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トッド入門講座

「トッド後」の近代史
(1)近代以前の世界

はじめに

「自由で民主的で豊かな社会を目指して進んできたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか」という問いから、私の探究は始まりました(2020年頃)。

近代化の契機は核家族の識字化であったことはわかった。「自由と民主」は偉大な発明品というよりは、素朴な核家族メンタリティの反映であったこともわかったし、民主化とは大衆の教育レベルの上昇(識字化)であることもわかった。格差社会の根底に高等教育の普及があることもわかったし、アメリカが原初的核家族に退化しているらしいことも、おかねの増えすぎが世界を賭博場にしたこともわかった。

でも、私は、まだなんとなく釈然としません。

「だからって‥‥
 ここまでめちゃくちゃでなくてもよくないか?」

現在のこの世界を見ていると、どうしても、そう感じてしまう。

2024年現在、世界は、文字通り(=比喩ではなく)、殺戮、謀略、略奪、嘘で溢れています。主体は決してアメリカだけではなくて、とくに目につくのはイギリス、それからフランス、ドイツ。私たちがずっと憧れ、手本としてきた国々が、一斉に狂気に陥っている、といった風なのです。

いったい、どうなってしまったのでしょうか。

エマニュエル・トッドが、同じ気持ちで世界を眺めていることは、近年のインタビューから伺えます。

私はフランス人ですが、イギリスの大学で学び、研究者となりました。そんな経験から、私はイギリスに敬意を愛着を感じ、「イギリスは合理的で素晴らしい国、バランスのとれた国だ」とずっと思ってきたのです。

ところが、この戦争をめぐるイギリス政府の態度は、狂っているとしか言いようがありません。非常に好戦的な姿勢を見せています。そもそもアメリカとともに、ウクライナ軍を武装化してロシアと戦争するように嗾(けしか)けたのも、イギリスです。

非合理的な「ロシア嫌い」や「軍事主義(自国の兵士は送っていませんが)」へと逃げているのは、イギリスが深いところで精神的かつ社会的に病んでいるからだ、と考えざるを得ません。しかも近代民主主義が誕生したイギリスがこんな状態にあるだけに、大きな不安を感じています。

『第三次世界大戦はもう始まっている』(2022年)192-193頁(強調は辰井)

「病んでいる」。そう、たしかに、ウクライナをけしかけ、イスラエルに武器を提供し続ける彼らは、精神的かつ社会的に病んでいるように見えます。

しかし、健やかなるときも、病めるときも、社会は家族システムから逃れられない。それがトッドの教えです。

「たぶん、私たちは、自由だの、人権だの、なんちゃら主義だの、そんな言葉にうっとりしていただけで、西欧近代の何たるかを理解していなかったのだな。」

私はそのように理解しました。
そうとわかればやることは一つ。

探究を始めましょう。

「トッド後」の補助線

(1)「トッド前」

このシリーズのタイトルは「「トッド後」の近代史」です。何が「トッド後」なのか。趣旨をご説明させていただきます。

私たちが、歴史上の出来事を見て、何らかの評価を下すときには、一定の尺度というか、補助線を用いるのが通常です。ある事象が(例えば)「進歩」を示す事実なのか、「退歩」や「一時的停滞」なのか、といったことは、その事象単体では判断できませんから。

「トッド前」のわれわれは、非常に大まかにいうと、次のような補助線を用いて「近代」を見ていたと思います。

要するに、「なんだかんだいっても、世の中は進歩してきたのだ」ということですね。

私たちは、近代におけるヨーロッパの行動、彼らが起こした事件、作ってきた制度や仕組みを、この補助線の上に並べて理解し、それを「進歩」だと考えてきたわけです。

しかし、私たちが、西欧近代を正しく理解していなかったとするなら、その原因は、もしかすると、この補助線にこそ、あるのかもしれません。

‥‥ 思えば、エマニュエル・トッドは、明らかに、これとは異なる補助線の存在を、私たちに示唆していたではないですか。

(2)近代化の逆説

新たな補助線を求めるわれわれに、大いなる示唆を与えるトッドの理論とは「近代化の逆説」です。

  • 西欧近代の価値観(リベラル・デモクラシー、自由主義経済など)の基礎にあるのは、核家族システムである。
  • 核家族システムは、もっとも古く、もっとも「進化していない」家族システムである。

トッドが解明したこの2つの事実を組み合わせると、もっとも「進歩した」社会を構築したのは、もっとも「遅れた」家族システムであった、という命題が導かれます。これを「近代化の逆説」と呼びましょう。

トッド自身は、当初、この「近代化の逆説」を、どちらかといえば「喜ばしい発見」という風に捉えていたと思います。

自由という本来なら野蛮に属するものを、洗練したシステムに昇華して制度化できたのは、西欧に「遅れた」システムが残存していたからこそである。彼はそのように考えて「なんて素敵なことだろう」とときめいていたのです。

しかし、すでに「家族システムの変遷」の探究を終えた私たちは、これに簡単に同調することはできません。なぜなら、私たちは、原初的核家族から直系家族、共同体家族への進化は、人口密度が高まり、集団間の接触が増えた世界で、国家を形成し、帝国に発展させ、より広い領域に亘る秩序の維持を可能にするために、必要な発明であったことを知っているからです。

近代とは、原初的核家族と同じ価値観を持つ人たちが、識字の力で(=家族システムの進化をスキップして)、世界の覇者となった時代です。

権威もなければ、平等もない。そんな彼らに、いったい、世界帝国(グローバル化した世界)の盟主の役割が務まるのでしょうか?

(3)「トッド後」

識字化した核家族が主役となった「西欧近代」は、直系家族、共同体家族、緩和された共同体家族‥‥と進んできた世界の発展過程を、真っ直ぐにおし進めたものではありません。

1500年ごろ、識字化した核家族は、ふいに世界の中心部に現れて、世界の覇権を握りました。しかし、彼らが持っている家族システムは、類型化されたシステムの中で、もっとも「遅れた」、原初的なシステムである。

それぞれの家族システムがもっとも重視する価値を記載してみました(辰井の仮説です)

以上の事実を勘案して「トッド後」の補助線を描いてみたのが、下の図です(二層構造です)。

私たちが見ている事実(現象)は表層にすぎず、その深層には家族システムがあります(両者の関係性についてはこちらをご参照ください)。

近代以前、人間社会の発展は、大筋で、家族システムの進化と歩調をあわせていました。

ところが、近代になると、にわかに核家族が覇権を担う。家族システムに関していえば、5000年の進歩が一気にチャラになってしまったのです。

その後を襲う変化が、単純な「進歩」であるなどということは、むしろ、「およそ考えられない」というべきではないでしょうか。

上記の補助線をまじめに受け取るなら、西欧近代は、世界がそれまで進んできた軌道の延長線上で世界を進歩させたというよりは、世界が進む方向性に大きな変更を加えた可能性が高い。

そこで、このシリーズを貫く問いは、こうなります。

「西欧近代は、何をどう変えたのか?」

早速、確かめていきましょう。

近代以前の世界

近代は、一般に、「世界の一体化」の時代といわれます。世界史の教科書にはそう書かれています。地球の大部分が交易を通じて結び付けられ、社会・経済のグローバル化が進んだ時代であると。

この「世界の一体化」のストーリーは、基本的に、「トッド前」の補助線に依拠した筋立てになっています。

‥‥今までみてきたように、古代以来世界各地に成立・展開してきた諸地域世界は、決して孤立していたわけではなく、草原やオアシス、海上のルートをつうじてたがいに交流しており、またモンゴル時代のようにユーラシアの東西を結ぶ巨大な帝国がつくられた時代もあった。

改訂版 詳説世界史(世界史B)(山川出版社、2017年)176頁

というように、それ以前の「グローバル化」の進展を否定するわけでは決してない。以前から一定程度「グローバル化」は進んでいたのだが、それが質的・量的に飛躍的に発展したのが近代なのだ、というものです。

でも、それだけであるはずはない。
「トッド後」の補助線はそう訴えています。

「西欧近代は何をどう変えたのか?」

それを問うていくために、第1回の今回は、彼らが中心部に現れる以前の世界は、どんな風に進歩・発展していたのかを、概観します。

(1)イスラーム帝国の下での平和と繁栄

都市国家が成立して帝国に至るまでの歴史はこちら(↓)をご覧いただくとして、今回はいわゆる「世界帝国」に注目します。

①ペルシャ帝国

初めての「世界帝国」は、ペルシャ帝国(ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)(前550-330))でしょう。

順番としては、メソポタミア地域における帝国の完成(一応、新アッシリア帝国(前911-609)とします)の後。

ハカーマニシュ朝初代のキュロス2世のことはよくわかっていないようですが、パールサ地方(下の地図ではペルシス)か、エラム、あるいはより東方から出てオリエントを征服し、のちに帝国はアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる「真の世界帝国」となりました(↓)。

②イスラーム帝国

ハカーマニシュ朝の版図は、アレクサンドロス、ローマ帝国に継承されますが、この地に興った帝国の中で、「世界帝国」のレベルを一段階上げたといえるのは、イスラーム帝国だと思います。

イスラーム帝国は、ムハンマドの時代(622(ヒジュラ)-632)にアラビア半島を統一した後、正統カリフ時代を経て、ウマイヤ朝(661-750)、アッバース朝(750-1258)と展開し、版図を広げていきます。

アッバース朝の都、バクダードの繁栄ぶりについては、後藤明先生にお話をうかがっておきましょう。

平安の都と謳われたバグダードは、9世紀には繁栄の極に達し、その人口は100万人をこえていたとも想像される。まさに、当時の世界最大の巨大都市であった。

バグダードは‥‥軍事拠点としての円城と、その周囲の、民衆が住む街区よりなっていた。‥‥街区のいたるところにスーク(常設店舗市)があり、食料品、衣料品などの生活必需品から、金銀細工や宝石などの貴重品まで何でも売っていた。金さえあれば何でも手に入るのがバグダードなのであった。

バグダードは、古代にはメソポタミア文明を生んだ地であるイラクの平原にあった。ここは、この時代、無数の灌漑・排水のための運河が掘られ、高度な集約農業がおこなわれていた。それがバグダードの繁栄を直接ささえていた基盤であった。

一方で、運河は商品を運ぶ交通路でもあった。運河を行き来する船は、世界中から商品をバグダードに集めた。遠く中国からは絹、東南アジアやインドからは香辛料と木材、中央アジアからは銀、アフリカからは奴隷と象牙、ヨーロッパからは奴隷と木材、などなどがここにもたらされた。

イスラーム世界の外との貿易だけがさかんであったのではない。バグダードを中心とする商品流通のネットワークが、イスラーム世界の各地の都市を結び、さらにイスラーム世界の外部をも包み込んでいたのである。そのようなバグダードをはじめとするイスラーム世界の都市は、きわめて開放的な性格を保持していた。

後藤明「イスラーム国家の成立」『都市の文明イスラーム』(講談社現代新書、1993年)90-91頁
Illustration: Jean Soutif/Science Photo Library出典
One of the gates of the City of Peace. Source: Histoire Islamique(出典

(2)モンゴル帝国によるグローバル化の拡大 

世界のグローバル化という点で、その次に、大きな発展をもたらしたのは、モンゴル帝国です。

13世紀初頭、内陸アジアの片隅に突然現れたモンゴルは、150年ほどの間に、人類史上最大版図の帝国を成立させていきました。

彼らは、帝国を運営し発展させるにあたって、イスラーム国家を担ったムスリムたちを大いに重用したといわれています。彼らは、イスラームの作った土台の上に、世界帝国を発展させていったわけですね。

まずはモンゴル帝国史の杉山正明先生にお話を伺います。

軍事と通商の結合を主軸とするモンゴルとイラン系ムスリムとの「共生」ともいえる関係は、クビライが当時ユーラシア最大の富をもつ中国全土をも版図におさめて、遊牧世界と農耕世界、さらには海洋世界をもつつみこむ史上かつてない新型の世界国家「大元ウルス」、中国風には元朝をうちたててからは、いっそう大きな規模で展開することとなった。

南宋を接収し、海上ルートを手中にしたクビライ政権によって、モンゴル帝国は陸と海の巨大国家に変身した。陸上・海上でユーラシア大陸を循環する「世界通商圏」が成立し、空前の東西大交流が出現した

杉山正明「モンゴルが「世界史」をひらく」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)36-38頁(下の地図も同箇所より)

この点については、イスラーム社会経済史の専門家の家島彦一先生も、次のように書いています。

この[モンゴル時代に張りめぐらされた]陸上交通のネットワークは、中国から南シナ海〜ベンガル湾〜アラビア海にのびるインド洋の海上交通のネットワークとも連動して、ユーラシア大陸のうちと外を結ぶ壮大な海陸の交通が相互有機的に機能するようになった。インド洋の交通ネットワークは、イエメンを経由して、エジプト・紅海軸ネットワークとも結びつけられていた。

こうして13世紀半ばから14世紀半ばまでの100年間は、マルコ・ポーロや、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータの活躍に代表されるように、イスラーム世界を中心とした国際交易が広域的・多角的に機能し、未曾有の繁栄の時代が形成された。

家島彦一「国際通商ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)247-248頁

なるほど。「マルコ・ポーロ」が東方を見聞できたのも、鄭和率いる大艦隊がインド洋に遠征できたのも、その段階で、イスラム・モンゴルの連合体が、すでに世界のグローバル化を成し遂げていたからこそなのですね。

家島彦一「国際交易ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)249頁

そういうわけなので、世界史上の事実としては、インド航路の「発見」は、決して、ヴァスコ・ダ・ガマの功績というわけではありません。家島彦一先生に確認をお願いします。

一般にはヴァスコ・ダ・ガマによって「発見」されたと説かれているインド航路は、イスラーム世界に生活する人々にとっては、すでにそれより800年以上前から知られた交流圏の一部であった。特に13世紀半ば以後のインド洋は、東側は東シナ海・南シナ海から西側はアラビア海・ペルシア湾・紅海とインド洋西海域までをふくんで、一つに機能する「インド洋世界」を形づくっていた。

家島彦一「国際交易ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)251頁

(3)辺境のヨーロッパ

ヨーロッパが、中央部の「グローバル化」から完全に取り残されていたというわけではありません。

15世紀の終わり(1498年)になってようやくヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を「発見」したという事実が示すように、15世紀以前のヨーロッパは、インド洋を中心とするグローバルな通商ネットワークには接続していませんでした。

しかし、ヨーロッパには地中海という小窓がありました。おそらく、ローマ帝国時代の遺産だと思いますが、イタリア海洋都市(ヴェネツィア、ナポリ等)の商人たちが独占的に地中海交易を営んでおり、ヨーロッパは彼らを通じて、東方の文明にアクセスしていたのです。

辺境のヨーロッパから見て、アジアの豊かさがどれほど圧倒的であったか。ヴェネツィアの市場を訪れたあるヨーロッパ人の感想をお読みいただくのがよいでしょう。

まさしく、世界の品物のすべてがここに集まっているといっても過言ではない。ここにいる人間という人間のすべてが、死に物狂いで貿易にいそしんでいる。‥‥行き届いた設備をそなえて立ち並ぶ数多の商店は品物であふれ、まるで倉庫のようだ。そこには、あらゆる製法による膨大な数の布地ーータペストリー、ブロケード、多様な意匠のカーテン、種々のカーペット、色とりどりのキャムレット、あらゆる種類の絹地ーーがあり、また別の倉庫には、香辛料、食品、薬、そして見事な蜜蝋までが大量にあって、見る者を唖然とさせる光景だ。

ジェリー・ブロトン(高山芳樹訳)『はじめてわかるルネサンス』(ちくま学芸文庫、2013年)51-52頁

当時のヨーロッパは、世界の辺境に位置する貧しい地域だった。この事実はとても重要なので、もう一つ、エピソードをご紹介させていただきます。

インド洋航路を「発見」し、カリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマは、現地の王(カリカット王)に謁見したときの話です。

謁見に備えて、ポルトガル王から託された贈り物を調えていたガマのところへ、王の役人やイスラム教徒の商人が様子を見にやってきました。彼らは贈り物を見て笑い出し、次のようにいったそうです。

「これは王への贈り物などではない。この町にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している。もし王に何かを求める気なら、金を贈らないと。」

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)45頁

(4)ヨーロッパはなぜ「大航海」に出たのか

すでにお気づきかもしれませんが、この「貧しさ」、もう少しロマンチックにいうと「東方への憧れ」こそが、ヨーロッパが「大航海」に乗り出した根本的な理由です。

コロンブス(クリストバル・コロン)が黄金の国ジパングを求めて大西洋に乗り出したというのは俗説で、実際には、「マルコ・ポーロ」の東方見聞録に書かれた「大カアンの国」、すなわちクビライの巨大帝国への旅であったことが、『航海誌』の冒頭に明記されているそうです。

地球を西へひたすらゆけば、モンゴル帝国の宗主国に辿りつけるはずだとの考えであった。

杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』303頁

ヴァスコ・ダ・ガマが目指したのは、極東の地「インド」にあるとされた「乳と蜜が流れる」キリスト教帝国でした。ガマはポルトガル王から、帝国の支配者とされたプレステ・ジョアンへの親書を託されてすらいたというのです(福井・38頁)。

なお、ポルトガルがインド洋に進出した背景について、西洋史の文献を探ってみると、この頃のインド洋貿易は「イスラーム商人に独占されていた」と記載するものが少なからず存在します。

それほどはっきり書かれているわけではありませんが、この筋書きの場合、ヨーロッパは「イスラーム商人による貿易の独占を打破するためにインド洋に進出した」という解釈になるのでしょう。

しかし、当時のインド洋貿易がムスリムに独占されていたというのは、おそらく、当時の無知ないし被害妄想に端を発する誤解です。

少し長い引用になりますが、大事なことなので、羽田正先生にしっかりご説明いただきましょう。

インド洋で活躍する商人は、各々血縁や出身地、それに宗教ごとに共同体を作り、その仲間が協力して商業活動に従事していた。8~9世紀以後にアラビア語を話すイスラーム教徒が進出したこの海域は、ときに「イスラームの海」と見なされることがある。しかし、これは当時の現実を単純化しすぎた誤った見方である。確かにこの地域には、ムスリムの商人や船乗りも多かった。しかし、それ以外に、バニアと呼ばれたグジャラート地方のヒンドゥー系、それ以外の地域の別のヒンドゥー宗派系、ジャイナ教系、ユダヤ教系、アルメニア正教系、さらにはインドのキリスト教系などイスラーム教以外の宗教を信じる商人が、それぞれの共同体を作って活発な交易活動を展開していた。

また、ムスリムがすべて仲間となり、一つの集団を作っていたわけでもない。アラビア半島のアデンを拠点とするアラブ系の人々、ペルシャ湾入り口のホルムズに根拠を持つイラン系やアラブ系の人々、北西インドのグジャラート各地を拠点とするスンナ派やシーア派の人々、インド・マラバール海岸のカンナノール郊外とポンナニ近郊に集住するマーッピラと呼ばれる集団に属する人々など、ムスリムの集団がいくつも併存しており、それぞれの集団の間で、貿易の方法や利益をめぐって争いが起こることもあった。

「イスラームの海」という言葉は、ムスリムが一体となってインド洋海域の貿易を自分たちのやり方で完全に支配していたかのように思わせるが、そのような実態はない。異なった宗教を信じる多様なエスニック集団が、共存して競争しながら貿易を行うのが、この海域の商業活動の特徴だった。ガマに率いられたポルトガル人は、自分たちがキリスト教徒であることを隠す必要はまったくなかった。彼らがこの海域の基本的なルールに従って貿易を行うかぎり、他の商人たちは彼らを新しい競争相手として特に問題なく受け入れただろうからである。

羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)39-40頁

次回に向けて

以上に見てきたように、近代以前、つまり、西洋人が「大航海」を始め、近代化の道を開くより前に、世界は、共存共栄を旨とする、グローバルな自由貿易圏を実現していました。

共同体家族(とくに内婚制)を中心に営まれていたこの自由な海に、識字化した核家族が乗り込んだとき、彼らはどんな行動を取り、世界をどのように変えていくのでしょうか。

次回に続きます。


おまけ:「大航海」の背景【気候編】

コロンブスはモンゴル帝国を目指し、ガマは架空のインド・キリスト教王国を夢見て大海に乗り出したと書きました。しかし、偽書が出回ったのは12世紀ですし、「マルコ・ポーロ」の見聞録が広まりだしたのは14世紀初頭。なぜ、彼らは、15世紀中葉になって、突然「大航海」を始めたのでしょうか。

田家康『気候文明史』(日経ビジネス人文庫、2019年)235頁

識字率の上昇傾向は大前提として、それ以外にも、彼らのメンタリティに大きな影響を与えたと見られる要素があります。気候です。

上の人口の推移の表をご覧ください。表には500年からのデータが記されていますが、ここでは1000年以降に着目します。

まず、ヨーロッパ全域の人口は、1000-1340年(340年間)の間に倍増しています。しかし、直後の1340-1450年(110年間)には、再び大幅な減少局面を迎えるのです。

1000年からの人口増と1340年からの人口減は、どちらも気候変動から説明できます。

https://cdn.britannica.com/15/149415-050-8DFF938D/Estimates-temperature-variations-Northern-Hemisphere-England-2000-ce.jpg

気候史において、10世紀から14世紀(900-1300年頃)は「中世温暖期」と呼ばれる、ヨーロッパが温暖な気候に恵まれた時代で、ヨーロッパでは農業生産が増大し、人口も大いに増えました(グラフの通り、世界的な現象ではなかったようです)。

一方、移行期を挟んで、14世紀中頃から19世紀後半は「小氷期」と呼ばれる寒冷化の時代です。中でも(移行期を含む)以下の4期は、とくに厳しい寒さとなりました。

  • 1️⃣1280-1340頃
  • 2️⃣1420-1530頃
  • 3️⃣1645-1715頃
  • 4️⃣1790-1830頃

ヨーロッパの人口は、1️⃣の期間の後に大幅に減少します(↓)。

西ヨーロッパの人口と人口増加率(statista)

そして、15世紀半ば、人口が底に達したヨーロッパを(↑)、再度の厳寒期(2️⃣)が襲うのです。

まさにこの時に、大航海時代は始まりました。

私たちは、大航海時代以降のヨーロッパの歴史を、なんとなく、地道に国力を蓄えたヨーロッパが、満を持して、世界で大活躍を始めた歴史、というように捉えがちです(私はそうでした)。

しかし、その出発点において、彼らの気分が、「時は来た。いまこそ世界制覇に乗り出そう」といった威勢のよいものでなかったことは明らかです。

ヨーロッパは、どちらかといえば、食うに困り、どこかにあるはずの「豊かさ」を求めて旅立った。その気分は、この先の彼らの行動に、一定の影響を及ぼしていくことでしょう。

  • われわれが西欧のことを正しく理解していないのは「なんだかんだいっても、世の中は進歩してきた」という前提が誤っているからかもしれない。
  • 家族システムの理論によれば、西欧近代とは、最も遅れた家族システムを持つ集団が識字の力で覇権を取った時代であり、彼らは世界を単純に進歩させたというより世界が進む方向性を大きく捻じ曲げた可能性が高い
  • 西欧近代を正しく理解するためには、家族システムの進化と連動していた近代以前の世界史の流れと比較し「西欧近代は何をどう変えたのか」を見ていく必要がある。
  • 大航海時代に辺境のヨーロッパが初めて足を踏み入れたインド洋には、すでに共存共栄を旨とする開放的なグローバル交易圏が成立していた。