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独自研究

生き心地の良い町
-核家族の日本-

「生き心地の良い町」海部町

徳島県に海部町という場所がある(あった)のをご存じだろうか。自治体の合併で現在は徳島県海部郡海陽町の一部となっているが、その中の元「海部町」だった地域のことである(以下単に「海部町」と呼ばせていただく)。 

海陽町村役場の位置

シティズンシップ教育(主権者教育といいましょうか)に関心を持っていた頃に読んだ本(↓)で知ったのだが、その町は、周辺町村と何ら違いがないように見えて、突出して自殺率が低く、社会に対する主体性等の点でも顕著な特徴があるというのである。

岡檀『生き心地の良い町』(講談社、2013年)

例えば、本の中では「有能感(自己効力感)の度合い」に関するものとして挙げられているアンケート項目「自分のような者に政府を動かす力はない。YES/NO」。周辺の自殺多発地域であるA町との比較は次の通り。

YESNO
海部町26.341.8
A町51.227.2
『生き心地の良い町』58頁

初めて読んだときから「家族システムに秘密があるに違いない」とにらんでいたが、調べようもないので放置していたところ、先日「近世京都絶対核家族説」と同時にこの本のことを思い出し、改めて読んでみたらばっちりの記述があるではないか。

海部町の成り立ち

江戸時代の初期、海部町は材木の集積地として飛躍的に隆盛した。一説によれば、豊臣家が滅ぼされた大阪夏の陣のあと、焼き払われた城や家々の復興に充てる大量の材木の需要があり、近畿からの買い付けが阿波の海部町にまで及んだという

近隣町村はいずれも豊かな山林を有しているのだが、海部町には山林という資源に加えて、山上からふもとまで丸太を運搬するための大きな河川があり、さらには大型の船が着岸できるだけの築港が整備されているという、理想的な地の利があった。短期間に大勢の働き手が必要となった海部町には、一攫千金を狙っての労働者や職人、商人などが流れ込み、やがて居を定めていく。この町の成り立ちが、周辺の農村型コミュニティと大きく異なる様相を作り上げていったことに関係している。海部町は多くの移住者によって発展してきた、いわば地縁血縁の薄いコミュニティだったのである。

岡檀『生き心地の良い町』(講談社、2013年)87-88頁(太字は筆者)

こうした歴史的背景を調査し著書に記された岡檀さんご自身は、「地縁血縁の薄い人々によって作られたという海部町の歴史が、これまで述べてきた独特のコミュニティ特性の背景にある」というお考えである。「独特のコミュニティ特性」について要約されているので、少し長めに引用させていただく。

町の黎明期には身内もよそ者もない。異質なものをそのつど排除していたのではコミュニティは成立しなかったわけだし、移住者たちは皆一斉にゼロからスタートを切るわけであるから、出自や家柄がどうのと言ってみたところで取り合ってももらえなかっただろう。その人の問題解決能力や人柄など、本質を見極め評価してつきあうという態度を身につけたのも、この町の成り立ちが大いに関係していると思われる。そして、人の出入りの多い土地柄であったことから、人間関係が膠着することなくゆるやかな絆が常態化したと想像できるのである。

89-90頁

分析はいちいちもっともだと思うのだが、家族システムの影響力が深甚であることを知る者からすると、移住者が運んだ家族システムによっては、実際に「異質なものをそのつど排除してしまってロクなコミュニティが成立しない」、という結末も十分にあり得たように思われる。

そのような結果に終わらず、地元に赴任した保健師に「何かがほかと違う」と言わしめる(34-35頁)不思議なコミュニティとして存続できたことの背景には、もちろん歴史、そしてさらに奥に、家族システムがあるに違いないのだ。

「絶対核家族」の痕跡?

三段論法で説明しよう。

①室町末期から江戸初期にかけての京都周辺は「絶対核家族の都」だった
②その時期に京都周辺から移住した人々の一部が海部町に住み着いた
③ ∴ 海部町は絶対核家族の町となった。

以上が私の立てた仮説である。

まずについて、詳しくは、前回の記事「京都ー核家族の都?」をご覧いただきたい。一言でいうと、京都は古来原初的核家族の都であったが、直系家族の武家政権(足利)が幕府を開いたことへの反発から、室町末期から江戸初期までの町衆主体の京都は絶対核家族の都となっていたのではないか、という説である。

「絶対核家族」というのが一押しの仮説だが、そうでなかったとしても、まだ核家族(原初的核家族)であったことは間違いないと思われる。

については岡檀さんの聞き取りに依拠しているだけだが、歴史的に違和感がないという点は確認しておこう。

まず、近畿と阿波(徳島)の交易は室町時代からそれなりに盛んだったと考えるのが自然である。海路が中心だった当時としては単純に近いし、室町幕府で実権を握った細川氏や三好長胤、松永久秀らはいずれも阿波と縁が深い。

大坂夏の陣(1614)などのきっかけで特に栄えたことが語り継がれるというのもありそうなことだろう。その前後の時期に大勢の人がやってきて、中には住み着いた人もいた、というようなことではないかと思われる。

そこから「∴ 海部町は絶対核家族の町となった」という結論を引き出すにあたって、やや問題なのは「当時の阿波全体の家族システムはどうだったのか?」ということであろう。

とくに、当時の京都周辺が「絶対核家族」ではなく「原初的核家族」だった場合の問題が大きい(両者の違いについてはこちらこちら)。

江戸時代初期に四国がまだ原初的核家族という可能性は小さくなく、その場合、の移住は単に「原初的核家族が原初的核家族地域に移住した」だけとなり、海部町に特別な個性が宿る理由はなさそうだからである。

この件について決定的なことを言うだけの知識も専門性も私にはないが、ただ、四国と近畿では、四国の方が直系家族化が早かったことを伺わせるデータは存在する。

前回も掲載したこの地図だ。

1886年における世帯ごとの夫婦の平均数(『家族システムの起源 I』上 234頁)

これによって、江戸初期の阿波がすでに直系家族であったと推定することは不可能だが、四国と近畿で「差異があった」と述べることは許されるだろう。

直系家族化の過程にあった阿波に核家族度の高い「自由な」人々が移住した。移住した人々と近隣の地元住民とは、「反発」とは言わないまでも、相互に違いを感じ取り、付かず離れずに相互のシステムを保った。

その結果、土地に染み付く形で海部町独自のメンタリティが維持され、数百年の時を経て現在に至る、ということではなかろうか。

「島」

『生き心地の良い町』を改めて読むと、日本の大半は直系家族システムであるとしても、部分的には核家族システムの地域があるのではないか、という気がしてくる。

海部町以外の主な候補地は「島」である。

実は、同書で、海部町は「ある意味、日本でもっとも自殺率の低い町」と表現されている(20頁)。2000年のデータでは、海部町は全国3318の市区町村のうち、8番目に自殺率の低い市区町村となっている。しかし、上位10位に入る市区町村は、海部町以外はすべて「島」なのだ。

「なるほど、島か‥」と考えたとき、思い浮かんだのは、NHKの「列島ニュース」か何かで見た五島の綱引きの光景である(福江島の西端、玉ノ浦町の大宝に伝わるものが一番有名なようだが、他の地域でもある模様)。

正月に豊漁豊作を祈願して行う綱引きだというが、私が驚いたのは「男性 VS 女性」で引き合うという点だ。

2020年に実施された綱引きについて五島市のウェブサイトに記載がある(写真もあるので是非どうぞ)。

年齢も人数も問わない男女対抗の7回戦。太鼓が打ち鳴らされる中、息の合った掛け声と共に懸命に綱を引き合います。

男性が勝つと豊作、女性が勝つと豊漁と言われていますが、去年に引き続き今年も女性の勝利。「ほとんど半農半漁やけんどっちが勝っても嬉しかとよ」やっと新年が始まった気がすると笑うおばあちゃん。

焼き餅入りのぜんざいを安堵した表情で美味しそうにほお張っていた。

勢いのあるタイプの祭といえば男性が主役と決まっている。男性と女性が対等に戦うなんて、いかにも、男女の地位に上下の差がない原初的核家族を思わせるではないか。

上記のウェブサイトの記載の中に「半農半漁」とあるが、歴史的に漁労が主な生業であった地域というのがポイントではないかと思う。

農業が主である地域では、土地の相続(そのための家系の永続)が問題となる結果、いずれ(通常は)男性中心の社会になってしまうが、漁業にはその問題がない。船に乗るのが主に男性だとしても、女性には女性の役割があるし、どちらかを体系的に排除しなければならない理由が生じないのだ。

縦型に組まれた日本にも「原初的自由の痕跡」はポツポツと残っているのかもしれない。ちょっと楽しい。