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家族システムとイデオロギーの再解釈

フランス人トッドと日本人の私ー平等マニアと権威マニア

トッドはフランスの平等主義核家族地域出身である。「平等」という価値が具体的にどのような形で社会で作用しているのかを肌で理解しているためなのだろう。私から見ると、トッドは「平等」の価値に敏感で、平等の観点から社会を分析するときに際立った冴えを見せる。

例えば、「平等不在(絶対核家族)のアメリカが民主主義を早期に確立できたのは黒人と先住民の存在が「白人の平等」の観念を可能にしたからである」という仮説に基づくアメリカ現代史の分析などは本当に秀逸で、何度読んでも驚かされる(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』 に詳しいが『移民の運命』『帝国以後』にも関連する記述がある)。

それと比較すると、日本人である私は「権威」の価値に敏感であるといえ、「権威」を軸にした分析を付け加えることで、トッドが始めた「歴史の書き換えプロジェクト」に独自の貢献ができると感じている。

今回は、家族システムとイデオロギーの関係性について、トッドと少し異なる視点から再解釈を施してみたい。

トッドのマトリックス

『世界の多様性』等におけるトッド版マトリックスはこのようなものである。 

『世界の多様性』47頁参照。ただし同書では左に45度傾いた✖️形状になっている。

これはトッドが家族システムの歴史的変遷の概要を解明する前、世界における家族システムの分布を単なる「偶然」と考えていた時期にすでに作成されていたものである。

もちろんこれはこれでよいのだ。シンプルで、現実の理解に非常に役立つものであることは間違いない。

しかし、家族システムの変遷に関する知見を手に入れ、家族システムの進化と国家形成の深い関連性を知り、とりわけ国家形成において「権威」が果たした役割の重要性を理解すると、この図に少し手を入れたいという気持ちがムクムクと湧いてくるのだ。

マトリックス・講座版

というわけで作ってみたのが下の図である。

変遷過程を示す矢印も入れてみました。

主な変更点は

  • 権威を上に持ってきたこと、
  • イデオロギーを「自由と権威」「平等と不平等(非平等)」の対立ではなく「権威と権威の不在」「平等と平等の不在」として表現したこと、

の2点である。

トッドの研究に依拠すると、各家族システムの形成過程はつぎのように整理できる。

  • 初めに「権威」が発生したことで家族のシステム化=国家形成がスタート(権威+平等なしの直系家族)。
  • 遊牧民の「平等」が付加され、共同体家族に発展。
  • その後、直系家族の権威への反動として絶対核家族が、共同体家族の権威の退化および直系家族の権威への反動として平等主義核家族が登場。

以上の歴史的経緯から見ると、システム化の過程で、一番最初に発生し、国家を可能にしたのが「権威」であること、そして、積極的な価値として発生したのは「権威」と「平等」の二つであることがわかる。

「自由」とされるものは「権威の不在」あるいは「権威の否定」、「不平等」「非平等」とされるものは、「平等の不在」という方が、実態に近いのではないかと思われるのである。

例えば、直系家族の「権威と不平等」は、世代を越えて受け継がれる家長の権威が発生したことの単純な結果である。誰かを次世代の家長に指名するということは、必然的にそれ以外の者との間に差異が生まれるということなのだから。

絶対核家族の場合も同じで、「自由と非平等」は、平等を持たない社会が縦型(世代間)の権威を否定したことの結果である。平等を持たないから、異なる取り扱いには頓着しない。しかし、縦型の権威も持たないから、結果的に、取扱の差異に規則は発生しない。

直系家族と絶対核家族の「不平等」と「非平等」を分けているのは、権威の有無であり、平等についての積極的な考え方の違いというわけではない。

そういうわけで、権威を上に置いて直系家族が国家の原型であることを示し、かつ、4つの価値をそれぞれ積極的な価値とするのではなく、2つの価値とその不在として表現した。

トッドのマトリックスだとどうしても「自由と平等の方が偉い」という感じがしてしまうが(被害妄想でしょうか)、その点が緩和できるのも利点だと思う。

おわりにー「権威」の価値を認める

直系家族システムが成立する以前の人類は核家族を基礎とする柔軟な絆の中で暮らしており、その時代の基本的な意思決定システムは話し合いーつまり民主主義であった。トッドは次のようにいう。

ホモ・サピエンスの人類学的な最初のシステムは核家族であり、重要な親族との関係でできた小さなグループの社会なのです。この核家族の個人主義的な価値観は、リベラル・デモクラシーの基本的な思想につながっていると考えられます。そのことを考えていくうちに、こういう見方にたどり着きました。ならばリベラル・デモクラシー自体も古いものなのだ、と。

エマニュエル・トッドほか『世界の未来』(朝日新書、2018年)11-12頁

私は彼のこのような見方から誰よりも強い影響を受けた者の一人だと思うが、この説明はちょっと甘いというかミスリーディングだと感じる。

これだと、結局「自由こそが人類の本来の姿だ」という感じがしてしまうではないか。単純な進歩史観ではないとしても、ロマンティシズムの対象として自由が美化されている点は近代主義そのものである。

原初的核家族から直系家族への進化(家族のシステム化)は、人口密度の高まった世界への適応であり、共同体家族への進化は、集団の利害が複雑に対立する状況において、平和を維持するために生じたものである。

その現実は受け入れなければならない。

「権威」には確かに抑圧的な面があるから、「システム以前」の感受性を受け継ぐリベラル・デモクラシーは、誰の目にも明るくよいものに見える。

しかし、リベラル・デモクラシーに憧れたところで、狩猟採集時代の人口密度に戻れるわけではないのである。

実際、世界には人間が溢れかえっていて、まもなくその全員が識字化した時代を迎えようとしている。その全ての人たちが「自由」に自己利益を追求したらどうなるか。その結果の一端は、すでに、環境破壊や、不安定なアメリカの動きによる世界の混乱などに現れているといえる。

何かちょっと話が大袈裟になってきたが、「権威」の価値を正しく理解することは、20世紀をきちんと終わらせ、この先の世界を構想する(というか適応する)ために不可欠なことだと思うので、このような再解釈を試みてみた次第です。

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連載「社会のしくみ」のご案内

 

姉妹サイトsatokotatsui.comの方で、連載「社会のしくみ」をはじめました。

トッドの人類学を頭に入れると、国家の誕生、国家の意思決定システム(政治ですね)、政治と宗教の関係、世界情勢‥など、さまざまなことが構造化して見えてきます。

自分としては、社会についての謎がどんどん解けていって面白くて仕方がなく、同じように社会に関心がある方たちにも、驚きと喜び、そしてさらなる探究のきっかけになるに違いないと思い、頭に溜まった仮説たちを共有させていただくことにしました。

もとより仮説にすぎませんし、かっちりまとめるのは読む方も書く方も大変なので、エッセイ的にゆるめに綴らせていただきます。

‥‥

この連載を「トッド入門講座」のサイトに載せるか、satokotatsui.comに載せるかは少し迷いました。すべての出発点がトッドの人類学にあることは間違いないので「独自研究」として当サイトに掲載するのがよいかとも思いましたが、私が立てる仮説の骨子には、(書かれたものを読む限り)トッドの考えと相容れない要素がいくつか含まれていると思われるので、ミスリードを避けるため、個人サイトにアップすることにしました。

トッドが自身の学説から導いた(世界の)解釈のほとんどを私は手放しで支持していますが、うっすらと疑問を感じていたことが2つありました。

①「脱宗教化」の意味づけ

トッドは、先進国の「危機」において、宗教というファクターをかなり重視しています。信仰の内容ではありませんが、「脱宗教化」すなわち「信仰が失われたこと」が根本にあるという見方です。

*なお、ここでいう「危機」とは、エリートたちがグローバリズムに踊らされ、自分たちの経済的特権を守るために若年層を犠牲にし、さらには(ヨーロッパではとくに)イスラムをスケープゴートに仕立てて社会の分断を煽り立てるような事態のことを指します。

「現在の混乱の起源には宗教的危機があるのだ。あたかも、1965年から2007年までの間に、宗教的信仰の最後の拠点が崩壊したことが、全国的な政治的解体を産み出すことになったかのようなのである。」

デモクラシー以後・52頁

この断定に至るフランスのデータ分析は行き届いたもので、私は、ヨーロッパの「危機」の根幹に宗教的空白を認めるトッドの立場にはいささかの異論も持ちません。

でも、日本ではどうか。

「日本のことはよく知らないから」と遠慮を見せつつ、トッドは明らかに宗教心の喪失は日本でも(ヨーロッパと同様に)何らかの破壊的影響をもたらしたはずだと考えたがっています(『シャルリとは誰か』の日本向けはしがきなど)。

しかし、彼のこの見立てに対しては、私は直感的に「違う」と感じます。日本人にも信仰心はあった(る)しそれが減弱していることは事実でしょうが、信仰の喪失そのものは、日本社会にはそれほど大きなダメージにはなっていないと感じるのです。

それは多分、ヨーロッパにおけるキリスト教の立ち位置と日本社会における宗教の立ち位置が少し違うからであり、そこには必ずや家族システムの相違が関係しているというのが、確信に近い私の直感です。

②「権威」の本質的重要性

もう一つは、社会における「権威」の機能です。

トッドは、われわれ人類は皆(とりわけ集団としては)家族システムの規定力から自由ではないことを明らかにし、ロシアや中国、中東の権威主義体制を敵視する英米仏の人々に対し、彼らのシステムを理解する必要があることを伝えます。

これは本当に(普及すれば)ノーベル平和賞級の偉大な功績で、だからこそ私はこうして普及のために微力を尽くしているわけですが、しかし、トッドが「権威」というものの存在意義というか客観的価値を正当に評価しているかというと、それはちょっと疑問であるとも感じます。

理由の一つとしては、トッドが政治哲学のような議論は好まず、ごく一般的なフランス市民の価値観を持つ「科学者」としてふるまっているということがあるでしょう。

科学者トッドはどのシステムがよいとかよくないとかいう立場にはなく、一市民として、自由主義体制を好むということを時折表明する。ただそれだけのことにすぎないのかもしれません。

しかし、この点についてのトッドの抑制的態度は、結果的に、核家族システムの徹底した相対化、つまり、ヨーロッパの特殊性の理解を妨げている面があるように思われます(①の私の疑問も多分この点と関係しています)。私のような社会科学者から見ると、非常にもったいないのです。

「ここにこそ、西欧近代が作り上げたモデルから逃れて、本当に世界史を書き換える鍵があるのに!」と。

そういうわけで、漠然と抱いていたこれらの疑問を掘り下げて、社会について考えてみたら「何かがわかった!」という気がしたもので、はじめるのが今回の連載です。

トッドの理論を受け止めた日本の社会科学者による社会の基礎論的考察(?)、

どうぞお楽しみ下さい。

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トッド用語事典

移行期危機

 

1 移行期危機とは

移行期危機とは、社会が前近代から近代に移行する際に発生する危機的現象のことを指す用語です。

トッドの理論では、近代化の引き金を引くのは識字化です。男性の半数以上が識字化し、物を考え、社会に参加する主体が増えることで、社会が変わる。

 →ストーンの法則(識字率と民主化革命を結びつける)
 →近代化のモデル

一方で、人間は、男性識字率50%がもたらす急激な変化を、当たり前のようにやり過ごすことができる生物ではありません。

人々は、期待とともに、強い不安を感じる。人々の精神の動揺は、社会を不安定化させます。その社会の不安定化こそが、移行期危機の原因である、というのが、トッドの仮説です。

文化的進歩は、住民を不安定化する。識字率が50%を超えた社会がどんな社会か、具体的に思い描いてみる必要がある。それは、息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界なのだ。全般化された教育は、やがて家族内での権威関係を不安定化することになる。教育水準の上昇に続いて起こる出生調節の普及の方は、これはこれで、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがすことになる。この二つの権威失墜は、二つ組合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。

エマニュエル・トッド  ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳)『文明の接近 「イスラーム VS 西洋」の虚構』(藤原書店、2008年)59頁。

2 典型的な過程 

移行期危機を経て社会が安定化に至る過程では、通常、上のようなシークエンスが観察されます。

近代化の過程においては、出生率低下は受胎調節(避妊)の普及の証であり、受胎調節の普及は、脱宗教化の証です。

*ただし、出生率低下の促進要因として宗教を重視する見方は、トッドが(主に)ヨーロッパのデータから導いたものであることには注意が必要だと思います。

宗教というファクターは、男性識字化(50%)から出生率低下までに170年を要したドイツ、識字化(50%)に先んじて出生率が低下したフランスの例を効果的に説明します(ヨーロッパの脱宗教化について詳しくはこちらをご覧ください)。

しかし、キリスト教システムが国家に準じるような大きな役割を果たしてきたヨーロッパと同じことが、他の地域(とくに日本やイスラム圏以外のアジア)にも当てはまるかは、まだ充分に検証されているとはいえません。

より普遍性を持たせるなら、「信仰心の喪失」ではなく、「伝統への忠誠心の消失」などと言い換える方が適切かもしれない、と私自身は考えています

3 具体例

識字率50%(男性/女性)出生率低下移行期危機を示す現象とその時期
イギリス1700/18351890第一次世界大戦(74万人が死亡)(1914-1918)
ドイツ 1725/18301895第一次世界大戦-ナチスドイツ(1914-1945)
フランス1830/18601780フランス革命-ナポレオン
(1789-1814)
日本1870/19001920満州事変-第二次世界大戦
(1931-1945)
韓国1895/19401960朴正煕クーデター-光州事件
(1961-1980)
ロシア1900/19201928ロシア革命-スターリン
(1917-1953)
トルコ1932/19691950政治的混乱、テロ、クーデター、イスラム主義(1960-2000)
インドネシア1938/19621970インドネシア大虐殺
(1965-1966)
中国1942/19631970文化大革命
(1966-76)
カンボジア1960以前クメール・ルージュ(大虐殺)
(1975-79)
ルワンダ1961/19801990ルワンダ大虐殺
(1994)
イラン1964/19811985イラン革命(1979)
ネパール1973/19971995毛沢東主義ゲリラ
(1996)

<注釈>

・男性識字率50%と相関する民主化革命は、それ自体が高度に暴力的である場合(フランス革命、ロシア革命)もありますが、そうでない場合(イギリス革命)もあります。

・トッドはイギリス革命の暴力性が低かった理由を、識字率上昇が全国的でなかったことに求めていますが、出生率低下(脱宗教化)がまだだったことに求める仮説も成り立つかもしれません。

・イギリスについては、第一次大戦時の被害の大きさ(ナショナリズムに基づく戦闘意欲の高さを示す)が移行期と関連するというのがトッドの見立てです。

・フランスの識字率上昇はパリ盆地と周辺の都市部だけを取るともっと早いです(1700-1790)

・中国の移行期危機はもっと長く取る方が妥当かもしれません(1950年前後?)

・上記以外のイスラム諸国の数字をいくつか紹介しておきます(男性識字率50%、女性識字率50%、出生率低下)。

シリア194619711985
サウジアラビア195719761985
イラク195920051985
エジプト196019881965
パキスタン197220021990

・いずれも20-24歳の男性・女性の識字率が50%を超えた年です。

4 ユースバルジ論との関係

トッドは人口学の専門家でもあり、近代化に関する彼の理論は、人口学の人口転換の理論を基礎の一つとしています。

多産多死 (出生率・死亡率ともに高い) 前近代
  ↓
死亡率低下 (高出生率+低死亡率→人口増大 「人口爆発」も)
  ↓
出生率低下(やや遅れて出生率が低下。人口増加率が落ち着く)
  ↓
少産少死 (人口が安定) 近代化完了

また、人口学および政治学の仮説に、激しい武力紛争や大量虐殺の原因を人口に占める若年人口割合の高さから説明する「ユースバルジ論」があり、これはトッドの移行期危機の理論とよく似ているので、両者の関係が問題となります(両者の関係についてはこちらでも論じています)。

両者は、それぞれかなり異なるエリア・関心から紡ぎ出されたもので、どちらかがどちらかを参照したという関係にはおそらくありません。つまり、それぞれが独立した理論であって、当人たちの間に、相互影響関係はないと考えられる。

しかし、人口転換論を前提にすると、トッドが重視する「出生率低下」の開始時期は、若年人口が極大化している時期に当たります。

ユースバルジ論は、極端に暴力的な紛争の発生原因に関心を寄せ、歴史家トッドは、近代化という現象の総体を捉えることに注力する。

このような力点の違いはありますが、移行期危機の理論とユースバルジ論は、基本的に同じ現象を捉える理論だといってよいと思います。

5 参考文献

  • Emmanuel Todd, Lineages of Modernity, Polity Press, 2019, p132, p139-152
  • エマニュエル・トッド(萩野文隆訳)『世界の多様性』(藤原書店、2008年)452-459頁
  • エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ(石崎晴己訳)『文明の接近ー「イスラームVS西洋」の虚構』(藤原書店、2008年)
  • エマニュエル・トッド(石崎晴己訳・解説)『アラブ革命はなぜ起きたか』(藤原書店、2011年)

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キューバの謎

キューバは、外婚制共同体家族グループの一員である。ロシア、イタリア中部、中国、ベトナム(の一部)と、見事に共産圏(イタリア中部は共産党が非常に強かった)の地図と重なり、トッドに「家族システムとイデオロギーの相関性」に関する「啓示」をもたらしたグループだ。

共同体家族の成立の鍵となったのは、騎馬遊牧民の存在であることが分かっている。中国もロシアも、そしてイタリア中部も、匈奴やモンゴル、アヴァールなどの遊牧民との接触を経てそのシステムを形成した。ベトナムの場合は、中国からの伝播であろう。(以上については、こちらこちらをご覧ください)

でも、キューバは?

ということで、調査を開始した。

キューバはクリストファー・コロンブスが「発見」、上陸し、航海のスポンサーであったスペインの領土と宣言した土地だ。

「その後は主にスペイン人が入植したはずだから、スペインの一部に共同体家族地域があって、それが移植されたのかもしれない」と思って調べてみたが、トッドの本によると、スペインには共同体家族の地域はない。

そこで、「ポルトガルは?」と思って調べてみると、いろいろと興味深いことが分かった。

ポルトガルの南部には、共同体家族「的」な家族システムの地域がある。同居の規則は共同体的ではないので、共同体家族とはいえない。しかし、「親子関係の特殊な権威主義」と「兄弟間の極めて厳格な平等主義」の組み合わせであり、イデオロギーは完全に共同体家族のそれと一致する。果たしてこの地域は共産党の得票率が極めて高かったことで知られている。

『新ヨーロッパ大全II』164頁

そして、この地域には「キューバ」という町があるのである。

Imagem criada por Rei-artur, em Janeiro de 2005, a partir do mapa Image:Mapa de Portugal.svg.

中南米の国名「キューバ」の語源は、原住民のインディオの言葉から来ているというのが通説のようだが(wiki英語版によると大した証拠はない模様)、ポルトガルの「キューバ」から来たとする説も存在する。その説は、イタリア出身とされているコロンブスは実はポルトガル人であり、出身地である「キューバ」に因んで、新たに発見した土地を「キューバ」と名づけたのだ、とするのである(ポルトガルのキューバにはコロンブスの銅像があるらしい)。

Estátua de Cristóvão Colombo, Cuba, Alentejo

コロンブスがキューバ(ポルトガル)出身なのかどうかは私には分からないが、コロンブスの後、ポルトガル出身の人々がキューバに入植してキューバを作ったと考えることはさほど不自然ではないように思われる。

何しろ、キューバ(ポルトガル)を含むポルトガル南部はイベリア半島で唯一の共同体家族的システムの土地であり、キューバ(国)は、スペインとポルトガルが分け合った南米において唯一の外婚制共同体家族の国なのだから。

ちなみにポルトガルの方の「キューバ」は、アラビア語のqubba(墓廟)が語源とされているらしい。イベリア半島は長らくイスラム王朝の支配地域であったから、その痕跡がポルトガルに残っていてもおかしくはないだろう。ポルトガル南部の共同体「的」システムが、母系制であるというのも、初期のアラブ文化との関係を思わせないでもない。

ともかく、アメリカ合衆国の直近の島が強固な共産主義国家になるといった事態は、こんな風なことによって生じたに違いないのだ。

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ロシアとウクライナのこと

 

はじめに ー 家族システムの理論が教えること

神よ 変えることのできるものについて、 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。 変えることのできないものについては、 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。 

ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉(大木英夫 訳)学校法人 聖学院 ウェブサイト

トッドの理論は、社会について、「変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さ」そして「変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵」を私たちに与える。

さらに進んで「変えることのできるものをどう変えるかを考える知恵」そして「変えるだけの勇気」を持ちうるかどうかは、受け手次第と思う。それを持ちたいと願う者として、それを持ちたいと願う人に向けて書きたい。

家族システムの理論は、自由主義、共産主義、イスラム(慣習的権威主義)その他のイデオロギーは、人間の自由意思の所産というより、社会の基礎にある家族システムが担う価値観の表出であること、したがって、事実上「変えることのできないもの」に属することを教える(こちらのサイトこの連載をご覧ください)。

ここでいう「イデオロギー」は思想信条というより、個人と集団の関係、集団の機能の仕方、リーダーシップのあり方など、社会の基本的な秩序の作り方を規定する無意識的な価値観の総体である。直系家族システムを持つ私たちも「自由主義」の理念を掲げることはできるが、イギリスやアメリカと同じような社会(例えば、訴訟が活発で、選挙のたびに政権交代が起こり、天文学的な所得の格差を許すような社会)を営むことはできない。そういうことである。

平和な世界に向けて、私たちにできることは何か。社会の根底に横たわる家族システム=イデオロギー体系は変えられない。したがって「自由と民主主義」を掲げて徒党を組み、「専制主義」に圧力をかけても、平和に近づくことはできない。

私たちにできる最善は、世界に多様な価値体系が存在していることを認め、尊重し、共存の道を探ることである。

以上を前提として、ロシアとウクライナの戦争について、どのように向き合えばよいかを考えたい。

ロシアの家族システムとプーチン大統領

「西側」の人々は、現在のロシアの「専制主義」を作っているのはプーチン個人の権威主義的な人柄であると信じているように見える(英米の個人主義から見ればそうなることは理解できる)。しかし、現実はそうではない。

ロシアの家族システムは外婚制共同体家族である。共同体家族は親子の縦の権威関係に兄弟の平等が結びついたもので、遊牧民の影響を受けて成立したと考えられている。ロシアの場合、モンゴル宗主権下にあった約2世紀半(13世紀-15世紀)の間に同システムが確立したというのがトッドの仮説である(『家族システムの起源 I 下』498頁)。

すべての子供たちが婚姻後も親の世帯に残り、兄弟とその妻子が作る大きな共同体のトップに父親が君臨する。外婚制共同体家族の父親の権威は全システムの中で最大である。

一方で、外婚制共同体家族の秩序には、継続性を欠くという特徴がある。統率力の源泉は生身の人間の人格であり、後継者となるべき子供たちには序列がない。そのため、父親の死によって家族は分裂し、次の秩序が確立するまでの間、必然的に混乱に陥るのである。

トッドは、農村の外婚制共同体家族が(近代化の過程で)爆発的に崩壊した後、その空白を埋める形で成立したのが共産主義であることを指摘している。

「爆発的解体→革新的新秩序」という推移が、家族システムの特性によるものであることを裏付けるように、ロシア政治史の下斗米伸夫は、ソ連崩壊後の新体制樹立の際にも、これと全く同じ力学が働いていたことを見出している。

崩壊する旧秩序、分極化する社会、ひ弱な穏健改革派指導部、地方の革命的自立、これに反発する保守派クーデターの切迫、新しい革命派、とくに指導者の人気……。

 1917年の政治過程は、91年ソ連崩壊の過程とそっくりではないか。すくなくとも政治力学に関する限りは。

下斗米伸夫『ソビエト連邦史 1917-1991』(講談社学術文庫、2017年)46頁

一つの秩序の崩壊は、共同体家族システムの崩壊を意味しない。秩序が爆発的に崩れ、つぎの新たな秩序が生まれるという力学そのものが、共同体家族システムが機能していることの表れである。

したがって、共産主義ソ連崩壊の後に再建されたロシアが、やはり一人のリーダーに権力が集中する政治体制を持つ国になったのは、プーチン大統領個人の強権的体質のためではないと考えるべきである。ロシアの「土地の記憶」、すなわち外婚性共同体家族という家族システムは、つねに専制的な指導者を必要とするのである。

プーチン大統領は、ソ連崩壊の過程で壊滅的な状況に陥っていたロシア社会を安定させ、その活力を取り戻し、経済を再建した。

新生ロシアは、依然として権力集中型の社会ではあるが、ソ連時代と比べればはるかに自由で民主的である。

このことは、プーチン大統領が、ロシア社会の「変えることのできない」体質を引き受け、「変えることのできるもの」を変えることで復興を成し遂げた、偉大な指導者であることを示している。いったい、政治指導者にそれ以上の何を求めることができるだろうか。

20年以上の長期政権は「西側」の尺度では普通でなく、「権力にしがみついている」ように見えてしまう。

しかし、有能な政治家であるプーチンは、ロシアがどのような性格の社会かを知っているはずだという前提に立つならば、解釈は変わってくる。

国民に安定的な豊かさと繁栄をもたらし、国際社会において名誉ある地位を得るという目標(なんと崇高な目標であろうか)において道半ばであるロシアにとって、政権の交替がもたらす混乱はマイナスにしかならない。

その意味で、可能な限り長く権力の座にとどまろうとする彼の選択は、ロシア国民の利益にかなう、合理的な選択であるといえるのである。

プーチンは天使ではないが(天使に政治家など務まらない)悪魔でもない。このような前提に立つだけで、「西側」の報道とはかなり違う世界が見えてくると思う。

ロシアとウクライナ

ロシアとウクライナの関係、ウクライナの現在を考えるとき、私たちがまず理解する必要があると思われるのは、ウクライナという統一的な国家が古くから存在していたわけではないという事実である。

現在ウクライナの領土となっている地域は、モンゴル支配の後、ポーランド・リトアニア共和国、オスマン帝国などの支配下にあった。これらの国が衰退した後は、オーストリア・ハンガリー帝国領となった西端(リヴィウの辺り?)を除き、全土がロシア帝国の領土となった。

「分割統治されていた」と記載する文献を見かけるが、「分割」の表現はミスリーディングである。それ以前に「ウクライナ」という政治的統一体は存在しなかったのだから。

そういうわけで、ウクライナは確かにロシア帝国の領土であったが、ロシアがウクライナと戦って征服したというわけではない。他の政治権力が衰退し、ロシアが伸張した結果、ウクライナの地がロシアの領土となっただけである。

一般的なロシア史の叙述では、国家としてのロシアの発祥は、9世紀の民族大移動(第二波)の際にノルマン人が作ったキエフ国家に求められている。したがって、ロシアの人々にとって、ロシア帝国が勢力を伸ばし、キエフの地を領土として「回復」したことは、喜ばしく、誇らしいことであったと思われる。

これ以降、ロシア帝国およびソ連邦の歴史を通じて、ロシアとウクライナは同胞として長い時間を共にすることになる。ロシアの人々が、言語の異なるウクライナを「兄弟」と呼ぶのは、こうした歴史的経験に基づくものであり、決してロシア側だけの勝手な言い分ではない。

また、こうした歴史的経緯から、ウクライナにとって最も重要な隣国がロシアであることも強調しておかなければならない。ウクライナにとっては、文明はつねに東からやってきた(そのことは、「東高西低」の傾向を示す同国の経済状態にも現れている)。「西の方が進歩的」という固定観念は、ウクライナには当てはまらないのである。

ウクライナの民族意識と家族システム

ウクライナで独立の機運が生じるのは20世紀に入る頃であり、18-19世紀に(周辺地域と同様に)民族的自覚が高まった結果である(識字率上昇による人々の主体性の高まりは、まずはナショナリズムの高揚をもたらすと決まっています)。

独立の動きは、東部と西部で同時期に発生したが、どちらも成就はしなかった。

  1. ウクライナ人民共和国 1917年(ロシア革命と同時期)に樹立された社会主義国家(首都キエフ)。独立を宣言したが、ロシア赤軍との戦いに敗れ、1920年にはソビエトの支配下に入った。
  2. 西ウクライナ人民共和国 オーストリア・ハンガリー帝国に属していた西部地域で1918年10月に樹立。まもなくポーランドの支配下に入り、第二次大戦後にはこの地域を含む全土がソビエト連邦の一部となる。

同盟を結ぶ動きはあったものの、統一的な独立運動にならなかったことには理由があると思われる。ウクライナは、外婚制共同体家族の地域と核家族の地域に分かれているのである。

1の動きに関しては、民族意識の発露があったことは間違いないとして、社会主義国家の樹立に向かう流れそのものはロシア国内のそれと軌を一にしていたと考えられる。ウクライナ東部は共同体家族の地域であり、東ウクライナにはロシアと全く同様の「ソビエト」自然発生の動きがあった(下斗米・前掲書45頁)。

一方、2は、正真正銘の「反ロシア」の動きと考えられる。ウクライナ西部はポーランドなどと同様の核家族であり、専制主義的な統制は性に合わない。

ウクライナ史の叙述には、「ソ連共産主義の苛烈な支配の下で不満を募らせた」という趣旨が書かれていることがあり、真実と思われるが、そこに一様の「反ロシア感情」を読み取るのは妥当でないと思われる。ソ連共産主義の苛烈な支配に不満を募らせたのはロシアの人々も同じだからである。

ある程度の民族感情が付随するとしても、東部ウクライナ人の「不満」はこれと同質のものである可能性が高い。他方、西部の人々にとっては、ソ連共産主義への不満は「反ロシア」とイコールであっただろう。

独立ウクライナの苦境

ウクライナが独立を達成したのは1991年、ソ連崩壊の際の国民投票で独立が選択されたことによる。その意義を低く見るつもりはないが、歴史的事実として、ウクライナを「統一」に導いたのはロシアであったこと、統一ウクライナの「独立」が、ソ連崩壊による「棚ぼた」であったことは、確認しておく必要がある。

1991年に至るまで、ウクライナの領土がつねに外側の大国の支配下にあったことは偶然ではない。核家族システムは中央集権的国家の形成に不適であり、島国のような自然な国境に恵まれない大陸で、多民族を統べる能力には恵まれていない。他方、ウクライナの共同体家族はロシアやベラルーシと地続きであり、独立の必然性には乏しい。

つまり、ウクライナの独立は、歴史上一度も独立国家の運営を経験したことのないウクライナの人々に、分裂傾向を抱え込む領土をまとめながら、共産主義政権によって疲弊した国力を回復させるという難しい課題を与えるものだったのである。

結論からいうと、ウクライナの国家経営はうまくいかなかった。その事実は、トッドが「規模の大きい国では類例がない」というほどの人口減少に現れているといえる(1990年から2020年の間に5200万人→4400万人)。

人口学が教えてくれること、それはウクライナ社会の静かな解体が進行しているということです。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(2015年)99頁

西部ウクライナの台頭と「西側」

東にはロシアにシンパシーを抱く人々がいて、西にはそれに不満を持つ人々がいて、中間にどちらとも決めかねている人々がいる、というのがウクライナの状況である(多数派は中間であるという)。したがって、ウクライナの安定のためには、ロシア寄りでも反ロシアでもない、中部ウクライナの人々が力をつけ、ロシアからも西側からも支援を受けながら国を作っていくのが理想であったと思われる。

しかし、現実はそのようには動かなかった。

独立後、歴代の政権は、概ねロシアとの関係を重視する政策を取ってきた。しかし貧しさから脱却できない西部地域では不満だけが高まり、「親EU」「反ロシア」の政治勢力が台頭した。

「親EU」と聞けば、進歩的な民主派であると考えるのが「西側」の慣わしであり、「西側」は(少なくとも当初は)そう信じた。しかし、トッドの見立ては違う。

彼らはEUの旗を打ち振りますが、あれは、われわれの民主主義的価値との親和性よりも、ポーランド人の従兄弟たちへのシンパシーや、ソ連兵相手に一緒に戦ったドイツ人たちの思い出に突き動かされてのことなのです。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』100頁

2004年の大統領選挙をめぐる騒動(西部勢力が親ロシア派大統領の勝利を「不正」として抗議→西側の介入もあり再投票→野党大統領へ)、2013年のユーロマイダン(親ロシア派大統領を追放)も、こうした流れの中で起きた事件である(なお、ロシアがクリミアを併合したのはこの直後である)。

「ユーロマイダンの革命と2014年5月25日の大統領選挙では、ウクライナの混濁したもう一つの側面が表面化しました。すなわち、それと比べると〈国民戦線〉〔フランスの極右政党〕がまるで中道左派のように見えてしまうほど超過激な、極右勢力の存在です。
 その極右勢力が特に激烈なのは、国の中の最も貧しい地域の一つである西部地域においてですが、その地域こそ、ヨーロッパ人に好感を持たれている地域‥なのです。」

前掲書 99頁

過激化した西部の台頭という状況において「西側」がやるべきことは、ウクライナに中道を保つよう促すことであったと思われる。すなわち、ロシアとの関係を適切に維持するよう助言し、その上で、必要な助力を提供することであったと思われる。

しかし実際には、彼らは自分たちの勢力争いのためにウクライナを利用した、と言わざるを得ない(どのくらい意図的であったのかは、私には分からない)。

「西側」は、西部勢力を誘惑してEU加盟の夢を見せ、NATO加盟を持ちかけるということまでしたのだから(2019年の憲法改正によりウクライナ憲法にはNATOおよびEU加盟に向けた首相の努力義務が定められた)。

「ウクライナNATO加盟」のインパクト

今回の開戦に至るまでの交渉でロシアが一貫して要求していたのはウクライナのNATO加盟の阻止であり、それだけだった。この要求は不当な要求であっただろうか。

NATOは旧ソ連を敵と名指しして結成され、冷戦終結後も迷わず存続を決めた軍事同盟である。

ウクライナがNATO加盟に前のめりになった経緯が前項で見た通りであるとすると、ロシアがこれを許容できないのは当然であるように思われる。

兄弟であるウクライナ、そして多大な犠牲を払った独ソ戦によってナチス・ドイツから奪還したウクライナが、ハーケンクロイツを胸に抱いた西部地域の若者たちの希望通りにEU(≒ドイツ)の手に落ち、アメリカの軍事力に支えられるなどということを、ロシアが許容できるはずはない。

しかし、「西側」は、そのロシアのリーズナブルな要求に対して、一切の譲歩を見せなかった。

一度、フランスのマクロン大統領との交渉の際に「20年間(だったと思う)はNATO加盟を認めない」という案が出たという報道があり、ロシア側も満足気に見えたが、続報はなかった。アメリカが認めなかったのだと私は理解している。

戦争が始まった直後、先ほど著書を引用した下斗米伸夫さんがNHKのニュース番組で非常に分かりにくいが的を射ていると思われる解説をしてくれたが、それきり二度と出なくなった。「コソヴォ…」と口走ったのがよくなかったのかもしれない。しかしおかげで「コソヴォが鍵か」と知って勉強し、分かったことがある。

ウクライナのNATO加盟は一般論としてもあり得ない。しかし、コソヴォ紛争のときのNATOの動きを注視していたプーチン大統領から見れば、一層あり得ないと思う。この文脈では、ウクライナへのNATO軍の配備は、アメリカからロシアへの宣戦布告のようなものなのだ。

コソヴォとウクライナ ー コソヴォでNATOが何をしたか

ウクライナ問題とコソヴォ問題は構造がよく似ている。「強権的」な大統領として西側に嫌われていたミロシェヴィッチ率いるセルビア共和国(共同体家族である)の自治州で、ユーゴ内の最貧地域であったコソヴォ(アルバニア人は核家族である)。この地域で何が起こり、NATOが何をしたのか。

なお、コソヴォがセルビア共和国に属する自治州であったのは、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国(1943-1992)の時代である。既に述べた通り、セルビア人は外婚制共同体家族、コソヴォに多く住むアルバニア人は核家族である(1981年の国勢調査によるとコソヴォの人口はアルバニア人72%、セルビア人13%、モンテネグロ人2%)。

ウクライナにおける西部同様、ユーゴの中で最も貧しい地域であったコソヴォでは、経済的不満を背景とした「コソヴォ事件」(1981年に起きたアルバニア系住民による暴動)以降、アルバニア系住民によるセルビア人・モンテネグロ人への差別が強まり、後者のセルビア共和国への移住が続くなどの混乱状態が続いていた。

セルビア共和国は憲法上の制約からこの問題に手を出せずにいたが、1980年代後半、ミロシェヴィッチが登場しセルビアで権力基盤を固めると(チトー死後の混乱を収めた辣腕大統領(1990年-97年までセルビア、1997年からユーゴ大統領)。プーチンと同じで、西側からは悪魔のように思われていたがセルビア国民には大人気だった)、憲法を修正してコソヴォへのセルビアの権限を強める試みに乗り出した。

セルビア人・モンテネグロ人の圧倒的支持を受け、憲法修正案が可決(1989年3月)されると、アルバニア人との衝突は激化。自治権回復を求めるアルバニア人の動きが活発化していく。

ボスニア内戦

なお、コソヴォ紛争の重要なファクターの一つは、西側の一方的な「ミロシェヴィッチ悪玉史観」である(「プーチン悪玉史観」と全く同じ構造だ)が、その契機となったのはボスニア内戦である。

この頃、ユーゴは解体の危機を迎えていた。各共和国で独立派の動きが活発化し、91年にはクロアチア内戦、92年からはボスニア内戦が始まった。歴史的にはロシアとのつながりが深い地域だが、ちょうどソ連が解体する時期であったため、アメリカが深く関与することになった。

ボスニア内戦では、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人がそれぞれ領域拡大に奔走し、それぞれの側にこうした戦争に付き物の残虐行為が見られたが、「西側」はミロシェヴィッチおよびセルビアのみを一方的に悪者と決めつけ、そのイメージを流布した(ユーゴスラヴィア史の専門家 柴宣弘はミロシェヴィッチ悪玉説の確立に「クロアチアとヴァチカンというカトリック勢力の戦略‥‥が功を奏した」ことを指摘し、内戦に関する報道は「あまりにも一方的であった」と述べている)。

その背景には、やはり、核家族アメリカ(が主導する国際社会)の共同体家族への無理解があったと思われる。自由独立をよいこととしか考えられない彼らは、多様な民族が微妙なバランスをとりながら永らく同じ土地に共存していた歴史、そしてそのためにセルビア(共同体家族)が果たしていた役割を顧みることもなく、「セルビア=悪」「民族自律=正義」という短絡的な図式を描いた。そうして、地域をバラバラにしてしまったのである(なおセルビアはユーゴ内の最強国で最後まで各国の独立に反対していた)。

ボスニア内戦が終わり、1997年秋頃になると、コソヴォ独立を目指すアルバニア人の武装勢力(コソヴォ解放軍、KLA)の活動が激化した。「セルビア=悪」「コソヴォ独立派=正義」と決めつけたアメリカが彼らを支持したためである。

ウクライナにロシア系住民が大勢いるのと同様に、コソヴォにはセルビア人やモンテネグロ人がいる。アルバニア人の暴力の高まりは、コソヴォの治安全般を悪化させると同時に、セルビア人などをターゲットとした攻撃の激化に直結する。当然のこととして、セルビアは治安部隊をコソヴォに送り、掃討作戦を行った。

大量のアルバニア人が難民となって流出したことで国際社会の関心が高まり、1999年2月、NATOの仲介でセルビア代表団とコソヴォ代表団の交渉が行われた(パリ郊外のランブイエ)。

NATOは「ランブイエ文書」と呼ばれる合意文書を提示。両者にこれを認めるよう促したが、セルビアはこれを拒否した。NATO軍をセルビア領内に自由に展開できるようにする旨の条項が含まれていたためである。

既に述べたように、ボスニア内戦において西側は一方的にセルビアを悪者扱いし、セルビアの人々はこれに不満を抱いていた(当然だ)。

れっきとした主権国家であり、戦争に負けたわけでもないセルビアが、なぜその領土に、自分たちを一方的に悪と決めつける軍事勢力を受け入れなければならないのか。「意味が分からない」とセルビアは感じたはずである。

そういうわけで、当然のようにセルビアが承認を拒否すると、直後の1999年3月、NATOはなんと「ベオグラード市民の誰もが目を疑ったという」(柴・後掲書213頁)セルビアの首都ベオグラードの爆撃を開始したのである。

この謎の空爆は78日間(6月初めまで)続き、セルビア各地に多大な被害をもたらした。同時に、これを受けたセルビア治安部隊の攻撃によりコソヴォのアルバニア人難民・避難民が80万人も発生した。

プーチンの立場に立てば‥‥

話をウクライナに戻して、プーチンの立場に立って考えてみよう。西部ウクライナはコソヴォである。

「西側」はウクライナ西部(≒ コソヴォのアルバニア人)に接近し、彼らの反ロシア感情(≒ アルバニア人の反セルビア感情)を煽る。

「ロシア(≒セルビア)=悪」「反ロシア(≒独立派or反セルビア)=正義」と決めつけているNATO軍がウクライナに展開したら、次に何が予想されるであろうか。

先に述べた次第で、ウクライナ西部ではすでに反ロシア感情が高まっている。その勢いに火がつけば、全土の治安が悪化するだけでなく、ロシア系住民には直接的な危険が及ぶ(コソヴォでセルビア人に起きたことである)。それはいつ起きてもおかしくない、「今そこにある危機」である。

そして、ウクライナとロシアの関係性からして、ロシア系住民が危険にさらされた場合、ロシアは決してそれを放置できない。

では、ロシアが治安部隊をウクライナに送ったらどうなるか。そう。NATOはコソヴォでベオグラードを爆撃したのと同様に、ロシアの都市を爆撃するに違いない。そう考えるのが普通である。

つまり、プーチンから見れば、ウクライナのNATO加盟は「ロシアが動いたらNATOはモスクワを攻撃する」という脅迫に他ならないのである。

誇り高いロシア国民の代表として、そのような脅迫がロシアに対してなされることを許容できるはずはないであろう。

そこで、プーチンはウクライナ周辺に軍を配備し、ウクライナの中立化を求めた。「西側」はその当然の要求を呑まなかった。

さて、このような場合、戦争をしかけたのはどちらと見るべきでしょうか。

追記:開戦の直前の状況についてもう少し具体的に知ることができました。こちらの記事をご覧ください。

・ ・ ・

それでも、軍事侵攻はダメだ、と多くの人は言うのだろう。軍を配備したのがいけない、とか。私は「反戦平和」をお花畑とは思わないけれども、「西側」の一員である日本の国民として、自分にプーチンを批判する資格があるとは思えない。

我らがリーダー、アメリカは、アフガニスタンやイラクといった明らかにアメリカより「弱い」敵を選んで、理屈に合わない戦争を繰り広げ、多大な被害をもたらしたが、私たちは最初から最後までそれを支持した。

実質的にはミロシェヴィッチへの一方的な「懲罰」であったセルビア空爆は、「人道的介入」であったとされ、謝罪の一つもされていないどころか、「西側」はセルビアのみを処罰して平然としているのだが、私たちは「西側」を「悪魔」と非難したりはしない。

ロシアはそれなりの利害関係があり必要がある場合にしか軍事行動を起こしていない(そんな余裕はないのだから当たり前だ)。相応に非道なこともしているだろうが、素人の私でも「アメリカほどに非道ではない」ことは断言できる。

それでも、私たちはロシアだけを叩き、アメリカを叩かない。

ソ連崩壊後の新生ロシアにおいて、プーチン大統領は、一定の民主化と経済危機からの脱出を成し遂げた。

復活を遂げたロシアは「西側」に対し、自国の安全、周辺国の安定、そして国際社会からの敬意というごく当然のことを要求した。しかし、「西側」はそのすべてを拒絶し、ロシアを一方的に悪玉視することを止めなかった。

長年このような仕打ちを受けてきたロシアにとって、西側はもはや「話が通じる」相手ではないだろう。話の通じない相手、それも「いじめ」に近い組織的な差別を展開してきた「敵」から脅迫を受けた者が、自らも暴力を散らつかせながら最後の交渉に及び、交渉決裂を受けてついに軍事行動に出たとして、その行為を非難することなどできるであろうか。

できるわけない、と私は思う。

おわりに ー 「西側」の覇権のおわり

ウクライナに平和をもたらす方法、それは「西側」がいわれのないロシア差別を止め、敬意をもってロシアに接すること以外にはないと思われる。

もっとも、それが「西側」にとって可能なのか、「変えることのできるもの」に属するのか、私は確信が持てない。

「敵」と定めたものに対する徹底的な攻撃、一方的な価値判断に基づく「正義」の押し付け。「西側」世界のやり方に核家族システムの発現を見ないでいることは難しい。

「権威」の価値を持たない核家族にとって「正義」とは実力そのものであり、「平等」の価値を持たない絶対核家族は力の差に基づく不公平に頓着しない。

たぶん、「自由と不平等」を特徴とする核家族は、実力で争う以外の秩序の形成方法を持たないのだと思う。その方法が彼らのスタンダードであることは、二大政党が罵り合い手段を選ばず争って雌雄を決する選挙のあり方や、当事者を戦わせて「正義」を決める司法制度に、如実に表れている。

それ以外の方法を知らないので、彼らは国際社会の秩序も同じやり方で保とうとする。アメリカが覇権を握った途端に冷戦が始まり、共産圏の凋落によって終わったはずが、非「西側」諸国の国力が回復したと見えた瞬間、あっという間に復活したのは、そのためとしか考えられない。

第二次大戦直後、アメリカが圧倒的な実力を誇っていた時期には機能した「実力による正義」(パックス・アメリカーナはこれである)は、その力に陰りが見えると同時に、不正の度合いを増した。

アメリカは弱そうな敵を選んで見せしめに攻撃したり、「敵」と戦う勢力を無条件で支援することで地域をバラバラにし、何とか保たれてきた秩序を粉々に打ち砕いた(コソヴォもウクライナもこのパターンである)。

不公平で、暴力的なものに成り果てた「西側」の覇権が、今なお維持されているのはなぜか。これにも、家族システムの観点から説明を与えることが可能である。

長い間、国際社会を率いてきた「先進国」すなわち「西側」勢力には、核家族と直系家族しかいない。

核家族であるが「平等」の要素を持つフランスは、英米のやり方に違和感を持つことがあるはずだが、十分な発言力を持たない。

直系家族のドイツと日本も、「権威」の観点から、過度の実力主義には眉を顰めるはずだが、正義よりも家系存続を重視する傾向、差異による秩序を好む傾向(「先進国と途上国」「西側とそれ以外」といった差異があると安心するのだ)から抵抗しない。

しかし、最も進化した家族システム(共同体家族)を持つ人々が、残らず近代化の過程を完了し、安定した実力を備えた暁にはどうであろうか。

ユーラシア大陸で多様性を引き受けつつ秩序を保つ術を身につけてきた彼らは、決して西側のやり方に満足しないだろう。

そういうわけで、もし「西側」がそのやり方を変えない(変えられない)なら、核家族システムの覇権は間もなく(10年後か100年後かは知らない)終わる。その次に、共同体家族の人々がどんな秩序を作ってくれるのか、現在の私には想像がつかない。しかし、共同体家族システムの意義については今回ずいぶん考えたので、後日書きたいと思っている。

最後に念のため。私は決して核家族システムが倫理的に問題があるとか徳がないとかそういうことを言っているのではない。ただ、国際社会を統べるシステムには適していないと言っているだけである。

[付]コソヴォのその後

コソヴォは2008年にアメリカとの密接な協議の下でセルビアから一方的に独立を宣言する。日本を含む西側諸国はこれを直ちに承認したが、承認を拒否する国も多く(wikiによると承認国は93カ国、承認拒否は85カ国)、「将来的に国際社会から一致した承認を得られるかどうかは未だ不透明」とされている(wiki)。

独立を果たした(というかバラバラになった)旧ユーゴ加盟国の状況は、何とかまとまっていた時代と比べ、どこも悪化ないし停滞しているが、コソヴォの状況はとりわけ厳しい(人口の指標はこちら。https://en.wikipedia.org/wiki/Demographics_of_Kosovo

詳しい分析をする能力はないが、歴史的つながりの深い周辺の大国との絆を絶たれ、多数の国が承認を拒否する中で、一度も国家として機能したことがない小国が繁栄していくのが困難であろうということは分かる。西側との絆は、教育水準の高い若者のEUへの吸収を促すだけなので、地域にとってはマイナスの方が大きいように思われる。

コソヴォの運命は、西側に過度に接近した場合のウクライナの運命である。

しかし、私は思うのだが、ウクライナが本当に壊滅的な状況になったとき、無理をしても手を差し伸べるのはロシアである。歴史的な関係もあるし、共同体家族にはそのメンタリティがある。その辺りのことも、私たちはもう少し理解した方がいいと思う。

情報ソース

○ウクライナ情勢およびウクライナとロシアの関係に関する事実とその評価については以下の文献に基本的に依拠し、教科書的な書籍、wikiなどの辞書的なサイトを補完的に用いました。

 Maciej Nowicki, We Live in a World of Ailing Powers, An Interview with Emmanuel Todd, 2017

 エマニュエル・トッド「「ドイツ帝国」が世界を破滅させる」(文春新書、2015年)

○コソヴォ問題およびボスニア内戦に関する事実とその評価については以下の文献に基本的に依拠し、教科書的な書籍、wikiなどの辞書的なサイトを補完的に用いました。

 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史 新版』(岩波新書、2021年)

 (写真は Helga KattingerによるPixabayからの画像)

(2022年3月15日 satokotatsui.com 初出)

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デモ指数:カナダ反ワクチン義務化デモに見る家族システムとデモ

 

カナダのトラック運転手による反ワクチン義務化デモ1Freedom Convoy 2020 と呼ぶらしい。1月15日に(アメリカからの)再入国時のワクチンパスポート提示が義務化されたことに抗議して始まった。裁判所の解散命令後も続いていたが2月13日までに警察が強制的に解散させた模様。世界各地に飛び火があったが、一番激しい連帯の動きを見せたのはフランスとベルギーだった。

カナダ、パリ、ブリュッセル。どこも、フランス的な平等主義核家族の匂いを感じさせる地域である。デモの発火点であるオンタリオ州はフランス語話者の多い地域。ブリュッセルは、平等主義核家族ではないが、相続慣習の平等性が確認されている地域である(エマニュエル・トッド『新ヨーロッパ大全I』(藤原書店、1992年)58頁参照)。大変興味深いので、かねてから温めていた(家族システムに基づく)「デモ指数」を算出してみることにした。

1 算出方法

デモとは、①権威に対する抵抗の意思を、②市民たちが連帯して、③公共の場で表現する行為である。

そこで、家族システムとイデオロギーの相関性に関するトッドの定式を用い、①~③を以下のように数値化した。

①親子関係:自由主義的→1点 権威主義的→0点

親子関係は縦型の権威関係の有無を指示する。この文脈では、親子関係の自由主義は権威に対する異議申し立てが容易であることを示し、権威主義は困難であることを示すと考えられる。

②兄弟関係:平等→1点 不平等または非平等→0点

兄弟関係は市民同士の関係性を指示する。兄弟関係の平等は市民間の平等、この文脈では連帯の形成の容易さを示し、不平等は市民間の不平等すなわち連帯の困難さを示す。

③婚姻システム:外婚制→1点 内婚制→0点

婚姻システム変数のこのような使い方は私の独自解釈であることをお断りしておく。

私の考えでは、婚姻システムの外婚制と内婚制は、感情表現や意思表示の在り方と大いに関わっている(さしあたりこちらを参照)。

外部の人間と関わらなければ婚姻できないシステムの元では強く明確な意思表示・感情表現が一般化し、近親との婚姻が許され比較的狭いコミュニティ内部での婚姻が一般的なシステムでは、強く明確な意思表示・感情表現はむしろ忌避されるという考えに基づき点数化した。

2 デモ指数

絶対核家族:親子関係は自由主義的であり、権威に異議申し立てをする能力は高いが、兄弟関係の平等には関心がなく、連帯はさほど得意ではない。

平等核家族:親子関係は自由主義的、兄弟関係は平等。市民が連帯して権威に物申すという、デモに最適なメンタリティを持つと考えられる。

直系家族(外婚):親子関係の権威主義、兄弟間の不平等から、デモへの指向性は低い。しかし、意思表示の傾向は外向的(外に向けて明確に表現する傾向)なので、内婚直系家族よりはデモ力が高いといえる。

直系家族(内婚):親子関係は権威主義的、兄弟間は不平等である上、意思表示の傾向は内向的(外向きの明確な表現を好まない。というか「しない」)。デモへの指向性は最も低い。

共同体家族(外婚):縦型の権威が非常に強い一方で、兄弟は平等であり、意思表示傾向も外向的。「いざ」というときには連帯して行動できるメンタリティ。

共同体家族(内婚):縦型の権威が強いが、兄弟は平等。意思表示傾向は内向きと思われるので、デモ指数は下から二番目。

3 所感

デモが一番得意なのがフランスで、一番苦手なのが日本という非常に納得できる結論になりました。

ちなみに、直系家族で内婚制(いとこ婚が認められている)なのは、これまで明らかになっている地域の中では日本だけです。

デモが活発でないことが、日本に民主主義の弱さの表れのように言われることがありますが、多分そういうことではない。フランスと日本では、違うシステムの民主主義が通用しているということなのだと思います。

デモが活発になることはよいことだと思います。しかし、この「デモ指数」の低さは、日本社会にとっては所与の前提と考えなければなりません。より自由でより民主的な社会を目指すわれわれとしては、日本社会のシステムを受け入れた上で、多くの人が容易に実行できる方法を考えていくのが建設的だと思います。

私の腹案は後日。

(2022年2月 satokotatsui.com 初出)

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内婚と外婚ー日本と韓国

内婚と外婚

エマニュエル・トッドが家族システムの分析に使う変数の一つに「内婚と外婚」というのがある。

近親婚(いとこ婚)を許容するのが「内婚」、許容しないのが「外婚」だが、キリスト教が近親婚を禁じているので、ヨーロッパには内婚の地域は存在しない。日本はいとこ婚OKの内婚、韓国は外婚である。

婚姻の制度は、人類学が重要視するファクターの一つで、トッドは、近代国家のイデオロギー体系と家族システムの関係を論じた「第三惑星」(『世界の多様性』所収)では、外婚制の共同体家族と内婚制のそれを分けて論じている。イデオロギー体系という文脈では、共産主義世界(外婚制)とアラブ世界(内婚制)を区別しないわけにはいかないからである。

これに対し、直系家族における外婚と内婚については、意識はされているが、立ち入った検討はなされていない。日本、韓国、ドイツ、スウェーデンといった主な対象国は、いずれも、資本主義を採用する(権威主義的な)民主主義国家であり、イデオロギー体系としての区別の必要には乏しいからだろう。

日本と韓国ー類似点と相違点

日本と韓国は、共通の人類学システム(直系家族)を持っている。共通点の多くーー目上への敬意、祖先信仰、歴史意識の強さ、女性の地位の低さ、みんなと一緒が安心、等々ーーは、それによって説明できる。他方で、両国の国民の平均的な態度には、はっきりと目に見える違いもある。

それは、意思表示、感情表現の仕方である。韓国の人たちは、好き嫌いや意見をはっきり大きな声で口に出すし、喜怒哀楽の表現も激しい。日本人とは「正反対」といってもいいほどである。この違いは、いったいどこから来ているのであろうか、と考えたときに、想起されるのは、当然、外婚と内婚の相違である。

「外婚と内婚か、ふうむ‥」と考えてみると、まあ、何となく、外婚だとアウトゴーイングになり、内婚だと消極的になる、というような感じはする。しかし「そんなことで説明していいものかねえ‥」というようにも思われ、「なんかちょっとピンとこない」というところで、長らくほったらかしにしてあった。

それが、この夏(2021年)、オリンピックのバドミントン女子ダブルス準決勝(日本ー韓国戦)を見ていたら急にピンと来て、「おお、そうか!」というところまで行ったので、書き留めておきたい。

オリンピック バドミントン女性ダブルス準決勝 日本ー韓国戦

ナガマツペア(永原和可那、松本麻佑)対 金昭映、孔熙容ペアの試合だったが、どっちが誰だったかは覚えていない。ただ、一人の韓国選手と一人の日本選手の感情表現があまりにも両極端で、非常に強い印象を受けたのだった。(以下、記憶で書くので、勘違いや誇張があるかもしれません。)

韓国選手の二人は、得点するたびに、いちいちびっくりするほどの甲高い声で、「キャー」(とはたぶん言ってない)と叫び声を上げる。とくに一人の選手の闘争心あらわな様子が目についた。一方、日本選手はどちらも一言も発せず淡々とプレーをするのだが、とくに一人の選手は、ストイックと言うか、心の中で自分を責めるようなというか、闘争心を完全に自分の内側に向ける様子は、見ている方が苦しくなるほどだった。

どちらも女性だったので、婚姻にからんだときのふるまいが想像しやすく、「なるほど、たしかにこうなる!」と合点がいったのだ。

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」が、養蚕と藍の生産を生業とする狭い地域内でみんなが結婚していく内婚チックな話だったのも、大いに助けになった。

外婚制・内婚制と女性のふるまい

外婚制というのは、結婚相手を自分の親族のネットワークの外から見つけてこなければならない、という仕組みである。農村時代には「見つけてくる」のは基本的に男性側の仕事なので、女性についていうと、外婚制の下では、女性は「ネットワーク外の男に見つけられる」必要があり、「よく知らない土地に嫁に行ってやっていく」のが基本だということである。

他方、内婚制というのは、直系家族の場合、「親族(いとこ)と結婚してもいい」ということであるが、この制度が示唆しているのは、全体として、割と狭い社会の中でやっていくのがスタンダードだということであろう。渋沢栄一は従妹と結婚しているが、長い間、身内に近い者たちで土地を守り、生業を守ってきた村には、まったくの他人なんていないのだ。

さて、このように仕組みが違うと、女性たちのふるまいはどう変わるでしょうか?

外婚制の場合、見知らぬ土地の者(男の親族であることが多いだろう)に見つけてもらわなければならないので、女性はとにかく自分の美点を前面に押し出す必要がある。鮮やかな色の服とメイクで美を強調し、性格のよさを表情や仕草で明瞭に表し、役に立つ人間であることを言葉とふるまいではっきり示す。そうすることで、外部の人間の間で、評判を取ることが肝心だ。

結婚した後も同じである。彼女は、よく知らない者たちと暮らしていくわけなので、何か言いたいことがあれば、自分がはっきり言葉にして伝える必要がある。隣に住んでいる親族がいつも様子をうかがっていて、「もうちょっとあの娘のことも考えてやってくれないかねえ」と仄めかしてくれたりなんかしないのだ。

他方の内婚制の場合である。親族の延長線上にある狭い社会の中で結婚するということは、基本的に、子供の頃から知っている人たちの内部で婚姻関係を結ぶということだ。器量や性格なんて、みんな知り尽くしているのである。

このような社会では、自分の長所をアピールする必要はないし、意見を言うことも好まれない。その反対に、総領息子の嫁に相応しい資質、つまり、華美を好まず、余計なことを言わず、理不尽にも抵抗せず、我慢強く、気が利き、働き者で‥‥といった在り方こそが、求められるはずである。

男性の場合も、直系家族では「息子」というポジションのままで結婚するわけなので、男女に求められる役割の違いを除いては、大体同じようなことが言えると思われる。

ほかに、日本の人が、周囲の目を非常に気にする点(ドイツや韓国はそうでもないように見えますが、どうでしょうか)なども、「内婚」傾向と関係しているような気がする。

おわりに

いかがでしょうか。

私は割と納得しました。

日本人から見ると、韓国の人たちの感情表現には引いてしまうこともあるし、一方で、堂々と意見を言えるのはうらやましくもある。韓国の人は、日本の人が何も言わないのでイラッとする一方、まあ、何かうらやましく感じるようなこともあるかも知れない。

そんな違いは、日本と韓国が、近くて、似ている面もたくさんあるだけに、「何かちょっと‥‥」と思ってしまったりしがちである(韓国の人だともっとはっきり何かを思うのでしょうか‥‥)。

でも、お互いに、「ああ、なるほど、そういうことなのか」と思えれば、だいぶ違うのではないだろうか。ふるまいの違いは、個人の性格とかではなくて、社会のシステムに基づいて、体系的に定まっていることなのだと納得できれば、「へえ」と、単に面白がって眺めることができる(はずである)。なぜなら、それは、日本人である自分がもし韓国に生まれ育ったら、また、韓国人である自分が日本に生まれ育ったら、必ずや、そのようなふるまい方を身につけていたであろう、ということを意味するのだから。

家族システムというのは、配偶者を得て子供を作って育てるということを超えて、「一定の地域で配偶者の交換をするもの」だから、家族システムの概念には最初から地域の概念が含まれている、家族システムとは「地域における家族的価値観」のことなのだ、とトッドは(『不均衡という病』の巻末インタビューの中で)言っている。

地域における配偶者交換システムの重要性を考えれば、内婚か外婚かがその地域の人々のふるまいに大きな影響を与えるというのは、非常にありそうなことだと思われる。

(2021年10月 satokotatsui.com 初出)

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ヨーロッパのキリスト教
(4・完)脱宗教化 

 

1 カトリック地域では何が起きたか

プロテスタンティズムが直系家族地域に浸透し、絶対核家族地域では「変形」を被っていた頃、プロテスタンティズムを拒否した地域では何が起こっていたのでしょうか。

第2回で書いたように、ドイツの隣国フランスでは、プロテスタンティズムは、パリ盆地などの平等主義核家族地域には浸透せず、フランス内の共同体家族地域もカトリック側に付きました。

フランスの一部と並び、識字化が進んでいたにもかかわらずプロテスタンティズムを撥ねつけた地域を代表するのは、北部および中部イタリアです(北部は「絶対」ではない核家族だが、ローマは平等主義核家族、それ以外の中部イタリアは共同体家)。

*平等主義核家族と共同体家族はいずれも(ざっくり言うと)「ローマの遺産」なので、両者は地理的に近接しているのが普通です。この件についてはこちらをご参照ください。 
*なお、南イタリアは平等主義核家族ですが、文化的な遅れ(識字率の低さ)のために対抗宗教改革の中心地にはなっていません。

家族システムもさることながら、「当時のイタリアはローマとイコール」(『新ヨーロッパ大全 I』140頁)であり、ヴィッテンベルクがプロテスタンティズムの中心地であるのと同様、イタリアはカトリシズムの中心地なので、プロテスタンティズムが浸透する余地はないのです。

そこで、イタリア、そして、フランススペイン(の識字率の高い部分)は、その文化的な進歩性により、対抗宗教改革の中核を担うことになりました。

北部イタリアは神学者を提供する。北部フランスは、ユグノーに対して猛り狂った都市大衆を立ち上がらせる。スペインは軍隊を派遣し、ヨーロッパで最も発達した地帯の一つであるベルギーからラインラントまでの一帯で、宗教改革の拡大を軍事力を以って阻止するのである。

『新ヨーロッパ大全 I』150-151頁

彼らは、天上での自由と平等を守るため、ルターの予定説に対抗する教義を練り上げ、教会および聖職者勢力とは妥協して共存する道を選びます。

ところが、この選択は、思わぬ副作用をカトリック地域にもたらすことになりました。文化的進歩のスピードが、目に見えて低落したのです。

プロテスタンティズムは、信徒に自ら聖書を読むことを求めます。そのため、プロテスタンティズムは通常は識字率の高い地域に浸透し、そうでない場合には直ちにその地域の識字率を上げる。

これに対抗するカトリシズムは、聖職者以外の者に「読む」ことを事実上禁じます。

プロテスタントの文化的進歩主義に対して、カトリシズムは書物への紛う方なき憎悪によって素早く反応する。早くも1559年にローマ教会の異端審問所は、キリスト教徒の宗教的純血を守るために、読むことを禁じた書物を列挙した「禁書目録」の第1版を発表する。「目録」は、知的官僚主義の驚嘆すべき顕現に他ならないが、文字で書かれたものに対するカトリシズムの敵意のほんの一要素にすぎ[ない。]

‥‥実は、教会はあらゆる印刷物を脅威とみなしているのだ。カトリック圏には、ひとりでものを読む人間に対する猜疑の態度が一般に広まっている。聖書を所有するということそれ自体、ほとんど異端の兆候なのである。

181-182頁

1500年以前、文字文化の中核は、ベルギードイツ圏南部北イタリアでした。

このうち、プロテスタンティズムの中心地となったドイツは、さらに精力的に識字化を推し進め、1670年には世界初の男性識字率50%超えを達成します。

ところが、カトリック陣営に残ることを選択したベルギーイタリアの文化的発展は減速し、ヨーロッパの中では中くらいの凡庸なアクターに成り下がってしまう。

スウェーデンスコットランドがプロテスタントを受容したことによって識字先進国となったのと正反対に、ベルギーイタリアは、カトリックにとどまったことによって、先進国であることを止めるのです。

*フランスにもその面がありますが、ドイツ圏に近いことと、国内に直系家族地域があることでイタリアより有利であったと考えられます。「カトリック地域にとっては、文化的発展は、外部からの影響による外因性の過程となるのである。北フランスは、識字化の進んだドイツ圏に近く、地理的にイタリアより有利な立場にあったわけである。」(182頁)

*イギリスはプロテスタントですが、核家族なのが不利な点で、識字においてドイツ、スウェーデンに遅れをとった理由と考えられます。識字における直系家族の寄与についてはこちらをご覧ください。 

対抗宗教改革の中核となった地域は、カトリックにとどまったことにより、文化的先進地域であることを止める

2 脱宗教化の謎

宗教改革の決着が付くと、次のビッグイベントは、信仰そのものの放棄、脱宗教化です。

脱宗教化が近代化に付随する現象であることに疑問の余地はありません。したがって、普通に考えると、脱宗教化の時期は、識字化あるいは産業革命(工業化)等の時期と一致することになりそうです。

しかし、実際はそうではありませんでした。

脱宗教化の時期

第1期(1730-1800)
パリ盆地のフランス、中部・南部スペイン、南部ポルトガル、南イタリア

第2期(1880-1930)
イングランド、ドイツ圏、北欧

第3期(1965-1990)
ベルギー、南ドイツとラインラント、オーストリア、スイス、フランス周縁部、北部・中部イタリア、北部スペイン、北部ポルトガル
 

〔脱宗教化:進行過程の特徴〕

ヨーロッパにおける脱宗教化の進行過程には、2つの特徴が見て取れます。

第一に、その信仰崩壊の過程は、連続的ではありません。集中的に信仰が崩れる3回の「崩壊期」を経て、最終的に脱宗教化が完成する。

第二に、信仰崩壊の速さは、文化的ないし経済的発展とはリンクしていません。

いち早く脱宗教化したのは、識字・工業化のどちらも中程度であったフランスで、これに続くのは、スペイン、ポルトガルといった低開発国です。

これよりだいぶ遅れて、工業化先進国であるイングランド、識字先進国のドイツ北欧が脱宗教化を果たす。そして、この時期を乗り切った地域は20世紀後半まで、脱宗教化を持ち越すのです。

スウェーデン90%
プロイセン80%
スコットランド80%
イングランド65-70%
フランス55-60%
オーストリア・ハンガリー55-60%
ベルギー50-55%
イタリア20-25%
スペイン25%
1850年頃の識字率(『世界の多様性』331頁:資料 C.M.Cipolla, Literacy and Development in the west, London, Penguin, 1969, p115)
*脱宗教化の測定
 地域の住民にとって宗教が重要なものでなくなったという事実をどのように測定するのか。カトリックの場合、教会を通じた宗教実践の熱心さ(日曜のミサへの出席、幼児洗礼の比率、宗教結婚のパーセンテージなど)を基準にすることができます。聖職者の権威を否定するプロテスタントでは、ミサへの出席率の低さ、牧師の数の少なさは、それ自体では、不信仰の証にはなりません。しかし、ミサへの出席率や牧師の数を経年で比較して、急激な低落が見られるとすれば、それは充分な指標となるでしょう。

脱宗教化は3回に分けて断続的に進行。順番は文化的・経済的発展の度合いとは無関係だった

3 脱宗教化の仕組み

脱キリスト教化の過程が複雑な様相を呈するのは、キリスト教信仰の分解要因と抵抗要因とが存在し、その両方が1730年から1990年までに期間、同時に作用したからに他ならない。プラスの要素とマイナスの要素がぶつかり合い、宗教に関するそれぞれの地域の独特の運命が決定されるわけである。

『新ヨーロッパ大全 I』199頁

(1)信仰の解体要因と抵抗要因

脱宗教化の過程は、次の二つの要素を考慮することで、ほぼ説明し尽くすことができます。

1 信仰の解体要因:科学革命
   ①ニュートン革命(17世紀後半)
   ②ダーウィン革命(19世紀後半)
   

2 信仰の抵抗要因:信仰の強度
   ①家族システム
   ②農地制度(大規模農業経営の有無)
 

科学革命は、伝播にかかる時間や、受け手となる識字層の厚みなどによる相違はありますが、ある程度均等な作用を各地に及ぼします。

しかし、科学革命という作用に対する各地の反応は大きく異なる。それは、もともとの信仰の強度が、地域によって異なるためです。

(2)「信仰の強度」の決定要因

信仰の強度は、家族システムによって、第二に、農地制度(大規模農業経営の有無)によって決まります。

〔家族システムと信仰の抵抗力〕

親子関係
(権威 1 / 自由 0)
兄弟関係
(不平等 1/ 平等 0)
信仰の強度
直系家族112
絶対核家族011
共同体家族101
平等主義
核家族
000

神のイメージには、地上における父親のイメージが反映されるため、親子関係が権威的であるシステムでは神も権威的(強いイメージ)となり、自由主義的なシステムでは神も自由主義的(弱いイメージ)となります。

信仰の強度には、兄弟関係も影響します。神の権威を支えるのは、神の超越性(「人間とは異なる」)の感覚です。人間同士が不平等であるシステムは、神の超越性に疑問を持ちませんが、人間同士が平等であるシステムは「なぜ神だけが特別なのか?」という疑問を持ちやすい。その意味で、兄弟関係の不平等は権威を下支えし、平等は権威を掘り崩す作用を持つということができます。

親子関係、兄弟関係の指標を数値化すると、信仰の抵抗力がもっとも強いのが直系家族、もっとも弱いのが平等主義核家族となります。

〔農地システム:大規模農業経営の有無〕

大規模農業経営(直系家族の伝播の話で一度出てきました)とは、農民が自分の土地を持たず、他人の土地を耕して得た賃金で生活する仕組みです。

経済的な独立性の喪失(例えば自作農→工場労働者)が宗教感情の衰退をもたらすというのはウェーバー以来の命題ですが、ウェーバーが経済的自律性と「(地上および彼岸における)運命に対する感受性の強さ」とを結びつけたのに対し、トッドは、家族における父親のイメージの変化に着目した説明を試みます。

経済的独立は、家族を‥‥父親を企業主とする自律的生産単位にする。ところが‥‥賃金制度は家族から生産機能を奪い、‥‥消費単位の役割に押し込めてしまう。父親は家族の主ではあるが企業主ではない。‥‥父親の影響力は、子供の目にも見える日常の経済的決定の中に具体的な形を取って現れることをやめる。‥‥賃金制の下では父親の権威はより遠いものとなり、感情的な分野に限られてしまい、それさえもしばしば、家にいることの多い母親に中継されることとなる。経済的依存は父親の権威を抽象的なものにする‥‥。‥‥要するに賃金制は、工業においてであれ農業においてであれ、父親のイメージを脆弱なものとし、その結果、その反映に他ならない神のイメージを脆弱なものとするのである。

『新ヨーロッパ大全 I』208頁

大規模農業経営はそれ自体家族システムと相関性があり、大抵は核家族と結びついています。したがって、大規模農業経営は、核家族地域の神の「弱さ」に拍車をかけ、宗教を脆弱化させる要因として働くわけです。

信仰の強度が最も弱いのは、平等主義核家族 + 大規模農業経営

4 平等主義核家族の脱宗教化
(1730-1800)

そういうわけで、ヨーロッパにおける最初の脱宗教化が起こるのは、パリ盆地のフランス中部・南部スペイン南部ポルトガル南部イタリア。地図の通り、「平等主義核家族+大規模農業経営」の地域とぴったり重なっています。

1730-1800年という時期は、ごく大雑把にいえば、「ニュートン革命後」の時期にあたります。

「信仰の動揺」に着目すると、17世紀の中頃から、神の存在を合理的に証明しようという試みが増加する。1641年にはデカルト(『形而上学的省察』)、1657-58年にはパスカル(『パンセ』)が、この問題に挑みます。

もちろん論法はデカルトのとは異なっていた。しかし不安は同じだった。神は存在しないかもしれないという不安である。‥‥信仰によってはもはや到達できないものを数学者たちが証明しようとする、というのがこの経緯の特徴なのである。

『新ヨーロッパ大全 I』202頁

イギリス知識人の間で理神論が活発化したのは1690-1740年の間、「この理神論は、その後、万有引力の法則とともに大陸に渡り、フランスで先鋭化され、最終的には何人かの手によって無神論に作り変えられる。

18世紀、啓蒙期のフランスにおいて、伝統的な宗教の破壊は知識人の使命となり、「エリートの無宗教はヨーロッパ中に広がっていく」。

もちろん、ニュートンに代表される科学革命を受けた啓蒙期の理神論・無神論の影響を受けたのは、貴族やエリート層、ブルジョワ、聖職者といった都市の住民だけです。

カトリック陣営に属するこれらの地域では、識字率の上昇も緩慢で、農村の人口が啓蒙思想に感染するおそれはありません。それなのに、なぜ、脱宗教化が完了してしまうのか。

それは、これらの地域では、もともと、都市の住民だけがカトリックの信仰を支えていたからです。

平等主義核家族+大規模農業経営のこの地域では、農村の住民はそもそも信仰に無関心だった。

都市の識字層は対抗宗教改革に燃えたが、実のところ、彼らの抱く神の像は、自由主義的で平等主義的な弱々しいものでしかなかった。

こうして、これらの地域では、科学革命の衝撃によって、あっさり信仰が崩壊することになったのです。

*農村がカトリシズムに無関心であったという事実を、トッドは当時の新任聖職者の採用数のデータから導いています。同じフランスでも非大規模農業経営の地域では中流農民層から多くの聖職者が排出されているのに対し、大規模農業経営の地域では聖職者のほとんどが都市部から排出されている。この構造はスペイン、ポルトガル、イタリアでも同様に見られるそうです(219 頁)。

農民が宗教に無関心な地域(平等主義核家族+大規模農業経営)は、
科学革命の衝撃(→啓蒙思想の流行)であっさり信仰が崩壊

5 プロテスタンティズムの再活性化と
崩壊(1740-1930)

(1)プロテスタンティズムの再活性化

さて、平等主義核家族+大規模農業経営の地域でカトリック信仰が大打撃を被っていた頃、プロテスタンティズムは再活性化の時期を迎えていました。

理神論や無神論が流行したとしても、それはごく一部のインテリの間での現象に止まり、都市の一般市民、とりわけ農村の庶民たちに及ぶものではなかった。

そして、近代化に伴う「不安」は、かえって、信仰の一時的活性化をもたらしました。

イギリスでは産業革命の野蛮な第一局面のせいで、全般的不安が広がり、それが信仰の一時的再生をもたらすことになる。大陸では、イギリスの産業革命の半世紀後に始まったフランス革命が、それとは異なるタイプの恐れ、それとは別の信仰と形而上的安全の保証への欲求を生み出し、それが伝統的信仰の目覚めという同じ解決策に結びつくことになる。

223頁

なお、近代化の過程における伝統的信仰の活性化は一般的な現象で、比較的最近の事例はイスラム圏における原理主義の伸張に見られます。イスラム主義が高らかに掲げられ、女性の抑圧が強まったとしても、そのことは、彼らの近代化を疑う理由にはならない。

宗教の退潮と原理主義の伸張が時間的に合致するというのは、古典的な現象である。神の疑問視と再確認は、同じ現実の二つの面に他ならない。

『文明の接近』53頁

(2)続・イングランドのプロテスタンティズム

前回イングランドのプロテスタンティズムについてやや詳しく扱ったので、ここでもイングランドの事例で「活性化」の様相を追いたいと思います。

イングランドは、アルミニウス主義による変形を経て、地上でも自由、天上でも自由という最強の自由主義プロテスタンティズムを確立していました。

そのようなところで信仰が活性化すると何が起きるかというと、教団が分裂するのです。

真のプロテスタント信仰は、個人のレベルでは、‥‥回心を経験したという気持ちを持つことを前提とする。選ばれたものの回心は、ほとんど自動的に分裂を促進することになる。特に、組織内の規律に価値を付与しないアルミニウス派的気質の国では、その傾向は一層強まる。

プロテスタント国においては、教団分裂とは生命力が横溢していることを示す生のしるしに他ならない。所属教会から分離するということは、創始者たち、つまりルターとカルヴァンの物語を再び演じ直すこと、要するに自分をもう一度「改革派」として定義し直すことなのである。

223-224頁

そういうわけで、18世紀から19世紀にかけて、イギリスやアメリカでは、プロテスタントの教団が濫立します。

イギリスでは、1739年にメソジストの創始者の一人であるジョン・ウェスレーが説教を始めます。

“John Wesley,” by the English artist George Romney

同じくメソジストの創始者であるジョージ・ホィットフィールド(George Whitefield)は予定説を巡ってウェスレイと袂を分ち、ウェールズにおけるカルヴァン派メソジストの源流となる。

さらに、ウェスレイ・メソジストからは「ホーリネス運動」とともにホーリネス教会が生まれる、というように、どんどん分裂します。

メソジスト運動は16-17世紀にイギリスで生まれていた多数の宗派とともにアメリカに伝わり、宗教心が高揚して「目覚め」を経験した人たちは、さらに新たな宗派・運動を生んでいくのです。

こうした動きは、イギリスオランダスコットランドウェールズでは顕著で、ドイツでは「ほとんど目につかない」。スウェーデンデンマークノルウェーでは「測定可能」ということです。(権威主義の度合いと連動しているように見えますが、どうでしょう。)

(3)プロテスタンティズムの崩壊

しかし、一時的に活況を呈したプロテスタンティズムの信仰は、1880年から1930年の間に崩壊していきます。

この度の「崩壊期」をもたらしたのは、ダーウィン『種の起源』の公刊(1859年)でした。 

 

Charles Darwin (1809-1882)(public domain)

聖職者の権威を否定し、自ら聖書を読むことを大切にしたプロテスタントの人々は、旧約聖書の冒頭に書かれている天地創造の神話を、暗唱できるほど、繰り返し読んでいたはずです。

‥‥聖書を宗教的実践および反省の核心に据えるプロテスタンティズムにとって、自然淘汰説はとりわけ厳しい打撃となった。創世記を論破するというのは、聖書全体に疑惑の種を撒くことだった。プロテスタンティズムをその核心で掘り崩すことだったのである。

227頁

信仰を保持していたカトリック地域にはさしたる影響を与えなかったダーウィンの革命は、聖書を読むことに立脚していたプロテスタンティズムに、即時的かつ壊滅的な影響を与えたのです(どの地域でも、危機は1880年から1910年の間に開始しています)。

近代化にともなう「不安」を糧に再活性化したプロテスタンティズムは、
ダーウィンに天地創造神話を否定され、あえなく崩壊

(4)信仰崩壊の余波

多少の時間差はあったものの、プロテスタンティズムはすべての地域で一様に崩壊します。

しかし、信仰崩壊が社会に与えた影響(心理的ダメージ)は、地域によって大きく異なりました。それは、同じプロテスタントでも、それぞれの地域によって「神」のイメージが全く違ったためです。

ドイツ
(正統派)
イギリス
(アルミニウス説)
予定説
・神への絶対服従
・権威と不平等
予定説を緩和
・自由な行為による救済可能性の導入
・自由と非平等
強大な権威を持ち
理不尽を押し付けてくる神
多少気まぐれだが
自由を尊重する神

〔ピューリタンの「神」〕

プロテスタンティズムを受容した絶対核家族地域が生み出したアルミニウス説。その信仰を持つ人々にとって、神とはどのような存在だったのでしょうか。

正統プロテスタンティズム(ルター派・カルヴァン派)において、神の権威は強大です。神は人間には理解できない理由で一部の人間を予め選択して救済を与え、それ以外の人間には劫罰を下す。人間は、ただひたすらそれに従うだけの、非常に無力な存在として位置づけられます。

アルミニウス説でも、神の「恵み」(恩寵)が、選ばれた者にだけ与えられる、不平等なものである点に違いはありません(この点で「自由平等」のカトリックとは異なります)。

しかし、その「恵み」の作用、つまり、神の人間に対する働きかけの仕方は、大きく異なります。

アルミニウス派の「建白書」によると、「恵みは主導権をとって,力を与えて,人を悔い改めと信仰とに導くが,不可抗力的に人に圧力をかけることはない.すなわち,恵みは先行するが強要しない」。

ここでは、「神」は、強大な権威をもって、理不尽を押し付けてくる神ではありません。「恵み」の対象を選択するという点において、多少気まぐれかもしれないが、しかし「不可抗力的に人に圧力をかけることはない」。人々の自由意志を尊重する神なのです。

この傾向は、ピューリタンにおいて一層強まります。

アルミニウス説的傾向のイギリスの各宗派―クエーカー、独立派(ないし会衆派)の大部分、ジェネラル・バプティスト―は、人間の不平等を前提とする神の選択という概念を捨て去るわけではないが、選択とは、永遠者の下す命令の結果というよりは、何らかの自己宣言の結果であると考える。そうした自己宣言の典型的な現れがクエーカーの「内なる光」である。神はもはや外在する権威ではなく、小さな断片となって、選ばれた人間の例の中に臨在するのである。

148頁

多少気まぐれだが、人間の自由意志を尊重する神、それは、絶対核家族における親そのものといえます。彼らは子供の自由を尊重する。しかし、財産の分与に関しては、遺言を使って、自分が選んだ子供に選んだ分だけを相続させる。

絶対核家族は、自由主義的で平等に無関心というそのシステムに合わせるかのように、神の選択を受け容れる一方で、神の権威を弱めます。人間の内にあって、人間の自由にそっと力を添える「光」。こう言ってよければ、とても個人主義的な力に変えるのです。

このような神の概念を持つ集団にとって、神の消滅はほんの一歩前進するだけのことにすぎない。いささかも心を乱すようなことではないのである。

229頁

〔ルター派の神の消滅〕

これに対し、神の強い権威の下にあったルター派地域では、神の消滅は、

解放感をもたらすどころか、本物の不安、取り返しのつかない喪失という気分を醸し出した。

神は死んだ」と述べて(1882年『悦ばしき知識』)狂気に陥ったニーチェは、典型的です。しかし、

これに気づいたのはニーチェひとりに留まらない。この道徳的危機がドイツにどのような劇的な結果を生み出すかは、ナチスの台頭の際に明らかになるだろう。ナチスの台頭は、ルターの神の消滅の直後に起こった現象なのである。 

229頁
Portrait of Friedrich Nietzsche, 1882 (public domain)

ちなみに、ドイツにおける信仰崩壊は、1890年から1910年頃(1895年から1905年の間に聖職志願者の数が50%減少、1900年から1908年の間に神学専攻の学生数が4536人から2228人に低落1K.S.Latourette, Christianity in a Revolutionary Age, t.2, p98(『新ヨーロッパ大全 I』226頁による引用)ドイツ労働者党の結成は、1919年です。

移行期危機は、秩序と安定に価値を見出す直系家族地域において、より強く激しいものとなる傾向があるとされます。直系家族ドイツにおける移行期危機は、ルターの神の死を経由したことで、いっそう激しさを増すことになったと考えられます。

神のイメージが弱い地域の脱宗教化は容易だが、
権威主義的な神を頂く地域では、激しい喪失感と苦悩を伴う経験となる

6 反動的カトリシズムの存続
 (1900-1965)

(1)反動的カトリシズムの持続力

平等主義核家族+大規模農業経営のカトリック圏が崩れ、プロテスタント圏全般が崩れ、最後まで残ったのは、地図上のカトリック地域地域のみとなりました。

細かく見ると、中央にドイツ南部(山岳地帯)、ラインラント西部オーストリア中部スイスイタリアヴェネトロンバルディアの一部、ベルギーオランダ南部フランスの東部を含む塊(「第1ブロック」と呼びます)、フランスのバスク地方からスペイン北部ポルトガル北部に連なる塊(「第2ブロック」、フランス西部ブルターニュアンジューヴァンデ)、アイルランド

第1ブロックはすべて直系家族地域に属しており、「直系家族+カトリック」の組み合わせが信仰の持続力を高めたことがわかります。「父親の権威+聖職者の権威」と言い換えれば、「なるほど」という感じです。

第2ブロック以下の地域は、ぴったり直系家族地図に重なるとはいきません(下に並べてみました)。直系家族以外の部分には、絶対核家族も平等主義核家族も含まれています。

直系家族以外の地域の信仰の持続性を説明する要素として、トッドが指摘するのは、農村地帯であって、かつ、大規模農業経営ではないこと。つまり、経済的独立性です。この地域の場合には、「経済的独立性+カトリック」(父親の権威の具体性+聖職者の権威)が、信仰の強度を高めたということになります。

これらすべての地域で、第二次世界大戦の直後まで強固な宗教実践が残っていた。とはいえ内部的にはかなりの差異がある。最大限の忠実さはアイルランドに見られ、日曜のミサへの出席は90%に達する。最小の実践はドイツで見られ、日曜のミサへの出席率は1951年に50%ちょうどだった。とはいえこれらのすべての地域で、信仰は他の場所よりも長く、科学革命と産業革命との相乗的攻撃をしのいで生き延びたのである。

238頁

1500年、ヨーロッパに存在していたキリスト教は、(対抗宗教改革以前の素朴な)カトリック一つだけでした。そして、1950年、気がついてみれば、ヨーロッパに残るのはカトリックのみという状況に(再び?)なっていた。

ただし、この時点で残っていたカトリックの中身は、往時のカトリックとは大きく異なります。

直系家族が多数を占めるこれらの地域は、宗教改革の時期にプロテスタンティズムを受け容れる地上的条件(識字率)が整わなかったことにより、カトリックにとどまることになった地域です。

彼らの本来の価値観は、平等主義核家族が再定義した「自由と平等」のカトリックよりも、予定説の権威主義の方に親和性がある。

カトリックの世界から対抗宗教改革陣営(平等主義核家族)が消え、直系家族が多数派となったことで、当然のように、カトリックの教義は「変形」していくのです。

19世紀を通して、カトリシズムは権威主義の方向へと漂い続けた。形而上学的体系があからさまに修正されたわけではない。しかし討論の主題の全体が、次第に秩序と服従の原則を称揚する方向に向かって行った。1871年はこの変遷の終着点を示す。この年、教皇不謬説が宣言される。それは教皇をこの地上における神の似姿にしようとすることに他ならない。

240頁

最後に残ったのは、対抗宗教改革のカトリシズム(自由と平等)とは全く異なる、権威主義的なカトリシズムだった

(2)脱宗教化の完成(1965-1985)

最後まで残った「反動的カトリシズム」も1965年−1985年の間には失われ、ついに西ヨーロッパの脱宗教化が完成します。

科学革命も産業革命も乗り越えて持続していたその信仰を、いったい何が崩壊させたのか。その答えを、トッドは中等教育の発達に求めています。

1900年から1965年までは、司祭は文化的水準からして大抵は信者より上であった。一般的には初等教育の段階を越えていなかった世界の中で、司祭は中等教育を代表していたのである。カトリックの教えが守られている地域では、司祭には特別の役割があるとするローマ教会の理論は、客観的な文化的上下関係によってしっかりと補強されていた。

識字化した司祭と文盲の信者という客観的な差異によって守られていた中世のカトリックは、聖職者以外の人々が識字能力を獲得した地域で、宗教改革の波に洗われることになりました。

文化水準の低い地域に残った最後のカトリシズムは、1965年頃、農村と都市の大衆が中等教育レベルに達し、司祭の権威を支える現実的基盤が失われたとき、ついにその役目を終えるのです。

文化的発展が遅れた地域に残った最後のカトリシズムは、中等教育の普及によって姿を消す

おわりに

最後にもう一度、6類型の一覧表を掲載しておきます。宗教の構成要素を地上成分と天上成分に分け、家族システムと文化・教育水準に照らし合わせることですべてが理解できてしまうこの喜びを、ご堪能いただけたら嬉しいです。

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(3)イングランドのプロテスタンティズム

はじめに

「イギリスのプロテスタントってよく分からない」とお思いの方は多いと思います(私がそうでした)。

1534 イングランド国教会の分離(ヘンリー8世)
1547-
プロテスタントの教義を導入(エドワード6世)
1553-
カトリック復活を企てプロテスタントを弾圧(メアリ1世)
1559
カルヴァン主義に基づく国教会体制の確立(エリザベス1世)
    *ピューリタンはカルヴァン主義の徹底を求める
1640 ピューリタン革命
1689  国教徒以外のプロテスタントに信教の自由(寛容法)

こうして教科書的事項を並べてみても「それで、結局、何なの?」という感じが拭えません。

イングランドはいち早くローマから離脱して、カルヴァン主義を採用したというのに、何で満足しないプロテスタントが残って、その後100年以上も争いが続くのか。

宗教上のプロテスト勢力であったピューリタンが、なぜ市民革命で大きな役割を果たすのか。

そして、絶対核家族のイングランドは本当にカルヴァン主義(神の権威への絶対的服従!)で満足できたのか。

疑問を解く鍵は、地上・天上の区別、そして家族システムにあります。

前回見たように、イングランドは「地上の自由」に惹かれてプロテスタンティズムを受容しますが、彼らの家族システムの価値観と正統プロテスタンティズムの天上成分は「部分一致」にとどまります(下表参照)。 

正統プロテスタントイングランド
地上成分聖職者の権威を否定(自由)高い識字率
天上成分予定説
(権威と不平等)
絶対核家族
自由と非平等)

そのため、イングランドでは、カルヴァン派を受け入れた後も、「予定説を緩和して自由を獲得する」という課題が残ります。これは「天上」の話です。

もう一つ、話をややこしくしているのが、イングランド国教会の存在です。

後述しますが、イングランド国教会の分離は、ヘンリー8世が世俗的動機からローマの権威から逃れたかっただけで、プロテスタンティズムとは関係がありません(この点、プロテスタンティズムの受容に伴って設立されたスウェーデン国教会とは異なります)。当初の実態は「イギリス版カトリック教会」であったのです。

しかし、その国教会が、やがてプロテスタンティズムの教義を受け入れる。

そのため、イングランドのプロテスタントは、「ローマの権威からは自由だが、国教会の権威には従属的である」という中途半端な状態に置かれてしまいます。「地上」にも、課題が残っていたわけです。

そういうわけで、イングランドでは、当初の改革の後も何かと騒動が続くことになりました。

英国プロテスタンティズム:改革後の課題
 ①聖職者の権威の残存(地上)
 ②絶対核家族の価値観との不一致(天上)
  →①②が解消されるまで争いは終わらない

そうした騒動のことは、世界史の教科書にも書かれてはいます。しかし、例えば「ピューリタンはカルヴァン派の徹底を求めた」と書かれていたとして、それが、天上成分(予定説)の徹底を求めたものなのか、地上成分(聖職者の権威の否定)の徹底を求めたものなのかによって、その歴史的意味はまったく異なります。

教科書や、歴史の概説書では、そこら辺が曖昧なままなので、結局「なんかよく分からない」で終わってしまうのです。

しかし、地上成分と天上成分を区別しさえすればイングランドの宗教改革はとてもよく分かる。その上、イングランドの宗教改革がきちんと分かると「近代化」の理解が確実に一段深まるのです。

というわけで、以下では、トッドの叙述を基礎に、一般的な知識を適宜付け加えながら、説明を試みてまいります。

カルヴァン主義の確立

(1)イギリス国教会の分離

まず、イングランドでは、1534年にヘンリー8世が離婚問題で教皇と対立しイングランド国教会を作ります。

 

ヘンリー8世

しかし、ヘンリー8世は、ルターを論駁する論文を書いてローマ教皇に褒められたほどのカトリック信仰の持ち主であり、この動きはプロテスタンティズムとは全く関係がありません。

この時点では、イングランドの「国教」は、完全にカトリックの枠内であり、単に、「地上における権威と不平等」の権威の頂点をローマ教会からイングランド国教会に置き換えたにすぎない、といってよいと思います。

ヘンリー8世によるイギリス国教会の分離は
プロテスタンティズムとは無関係

(2)プロテスタント天上成分の浸透ーカルヴァン主義の採用

それはそれとして、識字率が比較的高く、ローマからは遠いという条件の下で、プロテスタンティズムはイングランドの市民(主に貴族)の間に浸透していきます。

それを受けて、国教会の教義も、プロテスタント方向に傾斜していくのですが、その影響は主に「天上成分」に関するものでした。

「地上」の影響も全くないわけではなく、例えば聖書主義は採用されています(聖書主義、英訳聖書の作成は、ローマ教会からの自立の根拠としても有効だったと思われます)。しかし、教会組織や、聖職者の権威を前提とした儀式などは、多くがそのまま(=カトリック的なまま)残されたようです。

 

Frontispiece to the King James’ Bible, 1611

そういうわけで、国教会には、プロテスタントの天上成分(予定説)が浸透します。その教義は、カトリックへの回帰を目指してプロテスタントを弾圧した「ブラディ・メアリ」(メアリ1世)の治世が終わった後、エリザベス1世の時代に確立された体制の中で、(時代的に)カルヴァン主義の採用という形で、国教会の正統教義となりました。

「カルヴァン主義の採用」という形で、
 予定説が国教会の正統教義となる(天上成分)

カルヴァン主義の崩壊とアルミニウス主義の勝利

(1)アルミニウス主義の勝利‥とは?

ところが、イギリスのカルヴァン主義は、この後すぐ、あっという間に崩壊するのです。

「17世紀イギリスの知的歴史の最も魅惑的な問題の一つは、カルヴァン主義の崩壊である。それはまるで、社会にプロテスタント倫理の支配が行き渡った以上、歴史的使命を果たし終えたとでも言うかのようだった。1640年以前には、カルヴァン主義は賛課派および聖礼派のアルミニウス派による右からの攻撃に曝されていた。ところが革命の間は、ジョン・グッドウィン、ミルトン、クエーカー教徒といった左翼合理主義アルミニウス派に攻撃されたのである。」

『新ヨーロッパ大全 I』147-148によるChristpher Hill, The World Turned Upside Down, p342の引用

カルヴァン主義は、いろいろなアルミニウス派から「攻撃」されて、結局、アルミニウス派の側が勝利を収めるのですが、いったい、何が何を攻撃して何が実現されたのか。

ここら辺のことは、世界史の教科書を読んでもよくわかりません。というより、かえって混乱が深まります。

「1640年」とは、いわゆるピューリタン革命(イギリス革命)が勃発した年です。クロムウェルは「ピューリタンを中心によく統率された鉄騎隊を編制し、議会派を勝利に導いた」とありますが、そういえば、なぜピューリタン?

宗教改革と何か関係はあるのでしょうか?

チャールズ1世の処刑

(2)国教会におけるアルミニウス説の勝利(課題②の解決)

ここでも、地上成分と天上成分の区別を意識して、話を整理していきます。

上の引用文における「賛課派および聖礼派のアルミニウス派」というのは、国教会の内部(国教会所属の聖職者など)において、アルミニウス説を支持した人たちのことだと思われます。

彼らは当然、「地上」においては国教会の権威を受け入れている。しかし、絶対核家族の彼らは、カルヴァン派の天上成分(予定説)が気に入らないので、アルミニウス説を支持したのです。

トッドによると「1640年の革命の前夜、英国国教会の主教の大部分はアルミニウス派」でした。彼らは、アルミニウス説に従って、国教会の教義を整えていく。これで、「②絶対核家族のイデオロギーとの不一致(天上)」という課題は解決です。

国教会の教義としてアルミニウス説(予定説の緩和)が浸透し、
天上の課題が解決

(3)ピューリタンと市民革命

では、上の引用の中で「左翼合理主義アルミニウス派」と言われているものは何なのか。

これはいわゆる「ピューリタン」のことを指していると思われます。

*なお「ピューリタン」は高校世界史では「改革を求めるカルヴァン派」という整理になっているようですが、「16―17世紀の英国における改革派プロテスタントの総称」というマイペディアの説明が真実に近いと思われます。具体的には、独立派、長老派(プレスビテリアン)、ジェネラル・バプティスト、クエーカーなどを指します。以下、このサイトでも、こうした様々な改革派全体を指す語として「ピューリタン」を用います。

上の引用文では、この人たちも「カルヴァン派を攻撃した」側に入っていおり、世界史の教科書でも、「ピューリタン」は(宗教改革の過程で)「カルヴァン主義をより徹底することを求めた」人々であると紹介されています。

ということは、この人たちは、アルミニウス説を採用した国教会に対して、予定説を徹底するように求めた人たちなのでしょうか?

もちろん、そうではありません。

彼らが「徹底することを求めた」のは、プロテスタントの地上成分の方なのです。

イングランドでは、先に国教会制度が確立し、その国教会が後でプロテスタンティズムの教義を受け入れたため、「プロテスタンティズム」といいながら、カトリックに近い「地上の権威」が存続しました。

ローマからは離脱したものの、一般の信徒は、国教会の権威の下に置かれたままであったのです。

そのため、ピューリタンたちは、宗教改革の過程では、プロテスタンティズムの地上成分、「信仰の民主化」を求めて戦います(これが「カルヴァン主義の徹底」です)。

そして、次には、ピューリタン革命(イギリス革命)で戦うことになるのですが、宗教の変革を求めた彼らがなぜ市民革命で活躍するのか?

イングランドのプロテスタントにとって、「信仰の民主化」を求める戦いの敵はローマ教会ではなく、イングランド国教会です。

国教会の首長はイングランド国王であり、宗教的権威は王権の権威の源でもありました。当人たちの関心があくまで信仰にあったとしても、客観的に見れば、その戦いは政治的プロテストと紙一重です。

宗教改革の過程で、ピューリタンたちは、「信仰の民主化」を求めて戦い、十分な成果を得られずに終わる。

その彼らは、数十年後、識字率50%に近づいたイングランドで、今度は市民的自由を求めて立ち上がるのです。

宗教改革には「プレ民主化運動」の側面があると述べました(こちら)。

貴族を中心とする「信仰の民主化運動」が終わると、その次に、一般の市民を中心とする政治の民主化運動が始まる。

イングランドの歴史を見ると、宗教改革と市民革命は近代化の一連の過程なのだということがよく分かります。

ピューリタンは、まずは「信仰の民主化」(地上の自由)を求めて国教会と戦い、数十年後、今度は市民的自由を求めて国王と戦う

(4)ピューリタン的アルミニウス主義の定着

では、ピューリタンの求めた「地上の自由」はどうなっていくのか。

ピューリタンの敵は「国教会=王権」なので、その後の彼らの勢力は、王権のそれと反比例して進んでいきます。

ピューリタン革命の間に伸張した「地上の自由」は、王政復古によって弱まり、彼らは再び非国教徒として迫害を受ける立場に逆戻りする。

安定した地位を得るのは、名誉革命(1689年)後のことです。名誉革命と(少なくともほぼ)同時に制定された「寛容法」により、非国教徒のプロテスタントの信仰の自由が認められる。

ここにおいて、ようやく、課題①(地上の権威からの自由)が解決され、ピューリタンたちは大いにその信仰を活性化させていくことになるのです。

その「活性化」の内容は次回まわしとさせていただいて、ここでは、イングランドのプロテスタンティズムとアメリカの信仰との関係を、ちらと見ておきたいと思います。

ピューリタンたちは、王政復古で迫害を受けていた期間に、新天地を求めてアメリカに向かいます。最初のものは「ピルグリム・ファーザーズ」として有名ですが、その後も同様の動きは続きます。

さらに、イギリスで宗教的寛容が実現し、プロテスタントの信仰が活性化した後も、その渦中にある人たちはよくアメリカに渡り、説教を繰り広げたりするのです。

イギリスにおける信仰の再活性化(1740-1880)は、アメリカの国家建設の時期と重なっており、アメリカの信仰はイギリスのプロテスタントの動きに大きな影響を受けて形成されていきます。

したがって、アメリカのプロテスタンティズムについては、おおよそ、「急進的自由主義」であるイギリスのピューリタン(非国教徒のアルミニウス主義)と同様と考えていただいてよいと思います。

(次回見ますが)この超自由主義のプロテスタンティズムは活性化すると分裂を繰り返す。みんなが自分流のやり方で信仰運動を展開していくのです。

名誉革命に伴う宗教的寛容の実現で
ようやく地上の課題(聖職者の権威からの自由)が解決

 

スコットランド、ウェールズ、フランス —少数派直系家族地域のプロテスタンティズム

さて、ここまで、イングランドにおけるアルミニウス主義の定着を、「絶対核家族の価値観に合わせた変形」と決めつけて書いてきましたが、「本当にそうなの?」とお思いの方もおられるかもしれません。

アルミニウス主義は、地上の自由に加えて天上でも自由を実現しようとするものですから、従来の(トッド以前の(!))歴史理解からは「近代化に伴う普遍的な現象ではある」という仮説を立てることもできそうです。

これが絶対核家族地域にのみ起こった現象なのかを確めるめるため、周辺地域におけるプロテスタンティズムの展開を見ておきましょう。

まず、スコットランド。スコットランドは直系家族と絶対核家族がほぼ半々ですが、絶対核家族が多数派であるイングランドとの関係で、「相対的に直系家族的」という感じを持つ地域です。

スコットランドはイングランドと同時期にプロテスタンティズムを受容しますが、その後、アルミニウス説の影響が及ぶことはありません。

むしろ、直系家族地域を中心にカルヴァン主義の強化の動きを見せたりしつつ、全体としては、正統派のカルヴァン主義(予定説)を守り続ける。この安定性の原因を、トッドは「直系家族の比重が相対的に高い」点に求めています。

同じく直系家族が支配的なウェールズも同様です。ウェールズへのプロテスタンティズムの浸透は遅く(トッドは「言語的に孤立しているため」という)、イングランドでアルミニウス説が有力になった後であったので、何かにつけて「アルミニウス派か、予定説か」の選択を迫られます(17世紀にはバプティスト派の分裂、18世紀にはメソジスト派の分裂)。

ウェールズはその度に予定説を守り抜くのです。

ちなみに、この点は、フランスのカルヴァン派(ユグノー)も全く同じです。フランス南西部に根を下ろしたフランスのプロテスタンティズムは、イングランドがアルミニウス説に変わったその後も、「予定説にしがみつく強硬なカルヴァン主義者のままである」。

フランス南部、オクシタニア(Occitania オック語地方)と呼ばれるこの地域は(この地図の青で囲んだ部分です)直系家族地域、トッドによれば「ヨーロッパ有数の純粋かつ強硬な直系型家族構造」の地域です。

アルミニウス主義への変形は絶対核家族地域のみ。
直系家族地域は予定説を守り続ける

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ヨーロッパのキリスト教
(2)プロテスタンティズムの普及と変形

 

はじめにー教育、家族システム、宗教システム

プロテスタンティズムに対する各地の反応は、基本的に、①文化レベル(識字率)、②家族システム によって決まります。

地上・天上成分の内容と適合条件

プロテスタンティズムは、「聖職者に対する異議申立」であり、「信仰の民主化運動」であり、要するに「自分で聖書読むから神父なんかいらない!」というものですから、一定の識字率は不可欠です。

しかし、識字率が高ければ、どこでもプロテスタンティズムを受容するというわけではありません。

プロテスタンティズムの天上成分である予定説(神の権威への服従、人間の不平等)には、直系家族の価値観がそのまま反映されています。

そのため、家族システムに異なる価値観が刻まれている地域は、聖職者には文句があったとしても、天上成分が障害となり、プロテスタンティズムを受け容れることができないのです。 

ルターの予定説権威不平等適合性
①直系家族権威不平等
②絶対核家族自由非平等
③共同体家族権威平等
④平等主義核家族自由平等×
正統プロテスタンティズムの天上成分との適合性(赤字は不適合部分)

そういうわけで、プロテスタンティズムは、直系家族地域には順調に普及しますが、平等主義核家族地域にははっきり拒絶されます(共同体家族の地域もカトリック側に付いたようです)。

部分一致の絶対核家族地域は、地上での「自由」に心を奪われてプロテスタンティズムを受容しますが、やがて天上の「権威」に耐えられなくなり、教義を修正していく。

トッドの歴史理論は、社会の表層で起きているあらゆる事象は、教育および家族システムが作る集合的心性に規定されていると考えます(下の図のような感じです)。 

トッドがヨーロッパの宗教改革の分析において示して見せたのは、宗教現象も例外ではない、ということに他なりません。

以下では、まず、西ヨーロッパにおけるプロテスタンティズムの受容と拒絶の過程をざっと確認した後、イングランドにおける「変形」の過程を見ていきたいと思います。

プロテスタンティズムの受容と拒絶

(1)第1局面 直系家族への浸透(ドイツ、スイス)

ドイツ(ヴィッテンベルク)から発したプロテスタンティズムは、まず、ドイツおよび隣国スイスに浸透します。この両地域は、識字率、ヴィッテンベルクとの近さ、家族システム(ドイツは全体が直系家族スイス約88%直系家族)が揃い、プロテスタンティズムの浸透を妨げる要素は一つもありません。

スイスではツヴィングリが活躍しました(写真)

 Hans Asper – Winterthur KunstmuseumPortrait of Ulrich Zwingli (1484-1531)

1517   ルターの95ヵ条
1520  ルター 教皇の破門状を焼く
1523-31 ドイツ:北部諸侯と帝国都市の3分の2が改革派に
1523-29 スイス:チューリヒ、ベルン、バーゼルが改革派に
1524-25 ドイツ農民戦争

プロテスタンティズムは、識字率の高い直系家族地域に順調に浸透

(2)第2局面 続・直系家族への浸透(北欧)

プロテスタンティズムの波は、次に、北欧に向かいます。中核はスウェーデンとデンマークです。

スウェーデン79%直系家族なので、プロテスタンティズムの受容能力において理想的です。デンマークの直系家族は13%に過ぎませんが、残りの人口は絶対核家族(自由と非平等)であり、天上の「不平等」は受け入れ可能です。

この時点では、北欧の識字率は決して高くありませんでしたが、「ハンザ同盟によってドイツにぴったりと密着した地域である」(138頁)こと、そして家族システムの価値観が合致している(または「矛盾しない」)ことによってプロテスタンティズムが浸透する。すると今度は、プロテスタンティズムが、スウェーデンを識字先進国に変えていくのです(こちらの表では「適応反応」と表現しました)。

*なお、プロテスタンティズムはノルウェー(直系家族率50%)、フィンランド(25%)にも浸透していますが、トッドはこれを「デンマークとスウェーデンに遠隔誘導されたもの」としつつ、当時の両国の人口の少なさから「自律性を持った宗教現象とみなすことはできない」としています。

1527-1544 スウェーデン 内戦を経てプロテスタント国家に
1530-1539 デンマーク 内戦を経てプロテスタント国家に

プロテスタンティズムは、ドイツに近い直系家族地域に浸透し、識字率を上昇させる

3)第3局面 カルヴァン主義の展開

第3局面で、プロテスタンティズムは西へ進みます。

ジュネーヴを席巻したカルヴァン主義は、フランドル、アルトワ(フランス北部)、アルザスでかなり有力になります。しかし、パリ盆地にはどうしても浸透できない。パリ盆地は平等主義核家族地域です(下の地図のグレーの部分です)。

*なお、カルヴァン派も予定説であることに違いはないので、ここではルター派・カルヴァン派を「正統プロテスタンティズム」として一緒くたに扱います。

そこでパリ盆地を迂回し、スイスからフランス南部のオック語地域(オクシタニア)に根を下ろす。この地域は80%直系家族です(下の地図の青で囲んだ部分がそのフランス国内の部分)。

『不均衡という病』67頁

他方で、地中海沿岸のラングドックプロヴァンス(右下のグレーの部分)には定着しない。これらの地域は共同体家族平等主義核家族(いずれも「平等」)です。この地域は、パリ盆地を含む北部フランスと並んで、カトリック同盟の要塞地帯になっていきます。

ネーデルラント(直系家族率45%)、スコットランド(50%)、イングランド(ウェールズと合わせて25%)は、プロテスタンティズムを受け入れます。しかし、ネーデルラントイングランドでは多数を占める絶対核家族が、やがて、教義の変形をもたらすことになるのです。

*どうも、地上成分における条件の不一致は適応反応(自らを変える)を呼び、天上成分における不一致は教義の修正(教義の方を変える)をもたらすようです。家族システムの価値観の強固さを示す例証の一つといえそうです。

1534 イギリス国教会の成立
1536 カルヴァン、バーゼルで「キリスト教綱要」を出版 
ジュネーヴの宗教改革に協力 市当局に追放される
1541 ジュネーヴに戻り宗教改革を指導
1559  フランス南部で初の改革宗教会議
1559-1560 スコットランド 内戦を経てカルヴァン派教会樹立
1559-1572 イングランド カルヴァン派に転換
1566 ネーデルラント プロテスタントによる対スペイン民衆蜂起

平等主義核家族地域はプロテスタンティズムを拒絶する

絶対核家族地域はプロテスタンティズムを受け容れるが、やがて天上成分を変形させる

プロテスタンティズムの変形
—絶対核家族の「自由」への適応

(1)アルミニウス説の登場

プロテスタンティズムの変形は、1603年から1609年までライデン大学の神学教授を務めたアルミニウスが、カルヴァン派の正統教義である予定説に疑問を投げかけたことに始まります。

 

Portrait of Jacobus Arminius;

アルミニウスの死後、彼を支持するネーデルラントの牧師たちがまとめた「建白書」(Remonstrantie)によると、その立場は次のようなものでした。

(1)堕落後の人間はすべて,全的に腐敗しており,神の恵みを離れて善を行う力はない.
(2)神は誰が信じるか,誰が信じないかをあらかじめ知っており,その予知によって人を救いに予定している.
(3)誰でも悔い改めて信じるなら,救われることができるように,キリストの贖いはすべての人を対象としている.
(4)恵みは主導権をとって,力を与えて,人を悔い改めと信仰とに導くが,不可抗力的に人に圧力をかけることはない.すなわち,恵みは先行するが強要しない.
(5)信仰者であっても,恵みの働きかけにあえて耳を閉すことによって,救われた状態から転落することもあり得る.救いはキリストにあって耐え忍ぶ者に保証される.
   

『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991[藤本満]

アルミニウスは、救済における人間の自由意志の力を完全に否定するルターやカルヴァンを退け、神の「予定」の存在は認めつつ、その決定の力を弱め、自由意志に基づく人間の行いによる救済(および転落)の可能性を認める説を唱えたわけです。

(2)アルミニウス説のイデオロギー

予定説を緩和し、自由意志の理想と本人の行いによる救済の可能性を再導入することで、アルミニウスの「天上成分」は、カトリックのそれに限りなく近づきます。

しかし、プロテスタントの牧師であるアルミニウスにとって、「地上」における自由と平等(ローマ教会、聖職者の権威の否定)は大前提です。

その結果、アルミニウス説は、地上と天上の両方で自由を求める、もっとも急進的な自由主義に到達するのです。

「ルター派あるいはカルヴァン派の古典的プロテスタンティズムは、神への服従と教会に対する自由とを望んだ。対抗宗教改革のカトリシズムは、神の前での自由と教会への服従を要求した。ピューリタン的アルミニウス主義は、神に対しての、かつ教会に対しての人間の自由を主張する。この自由主義的急進主義は、ネーデルラントもさることながら、とりわけイングランドにおいて、まず初めに諸宗派の乱立を招来するが、ほどなくして宗教的寛容へと至ることになるのである。」

『新ヨーロッパ大全 I』150頁
正統プロテスタントカトリックアルミニウス説
地上成分自由と平等
・聖職者の権威を否定
・「われわれは皆聖職者だ」
権威と不平等
・聖職者の権威を肯定
・聖職身分と俗人身分の区別を認める
自由と平等
(正統プロテスタントと同じ)
天上成分権威と不平等
・救済を決めるのは神である
・人間は救済される者と劫罰に処される者に分かれる
自由と平等
・洗礼を受けた全ての者は原罪から洗い浄められる(救済の機会平等)
・救済か劫罰かは本人の行いによる
自由(と非平等)
・予定説を緩和
・本人の行いによる救済の可能性を認める

(3)アルミニウス説の定着と勝利

キリスト教信仰における急進的自由主義であるアルミニウス説のプロテスタンティズムは、「宗教的形而上学と家族構造の連合の仮説からすればまことに論理的に」、ヨーロッパの絶対核家族地域に現れ、定着していきます。

ネーデルラントでは、アルミニウス派は、一度は公権力により追放されますが(1618-19のドルドレヒト宗教会議で断罪)1625年には布教を許されます。

ライデンで生まれたアルミニウス主義は、アムステルダムを含む西部地域に根を下ろし、「非常に少数派ではあるが‥‥ネーデルラント・プロテスタンティズムに‥‥カルヴァン派やルター派から極めてかけ離れた色彩」を付け加えていくことになる。

なお、ネーデルラント絶対核家族率は55%ですが、ライデン、アムステルダムのある西部地域はまさにその中心地域です。

一方、全土の70%絶対核家族が占めるイングランドでは、アルミニウス派は、単に存在を許されるというだけでなく、全面的に勝利を収めることになっていきます。

イングランドについては、「国教会との関係は?」など、整理しなければならないことが多いので、回を改めてお送りします。

絶対核家族地域には、地上・天上の自由を説く急進的自由主義(アルミニウス主義)のプロテスタンティズムが広がる