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独自研究

家族システムとイデオロギーの再解釈

フランス人トッドと日本人の私ー平等マニアと権威マニア

トッドはフランスの平等主義核家族地域出身である。「平等」という価値が具体的にどのような形で社会で作用しているのかを肌で理解しているためなのだろう。私から見ると、トッドは「平等」の価値に敏感で、平等の観点から社会を分析するときに際立った冴えを見せる。

例えば、「平等不在(絶対核家族)のアメリカが民主主義を早期に確立できたのは黒人と先住民の存在が「白人の平等」の観念を可能にしたからである」という仮説に基づくアメリカ現代史の分析などは本当に秀逸で、何度読んでも驚かされる(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』 に詳しいが『移民の運命』『帝国以後』にも関連する記述がある)。

それと比較すると、日本人である私は「権威」の価値に敏感であるといえ、「権威」を軸にした分析を付け加えることで、トッドが始めた「歴史の書き換えプロジェクト」に独自の貢献ができると感じている。

今回は、家族システムとイデオロギーの関係性について、トッドと少し異なる視点から再解釈を施してみたい。

トッドのマトリックス

『世界の多様性』等におけるトッド版マトリックスはこのようなものである。 

『世界の多様性』47頁参照。ただし同書では左に45度傾いた✖️形状になっている。

これはトッドが家族システムの歴史的変遷の概要を解明する前、世界における家族システムの分布を単なる「偶然」と考えていた時期にすでに作成されていたものである。

もちろんこれはこれでよいのだ。シンプルで、現実の理解に非常に役立つものであることは間違いない。

しかし、家族システムの変遷に関する知見を手に入れ、家族システムの進化と国家形成の深い関連性を知り、とりわけ国家形成において「権威」が果たした役割の重要性を理解すると、この図に少し手を入れたいという気持ちがムクムクと湧いてくるのだ。

マトリックス・講座版

というわけで作ってみたのが下の図である。

変遷過程を示す矢印も入れてみました。

主な変更点は

  • 権威を上に持ってきたこと、
  • イデオロギーを「自由と権威」「平等と不平等(非平等)」の対立ではなく「権威と権威の不在」「平等と平等の不在」として表現したこと、

の2点である。

トッドの研究に依拠すると、各家族システムの形成過程はつぎのように整理できる。

  • 初めに「権威」が発生したことで家族のシステム化=国家形成がスタート(権威+平等なしの直系家族)。
  • 遊牧民の「平等」が付加され、共同体家族に発展。
  • その後、直系家族の権威への反動として絶対核家族が、共同体家族の権威の退化および直系家族の権威への反動として平等主義核家族が登場。

以上の歴史的経緯から見ると、システム化の過程で、一番最初に発生し、国家を可能にしたのが「権威」であること、そして、積極的な価値として発生したのは「権威」と「平等」の二つであることがわかる。

「自由」とされるものは「権威の不在」あるいは「権威の否定」、「不平等」「非平等」とされるものは、「平等の不在」という方が、実態に近いのではないかと思われるのである。

例えば、直系家族の「権威と不平等」は、世代を越えて受け継がれる家長の権威が発生したことの単純な結果である。誰かを次世代の家長に指名するということは、必然的にそれ以外の者との間に差異が生まれるということなのだから。

絶対核家族の場合も同じで、「自由と非平等」は、平等を持たない社会が縦型(世代間)の権威を否定したことの結果である。平等を持たないから、異なる取り扱いには頓着しない。しかし、縦型の権威も持たないから、結果的に、取扱の差異に規則は発生しない。

直系家族と絶対核家族の「不平等」と「非平等」を分けているのは、権威の有無であり、平等についての積極的な考え方の違いというわけではない。

そういうわけで、権威を上に置いて直系家族が国家の原型であることを示し、かつ、4つの価値をそれぞれ積極的な価値とするのではなく、2つの価値とその不在として表現した。

トッドのマトリックスだとどうしても「自由と平等の方が偉い」という感じがしてしまうが(被害妄想でしょうか)、その点が緩和できるのも利点だと思う。

おわりにー「権威」の価値を認める

直系家族システムが成立する以前の人類は核家族を基礎とする柔軟な絆の中で暮らしており、その時代の基本的な意思決定システムは話し合いーつまり民主主義であった。トッドは次のようにいう。

ホモ・サピエンスの人類学的な最初のシステムは核家族であり、重要な親族との関係でできた小さなグループの社会なのです。この核家族の個人主義的な価値観は、リベラル・デモクラシーの基本的な思想につながっていると考えられます。そのことを考えていくうちに、こういう見方にたどり着きました。ならばリベラル・デモクラシー自体も古いものなのだ、と。

エマニュエル・トッドほか『世界の未来』(朝日新書、2018年)11-12頁

私は彼のこのような見方から誰よりも強い影響を受けた者の一人だと思うが、この説明はちょっと甘いというかミスリーディングだと感じる。

これだと、結局「自由こそが人類の本来の姿だ」という感じがしてしまうではないか。単純な進歩史観ではないとしても、ロマンティシズムの対象として自由が美化されている点は近代主義そのものである。

原初的核家族から直系家族への進化(家族のシステム化)は、人口密度の高まった世界への適応であり、共同体家族への進化は、集団の利害が複雑に対立する状況において、平和を維持するために生じたものである。

その現実は受け入れなければならない。

「権威」には確かに抑圧的な面があるから、「システム以前」の感受性を受け継ぐリベラル・デモクラシーは、誰の目にも明るくよいものに見える。

しかし、リベラル・デモクラシーに憧れたところで、狩猟採集時代の人口密度に戻れるわけではないのである。

実際、世界には人間が溢れかえっていて、まもなくその全員が識字化した時代を迎えようとしている。その全ての人たちが「自由」に自己利益を追求したらどうなるか。その結果の一端は、すでに、環境破壊や、不安定なアメリカの動きによる世界の混乱などに現れているといえる。

何かちょっと話が大袈裟になってきたが、「権威」の価値を正しく理解することは、20世紀をきちんと終わらせ、この先の世界を構想する(というか適応する)ために不可欠なことだと思うので、このような再解釈を試みてみた次第です。