接に結びついており、掠奪はそのような連関がもっとも端的に表れたものであった。そしてそれは当時の法観念では正当な行為、場合によっては名誉な行為とすらみなされていたのである。

薩摩真介『〈海賊〉の大英帝国 ー 掠奪と交易の400年史』(講談社、2018年)14頁

そして、当時のヨーロッパ人、とりわけレコンキスタ(ウマイヤ朝以後イスラーム勢力の支配を受けたイベリア半島の再キリスト教化)を完了したばかりであったスペイン・ポルトガル人にとって、「異教徒」とは「敵」の代名詞のようなものです。

そういうわけで、メッカへの巡礼船を襲い、キリスト教地域ではない外国の港を大砲で破壊するガマの行為は、何ら恥じるところのない、正当で勇敢な行為だったのです。

②貿易独占のための制圧行動(後段)

後段には、ガマが、「ムスリム排除」等の要求に応じさせるため、ムスリムを処刑して晒し者にし、2日間に渡る激しい砲撃で町を破壊したことが書かれています。ガマは、いったいどういうつもりで、このような行動を取ったのでしょうか。

前回の航海での体験から、ガマには、一つの確信があったのだ。それは、武力でインド洋を制圧すれば、投資金額は絶対に回収でき、さらに大きな利益をあげることができるという確信だった。

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)52頁

ガマは、最初の航海のときに、インド洋には大砲を備えた強力な艦隊がいないこと、また沿岸地域には武器が普及していないことに気づいていました(平和だからですね)。武力でインド洋を制圧して貿易を独占すれば莫大な利益が得られると確信した彼は、国王に進言し、それを自ら実践してみせたのです。

ガマの進言の通り、ポルトガルは、アルブケルケなどの軍人を送り込み、1503年から1515年までの間に、インド洋海域の主要な港町を武力で制圧し、貿易の独占を図りました。

インド洋の征服者  アフォンソ・デ・アルブケルケ

異なった宗教を持つ様々な民族が共存し、切磋琢磨しながら商業活動を行う、共存共栄の海であったインド洋に、当時のヨーロッパはなじむことができず、自分たちのやり方を持ち込みました。

自分たち(キリスト教圏)の間でも、小さな国や地域に分かれ、絶えず武力で抗争していた彼らに、「敵」である異教徒との「共存共栄」というあり方は、理解を超えていたのかもしれません。

羽田先生にまとめていただきます。

ポルトガル人は、港町を征服し、この海域の「主人」として、そこで行われる貿易活動を武力によって支配し、管理しようとした。これは、海は誰でも自由に航行でき、港町は誰でも自由に利用できるというそれまでのこの海域におけるルールの根本的な変更を意味した。地中海や北海などヨーロッパ周辺の海は別として、インド洋ではこの時まで海とそれを利用した交通や貿易を支配しようとした者はいなかった。ポルトガル人が姿を現してわずか10年あまりで、インド洋海域の秩序は大きな変更を迫られることとなった

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)57-58頁

勢力争い→イギリスの覇権へ

ポルトガルのインド洋支配は100年程度で落日を迎えますが、もちろん、それで「共存共栄の海の復活」とはなりません。

ポルトガルの後退をチャンスと見たオランダ、イギリス、フランスが、われもわれもとやってきて、勢力争いを繰り広げたからです。

「やたらと競争をする」というのは、この時代のヨーロッパの大きな特徴です。「なぜか?」は後で(最終回で)考えますが、ともかく、彼らは、インド洋でも新大陸でも、互いに対立抗争し、競争相手の誰よりも有利な条件を確保し誰より多くを稼ぐために、あの手この手を繰り出します。

その一途な努力の結果として、彼らは、「世界を征服する」というような英雄的精神とはまったく無関係に、世界を政治的・経済的に従属させていくことになるわけですが‥‥ ご承知の通り、その競争を勝ち抜いて、世界の覇権にもっとも近づいたのは、イギリスです。

そこで、以下では、イギリスを「識字化した核家族」の代表とみなし、彼らの行動を中心に話を進めます。

イギリスはどうやって覇者となったか

ここで皆さんに質問です。

辺境のヨーロッパ(の中でもさらに辺境)に位置したイギリスは、なぜ、どういう風にして、世界の覇者の地位に上り詰めることができたのでしょうか。

皆さんの「常識」は、どんな感じですか?

「えーっと・・まず、産業革命ですよね。イギリスが、世界で最初に産業革命を実現して「世界の工場」になって・・」

「あと、北米やインドでの植民地獲得競争に勝ってたくさんの植民地を手に入れたので、植民地から資源を輸入して、本国で加工した製品を輸出するというやり方で、貿易で覇権を取って・・」

「貿易で覇権を取ったことで、ポンドが基軸通貨になって、その後は多少物が売れなくなっても、「世界の銀行」としての立場で何とかなった、みたいな感じですよね?」

・・という、感じですよね?

私は大体こんなような感じで理解していました。
でも、調べてみると、なんか、全然違うみたいなのです。

まず、産業革命についていうと、専門家の間では、「そもそも、イギリスに産業革命なんてあったのか?」という議論が活発に行われているほどで、「仮にあったとしても、イギリス経済に与えた影響はそれほど大きくなかった」というのが常識となっているようです。

18世紀後半のイギリスは、世界で初めて農業社会から商工業社会へと変化し、社会の構造や人々の生活が大きく変化したといわれる。このような社会経済構造の大きな変化を「産業革命」と呼び、世界で最初の現象として、英語で表現する場合は、定冠詞theを冠してthe Industrial Revolutionと表現するのが一般的である。ところが近年のイギリスにおける経済史研究では、産業革命に否定的な見解が一般的になりつつある

秋田茂『イギリス帝国の歴史』(中公新書、2012年)79頁(強調は辰井)

では、何が、イギリス経済の飛躍をもたらしたのか。この点についても、専門家の間では、大筋で合意が得られており、その骨子は世界史の教科書にも記載されています。

大航海時代の到来とともに、世界の一体化が始まった。ヨーロッパ商業は世界的な広がりをもつようになり、商品の種類・取引額が拡大し、ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心地は地中海から大西洋にのぞむ国々へと移動した(商業革命)。世界商業圏の形成は、広大な海外市場を開くことで、すでにめばえはじめていた資本主義経済の発達をうながした。‥‥

商業革命により、西欧諸国は商工業が活発な経済的先進地域となった。‥‥

木村靖二・岸本美緒・小松久男『詳説 世界史(世界史B) 改訂版』(山川出版社、2017年)204頁(太字原文)

要するに、貿易量の飛躍的拡大(しばしば「商業革命」と呼ばれます)が、ヨーロッパの経済的飛躍の源泉だった、というのです。

ふうむ、どうも、あれですねえ‥‥

大航海時代にヨーロッパが世界の海に乗り出していった、というところはいいでしょう。

ヨーロッパは、アジアで取引されている商品群に魅了され、その豊かさを手に入れるべく、アジアの海に向かいました。

しかし、市場というのは「蜜と乳が湧き出し、流れる」楽園ではないわけで、欲しい物を手に入れるには、こちらにも、相手が欲しがる商品の持ち合わせが必要です。

国王からの贈り物すら物笑いの種になっていた貧しいヨーロッパ。産業革命の寄与がないとすると、彼らはいったい何を売って「商業革命」を成し遂げたのでしょうか?

毛織物は売れない

16世紀以前、イギリスの主な売り物(輸出品)は毛織物です。

イギリスの毛織物は、ヨーロッパではよく売れました。しかし、ウールといえば(当時は)冬物、アジアとの交易ではまったく役に立ちません。

この時代には、ヨーロッパから積極的に売りに出せるような商品価値の高い物産は、まだほとんどなかった。あえていえば毛織物とか高級な工芸品のたぐい、あるいは毛皮、北欧からの木材、といったところであろうが、いずれも遠隔地を結ぶ交易で大量に扱われるには限界があった。

福井憲彦『近代ヨーロッパの覇権』(講談社学術文庫、2017年)

基本的に、アジアが欲しがる商品をほとんど持っていなかったヨーロッパが、どうやって貿易を拡大し、覇者の地位に上り詰めていくのか。お手並み拝見といきましょう。

銀を手に入れた

ヨーロッパが初めて手に入れた「売れる商品」は、銀でした。

最初に銀をふんだんに手に入れたのはポルトガル。彼らは、アジアでの取引に使う銀を、日本との交易で入手していたことが知られています。

しかし、ヨーロッパ全体にとっての銀の供給源となったのは、南米です。

インカ帝国の銀製アルパカ(https://www.worldhistory.org/image/4619/inca-silver-alpaca/

スペインは、武力で征服したアステカ帝国(1521年)やインカ帝国(1533年)からも、金銀財宝を掠奪していましたが、その後、世界最大のポトシ銀山が発見されたことで(1545年)、絶頂期を迎えるのです。

1553年のポトシ景観図(https://www.kufs.ac.jp/ielak/pdf/kiyou12_01.pdf)

ではスペインは、ポトシ銀山の銀を、どうやって掘り出したのか。南米に植民した彼らは、自分たちでせっせと働いて、鉱山から銀を掘り出した‥‥というわけではありません。

スペインの征服者(政府から統治を任されていた)は、インディオと呼ばれた現地の住民たちを労働力として酷使し、それによって銀を得たのです。

現場を目撃していた宣教師たちの話を聞きましょう。

4年ほど前でしょうか。この土地を滅亡させんがために、地獄への入り口が発見され、その時以来、大勢の人々がそこに入っていくようになりました。彼らはスペイン人の貪欲が神に捧げた人々なのです。そしてここぞポトシ、陛下の銀鉱ポトシなのであります。

ドミンゴ・デ・サント・トマス(1550年ごろの記述)(網野徹哉『インカとスペイン 帝国の交錯』(講談社学術文庫、2018年)202頁)

四六時中暗くて、昼と夜も弁じがたい。そして、太陽がぜったい見えない場所なので、いつも暗闇であるばかりか、寒さもひどく、空気も重っくるしくて、人間居住の常態からは外れている。だから、初めて中に入った者は、胃がむかつき、苦しくなって吐き気をもよおす。この私もそういう目にあったーー金属はふつう硬い。そこで小さな鉄棒で、火打石を叩き割るようなふうに割ってそれを取り出す。それから、それを背に負って登る‥‥。

イエズス会士アコスタ(1580年ごろ)(網野・202-203頁)

そして、インディオ労働者の心身の疲労、というか過酷で非人道的な労働環境からくる苦痛を癒したのは、コカの葉とチチャ酒でした。

コカの葉は、インカ帝国の統治の下では、宗教儀礼と結び付けられ、消費も生産も国家や共同体によって管理されていたといいます。しかし、その麻薬としての効果を知ったスペイン人企業家は、コカの生産と販売を独占し、インディオ社会に大量投与するのです。

‥‥ちょうど漆のような葉をもつ、だいたい人の背丈ほどの木で、コカと呼ばれるものです。この葉を土地のインディオは食します。呑み込むのではなく、噛みます。彼らの間では、とても有り難がられているのですが、この生産はほぼ我々スペイン人の手中にあります‥‥。コカは、この地の最良の貨幣です。というのも、コカがあれば、インディオたちのもつものすべてを手に入れることができるからです。金や銀、衣服や家畜などなど、彼らは、ただ葉を噛みたいばかりに、手放すのです。

クスコ在住のスペイン人からイベリア半島の兄弟に宛てた手紙(網野・203−204頁)

苛烈な労働環境、死亡事故の多発、水銀中毒、そしてヨーロッパから持ち込まれた感染症(天然痘やはしか)の流行で、先住民人口は激減。

労働力不足に陥った現地のスペイン企業は、どうしたかというと、アフリカの住民を買い付けてきて、奴隷として働かせたのです。


いかがでしょうか。

「植民地経営」というと何かもっともらしく聞こえてしまいますが、虚心坦懐に見ると、スペイン人は、武力で現地を制圧し、現地人と奴隷をコキ使って銀を略奪しただけ、そしてヨーロッパはそのおこぼれに与っただけ、といわなければならないと思います。

しかし、まだ世界に通用する貨幣(通貨)というものが存在しなかった当時、彼らが手に入れた銀は、紛うかたない基軸通貨です。

取り立てて売るものを持っていなかったヨーロッパは、新大陸における銀の発掘(略奪)によって見事に「成り金」となり、世界交易における地歩を固めたのです。

新大陸でのイギリス

(1)西インド諸島

さて、われらが主人公イギリスは、1600年前後から、アメリカ大陸とインド洋に同時進行で進出します。アメリカ大陸の方が先に終わる(下火になる)ので、そちらを先に見ていくことにしましょう。

イギリスはクロムウェル時代にジャマイカ島、バルバドス島、トリニダード・トバゴなどを征服し、王政復古(1660年)後に入植を本格化させました。イギリス(やオランダ、フランス)が、アメリカ大陸の中で、主に西インド諸島と北米に向かったのは、南米はすでにポルトガルとスペインが抑えていたためですね。

① 砂糖でIT長者

大西洋三角貿易(https://ywl.jp/content/9BKD6

西インド諸島で、イギリスが手に入れたものは、砂糖です。

イギリスの入植者は、奴隷として買ってきたアフリカの人を使って、砂糖の生産(栽培・加工)を行いました。

https://www.liverpoolmuseums.org.uk/archaeologyofslavery/slavery-caribbean

このビジネスは大当たり。彼らはこの新規ビジネスで大金を稼ぎます(↓)。

  • 1674-1701年(平均):1954ポンド
    (現在の20万ポンド[4000万円])
  • 1740年代:7956ポンド
    (現在の94万ポンド[1億8000万円] )
  • 1770年代:19000ポンド
    (現在の166万ポンド[3億2000万円])

*川北稔による試算(私は秋田・43頁から引用しています)。現在の価値への換算はこちらのサイトを利用しました。

その破格の収入により、本国では「疑似ジェントルマン」として上流階級の暮らしを謳歌し、名望と政治的影響力を駆使してさらに安定した収益を確保する。

そう。彼らの立ち位置は、現在でいう「IT長者」にそっくりだったといってよいでしょう。

② 「合理的経営」というイノベーション

しかし、砂糖栽培といえば、本来、典型的な労働集約型産業です。彼らはいったいどうやってそんなにおかねを稼いだのでしょうか。

‥‥ジャマイカでは、徹底的な砂糖の単一栽培(モノカルチャー)がおこなわれ、大規模プランテーションが展開した。現地では、サトウキビの栽培、刈り入れたサトウキビの搾汁、それを煮詰め蒸留し結晶させる粗糖の生産が連続的におこなわれ、初期のプランテーションは、農場と加工工場が結びついた農・工業複合体(agroindustrial complex)であった。

そこでは、限られた時間内に粗糖を生産するために、厳格な時間規律と、熟練労働者と黒人奴隷による未熟練労働者の有機的な結合が求められた。18世紀末に本国で産業革命が起こり大規模工場の出現する前に、すでに西インド諸島では工業化に不可欠な、時間と労働の近代的な管理が行われていたのである。

秋田・43頁

要するに、こうです。

プランターたちは、まず、武力で現地を制圧し、現地人を安い労働力として使い、足りない労働力はアフリカ人奴隷で補いました。

しかし、彼らは、それだけでは満足せず、もっと多く、もっと効率的に稼ごうと、工夫を凝らします。

結果、彼らは、奴隷や現地人労働者の時間と労働を厳格に管理するという「合理的経営」を編み出し、この「イノベーション」こそが、まるで産業革命後の大資本家のような稼ぎを可能にしたのです。

通常、「産業革命」という言葉は、技術革新に基づく工場制機械工業の発達による社会の変革(農業中心から工業中心へ)を指して用いられます。

しかし、「産業革命」の核心を、以下のような点に求めるなら、本当の「革命」は、17世紀後半から18世紀にかけての西インド諸島の砂糖プランテーションの現場で、やはりイギリス人の手によって成し遂げられていた、ということになりそうです。

  • 大規模経営による大量生産
  • 資本家が労働者に賃金を支払って労働させる資本・賃労働の関係の確立
  • 効率的生産のための厳格な労働管理
  • 時間意識の強化
  • 長時間労働の一般化 ‥‥

③「疑似ジェントルマン」の政治力

もう一点、彼らが、砂糖栽培によるもうけを確保するために、「疑似ジェントルマン」として(イギリス本国で)得た政治力を十二分に活用していたことも、確認しておく必要があります。

彼らが砂糖栽培を始めた17世紀後半からの約100年(1663-1775)の間に、砂糖はイギリス人の生活に欠かせない必需品となっており、彼らが西インド諸島で作った砂糖のほとんどはイギリス本国の市場で販売されました。国際市場には価格競争が付きものでも、国内向けの独占販売なら、政治力で何とかなる。

西インド諸島利害関係者は、その政治的影響力をフルに行使して、英領西インド諸島産砂糖の価格操作に成功し、莫大な収益を確保したのである。

秋田・49頁

(2)北米:本国製品の市場

https://www.worldhistory.org/article/1677/a-brief-history-of-tobacco-in-the-americas/

一方、北米植民地の主要産品はタバコ。こちらは大陸ヨーロッパが主要な販売先だったので、砂糖のような法外な収益にはつながりませんでした。

しかし、こちらはこちらで、イギリスに、その経済成長に欠かせない機能を提供することになります。

北米がイギリスに提供したもの。
それはイギリス製品の市場としての機能です。

西インド諸島とは異なり、北米に植民したイギリス人は、現地の気候になじんで定着しました。タバコ栽培は、彼らに「疑似ジェントルマン」ほどの稼ぎは与えませんでしたが、それなりに十分な購買力を与えました。

イギリス出身の人間の多くが、つねに喉から手が出るほどほしがるものは何かといえば、イギリスの商品です。

そうです。これまで、ヨーロッパの域外に、自国製品を買ってくれる市場を見出すことができなかったイギリスは、この北米の地に初めて、自国製品を熱烈に求める市場を発見したのです。

本国側の雑工業製品の生産者にとって、北米タバコ植民地は、優位に立てる数少ない輸出市場であった。ヨーロッパ市場に十分な競争力、製品販売市場を持てなかったイギリス本国の雑工業製品は、高い国際競争力を持つ北米のタバコを介して、北米市場においてその輸出市場を確保することができた。

秋田・51頁

「大西洋三角貿易」は貿易か?

こうして、西インド諸島の砂糖、アフリカの奴隷、北米の市場が出揃いました。いわゆる大西洋三角貿易の完成です。

井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(講談社学術文庫、2017年)149頁

しかし、「言葉に惑わされず、ヨーロッパが何をしたかをはっきりさせよう」というミッションを担っているわれわれにとって、この名称は要注意です。

「貿易」と聞くと、異なる国と国の間で交易が行われ、それなりに「win-win」の関係が成り立っている、という事実を連想しますよね?

しかし、この「三角貿易」の中に、異国間の「win-win」的関係というようなものは存在しません。この交易に参加し、大きな利益を得ているのは、基本的に、全員イギリス人なのです。

上の図の提供者である井野瀬先生のご説明にしたがって、それぞれの取引について、利益を得ている主体を確認していきましょう。

‥‥三角貿易の手順はこうである。ブリストル(あるいはロンドン、後にはリヴァプール)から出港した船には、植民地向けの多種多様な日用品、食料や食器、靴や衣料、石鹸やろうそく、農工具、さらには奴隷の衣服などが満載された。

船は途中、西アフリカ沿岸に立ち寄り、仲介にあたる現地アフリカ人商人との間で、銃や弾薬、ラム酒、綿布やビーズなどと交換で、彼らが内陸部から調達してきた奴隷を船内に詰め込む。

その後、船は西インド諸島へ向かい、ジャマイカやバルバドスなどで奴隷をおろし、代わりに現地で生産された砂糖(茶色の原糖)やタバコ、木綿、染料のインディゴ、ココアなどを大量に積み込むと、ブリストルへと帰還した。

井野瀬・149-150頁

一般に、15世紀から18世紀前半のイギリスの商業は、この大西洋三角貿易によって大いに活性化し「商業革命」の基礎を築いたということになっています。

しかし、この「貿易」がそれほど儲かったのはなぜかというと、

  • 武力で砂糖やタバコ栽培に適した土地と安い労働力を獲得し、
  • アフリカ奴隷を格安で入手し、
  • 廉価かつ不自由な労働力を厳格に管理し、超効率的に砂糖を生産

‥したからです。

そうやって得られた砂糖やタバコ、奴隷と、イギリス製品(日用品)を、イギリス人の間でぐるぐる回し、「イギリスの商業を活性化」した。

むむ、これはいったい‥
これはいったい「貿易」でしょうか?

自慢げに「商業革命」などといえるようなことでしょうか。

国内ではおよそ許されないやり方で外から奪ってきたものを、イギリス人の間で山分けしているだけでは? ‥‥

次回に向けて

普通、奴隷貿易とか植民地の収奪といった事実は、「先進国も昔はいろいろあった」「輝かしい近代史の中の恥ずべき汚点」といった感じで、つまり、瑣末とはいえないにせよ、本筋ではないものとして捉えられていると思います。

なぜ、そのような扱いが可能であったのかと考えてみると、それは、その後に「産業革命による大いなる飛躍」という物語が控えていたからではないでしょうか?

ヨーロッパの創造性、科学と情熱の賜物である「産業革命」という本編があったからこそ、それらは「残念なエピソード」で済んでいたのです。

しかし、その「産業革命」は(仮にあったとしても)イギリスの飛躍にはほとんど寄与しておらず、掠奪してきた銀、砂糖にタバコ、奴隷の交易こそが主役なのだとしたら。

「西欧近代」のイメージは、相当大きく変わってくるのではないでしょうか。

いったい、どちらがより真実に近いのか。
引き続き、探究を続けましょう。

  • インド洋に参入したポルトガル武力で貿易を独占しようとした
  • ポルトガルが後退すると他のヨーロッパ諸国が参入してきて競争を繰り広げた
  • 売れる商品を持たなかったヨーロッパは、新大陸で獲得(略奪)したを世界交易参入の足がかりとした
  • イギリスは、西インド諸島で砂糖、北米植民地に本国製品の市場を見出し、アフリカで得る奴隷とともに、基本的に国外で略奪的に取得した富イギリス人の間でぐるぐる回す仕組み(三角貿易)を確立し、イギリス商業を活性化した
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トッド入門講座

「トッド後」の近代史
(1)近代以前の世界

はじめに

「自由で民主的で豊かな社会を目指して進んできたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか」という問いから、私の探究は始まりました(2020年頃)。

近代化の契機は核家族の識字化であったことはわかった。「自由と民主」は偉大な発明品というよりは、素朴な核家族メンタリティの反映であったこともわかったし、民主化とは大衆の教育レベルの上昇(識字化)であることもわかった。格差社会の根底に高等教育の普及があることもわかったし、アメリカが原初的核家族に退化しているらしいことも、おかねの増えすぎが世界を賭博場にしたこともわかった。

でも、私は、まだなんとなく釈然としません。

「だからって‥‥
 ここまでめちゃくちゃでなくてもよくないか?」

現在のこの世界を見ていると、どうしても、そう感じてしまう。

2024年現在、世界は、文字通り(=比喩ではなく)、殺戮、謀略、略奪、嘘で溢れています。主体は決してアメリカだけではなくて、とくに目につくのはイギリス、それからフランス、ドイツ。私たちがずっと憧れ、手本としてきた国々が、一斉に狂気に陥っている、といった風なのです。

いったい、どうなってしまったのでしょうか。

エマニュエル・トッドが、同じ気持ちで世界を眺めていることは、近年のインタビューから伺えます。

私はフランス人ですが、イギリスの大学で学び、研究者となりました。そんな経験から、私はイギリスに敬意を愛着を感じ、「イギリスは合理的で素晴らしい国、バランスのとれた国だ」とずっと思ってきたのです。

ところが、この戦争をめぐるイギリス政府の態度は、狂っているとしか言いようがありません。非常に好戦的な姿勢を見せています。そもそもアメリカとともに、ウクライナ軍を武装化してロシアと戦争するように嗾(けしか)けたのも、イギリスです。

非合理的な「ロシア嫌い」や「軍事主義(自国の兵士は送っていませんが)」へと逃げているのは、イギリスが深いところで精神的かつ社会的に病んでいるからだ、と考えざるを得ません。しかも近代民主主義が誕生したイギリスがこんな状態にあるだけに、大きな不安を感じています。

『第三次世界大戦はもう始まっている』(2022年)192-193頁(強調は辰井)

「病んでいる」。そう、たしかに、ウクライナをけしかけ、イスラエルに武器を提供し続ける彼らは、精神的かつ社会的に病んでいるように見えます。

しかし、健やかなるときも、病めるときも、社会は家族システムから逃れられない。それがトッドの教えです。

「たぶん、私たちは、自由だの、人権だの、なんちゃら主義だの、そんな言葉にうっとりしていただけで、西欧近代の何たるかを理解していなかったのだな。」

私はそのように理解しました。
そうとわかればやることは一つ。

探究を始めましょう。

「トッド後」の補助線

(1)「トッド前」

このシリーズのタイトルは「「トッド後」の近代史」です。何が「トッド後」なのか。趣旨をご説明させていただきます。

私たちが、歴史上の出来事を見て、何らかの評価を下すときには、一定の尺度というか、補助線を用いるのが通常です。ある事象が(例えば)「進歩」を示す事実なのか、「退歩」や「一時的停滞」なのか、といったことは、その事象単体では判断できませんから。

「トッド前」のわれわれは、非常に大まかにいうと、次のような補助線を用いて「近代」を見ていたと思います。

要するに、「なんだかんだいっても、世の中は進歩してきたのだ」ということですね。

私たちは、近代におけるヨーロッパの行動、彼らが起こした事件、作ってきた制度や仕組みを、この補助線の上に並べて理解し、それを「進歩」だと考えてきたわけです。

しかし、私たちが、西欧近代を正しく理解していなかったとするなら、その原因は、もしかすると、この補助線にこそ、あるのかもしれません。

‥‥ 思えば、エマニュエル・トッドは、明らかに、これとは異なる補助線の存在を、私たちに示唆していたではないですか。

(2)近代化の逆説

新たな補助線を求めるわれわれに、大いなる示唆を与えるトッドの理論とは「近代化の逆説」です。

  • 西欧近代の価値観(リベラル・デモクラシー、自由主義経済など)の基礎にあるのは、核家族システムである。
  • 核家族システムは、もっとも古く、もっとも「進化していない」家族システムである。

トッドが解明したこの2つの事実を組み合わせると、もっとも「進歩した」社会を構築したのは、もっとも「遅れた」家族システムであった、という命題が導かれます。これを「近代化の逆説」と呼びましょう。

トッド自身は、当初、この「近代化の逆説」を、どちらかといえば「喜ばしい発見」という風に捉えていたと思います。

自由という本来なら野蛮に属するものを、洗練したシステムに昇華して制度化できたのは、西欧に「遅れた」システムが残存していたからこそである。彼はそのように考えて「なんて素敵なことだろう」とときめいていたのです。

しかし、すでに「家族システムの変遷」の探究を終えた私たちは、これに簡単に同調することはできません。なぜなら、私たちは、原初的核家族から直系家族、共同体家族への進化は、人口密度が高まり、集団間の接触が増えた世界で、国家を形成し、帝国に発展させ、より広い領域に亘る秩序の維持を可能にするために、必要な発明であったことを知っているからです。

近代とは、原初的核家族と同じ価値観を持つ人たちが、識字の力で(=家族システムの進化をスキップして)、世界の覇者となった時代です。

権威もなければ、平等もない。そんな彼らに、いったい、世界帝国(グローバル化した世界)の盟主の役割が務まるのでしょうか?

(3)「トッド後」

識字化した核家族が主役となった「西欧近代」は、直系家族、共同体家族、緩和された共同体家族‥‥と進んできた世界の発展過程を、真っ直ぐにおし進めたものではありません。

1500年ごろ、識字化した核家族は、ふいに世界の中心部に現れて、世界の覇権を握りました。しかし、彼らが持っている家族システムは、類型化されたシステムの中で、もっとも「遅れた」、原初的なシステムである。

それぞれの家族システムがもっとも重視する価値を記載してみました(辰井の仮説です)

以上の事実を勘案して「トッド後」の補助線を描いてみたのが、下の図です(二層構造です)。

私たちが見ている事実(現象)は表層にすぎず、その深層には家族システムがあります(両者の関係性についてはこちらをご参照ください)。

近代以前、人間社会の発展は、大筋で、家族システムの進化と歩調をあわせていました。

ところが、近代になると、にわかに核家族が覇権を担う。家族システムに関していえば、5000年の進歩が一気にチャラになってしまったのです。

その後を襲う変化が、単純な「進歩」であるなどということは、むしろ、「およそ考えられない」というべきではないでしょうか。

上記の補助線をまじめに受け取るなら、西欧近代は、世界がそれまで進んできた軌道の延長線上で世界を進歩させたというよりは、世界が進む方向性に大きな変更を加えた可能性が高い。

そこで、このシリーズを貫く問いは、こうなります。

「西欧近代は、何をどう変えたのか?」

早速、確かめていきましょう。

近代以前の世界

近代は、一般に、「世界の一体化」の時代といわれます。世界史の教科書にはそう書かれています。地球の大部分が交易を通じて結び付けられ、社会・経済のグローバル化が進んだ時代であると。

この「世界の一体化」のストーリーは、基本的に、「トッド前」の補助線に依拠した筋立てになっています。

‥‥今までみてきたように、古代以来世界各地に成立・展開してきた諸地域世界は、決して孤立していたわけではなく、草原やオアシス、海上のルートをつうじてたがいに交流しており、またモンゴル時代のようにユーラシアの東西を結ぶ巨大な帝国がつくられた時代もあった。

改訂版 詳説世界史(世界史B)(山川出版社、2017年)176頁

というように、それ以前の「グローバル化」の進展を否定するわけでは決してない。以前から一定程度「グローバル化」は進んでいたのだが、それが質的・量的に飛躍的に発展したのが近代なのだ、というものです。

でも、それだけであるはずはない。
「トッド後」の補助線はそう訴えています。

「西欧近代は何をどう変えたのか?」

それを問うていくために、第1回の今回は、彼らが中心部に現れる以前の世界は、どんな風に進歩・発展していたのかを、概観します。

(1)イスラーム帝国の下での平和と繁栄

都市国家が成立して帝国に至るまでの歴史はこちら(↓)をご覧いただくとして、今回はいわゆる「世界帝国」に注目します。

①ペルシャ帝国

初めての「世界帝国」は、ペルシャ帝国(ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)(前550-330))でしょう。

順番としては、メソポタミア地域における帝国の完成(一応、新アッシリア帝国(前911-609)とします)の後。

ハカーマニシュ朝初代のキュロス2世のことはよくわかっていないようですが、パールサ地方(下の地図ではペルシス)か、エラム、あるいはより東方から出てオリエントを征服し、のちに帝国はアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる「真の世界帝国」となりました(↓)。

②イスラーム帝国

ハカーマニシュ朝の版図は、アレクサンドロス、ローマ帝国に継承されますが、この地に興った帝国の中で、「世界帝国」のレベルを一段階上げたといえるのは、イスラーム帝国だと思います。

イスラーム帝国は、ムハンマドの時代(622(ヒジュラ)-632)にアラビア半島を統一した後、正統カリフ時代を経て、ウマイヤ朝(661-750)、アッバース朝(750-1258)と展開し、版図を広げていきます。

アッバース朝の都、バクダードの繁栄ぶりについては、後藤明先生にお話をうかがっておきましょう。

平安の都と謳われたバグダードは、9世紀には繁栄の極に達し、その人口は100万人をこえていたとも想像される。まさに、当時の世界最大の巨大都市であった。

バグダードは‥‥軍事拠点としての円城と、その周囲の、民衆が住む街区よりなっていた。‥‥街区のいたるところにスーク(常設店舗市)があり、食料品、衣料品などの生活必需品から、金銀細工や宝石などの貴重品まで何でも売っていた。金さえあれば何でも手に入るのがバグダードなのであった。

バグダードは、古代にはメソポタミア文明を生んだ地であるイラクの平原にあった。ここは、この時代、無数の灌漑・排水のための運河が掘られ、高度な集約農業がおこなわれていた。それがバグダードの繁栄を直接ささえていた基盤であった。

一方で、運河は商品を運ぶ交通路でもあった。運河を行き来する船は、世界中から商品をバグダードに集めた。遠く中国からは絹、東南アジアやインドからは香辛料と木材、中央アジアからは銀、アフリカからは奴隷と象牙、ヨーロッパからは奴隷と木材、などなどがここにもたらされた。

イスラーム世界の外との貿易だけがさかんであったのではない。バグダードを中心とする商品流通のネットワークが、イスラーム世界の各地の都市を結び、さらにイスラーム世界の外部をも包み込んでいたのである。そのようなバグダードをはじめとするイスラーム世界の都市は、きわめて開放的な性格を保持していた。

後藤明「イスラーム国家の成立」『都市の文明イスラーム』(講談社現代新書、1993年)90-91頁
Illustration: Jean Soutif/Science Photo Library出典
One of the gates of the City of Peace. Source: Histoire Islamique(出典

(2)モンゴル帝国によるグローバル化の拡大 

世界のグローバル化という点で、その次に、大きな発展をもたらしたのは、モンゴル帝国です。

13世紀初頭、内陸アジアの片隅に突然現れたモンゴルは、150年ほどの間に、人類史上最大版図の帝国を成立させていきました。

彼らは、帝国を運営し発展させるにあたって、イスラーム国家を担ったムスリムたちを大いに重用したといわれています。彼らは、イスラームの作った土台の上に、世界帝国を発展させていったわけですね。

まずはモンゴル帝国史の杉山正明先生にお話を伺います。

軍事と通商の結合を主軸とするモンゴルとイラン系ムスリムとの「共生」ともいえる関係は、クビライが当時ユーラシア最大の富をもつ中国全土をも版図におさめて、遊牧世界と農耕世界、さらには海洋世界をもつつみこむ史上かつてない新型の世界国家「大元ウルス」、中国風には元朝をうちたててからは、いっそう大きな規模で展開することとなった。

南宋を接収し、海上ルートを手中にしたクビライ政権によって、モンゴル帝国は陸と海の巨大国家に変身した。陸上・海上でユーラシア大陸を循環する「世界通商圏」が成立し、空前の東西大交流が出現した

杉山正明「モンゴルが「世界史」をひらく」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)36-38頁(下の地図も同箇所より)

この点については、イスラーム社会経済史の専門家の家島彦一先生も、次のように書いています。

この[モンゴル時代に張りめぐらされた]陸上交通のネットワークは、中国から南シナ海〜ベンガル湾〜アラビア海にのびるインド洋の海上交通のネットワークとも連動して、ユーラシア大陸のうちと外を結ぶ壮大な海陸の交通が相互有機的に機能するようになった。インド洋の交通ネットワークは、イエメンを経由して、エジプト・紅海軸ネットワークとも結びつけられていた。

こうして13世紀半ばから14世紀半ばまでの100年間は、マルコ・ポーロや、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータの活躍に代表されるように、イスラーム世界を中心とした国際交易が広域的・多角的に機能し、未曾有の繁栄の時代が形成された。

家島彦一「国際通商ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)247-248頁

なるほど。「マルコ・ポーロ」が東方を見聞できたのも、鄭和率いる大艦隊がインド洋に遠征できたのも、その段階で、イスラム・モンゴルの連合体が、すでに世界のグローバル化を成し遂げていたからこそなのですね。

家島彦一「国際交易ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)249頁

そういうわけなので、世界史上の事実としては、インド航路の「発見」は、決して、ヴァスコ・ダ・ガマの功績というわけではありません。家島彦一先生に確認をお願いします。

一般にはヴァスコ・ダ・ガマによって「発見」されたと説かれているインド航路は、イスラーム世界に生活する人々にとっては、すでにそれより800年以上前から知られた交流圏の一部であった。特に13世紀半ば以後のインド洋は、東側は東シナ海・南シナ海から西側はアラビア海・ペルシア湾・紅海とインド洋西海域までをふくんで、一つに機能する「インド洋世界」を形づくっていた。

家島彦一「国際交易ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)251頁

(3)辺境のヨーロッパ

ヨーロッパが、中央部の「グローバル化」から完全に取り残されていたというわけではありません。

15世紀の終わり(1498年)になってようやくヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を「発見」したという事実が示すように、15世紀以前のヨーロッパは、インド洋を中心とするグローバルな通商ネットワークには接続していませんでした。

しかし、ヨーロッパには地中海という小窓がありました。おそらく、ローマ帝国時代の遺産だと思いますが、イタリア海洋都市(ヴェネツィア、ナポリ等)の商人たちが独占的に地中海交易を営んでおり、ヨーロッパは彼らを通じて、東方の文明にアクセスしていたのです。

辺境のヨーロッパから見て、アジアの豊かさがどれほど圧倒的であったか。ヴェネツィアの市場を訪れたあるヨーロッパ人の感想をお読みいただくのがよいでしょう。

まさしく、世界の品物のすべてがここに集まっているといっても過言ではない。ここにいる人間という人間のすべてが、死に物狂いで貿易にいそしんでいる。‥‥行き届いた設備をそなえて立ち並ぶ数多の商店は品物であふれ、まるで倉庫のようだ。そこには、あらゆる製法による膨大な数の布地ーータペストリー、ブロケード、多様な意匠のカーテン、種々のカーペット、色とりどりのキャムレット、あらゆる種類の絹地ーーがあり、また別の倉庫には、香辛料、食品、薬、そして見事な蜜蝋までが大量にあって、見る者を唖然とさせる光景だ。

ジェリー・ブロトン(高山芳樹訳)『はじめてわかるルネサンス』(ちくま学芸文庫、2013年)51-52頁

当時のヨーロッパは、世界の辺境に位置する貧しい地域だった。この事実はとても重要なので、もう一つ、エピソードをご紹介させていただきます。

インド洋航路を「発見」し、カリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマは、現地の王(カリカット王)に謁見したときの話です。

謁見に備えて、ポルトガル王から託された贈り物を調えていたガマのところへ、王の役人やイスラム教徒の商人が様子を見にやってきました。彼らは贈り物を見て笑い出し、次のようにいったそうです。

「これは王への贈り物などではない。この町にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している。もし王に何かを求める気なら、金を贈らないと。」

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)45頁

(4)ヨーロッパはなぜ「大航海」に出たのか

すでにお気づきかもしれませんが、この「貧しさ」、もう少しロマンチックにいうと「東方への憧れ」こそが、ヨーロッパが「大航海」に乗り出した根本的な理由です。

コロンブス(クリストバル・コロン)が黄金の国ジパングを求めて大西洋に乗り出したというのは俗説で、実際には、「マルコ・ポーロ」の東方見聞録に書かれた「大カアンの国」、すなわちクビライの巨大帝国への旅であったことが、『航海誌』の冒頭に明記されているそうです。

地球を西へひたすらゆけば、モンゴル帝国の宗主国に辿りつけるはずだとの考えであった。

杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』303頁

ヴァスコ・ダ・ガマが目指したのは、極東の地「インド」にあるとされた「乳と蜜が流れる」キリスト教帝国でした。ガマはポルトガル王から、帝国の支配者とされたプレステ・ジョアンへの親書を託されてすらいたというのです(福井・38頁)。

なお、ポルトガルがインド洋に進出した背景について、西洋史の文献を探ってみると、この頃のインド洋貿易は「イスラーム商人に独占されていた」と記載するものが少なからず存在します。

それほどはっきり書かれているわけではありませんが、この筋書きの場合、ヨーロッパは「イスラーム商人による貿易の独占を打破するためにインド洋に進出した」という解釈になるのでしょう。

しかし、当時のインド洋貿易がムスリムに独占されていたというのは、おそらく、当時の無知ないし被害妄想に端を発する誤解です。

少し長い引用になりますが、大事なことなので、羽田正先生にしっかりご説明いただきましょう。

インド洋で活躍する商人は、各々血縁や出身地、それに宗教ごとに共同体を作り、その仲間が協力して商業活動に従事していた。8~9世紀以後にアラビア語を話すイスラーム教徒が進出したこの海域は、ときに「イスラームの海」と見なされることがある。しかし、これは当時の現実を単純化しすぎた誤った見方である。確かにこの地域には、ムスリムの商人や船乗りも多かった。しかし、それ以外に、バニアと呼ばれたグジャラート地方のヒンドゥー系、それ以外の地域の別のヒンドゥー宗派系、ジャイナ教系、ユダヤ教系、アルメニア正教系、さらにはインドのキリスト教系などイスラーム教以外の宗教を信じる商人が、それぞれの共同体を作って活発な交易活動を展開していた。

また、ムスリムがすべて仲間となり、一つの集団を作っていたわけでもない。アラビア半島のアデンを拠点とするアラブ系の人々、ペルシャ湾入り口のホルムズに根拠を持つイラン系やアラブ系の人々、北西インドのグジャラート各地を拠点とするスンナ派やシーア派の人々、インド・マラバール海岸のカンナノール郊外とポンナニ近郊に集住するマーッピラと呼ばれる集団に属する人々など、ムスリムの集団がいくつも併存しており、それぞれの集団の間で、貿易の方法や利益をめぐって争いが起こることもあった。

「イスラームの海」という言葉は、ムスリムが一体となってインド洋海域の貿易を自分たちのやり方で完全に支配していたかのように思わせるが、そのような実態はない。異なった宗教を信じる多様なエスニック集団が、共存して競争しながら貿易を行うのが、この海域の商業活動の特徴だった。ガマに率いられたポルトガル人は、自分たちがキリスト教徒であることを隠す必要はまったくなかった。彼らがこの海域の基本的なルールに従って貿易を行うかぎり、他の商人たちは彼らを新しい競争相手として特に問題なく受け入れただろうからである。

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)39-40頁

次回に向けて

以上に見てきたように、近代以前、つまり、西洋人が「大航海」を始め、近代化の道を開くより前に、世界は、共存共栄を旨とする、グローバルな自由貿易圏を実現していました。

共同体家族(とくに内婚制)を中心に営まれていたこの自由な海に、識字化した核家族が乗り込んだとき、彼らはどんな行動を取り、世界をどのように変えていくのでしょうか。

次回に続きます。


おまけ:「大航海」の背景【気候編】

コロンブスはモンゴル帝国を目指し、ガマは架空のインド・キリスト教王国を夢見て大海に乗り出したと書きました。しかし、偽書が出回ったのは12世紀ですし、「マルコ・ポーロ」の見聞録が広まりだしたのは14世紀初頭。なぜ、彼らは、15世紀中葉になって、突然「大航海」を始めたのでしょうか。

田家康『気候文明史』(日経ビジネス人文庫、2019年)235頁

識字率の上昇傾向は大前提として、それ以外にも、彼らのメンタリティに大きな影響を与えたと見られる要素があります。気候です。

上の人口の推移の表をご覧ください。表には500年からのデータが記されていますが、ここでは1000年以降に着目します。

まず、ヨーロッパ全域の人口は、1000-1340年(340年間)の間に倍増しています。しかし、直後の1340-1450年(110年間)には、再び大幅な減少局面を迎えるのです。

1000年からの人口増と1340年からの人口減は、どちらも気候変動から説明できます。

https://cdn.britannica.com/15/149415-050-8DFF938D/Estimates-temperature-variations-Northern-Hemisphere-England-2000-ce.jpg

気候史において、10世紀から14世紀(900-1300年頃)は「中世温暖期」と呼ばれる、ヨーロッパが温暖な気候に恵まれた時代で、ヨーロッパでは農業生産が増大し、人口も大いに増えました(グラフの通り、世界的な現象ではなかったようです)。

一方、移行期を挟んで、14世紀中頃から19世紀後半は「小氷期」と呼ばれる寒冷化の時代です。中でも(移行期を含む)以下の4期は、とくに厳しい寒さとなりました。

  • 1️⃣1280-1340頃
  • 2️⃣1420-1530頃
  • 3️⃣1645-1715頃
  • 4️⃣1790-1830頃

ヨーロッパの人口は、1️⃣の期間の後に大幅に減少します(↓)。

西ヨーロッパの人口と人口増加率(statista)

そして、15世紀半ば、人口が底に達したヨーロッパを(↑)、再度の厳寒期(2️⃣)が襲うのです。

まさにこの時に、大航海時代は始まりました。

私たちは、大航海時代以降のヨーロッパの歴史を、なんとなく、地道に国力を蓄えたヨーロッパが、満を持して、世界で大活躍を始めた歴史、というように捉えがちです(私はそうでした)。

しかし、その出発点において、彼らの気分が、「時は来た。いまこそ世界制覇に乗り出そう」といった威勢のよいものでなかったことは明らかです。

ヨーロッパは、どちらかといえば、食うに困り、どこかにあるはずの「豊かさ」を求めて旅立った。その気分は、この先の彼らの行動に、一定の影響を及ぼしていくことでしょう。

  • われわれが西欧のことを正しく理解していないのは「なんだかんだいっても、世の中は進歩してきた」という前提が誤っているからかもしれない。
  • 家族システムの理論によれば、西欧近代とは、最も遅れた家族システムを持つ集団が識字の力で覇権を取った時代であり、彼らは世界を単純に進歩させたというより世界が進む方向性を大きく捻じ曲げた可能性が高い
  • 西欧近代を正しく理解するためには、家族システムの進化と連動していた近代以前の世界史の流れと比較し「西欧近代は何をどう変えたのか」を見ていく必要がある。
  • 大航海時代に辺境のヨーロッパが初めて足を踏み入れたインド洋には、すでに共存共栄を旨とする開放的なグローバル交易圏が成立していた。
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トッド用語事典

乳児死亡率

エマニュエル・トッドは人口動態のデータを用いて社会の内側を透視します。なかでも彼が特に重く見ている指標が乳児死亡率です。

1 乳児死亡率とは

乳児死亡率(infant mortality rate)とは、生まれた子どもが満1歳になるまでに死亡する確率のことをいいます。

出生1000人に対する死亡数で表すのが一般的です。素人にはわかりにくいので、百分率(パーセンテージ)で置き換えてみると、10%が死亡する場合は100、1%が死亡する場合は10、0.1%が死亡する場合は1となります。ちなみに2022年の日本の乳児死亡率は1.8ですので、出生した子が1歳未満で死亡する割合は0.18%となります。

類似の指標に、早期新生児死亡率(1週未満)、新生児死亡率(4週未満)、乳幼児死亡率(5歳未満)がありますが、トッドが主に用いるのは乳児死亡率(1歳未満)です。

2 乳児死亡率の推移(日本)

まず、日本の乳児死亡率の推移を例に、乳児死亡率の一般的(に理解されている)意味を確認しておきましょう。

https://www.mhlw.go.jp/www1/toukei/10nengai_8/index.html

統計開始(1899年)以後の日本の乳児死亡率は、1920年に最高値をつけた後(太平洋戦争期を除いて)一貫して低下を続けます(↑↓)。

https://www.niph.go.jp/journal/data/45-3/199645030011.pdf

このうち、100超から一桁台に下がる時期(1920ー1985)の死亡率減少には、以下の死因による死亡の減少が大きく寄与していることがわかっています(西田茂樹「わが国の乳児死亡率低下に医療技術が果たした役割について」)。

  • 感染症(肺炎・気管支炎・インフルエンザ、下痢・胃腸炎・赤痢・コレラ、髄膜炎・脳炎など)
  • 先天性弱質及び乳児固有の疾患
  • 脚気及び栄養欠乏症
  • 消化器系疾患(感染症以外)

ここから推察するに、初期の乳児死亡率低下(100超→一桁へ)は、近代化の順調な進展(栄養・衛生状態の向上、基本的な医療の普及)を表す指標と見ることができそうです。

他方、一桁台まで低下した先進国の間でも、その先の下がり方にはかなりの違いが見られます。

厚生労働省のデータより作成 各年次の確定数(表1(5年間の平均)とは基準が異なるので注意して下さい)

2.0未満を達成している国は日本を含めて8カ国(2020)。素人の推測ですが、「2.0未満」という数値は、高度医療が広く(比較的平等に)普及していることの指標かな、という気がします。

https://worldpopulationreview.com/country-rankings/infant-mortality-rate-by-country

以下、いくつかの国の最新の数字(UNICEF 2021)を挙げておきますので、ご覧になってみて下さい(低→高)。

3 トッドによる乳児死亡率

(1)ソ連邦崩壊を予測

トッドが乳児死亡率を用いることでソ連崩壊を「予言」したことはよく知られています(『最後の転落』(1976))。

トッドが成し遂げた「偉業」は、具体的にはどういうものだったのか。同時代にさかのぼって確認しておきましょう。

時代は1970年代後半。この頃、西側世界には、ソ連邦内の異変を知らせるニュースが、数多く入ってきていました。

ソ連邦内では何かが起こっている。モスクワから届く情報、風評、噂話の量は、1975年末以来、有意的な比率で増加している。小麦の輸入、政治犯裁判、経済的抑圧、暴動、ストライキ、テロ事件、軍艦内での反乱、西側に対するイデオロギー的批判、いまだ存続している第三インターナショナル内での不和といった具合だ。

『最後の転落』(1976)(藤原書店、2012)34頁

何かが起きている。しかし、何が起きているかはわからない、という状況です。

当時、こうした不具合を感知していても、ソ連社会が危機的な状況にあると考える識者は、ほとんどいなかったようです。ソ連が強大な軍事力を誇る安定した国家であることに疑いの余地はない。おそらく、軍事部門に力を入れすぎて、経済成長が犠牲になっているのだろう‥‥と、そのくらいが、一般的な認識でした。

1978年において、ソ連の現実を観察する者の中で、鉄のカーテンの向こう側で「何かがうまく行っていない」という考えに疑問を抱く者は、ほとんどいない。‥‥現在、ソ連に関する決まり文句は、経済の相対的行き詰まり、生活水準の停滞、時々起こる住民への食糧供給の困難を強調している。しかしソ連専門家と経済学者は、それは成長の停止ではなく、どちらかと言えば、成長の速度の鈍化であると見ている。‥‥

全体としてソ連は、安定した政治システムであって、それが外交的・軍事的強大さのためにあらゆる精力を犠牲にしているのだ、と考えられている。‥‥

トッド「ソ連、その現在の危機ーー死亡率に関する諸現象の分析による記述」(1978)『最後の転落』所収

こうした「一般的な認識」に、真っ向から異議を唱えたのが、若干25歳のトッドだったのです。

ソ連システムの内部的緊張は、決裂点に近づきつつある。今後10年、20年、もしくは30年以内に、世界は最初にして最重要の共産主義システムの衰退もしくは崩壊に際会して、仰天することだろう。‥‥

ソ連邦の歴史は、決定的な局面に入りつつある。

『最後の転落』34頁

トッドの予言は、もちろん、「えーっ?」「そんなこと、あるわけないじゃん」「こんな若造に何がわかる」と、当時のインテリ連中から不評を買ったわけですが、しかし、15年後、ほぼ彼が予測した通りの過程を踏んで、見事に現実となったのです。

このとき、トッドが行ったのは、閉鎖的で、その内部で何が起こっているのかを容易に探知できないある社会について、その健全性を外部から診断する作業であったといえるでしょう。

同じことを試みた同時代人の多くが、ある者は共産主義に期待する立場からソ連を理想化し、ある者は自由主義の立場からソ連に嫌悪と怖れを抱き、どちらもソ連を過大に見積もる傾向があったのに対し、トッドはそうした「主義」から離れ、経済指標からも離れて、人口動態を観察しました。

その結果、崩壊の15年前、西側世界では誰もそれを感知しなかったときに、「その経済的・社会的・政治的内部機構は、‥‥すでに解体を始めている」(「ソ連、その現在の危機」)という診断結果を得ることができたのです。

(2)なぜ乳児死亡率なのか

この結果の析出過程について、トッドは次のように述べています。

『最後の転落』は、システムの崩壊を把握するべく努めるにあたって、様々な指標‥‥を用いているが、‥‥次のことは白状しておくのが正直な態度だと思える。すなわち、不可逆的な危機の存在を私が自分自身で確信するに至ったのは、主に人口統計学的分析のお陰であり、実は乳児死亡率というただ一つの変数の驚くべき変遷のお陰と言うことさえできる、ということである。

フランス語新版への序(1990)『最後の転落』27頁(太字・強調は辰井)

ロシアの乳児死亡率は、1971年から1974年までの間に上昇し、その後この単純な指数は公式統計から姿を消す。これは東方において「何かが起こっている」明白な証拠だと、私には思われた。歴史はそこで停止したわけではない。しかし‥‥退行的な形を取り始めたように見えたのである。

人口統計学の変数は、本質的に操作が難しい。それの一貫性と強固さの根源は、生まれた者はやがて死ぬはずであり、長い期間についてみれば、死亡の数は必ず誕生の数に等しいという、人間についての根本的な方程式なのである。正しく解釈されるなら、出生と死亡の指数は、己の姿を隠している社会の真の姿を映し出して見せる強力な現像液となる。価格や量や質という不確かな概念に依拠しなければならない定量分析を基本とする計量経済学とは逆に、人口統計学は、単純で遠慮会釈のない学問分野であって、イデオロギーに対して無頓着である[「左右されない」の意かー辰井注]。

フランス語新版への序(1990)『最後の転落』27-28頁

しかし、なぜ、乳児死亡率なのでしょうか?
トッドは次のように説明しています。

乳児死亡率とは、1歳未満の子供の死亡の頻度を示す指数である。この指数は、全般的社会情勢に極めて敏感に反応する。新生児とは特有の脆弱さを持つ存在であるから、全国規模での経済的、社会的もしくは政治的な混乱は、どんなものであれ必ず、新生児の死亡率に影響を及ぼすのである。食糧供給の困難、暖房や輸送の諸問題、医療分野の無秩序といったものは、どんな社会においても、乳児死亡率に即時・直接の効果をもたらす。

「ソ連、その現在の危機ー死亡率に関する諸現象の分析による記述」(1978)『最後の転落』404頁

(3)ソ連邦における乳児死亡率の変遷

このとき、トッドが実際に見た数値を確認しておきましょう。

トッドは西ヨーロッパ(主にフランス)を比較対象としていますので、ここでもフランスの例と比較します。

まず、フランスの乳児死亡率の推移1830-2020)をご覧ください。

フランスの乳児死亡率(1830-2020)

次はロシア(1870-2020)です。この図が依拠しているデータは肝心の部分でトッドが用いたデータと異なっているのですが、とりあえず、全体の傾向だけを見ていただければ結構です。

乳児死亡率が大きく低下した時期はフランスの方が圧倒的に早いですし、メモリの大きさも違います。

しかし、大まかな傾向としては、共通点が見て取れます。1️⃣不安定で急激な低下の時期を経て、2️⃣当初は急速でその後は漸進的な安定した低下の時期に入る(フランスの場合は第二次世界大戦、ロシアの場合はスターリン時代の終了後)、と。

ところが、1970年代になると、西ヨーロッパとロシアは異なる軌道を描き始めます。

1950年以降、この[乳児死亡の]率は西ヨーロッパの各国において、極めて急速に、全く規則的に低下している。例として、1970年から1976年までのフランスの乳児死亡率の変遷を挙げておこう。

このカーブは、1974年以後、西側世界で猖獗を極めている経済危機の打撃を蒙っていない。鉄のカーテンのこちら側では、経済の混乱はいかなる社会的秩序の崩壊も引き起こさない。失業率の上昇にも拘らず、保険と医療の進歩は続いているのである。

「ソ連、その現在の危機」『最後の転落』404-5頁
「ソ連、その現在の危機」『最後の転落』405頁

ソ連の乳児死亡率の変遷は、これとは非常に異なる。内戦の終結から1970年に至るまで、医療・保険条件の改善は、政体の主要な成功の一つであった。スターリンの錯乱の真っただ中においてさえも、それは変わることがなかった。60年代末には、ソ連邦は、乳児死亡率の低下において西ヨーロッパに追いつこうとしているかに見えた。ところがまさしく1971年から、変遷は逆転する。ソ連の死亡率は、再び上昇し始めるのである。‥‥

1974年以降、ソ連の公式統計部局は、乳児死亡率を公表しなくなった。とはいえ、1975・76年については、0-4歳のグループの死亡率は手に入る。1972・73年に較べて、1975・76年にこの年齢グループの死亡率は、20%上昇していた。

1974年の乳児死亡率は27.7で、ソ連は1964年の水準に逆戻りしてしまった。乳児死亡率のこうした上昇は、ロシア、白ロシア[ベラルーシ]、ウクライナの諸共和国に特有の減少であり、中央アジア諸共和国には見られない。

「ソ連、その現在の危機」『最後の転落』404-406頁

乳児死亡率の22.6(1971年)から27.7(1974)(2.3%から2.8%)への変化というのは、私のような素人には、大した変化ではないように思えます。

しかし、規則的な低下局面にあるはずのソ連で、その数値が上昇に転じたという事実をもって、トッドはソ連邦で、体制崩壊に直結する本質的な混乱が起きていることを察知したわけです。

前項の引用の中で、トッドは「新生児とは特有の脆弱さを持つ存在であるから、全国規模での経済的、社会的もしくは政治的な混乱は、どんなものであれ必ず、新生児の死亡率に影響を及ぼす」と述べていました。

他方で、1970年代のフランスのデータからは、猖獗をきわめた経済危機」であっても、乳児死亡率には影響を与えていないことが確認されています。

トッドは後のインタビューでこうも言っています。

乳児死亡率(1歳未満での死亡率)の再上昇は社会システムの一般的な劣化の証拠なのです。

トッド『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』81頁

なるほど‥‥要するに、こういうことでしょうか。外形上大きな混乱に見えても、社会の基礎(システム)に影響しない一時的な乱調が乳児死亡率に影響を与えることはない。しかし、それが社会の根幹を脅かす性質のものである場合には、必ず、乳児死亡率に反映される。

というわけで、勝手にまとめます。

【おまけ】アメリカの乳児死亡率

昨年(2023年)、ある国の乳児死亡率の上昇が確認され、話題になったのをご存じでしょうか(私はこれを書き始めるまで忘れていました)。そうです。アメリカです。

アメリカはもともと先進国としてはかなり乳児死亡率の高い国です。「なぜ?」と考えて、下のグラフを見ると、黒人や先住民(インディアンなど)の死亡率が著しく高いことがわかります。

https://usafacts.org/articles/what-is-the-us-infant-mortality-rate/

白人とアジア人だけで計算するイギリス程度に落ち着きますので、全体的な高率の背景に人種問題があることは明らかですが、それでも、全体としては着実な低下傾向にありました(↓)。

異変が検知されたのは2022年の数値です。

CDCのデータを元に作成

CDC報告書の執筆者によると、0.2という上昇は統計的に有意な上昇であるそうですが、これが一時的なものなのか、永続的な傾向の始まりなのかはまだ確定できないとされています

新型コロナウィルスとの関係についていうと、2022年はアメリカ全体の死亡率は低下しており、高齢者や妊産婦に関しては、コロナ・パンデミックの影響が弱まったと考えられています。

その中での乳児死亡率の上昇は、やはり気になる動きといえるでしょう。

「他の数字はどうかな?」ということで探ってみると、まず殺人率は低下していました(2023年の低下が大きいですがこの数字は推計です)。

殺人率は自殺率とバーターであることが多いので、自殺率の方も見てみると、自殺率は長期で増加傾向にあり、2022年も有意に上昇していました。

これらの数字はいったい何を示しているのか。乳児死亡率は今後も上昇を続けるのか。引き続き、情勢を見守りましょう。

4 参考文献

  • エマニュエル・トッド(石崎晴己監訳)『最後の転落』(藤原書店、2013年)とくに
    ・「フランス語版新版への序(1990)」27-28頁
    ・「ソ連、その現在の危機ー死亡率に関する諸現象の分析による記述」402-406頁
  • エマニュエル・トッド(堀茂樹訳)『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書、2015年)とくに
    ・「2 ロシアを見くびってはいけない」80-92頁
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トッド入門講座

アメリカ I
-差別と教育とデモクラシー(下)-

 

アメリカ社会に何が起きたのか?

前回からの続きです。

アメリカ社会における「人種主義のその後」について、
ここまで確認できたことをまとめます。

  • 白人非エリート層の人種感情は消えなかった。
  • 白人非エリート層の反黒人感情には、エリートとの敵対関係を転嫁した面があった。
  • 政治家は白人非エリート層の反黒人感情を煽り、利用し、新自由主義的政策を実現した。
  • 政治家は黒人を刑務所に大量収監して「新たな奴隷制」ともいえる状況を作った。

以上の事実は、アメリカ社会の心性に何が起きたことを表しているのでしょうか?

今回はその分析を行います。

*以下の分析は、『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』に書かれている内容を最大限分かりやすく咀嚼した(つもりの)ものです。私の独自解釈ではありません。

①三段論法 ver.1 は高等教育組の間で作用した可能性がある。

「平等」崩壊の三段論法 ver.1

① 白人は「劣った者=黒人」ではないゆえに平等である。
② 黒人は「劣った者」ではない(黒人と白人は平等である)。
③ ∴ 白人は平等ではない。

上記の三段論法の中の「②黒人と白人は平等である」というメンタリティを実際に獲得した可能性があるのは、高等教育組だけです。

したがって、高等教育組においては、三段論法ver.1が機能し、また「デモクラシー衰退の公式」(↓)が働いた可能性があるといえます。

デモクラシー衰退の公式

平等の不在+(教育の不平等+黒人の包摂による白人の平等の崩壊)
=極端な不平等

*平等指数

デモクラシー成立の公式と比較して「平等指数」を算出すると、ここで起きたメンタリティの変化が分かりやすくなるかもしれません。やってみます。

成立平等の不在(0)教育の平等
(1)
黒人排除による白人の平等
(1)
衰退平等の不在(0)教育の階層化(-1)黒人包摂による白人の平等の崩壊(0)-1

絶対核家族ないし原初的核家族の「平等の不在」は単に「平等に無関心」な状態なので0点です。

0点から出発したアメリカは、教育の平等(1点)、黒人排除による白人の平等(1点)を加えて平等指数2点を達成し、全員参加型デモクラシーを成立させました。

高等教育の進展は階層化という不平等の下意識をもたらすため-1点、他方「黒人包摂による白人の平等の崩壊」は「平等」から「無関心」への回帰を意味するので0点で算出します。 

高等教育の進展と黒人包摂による白人の平等の崩壊がダブルパンチとなって、高等教育組の「平等」メンタリティは一挙に3点のマイナスとなり+2点から-1点に落ち込んだわけです。

新自由主義政策を推し進め、極端な「格差と分断」を実現させたのは高等教育組のエリートですから、彼らのメンタリティーが「デモクラシー衰退の公式」に支配されていたと考えるのはそれなりに合理的といえるでしょう。

エリート層は、①教育の平等に基づくメンタリティ、②黒人排除による白人の平等メンタリティの2つを失い、高等教育の進展に基づく階層化意識に支配されるようになった。

②エリートにおける三段論法ver.2の浸透は白人非エリート層にとって脅威となった可能性がある。

一方、白人非エリート層には「黒人と白人は平等である」というメンタリティーは浸透しませんでした。

しかし、黒人だけでなくエリートの白人が積極的に人種差別撤廃に乗り出したことは、白人非エリート層の間につぎのような不安や恐怖をかき立てたかもしれません。

白人非エリート層の不安

①自分たちは「黒人=劣った者」ではない者として平等であり、然るべき社会的・経済的地位を得るはずだった。
②エリートは「黒人は劣った者ではない」(黒人と白人は平等だ)という社会を作ろうとしている。
③自分たちが得るはずだった社会的・経済的地位は黒人に奪われ、自分たちは底辺に追われるかもしれない。

白人非エリート層は、エリート層と黒人が主導する人種差別撤廃運動によって、「平等な白人」としての地位を失うことへの不安、社会的・経済的地位を奪われる恐怖を抱いた

③白人非エリート層の人種感情を利用した新自由主義政策の推進は、白人エリート層の中で「白人の平等」が崩壊したことの表れである。

政治家(基本的にエリート層です)の当該行為は、倫理的にみると、白人非エリート層に対する裏切りであり、同時に黒人に対する裏切りでもあります。ここではまず前者を論じます。

このとき(というか、現在に至るまで)、白人エリート層は、非エリート層の反黒人感情を利用して、本来なら敵対するはずの彼らを味方につけ、非エリートの利益に反する政策を追い求めました。

白人エリート層にこうした行為をなさしめた、そのメンタリティの基礎にあったのは、①で示したメンタリティ、とりわけ高等教育の進展による階層化意識(②)と黒人の包摂による「白人の平等」の崩壊(③)であったと考えられます。

エリートたちはもう、労働者階級の白人に対して、同じ仲間、「われら人民」という感覚を持てなくなってしまったのです。

では、黒人に対する「裏切り」を許したものは何だったのか。次項でまず、もっとも極端な「裏切り」事例、「黒人の大量収監」とは何だったのかを考えた後、白人エリートの内面を探ります。

④「新たな奴隷制」は白人層の不安に対するセラピーであった可能性がある。

政権による「大量収監」を理解する鍵となるのは、②で検討した白人非エリート層の不安です。

1980年から2015年の間、アメリカは、不平等と雇用の不安定化が急速かつ着実に進行するのを経験した。人々は病や老いに対処できないのではないかという潜在的な不安を経験し、その不安は社会的地位が低ければ低いほど大きかった。監獄の拡大は、こうした不安を、収監の不安という別の不安によって治癒しようとするものだった。新自由主義の前進は、自然でもなければ、容易な経験でもなかったのだ。‥‥しかし、なぜ黒人がターゲットとなったのだろうか?‥‥ われわれは、人種をターゲットとした抑圧が、白人の平等主義に邪悪な変容をもたらしたことを心に刻む必要がある。白人の平等は、教育へのアクセスと所得配分からは消え失せたが、今なおネガティブな形でそこにある。いま白人が共有するもの、それは、そう頻繁には収監されないという特権なのだ。

下・96頁、英語版240頁

白人非エリート層は不安を感じていた。彼らは、自分たちは「劣った者=黒人」ではないがゆえに平等であり、価値があり、希望があるという、慣れ親しんだ考え方に戻りたがっていた。

彼らの不安を治癒するために、もっとも有効な方法の一つは、「黒人の地位を体系的におとしめる」ことであったでしょう。

そこで取られた策が、黒人の中の教育水準の低い層をターゲットとした大量収監であったと、トッドはそのように述べているのです。

トッドは、共和党や民主党の政治家が正気の頭でこのような解決策を見出したと考えているわけではありません。

彼は、大量収監の文脈として、この時期のアメリカ社会がある種の移行期にあって、社会全体が不安と混乱に陥っていた点を強調しています。

ここまで「エリート/非エリート」(高等教育組/初等・中等教育組)という二分法を採用してきましたが、1980年代以降、この区分に変化が生じたことを確認する必要があるでしょう。

1970年代には、将来に不安を抱いたのは労働者だけであったかもしれません。しかし、1980年代から顕著になった市場原理主義の「超格差社会」では、大卒組を含め、ごく一部の超エリート以外のほぼすべての人にこの不安が拡大したと考えられます。

トッドの解釈では、アメリカ社会における「新たな奴隷制」の登場は、こうした社会全体の心的混乱の表現なのです。

下のグラフをご覧いただくと(トッドが引用するこの論文からの転載です)、ちょうどこの頃から、アメリカの白人の死亡率が顕著に上昇していることがわかります。

*トッドは「このような死亡率上昇は、世界中の他の先進社会にも類例がない」(下・103頁)としていますが、その通りのようです。

All-cause mortality, ages 45–54 for US White non-Hispanics (USW), US Hispanics (USH), and six comparison countries: France (FRA), Germany (GER), the United Kingdom (UK), Canada (CAN), Australia (AUS), and Sweden (SWE).

さらに次のグラフをご覧いただくと、主な死亡原因が「明らかに社会心理的なもの」であることが分かります(上昇している3項目は上から薬物中毒、自殺、慢性肝臓疾患)。 

Mortality by cause, white non-Hispanics ages 45–54.

ドナルド・トランプが共和党の大統領候補に選出され、2016年には大統領に当選するという事態を説明すると思われるのは、まさしくこの成人死亡率の上昇である。これは、1970-1974年のロシアにおける乳児死亡率の上昇が私に旧ソ連の崩壊を予見させたのと同じ性質の事象といえる。

下・103-104頁、英語版 243頁

なるほど‥‥。しかし、まだ疑問は残ります。

社会全体が不安に包まれたとはいえ、エリートたちは、「黒人は劣っている」という観念を逃れつつあったはずです。

彼らはいったい、刑務所送りになり、二度と社会に復帰できないかもしれない黒人たちのことをどう考えていたのでしょうか。

⑤高等教育組のエリートの間に、別種の「三段論法」が働いた可能性がある。

おそらく次のように考えてみることが許されるだろう。高等教育の進展によって平等の感覚が揺さぶられた白人の世界で、「黒人の劣等性」がその機能を失ったのではないかと。

下・78頁 英語版228頁

ひえ〜、怖い!
怖いけど説明します。

アメリカ社会において、「黒人の劣等性」の観念は「白人の平等」を基礎付ける機能を担っていました。

しかし、高等教育組のエリートはもう「白人の平等」を信じていませんでしたし、非エリート層とは違って「白人の平等」にしがみつく必要もなかった。彼らにとって「白人の平等」は用済みの、守る価値のない観念となったのです。

「黒人の劣等性」は「白人の平等」を基礎付けるための観念なので、後者が不要になったことで、前者も不要になりました。

「黒人の劣等性」が放逐されたなら「平等」に近づくか。

原初的(ないし絶対)核家族の場合、そのようには行きません。彼らにおける「平等の不在」とは平等への無関心を意味するからです。

「関心がない」。つまり、「どっちだっていい」。

そういうわけで、「白人の平等」の根拠としての機能を失った「黒人の劣等性」は、無関心の海を漂います。もはや、黒人が劣等であろうがなかろうが、平等であろうがなかろうが、どっちだっていいのです。

高等教育組に作用したと見られる「別種の三段論法」。あえて言葉にするなら、このようになるでしょう。

「平等」崩壊の三段論法 ver.2

① 白人が平等である限り、黒人も平等でなければならない。

② 白人は平等ではない。

③ ∴ 黒人が平等でなくても問題ではない。

なお、この三段論法 ver.2は、一見、①の三段論法 ver.1およびデモクラシー衰退の公式と矛盾しそうですが、そうではありません。

三段論法 ver.1を次のように読み替えていただくと、両者が両立することが分かります。

 ver.1 ②「黒人と白人は平等である」
         ↓
     「黒人と白人は平等に平等でない」

そして、デモクラシー衰退の法則における「黒人の包摂」とは、「平等な市民」としての包摂ではなく、「平等に平等でない市民」としての包摂を意味しているのです。      

超格差社会へのシークエンス

前回から取り組んでいるこちらの謎。

「教育の平等の崩壊→格差の拡大というメカニズムを先進国が共有する中で、アメリカにおける「格差と分断」が飛び抜けて急速かつ極端なものとなったのはなぜか?」

いよいよ解明できるときがやってきました。

順を追っていきましょう。 

  1. 平等不在のアメリカ社会におけるデモクラシー成立の基礎は、
    ①教育の平等②白人の平等を基礎付ける人種主義 にあった。 
  2. 高等教育の進展で①が崩壊した。
  3. 2の結果、白人の平等を信じなくなった高等教育組の間で人種主義が消失に向かった結果、エリートの心性は ①教育による階層化、②平等への無関心 の2つに支配された。
  4. 「黒人の劣等性」が不要になったエリートが人種差別撤廃政策を推進する一方、「白人の平等を基礎付ける人種主義」の消失は非エリート不安にした。
  5. 教育による階層化を内面化し、かつ、平等に無関心になったエリートは、非エリートの人種感情を煽って階級闘争を回避しつつ、社会保障を切り詰め「上」の所得の無限定な上昇を可能にする新自由主義的政策を追求した。
  6. 過度の自由競争と格差の増大で社会全体が不安定化した。
  7. 社会不安の緩和のため、大量収監によって、下層の黒人の地位が体系的に下げられた
  8. 上下に向けて際限のない格差の拡大が可能になった。 

デモクラシー成立の公式」に対応させて公式を作るなら、次のようになるでしょう。

デモクラシー粉砕の公式

平等の不在+(教育の不平等+人種感情の利用)
=「急速で極端な」格差・分断によるデモクラシーの粉砕

*「白人の平等」が崩壊した結果、平等への無関心が蔓延した点は、もともとの「平等の不在」に回収されたものとして表現しています。ちなみに「粉砕」の平等指数は、(0)+(-1)+(-1)=(-2)かな、と思います。

アメリカにおける「飛び抜けて急速かつ極端な」格差と分断は、
(1)エリート層を中心に
①教育に基づく階層化、②平等への無関心 の心性が蔓延したこと
(2)人種感情が

①敵意をかわす楯、②不安を癒すセラピー として機能したこと
で可能になった

なぜ人種感情なのか?
ー原始の民のデモクラシー

アメリカのデモクラシーは、成立に際して、人種感情を「白人の平等」構築のために役立てました。

その同じ人種感情が、衰退のときには、際限のない格差増大への怒りをかわし、不安に対処するために用いられた。

どうも、アメリカ社会は、人種感情を調整弁のように利用することで、そのときどきの(教育の次元が命じる)モードに応じて最大限「急速かつ極端」に進行する仕組みになっているようです。

しかし、なぜ人種感情なのでしょうか?

トッドは、アメリカが、原始のホモ・サピエンスにもっとも近いシステム(原初的核家族に近い絶対核家族)を持つ社会であることに、その理由を求めています。

James G. Fergusonの指摘によれば、人間の集団は、「われわれ/彼ら」という集団相互の対置においてのみ存在しうる。

下・27頁、英語版 199頁

*日本語版には「アダム・ファーガソン」とありますが、トッドがここで哲学者を引き合いに出すとは思えないので、James G. Ferguson(人類学者)とする英語版に従います。

‥‥歴史的に特定できる最古の人間集団(ゲルマン人、ローマ人その他多くの民族)の行動からは、彼らが種族としての強固なアイデンティティと、征服した民族に属する個人や集団を統合、消化、同化する能力を併せ持っていることが感じ取れる。‥‥アメリカにおける、オープンさと人種主義の併存、ヨーロッパ系を同化する一方先住民や黒人は拒絶するというその在り方は、おそらく、貪欲な同化吸収者であると同時に差別主義者でもあった原初のホモ・サピエンスモデルが現代の大陸に完全復活したにすぎないのだ。

下・27-28頁、英語版 199頁

原初のホモ・サピエンスは征服した民族を同化吸収する一方、異民族を差別・排斥することで集団としての統合性を保った。アメリカ社会の開放性と人種主義はその再現である

アメリカ II に向けて

正直、解明できてこれほど嬉しくない謎も珍しいです。

しかし、「平等不在」のアメリカにおける全員参加型デモクラシーの成立と衰退というテーマについては、私は概ね納得しました。

皆さんはいかがでしょうか。ご感想などありましたらお気軽にお寄せ下さい(反応するかどうかは分かりません)。

ーーー

アメリカに関する探究はまだ続きます。

予告編のとおり、家族システムの観点から見たとき、アメリカという国には、2つの謎があります。

1つは「平等不在」のアメリカがなぜ全員参加型のデモクラシーを成立させたのか、という謎で、こちらは「粉砕」までの過程を含めて、トッドが見事に解明してくれました。

残るのは、「権威不在」のアメリカになぜ国家の形成が可能であったのか、という謎です。

「平等」を中核としたトッドの分析は、社会・経済的事象の説明が中心でしたが、「権威」の分析では、アメリカ社会の政治や外交に焦点が当たることになるでしょう。


「アメリカ II」(satokotatsui.com)でお目にかかれますように。

今日のまとめ

  • アメリカにおける「急速かつ極端な」格差と分断は以下の2つの要素により可能になった。
  • エリート層を中心に、①教育に基づく階層化、②平等への無関心 のメンタリティが蔓延したこと(1)
  • 人種感情が、①敵意をかわす楯、②不安を癒すセラピー として機能したこと(2)。
  • 原初のホモ・サピエンスは征服した民族を同化吸収する一方、異民族を差別・排斥することで集団としての統合性を保った。アメリカ社会の開放性と人種主義はその再現である。
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トッド入門講座

アメリカ I
-差別と教育とデモクラシー(中)-

 

前回のおさらい

アメリカにおけるデモクラシーの成立と衰退の「なぜ」を問うている「アメリカ I 」。

トッドとともにわれわれが探究していたのは次の2つの問いでした。
 問① 平等不在のアメリカになぜデモクラシーが成立したのか
 問② そのデモクラシーはなぜ衰退したのか

今回のテーマは

「すべての人は生まれながらにして平等であり‥‥生命、自由、および幸福の追及を含む不可侵の権利を与えられている」と信じていたアメリカは、なぜ、格差と分断のアメリカになってしまったのか、という問いです。

前回の内容をおさらいしましょう。

トッドは、問①に対し、「アメリカのデモクラシー」成立の基礎は、次の2つである、という答えを出しました。
 ①教育水準の平等
 ②人種主義による白人の平等

問②に向けては、次の事実が確認されました。
「高等教育の進展(+頭打ち)による ①教育水準の平等 の崩壊がアメリカの平等の基盤を掘り崩した。」

これから取り組むのは、次の謎です。

「教育の平等の崩壊→格差の拡大というメカニズムを先進国が共有する中で、アメリカにおける「格差と分断」が飛び抜けて急速かつ極端なものとなったのはなぜか?」

アメリカに平等をもたらした魔法が①と②であった以上、アメリカにおける「格差と分断」にも、「②人種主義による白人の平等」が関係していることが予想されます。

そこで、アメリカにおける人種主義のその後を確認するところから始めましょう。

ここからのテーマは、「アメリカの「格差と分断」が飛び抜けて急速かつ極端なのはなぜか?」

黒人解放運動 1955-

高等教育が平等の基盤にヒビを入れ始めていた頃、黒人解放運動も本格化しようとしていました。

1955年12月、南部アラバマ州モンゴメリーで、黒人女性ローザ・パークスは、勤務先のデパートから帰る途中のバスの中で、後から乗り込んできた白人に席を譲れという運転手の命令を拒絶し、警察に逮捕されます。バス・ボイコット運動の発端となった事件です。

トッドは、黒人解放運動が黒人コミュニティの自発的な動きであり、同時に、アメリカ社会の内発的な動きでもあったことを指摘しています。

彼らの教育水準が、隔離政策への服従をばかげたこととみなしたのだ。

下・75-76頁、英語版 226頁
1955年のローザ・パークス
後ろにマーティン・ルーサー・キング

アメリカで、人種隔離は、黒人の教育を否定するものではありませんでした。1900年の時点で黒人の識字率は55%に達し(白人は95%。ただしこの時期の55%はイタリア、スペイン等の諸国より高い)、1930年頃に生まれたアメリカ人(1955年時点で25歳)の平均通学期間は、白人11年半に対し黒人9年に達していました。

初等・中等教育の拡大が黒人・白人双方の心に平等意識を醸成し、差別撤廃運動に駆り立てた。黒人解放運動の重要な一側面です。

他方、この時期の「運動」活性化には、冷戦という外的な要因も寄与しています。

当時、共産主義陣営は、人種差別をアメリカ文化の劣等性の証拠として喧伝するようになっていました。アメリカとしてはどうにかこれを克服する(少なくともその姿勢を見せる)必要があったのです。

様々な民族の人が仲良くモスクワの街を歩く様子を描いた1957年のポスター
https://www.theguardian.com/artanddesign/shortcuts/2016/jan/24/racial-harmony-in-a-marxist-utopia-how-the-soviet-union-capitalised-on-us-discrimination-in-pictures

一方では初等・中等教育拡大による平等意識の自然な表れとして、他方では冷戦の勝利に向けた戦略的アピールとして、ともかく、黒人と白人のアメリカ人は、人種差別撤廃に向けてともに進み始めたのです。

ちょうど高等教育の拡大が平等の下意識に亀裂を入れ始めた頃、黒人解放運動が始まった

黒人解放運動には、①初等・中等教育拡大による平等の下意識を基礎とした内発的な社会改良運動、②冷戦に勝利するための戦略的アピール の2つの性格があった

「黒人解放」が「白人の平等」を崩したのか?

この時点で、アメリカにおけるあまりにも激しい不平等を説明する仮説として考えられるのは、「黒人の解放が「白人の平等」を破壊し、高等教育による不平等に拍車をかけた」というものでしょう。

アメリカのデモクラシーの「成立」に関するトッドの理論を公式化してみると、こんな感じになりそうです。

デモクラシー成立の公式

平等の不在+(教育の平等+黒人排除による白人の平等)
=全員参加型デモクラシー

この括弧内の条件を、高等教育の進展による不平等+黒人の包摂に変えると、つぎのような式が導かれます。

デモクラシー衰退の公式

平等の不在+(教育の不平等+黒人包摂による白人の平等の破壊)
=極端な不平等

トッドは「黒人の包摂」が「白人の平等の破壊」に至る機序を、つぎの「三段論法」の形で説明しています。

 *「恐るべき(terrible)三段論法」(下・77頁、英語版227頁)

「平等」崩壊の三段論法 ver.1

① 白人は「劣った者=黒人」ではないゆえに平等である。

② 黒人は「劣った者」ではない(黒人と白人は平等である)。

③ ∴ 白人は平等ではない。

ええ、確かに、このような三段論法によって平等が崩れるということはありそうですね。でも疑問もあります。

黒人解放運動によって、実際のところ、黒人と白人の平等は実現したのでしょうか?

アメリカの人々の意識下において、「黒人は劣った者である」ないし「黒人は白人とは異なる者である」という観念は、どの程度消失して、どの程度残っているのでしょうか?

このシークエンスの実現加減はその点にかかっています。
事実を確認しましょう。

「黒人解放→白人の平等の崩壊→極端な不平等」はありそうな展開だが、人種間の平等はどの程度実現したのか?

「黒人解放」の現実

(1)人種間結婚

婚姻は人種問題の中核である。人種間結婚の率が高ければ、人種は希薄になり、やがては消滅するのだから。

下・79頁、英語版 228頁

アメリカにおける人種間結婚については、世論調査が継続的に行われています。その数字は、アメリカ社会が一貫して人種間結婚に寛容になっていることを示しています。2021年など94%が賛成です。なんて素晴らしい。 

https://www.axios.com/2022/09/07/approval-of-interracial-marriage-america

しかし、意識・イデオロギーの次元の現実に対する影響力が大きくないことを知っている私たちとしては、この数字を真に受けるわけにはいかない。現実の婚姻の方をしっかり確認しましょう。

人種間結婚の割合(2010年

アジア系・ヒスパニック25%
黒人17%
– 黒人男性24%
– 黒人女性 9%
下・79頁

17%という数字を見ると、「人種間結婚はまあまあ進んでいるじゃないか」と感じるかもしれません。

17%というのは「結婚した人の中の」割合ですが、黒人の場合、そもそも、結婚できる人の割合が非常に低いのです。

黒人の婚姻率(2010年)31%

比較対象がないと判断できないので、2021年の数字ですが、白人の婚姻率を補足します(https://www.jbhe.com/2022/11/the-significant-racial-gap-in-marriage-rates-in-the-united-states/)。

アメリカ人の婚姻率(2021年)

白人の婚姻率(男性・女性)54%(55.5%・52.4%)
黒人の婚姻率(男性・女性)31.2%(34.4%・28.6%)

31.2%の中の17%、とくに女性の28.6%の中の9%という数字は、あまり意味のある数字とはいえないでしょう(あまり変化がないようなので2021年と2010年で計算しています)。

なお、婚姻率のデータは、離婚によって「現在」婚姻状態にない人が非婚姻者として扱われるため、とくに白人の婚姻率が低めに出る傾向があります。婚姻未経験者のデータで補足しましょう。

婚姻未経験者の割合(2021年)

白人27.5%
黒人(男性・女性)50%(51.1%・48%)

ざっくりいうと、白人の場合、7割以上が結婚しその3割程度が離婚、黒人は半分しか結婚できずその4割が離婚、という感じです。

とくに黒人女性の状況の過酷さを表すデータとして、トッドは出産した女性の中の未婚者率に注意を喚起していますので、それも見ましょう。

出産した女性のうちの未婚者率(2008年)

白人40.6%
ヒスパニック52.6%
黒人71.8%
下・79−80頁

黒人女性の場合、「子供がいる人は未婚なのがスタンダード」ということになっているわけです。

ただし、人種間結婚の割合は学歴によって有意に差があり、高等教育に達した層では、黒人と白人の結婚(黒人女性と白人男性を含む)に増加が見られることが指摘されています(下・80頁)。

高等教育組は、たしかに、社会生活を人種を基礎に把握するというやり方から逃れつつあるのかもしれない。

下・80頁、英語版 229頁


経年変化ではありませんが、学歴による違いを示すデータとして、2つのグラフをご紹介します(いずれも2014-15)。

人種別の人種間結婚率。一番下のグレーが大学修了者です。真ん中は大学に行ったが学位を持っていない者。

黒人の男女別データ。一番下が大学修了者。
https://www.pewresearch.org/social-trends/2017/05/18/1-trends-and-patterns-in-intermarriage/pst_2017-05-15-intermarriage-01-06/

黒人への差別感情は失われていないが、高等教育を受けた層では解消に向かっている可能性がある。

(2)非エリートとエリート

高等教育に達したエリートとそれ以外の人々では、人種に対する態度が異なるようだ、ということが分かりました。

そこで、アメリカ社会を「非エリート/エリート」の2つに分けて、それぞれの動きがアメリカの「平等」にどう影響したかを見ていきましょう。

①非エリートに残る人種主義

人種差別撤廃・人種解放のために行われた各種政策は、黒人の包摂を進めたと同時に、とくに非エリートの白人が黒人に対して敵意を抱く原因になったことが指摘されています。

「感情的な社会分断」をもたらしたものとしてとくに知られているのは、「バス通学」とアファーマティブ・アクションです(中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』シリーズ アメリカ合衆国史③(岩波新書 2019年)225頁以下参照)。

「バス通学」については、中野先生に教えていただきます。

「バス通学」とは、公教育の人種統合を進めるために、遠距離のバス輸送でもって郊外の白人児童と都市中心部の黒人児童を一定数シャッフルし、既存の学校の「共学化」を進めようとする取り組みである。

中野耕太郎『20世紀アメリカの夢 世紀転換期から1970年代』シリーズアメリカ合衆国史③(岩波新書 2019年)227頁

ほうほう。

当初から白人の親の反発は強く、ノースカロライナではバス通学を用いた統合の「強制性」が違憲だとして提訴された。だが、これに対する1970年の最高裁判決‥‥は、「バス通学」は生徒の人種比率の不均衡を改善する方途として‥‥適切なものであると宣言した。この決定は、居住区による人種分離が歴史的に存在してきた北部都市圏でも同様の不均衡是正が求められることを意味した。そして、北部に移住し、都市内部の貧困地区に暮らす黒人の親は、「バス通学」による子供世代の格差解消=「社会的な平等」に期待をかけた。

同 227-228頁

一般に、黒人に対する差別意識という点では、奴隷制という形をとりつつも歴史的に共存してきた南部よりも、北部の方が強かったと言われています。

北部は、奴隷制に反対してきた手前、あからさまに差別的な制度を設けることはせず、居住区を分け、学校を分けるというやり方で、黒人と白人を「事実上」分離し、差別感情を満たしてきたわけですが、「それもダメ」と言われてさあ大変。

‥‥この北部都市の「バス通学」は激烈な反発を各地の白人労働者層の間に巻き起こした。例えば、ボストンのアイルランド系白人地区サウスボストンでは、バス通学する黒人児童に対するヘイトスピーチや投石が常態化した。当時ボストンで組織された反「バス通学」団体の名称ーー「我々の疎外された権利の回復」(ROAR)〔Restore Our Alienated  Rights〕には、市民権運動や左翼カウンターカルチャーに圧迫されてきた、かつてのサイレント・マジョリティの偽らざる感情が表現されている。

同 228頁

 

https://www.archivespublichistory.org/?p=1555

一点、注目しておくべきことは、白人の非エリート層が黒人に向けた反感は、実際には、白人のエリートに向けられてもおかしくない性質のものだったということでしょう。

「バス通学」や雇用等における黒人優遇を義務付けるアファーマティブ・アクションが本格的に実施され、感情的な争いを引き起こしたのは1970年代です。

基本的に高等教育組である「都市リベラル」が、60年代後半からの延長で女性や黒人を含むマイノリティの権利を主張していた1970年代は、一方で、米国産業の国際競争力の低下があらわになり、貿易収支がマイナスに転じたときでもありました。

物価が高騰する中、失業率は上昇、賃金は下落したため、郵便や鉄道、製造業の労働者は困窮し、ストライキ、デモなどを含む激しい労働争議を展開していました。

アファーマティブ・アクションが「優遇枠」の対象にしたのは、警察、消防、行政の仕事を請け負う建設業などの「非エリート」的職種です。

ベトナム反戦運動のときと同様、黒人解放・人種差別撤廃を主張するのはエリート、実際に影響を受けて生活が困窮するのは非エリート(労働者)という明白な「非対称性」がそこにはあったのです。

庶民地区で黒人の子供と白人の子供を混ぜ合わせようと試みた「強制バス通学」が、そして次には、大学の入学許可に、また警察、消防隊をはじめ、あらゆる種類の行政部門の人員採用に黒人枠の割り当てを押し付けたアファーマティブ・アクションが、自由貿易によって引き起こされた米国産業の崩壊という文脈の中で、直接の影響を被る階層の白人集団の敵意をかき立てるという結果を生んだ。

下・81頁

黒人解放闘争は、実際、いずれは中流になれると信じていた白人労働者たちが再び無産階級に転落する過程と、歴史的に一体のものとして捉えられてきたのだ。

下・81頁、英語版 230頁
トッドが(この問題の分析として)「最も重要」とする
Thomas/Mary Edsall, Chain Reaction, 1991

黒人解放運動は、非エリートの白人の反黒人感情をかき立てた。

反黒人感情の背後には、自由貿易による国内産業の低迷という文脈における白人間の対立(エリート VS 非エリート)という構図も隠れていた

②人種感情の政治利用:共和党の場合

こうした非エリートによる(ある程度やむを得ない)人種感情の高まりに、エリートはどう対応したのか。

国内の経済環境の悪化で労働者階級が困窮し、その怒りの矛先が黒人に向いてしまったというのが当時の状況です。

理想の政治家なら何をするかというと‥‥そうですね、さしあたり社会保障を充実させた上で、国内産業を再建し、同時に黒人の地位向上のために尽力する、という感じでしょうか。

アメリカの政治家はすべてにおいてその裏を行きました。社会保障を切り詰め、産業の競争力低下の元凶である自由貿易主義をいっそう推し進め、それらの政策に支持を得るために、非エリートの人種感情を利用したのです。

人種感情は、高等教育享受層に属する政治家によって、ニューディールと第二次世界大戦の遺産である平等主義的政治経済システムの崩壊を推し進めるために利用された。1960年前後までは白人間の平等の原動力であった人種感情は、1980年以後は、白人の経済的平等を破壊するための道具となったのだ。

下・80頁、英語版 229頁

本来、とくにこの経済的苦境の中では、社会保障(生活保護、各種給付金など)は労働者階級の白人にとってこそ欠かせないものです。

しかし、人種差別撤廃運動に対する敵意がつのって、労働者階級の白人には、中央政府による福祉政策が「黒人優遇政策」にしか見えなくなってしまった。

この状況を巧みに利用したのが共和党です。

レーガン政権は、黒人のシングルマザーを(生活保護で楽に暮らしている)「社会福祉の女王(Welfare queens)」として槍玉に挙げ、労働者階級を煽って「反福祉国家」論者に仕立て上げ、富裕層に対する減税と社会福祉の徹底した縮減を実現したのです(スゴイですね‥‥)。

こうして、かつてはリンカーン率いる奴隷制廃止党であった共和党は、「減税」「反社会福祉」を謳って非エリートの白人有権者の心を掴み、「白人の党」に変貌していきました。

人種差別撤廃を謳う中央政府への憎悪によって、共和党は社会福祉や税金の正当性に異議を唱えることが可能になった。福祉や税金はマイノリティーを利するものとして誇張して捉えられていたからだ。新保守主義が隆盛し、レーガンがニューディール以来の国家像に異議を唱えることができたのは、こうした人種・教育・経済的な文脈のゆえである。経済学の論争とはほぼ関係がなかったというべきであろう。

下・82頁、英語版 231頁

共和党は、新自由主義的政策(社会福祉削減、富裕層の減税等)を推進するために、非エリート層の白人の人種感情を利用した

③リベラルな言説の裏で:民主党の場合

共和党が「白人の党」に舵を切ったことで、「リベラル」の民主党は、黒人の圧倒的支持を得るようになりました。しかし、民主党の方も、白人の反黒人感情を利用という点では、決して共和党に引けをとりません。

ビル・クリントンは、黒人のジャズ・ミュージシャンと共に舞台上でサックスを吹くパフォーマンスを何度も行なって、そのリベラルな姿勢をアピールした大統領です。

https://edition.cnn.com/videos/politics/2012/02/22/vo-clinton-saxophone-inaugural-ball.cnn

同時に、彼は、犯罪者に甘いという民主党のイメージを覆すべく、犯罪に厳格に臨む立場を強調しました。しかし、厳罰と人種主義の間に何の関係があるのでしょうか。

「犯罪との戦い」。それは共和党と民主党がともに反黒人感情をあおるために用いた「暗号」でした。

クリントンは、アーカンソー州の知事として大統領選に臨んでいた最中、勝負を決める予備選の前日に、地元に戻って死刑囚の死刑執行に立ち会っています。「犯罪との戦い」をアピールするために選んだのは、いうまでもなく、黒人死刑囚の死刑執行でした。

1982年に「薬物との戦争」を始めたのはレーガンの共和党です。トッドは、どちらかといえば薬物犯罪が減少傾向にあった時期に「戦争」が開始されたこと、そして、薬物全体では白人の使用率の方が高かったのに、わざわざクラック(安価だったため黒人コミュニティでの使用者が多かった)を対象としたキャンペーンを展開し、黒人を集中的に刑務所に入れたことを指摘しています。

中等教育最終学年の生徒の薬物使用率(英語版 233頁)
薬物関連犯罪の逮捕率(英語版 234頁)

しかし、薬物戦争がクライマックスに達し、「アメリカの収監率がめまいのするほどの高さに達した」のは、クリントン大統領(任期1993-2001)の時代だったのです。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:U.S._incarceration_rates_1925_onwards.png

共和党と民主党はともに「犯罪との戦い」の標語の下、反黒人感情を煽った。

(3)黒人の大量投獄:奴隷制の再来?

この時期の収監者数の上昇に占める黒人の比率を見れば、「薬物戦争」が黒人をターゲットとしたものであったことは明らかといえるでしょう。 

人口10万人当りの収監者数(男性)
https://www.statista.com/chart/18376/us-incarceration-rates-by-sex-and-race-ethnic-origin/

トッドはまた、1965年から69年生まれの人が生涯に刑務所に入るリスクの数値を示しています(基準など詳細が分かりませんが、出典は2006年のこの本)。 とくに高等教育に達していない黒人の数字は驚くべきものです。

生涯に刑務所に入るリスク

白人全体(高等教育機関入学者・非入学者)2.9%(0.7%・5.3%)
黒人全体(高等教育機関入学者・非入学者)20.5%(4.9%・30.2%
下・87-90頁

アメリカで刑務所に入るということは、その経歴が一生つきまとい、公的住宅の利用や雇用の機会が制限されることを意味します(選挙権も剥奪されることが多いそうです)。

拘禁刑は、その期間そのものの長短にかかわらず、社会からの非常に長期にわたる排除を意味する。その意味で、アメリカにおける大量投獄を、奴隷制という「奇妙な制度(peculiar institution)」の再来とみなすLoic Wacquantの指摘は、きわめて適切であると思われる。

下・90頁、英語版 234−235頁

1980-2000年代初頭、政府(共和党・民主党)は、「薬物戦争」の名目で大量の黒人を収監し「新たな奴隷制」を構築した。

今日のまとめ

  • 高等教育の進展が社会に亀裂を入れ始めていたのと同じ頃、黒人解放運動が始まった。
  • 黒人への差別感情は失われていないが高等教育層では解消に向かっている可能性がある。
  • 人種差別撤廃のための施策は、労働者階級の白人の反黒人感情をかき立てた。
  • 反黒人感情の背後には、自由貿易による国内産業の低迷という文脈における白人間の対立(エリート VS 非エリート)の構図も隠れていた。
  • 政治家は、白人非エリート層の人種感情を煽り、新自由主義的政策(社会福祉削減、富裕層減税等)の推進のために利用した。
  • 1980-2000年代初頭には「薬物戦争」の名目で大量の黒人が投獄され「新たな奴隷制」と評価された。
カテゴリー
トッド入門講座

アメリカ I
-差別と教育とデモクラシー(上)-

家族システムとデモクラシー
:アメリカの謎

トッドの探究は、「平等の価値を持たないアメリカが、なぜデモクラシーを成立させることができたのか」という問いから始まります。

しかし、私たちにとって、デモクラシーといえばアメリカ、アメリカといえばデモクラシーです。そもそも「アメリカのデモクラシー」の何がそんなに不思議なのでしょうか。

①イギリスの場合:議会制寡頭政治

世界に先駆けてリベラル・デモクラシーを確立した(とされている)のは、イギリスです。1642年にピューリタン革命が起きて、1688年の名誉革命以後は立憲君主制で安定しました。

ピューリタン革命の頃の議会の様子(たぶん)

イギリスが民主主義発祥の地(?)となったのは、イギリスには最初から議会があったからです。原始民主制の意思決定の場である集会。中東、インド、中国では(家族システムの進化とともに)とっくに失われた素朴な意思決定システムが、代表制の議会という形で、イギリス(とヨーロッパの一部)には残っていた。

‥‥中世末期のヨーロッパには、世界の他の主要文明と画然と区別される政治的特徴が数多く存在していた。それらの特徴ーなかでも最も重要なのは代表者たちの集会であったーが自由主義的民主制の基礎を成したのであり、それらこそは‥‥現代の発展途上の国々で再生産されることが決してあり得ないであろう素質なのであった。

Brian Downing, The Military Revolution and Political Change. Origins of Democracy and Autocracy in Early Modern Europe, Princeton University Press, 1992(下・16頁に引用)

Downingは代表制集会を先進性の証拠と誤解していますが、実際には、イギリスは、ユーラシアの辺境に位置し、家族システムの進化から取り残されていたがために、リベラル・デモクラシーの先駆者の地位を獲得することになったのです。

ただし、この段階のイギリスの政治システムを本当に「デモクラシー」と呼んでよいかどうか。

イギリスで選挙権を持つ者の割合は、18世紀初頭で全国民の4.7%(成人男性の人口比では15%)、18世紀を通して見ても成人男性の20%程度にとどまっていた。

選挙による代表制ということで「民主主義」と言われるのですが、有権者の数を考えると、その実態は「議会制寡頭政治」(parliamentary olicarchy)であったのです*。

 *青木康『議会を歴史する』(2018年、清水書院)64-65頁参照

②フランスの場合:平等へのこだわり

イギリスが「議会制寡頭政治」の状態で落ち着いてしまった理由は、その家族システム(自由+非平等 or 権威なし+平等なし)から説明できます。権威は倒さなければならない。平等でなくても気にしない。それが絶対核家族ですから。

他方、フランスの難産(革命による共和国の誕生からその安定化に至るまで100年を要しました)もまた、家族システムの影響のなせる技です。

自由と平等(権威なし+平等)のフランスは、国王を倒しただけでは満足できません。貴族が上に立てば市民が不満を持ち、市民が満足すれば労働者が暴れる、といった具合に、最終的に平等が達成されるまで戦いが続いてしまう。

しかし、その甲斐あって(?)、フランスは1848年の二月革命後には、21歳以上の男性普通選挙を確立させます(イギリスは1918年)。政治的混乱はまだまだ続きますが‥

Lithograph of the end of the Paris Commune. Photograph: Johansen Krause/Archivo Iconografico, SA/Corbis

③アメリカの場合:「平等」なしの平等?

こうして見てくれば、トッドが「なぜ、アメリカが?」と首を傾げる理由がお分かりいただけると思います。

イギリスと同じく、アメリカの家族システム(絶対核家族ないし原初的核家族)に「平等」の価値はありません。

それなのにアメリカは、1776年の独立宣言で高らかに平等を謳い上げ、早くも1820-40年には各州が男性普通選挙を実現させるのです。

われわれは、自明の理として、すべての人は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追及を含む不可侵の権利を与えられていると信じる

アメリカ 独立宣言(1776年) https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/(一部を取り出すにあたり文章に手を加えています)

アメリカに全員参加型のデモクラシーが実現したのは「あたりまえ」ではない。

人種主義と教育:「アメリカのデモクラシー」の基礎

「アメリカのデモクラシー」の秘密として、トッドが検知したのは次の2つです。

①識字率の高さ(白人間の均等な教育水準)
②排除することで「われら人民」の一体性の元となる先住民・黒人奴隷の存在

*「われら人民(We the people)」はアメリカ合衆国憲法前文の主語

①については、あまり問題はないでしょう。イギリスは当時もっとも識字率の高い地域でしたが、アメリカに植民した人々の多くはとくに熱心なプロテスタントだったので、建国当初のアメリカの(白人)識字率はイギリスと同等かそれ以上であったと考えられます。

 *識字と民主化の関係についてはこちらをご覧ください。 

問題なのは、②でしょうか。

トッド自身による説明をお聞きください。

謎の答えは独立宣言そのものにある。独立宣言は、カルヴァン的不平等主義から民主主義的平等主義への転換の過程を明示的に説明してくれているのである。

独立宣言によれば、先住民は「慈悲を欠く野蛮人(merciless savages)」である。平等な人類の次に置かれるのは「人類でないもの」。あたかも、白人の共同体から放逐された不平等が、共同体の外に居場所を確保したというかのように。

独立宣言、そしてアメリカ北部の社会の現実において、それは先住民だった。南部では黒人だ。

トクヴィルは南部の奴隷州に独特の白人平等主義が見られることに気づいていた。

「奇妙なことに、民主主義の勢いは、とりわけ上流階級が強固な地位を占める州で圧倒的だった。メリーランド州ー上流の者たちが建設した州であるーは、普通選挙制を宣言し、政府にもっとも民主的な制度を導入した最初の州となった。」

これらの州では、多数の黒人奴隷の存在が、白人間の平等の意識を強化したのである。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』下・22-23頁
 英語版196頁(適宜改行しました)

*英語版は Lineages of Modernity, Polity Press, 2019
以下、引用文に英語版の頁数を併記するときは辰井による英語版からの訳出です。

先ほど、アメリカでは1920-40年に男性普通選挙が拡大したと書きましたが、その勢いが最も強かったのはアンドリュー・ジャクソン大統領(任期1829-1837)の時期でした(「ジャクソニアン・デモクラシー」)。そのジャクソン大統領は、奴隷制の熱心な擁護者であり、先住民の強制移住を決然と推進した人物でもあった。

また、1860年から1900年、西部でエリートを排した平等主義的な社会が開花したその時期は、ちょうど、黒人に対するリンチが激化し、「マニフェスト・デスティニー」の標語の下で西部大平原のインディアン(Great Plains Indians)が駆逐されていった時期でもあったのです。

‥‥人種主義をアメリカのデモクラシーの欠陥とみなすことはできない。事実は正反対で、人種主義はアメリカのデモクラシーの礎石の一つなのである。建国期には、人種主義は白人の平等意識を促進した。移民流入の過程では、先住民でも黒人でもないという事実が、新たな移民の統合を容易にした。まず北部ヨーロッパ人、若干の躊躇の時期を経て、少し肌の色の濃いイタリア人、ユダヤ人のような非キリスト教徒。もっと最近では、日系、韓国系、ベトナム系、中国系のアメリカ人が、別扱いされる黒人の存在ゆえに、白人と同じ区分に分類されるようになっている。

いまや、アメリカのデモクラシーの魔法を、次のように定式化することができよう。

 平等の不在+黒人と先住民の排除→人種的デモクラシー 

このシークエンスは、アメリカにおけるデモクラシーの発展がかくも容易に達成され、ごく自然で調和的に見える理由も説明する。どれもこれも、民主化のプロセスといえば1789年、1830年、1848年の革命と1871年のパリコミューンの歴史を一通り学ばなければならないわれわれフランス人には心穏やかでないのだが。アメリカの民主制はイギリスの寡頭制と同様に安定している。それは、フランスでは政治的平等を求める大衆の蜂起を幾度も引き起こした「平等」の原則が、彼らの家族の無意識には存在しないからなのだ。

下・24頁、英語版197頁(太字は筆者)

アメリカのデモクラシーを可能にしたのは、次の2要素である。
 ①平等な教育水準
 ②人種主義による「白人の平等」

デモクラシーの最盛期(1950-70年代)

(1)経済的平等の達成
 ーニューディールのアメリカ

現代のアメリカは格差と分断の最先進国(後で確認しますが日本よりはるかに激しいです)となっているわけですが、20世紀中盤に、経済面でも平等に近づいた時期があったことをご存じでしょうか。

19世紀後半から20世紀初頭には、資本主義の急速な発展で大変な格差社会となっていたアメリカは、1929年の経済危機で立ち止まります。

ルーズベルトのニューディールが導入した平等主義的な福祉国家政策で、国による経済への介入、課税の強化がなされた結果、不平等は着実に縮小します。

下にグラフを載せましたが、最も豊かな10%の取り分は1928年の46%から1952年には32%に、最も豊かな1%の取り分は1928年の20%から1953年には9%に低下し、いずれも1970年代まで同程度で推移したのです(T. Piketty and E. Saez, Income and Wage Inequality in the United States, 1913-2002, Atkinson and Piketty, Top Incomes over the Twentieth Century, Oxford University Press, 2007, pp147-149)。

上位10% 1942年から80年代前半まで低めで安定している。
トップ10%の中の下から5%(P90-95)、4%(P95-99)、1%(P99-100)の取り分1%に注目すると1943年から1980年代前半まで低め
これは0.01% 同じ傾向

(2)中等教育の拡大(1900-1940)

19世紀から継続した民主的なメンタリティ、19世紀末から20世紀前半の革新主義を経て、20世紀中盤に達成された経済的平等。

なぜ、このときのアメリカは、一度は行くところまで行った経済的格差から立ち戻り、「デモクラシーの最盛期」に到達することができたのか。

トッドはその解を、中等教育の拡大(第二次教育革命)に求めます。

下の表の通り、1900年の時点で、欧米諸国の識字率はプロテスタント国を中心に高いレベルで平準化していました。

10歳以上の識字率
イギリス95%
アメリカ(白人、アメリカ生まれ)95%
アメリカ(白人、外国出身)87%
アメリカ(黒人)55%
スウェーデン95%以上
ドイツ95%以上
オーストリア94%
フランス83%
イタリア52%
スペイン44%
出典:Carlo M, Cipolla, Literacy and Development in the West, Penguin, 1969, P.99 et p.127-128(下・39頁より)

しかし、中等教育(日本の区分だと中学・高校レベル)をいち早く普及させたのは、イギリスでもドイツでもなく、アメリカだったのです。

ハイスクールへの入学率は、1900年の10%から1940年には70%に達していました(修了率は6%から50%)。1941年、アメリカが第二次世界大戦に参戦したときには、若い世代の半数はハイスクールの教育を受けていたことになります。

これがどれほど高い水準であったかは、1955-56年の各国の高校進学率を見ると分かります。アメリカは80%。しかし、ヨーロッパ諸国は、もっとも高いスウェーデンで25%、それ以外の国はせいぜい15-20%にすぎません(下・41頁)。

*なお、大陸の遅れはエリート主義的な教育政策のせいだというのがトッドの解釈です。

*ちなみに日本は結構高くて40%強です。80%を超えたのは1970年 http://honkawa2.sakura.ne.jp/3927.html

中等教育の拡大は、アメリカを世界の覇権国に導くとともに、「アメリカのデモクラシー」の最盛期をもたらしました。

アメリカはより高いレベルでの教育の平準化を達成した一方で、意地悪く確認しておくと、この時期、黒人差別はまだ制度として温存されていました。

識字率の高さと先住民・黒人奴隷の存在が可能にした「アメリカのデモクラシー」は、以下の二つを基礎にそのピークを迎えたわけです。

 ①より高いレベルでの教育水準の平準化
 ②黒人差別の制度的温存

アメリカのデモクラシーは、以下の状況下で最盛期を迎えた。
 ①中等教育の拡大(より高いレベルでの平等な教育水準)
 ②黒人差別の制度的温存

衰退するデモクラシー
:教育による平等の侵蝕

(1)中等教育から高等教育へ

ところで、トッドは1900-40年の教育革命が、連邦政府のプロジェクトとしてではなく、地域社会の主導で実施されたことを指摘しています。

第二次教育革命は、民主的・平等主義的な気分を反映したイデオロギーがダイレクトに引き起こしたものだったのである。

下・41頁、英語版206頁

民主的・平等主義的なメンタリティが地域における公教育の充実をもたらし、公教育の充実がさらに民主主義を向上させる。理想的に見えるこの循環を止め、逆回転にまで至らせたものは何か。

高等教育の拡大です。

1900年には男性の3%、女性の2%(25歳時点・以下同じ)、1940年でも男性7.5%、女性5%に過ぎなかった大卒者の割合が、1975年には男性27%、女性22.5%に達していました。

アメリカ社会がデモクラシーを謳歌しているそのとき、すでに社会の基層には亀裂が入りかけていた。

英語版208頁
https://www.statista.com/statistics/184260/educational-attainment-in-the-us/

初等教育が行き渡れば次は中等教育、その次は高等教育(=大学以上)と進むのは当然といえます。いったいその何がいけないのか。

初等教育、中等教育と比較したとき、高等教育には2つの顕著な特徴があります。

 ①全員には行き渡らない
 ②高等教育内部に激しい序列がある

 *もう一つ付け加えることもできるでしょう。
  ③教育内容が役に立つかどうか不明な場合が多い

多くの国で、高等教育の普及は30-40%程度で頭打ちとなりました。日本では50%、韓国では70%とかなり高くなっていますが、いずれも子供の数が異常に少ないという状況下での現象です。

初等教育の普及が「We the people(われら人民)」の基礎を構築したのと正反対に、高等教育は、まずは大学入学者とそれ以外を分ち、大学入学者を、ハーバードの博士課程を終了した者から三流大学中退者まで、無限に広がるランキングの中に振り分けます。

 *こうした事態に鑑み、トッドはアカデミアを「不平等製造マシン」(下・59頁)と表現しています。

‥‥当初、高等教育の進展は純粋な進歩と捉えられていた。人々は高等教育に達する人口の増加が均質な社会に亀裂をもたらすことに気づかなかった。人々が新たな文化的階層化を感知したのは、高等教育修了者という名誉あるカテゴリーに全員が到達できるわけではないと気づいたときだった。初等教育、続いて中等教育の普及は社会に民主的な種類の平等主義的下意識を涵養した。他方、高等教育の頭打ちは、アメリカでもどこでも、不平等の下意識を生み出したのである。

下・30頁、英語版212頁

(2)ベトナム戦争:「労働者階級の戦争」

教育の層が生み出した不平等の下意識は、この時期のイデオロギーに現れました。

ハーバード大学の心理学教授Herrnsteinが論文「IQ」を公刊し(Richard J.  Herrnstein “IQ”, The Atlantic, 1971)、「知能指数に差があり、その指数が諸個人の社会的パフォーマンスに確実な影響を与える以上、不平等は今後とも解消しないと断定」(下・55頁)したのは1971年。

1972年には同じくハーバードの社会学教授 Christpher  Jencksが『不平等(Inequality) 』を出版し、「教育の力で平等を実現する」というリベラルの夢を幻想として「真正面から攻撃」しました。

 *私はどちらも読んでいません。

しかし、彼らが階層社会の到来を予言していたそのとき、すでに平等主義は崩壊していた。それを白日の下にさらしたのは、ベトナム戦争でした。

第二次世界大戦は、アメリカ社会にとって、平等主義の偉大なる達成の瞬間だった。ルーズベルトの社会民主主義の成熟の象徴であったとすらいえるかもしれない。中等教育がほぼ全員に行き渡り、高等教育の進展はまだ初期段階であったそのとき、国民皆徴兵の名の下、すべての若いアメリカ人男性が兵役に就いた。アメリカの政治家たちは、そのため、ジョージ・ブッシュ(シニア)までは、その出身階層に関わらず、概してかなり輝かしい軍歴を有していた。報道ジャーナリストが、ベトナム戦争の兵役を逃れた政治家の追跡を始めるのは、ブッシュ以後である。

下・57頁 英語版216頁

ベトナム戦争では大量の若者が動員されましたが、兵役を逃れた者も多く、大統領経験者ではジョージ・ブッシュ(ジュニア)、ビル・クリントン、ドナルド・トランプらが「兵役逃れ組」として知られています。

クリントンはベトナム反戦運動に参加したことでも知られているのですが、さて、恵まれた大学生が行う反戦運動を、出征した兵士たちはどう捉えていたのか。

以下は、Christian Appy『労働者階級の戦争』からのトッドによる引用です。

ほとんどの兵士たちは反戦運動を本質的に中流階級のものと受け止めていた。マスメディアで流れる反戦活動家といえば左派の大学生のイメージだった。労働者階級の兵士たちにとって大学は特権の象徴であり、大学生は、ベトナムという文脈とは無関係に、恨み、怒り、自信のなさ、羨望、野心といった、階級に関わる一連の深い感情を掻き立てる存在だった。兵士たちが大学生の徴兵猶予の事実を知ると、階級間の溝は一層深まっていった。

Christian Appy, Working-Class War: American Combat Sodiers and Vietnam, 1993, p220 (下・58頁、英語版216頁)

(3)新自由主義の採用と格差の増大

1980年以降、行きすぎたグローバリズムによる経済格差の時代が訪れる前段階にあったのは、教育、そしてその結果としてのメンタリティの変化でした。大事なことなので、トッドに復唱してもらいましょう。

1968年までに教育による不平等の下意識は完全に出来上がっていた。他方で経済的な不平等はまだそれほど大きくなっていなかった。ここでも、歴史を追うだけで、どちらが原因でどちらが結果かを特定することができる。文化が経済を決定する。その逆ではない

下・62頁、英語版218頁(太字は筆者)

こうしたメンタリティの変化を受け、政治・経済のレベルでは、ニューディール政策に見られた平等主義が崩壊し、新保守主義・新自由主義が最高潮を迎えることになります。

上のグラフは2002年までですが、こちらのグラフを見ると、現在も同じ傾向であることが分かります。

https://ourworldindata.org/grapher/income-share-of-the-top-1-pretax-national-income?country=~USA

高等教育の拡大による「①平等な教育水準」の侵蝕が、アメリカ社会の格差・分断をもたらした。

残された謎

1980年以後、不平等がアメリカの時代精神となり、時代精神に即したあらゆる理論と政策が動員され、誰も抵抗できないうちに、著しい格差の増大と社会的分断が発生した。なるほど、と思わせる説明です。

しかし、「謎」はまだ残っています。

高等教育の進展は全ての先進国で国民の階層化をもたらし、全ての先進国は経済的格差の増大を経験しました。しかし、アメリカほど急速かつ極端な変化を経験した国は他にないのです。

まずは上位1%の取り分の推移(グラフ↓)。1980年から2000年の変化をご確認ください。

英語版225頁

こちら(↓)はアメリカの大企業350社における代表取締役と平均的労働者の所得格差の変遷のグラフです。取締役の所得は1960年には労働者の20倍でしたが80年代から上昇を始め、2022年は何と400倍です。

https://www.statista.com/statistics/261463/ceo-to-worker-compensation-ratio-of-top-firms-in-the-us/

いったいどういう仕組みで、アメリカの不平等はここまで激化することになったのか。トッドはいいます。

アメリカにおける平等という価値の崩壊は、あまりにも突然で、あまりにも激しく、あまりにも広範だった。これを完全に説明するためには、人類学システムの核心により深く踏み込んで行かなければならない。

下・70頁、英語版223頁

人類学システムの核心とは、家族システムにおける「平等の不在」をカバーしていた「魔法」。人種主義の展開にほかなりません。(つづく)

アメリカにおける急速かつ極端な不平等拡大のメカニズムを解明するには、「②人種主義による白人の平等」の展開を確認する必要がある。

今日のまとめ

  • アメリカに全員参加型のデモクラシーが実現したのは「当たり前」ではない。
  • デモクラシーの成立を可能にしたのは、①平等な教育水準、②人種主義による「白人の平等」の2要素である。
  • アメリカのデモクラシーは、①中等教育の拡大(より高いレベルでの平等な教育水準)②黒人差別の制度的温存 という状況下で最盛期を迎えた。
  • 高等教育の拡大による「①平等な教育水準」の侵蝕が、経済的格差・社会的分断をもたらした。
  • アメリカにおける急速かつ極端な不平等拡大のメカニズムを解明するには、「②人種主義による白人の平等」の展開を確認する必要がある。 
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トッド入門講座

アメリカの家族システム

 

はじめに

トッドによれば、現代アメリカの家族システムは「原初的核家族に接近した絶対核家族」です。

その情報だけお持ちいただければ「アメリカ I・II 」をお読みいただくのに支障はありませんが、一応、トッド入門講座なので、イギリスから持ち込んだ絶対核家族がどのように変化していったのか、トッドの理論の概略をご紹介させていただきます。

植民開始時のイギリス

(1)絶対核家族の成立

イギリスが本格的にアメリカへの植民を開始したのはエリザベス1世(在位1558-1603)の時代です。1584年にスタートしたプロジェクトで開拓された土地はVirginiaと命名され、ジェイムズ1世(在位1603-1625)の時代に同地に入った入植団がジェイムズタウンを建設(1607年)。ここから入植が本格化していきます。 

*画像をクリックすると詳細をご覧いただけます(statista.com

トッドは、イギリスに絶対核家族が成立した時期を「1550年から1650年の間」としており、住民リストのデータから「エリザベス1世の治世(1558年-1603年)の終わり頃のイギリスについては絶対核家族が成立していた可能性を具体的に語ることができる」と述べています(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上 298頁、英語版159頁)。

*以下単に「上」「下」という場合この本の引用を指します。また英語版の頁数を併記する場合、引用文は辰井が英語版から訳出したものです(日本語版も参照しています)。

したがって、イギリスからアメリカに植民した人々は、絶対核家族か、少なくともそれが成立しつつあった地域の出身であったと考えてよいでしょう。

(2)イギリスの個人主義

その頃のイギリスの家族が、具体的にどんな風であったかを見ておきましょう。

イギリスにおいて、絶対核家族の成立は、「ルールなし」の原初的核家族から「個人主義」、つまり、親族との絆の最小化を規範とする社会への変化を意味します。

ゆるやかにつながっていた親族集団は解体され、成長した子供は(ほぼ)必ず家を出て自立する。生涯独身者の割合が増大し(1555年頃に生まれた世代と1605年頃に生まれた世代の比較で8%から25%へ)、結婚年齢も上昇する(結婚年齢は1640-49年に女性26歳、男性28歳)。

そう。イギリスではすでにこの段階で、親族集団とのつながりを持たず、単身ないし夫婦二人で暮らす世帯が「標準」となっているのです。

もちろん、誰にでも、病や老い、身近な親族の死といった苦境は訪れます。したがって、これほどの「個人主義」は、何らかの公的な扶助制度がなければ成り立たないでしょう。では、当時のイギリスにそれがあったのか、というと、(何と?)あったのです。

イギリスはもっとも早期に「救貧法」を成立させた国ですが、それ以前から、地域共同体を主体とする給付システムが存在していたと見られています(ちなみにこの地域共同体は古代ローマ時代の遺産です(上・308-314頁))。

偉大な中世史家リチャード・スミスは、エリザベス時代の救貧法に先立って、地域の運営による老齢年金が存在していたことを示唆している。想定されているのは、荘園裁判所の監督下で、引退した小作農とその後継者(親族とは限らない)を関連づけるシステムである。

上・300頁、英語版159頁

*小作用の農地を引き継ぐ人が何らかの形で支払いをするという趣旨かと思います。

大規模農園で一労働者として働き、単身か夫婦(と子供)で暮らして、老後は社会福祉の世話になる、という私たちにはきわめて「現代的」に思える暮らしは、イギリスでは「伝統的」なものでした。

*「昔からそうだった」というだけで「進んでいる」というわけではありません。お間違えのないように!

トッドはイギリスの歴史家 David Thomsonの言葉を引いています(上・300頁、英語版159頁。

チューダー朝やステュアート朝の教区民がなぜか1990年代のイギリスにタイムスリップしたとしたら、分からないことだらけだろうが、社会福祉のあり方をめぐる現代の議論にはまったく違和感を感じないだろう。

上・300頁、英語版159頁

 *チューダー朝は1485-1603年、ステュアート朝は1603-1714年

アメリカにおける変容

(1)植民地時代:原初的核家族への退行

新天地を求めてアメリカに渡った人々が、安定した農村で培われたこうしたライフスタイルを維持できたかといえば、答えはもちろん「NO」でしょう。

さしあたり大規模農場もないしローマ由来の共同体もない。もちろん国による社会保障も望めない。全部自分たちでやっていかなければならないわけですから。

当初のアメリカの核家族は、イギリスの絶対核家族が強化されたバージョンというより、その正反対で、絶対核家族の特徴が著しく弱められたバージョンだったといえる。あらゆる領域で、未分化核家族への退行が見られた。世帯規模は大きくなり、遺産が分割されることが増え、兄弟姉妹の絆が復活した。植民地時代の状況は、親族の絆が最小限であることを特徴とする現代のアメリカモデルとは全くかけ離れていたのである。

上・331頁、英語版176頁

女性の地位という点でも、当時の核家族は「原初的」でした。

女性のステータスという点でも、現代のあり方からはかけ離れていた。トクヴィルを含め、建国期のアメリカを観察した者はみな、女性のステータスの高さに注目している。その始めから、ピューリタン農民の妻たちは宗教生活および社会生活において尊敬され、活動的だった。一方で、いかなる宗派においても、女性は土地と家の相続からは排除されていた。

最初のプロテスタント・アメリカ人の間での経済・社会生活における性の区別は、狩猟採集民のそれと同様に厳格だった。財の分配が当初女性にとって不利だったことは、父系制の初期の導入の例というよりは、ホモ・サピエンスの原初的男女分業の観点から解釈されるべきであるように思われる。T・Ditz が明らかにしたように、男性に有利な処遇に家系の後継指名の意図が見られない以上、これを父系制の第一歩とみなすことはできない。

上・332頁、英語版176頁

(2)20世紀初頭:絶対核家族への回帰

その後、1720-1770年(入植の第3世代から第4世代)の間に絶対核家族の台頭が進んだと推定されていますが(上・334頁)、アメリカ全土にイギリスと同様の絶対核家族が戻ってきたのは20世紀に入る頃です。

結構時間がかかりました。

理由の一つに、開拓が続いたことが挙げられます。フロンティアの消滅(宣言が出されたのは1890年)までは西へ向かう開拓の波が続いたので、その度に「原初的核家族への退行→社会の安定→絶対核家族への回帰」の推移が繰り返されることとなり、全体としての絶対核家族化は進まなかった。

もう一つは、産業革命が遅かったこと。イギリスの産業革命の開始は、1780年とされますが、アメリカは1840年です*。労働人口の大半が小規模の個人事業主であるうちは、親族との絆なしには立ち行きません。賃金生活者が増えてようやく、核家族への回帰に弾みがつくのです。

*トッドが W・W・ロストウ『経済成長の諸段階』(初版1960年。最新の改訂版が1990年)に依拠して用いる数字です。

(3)1950-70 : 絶対核家族の絶頂期

トッドが「絶対核家族の絶頂期」と呼ぶ1950-70年に、ある世代以上の日本人が「アメリカン・ファミリー」として思い描くであろう豊かで呑気な家族の時期がやってきます。

大企業が安定的に給与を支払う。

国家はニューディール政策で社会保障(失業保険、退職金、老齢年金等)を整備する。

16-17世紀のイギリスで大規模農園と救貧法がその役を果たしたように、アメリカでも、大資本と国家が、親族の絆を最小限とする絶対核家族の完成に寄与しました。

ところで、「アメリカン・ファミリー」といえば、郊外の一軒家、夫はサラリーマン、妻は専業主婦、子供が2、3人いて、犬の一匹も飼っている、というイメージですが、この男女の関係はどう理解したらよいのか?

テレビドラマ「奥様は魔女(Bewitched)」(ABC 1964-72)
日本ではもう少し後? 妻の親族がいろいろ出てきた記憶がありますが‥

トッドは次のように述べています。

この時期、男女の関係性は、対等な立場での男女分業という原初的ホモ・サピエンス型に戻っていたように思える。夫は外で働き、妻は家内をやりくりする。最新の家電製品の助けを借りて。

上・336頁、英語版176頁

「子供が2、3人」というのはもしかすると日本の高度成長期のイメージで、アメリカの場合は「3、4人」のレベルに達していたそうです。

この男女の分業体制が戦後のベビーブームを牽引し、合計特殊出生率を1950年には(女性一人当たり)3.1人、1960年には3.65人にまで引き上げた。出生率は1940年には2.30人にまで落ち込んでいたのだ。(上・336頁、英語版178頁)

上・336頁、英語版178頁

しかし、これが「絶頂期」ということは‥‥。そうです。大変意外なことに、アメリカはこの後、「絶対核家族」の凋落期を迎えていきます。

現代:グローバリズムの果て

トッドが繰り返し指摘していることですが、自由貿易は先進国の労働者の給与を押し下げます。その第一の犠牲者となるのは若者と非熟練労働者。彼らは家を出たくてもその余裕がなく、やむなく親と同居します。

そのようにして親族のつながりが復活し、現在のアメリカは「むしろ原初的核家族では?」という様相を呈しているというのです。

25-29歳65-69歳70-74歳
アメリカ−9%+28%+25%
イギリス−2%+62%+66%
ドイツ−5%+5%+9%
フランス−8%+49%+31%
オーストラリア+27%+14%+2%
年代別 世帯あたり可処分所得上昇率の平均との差(1979-2010年のデータ)
下・130頁より

上の表は、1979-2010年における世帯あたり可処分所得の上昇率を、世帯主の年齢別に、平均上昇率との差で示したものです。オーストラリアを除いて、若年層の上昇率が低く、高齢者の上昇率が高いことがわかります。

人口の最若年層の所得減少は、新自由主義革命、とりわけ自由貿易の機械的な結果である。自由貿易は資本を持たない者を一律に、情け容赦なく粉砕する。最初に犠牲に供されたのは若い世代と労働者だった。市場原理主義は高学歴の者を含む若年層の親への経済的依存度を劇的に高めた。中年のエリートがかつてないほど個人の自由を謳歌し称揚していた正にそのとき、若い個人は自立の可能性すら失いつつあったのだ。

下・129頁、英語版258頁

アメリカの調査機関(ビュー研究所)は、2016年5月に、18-34歳の若者の親との同居率が1880年と同じ水準に達したことを示すデータを公表しているそうです(下・130頁)。

トッドはいいます。

いま、アメリカの核家族は、端的に「絶対」核家族の性格を失いつつある。彼らは明らかに、成人した若者の親との一時的同居そして原初的な未分化家族への(部分的な)反転を経験している。‥‥ 新自由主義革命は、雇用へのアクセスを困難にし、国家を弱体化させることで、アメリカの家族に、歴史上二度目となる、原初的ホモ・サピエンス型の未分化核家族への退行をもたらしたのである。

下・130頁、英語版259頁

おわりに 

以上のように、トッドの示す解釈によると、アメリカの家族システムは、「絶対核家族→原初的核家族→絶対核家族→原初的核家族」と推移したことになります。

しかし、読んでいて、こう思った方はおられないでしょうか。

「これ、家族システムっていうか、単なる家族の観察じゃね?」

そうなんですよ!!

アメリカ以外の地域で、家族システムの特定は、近代以前の家族のデータを使用して行われています。「農村時代の方がシステムが見えやすいから」というのがその理由ですが、その前提には、家族システムとは「場所の記憶(the memory of places)」として固着し、人々のメンタリティに永く刻印を残すものであるという認識がありました。

現代日本の家族はたいてい核家族で、アメリカやフランスと大して変わらない。しかし、集合的なメンタリティに見られる確かな違いを、近代以前の家族のありようが説明する、というところに、トッドの理論の驚きというかときめきがあるわけです。

しかし、アメリカ社会は、最初から近代社会として誕生し、それ以前の「場所の記憶」というものを持たない社会です。この点をどう考えたらよいのでしょうか。

*人口が500万人に達したのが1800年頃ですが、その頃識字率はとうに男性50%を超えています(イギリスと同時期として1700年)。

私は、アメリカで観察された「絶対核家族」(20世紀から1950-70)については、次のように問うてみる必要があるのではないかと考えています。

「それって、本当に絶対核家族システムなのか?」

大規模農園や救貧法といった要素はイギリスの絶対核家族を可能にする条件ではありましたが、システムとしての凝固を促した要素は別にあります。長子相続を営むノルマン貴族や、地方組織の縦型の権威構造(ローマの痕跡!)の存在です。イギリス庶民は、それらを横目に見ていたからこそ、核家族を「規範」にまで高めることを選択したのです。

往時のアメリカには、大会社があり、国家による社会保障があった。しかし、直系家族の王侯貴族やローマ帝国の遺産といった、システムの鍵となる「場所の記憶」はない。

ということは、もしかすると、アメリカで見られた「絶対核家族風の暮らし」は、単なる事実状態にすぎず、「絶対核家族システムの成立」を意味するものではないのではないか。

「脳内の記憶」としての絶対核家族のイメージはあったかもしれないが、「場所の記憶」としての家族システムが成立したことはないのではないか。

そのような解釈は十分に成り立つように思えます。

「トッド入門講座」では、トッドの解釈に従い、「アメリカは原初的核家族に近い絶対核家族」ということで話を進めます。

しかし、ひょっとして「システム以前」の純然たる原初的核家族かもしれない、という可能性も捨てないでおくと、よりいっそう興味深い仮説を展開できる気がします。

今日のまとめ

  • アメリカへの植民が始まった頃のイギリスはすでに絶対核家族だった。
  • 植民地時代のアメリカは原初的核家族に回帰した。
  • 絶対核家族は18世紀中盤から台頭し、20世紀初頭に全土に普及、1950-70年に絶頂期を迎える。
  • グローバリズムの進行による経済環境の悪化から、親族との相互扶助の絆が復活している。
  • システム」としての絶対核家族の成立には疑問の余地がある。
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〈特集〉アメリカ
-予告編-

はじめに

21世紀前半を生き、世界の真実に近づくことを目指す私たちにとって、アメリカほど興味深く、重要な研究対象はありません。

私たちがいまどんな世界に生きていて、どうしてこの世界を生きることになったのか。アメリカという国を理解することなしに、その答えに近づくことはできないでしょう。

トッドもそう考えたのだと思います。彼は『我々はどこから来て、今どこにいるのか』(2017年(日本語版は文藝春秋 2022年))の中で、アメリカの人類学的分析に最も多くの紙面と労力を費やしました。

以前にも少し書きましたが、彼の分析は本当に鮮やかで、アメリカに関する部分(とくに11章から14章)の骨子はいつか必ず紹介しなければと思っていました。

しかし、彼の分析によって、アメリカをすっかり理解できるか。私たちの生きるこの世界がなぜこのようになったのかを理解して、その先を考えることができるか。‥‥ ということになると「何かが足りない」と感じることも事実なのです。

そこで、トッドに学んだ日本の私は「何か」を付け足すための準備に勤しんでいたのですが、ようやく準備が整ったので、はじめましょう。

それにしても‥‥ トッド入門講座のくせに「足りない」なんて、いったいどういう了見なんでしょうか。

ご説明させていただきます。

トッドのアメリカ観

アメリカの未来、そしてアメリカが主導する世界の未来についてのトッドの感触は、この20年ほどの間に、悲観→楽観→悲観 と揺れ動いています。順番にご覧いただきましょう。

(1)帝国以後:悲観するトッド

2002年、トッドは、「帝国」としてのアメリカ、つまり世界の覇権国としてのアメリカに焦点を当てたこの本を、次のような言葉ではじめました。

アメリカ合衆国は現在、世界にとって問題となりつつある。これまでわれわれはとかくアメリカ合衆国が問題の解答だと考えるのに慣れて来た。アメリカ合衆国は半世紀もの間、政治的自由と経済的秩序の保証人であったのが、ここに来て不安定と紛争を、それが可能な場所では必ず維持しようとし、国際的秩序崩壊の要因としての様相をますます強めるようになっている。

‥‥「孤高の超大国」はなぜ、第二次世界大戦直後に確立した伝統に従って、基本的に寛大で穏当な態度を保持することをやめたのか?なぜかくも動き回り、安定を揺るがすようなことをするのだろうか?全能だからか?それとも逆に、今まさに生まれつつある世界が自分の手をのがれようとしているのを感じるからか?

『帝国以後ーアメリカ・システムの崩壊』(藤原書店、2003年)19-20頁、25頁

本の中盤では、アメリカにおける民主主義の衰退(≒ 万人を平等に扱う普遍主義の衰退)と軍事的・経済的実力のお粗末さを指摘した上で、「‥‥2050年前後にはアメリカ帝国は存在しないだろうと、確実に予言することができる」(117頁)とまで述べています。

要するに、彼はアメリカに絶望していたのです。ところが、この時期までに行われた分析のほぼすべてを維持したまま、この後、彼のアメリカ観は上向きに転じます。

(2)我々はどこから来て、今どこにいるのか?:「原始的なアメリカ」への期待

理由ははっきりしていて、彼はこの間(2002年から2017年)に、「民主制はすべて原始的である」そして「ホモ・アメリカヌスはほぼ狩猟採集民である」という着想を得たのです。

ホモ・サピエンスの人類学的な最初のシステムは核家族であり、重要な親族との関係でできた小さなグループの社会なのです。この核家族の個人主義的な価値観は、リベラル・デモクラシーの基本的な思想につながっていると考えられます。そのことを考えていくうちに、こういう見方にたどり着きました。ならばリベラル・デモクラシー自体も古いものなのだ、と。核家族というシステムの発生に伴って、柔軟で、原初的なデモクラシーや原初的寡頭制という現象も登場したのです。

エマニュエル・トッド、ピエール・ロザンヴァロン他『世界の未来』(朝日新書 2018年)11-12頁

トッドは、2012年に刊行した『家族システムの起源』(翻訳は2016年)の中で、「大家族(複合家族)から核家族へ」という一般常識と異なり、核家族こそが、太古のすべての人類がもっていた普遍的なシステムであることを明らかにしていました

これを手がかりに、彼は『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の中で、リベラル・デモクラシーの本家と目されるイギリス、アメリカの人類学的分析に取り組みます。

その結果、アメリカのシステムが太古の狩猟採集民のシステムに最も近いことを理解した彼は、「民主制はすべて原始的である」という認識に到達し、「原始の民の活力が停滞する世界を切り開く」というイメージに希望を見出すのです。

例えば、出版直後に当時話題となっていたトランプ大統領選出やイギリスのEU離脱(Brexit)について語るトッドはこんな感じです。

私はトランプ大統領があまり好きではありませんし、英国の大衆層の排外的な部分も好きではありません。けれども、この排外性は民主主義と反対のことではなくて、民主主義の始まり、あるいは再登場の始まりなのです。‥‥

‥‥いずれにしろ家族という次元でも政治の次元でも自由であった方が、社会は創造的です。だから、英米世界はこれからも世界をリードし続けるだろうと思います。

『世界の未来』15-16頁

(3)ウクライナ戦争以後:再び悲観へ

しかし、ウクライナ危機の悪化によって、彼のアメリカ観は、再び下方修正されるのです。

タイミングよく(わるく?)2022年10月に公刊された日本語版『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』のあとがきで、トッドは次のように述べなければなりませんでした。

2017年に刊行した本書に関して、基本的な分析の枠組みや主張は、5年経った今でも妥当すると自負しています。

ただ、当時と比べて自分自身の認識を改めざるを得なかった点があります。それは、本書の主題でもあるアングロサクソン世界に対する見方です。本書の執筆時には、今よりも楽観的な見方をしていて、ブレグジットを決断したイギリスとトランプを大統領にした米国ー他の先進国に先んじて民主主義の失地回復を果たしたアングロサクソン世界ーに期待をかけていたのです。

ところが、その後の両国の動きに、少しずつ不安を感じるようになりました。世界を安定化させるどころか、率先して世界を不安定化させているように見えたからです。そのことが明白になったのが、ウクライナ戦争でした。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか』311頁

こうして、私たちは、再び『帝国以後』の冒頭に立ち戻った、といってよいでしょう。つぎの引用は、2023年1月に日本の新聞に掲載されたインタビューの末尾。日本へのメッセージですが、トッドがアメリカの将来に対して暗い見通しを持っていることをはっきりと伝えています。

守ってくれる米国が先につぶれることがあり得ます。ソ連が崩壊したように。日本はまるでソ連を構成した共和国のようですが、幸いなことにその国々よりも多くのリソースを持っている。生き延びていくチャンスは、そこにあるのです。

2023年1月25日 中国新聞(朝刊)

国家とデモクラシー:アメリカの2つの謎

トッドは、なぜ、アメリカの人類学システムを解明したその本で、アメリカの将来について(少なくとも短期的には)誤った見通しを抱くことになってしまったのでしょうか。

ちょっと意地の悪い問いですが、この問いこそが、私たちをより真実に近づけてくれることはまちがいない。

そこで、まず、彼が『我々はどこから来て、今どこにいるのか』の中で、人類学的知見をどのように役立て、どのような問題を解明したのかを確認しましょう。

(1)デモクラシーの成立と衰退ー「平等」の不在

アメリカの家族システムは、母国イギリスに由来する絶対核家族とされます。その表現する価値は、トッドのマトリックスによれば「自由+非平等」、講座版マトリックスによると「権威の不在+平等の不在」です。

*詳しくは「アメリカの家族システム」でご紹介しますが、トッドは、アメリカの核家族は、いったん絶対核家族から原初的(未分化)核家族に近づき、改めて絶対核家族に回帰したあとも(イギリスの絶対核家族と比べ)より柔軟性を保っていることを指摘しています。

この知見を前提に、彼が論じたテーマは「アメリカのデモクラシー」(*トクヴィルと同様、トッドも現地に滞在して執筆したようです)。

中心にある問いは、「デモクラシーはなぜ平等の価値を持たないアメリカで早期に成立し、のちに衰退したのか」です。彼は、「権威と平等」というアメリカに欠如する2つの価値のうち、もっぱら「平等」の方に着目したわけです。

この問いが重要な問いであることは間違いありません。

アメリカのデモクラシーとは「生まれながらにして平等」な人民の合意に基づく政治です。

→独立宣言 https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/

「平等の価値を持たない核家族のアメリカがなぜ ”自由と平等” のフランスよりも早くスムーズにデモクラシーを確立できたのか」は、大いなる謎であり、とりわけ人類学に信を置く者にとっては、絶対に解明しなければならない謎といえます。そして、トッドは確かにその謎を解いたのです。

しかし、それにもかかわらず、トランプ大統領の登場が、アメリカを安定に導く過程の始まりなのか、そうでないのかを見通せなかったのはなぜなのか。

「もう一つの謎が放置されたままになっているからだ」というのが私の考えです。

(2)国家の成立と衰退ー「権威」の不在

もう一つの謎とは何か。それは「「権威」の価値を持たないアメリカが、なぜ国家を成立させることができたのか?」です。

国家の誕生と家族システムにおける「権威」の誕生(=直系家族の誕生)が歴史的に同期するという事実、さらに、原初的(未分化)核家族には国家形成能がないという事実を、私はトッドから教わりました。

「これは決定的だ!」とピンと来て、どんどん仮説を立てているのですが、トッド自身は、国家における「権威」の重要性をあまり真剣に受け止めていないように感じられます(フランス人だからでしょうか‥)。

トッドは、イギリスには過去(古代ローマやノルマン)に由来する「上位の権威」が存在し、アメリカには存在しないことを明記していますし(『我々は‥』上 325頁)、次の部分にもその問題意識が見られます。

米国では、イギリスの社会システムの垂直的要素の大半、すなわち、貴族における長子相続、君主国家とその教会、昔からの支配階級、村落における安定的な寡頭制などが消えた。社会的・精神的システムの中枢を成していた原理そのものが、大西洋の西側では廃止されたのだ。消失したものとして語られるべきものは、超越性、他律性、社会的超自我であろうか。言葉の選択はさほど重要でない。要は、アメリカで姿を現し、拡がったシステムが、地域共同体の数々と連邦を構成する諸州を擁して、イギリスのシステムよりも遥かに水平的であり、原初的人類を構成した原始的集団のシステムに遥かに近いことを確認しておけば充分だ。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』下 26頁

ここまで来たら、つぎの問題は、「それにもかかわらず、アメリカはなぜ国家を形成できたのか」でなければならないはずであり、「アメリカにおいて法、秩序、国民の統合を可能にしているものは何なのか?」でなければならないはずです。

彼がこうした問題に「かすっている」ことは、つぎの文章に見て取れます。

建国の父たちが新たな人民に成文憲法を与えたことはいうまでもない。そのテクストは、しばしば修正を加えられたとはいえ、きっぱりと尊重された。そうして、たちまちのうちにアメリカという国家が存立し、その国家の具備する代表制が素晴らしくよく機能した。それは、高い教育水準のお陰であり、また、社会を不安定にしやすい平等主義的無意識の不在のお陰でもあった。しかし、われわれがすでに見てきたとおり、アメリカという国家はこれまで一度として、正統な暴力の独占を自らに確保し得たためしがない。米国の住民たちはまったく当たり前のように旧式で、武装しており、その他殺率はヨーロッパの水準の5倍から15倍の間で推移している。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』下 26頁

アメリカで、憲法が成立し、国家が存立し、代表制が機能した一方で、暴力をコントロールには失敗している。ここまで明瞭に指摘しておきながら、トッドはこれらのすべてを「原初性」に結びつけ、ロマンすら感じてしまい、「それほど水平的で、原初的であるのに、なぜ国家が成立したのか」を(真剣には‥)問わないのです。

「きーっ、もったいない!」と歯噛みをしつつ、日本人の「権威マニア」としては、フランス人トッドは「権威」の何たるかをよく理解していないか、「平等」に集中しすぎて「権威」のことを忘れてしまったと判断せざるを得ません。

しかし「権威の不在」に関する謎を置き去りにしていることが、トランプのアメリカが健全な民主主義のスタートであるというような「ロマン主義的誤謬」の大もとにあることは間違いないと思われ、私たちとしてはこの謎に取り組まないわけにはいかない。

ということで、「もう一つの謎」は、satokotatsui.comの方で探究することとさせていただきます。

〈特集〉アメリカ

以上の次第で、「特集・アメリカ」は、トッド入門講座とsatokotatsui.comの共同企画とし、三部構成でお送りいたします。

アメリカの家族システム
エマニュエル・トッド入門講座

アメリカ I (平等の不在)ーデモクラシーの成立と衰退ー
エマニュエル・トッド入門講座

アメリカ II(権威の不在)ー国家の成立と衰退ーsatokotatsui.com

どうぞお楽しみに。

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独自研究

生き心地の良い町
-核家族の日本-

「生き心地の良い町」海部町

徳島県に海部町という場所がある(あった)のをご存じだろうか。自治体の合併で現在は徳島県海部郡海陽町の一部となっているが、その中の元「海部町」だった地域のことである(以下単に「海部町」と呼ばせていただく)。 

海陽町村役場の位置

シティズンシップ教育(主権者教育といいましょうか)に関心を持っていた頃に読んだ本(↓)で知ったのだが、その町は、周辺町村と何ら違いがないように見えて、突出して自殺率が低く、社会に対する主体性等の点でも顕著な特徴があるというのである。

岡檀『生き心地の良い町』(講談社、2013年)

例えば、本の中では「有能感(自己効力感)の度合い」に関するものとして挙げられているアンケート項目「自分のような者に政府を動かす力はない。YES/NO」。周辺の自殺多発地域であるA町との比較は次の通り。

YESNO
海部町26.341.8
A町51.227.2
『生き心地の良い町』58頁

初めて読んだときから「家族システムに秘密があるに違いない」とにらんでいたが、調べようもないので放置していたところ、先日「近世京都絶対核家族説」と同時にこの本のことを思い出し、改めて読んでみたらばっちりの記述があるではないか。

海部町の成り立ち

江戸時代の初期、海部町は材木の集積地として飛躍的に隆盛した。一説によれば、豊臣家が滅ぼされた大阪夏の陣のあと、焼き払われた城や家々の復興に充てる大量の材木の需要があり、近畿からの買い付けが阿波の海部町にまで及んだという

近隣町村はいずれも豊かな山林を有しているのだが、海部町には山林という資源に加えて、山上からふもとまで丸太を運搬するための大きな河川があり、さらには大型の船が着岸できるだけの築港が整備されているという、理想的な地の利があった。短期間に大勢の働き手が必要となった海部町には、一攫千金を狙っての労働者や職人、商人などが流れ込み、やがて居を定めていく。この町の成り立ちが、周辺の農村型コミュニティと大きく異なる様相を作り上げていったことに関係している。海部町は多くの移住者によって発展してきた、いわば地縁血縁の薄いコミュニティだったのである。

岡檀『生き心地の良い町』(講談社、2013年)87-88頁(太字は筆者)

こうした歴史的背景を調査し著書に記された岡檀さんご自身は、「地縁血縁の薄い人々によって作られたという海部町の歴史が、これまで述べてきた独特のコミュニティ特性の背景にある」というお考えである。「独特のコミュニティ特性」について要約されているので、少し長めに引用させていただく。

町の黎明期には身内もよそ者もない。異質なものをそのつど排除していたのではコミュニティは成立しなかったわけだし、移住者たちは皆一斉にゼロからスタートを切るわけであるから、出自や家柄がどうのと言ってみたところで取り合ってももらえなかっただろう。その人の問題解決能力や人柄など、本質を見極め評価してつきあうという態度を身につけたのも、この町の成り立ちが大いに関係していると思われる。そして、人の出入りの多い土地柄であったことから、人間関係が膠着することなくゆるやかな絆が常態化したと想像できるのである。

89-90頁

分析はいちいちもっともだと思うのだが、家族システムの影響力が深甚であることを知る者からすると、移住者が運んだ家族システムによっては、実際に「異質なものをそのつど排除してしまってロクなコミュニティが成立しない」、という結末も十分にあり得たように思われる。

そのような結果に終わらず、地元に赴任した保健師に「何かがほかと違う」と言わしめる(34-35頁)不思議なコミュニティとして存続できたことの背景には、もちろん歴史、そしてさらに奥に、家族システムがあるに違いないのだ。

「絶対核家族」の痕跡?

三段論法で説明しよう。

①室町末期から江戸初期にかけての京都周辺は「絶対核家族の都」だった
②その時期に京都周辺から移住した人々の一部が海部町に住み着いた
③ ∴ 海部町は絶対核家族の町となった。

以上が私の立てた仮説である。

まずについて、詳しくは、前回の記事「京都ー核家族の都?」をご覧いただきたい。一言でいうと、京都は古来原初的核家族の都であったが、直系家族の武家政権(足利)が幕府を開いたことへの反発から、室町末期から江戸初期までの町衆主体の京都は絶対核家族の都となっていたのではないか、という説である。

「絶対核家族」というのが一押しの仮説だが、そうでなかったとしても、まだ核家族(原初的核家族)であったことは間違いないと思われる。

については岡檀さんの聞き取りに依拠しているだけだが、歴史的に違和感がないという点は確認しておこう。

まず、近畿と阿波(徳島)の交易は室町時代からそれなりに盛んだったと考えるのが自然である。海路が中心だった当時としては単純に近いし、室町幕府で実権を握った細川氏や三好長胤、松永久秀らはいずれも阿波と縁が深い。

大坂夏の陣(1614)などのきっかけで特に栄えたことが語り継がれるというのもありそうなことだろう。その前後の時期に大勢の人がやってきて、中には住み着いた人もいた、というようなことではないかと思われる。

そこから「∴ 海部町は絶対核家族の町となった」という結論を引き出すにあたって、やや問題なのは「当時の阿波全体の家族システムはどうだったのか?」ということであろう。

とくに、当時の京都周辺が「絶対核家族」ではなく「原初的核家族」だった場合の問題が大きい(両者の違いについてはこちらこちら)。

江戸時代初期に四国がまだ原初的核家族という可能性は小さくなく、その場合、の移住は単に「原初的核家族が原初的核家族地域に移住した」だけとなり、海部町に特別な個性が宿る理由はなさそうだからである。

この件について決定的なことを言うだけの知識も専門性も私にはないが、ただ、四国と近畿では、四国の方が直系家族化が早かったことを伺わせるデータは存在する。

前回も掲載したこの地図だ。

1886年における世帯ごとの夫婦の平均数(『家族システムの起源 I』上 234頁)

これによって、江戸初期の阿波がすでに直系家族であったと推定することは不可能だが、四国と近畿で「差異があった」と述べることは許されるだろう。

直系家族化の過程にあった阿波に核家族度の高い「自由な」人々が移住した。移住した人々と近隣の地元住民とは、「反発」とは言わないまでも、相互に違いを感じ取り、付かず離れずに相互のシステムを保った。

その結果、土地に染み付く形で海部町独自のメンタリティが維持され、数百年の時を経て現在に至る、ということではなかろうか。

「島」

『生き心地の良い町』を改めて読むと、日本の大半は直系家族システムであるとしても、部分的には核家族システムの地域があるのではないか、という気がしてくる。

海部町以外の主な候補地は「島」である。

実は、同書で、海部町は「ある意味、日本でもっとも自殺率の低い町」と表現されている(20頁)。2000年のデータでは、海部町は全国3318の市区町村のうち、8番目に自殺率の低い市区町村となっている。しかし、上位10位に入る市区町村は、海部町以外はすべて「島」なのだ。

「なるほど、島か‥」と考えたとき、思い浮かんだのは、NHKの「列島ニュース」か何かで見た五島の綱引きの光景である(福江島の西端、玉ノ浦町の大宝に伝わるものが一番有名なようだが、他の地域でもある模様)。

正月に豊漁豊作を祈願して行う綱引きだというが、私が驚いたのは「男性 VS 女性」で引き合うという点だ。

2020年に実施された綱引きについて五島市のウェブサイトに記載がある(写真もあるので是非どうぞ)。

年齢も人数も問わない男女対抗の7回戦。太鼓が打ち鳴らされる中、息の合った掛け声と共に懸命に綱を引き合います。

男性が勝つと豊作、女性が勝つと豊漁と言われていますが、去年に引き続き今年も女性の勝利。「ほとんど半農半漁やけんどっちが勝っても嬉しかとよ」やっと新年が始まった気がすると笑うおばあちゃん。

焼き餅入りのぜんざいを安堵した表情で美味しそうにほお張っていた。

勢いのあるタイプの祭といえば男性が主役と決まっている。男性と女性が対等に戦うなんて、いかにも、男女の地位に上下の差がない原初的核家族を思わせるではないか。

上記のウェブサイトの記載の中に「半農半漁」とあるが、歴史的に漁労が主な生業であった地域というのがポイントではないかと思う。

農業が主である地域では、土地の相続(そのための家系の永続)が問題となる結果、いずれ(通常は)男性中心の社会になってしまうが、漁業にはその問題がない。船に乗るのが主に男性だとしても、女性には女性の役割があるし、どちらかを体系的に排除しなければならない理由が生じないのだ。

縦型に組まれた日本にも「原初的自由の痕跡」はポツポツと残っているのかもしれない。ちょっと楽しい。