カテゴリー
トッド入門講座

ロシアの外婚制共同体家族はどこから来たのか?ーヨーロッパの共同体家族

中東の内婚制共同体家族、中国の外婚制共同体家族の由来が大体分かると(「家族システムの変遷-国家とイデオロギーの世界史」をご参照ください)、つぎに気になってくるのはロシアです。ロシアは確固たる外婚制共同体家族地域です。そのせいで、中国と並び、核家族の欧米に執拗に敵視される運命にあるわけですが、彼らは、いつ、どういう経緯で、共同体家族システムを持つようになったのでしょうか。

ヨーロッパの共同体家族地域には、ロシア、バルカン、中部イタリアの三つの極があります(フィンランドとバルト三国の一部にもありますが、これはロシアの影響と見られます)。

この3箇所に、どのようにして共同体家族が伝播したのか、『家族システムの起源1』の記述から、かいつまんでご紹介します。

1 中部イタリア

イタリア中部には、一貫性および同質性においてロシアやバルカンに引けを取らない「極めて純度が高い」共同体家族の地域が存在しています。

この地域は、1960年から1990年にかけて一貫して共産党の得票率が極めて高かった地域であり、外婚制共同体家族=共産主義という定式にもばっちり当てはまっているのです。

地理的に見て、この地域には、古代ローマの初期の共同体性の影響が及んでいることは想定されるのですが、その強度は、ローマの残像という要因だけで説明するには強すぎます(起源1・下486-487頁)。

そこで、ローマ帝国の後期以降にヨーロッパにやってきた民族の中に候補を探ってみると、ゲルマン人はみな起源的な家族システムを持っていたので、彼らが共同体性を持ち込んだとみることはできません。

他方、ステップから到来した民族、フン人、アヴァール人、ブルガル人、ハンガリー人、ペチュネグ人は、「複数の核家族を一つの柔軟な秩序に組織編成する」共同体的家族的な原則を持っていたと考えられ、この人たちが運搬人候補となります。

そして、トッドによると、ゲルマン民族の中に、この遊牧民系の民族との関わりから、共同体性を獲得した民族があるのです。

ゲルマン諸民族の中には、未分化の集団から抜け出して、こうした‥‥集団に連合したものが一つあった。ランゴバルド人がそれで、アヴァール人と混交して、ステップの出口にしばらく滞在した。大部分の歴史研究者は一致して、ランゴバルド人の中に類型を逸脱した父系制的特徴が検出されると認めている。

起源1・下 492頁
*元ローマの属州パンノニア(現ハンガリー)が混交の舞台らしく、この地の支配者は、6世紀以降、「ランゴバルド人(530年-568年)、アヴァール人(560年代 – 約800年)、スラヴ人(480年頃からこの地に居住しており、800年頃-900年頃は独立を果たした)」(wiki)と変遷していくのです。ランゴバルド人とスラヴ人(後述)は、変遷の過程で、アヴァール人と接触するわけです。

ランゴバルド人‥‥世界史で習った記憶がうっすらあります。568年に建国され774年にフランク王シャルルマーニュ(カール大帝)に滅ぼされたという(これはもちろん覚えておらずwikiを見ました)。このランゴバルド王国の支配地域は、現在の共同体家族地域に重なっています。

というわけで、イタリア中部については、アヴァール人がランゴバルド人に伝えた共同体家族が、ローマから受け継いだ共同体的基層の上に重なって確固たるものとなった(493頁)、という仮説が導かれました。

そうすると、起源は6世紀ですから、結構古い、といえるでしょう1古いということは通常「強い」ということを意味します

2 バルカン

次はバルカンです。バルカンの家族システムは、14世紀から20世紀をカバーする豊富な研究資料によると、「全体としては、それは安定した農民の大世帯を伴う正真正銘の‥‥共同体家族モデルである」(440頁)。

そして、オスマン帝国の侵入から間もない時期に実施されたセルビアの人口調査において、はっきりした父系原則の確立が見られることから、トッドは、共同体家族への変化は、オスマンの侵入よりもかなり以前に進行したに違いないと想定します(441-442頁)。

では、具体的には、いつ、誰が、ということで調査を進めると、

ランゴバルド人に父系制を伝えたアヴァール人は、6世紀初頭にバルカン半島に南下した時に、やはりスラヴ人と連合したことが明らかになった。

したがって、

アヴァール人がランゴバルド人とスラブ人に父系の〔共同体家族的な〕組織編成を伝授したという、きわめて単純な歴史的図式を想い描くことができるであろう。これはランゴバルド人がイタリアへ、スラヴ人がバルカン半島へと南下の前進を始める前のことである。

495頁

先ほどイタリアについてみたように、ここでも舞台はパンノニア、時期は6世紀ということになります。

そしてもちろん、バルカンの地は、オスマン帝国の中心地ですから、帝国支配下において共同体家族性は一層強化されることになったでしょう(496頁)。

あれ、そうすると、オスマン帝国の内婚制共同体家族の影響をバルカンは受けたということになるんでしょうか。キリスト教なのに2キリスト教は明確に内婚を否定しているそうです。出典は後日(発見次第)追加します

この点はのちほど確認します。

3 ロシア

さて、いよいよロシアです。

ロシアは、全土に同質的な共同体家族を持っていますが、女性の地位が比較的高いという特徴があります。女性の地位の高さは、原初的形態の残存を示し、共同体家族が確立した年代が比較的遅いことを推測させます(497頁)。

実際、ロシアの歴史的資料をみると、まず、

9、10世紀のキエフ・ルーシと呼ばれた最初のロシアは、あまり父系制を喚起することがない」。政治権力はたいてい男性に属していましたが、「イーゴリー大公亡き後、大公妃オリガは、ほぼ945年から962年までの間、この国を治めた」という事例もあり、「彼女がこうした重要な役割を果たしたことは、双方性を推測させる」。

キエフ国家はその後分裂し、ロシアは1251年から1480年までの間、モンゴルの支配下に置かれます。

ロシア人が本物の父系原則を獲得したのは、モンゴルの宗主権の下で過ごした2世紀半の間であるとするのは、特に大胆な主張とも独創的な主張とも言えない」。

キエフ国家の崩壊の後、

「ロシア文化は、北へ、ステップとは対照的な森林の世界に引きこもる。ノヴゴロドとモスクワの間に広がる空間の中で、構造化のやり直しが行われたに違いない。1251年からはキプチャク・ハン国〔モンゴル帝国の一部〕がロシアを支配するが、ノヴゴロド共和国は例外で、この国だけはバルト海を通してヨーロッパと接触することができていた。やがてロシアの全ての地を己の覇権の下に統合することになるモスクワ大公国は、モンゴルの統制下ないし影響下で発展していく。そこにキエフ・ルーシに欠けていたと思われる組織編成原則が生まれてくるのが感じられるのである。」

起源1・下 497-498頁

要するに、モンゴルの支配を受けつつ、ノヴゴロドを通じてヨーロッパの一部でもあり続けたロシアは、遊牧民の影響下で共同体家族的組織力を基層に組み込み、帝国らしい力を付ける。

その結果、「モスクワ大公国は1478年にノヴゴロド共和国を滅亡させ、次いで1480年にキプチャク・ハン国の宗主権を拒絶する」。

時の大公は、イヴァン3世(大帝)です。モンゴルから共同体家族システムを獲得したと見られるその時期に、イヴァン大帝がロシアを統一し、ロシア帝国の基礎を築いた。話の辻褄が非常によく合います(共同体家族と国家統一、帝国形成との関係についてはこちらおよびこちらをご覧ください)。

ロシアの共同体家族の起源が13世紀だとすると、イタリアやバルカンのそれよりかなり新しいですし、全土への拡大となると、さらに時期は遅くなります。

ロシアでは、16世紀末まで自由であった農民が、17世紀の間に農奴化しており、トッドはここに共同体家族の農村への浸透を見ています。

「農奴制の確立と共同体世帯の採用との間に関連を打ち立てるのは魅力的な試みである。農地の構造と家族の構造は、他のところでもそうだが、ロシアにおいても、一とまとまりの全体をなしており、一つの人類学的システムを定義するのである。これは農奴制・共同体主義という一とまとまりの誕生ということになろう。」(498-499頁)

4 二種の共同体家族ロシアモデルとイタリア・バルカンモデル

トッドは、イタリアおよびバルカンの共同体家族について、内婚制共同体家族ないしそれに近いものであるという言い方はしていませんが、それと類似した特徴を認めているようです。

まず、ロシアについて。

「中国の家族と同じように、ロシアの農民家族も過酷さの要素を提示しており、それはロシアのケースでは世帯主の過大な権力となって表出される。」

イタリア、バルカンは、

「このような〔ロシアのような〕風は、バルカン半島とトスカナのモデルにはまったく検出されない。この地域では家族は同じように大きいが、権威は拡散しており、兄弟あるいはイトコ間の横の関係が重要であったと思われる。」

イタリアもバルカン(セルビアなどの主要部分)もキリスト教圏ですから、外婚制のはずなのですが、ここでは、共同体家族の性質においては、内婚制共同体家族に近い、ということが指摘されているように思われます。

内婚制ではないことは確かなので、どう取り扱うべきか、結論を出しかねているのかとも思いますが、「内婚制」とは言わないまま、つぎのように続けています。

「ここまで来たら、共同体家族の二つの変異体を区別すべきではなかろうか。一つは縦軸によって支配されたもので、もう一つは横軸によって支配されたものである。」

起源1・下 503-504頁

親子の縦の絆ではなく、兄弟ないしイトコの横の絆が中心になるというのは、内婚制共同体家族についてまさに指摘されていた点ですが(こちらをどうぞ)、これとの関係については、残念ながら、説明されていません。

代わりといってはなんですが、家族システム、国家、イデオロギーの三位一体に関心を持つわれわれにとって、興味深い指摘がされているので、ご紹介させていただきます。

「ロシアのボリシェヴィズムの厳格さとイタリアおよびユーゴスラヴィアの共産主義の柔軟性との間の対比は、第三インターナショナルの歴史の決まり文句であった。おそらくこれはグラムシ〔イタリア共産党の創設者の一人〕の柔軟性とユーゴスラヴィアの自主管理の起源に他ならないのである。」

トッドは、共同体家族の「二つの変異体」の区別が、ロシアの共産主義と、イタリアおよびユーゴのそれとの違いを説明すると捉えている。

チトーは「ソ連を反面教師として様々な「実験」を行」い、自主管理、非同盟、連邦制といった「独自の社会主義」を試みたとされているのですが3柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史 新版』(岩波新書、2021年)110頁以下、その独自性の基盤には、やはり家族システムの相違があったのではないか、というわけです。

おわりに

こうやって書いてきて感じるのは、やはり、大陸中央部の経験は、島国の日本やヨーロッパの辺境とはかなり違うんだ、ということです。

要素としては、遊牧民の影響というだけなのですが、しかし、ここで特定した民族に限らず、様々な遊牧の民との接触を繰り返し、戦ったり、支配したりされたりする長い歴史の中で、彼らのシステムは形作られている。この点は、中東も、ロシアも、中国も、まったく違いはありません。

歴史的・地理的に全く異なる地域に定着したシステムに基づくイデオロギーや社会体制を彼らに押し付けてもうまくはいかないし、まして、無意識レベルに位置するシステムに対して、倫理の次元で非難をしても仕方がない。私たちとしては、それぞれのシステムの違いを認識し、理解し、尊重し、その上でできることを考えるしかないのです。

権威主義体制は彼らの社会の個性であって悪徳ではない。何回でも強調したい点です。

カテゴリー
トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(6・完)世界の未来 

 

目次

内婚制共同体家族の近代化

(1)アラブの移行期危機

Celebrations in Tahrir Square after Omar Soliman’s statement that concerns Mubarak’s resignation. February 11, 2011 – 10:15 PM

中東には、イランやトルコのように、識字化に始まる近代化の過程をほぼ完了したと見られる地域もありますが、アラブ圏の多くはまだその最中にあります。

したがって、メソ紀53世紀(20世紀)後半から続くイスラム諸国、アラブ世界の危機―宗教的原理主義の台頭や各種暴力―は、世界のどの地域の近代化にも等しく付随した「移行期危機」の現れと見ることが可能です。

「今日イスラーム圏を揺るがしている暴力を説明するために、イスラーム固有の本質などに思いを巡らす必要はいささかもない。イスラーム圏は混乱のただ中にあるが、それは識字化の進展と出生調節の一般化に結びつく心性の革命の衝撃にさらされているからに他ならない。‥‥

 イスラーム諸国の場合もルワンダやネパールの場合も、根本的な誤りは、実はイデオロギー的ないし宗教的危機を退行現象と考えることにあるのだ。

 実際は逆に、そのどれもが移行期危機なのであって、その間、近代化が住民を混乱に陥れ、政治体制を不安定化するのである。」

『文明の接近』69-70頁

20世紀後半から続くアラブ世界の危機(宗教的原理主義や暴力)は移行期危機の現れであり、近代化の正常な過程である

(2)移行過程の困難

社会の「識字化=近代化」は、家族システムの進化を逆行するように、核家族→直系家族→共同体家族の順で継起しました(例外はあります)。そして、移行期危機の強度は後のものほど高い傾向にあります。

変化への耐性は、システムが柔軟かつ単純であるほど高いと考えられますので、もっとも進化したシステムである共同体家族にとって、近代化がより困難な経験であることは理解できます。

外婚制共同体家族の近代化は、激烈な移行期危機を伴う一方で、「伝統的家族の解体→近代国家の生成」のプロセスは迅速でした。こちらでご説明したように、構造的に不安定なシステムである外婚制共同体家族は、近代化に際して(現実の家族の中では)爆発的に解体することとなり、その代替物として、近代国家(共産主義的な権力集中型国家)が直ちに必要となったからです。

この点について、トッドは、外婚制共同体家族の「厳しく、暴力的」な性格が伝統的家族の解体を促進したの反対に、内婚制共同体家族が「温かく安心できるもの」であることが、上記のプロセスを遅らせ、困難なものにするであろうことを指摘しています。

「近代化はアラブとイランの伝統的家族を揺るがせた。おそらくは最後には破壊するであろう。しかしこの動きは、解放者的として受け入れられるいかなる理由も持たないのである。というのもこの地の住民は、自分たちの家族システムを愛しており、保護者的で自然なものとしてそれを経験していたからである。‥‥アラブ諸国やイランでは、移行期危機はとりわけ、激しい過去への執着を現出した。これは愛するシステムにしがみつきたいという欲求に他ならない。」

『文明の接近』97-98頁

それでも、「危機」そのものは、いずれは収束を迎えるはずです。しかし、「危機」を乗り越えた後、彼らがどこに向かい、世界をどのような場所に変えていくのかは、現在のところ、かなり不透明であるように思えます。

内婚制共同体家族の近代化はより困難な過程であることが推測されるが、「危機」はいずれは収束する

(3)内婚制共同体家族の「国民国家」?

これまでのところ、近代化の過程を(ほぼ)完了したと見られる地域では、下図のような形で、それぞれの家族システム(=イデオロギー)に対応した国家が、一応「国民国家」の範囲に収まる形で形成されています。

内婚制共同体家族も、これと同じように、「柔軟な専制」の仕組みを持つ国民国家を形成することになるのでしょうか。

正直、ちょっと想像しにくいですね。

絶対核家族自由主義の国民国家
平等核家族自由・平等を謳う国民国家
直系家族秩序志向の強い国民国家
外婚制共同体家族権力集中型の国民国家
内婚制共同体家族

内婚制共同体家族の「国民国家」適性について、トッドは次のように指摘しています。

中東は、国家が弱い地域です。国家建設が困難であることが、アラブ世界の本質的特徴なのです。アラブ世界の家族システム、つまり内婚制共同体家族はまさに「アンチ国家」です。

 内婚制共同体家族の社会システムでは、兄弟間の連帯が軸になり、実質的に、父権的部族社会が構成されます。曲がりなりにも国家が形成する場合でも、フセインのイラクのように独裁国家になってしまうのです。‥‥


 要するに、ある範囲の地域を統一し、その中で人々を平等に扱うのが本来の国家ですが、アラブ世界では、そうした中央集権的な国家を生み出そうとしてもなかなかうまくいかないのです。そういう状況のなかで、アメリカ軍がイラクに侵攻し、かろうじて「国家」として残っていた要素まで破壊してしまいました。その結果、「国家なき空白地帯」が生まれ、そこに「イスラム国」が居座ったのは、皆さんがご存知の通りです。」

『問題は英国ではない、EUなのだ』145-147頁

『家族システムの起源』では次のように整理されています(大体同じですが)。

「官僚的組織編成というものは、己れの支配空間の住人全てを非人格的かつ同等な態度で扱わなくてはならない。中央部的アラブ圏では、兄弟とイトコたちの横の連帯が、官僚機構の台頭に抵抗し、その中に入り込み、浸透し、遂には麻痺させてしまう。権力は、そこではしばしば、一つのクランの所有物、もしくは親族によって構造化された少数派的集団の所有物にすぎない。サダム・フセインのイラクにおけるティクリートのスンニ派、あるいはアサド一族の支配するシリアを統御するアラウィー派のケースというのは、まさにそうしたものであった。」

起源・下 679頁

兄弟間の横の連帯を軸とする内婚制共同体家族は
国民国家の形成に適していない

(4)トルコとイラン 

トルコとイランがあるじゃないか、とお思いの方がおられるかもしれません。たしかに、両者が安定した国家を形成していることは間違いありません。

しかし、この二つの事例を、内婚制共同体家族の国家形成の事例に数えてよいかどうか。なぜかというと、トッドの研究は、トルコ、イランの家族システムがアラブ地域と異なっていることを示しているからです。

まずトルコの場合、トルコの西部と南部には「ローマ帝国末期の、次いでビザンツ帝国時代のギリシャ・ローマ的家族の残像」(「起源I」下678頁)と見られる、核家族的傾向の強い地域があり、それ以外の内婚制共同体家族地域でも、内婚率は比較的低い。

また、イランの中央部には世帯人数の少ない核家族的地域があり、北部には女性の地位が相対的に高い地域がある。

要するに、トルコとイランは、中東においては異例に「核家族的」な地域であり、そのことが「国民国家」の形成を可能にした要因であったと考えられるのです。

トルコとイランは中東の中では異例に「核家族的」な地域

(5)「国民国家」以外の可能性を探る

トッドは、内婚制共同体家族の「国家」(国民国家)形成能力に疑問を呈する一方で、アラブ世界の「近代化」には一切の疑問の余地を否定しています。

アラブ世界は今まさに近代化の過程をくぐり抜けている最中であり、いずれはそれを完了する。そのことは、出生率低下という事実に明確に表れている、と。

しかし、「国民国家」の形成が困難であるとすると、彼らに待っているのはどのような将来なのか。

私の知る限り、トッドはその展望を語ったことはありません。でも、ここまで、家族システムと国家、イデオロギーの歴史を追ってきた私たちには、うっすら、浮かんで見えてくるものがあるような気がしませんか。

この先はトッドの言葉がないので、妄想を広げてみましょう。

国民国家とは異なる新たな秩序の形成?

世界の未来

(1)世界史の流れ

この講座で描いてきた世界史は、大体こんな感じで整理できると思います。

原初的核家族の時代(7万年前- ):人間が「社会」の中に住み始める。世界にスペースは無限にあるので、規律は必要ない。

○直系家族の誕生(メソ紀元(前3300)年-):中心部が「満員の世界」の時代を迎え、縦型の秩序が必要になる。文字と国家が生まれる。

○共同体家族の誕生と拡大(メソ紀1000(前2300)年-):「帝国」が生まれ、多民族、多言語、多文化の中心部の平和と安定に貢献する。一方で「帝国」はあまり長続きしない。

○共同体家族の強化(メソ紀2400(前900)年-):中心部で女性の地位が顕著に低下。版図は広がるが、やはり長続きしない。

○内婚制共同体家族の時代(メソ紀3800?-5000(後500?-1700)年):「温かさ」「柔軟さ」の導入により長続きする「帝国」が可能に。オスマン帝国500年の平和に結実。

○純粋核家族ver.2(識字化した核家族)の勃興(メソ紀5000年(1700)年-):辺境で小規模に国家を営んでいた純粋核家族がいち早く近代化。直系家族がこれに続く。技術力、経済力、軍事力を高め、中央部との勢力逆転を視野に入れる。

○純粋核家族ver.2の勝利(メソ紀52-53(19-20)世紀):オスマン帝国滅亡。純粋核家族の覇権が定まり、世界全体が純粋核家族サイズ(国民国家)への組み替えを要請される。内婚制共同体家族地域は大混乱。比較的早期に近代化を果たした外婚性共同体家族ver.2が持ちこたえる。

○純粋核家族ver.2 の覇権(メソ紀53-54(20-21)世紀):「反権威」イデオロギーを体現する純粋核家族ver.2 が覇権を確立。共同体家族の「権威」を敵視し、世界を敵と味方に二分する。外婚制共同体家族ver.2は受けて立ち、正面から対立。直系家族ver.2は自身の「権威」をひた隠しにして純粋核家族に追随する。

○内婚制共同体家族ver.2の完成(メソ紀54-55(21-22)世紀): ?????  

(2)内婚制共同体家族の「未来」

内婚制共同体家族ver.2が完成したとき、どんな世界がもたらされるのか。現在の中東情勢をよく知る人ほど、あまり楽観的にはなれないかもしれません。

しかし、バルカンについて述べたのと同様に、中東の現在の苦境には、かなり明確な理由があるといえます。

内婚制共同体家族の困難は、おそらく、近代化の準備が整う前に「帝国」を奪われ、純粋核家族サイズの国家をあてがわれた点にあるのです。

「核家族への回帰」という事態は、進化した家族システムを基盤に民族や言語や宗教の違いを克服してきた彼らにとっては、5000年の進歩を否定され、その以前にタイムスリップさせられることに他なりません。

西側の先進国の干渉によって手足を縛られ、5000年前の「振り出し」に戻され、想定ルート上にたくさんの地雷を仕掛けられたところで、近代への「移行期」が始まったのだとしたら、それが、困難なものにならないはずはありません。

とはいえ、近代化の過程は着実に進展しており、近い将来に完了することが確実です。歴史的に関係の深いアフリカ大陸を含むアラブ文化圏の大きな人口が、教育水準を上げ、心性の一定の安定を見たときに、何が起こるのか。

オスマン帝国について教えて下さった林佳代子先生は、旧オスマン帝国地域の現在の混迷を前に、以下のように書かれました。

「「民族の時代」を生きる現代のバルカン、アナトリア、中東の人々が、オスマン帝国の末裔である事実は揺るがない。もしも、過去の記憶に、「未来」をつくり出す力が本当にあるとするならば、バルカン、アナトリア、中東の人々が、かつてオスマン帝国を共有した記憶は、意味のないことではないだろう。その時間は500年にも及ぶ。その事実がバルカン、アナトリア、中東の人々の共通の記憶として、誇りを持って語られる時代の到来を願いたい。」

『オスマン帝国500年の平和』375-376頁

まるで祈りのような言葉です。いろいろ教えていただいたお礼を込めて、もし機会があるなら、次のようにお伝えしたい。

「先生、大丈夫です。彼らは内婚制共同体家族システムを共有していますから!」

彼らが意識の上でオスマン帝国を否定しようがしまいが、彼らの無意識には内婚制共同体家族の心性が刻まれています。したがって、彼らが近代化の過程をくぐり抜けた暁には、彼らの一挙手一投足が、しかるべき「未来」を作り出すに違いない。

その萌芽が、もしかしたら、アフガニスタンの若者たちの手で、今まさに作られているということも、考えられないことではないのです。

現在どれほどの苦境にあるとしても、そしてまた、今しばらくは大きな混乱が続くことが明確に予測できるとしても、決して悲観するには値しないと私は思います。

おわりに(想定される近未来)

私の知識と想像力に大幅に限りがあることは認めます。その上で「でも普通に考えたらこうなるよね?」と思えることを書いて、まとめに代えたいと思います。

  • 内婚制共同体家族はまもなく内婚制共同体家族ver.2になる。
  • 識字化人口の数的優位により世界の中心を占める。
  • 自分たちの居住領域において、彼らは「核家族サイズの国家の分立状態」に満足せず、新たな秩序を模索する。
  • 新たな秩序は、何らかの強大な権威に裏付けられた宥和的なものとなる。
  • かりに「イスラム」を掲げたとしても内実はほぼ世俗的なものとなる。
  • 「権威による平和」を志向する彼らは、世界の中心に返り咲く過程で、「権威との戦い」「競争による秩序」を志向する核家族とぶつかる。
  • 核家族側が妥協しない場合、大きな紛争が生じる。
  • 外婚制共同体家族との関係は、交渉次第(内婚制共同体家族の包容力が問われるところか)。
  • 内婚制共同体家族ver.2が中央、核家族・直系家族ver.2が周縁という当初の配置において平和を回復する。

これは私の「願望」ではありません。家族システムの変遷に基づく世界史を書いてきた筆をそのまま少し先に進めてみただけです。「順調に行った場合の近未来」の予測ではありますが、当てようとも当てたいとも思っていません。

でも、正直、内婚制共同体家族ver.2が作る新しい秩序を見てみたいな、とは思います。

核家族ver.2の「自由」は魅力的で、世界中に新しい風を吹き込みました。しかし、昨今の世界情勢を見ていて、「核家族のやり方で世界を平和にまとめるのは無理なんだな」と私はしみじみ理解しました(こちらに少し書きました)。

直系家族にもその力はないし、外婚制共同体家族はちょっと強面すぎる。

多様性をそのままに、世界をそれなりに平和に統合するという役割にもっとも適しているのは、内婚制共同体家族システムなのではないか。

とはいえ「だったら、われわれも内婚制共同体家族システムを採用して平和裡に世界を征服しよう」といってできるものではないし、気に入ろうが入るまいが、内婚制共同体家族ver.2が再浮上の過程にあるならば、それを止める手立てはないのです。

無責任に聞こえるとは思いますが、みんながそうやって腹を括れば、世界はかなり平和に近づくと思う。

トッドの人類学理論は、人類をそのような境地に近づける可能性を持つ理論だと、私は思っています。

(終わりです)

カテゴリー
トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(5) 核家族レジームは機能したか

 

目次

核家族レジームは機能したか

「識字化した核家族」の近代にあって、とりわけ大きな混乱にみまわれた地域。その代表格といえるのは、バルカン半島と中東です。

旧オスマン帝国の領土であったこれらの土地は、覇権が共同体家族から「識字化した核家族」に移行する中で何を経験したのか。それが今回のテーマです。

のちに「民族紛争と宗教紛争の巣窟」と化してしまうこの地域を、オスマン帝国はどのように治めていたのかを、改めて確認しておきます。

オスマン帝国 スレイマーン1世(在位1520年-1566年)

林佳世子先生は、帝国の性格について、次のように述べています。

「オスマン帝国は、当該地域、すなわちバルカン、アナトリア、アラブ地域のそれ以前の伝統を受け継ぎ、諸制度を柔軟に統合し、効果的な統治を実践した中央集権国家だった。帝国の周辺での対外的な戦争により、内側の安定と平和を守った国でもあった。」

『オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫、2016年)23頁

「あえて支配層の民族的帰属を問題にするならば、オスマン帝国は、「オスマン人」というアイデンティティを後天的に獲得した人々が支配した国としかいいようがない。「オスマン人」の集団に入っていったのは、現在いうところの、セルビア人、ギリシャ人、ブルガリア人、ボシュナク人、アルバニア人、マケドニア人、トルコ人、アラブ人、クルド人、アルメニア人、コーカサス系の諸民族、クリミア・タタール人などである。少数ながらクロアチア人、ハンガリー人もいる。要は、何人が支配したかは、ここでは意味をもっていなかったのである。」

同・14頁

前半は、以前ご紹介した鈴木董先生の「柔らかい専制」の趣旨と一致していますね。

ここでは、帝国における「民族」の扱いに注目します。

オスマン帝国が、多民族、多言語、多宗教の人々を効果的に統治していたことはよく知られていますが、林先生はここで、支配層についても、民族的帰属が問題になっていなかったことを明確にしています。

オスマン帝国は、被支配民に関してだけでなく、支配層の人間についても民族的帰属を問わない、「何人の国でもな」い帝国であったのです。

その「何人の国でもなかった」国は、しかし、帝国解体後、「近代国家」を目指すと、直ちに、民族紛争、宗教紛争が荒れ狂う地となってしまった。いったい、なぜなのでしょうか。

「何人の国でもなかった」旧オスマン帝国領土は、帝国解体後、直ちに民族紛争、宗教紛争が荒れ狂う地となった。なぜ?

バルカン半島のその後

(1)ユーゴスラヴィアの解体

オスマン帝国末期以降、バルカン半島に暮らしていた諸民族は、紆余曲折を経て独立し、ギリシャを除く南スラヴ地域は一度はユーゴスラヴィアとして統一されます。しかし、メソ紀53世紀末(5290年代(1990年代))の内戦でバラバラになり、現在、バルカンの地には、ギリシャを含む8つの国連加盟国と、国際社会から一致した承認を得られていないコソヴォ共和国が存在しています(コソヴォ紛争についてはこちらをご覧ください)。

WWⅡからユーゴ内戦までを舞台にした映画
アンダーグラウンド(監督エミール・クストリッツァ) おすすめです

平たくいうと、バルカンの人々は、「帝国」から解き放たれた後、西欧にならって国民国家の成立を目指したが成功せず、部族国家といいたいほどの小規模の国家の分立状態に立ち至ってしまった、ということになるでしょう。

なぜそんなことになってしまったのか。家族システムの変遷と関連づけて国家の歴史を見てきた後では、その理由は、かなりはっきりしているように思えます

メソポタミアに近接するこの地域、古くから多様な民族が出入りし、混ざり合って暮らしていたこの地域を、辺境の島国で生まれた「国民国家」の流儀でまとめるという目標には無理があった。そういうことではないでしょうか。

バルカン半島は一度はユーゴスラヴィアとしてまとまったものの
内戦により粉々に。核家族レジームとの齟齬が関係?

(2)オスマン帝国のバルカン

バルカンがどんな感じのところなのかをイメージするために、ビザンツ帝国が後退した後、オスマン帝国の支配が確立する前のバルカンの状況を、再び林佳世子先生に教えていただきましょう。

まず、前提として、バルカンの地形や都市の構造について。

「バルカン地域の特徴は、東部では東西に、西部では南北に延びる山脈が峻険な山岳地帯を形づくっている一方で、山脈と山脈の間には平野部が開け、平野部は、河川に導かれて外の世界とつながっていることにある。このため、バルカンの諸地域はその複雑な地形のわりに人口の移動が多く、山脈に分断された諸地域に多くの民族を内包することになった。」

『オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫、2016年)50頁

バルカンを私たちは「ヨーロッパ」だと思っていますが、実はトルコと一つながり、というところも、ポイントのようです。

「山がちな地形は、海峡をはさんでアジア側(アナトリア)ともよく似ている。農耕を行う定住農民、山と平地を往来する遊牧民(牧羊民)、そして山中に隠れる賊たち、農産物の集散地として点在する都市といった社会の仕組みも、共通項が多い。天水に頼る農業の手法も、基本的に同じである。ビザンツ帝国とオスマン帝国が、コンスタンティノープルをコンパスの視点として支配したアジアとヨーロッパは、自然環境やそれに規定された生産活動の面で一つながりの地域であった。」

同50頁

バルカン半島には、ビザンツ帝国が健在であった時代から、スラブ系の民族が侵入して、14世紀には「ビザンツ帝国の後退、スラブ系諸侯の分裂で、西アナトリア以上に激しい分裂状態になってい」ました。

一番有力だったセルビア王国もなんだかんだで結局は分裂してしまい、その他の地方でも、

「諸侯や王族が割拠し、互いに争う状況が生まれた。諸勢力のなかには、在地の諸侯だけでなく、黒海北岸から進出したトルコ系のノガイ族やアナトリアからの雇い兵として動員されたアイドゥン侯国などのトルコ系騎馬軍団、カタロニア兵などヨーロッパからの雇い兵軍団、ヴェネチアやハンガリーからの派遣隊など、外来の部隊。集団も含まれていた。彼らの存在によって、軍事的なバランスは非常に複雑だった。」

52-53頁

オスマン帝国の祖、オスマンは、似たような状況のアナトリアで、実力でのし上がった人でした。そして、息子オルハンは、その軍勢を率いて、バルカンに入り、勢力を固めていきます。

彼らが帝国を築いたその地は、要するに、民族も出身も立場も文化もまったく異なる勢力がつねに出入りしていて、放っておけば、諸勢力の割拠、複雑な離合集散、収まることのない騒乱‥‥といった状態に必然的に陥ってしまう、そのような地理的・歴史的な環境だったのです。

こういうところで、国をまとめるのに、「民族」などという概念を用いるバ‥‥いえ、為政者はいません。

そういうわけで、オスマン帝国は、被支配層はもちろん、支配層についても民族的帰属を問題にしない「何人の国でもな」い国となりました。

メソポタミアで生成した共同体家族システムが、ユーラシア大陸の中央部に定着し広く拡大していったのは、多様な民族が行き来し、言語・文化が入り混じるその土地での秩序形成に適した家族システムであったからだと考えられます。

一方で長期の安定性を欠いたそのシステムは、内婚制共同体家族に進化することで、「温かさ」「柔軟さ」を付け加え、支配の安定性に寄与しました。「オスマン帝国500年の平和」は、おそらく、その基層の上で初めて成り立っていたのです。

ビザンツ帝国の後退後、諸侯や王族が割拠して争い、激しい分裂状態となっていたバルカン地方をまとめたのが内婚制共同体家族のオスマン帝国だった

(3)否定された「帝国」の遺産

西欧近代の台頭で、オスマン帝国が退陣を強いられたとき、彼らの基層がもたらす価値は、すべて「時代遅れ」のものに見えたと思います。

トッドに学んだ私たちは、西欧の「近代化」の核心部分にあったのは「識字化」であり、「自由と民主」や「国民国家」といったスローガンではないことを知っています。

しかし、当時の人々には、「「帝国」が負け、「国民国家」が勝った」と見えたはずです。したがって、当然、彼らは、無理矢理にでも「民族」を意識し、「国民国家」を目指して、悪戦苦闘を重ねていく。彼らの意識の中で、オスマン帝国は、「否定し、克服すべき対象」でしかありませんでした。

「19世紀、20世紀の歴史のなかで、多くの国が、自分たちの抱える構造的な問題を『オスマン帝国の負の遺産』とみなし、その責任を、いわば過去のオスマン帝国に押し付けてきた。」

「しかし、実際には、すべての国々に有形無形のオスマン帝国の遺産は引き継がれていた。負の遺産として挙げられる『近代化の遅れ』ばかりでなく、オスマン帝国の官僚制や政治風土、生活文化や習慣などさまざまなものが、意識されないまま引き継がれている。それらは「トルコの影響」ではなく、オスマン帝国の共有の財産・遺産である。」

しかし、それらの価値が正当に評価されることは決してありません。

「‥‥オスマン帝国が支配下にある民族を「整理」しなかったという点は各地域にマイナスの遺産を残したとして強調され、現在のバルカンや中東の民族紛争の原因として常に挙げられる。」

なんと、「何人の国でもなかった」ことによって、500年の平和を保持したオスマン帝国の偉大な歴史が「マイナスの遺産」とは。

「とはいえ、民族を「整理」しなかったこと自体がマイナスであったはずはない。」

その通り、としかいいようがありません。ともかく、進化の頂点である内婚制共同体家族から辺境の核家族へのレジーム・チェンジは、これほどの価値観の転倒をもたらしたのだ、ということを、確認しておきましょう。

帝国解体後の苦境の中、核家族レジームとの齟齬から来る諸問題の責任がすべて「帝国の負の遺産」になすりつけられた

(4)早すぎた「近代化」

次のような疑問が生じるかもしれません。

「識字化した核家族の土地に自由主義的な国民国家が生まれ、識字化した直系家族の土地により秩序志向の強い国民国家が生まれ、外婚制共同体家族の土地に共産主義的な権力集中国家が生まれた。内婚制共同体家族は、なぜ、これと同じように、彼らの相応しい「近代国家」を生み出すことができなかったのか。」

これは、彼らの将来にも関わる問いです。

将来の可能性は次回(最終回)検討しますが、オスマン帝国崩壊後について言うと、彼らがなぜ「自分らしい近代」に到達できなかったのかははっきりしています。

まだ、近代化の準備ができていなかったのです。

バルカン地域の識字率に関する歴史的データを私は持っていませんが、20-24歳の男性の識字率が50%を超えた時期は、トルコが5232年(1932年)、ロシアが5200年(1900年)ですから、バルカン地域は、早くてもこの中間のどこかでしょう。*下の「追記」をご参照ください。

要するに、彼らは、「十分な識字化人口」という、自律的な近代化に不可欠なものを、まだ持っていませんでした。

西欧近代は、まだ準備が整っていない彼らから、帝国の保護を奪い、「国民国家」の理想を与えました(もちろんそれだけでなく、列強はそれぞれの思惑でいろいろと介入もしました)。

しかし、どこにどう線を引いても、それぞれの領域の中に、民族は混じり合っているのです。

ちなみにいうと、彼らは、言語も違うし、宗教もさまざまに分布していますが、家族システムも多様です。

旧ユーゴ内では、セルビア人、ボスニア人、マケドニア人は共同体家族、スロヴェニア人は直系家族、モンテネグロ人、クロアチア人、アルバニア人は核家族です(コソボの人口の9割はアルバニア人)。

オスマン帝国の下では、民族の違いを意識することもなく暮らしていた彼らも、「民族自決」の掛け声のもとで、近代国家を作るとなれば、話は違います。

歴史的に見て(また家族システムから見ても)、セルビアが指導的な立場に立ったことは自然であったように思えますが、同時期にオスマン帝国から独立した対等であるはずの民族間で、安定した支配-非支配関係を構築するのが容易であるはずはありません。

その上、ちょうどその時期が「移行期危機」に重なっているのですから‥‥バルカン、そしてユーゴスラヴィアは、「帝国」を離れて、国民国家を目指したその日から、いくつもの時限爆弾を抱えていたようなものだったといえるでしょう。

爆弾が破裂して、例えば、ユーゴスラヴィア連邦内の一共和国が、あるいは共和国内の一地域が「独立」を目指して蜂起したとき、かりにオスマン帝国が宗主国であったら、直ちに反乱軍を鎮圧し、国としての統合を維持しようとしたでしょう。ユーゴ紛争のとき、ロシアに力があったら同じことを試みたかもしれません。

しかし、現代の覇権国、絶対核家族のアメリカは、「権力への抵抗」とか「独立のための戦い」となると、一も二もなく支援に走ります。

大量の武器を送り込み、何なら軍を動員してまで、旧来の秩序に抵抗する側を支持し、結果として、地域をバラバラに分解する。

そうやって出来上がったのが、現在のバルカン世界である、と言えると思います。

西欧近代は、準備不足の人々から帝国の保護を奪い、複雑な民族構成のバルカンに「民族自決」の理想を与えた。

純粋核家族は、統合維持の困難を理解せず、問題が起こればつねに「独立」側を支持して、解体を促進した。

[追記]ユーゴスラヴィアについて『帝国以後』に記載があるのを発見しました(68頁以下)。箇条書きで紹介します。
・旧ユーゴの近代化(識字率上昇≒出生率低下)は、キリスト教系住民とムスリム系住民の間で時間的にズレがあった。
・キリスト教系住民が中心であるセルビア、クロアチア、スロヴェニアの人口転換は1955年までには概ね完了しており、彼らの近代化が共産主義の伸張をもたらした。
・キリスト教系(カトリックと正教徒)とムスリムが混在するボスニア、マケドニアは、それぞれ1975年、1984年前後に出生率が低下し、正教徒とムスリムが混在するアルバニアとコソヴォは1998年前後に低下する。
・共産主義の崩壊は、セルビア人、クロアチア人には移行期危機の出口となりうるはずであったが、ちょうどその時期にムスリム系住民の移行期危機が重なり「殺人の悪夢に変わってしまった」。

人口学的移行期が時間的にずれていたために、連邦全体の規模で、異なる住民集団間の相対的比重が絶えず変わることになり、その結果、圏域全体の主導権について全般化した不安が醸成された‥‥。より早期に出産率を制御したので、セルビア人とクロアチア人は己の人口増加が減速するのを感じ、急速に人口を増やしていく「ムスリム」住民に直面して、人口的に侵略され呑み込まれる過程が進行すると予想した。共産主義後の民族的強迫観念が、こうした速度と時期を異にする人口動態によって誇張されることとなり、クロアチア人とセルビア人の分離をめぐる問題系の中に導入されたのである。

・なお、アメリカやNATOの介入についてはつぎのように述べています(苦言を呈しているといってもよいでしょう)。

「はるか以前に近代化の苦悩から抜け出た軍事大国が行う介入には、歴史的・社会学的理解の努力が伴わなければならないだろう。ユーゴスラヴィア危機は、多くの人の道徳的態度を呼び起こすことになったが、分析作業はほとんど呼び寄せていない。いかにも残念なことである。

エマニュエル・トッド『帝国以後』70頁

中東のその後

オスマン帝国終焉ののち、部族国家サイズの国家の分立状態に立ち至ったもう1箇所は、中東、とりわけアラブ世界です。

この地域の多民族、多宗教、多言語性について、あえて言及する必要はないでしょう。しかし、バルカンと同様、この地域でも、近代以前において「民族」「宗教」が問題化することはなかったということは、よくよく確認しておく必要があります。

(1)内婚制共同体家族の洗練

地域のイスラム化が進んで以降(この講義の観点からは、内婚制共同体家族の拡大を意味します)、アラブ世界を含む中東では、アラブ系、イラン系、トルコ系のイスラム王朝がいくつも盛衰しましたが、

そのすべてが民族・文化のるつぼであり、いくつもの文化層が堆積されているイスラーム世界の政治権力の常として、程度の差こそあれ、コスモポリタンな性格をもっていた。そのため、イスラーム世界の住民は、コスモポリタンな性格をもつ中央権力のもとで、王朝がアラブ系であるか非アラブ系であるかに関係なく、社会・経済生活を営んでいた。

この点、オスマン帝国も例外ではなかった。確かにこの帝国は、それまでのイスラーム諸王朝にくらべて、きわだって中央集権的な軍事・統治機構をもっていた。しかし、この帝国は同時に、納税を条件に多くの宗教共同体(ミレット)に大幅な内部自治をあたえる「ズィンマ」(保護)の制度というような、イスラーム世界に伝統的な住民を間接的に支配する方法をも引き継いでいた。こうして、住民の生活の現実は、オスマン帝国下にあってもそれまでとさほど変わらなかったと考えられる。

加藤博「オスマン帝国下のアラブ」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)166頁

オスマン帝国の時代、アラブの中心部、シリアと北イラクは、トルコやバルカンと同様の直接支配地域となっていましたから、彼らは、「オスマン人」のアイデンティティも持っていたかもしれません。しかし、いずれにせよ、彼らを含むアラブ世界の人々は、それぞれに、宗教・宗派、言語、地域等に対する複合的な帰属意識を持ちながら1彼らの「複雑で複合的な帰属意識構造」につき、加藤博「アラブ世界の近代」坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』(講談社現代新書、1993年)74頁以下。、洗練されたコスモポリタン的な世界を生きていました。

この洗練された社会体制の基層に、家族システムの「進化」を見て取るのは容易です。繰り返しになりますが、共同体家族(とりわけ内婚制共同体家族)は、このような、長い歴史を持ち、多種多様な民族・文化が混淆する世界をまとめるのに最適であったからこそ、大陸中央部を席巻することになったに違いないのですから。

内婚制共同体家族の基層の上で、オスマン帝国時代のアラブの人々は、それぞれの宗教・宗派、言語、地域に対する複雑な帰属意識を保ちつつ、民族にとらわれないコスモポリタン的世界を生きていた

(2)帝国の終焉と「核家族国家」化

しかし、識字化した核家族が作った「西欧近代」のレジームによって、帝国の時代は終わりを迎えます。

「オスマン帝国の中東」に関していうと、まず、オスマン帝国は、帝国自身の近代化の努力により、「トルコ人の国民国家」に変貌を遂げる。

それまで「オスマン人」であったはずのアラブ世界の人々は、突然「トルコ人に支配されるアラブ人」の立場に置かれることとなって反発し、彼らは彼らで独立を目指します。

彼らが作る「近代国家」には、本来、多様な選択肢があったはずです。「アラブ」としてまとまるのか、「イスラーム」としてもっと大きなまとまりを作るのか。

しかし、バルカンについて述べたのと同様に、彼らもまた、識字化した人口を十分に持ってはいなかった。つまり、準備が整っていなかったのです。

彼らは悪戦苦闘を重ねつつ、欧米列強の手玉に取られていくことになっていきます。人口的な国境線が引かれ、小国家の分立状態に置かれた挙句に、核家族と直系家族の(狭量な‥‥)「国民国家」が生み出した「ユダヤ人問題」の精算のために、パレスチナ問題まで押しつけられる。

彼らは、「識字化した核家族」によってバラバラにされ、紛争の種を巻かれた土地の上で、識字率を上昇させて本当の「近代化」に向かうと同時に、移行期危機を迎えることになります。(続く)

準備不足の状態で「近代国家」を押し付けられた人々は、彼らに相応しい多様な選択肢を検討する間もなく欧米列強の手玉に取られていく

彼らは現在、「識字化した核家族」によってバラバラにされ、紛争の種をまかれた土地の上で、移行期危機を迎えている

カテゴリー
トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(4)「識字化した核家族」の時代

目次

西欧の家族システム

(1)核家族と直系家族の二種類

ユーラシア大陸の中央部の家族システムが「核家族→直系家族→外婚制共同体家族→内婚制共同体家族」へと発展を遂げていた頃、西ヨーロッパはどんな状態であったのでしょうか。

拡大当初のローマが中東から受け取っていた共同体家族が、征服した核家族地域に侵蝕されて後退したことはすでにご説明しました

文明の中心地から見れば「辺境」であった西ヨーロッパでは、その後、共同体家族が自律的に発生することも、伝播によって広がることもなく、わずかに「ローマの痕跡」が、イタリア中部の共同体家族地域に残るにとどまりました(ちなみに共産主義が定着した地域です1起源1・下448頁。
 *ヨーロッパの共同体家族についてはこちらもご参照ください。

そういうわけで、現在に至るまで、西欧に残る主な家族システムは、核家族(絶対、平等、より原初的)と直系家族の二種類。文明誕生直後のメソポタミアと同じ状況です。

「家族の核家族性、女性のステータスが高いこと、絆の柔軟性、個人と集団の移動性。ここにおいて起源的として提示される人類学的類型〔家族類型〕は、大して異国的なものとはみえない。最も深い過去の奥底を探ったらわれわれ西洋の現在に再会する、というのが、本書の中心的な逆説なのである。」

起源1・上 45頁

共同体家族の後退により、西ヨーロッパの主な家族システムは直系家族と核家族の二種類となった。

(2)西欧の核家族は「起源的」か

西欧の人間であるトッドは、彼らの自慢である「近代性」が実は「起源的」システムの産物であった、という「逆説」を強調する傾向があります。

彼がその「逆説」に西欧の傲慢さをたしなめる教訓を読み取る気持ちはよく分かります(西欧近代を範とする日本の社会科学者であった私も、当初はそうでした)。

しかし、今、私の気分は少し変化しています。

起源的であるということは、同時に、普遍的であることを意味しています。例えば、次のようにいうことは、誤りではありません。

「どの地域も原初に遡れば「核家族」であり、自由で男女平等の世界であったのだ。」

ここで、例えば、「人類の活力ある未来は、「原始への発展」の中にこそあるのではないか?」といったスローガンまたは予測をぶち上げるとします(魅力的ですよね?)。

すると、やはり西欧近代は、ある意味で「先駆者」であり「模範」であるということになる。識字能力を身につけた人々が自由を求めて立ち上がる過程を描くトッドの筆の中にも、そのような気分がないとは言えないと思います。

「逆説」を強調するとき、トッドは、純粋核家族と原初的核家族は似て非なるものであるという事実を捨象しています。

純粋核家族は単なる原初的システムではなく、直系家族との衝突という特殊な過程を経て生まれたシステムであるという事実を、無視しているとはいいませんが、重視してはいない(絶対核家族の誕生のメカニズムはこちら)。

しかし、社会科学者として長年、西欧のシステムと日本のシステムの相違に苦しんできた私には、今、純粋核家族の特殊性が目について仕方がないのです。

彼らとうまく付き合っていくためには、単なる原初性とは異なる、純粋核家族の特殊な性格をしかと認識することこそが必要なのではないか。

そういうわけで、この文章では、純粋核家族の誕生の経緯、その過程で直系家族が果たした役割に注目しながら、「西欧近代」の誕生を見ていきたいと思います。

西ヨーロッパの核家族は「直系家族以前」の原初的システムではなく、
直系家族との協働によって生まれた特殊進化形である

直系家族の発生と伝播

文明の初期、初めての「国家」は、直系家族と同時に誕生していました。

同様に、ローマ帝国崩壊後の西欧で、近代国家に連なる国家が生まれたときにも、同じ時期に直系家族の発生が観察されています。

トッドの仮説によると、その起点となった場所は、フランス北部でした。

「フランク王国の歴史をたどるなら、長子相続という概念の出現の年代を、現実的正確さをもって決定すること、そして西ならびに中央ヨーロッパにおける直系家族の発達の出発点を確定することができる。‥‥クローヴィスの子孫2メロヴィング朝フランク王国の初代国王。在位メソ紀3781-3811(481-511)にとっても、シャルルマーニュ3カロリング朝フランク王国の王(在位:メソ紀4068-4114(768-814))。の子孫にとっても、王国を分割するというのが規範に適ったことである。長子への遺産相続の規則が出現し、盛行するようになるのは、10世紀末になってからにすぎない。‥‥西フランクにおいては、男子長子相続制の出現は、新たな王朝、カペー朝の出現、そしてとりわけ、フランス王国の安定的形態の出現に対応している。」

「さてそこで、長子相続はヨーロッパの社会的再編の歯車になって行く。カロリング帝国の崩壊とともに、全般的な階層序列的社会形成が進行した。宗主としての支配と封臣としての従属という観念は、上から下へと連なる従属関係、貴族社会の縦型で不平等主義的な形式化を確立していくのである。」

起源1・下 597頁
ユーグ・カペーの戴冠

43(10)世紀末、フランスの貴族の下で直系家族が成立し、中世封建社会の幕が開きます。この少し後で、日本でも同じことが起こりましたね(なお、日本の直系家族化は鎌倉時代後半から江戸末期にかけて漸進的に進行します)。

「秩序と無秩序とを組み合わせてまとめ上げられるこの方式は、いかにも独創的ではあるが、これは古代中国と中世日本において実践されていたものでもある。封土は安定し整然とまとめられたが、弟たちは内戦や十字軍戦役を求めて街道を駆け回る。日本とヨーロッパの発展過程の類似には驚くべきものがある。」

起源1・下 598頁

フランス北部で生まれた直系家族は、その後、ヨーロッパ各地に運ばれていきますが、運ばれた先で、同じように定着したわけではありません。

代表的なところでいうと、大いに定着したのはドイツです。しかし、パリ盆地の農民や、イギリスの農民には全く定着しない。その結果、後者は、純粋核家族の地域となるのです。

いったい、何がこの二つの流れを分けたのか。直系家族が農民の間に拡大せず、絶対核家族を生むことになったイギリスの例を見ていきましょう。

フランス北部で発生し封建社会の基礎となった直系家族は、伝播したドイツに大いに定着したが、パリ盆地やイギリスの農民には根付かず、純粋核家族を生むことになる

国民国家の誕生

フランス北部でメソ紀 43世紀(10世紀)末に発生した直系家族の影響は、直ちにイギリスに及びます。メソ紀4366年(1066年)、フランス貴族であるノルマン人、いわゆる(?)ノルマンディー公ウィリアムがイギリスを征服したからです(ノルマン・コンクエスト)。

ノルマン人騎兵とアングロサクソン歩兵が戦う様子(Tapisserie de Bayeux)

ノルマン貴族が持ち込んだ直系家族は、しかし、農民の間に広がることはありませんでした。なぜか。

一言で言うと、直系家族の核心である、「農地の不分割」(単独相続)の規則は、イギリスの農民には、単に必要ないというだけでなく、ほとんど意味をなさないものであったからだと考えられます。

西欧の農地制度は、非常にざっくりいうと、家族経営の地域と、集約的な大規模農業経営の地域に分かれるそうです。

イギリスやパリ盆地のフランスは、後者の典型で、非常に早い時期に大規模農業経営が始まっていました。大規模農業経営というのは、要するに、大きな農園を経営する地主がいて、農民はそこで働く。農民は、自作農でも小作人でもなく、工場労働者と同じ意味で「農業労働者」というべき存在になっている。そういう仕組みです。

「こうした地域、こうした農地制度の中に、直系家族は定着することができなかった。直系家族には機能上の正当化の根拠がなかったからである。」

起源1・下601頁

長子相続制は、新たに開墾する土地がなくなった「満員の世界」で、土地を分割せずに相続する必要に合わせて拡大する仕組みです。

所有者としてであれ、小作権者としてであれ、子どもに相続するべき土地や財産を持たない農民には、長子相続の規則はまったくの無意味です。

そういうわけで、これらの地域では、貴族と一部の富農以外の間に、直系家族が広がることはありませんでした。

「パリ盆地の農民は、最終的には直系家族の概念的反対物に他ならない平等主義核家族によって構造化されることになる。イングランドでは、直系家族概念が暴力的に、しかも時期尚早で導入された結果、それは挫折することになり、その挫折が絶対的核家族の発明へとつながって行く。」

起源1・下 601頁

こうして、フランス、イギリスは、二種類の家族システムが併存する土地となりました。社会の支配層を占める直系家族と民衆の核家族です。

前者が形成した国家の傘の下に、後者が被支配民として収まることで、都市国家よりは大きく帝国よりは小さい国家が生まれた。これが国民国家である、ということは、すでに述べた通りです。

農民の多くが土地を持たない「農業労働者」であったフランス、イギリスでは、貴族や富農のみが直系家族となり、庶民は核家族にとどまった

支配層の直系家族+非支配層の核家族=国民国家

核家族は、支配層の直系家族への反感を構造化し、純粋核家族システムを形成した

純粋核家族安定の秘密

(1)直系家族と核家族の相互補完性

機能的に見ると、直系家族が誕生させた国家と、核家族の国民との組み合わせは、非常に理にかなっているといえます。

核家族は国家を形成する能力を持たないのですが、近代化の過程で農村の相互扶助機能が失われたときに、もっとも国家を必要とするのは核家族です(夫婦2人ではいざ何かあったときに立ち行きません)。

直系家族の国家は、彼らに国家(を通じた公的扶助)を提供することができます。

一方、直系家族は、国家を作る能力はあるけれども、ごく小さな国家しか作れない。核家族が国民となってくれることで、直系家族の国家は、繁栄に必要な「大きさ」を確保することができるのです。

このパターンの国民国家は、イギリス、フランス、そしてオランダに生まれました。

核家族と直系家族は、相互に欠落(国家形成能/国家の大きさ)を補い合う関係にある

(2)二項対立が安定をもたらす

異なる性格を持つ二つのシステムの併存は、不和の元になりそうに思えます。結果的に見ると、純粋核家族の生成は、この問題への解決策であったといえます。

核家族は、直系家族への「対抗価値」を構造化することで、純粋核家族システムに変化しました。それによって、これらの国々は、「二項対立」を軸とした安定を達成し、対立が生み出す活力とともに、順調な発展を遂げていくのです。

現在、イギリス、オランダ、フランスの国家としてのアイデンティティの源は、純粋核家族のシステム(絶対核家族(自由)、平等核家族(自由と平等)に求められています。

純粋核家族の「自由」の本質は、直系家族の権威への反感、「反権威」ですから、「権威」の誕生こそが国家の生成を促したという歴史を知る者から見ると、彼らの国家はちょっと不思議です。

「「反権威」を旗印にした国家なんて、成り立つのか?」

しかし、彼らが意識していようがいまいが、純粋核家族と直系家族はセットです。純粋核家族の出自には必ず直系家族が関わっており、直系家族の価値との対抗関係が生み出す二項対立軸こそが、純粋核家族国家の安定を可能にしているのです。

イギリスやオランダの場合には、その痕跡は、王室や世襲貴族という目に見える形で残っています。フランスは、王や貴族を廃止しましたが、その国土の半分を占める直系家族地域が、「痕跡」どころではない存在感を発揮しています。

純粋核家族は直系家族と1セット。直系家族との対抗関係が生み出す二項対立の軸が、安定の基礎となっている

(3)純粋核家族を出生地から移植したら‥‥

純粋核家族の生態(?)を知るために、科学者だったら、こんな実験をしてみたくなるかもしれません。

純粋核家族を、直系家族の痕跡を残す出生地から切り離し、(システムの)空白地帯に移植したら、どうなるか。それでも、安定した国家を運営して行くことができるのか?

その実験と同じことが現実になされている土地があります。
アメリカです。

アメリカという国は、空白地帯でこそ発揮される「自由」の活力と、重しを持たない純粋核家族の不安定さを見事に体現しています。「トッド入門講座」として、書きたいことがたくさんありますが、ついでに取り上げるには大きすぎる話題なので、機会を改めて、扱うことにさせていただきます。

直系家族の重しから解放され、空白地帯に移植された純粋核家族。
それがアメリカである

辺境の西欧から—識字がもたらした逆転劇

この辺で、メソ紀47世紀(14世紀)頃の世界を俯瞰してみましょう(視野に入っていない地域がたくさんあってすみません)。

ユーラシア大陸の中心部では、モンゴルが去った後、共同体家族が帝国を統べていました。オスマン帝国が起こり、ティムールが活躍し、中国では明が建国されていた。

同じ頃、辺境のヨーロッパや日本に存在していたのは、直系家族か核家族のみ。家族システムの「進化」という観点から見れば、中東の約5000年前と同じ状況にありました。当然、そこにはコンパクトなサイズの国家や地域政権しかありません。

しかし、この後、直系家族と核家族の組み合わせがもたらすダイナミズムが功を奏し、辺境側の国力が急激に高まるのです。その動力こそが、教育、具体的には「識字」の力でした(近代化における「識字」の重要性についてはこちらをご覧ください)。

家族システムの「進化」で遅れをとっていた辺境のヨーロッパは、
16世紀以降に起こった識字化で急速に国力を高める

直系家族の寄与文字の誕生から大衆識字化まで

(1)「西欧近代」と直系家族

国民国家=近代国家の確立という点で先頭を切ったのはイギリスの核家族であり、直系家族は大分遅れを取ることになるのですが4「直系家族が民衆の間であまりにも成功したところ、つまりドイツやイベリア半島・オクシタニア空間においては、国家は領土の面では拡大することを止めた、まるで〔土地の〕不分割原則が小国家の非集合原則によって補完された〔=置き替わった〕かのように」(起源1・下621頁)。ドイツ統一が1871年まで成し遂げられなかったのがその典型といえます。、「西欧近代」の成立に対する直系家族の寄与は本質的です。

すでに見たように、直系家族は、原初的核家族に「国家」を与えることで、純粋核家族の成立を導きました。その次に、直系家族は、その「世代間伝達能力」を活かして、西欧の識字化を先導するのです。

直系家族は、核家族に「国家」を与えた後、西欧の識字化を先導する役割を果たす

(2)文字と直系家族

識字の以前に、直系家族は、「文字」の誕生そのものに大いに関係していると考えられます。

この講座では、直系家族の発生と小規模な国家の発生がリンクしていることを見てきましたが、「文字」もまた、大体同じ頃に発生している。これを偶然と考えることはできません。

メソポタミアで直系家族が生まれ、都市国家が誕生したのは、メソポタミアで文字が誕生したメソ紀元年(前3300年)と同時期です。

楔形文字
Image of an unidentified cuneiform tablet in the British Museum, London.

中国では、文字が誕生したのはメソ紀19世紀(前14世紀)。やはり、中国が直系家族を生成させていた時期で、殷王朝が興ったとされているのもこの頃のようです。

文字とは、情報を書き留め、後世に伝えるための手段です。家系の永続を期して土地や財産を子孫に伝達するシステムである直系家族の生成と文字の誕生が同期することには、何の不思議もないといえます。5以上につき、Lineages of Modernity, pp.105-6. 

果たして、文明の最初期に文字を誕生させた直系家族は、その4800年後、識字率の大幅な上昇という局面で、再び、大いに存在感を発揮することになるのです。

家系の永続を期し、知識や財産の後世への伝達をこととする直系家族は、文字の誕生や文字文化の隆盛に大いに関わっている

(3)近代以前の識字状況

ヘレニズム期の社会の識字率を算定するという大胆な試みを行った人がいて、彼は、当時のもっとも発展した都市でも、男性識字率が20-30%を超えることはなかったと結論しました(William V. Harris, Ancient Literacy(Cambridge, MA: Harvard University Press, 1989). p.141)(Todd, Lineages of Modernity, p.101)。

こうした仕事を受け、トッドは、文化・学問が大いに栄えた古典古代においても、社会全体の(おそらく男性の)識字率はせいぜい10%程度にとどまっていたであろう、と述べています。

メソポタミアの識字率を知る手立ては(私には)ありませんが、トルコで男性識字率が50%を超えた時期がメソ紀5232年(1932年)というところから見て、オスマン帝国までの4000-5000年の間は、ヘレニズム期の数字を大きく超えることはなかったと見てよいのではないかと思います。

西欧に関していうと、識字率はヘレニズム期をピークに、低下に転じます。低下傾向は西ローマ滅亡で加速し、再び上向きに転じるのは、メソ紀44-46(11-13)世紀頃でした。

西欧で、識字率の劇的な上昇が起こるのは、メソ紀49-50(16-17)世紀。このときの主役が、誰あろう、直系家族であったのです。

ヘレニズム期(10%程度)以降低下を続けたヨーロッパの識字率は、
11-13世紀にようやく上向きに。16-17世紀
劇的上昇が起こる

(4)ドイツにおける識字率の上昇

この時期の識字率の上昇が、活版印刷術の普及(グーテンベルクの仕事はメソ紀4754年(1454))、ルターの宗教改革(メソ紀4817年(1517)– )に関連することはよく知られています。

書籍の印刷所

「大衆の識字化は、そもそもプロテスタンティズムの基本的目標の一つであった。その必要性は、次のような純粋で強硬な三段論法によって導き出される。

 1 ルターは、われわれはすべて聖職者だと断言している。
 2 聖職者とは、(近代以前の人間の考えでは)文字を読むすべを知っている者のことである。
 3 それゆえ万人が聖職者となるためには、万人が文字を読むすべを知らなくてはならない。

 このためプロテスタント教会は次々と、都市住民と農村住民の読みの習得を力強く奨励したのである。」

新ヨーロッパ大全I・176-177頁

ドイツのプロテスタント地域の庶民たちは、ドイツ語に翻訳され、活版印刷された聖書を手元に置いて、読み書きを学びます。そうして、メソ紀4970年(1670年)、世界で初めて、男性識字率50%を達成するのです。6スウェーデンも同じ時期に達成している(直系家族である)。ドイツのプロテスタント地域で女性の識字率が50%に達したのは150年後のメソ紀5120(1820)年であったが、スウェーデンでは20年後の4990(1690)年であったから(女性のステータスの高さの反映である)、国民全体ではスウェーデンが先行したことになる。

この一連の出来事は、いったいなぜ、ドイツで起きたのか。

トッドは、直系家族、プロテスタンティズム、識字率の三要素が、相互作用によって、それぞれを強化する関係に立ったことを指摘しています。 

家族システムとキリスト教の教義に関するトッドの分析は大変鮮やかで、興味深いものなので、いつか個別にご紹介させていただく予定です。

[追記]その後「ヨーロッパのキリスト教(1)ー(4)」をアップしました。

直系家族・プロテスタンティズム・識字率上昇の相互強化作用で、
ドイツが世界初の大衆識字化を達成

(5)イギリスのテイク・オフ

識字化において先頭を切った直系家族地域は、その保守的傾向のために、近代化ではイギリスに先を越されることになりました。

しかし、イギリスの識字率上昇(男性識字率50%越えはメソ紀5000年(1700年))も、プロテスタントの影響、自国内および近隣地域における直系家族の存在なしに考えることはできません。

イギリスの優位は、①プロテスタンティズム、②直系家族地域の存在、③核家族の流動性、の3点が揃っていたことにあるといえます。

ともかく、このようにして、辺境の中でもとくに辺境であったイギリスにおいて、「識字化した核家族」が「西欧近代」の幕を開くことになりました。

「識字化した核家族」の時代(西欧近代)の幕開けを担うのは、
プロテスタンティズム・直系家族地域・核家族の流動性を備えたイギリス

核家族による「帝国」支配

西欧諸国と比較して、中東地域の識字化時期を見ると、トルコ 5232(1932)年、 シリア 5246(1946)年、イラク 5259(1959)年、イラン 5264(1964)年(下図をご覧ください)。イギリスと比べると、200年以上の遅れが発生したことになります。

メソポタミア文明以来、5000年の間(メソ紀5000年(1700年)頃まで)、共同体家族システムの基層の上で、文明の中心地であり続けた一帯は、「識字化した核家族」に、覇権を譲り渡すことになるのです。

「‥‥かつての超大国オスマン帝国を脅かしはじめたのは、近代西欧の台頭であった。その威力は何より、近代西欧における軍事の組織と技術の革新に求められる。
 1529年の第一次ウィーン包囲の際のオスマン軍の粛々たる撤退と、1683年の第二次ウィーン包囲の際のオスマン軍の潰走は、まったく別のものであった。その1世紀半の間に、西欧では社会体制の変化と軍事組織・技術の革新が起こって、両者の力関係は逆転してしまったのである。」

鈴木董『オスマン帝国』251-252頁

西欧が興隆した後の歴史をこれ以上見ていく必要はないでしょう。しかし、家族システムの変遷の観点から世界史を追っている私たちとしては、一つ、確認しなければならないことがあります。

核家族が覇権を握った後、共同体家族が作り上げた「帝国」秩序がどのように変わったのか、という点です。

果たして、核家族は、メソポタミア文明勃興の地に、秩序をもたらすことができたのでしょうか。次回に続きます。


Literacy of menLiteracy of women 
Protestant Germany16701820
Sweden16701690
Great Britain17001835
United States(1700)(1835)
Germany(Overall)17251830
France18301860
Italy18621882
Japan18701900
Russia19001920
Lebanon19201957
Turkey19321969
China19421963
Syria19461971
Libya19551978
Saudi Arabia19571976
Iraq19592005
Egypt19601988
Iran19641981
Pakistan19722002
Yemen19802006

共同体家族の中東は、大衆識字化において200年の遅れを取り、ヨーロッパに覇権を譲り渡すことになる。帝国秩序の喪失後、核家族は大陸に平和をもたらすことができたのか(次回に続く!)

カテゴリー
トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(3)内婚制共同体家族とオスマン帝国

目次

「アラブ式内婚」という革新

ユーラシア大陸中央部では、メソ紀1000年(前2300年)頃のアッカド帝国以降、バビロニア(バビロン第一王朝)、新アッシリア帝国アケメネス朝ペルシャなど、多数の「帝国」が生まれました。

ローマ帝国分裂の後も、メソポタミア・エジプト一帯では、アラブ人を中心とするイスラム帝国であるアッバース朝(メソ紀4050年-4558)(750-1258)、イスラム化したトルコ人による王朝の中ではセルジューク朝(メソ紀4338-4494年)(1038-1194)が「帝国」というに値する王朝を築きましたし、メソ紀43-45世紀(13-14世紀)にはモンゴル帝国が、そしてその支配の後には、オスマン帝国が勢力を伸張し、メソポタミアからバルカン、ハンガリー、北アフリカに渡る広大な地域を治めました。

主な帝国年表(雑です。版図はもちろん一致しません)

オスマン帝国が弱体化した後では、ロシア帝国がそれに準じるといえるかもしれません。ロシアは、ロシア帝国時代の版図を旧ソ連邦崩壊まで維持し、多文化・広域の支配を成立させていましたから。

こうした「帝国」の樹立および維持は、ひとえに、共同体家族システムの成せる技と考えられます。

繰り返しになりますが、強力な軍事的・文民的組織力を背景に、地域一帯の治安、通行の安全等を確保する強い政権の存在は、ユーラシア大陸中央部の安定には不可欠なものだったでしょう。人類の文明は、共同体家族システムの「権威」のゆえに、大きく発展を遂げたといえるのです。

ただし、標準的な共同体家族(外婚制です)が作る国家には、一つの弱点がありました。その統治期間中の安定にもかかわらず、広域を支配する一つの帝国ないし王朝の寿命は比較的短かったのです。

「史上初の世界帝国」1阿部拓児『アケメネス朝ペルシアー史上初の世界帝国』(中公新書、2021年)アケメネス朝ペルシアの寿命は220年、モンゴル帝国にしても、風のように現れたチンギス・ハンによるモンゴル高原統一から約100年で分裂し、200年と経たないうちに跡形もなく消え去りました。モンゴルが元朝を築いた中国の歴代王朝も同じで、統一と分裂の繰り返しは中国史の特徴となっています。

この、ある意味の「不安定性」が、外婚制共同体家族の特性の現れであることは明らかだと思います。トッドは、直系家族との比較で、つぎのように述べています。

「直系家族の場合、唯一の継承者という規則は、農地(あるいは王国)の不可分性と世代から世代へのそれの伝承とを保証している。つまり、経営(あるいは国家)の継続的改善を可能にするのである。しかし、父方居住共同体家族は、巨大な生産集団の集合を可能にするけれども、努力の安定性と継続性をあまり許容しない。父親の死は、その死後しばらくして、集団の分裂を引き起こす。この集団は、そもそも構造的に緊張を孕んだ脆弱なものなのである。」

起源1・204頁

実をいうと、上に見た「帝国」の一覧表には、比較的長続きしたものも含まれています。アッバース朝(メソ紀4050-4558年(750-1258年))とオスマン朝(メソ紀4599-5222年(1299-1922年))です。

この二つは、いずれもイスラムに拠って立つ王朝です。彼らもまた、共同体家族システムを営んでいたことに違いはないのですが、彼らの文化的祖先であるアラブ人は、共同体家族に、新たな革新を付け加えていました。

アラブの人たちによる「革新」と、帝国の安定性との間には、何か関係があるのではないか。そのような予感を抱きつつ、今回は、内婚制共同体家族の「発明」を中心に、その先の歴史を見ていきます。

外婚制共同体家族の「帝国」が短命であったのに対し、長く安定した統治を実現した「帝国」はいずれも内婚制共同体家族であった

内婚制共同体家族とは?

(1)イトコ婚の理想

現在の世界に存在している共同体家族は、中東以外の地域では、すべて、外婚の規則と結びついています(外婚制共同体家族)。つまり、配偶者は親族の外から探してくるのが原則で、イトコを含む親族との婚姻は想定されません。

中東のシステムは違います。

中東では、イトコ婚(それより遠い親戚の場合もあるようです)は、単に許容されるというだけでなく、「理想」です。彼らの理想は、男性を基準とした場合、父の兄弟の娘(父方のイトコ)との結婚であり、「父」から見ると「甥」に当たるその男性には、イトコと結婚する(事実上の)「権利」があると想定されているといいます。

内婚の理想は、現在も維持されていて、アラブの中心部(サウジアラビア、イラク、クウェート、イエメン、カタール、オマーン)では、2000年前後の数字でも、本イトコ婚が30%以上を占めています(起源1・下681頁以下)。

起源I 下683頁

婚姻制度一つの違いなのですが、トッドは、外婚制共同体家族と内婚制共同体家族のシステム全体の「雰囲気」に、非常に大きな違いがあることを指摘しています。

彼の言葉を引用しながら、説明していきましょう。

中東以外の共同体家族は外婚を規則とするが、中東では内婚(特に父方イトコとの結婚)が「理想」。甥にはその「権利」があるとされるほどシステマティック

(2)外婚制共同体家族の暴力性

トッドは、外婚制共同体家族は「厳しく、構造的に暴力的な」システムであるといいます。

「なぜなら、それは、男たちを非常に強い父の権威に隷属させ、兄弟に同居を強制し、女たちを出身家族から引きはがして別の家族の中に移転させる」

起源1・下667頁

そのようなシステムだからです。

父親の強い権威の下で、平等に役割を割り振られた兄弟たちは、父親が死ぬまでの長い間、父親の権威へ服従を強いられます。女性として生まれた者たちは、親族の中で、役割も、財産も、敬意も与えられることなく育ち、成人すると直ちに親族関係の外に追いやられ(結婚させられ)、別の抑圧的な家族関係の中に押し込められる。女性たちは、そこでは「子供を産む者」としてのみ、価値を認められるのです。

「ロシアと中国においては、親子関係、夫と妻の関係は、恒常的な心理的暴力の雰囲気に浸っているように見える。近代化の局面に入ると、これらの家族システムは急速に瓦解したが、それはおそらく、住民自身が自分たちの生活様式を加害的なものだと感じ取っていたからなのだ。」

『文明の接近』91頁
「夫婦の心理的暴力」で思い出す中国映画。超絶怖い。

外婚制共同体家族は「厳しく、構造的に暴力的」なため、不安定

(3)内婚制共同体家族の温かさ

内婚制共同体家族の方も、父親の権威に平等な兄弟たちが従うという構造は同じですが、雰囲気はまったく異なります。

内婚制共同体家族は「息が詰まる、うっとうしいものとして体験されるようであるが、同時に、しかもとりわけ、温かく安心できるものとして体験されるように思われる。」(起源1・下669頁)

「アラブ圏各地の共同体内部における生活と感情を記述したモノグラフを読むと、このシステムがどれほど拘束的でないものとして体験されているかが分かる。それは、父系の大家族ではあるが、外婚制の、ロシアや中国の家族とは正反対なのだ。‥‥内婚は、大家族システムが誘発する複雑な人間関係のとげとげしさを和らげてくれる。嫁とは、姑に迫害される余所者の女(あらゆる外婚モデルに共通)でも、舅に強姦される余所者の女(ロシア・モデル)でもなく、生まれた時から親族の中にいる、舅姑の姪というステータスを持って結婚生活を始めるのである。」

『文明の接近』91頁

なぜ、外婚制であると「厳しく暴力的」である共同体家族が、内婚制になると「温かく安心できるもの」に変わるのか。

以下の2点がポイントです。

  1. 内婚は必然的に女性のステータスを高める
  2. 「アラブ式内婚」の慣習は、婚姻に関する決定権を奪うことで父の権威を弱め、同時に、親族内の横のつながりを強化する

(4)内婚と女性のステータス

まず、内婚の場合、「結婚して夫の生家に入る」ことは、「出身家族から引きはがし、別の家族の中に移転する」という粗暴さを意味しません。イトコと結婚するわけですから、女性にとっては、単に子供の頃からよく知る叔父の家に行くだけです。

さらに、彼女がイトコと結婚することは子供の頃から決まっているわけですから、子供時代においても、彼女は、親族の一員として、あるいは将来のお嫁さんとして、健やかな生育への配慮と十分な愛情を受けて育つことになるはずです。

何より、内婚という仕組みは、それ自体、システムが女性の血統にも関心を持っていることを意味します。妻は、健康で子供が産める女であれば誰でもよいのではありません。彼女でなければならないのです。

こうして、内婚制共同体家族は、外婚制の場合とくらべ、女性のステータスが確実に高い、女性にとって優しいシステムとなるのです。

(5)父の権威の緩和と兄弟の絆の強化

イトコ婚の理想は、コーラン以前からの部族的慣習に由来するものだそうですが、単に理想というに止まらない、規則としての強い力を持っています。

既に述べたとおり、甥は、実際上、イトコと結婚する「権利」を持っており、「娘を甥に嫁がせることを望まないオジ」は、その希望を容易に実行することはできません。彼は甥と交渉し、彼を納得させなければならない上に、「大抵の場合、甥に損害賠償をしなければならないのである。」(起源1・下668頁)

「婚姻という最重要の要件を決定することができないということは、父親の権力のすべての側面に重くのしかかる。伝統的なアラブの家族において、上の世代の権威は、形式上は尊重されているが、あたかも慣習によって〔実際上は〕廃されているようなのである。」

イトコとの婚姻が普通である、ということは、親族の中において、イトコたち(複数の世帯の同じ世代の子供たち)の幼少期からの親しいつながりが、成人後にも継続することを意味しているでしょう。このことは、同世代の絆を強めると同時に、一つの世帯の兄弟間の競争的性格を和らげることにもつながるはずです。

「内婚がその周りに組織されている中心的な絆は、父と息子の関係の縦の絆ではもはやなく、兄弟の連帯の横の絆なのである。」

起源1・下669頁

内婚制共同体家族は、①女性のステータスの向上、②父の権威の形骸化と兄弟の横の絆の強化により、「温かく安心できる」システムとなる

内婚制共同体家族の起源

すでに述べたとおり、共同体家族に内婚制を取り入れるという「発明」を成し遂げたのはアラブの人々でした。

アラブ人に関する最古の記録は、メソ紀2446年(前854年)のアッシリアの碑文や旧約聖書に現れます(ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典)。中東史の文脈では、比較的新しい民族といえます。

アラブ人の家族システムについては、次の2つのことが分かっています。

①現在のアラブ世界は内婚制共同体家族である。
②初期のアラブ人のシステムは、女性のステータスが高い未分化なシステムであった。

新アッシリア帝国のティグラト・ピレセル3世は、メソ紀26世紀(前8世紀)頃、アラブの「女王」とたびたび戦火を交えたことが、碑文に残されています。

最初のアラブ系国家であるナバテア王国(首都ペトラ。アラビア半島の北限、現在のヨルダン西南部。メソ紀32~34世紀(前2世紀-後106))では、女性たちは、墳墓の建立者や所有者として頻繁に名を残しています。

さらに、アラブ人住民集団の基底を保持していたと考えられる(シリア砂漠の端に位置する)隊商都市パルミラで、メソ紀35-36世紀(2-3世紀)に作られた墓碑の図像の半分は、女性を描いたものでした。

パルミラの女王ゼノビア(ローマ帝国の貨幣)http://www.cngcoins.com/

こうしたことから、少なくともメソ紀35-36世紀(2-3世紀)の頃まで、女性のステータスは十分に高かったことが分かるのです。

長い間、女性のステータスが高いシステムを保持していたアラブの人々は、かなり時間が経ってから、メソポタミア中心部との接触により、共同体家族システムを獲得します。彼らはそのとき、内婚制を付け加えるのです。

何がそうさせたのか。
トッドは次のように述べています。

「そのとき獲得しつつあった父系原則〔=男性優位〕が強力であったということと、内婚の選択との間には何らかの関連があるのではなかろうか。」

起源1・下790頁

アラブ人に共同体家族システムが伝播したと見られる時期、共同体家族は誕生からすでに2000年以上を経過し、「すでに、絶対的な力によって、女性を社会の中心部から排除する周辺化を前提とするもの」となっていました。新アッシリアを経て「女性のステータスの最大限の低下を伴う共同体家族」になっていたわけです。

しかし、伝播の波に呑まれたアラブ人たちは、たった今まで、女性が自立して普通に活躍する社会を営んでいたのです。さて、どうしたものか。

「アラブ人によって発明された内婚は、父系制の最も極端な帰結から逃れ、きわめて暴力的な父系制、過激な反女性主義という環境の中で、双方的なつながりを保持するための一つのやり方だったのではなかろうか?」

そうです。アラブの人たちは、共同体家族システムの大きな流れに巻き込まれる中、どうにか女性の立場を守り、地位を高く保つための方法として、内婚の理想を編み出したのではないか。

トッドはこのように推理しているのです。

当時のアラブの人たちの「無意識」にとって、それは、熟慮によるものというより、やむにやまれぬ選択であったに違いありません。

しかし、結果的に、彼らの発明は「大ヒット」となりました。共同体家族の組織力をそのままに、厳しさを緩和し、温かさを取り入れた内婚制共同体家族は、中東全体を席巻し、イスラムの興隆とその拡大を通じて、イスラム圏全体に広がっていったのです。

内婚制は、高い女性のステータスを保っていたアラブ人に
「女性のステータスの最大限の低下を伴う共同体家族」が伝播したときに発明された

内婚制共同体家族の可能性オスマン帝国「柔らかい専制」

オスマン帝国です。

オスマン帝国は、メソ紀4599-5222年(1299-1922年)の長きに渡ってその命脈を保ちました。もちろん、彼らの偉大さは「長さ」だけではありません。

最盛期のオスマン帝国の領土は、アナトリア地方(現在のトルコ)、バルカン半島、現在のイランとモロッコを除く中東・アラブ圏の大部分。つまり、この講座で見てきたメソポタミア一体とその周辺はすべて、帝国の版図となりました。

オスマン帝国の領土拡大 https://ja.wikipedia.org/wiki/オスマン帝国#/media/ファイル:Japanese-Ottoman1683.PNG

私たちは、この地域がのちに「民族紛争と宗教紛争の巣窟」と化し、大変困難な状態になることを知っています。

しかし、オスマン帝国は、19世紀に西欧の影響下で「トルコ人の国民国家」に生まれ変わるまでの500年間、多民族、多言語、多宗教の人々を統合し、平和と安定を保持し続けたのです。

これは、なかなか、大変なことではないでしょうか。

オスマン帝国に対しては、もしかすると、「宗教国家」(イスラム教の国家)という誤解というか先入観があるかもしれませんが、当時としては、何らかの価値の表明を宗教の名の下に行うのは普通のことでした。

「たしかに、オスマン帝国はイスラムの旗を掲げたが、それは、彼らが、正義や公正などの普遍的価値や戦争での勝利を、「イスラムのため」と表現したからにすぎない。同じく、宗教を旗印にしてキリスト教徒も戦っていたのである。たとえば、オスマン帝国とハプスブルク家オーストリアが行った戦争は、収入をもたらす領土の奪いあいだった。‥‥ ここで、オスマン帝国だけを宗教に関係づけるのは、誤解のもととなるだろう。」

林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫、2016年)21-22頁

キリスト教世界との関係では、イスラム法に基づく統治を行ったオスマン帝国の方が、宗教的にはるかに寛容であったことも指摘しておかなければなりません。やや長くなりますが、鈴木董『オスマン帝国』からの引用です。

「中世西欧がキリスト教によって、厳しくしばられた社会だったことはよく知られていよう。しかも当時のキリスト教は、異教徒に対しても非常に不寛容であった。11世紀末から、十字軍運動の開始と表裏をなして、外でのムスリムへの敵意は、内ではユダヤ教徒に向けられた。キリスト教徒民衆が蜂起してユダヤ教徒を虐殺する事件も見られるようになり、ユダヤ教徒を隔離するゲットーの形成も進んでいった。

 15世紀以降になると、特に、キリスト教徒によるムスリムに対する失地回復運動である、レコンキスタの進んだイベリア半島において、その動きはさらに活性化された。それまではムスリムの支配の下に安全に暮らしてきたスペインのユダヤ教徒(セファルディム)も、厳しく迫害されるようになった。

 この時、迫害に耐えかねたセファルディムが安住の地として大量に移住した先が、オスマン帝国だった。オスマン帝国も、彼らをあたたかく受け入れた。オスマン帝国臣民となったセファルディムたちの期待は、裏切られなかった。彼らは、近代に入るまで、安全な生活を楽しんだ。

 ノーベル文学賞受賞者であるオーストリアのエリアス・カネッティも、彼らの子孫の一人である。彼は、かつてはオスマン領だったブルガリアのルスチュク(現ルーセ)に生まれ、ユダヤ人差別の存在をまったく知らずに育った。スイスの学校に入ってはじめて自分が差別される存在であることを知ったと、その自伝で述べている。」

鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書、1992年)19-20頁

もちろん、オスマン帝国が、帝国を拡大発展させ、領域内の治安を維持することができた、その大前提には、強力な組織の力がありました。

再び鈴木先生に解説していただきます。

「この強靭な支配の組織と常備軍は、国内においては、ゆるやかな統合と共存のシステムからの逸脱を抑え、システムを脅かす紛争や反乱を迅速に鎮圧した。16世紀、スレイマン大帝時代のイスタンブルで生じたユダヤ教徒に対するムスリム住民の暴動が、常備軍の出動によってまたたくまに鎮圧された事件は、このメカニズムを象徴している。

 強靭な支配の組織が、対内的には、ゆるやかな統合と共存のシステムにしっかりとした外枠を与え、対外的には、東西からの外敵にそなえ、さらに征服を進めていくように機能していたのである。

 強靭な支配の組織とゆるやかな共存のシステムがあいまって支えあうこの体制は、非常に専制的でありながら、同時に非常に柔軟性をもっている。これは「柔らかい専制」とも呼ぶことができよう。」

同前・23-24頁

内婚制共同体家族のオスマン帝国は、「柔らかい専制」により
多民族多言語多宗教の人々を統合し、500年の平和を実現した

内婚制共同体家族の覇権の終わり
核家族の識字化

では、その「柔らかさ」は、どこから来たのか。

家族システムの変遷を軸に世界史を追う私たちとしては、アッシリア、ササン朝、アケメネス朝ペルシャなどの「硬い」専制と、オスマン朝の「柔らかい」専制との間に、アラブの人々による内婚制共同体家族の発明とその拡大という「事件」があったことを見逃すことはできません。

内婚制の導入は、共同体家族の構造的緊張を緩和し、「温かさ」を付け加えました。これにより、強靭な支配能力に加えて、安定を持続させる柔軟さを備えるようになった共同体家族システムが、ついに実現したのが、「オスマン帝国500年の平和」だったのではないか。

家族システムというものの本質的な重要性を肯定する限り、このような仮説が、自然に導かれるのです。

・ ・ ・

この講座では、文明発祥の地、メソポタミアとその周辺で、家族システムが、核家族から、直系家族、外婚制共同体家族、内婚制共同体家族へと「進化」を遂げた様子を追ってきました。

それに対応するように、国家の形態は、都市国家から、統一国家、多様な民族・言語・宗教を持つ人々を統べる「帝国」へと移り変わり、進化の頂点において、オスマン帝国の繁栄がもたらされた様子が確認されました。

もちろん、オスマン帝国の「平和」は、永遠には続きませんでした。民族や言語を問わない寛容な帝国であったオスマン帝国は、メソ紀51世紀(18世紀)末–52世紀(19世紀)初頭には終焉を迎え、「トルコ人の国」としての「近代オスマン帝国」を経由して、メソ紀5222年(1922)年に滅亡します。

オスマン朝の終焉は、しかし、核家族への逆行により内部崩壊を起こしたローマ帝国のように、内部的な要因を主とするものとはいえません。

帝国の終焉をもたらしたもの、それは、「核家族の識字化」という大事件でした。

共同体家族の5000年をあざ笑うかのように、世界の中心に躍り出てきた「識字化した核家族」(別名「西欧近代」)は、世界をどのように変えたのか。

次回に続きます。

オスマン帝国の平和は「識字化した核家族」(西欧近代)の登場とともに終焉を迎える

カテゴリー
トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(2)都市国家から「帝国」まで

目次

都市文明のはじまり

補講 気候と人類」に、最終氷期が終わり間氷期(温暖で安定)に入った頃に農耕が始まったこと(約12000-11000年前)、巨大氷床の融解による海水面の上昇が終わったことで、長期の定住が可能になったことを書きました(約7000年前)。

定住集落の点在状況から、都市文明の誕生に至る過程にも、気候変動が関係しています。

気候は、間氷期であれば一定というわけではないそうです(当たり前でしょうか)。海水面上昇が終わった頃、地球は「気候最適期」と呼ばれる温暖な期間にあったのですが、約5500年前(メソ紀前200(前3500)年頃)にこれが終わり、寒冷な時期がやってきます。

寒冷化が何をもたらしたかというと、気候の乾燥化です。乾燥のため、周期的な干ばつに見まわれるようになったメソポタミアやエジプトでは、それまで山麓で天水農耕をしていた人々が、大きな河川沿いの低地に集まって住むようになります。こうした生まれたものが、都市であり、都市文明である。とこのように考えられているようです1田家康『気候文明史』(2019年, 日経ビジネス人文庫)147-148頁(同書では松本健「メソポタミア文明の興亡と画期」『講座 文明と環境 第2巻 地球と文明の画期』(朝倉書店, 1996年)91-103頁が参照されています(私は読んでいません)

メソポタミア南部では、メソ紀元年(前3300年)の前後、ちょうど文字が生まれたのと同じ頃に、ティグリス・ユーフラテス川流域のシュメールにウル、ウルクといった都市が生まれ、メソ紀400年頃(前2900年)までには、各都市は王が治める都市国家に成長しました(初期王朝時代)。

気候の寒冷化→乾燥化により人々が河川沿いの低地に集まり、
都市文明の誕生につながった

初期シュメールの家族システム

シュメールの初期、家族システムは、やはり、原初的な核家族であったと考えられます。

文献記録に限りがある時代の家族システムを知るためには、芸術が大きな役割を果たしますが、メソポタミアの場合、男性、女性、夫婦をかたどる彫像が重要です(以下 起源1・下 733頁以下を参照)。

メソポタミアにおける家族システムの変遷を示す一つの鍵は、初期には女性を表象したものが数多く見つかっているのに(一例として、こちらの写真をご覧ください)、その後次第に減少し、古バビロニア王国(メソ紀1300年(前2000年))以降はほとんど存在しなくなるという事実です。

女性への敬意がうかがわれる美しい女性の彫像は失われ、多産性を称えるためのでっぷり太った女性像が少しと、大量の男性像、それも、「様式化された‥多量のあご髭をはやした男」(例えばこちら)の像に置き換わってゆくのです。

文献や芸術、各種先行研究の吟味を経て、トッドは次のように結論しています。

現在の南部イラクは、今日地球上で最も強力な父系システムの一つに占められている。しかし、今から5000年以上前、シュメールの初期には、まさにこの場所において、いわゆる近代ヨーロッパのそれにおそらく近い家族形態と親族システムが支配していた。

起源1・下736頁

トッドが同書に掲載している図像をネット上で見つけました。メソ紀600-700年(前2700-2500年)頃のシュメールの夫婦像です(イラク国立博物館所蔵)。 

このタイプの夫婦像は多数発掘されているようで、その全体について、トッドは次のように述べています。

古い時代についてもっとも有意的で、女性のステータスとシュメールの親族システムとに関して決定的な判断をもたらすのは、考古学的遺跡の中から見出される夫婦を表す小像である。その姿勢が夫婦の対等の関係を喚起することには、いかなる疑いも容れない。

起源1・下 734頁

そして、シュメールの都市の一つ、ニップルの神殿で発見された上の図像については、

比類ないものという訳ではないが、遺憾なく特徴を示していると思われる …… 信頼と情愛と平等性を結びつけたこのような夫婦のイメージを産み出すことができたのは、唯一、男女両性の関係について平等主義的な考え方をし、当時はまだ未分化の親族システムを持っていた社会だけであると、私は考える。このような型の男女の結びつきがその後、姿を消したことは、全く単に、メソポタミアの歴史の中での父系原則の勢力伸張の証明に他ならないのである。

同・734頁

シュメールの図像が表象する夫婦の対等性は、未分化の親族システム(原初的核家族)の存在を示唆している

つまり、初期シュメールの家族システムは原初的核家族だった

最初の進化
 — 長子相続制の誕生

家族システムの「進化」の第一段階は、すでにシュメールの初期王朝時代に起きていたと見られています。

長子相続制の誕生です。

例えば、シュメールの都市の遺産相続の規則には、長子に二人分の取り分あるいは10%の優先取り分の付与を認めるものが確認されています。また、ギルガメシュ叙事詩2シュメールの物語をまとめたもの。編纂はメソ紀2000年紀の中頃(前3000年紀末頃)に描かれる伝説的なウルクの王ギルガメッシュは、三分の二が神で、三分の一が人間という不思議な設定なのですが、これは、長子に二人分の取り分を認める長子相続制文化が象徴的に現れたものと考えられています(起源1・下725頁)。 

ギルガメッシュのレリーフ A hero taming a lion. Bas-relief from the façade of the throne room, in the Assyrian Palace of Sargon II at Khorsabad (Dur Sharrukin), 713–706 BCE. (public domain) 

では、何が長子相続制を促したのか。

確認できるのは、ここでも「満員の世界」と戦乱という二つの要素が揃っていたことです(この点の説明はこちら)。

この時期、シュメールでは定住民の人口が増加し、すでに「満員の世界」が生じていました。そして、都市国家が分立して対立抗争を繰り返す一種の戦国時代であったことも確実なのです(小林登志子『シュメル―人類最古の文明』(中公新書、2005年))。

*(1)でも述べた通り、「満員の世界」と「戦国」状況が直系家族を促進したのは、日本も全く同じです。「戦国」は説明不要と思いますが、「満員の世界」については、12世紀末には生じていたことが確認されています(「当時の技術水準で開発可能な土地は開発し尽くされていた」(近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)207頁)

シュメールは「人口が多すぎるという感情をこれほど明確に形式化する社会」は「」とトッドが言うほど、その文化の中に、人口抑制の志向を含み持っていました。

以下は、シュメールの主題を引き継いで後代に書かれた叙事詩です。

いまだ1200年も過ぎてはいないのに、
国は広がり、人口は増加した。
大地は牡牛のごとく唸り声をあげていた‥‥

叙事詩の中で、神は人口過剰に激しい怒りを表します。
そして、神々は伝染病、干ばつ、洪水を解き放ち、
ある神などは、女性の不妊、乳幼児の死亡、女性が祭司(=一生独身)となるべきことを預言するのです。

以上を総合すると、長子相続制は、定石通り、「男性優位と父系の選好」を促す戦乱を背景に、「満員の世界の中で世襲財産の細分化を妨げようとする努力」(725頁)として、メソポタミアに姿を現したことになります。

なお、シュメールの直系家族は、長子相続制を採用する一方で、世代間の同居を伴わない(=居住は核家族的)、不完全な形態であったとされています。

したがって、ここでは、シュメール期には、未分化の核家族を、一歩、直系家族の方向に進める変化が起きていたという事実を確認しておきましょう。

都市文明が成立すると間もなく満員の時代がやってきて、
小ぶりな都市国家が分立して対立抗争を繰り返す。
このとき、同時に直系家族への傾き(長子相続制)が観測される

統一国家の誕生— 共同体家族の発生と強化

メソポタミアにおける共同体家族システムは、統一国家の誕生と同時期に発生したことが確認されています。いずれも「世界初」の事件です。

共同体家族の生成は、ここでも、「定住民の直系家族+遊牧民の対称原則=共同体家族」という定式によるものと想定することができます。メソポタミア中心部でも遊牧民(とくにアムル人)が活発に活動していたからです。

資料からほぼ確実といえるのは、全メソポタミアを統一したハンムラビ王の時代(バビロン第一王朝)(在位:メソ紀 1508-1550(前1792-1750))には、すでに共同体家族が成立していたという点です。

 

ハンムラビ法典(左がハンムラビ、右は太陽神)

アムル人は、ウル第三王朝(メソ紀1188-1296(前2112-2004))の頃から資料に現れます(wiki)。傭兵、労働者、役人などとしてメソポタミア社会に浸透したということですが、ウル第三王朝崩壊後は一躍メソポタミアの主役に躍り出て、メソポタミア各地の都市に王国を築き、互いに覇権を争いました。ハンムラビ王もその一人、つまり、遊牧民アムルの王でした。

アムル人は、ステップの遊牧民クランと同様に、「穏健な父系原則と‥‥対称化の概念とに立脚した幅広い親族集団」を持っていました。彼らの部族は、「実際にはそれぞれ戦闘単位たる部隊に相当」し、「家畜の飼育に必要な土地を占拠するため、あるいは豊かで文明化された定住民の居住地の中心に侵入するために、行進隊形をとって前進するのである」(748頁)。

こうした事実から、トッドはまず次のような仮説を示します。

対称化と兄弟間の平等を必要とする共同体段階への移行は、中国におけるのと同様に、対称化された遊牧民の家系システムの征服的侵入によって可能になったのであろう。家族の平等主義と統一帝国的考え方の間には機能的連関が存在するがゆえに、バビロン第一王朝を、中国の最初の帝国家系の厳密な等価物とすることができるであろう。

起源1・下750頁

このストーリーは、何というか、感動的といえます。メソポタミアではハンムラビ王が、2000年後の中国では、その意識せざる反復者、秦の始皇帝が、それぞれに、共同体家族の誕生と同時に、統一国家の樹立を成し遂げていた、ということになるわけですから。

ただし、中国のケースとは異なり、メソポタミアで統一国家を築いたのは、ハンムラビがはじめてではありません。シュメールでは、都市国家が分立する初期王朝時代の末期に、統一を目指す動きが現れ、アッカドの王サルゴンが、シュメールおよびアッカド一帯の統一に成功しているのです(メソ紀1000年(前2300年)頃)。

詳細は省きますが、結局、トッドは、アムル人は上記資料に登場する以前からメソポタミア中心部に入り込んでいたと考えられること等から、バビロン第一王朝の500年前、サルゴン王による統一直前のアッカドで、不完全な直系家族から、「対称化された父系イデオロギー」を持つ共同体家族的システムへの変化が実現していたと推定するに至りました。

この変換は、サルゴン王によるメソポタミア統一のほとんど直前に、アッカドで実行されていたと想像することすらできるのである。

起源1・下751頁

ただし、中国に大幅に先行して成立したメソポタミアの共同体家族は、「はるかに不明瞭であり、疑わしいものでさえある」と、トッドは述べています。その父系および共同体性の強度はずっと低く、「おそらくその共同体家族は、アラブ人中心の近年の中東の持つ緩和された共同体家族3次回扱いますを先取りしているのであろう」。

ともかく、世界で初めて、メソポタミアに誕生した共同体家族の原型は、この地に定着し、強化され、新アッシリア帝国(メソ紀2400年(前900年)頃-)の時代には、女性のステータスの最大限の低下という局面に到達するのです。

アッシリアでは、女性が芸術で表象されることが全くなくなります。

残存する数多くの見事なレリーフは、たいていの場合、戦争を描いたものであるが、そこでは女性と子供は、流刑に処された者としてか、アッシリアの戦士が行った虐殺の犠牲者として姿を現すにすぎない。

起源1・下743頁
https://blog.britishmuseum.org/3d-imaging-the-assyrian-reliefs-at-the-british-museum-from-the-1850s-to-today/

そして、アッシリア法において初めて、女性のヴェール着用義務が記述されるのです。トッドは言います。

反女性主義の急進化という形で自己流の革新を行うアッシリアという仮説は、その戦士的強迫観念と見事に両立する

統一国家の誕生とともに共同体家族が成立し、父系原則の強化(女性の地位の最大限の低下)とともに帝国が現れる

共同体家族の生成要因を考える

この後、共同体家族の伝播と変形を見ていくのですが、その前に、なぜ、メソポタミアで共同体家族が生成し、定着・拡大するに至ったのかを考えておきたいと思います。

共同体家族の特長は、何よりもまず、その組織力の高さにあるといえます。

親子関係を規律する「権威」はリーダーの統率力を、そして、兄弟の「平等」とくにその初期形態である「対称性」は、組織内の役割への自動的な割り振りを通じて、効率的かつ安定的な秩序を基礎づける。共同体家族システムは、そのような仕組みで成り立っています。

歴史において発揮される共同体家族の威力は、二つの側面で発揮されます。一つは、外敵に対する戦闘力、もう一つは、内側をまとめる統率力の強さです。

共同体家族の組織力:2つの側面
①外敵に対する戦闘力
②内側をまとめる統率力

サルゴンのアッカド統一帝国、ハンムラビのメソポタミア全土統一を可能にしたのは、まずは、共同体家族が支える軍事力であったと思われます。

しかし、軍事力だけで、広い領土を治めることはできません。共同体家族システムの組織力は、多様な民族からなる人々を一つのまとめ、領域内の平和を保つ力としても、大いに機能していると考えるべきでしょう。

前項で見たように、共同体家族システムは、サルゴンによる統一の直前に形成された後、次第に強化され、女性のステータスの最大限の低下という局面を迎えます。その間、メソポタミアの覇権は、アッカド帝国、古バビロニア、新アッシリア帝国、新バビロニアアケメネス朝ペルシャと推移し、時代を進むにつれてその版図を拡大していくのです。

なぜ、共同体家族の行き着く先に、女性のステータスの低下という「進化」が見られるのか。

女性の地位の格下げは、(女性以外の)構成員全員の格上げと、(女性を排除することによる)平等性の強化につながります。それによって組織の統率力ないし凝集力が一層強まり、大帝国の設立・維持に役立った、と考えることは、理にかなっているように思えます。

・ ・ ・

なぜユーラシア大陸中央部で共同体家族システムが生成、定着、拡大、強化したのか、という問いへの答えは、おそらく、非常に単純なものだと思われます。

共同体家族は、その地域の平和と安定のため、つまり地域における人類の生存に適したシステムだったからです。

前回も述べましたが、メソポタミアの人々は、「共同体家族・権威と平等・帝国」の三位一体による地域の安定を歓迎したはずです。単純に考えて、異民族の侵入、略奪、戦乱の絶えない世界と、平和で安定した世界のどちらがよいかといえば、後者に決まっていますから。

肥沃な土壌を持つ交易の中心地、多様な人々が行き交い、侵入し、覇権を争う土地で、平和と安定を保つのは、容易な仕事ではありません。共同体家族システムは、それをどうにか可能にしてくれるシステムであったのです。

共同体家族のイデオロギーおよび国家体制である「権威」「帝国」「専制」といったものは、現代の常識ではネガティブな価値の代表と扱われています。しかし、平和と安定を維持するという理にかなった目的のために、共同体家族の強力な凝集力がどうしても必要な状況というものがあるのだということは、頭に入れておく必要があると思います。

共同体家族・権威(専制)・帝国」の三位一体は、
多様な人々が行き交い、相争う大陸の中心地における平和と安定に大いに役立った

*余談ですが、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「帝国」の項目を見てちょっと呆れてしまいました。「通常は自国の国境を越えて多数・広大な領土や民族を強大な軍事力を背景に支配する国家をいう(大英帝国,大日本帝国など) 」というところまではよいでしょう(例示には若干疑問があります)。しかし、その次、「その原型は古代ローマ帝国にあるが…‥」というのはいかがでしょうか。古代ローマの帝政開始は紀元前27年。「帝国」一般でいえば、2000年以上遡るアッカド帝国、ハンムラビのバビロニア帝国があり、より広域の「世界帝国」の意味でも、新アッシリア帝国もあれば、アケメネス朝ペルシャ帝国もある。この後確認していくことになりますが、ローマ帝国は明らかに、こうした中東地域の遺産のもとに成り立っているのです。

権威主義の伝播と反転—古代ローマの場合

古代の文明は一貫して「東高西低」です。したがって、家族システムも、東のメソポタミアから、まずは周辺に広がり、それから西へ伝播するという順番で広がります。

具体的には、メソポタミアで「進化」したシステムは、地中海を経由し、まずはギリシャ、つぎにローマに影響を与えることになりました。

古代ローマの最古期(メソ紀2550年-)に「ゲンス」と呼ばれる氏族集団があったことが知られています。

ローマの軍事的で系統的な領土拡大は、父系のクランに他ならないゲンスの存在の結果である。ゲンスは、左右対称化されており、兄弟とイトコが左右対称の位置を占めている。ローマのゲンスは、モンゴルのクランと同じように、戦争と征服にうってつけの制度であった。

起源1・下462頁

父親の権威、兄弟の「対称化」の概念、遺産相続に見られる平等原則。古代ローマは、同居に関してはある程度柔軟であったものの4この点はメソポタミアも同じ。トッドはローマの起源において牧畜が重要であったことを記し、同居ではなく近接居住を行う遊牧民的システムを持っていた可能性を示唆している(463頁)、共和制期から帝政初期までのローマの家族システムは、共同体家族に類似するものであり、そのことが、ローマ帝国の版図拡大に寄与したと考えられます。

要するにローマはおそらく、父系制と軍人気質を組み合わせた特殊な文化を持っていたがゆえに、地中海地域の征服に成功したのだろう。

起源1・下 484頁
Detail from the Column of Marcus Aurelius 
by user Barosaurus Lentus from Finnish Wikipedia.

ところが、ローマでは、この後、父系制から双方制へ(男性の系統重視→未分化へ)、共同体性から核家族性への「退化」が起こるのです。

共和制末期から後期ローマ帝国までの、少なくとも6世紀にわたる期間に、家族関係の硬直性は緩和され、女性の自立とステータスは上昇したのである。

起源1・下 478頁

何がこのような現象をもたらしたのか。トッドはローマの地理的かつ文化的な位置に注意を促します。

ローマは確かに共同体的なシステムを持っていましたが、システムの中心地、メソポタミアからは遠く離れています。ローマは、東から押し寄せてくる伝播の波をギリギリで被る位置にあり、その北と西には、未分化の核家族システム地域が鎮座していました。

ローマのもともと脆弱であった共同体家族システムは、征服した西ヨーロッパ、そしてエジプト(古代エジプトは女性のステータスの高さと核家族性を特徴とします)の影響を受けて次第に「退化」し、核家族的なシステムに回帰していくのです。

こうして、晩期ローマに生まれた平等主義核家族システム(自由+平等)は、現在も、フランスに受け継がれています。

権威主義の弱体化がローマに何をもたらしたか。その後の歴史は、共同体家族システムの機能を雄弁に語っているように、私には思われます。

ご存知のように、ローマはメソ紀3695年(395年)に東西に分裂します。間もなく西ローマはゲルマン人の侵入による混乱の中で滅亡し(メソ紀3776年(476年))、私たちのよく知るバラバラのヨーロッパが始まります。一方、東ローマの方は、領土を減らしながらも、4753年(1453年)まで生き残り、覇権をオスマン帝国に譲り渡す。

共同体家族は「退化」したと書きましたが、今度は西から迫ってきた核家族化の波は、ローマの西部において特に強く作用したはずであり、東部には元のシステムが強く残っていたと考えるのが自然です5ローマにおける父系制の残存につき、起源1・下486頁

ローマ帝国は、共同体家族システムの作用によって生まれ、拡大し、「ローマの平和」を謳歌した。そして、核家族システムの浸透により分裂し、とくに核家族性が強かったであろう西ローマは瞬く間に砕け散った。

家族システムの変遷に着目すると、こんな世界史像を描くことができるのです。

Project Gutenberg’s Young Folks’ History of Rome, by Charlotte Mary Yonge Romulus Augustus resigns the Crown before Odoacer

ローマ帝国は東から伝播した共同体家族システムの威力で地域の征服・拡大に成功した

共同体家族は征服した広大な核家族地域の影響で退化。
西ローマ帝国はまもなく崩壊し、国家分立の西ヨーロッパが始まる

カテゴリー
トッド入門講座

家族システムの変遷-国家とイデオロギーの世界史 (1)-2 中国の事例 

目次

 

はじめに

この講座では、次回以降、ユーラシア大陸の西の中心(中東)とその周辺を舞台に、家族システムの変遷を見ていくのですが、その予行演習として最適なのが、中国の事例です。

中国では、中東と全く同様に、「原初的核家族→直系家族→共同体家族」という標準系列の進化が起こりました。

中国のシークエンスは、中東よりはコンパクトな領域内でまとまっているので、シンプルで分かりやすく、新しい分資料も豊富です。

典型的な進化の過程はどのようなものであったのか、そして、トッドがどのような事実を根拠に、その過程を跡付けているのか。

今回は、その概要をご紹介し、本編(次回以降)の準備とさせていただきます。

トッド用語の解説:
家族システムの「父系制」と女性の地位

原初的核家族から共同体家族までの「進化」の歴史は、権威が生まれ、組織が強化されていく歴史であると同時に、女性の地位が低下していく歴史でもあります。

それは、夫婦(男女)が対等である原初的状態から、次第に、夫=父親=男性が重視され、男性間の絆の強化とともに、女性の地位が貶められていく過程でもあるのです(私の主張ではなく端的な事実です。なぜこのようなことが起きるのかについては、後で考察します)。

そのため、トッドの『家族システムの起源』では、「イデオロギーなし」の原初的状態から、権威が発生し、共同体家族の確立・強化に至る過程を、「父系制の強化」という軸に載せて記述しています。

原初的核家族               ー 父系制レベル0
直系家族                 ー 父系制レベル1
共同体家族                ー 父系制レベル2
女性の地位の最大限の低下を伴う共同体家族 ー 父系制レベル3

「父系制」という表現は、必要以上に専門的な気がするので、この講座では、この父系制レベルによる区分を積極的には用いません。ただ、トッドの文章をそのまま引用するときなどに「父系制」という言葉が出てくる場合があると思います。

そこで、「父系制」とは、父親=男性をより重視する仕組みを指し、父系制レベルの上昇は、父親=男性の権威のレベルが上がり、同時に女性の地位が下がる過程であるということを、何となく頭に置いていただければと思います。

また、家族システムの「進化」と女性の地位に深い関係があることから、ある特定の時代・文化における家族システムを探る際、しばしば、当該文化における女性の扱いが重要な指標となることも、頭に入れておいてください。

出発点:原初的核家族

中国周辺の家族システムを見ると、その中心部(中国の中央)を共同体家族が占める一方で、同心円上には、直系家族(中国南東部、日本、朝鮮、ベトナム北部、中央チベットなど)、同じく同心円上の周縁部に、原初的(「絶対」でない)核家族が配置されています。

『家族システムの起源 I ユーラシア』(上160頁)

これに「周辺地域の保守性原則」を当てはめれば、中国でも、出発点には核家族があり、共同体家族は「革新」である(可能性が高い)、ということが分かるのです。

原初的核家族という出発点、それは「一切の規則がない」という状態です。

絶対核家族などの純粋核家族には、「親子の分離」という規則があり、成人した子供は親と同居しないのが原則です。

しかし、原初的な核家族では、成人した子供も、必要があれば、親と一時的に同居します。同居してもしなくても「どっちでもいい」。それこそが「原初的」であるゆえんなのです。

*トッドは「起源」の中では、私がここで「原初的核家族」と呼んでいる類型について「一時的同居を伴う核家族」という分類を用いています。

そういうわけで、最も原初的な核家族は、同居先に関してもルールを持ちません。つまり、ここでも、夫の親でも妻の親でも「どちらでも構わない」(「双方制」)。

しかし、原初的な核家族の中には、同居先に関するルールを持つものが少なからず存在します。一時的に同居する場合の「標準」があって、「父方居住」ないし「母方居住」のいずれかが原則となっている(多くは父方です)。

この「同居先の標準化」は、原初的家族システムに芽生えた「規則」の萌芽であると考えられています。

未分化な核家族はルールなし。成人した子は必要に応じて親と一時的に同居するが、同居先は夫の親でも妻の親でも構わない(双方制)

直系家族への進化(第一段階)

原初的核家族が直系家族に進化したケースで、共通に観察される現象は、土地の不足です。

農耕文明の中心地で人口が増大し、耕作に適した土地が不足する。直系家族の誕生は、多くの場合、フランスの歴史家ピエール・ショーニュの表現でいう「満員の世界」の時代と同期しているのです。

「満員の世界」と直系家族の間に機能的な連関があることは、つぎのように考えてみると簡単に分かります。

「満員の世界」。それは、成人した子どもたちが家を出ても、新たに開墾する土地がない世界です。その条件の下で、農耕民が生き延び、繁栄していくにはどうしたらいいか。

まずは、土地を分割して子供に分け与えるということが考えられますが、一世代はよくても、何度も分割すれば小さくなりすぎて、土地の利用効率は低下するでしょう。

したがって「満員の世界」では、
 ①土地を分割せずに子孫に伝えること
 ②集約的な農業によって、土地をより効率的に利用すること
の2つが必要になる。

直系家族システムが、このような世界に適合的であることは明らかといえます。直系家族とは、土地を特定の一人(多くは長子)に相続させ、彼に権威を付与することで、家長の下で集約的農業を営むことを可能にするシステムですから。

そういうわけで、中国では、メソ紀2200年(前1100年)頃1なおこの年代の正確性については「過大に受け止めないようにしよう」と特に注意が喚起されています。「これは平均的な年代ではなく、むしろ起源点を示すものである。」(起源1・上185頁)、商王朝末期および周王朝の下で、貴族の間に男性長子相続制が根付き、直系家族システムが定着したと推定されています。

なお、直系家族が生成・定着する時期に、共通に見られる現象がもう一つあります。戦乱です。

封建制中国は、紀元前722から222年〔メソ紀2578-3522〕 までの間の時間の75%を軍事活動が占めており、今日の調査で分かっている限り最も好戦的な文明のうちの一つを経験したわけである。

起源1・上185頁

直系家族、満員の世界、戦乱の3者が揃うのは、2000年後の封建制ヨーロッパ、封建制日本も同様です。

「満員の世界」が戦乱をもたらす要因でもあることは容易に想定できますが、家族システムに関しては、つぎの2つの点が重要です。

  1. 戦乱は、軍事組織の強化の必要性から、直系家族の生成を促進する。
  2. 戦乱は、同じく軍事組織強化の必要性から「長男」(男子)の選好を促す要因となる。

直系家族 誕生の背景
 ①満員の世界(人口増大で土地が不足)
 ②戦乱 

共同体家族への進化(第二段階)

直系家族への移行は、日本人には非常に理解しやすいものですが、共同体家族については、システムそのものがピンと来にくいと思います(私もです)。「進化」の過程を追うことは、システムの理解にも役立つかもしれません。

共同体家族誕生の鍵、それは遊牧民の存在なのです。

中国の場合、遊牧民と定住農耕民が相互に影響を与え合ったことで、共同体家族への発展がもたらされたと考えられています(下図参照)。  

①遊牧民における兄弟の対称性原則の確立(父系制の伝播)

遊牧生活を営む集団においても、初期の家族システムは、原初的な核家族で、「父親の権威」といったものは存在しません。

紀元前4世紀〔メソ紀29世紀〕までか、もしかしたらもう少し後まで、社会の父系的組織編成を喚起するものは何一つない」(起源・上197頁)。

起源・上197頁

しかし、メソ紀30世紀(前3世紀)になると、現在のモンゴル地方にいた匈奴の間に、父親の権威を前提とする家族組織が観測されるようになるのです。

すでに紀元前3世紀には、洗練された政治的構造化が、モンゴル地方の匈奴の許で姿を現わし、次いでトルコ人とその様々な後継者たちの許で姿を現わした。部族の左翼と右翼への割り振りと、‥‥高官たちの複雑な序列が知られている。こうした制度的発達は、より昔の「スキタイ」諸民族においては知られていない。

トッドによるLebedynsky I., Les nomade, p29からの引用(起源・上 198-199頁)

ここでは、兄弟を自動的に左翼と右翼に割り振り、平等に軍事機構(=官僚機構)の一翼を担わせるシステムが確認されているのですが、なぜこれが「父系的組織編成」(父親の権威)の証拠となるのかというと、「子供の族内での地位を自動的に割り振る」ためには、前提として、単系制(通常は父系制)が成立している必要があるからです。

* 子供が父の世帯に属するか母の世帯に属するかが決まっていないシステム(双方制)の下では、まず「どちらに属させるか」を決めなければならないことになり、彼らを自動的に左右に割り振るということはできませんね。

そういうわけで、このシステムは、「父系的組織編成を喚起する」システムです。

では、この遊牧民における「父系制」(男性の権威)はどこから来たのか。トッドは、ここに、すでに直系家族の成立を見ていた中国の影響を想定しています。

もちろん、中国ではなく、中東から来た可能性も考えられるのですが、その上で、トッドが「中国」と結論したのは、ちょうどこの時期に、東方の遊牧民が新たに軍事的優位を獲得したことが検知されているためです。

フン人〔匈奴と同系統とされている〕の出現以来、ステップの力関係は逆転する。それまで西から東へと向かっていた支配的征服の動きは、逆向きの風に取って替わられる。西に向かうウラル・アルタイ語系諸民族の拡大に他ならない。‥‥ 私としては、東の諸民族の新たな軍事的優位は、ステップ東部のクランが中国との接触によって父系変動を起こしたとする仮説によって、かなりうまく説明がつくように思えるのである。

起源・上 200頁

中国の定住民からの影響で、父系と兄弟の平等を組み合わせた遊牧民のシステムが生まれた後、相互影響のベクトルが変わります。次は、遊牧民側が、中国文明に影響を与えるのです。

直系家族の定住民の影響を経て、遊牧民の対称原則が生まれた

②共同体家族の確立(対称性原則の伝播)

中国の定住民が営んでいた直系家族の上に、遊牧民クランの特徴である兄弟の対等性を貼り付けてみて下さい。はい。これが、父親の権威の下に平等な兄弟が横に並ぶ、共同体家族システム誕生の瞬間です。

トッドは、この変化が秦で始まり、秦による中国統一の原動力となったと想定しています。

秦は地図上で全く特殊な地位を占めていた。北西にあって、ステップの遊牧民と直接接触していたのである。

起源・上 207頁

多数の蛮人部族を併合して行ったこれらすべての征服は、歴代の秦伯を北部と北西部の遊牧民…との直接の接触状態に置いた。共通紀元前4世紀の間に行われた秦伯の軍隊の大改革の原因は、おそらくこの事実に帰するべきである。… 歴代の秦伯は、…操作しにくい戦車集団を廃して、騎兵部隊に切り替えた最初の人たちだった。…歴代の秦伯が絶えず勝利を重ねることができたのは、おそらく、鈍重な戦車軍団を翻弄したこの軽装備部隊の軽快さのおかげである

トッドによるアンリ・マスペロ『古代中国』からの引用(起源・上 208頁)

もちろん、共同体家族システムの優位は、軍事的要素だけに止まるものでありません。

父系のクランは、文民社会の中に樹立された軍隊のようなものである。定住システムに投影されるとなると、それは軍隊の再編を引き起こすことになるが、純然たる行政型の合理化も引き起こすかもしれない。

対称(シンメトリー)の概念は、帝国という観念にとって本質的に重要である。国家に適用されれば、それは臣民・地方の平等性となる。土地に固定された農民ないし貴族の家族に採用されるなら、それは兄弟間の平等性として具現する。父系共同体家族の競争力の優位は、その経済的帰結の中に存するのではなく、文民的ないし軍事的な組織編成に関わる含意の中に存するのである。

起源・上 208-209

中国は、メソ紀29世紀(前4世紀)頃の匈奴を皮切りに、46-47(13~14)世紀のモンゴル、50(17)世紀の満州人に至るまで、遊牧民との相互行動を繰り返し経験しています。

これらの集団はみな、同じ家族システムを担っていたわけですから、中国にとって、「クラン的対称という遊牧民の原則は、何度も何度も繰り返し叩き込まれた教訓だったのである」(209頁)。

親子の権威的関係(直系家族)と兄弟の対称性(遊牧民)が合体し、
共同体家族システム(権威と平等)が生まれた

女性の地位の低下(最終形)

システムというものは、「成立すればそれで終わり」ではありません。定着してからの時間の中で、強化されたり、減弱したりするものです。

中国の場合には、メソ紀3100-3200年頃(前200年-100年頃)に共同体家族が登場した後、遊牧民との相互行動の繰り返しなどを経て漸次システムが強化され、メソ紀4200年から4250年(900年から950年)頃には、女性の地位の最大限の低下を伴う、強固な共同体家族システムを持つ社会になりました(この頃、女性の纏足の習慣が生まれます)。

さしあたり、これが、中国における「進化」の最終形です。 

女性の地位の最大限に低下した共同体家族が「進化」の最終形

ユーラシア大陸の西側で展開される世界史は、これよりも少し複雑なものになりますが、このサイクルが基本である点には違いがありません。

したがって、これを頭に置いていただくと、メソポタミアからはじまる世界史がぐっと分かりやすくなるはずです。

それでは、いよいよ、時代をさらに数千年遡り、メソポタミアに移動しましょう。

カテゴリー
トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(1)イントロダクション

 

はじめに

(1)家族システムは「進化」する

家族システムは変化します。しかし、人類が自分の意思で変えられるかというと、変えられない。私たちにできるのは、基本的に、知ること、理解することだけです。

家族システムの変遷は、生物進化の過程とよく似ています。当人たちの意思とは無関係に変化が起こり、環境に適したものが生き残り、数を増やしていく。そして、その「進化」は、人類の無意識を通じて、世界を変えていきます。 

家族システムは、生物進化に似た過程を経て、多様性を獲得した

(2)周辺地域の保守性原則

家族システムとイデオロギーの相関性を発見した当初、トッドは、その多様性や分布は単なる偶然であると考えていたようです。

いかなる規則、いかなる論理とも関係なく地球上に散らばっているように見える諸家族構造の配置が示す地理的一貫性の欠如は、それ自体ひとつの重要な結論なのである。この一貫性の欠如は、社会科学によって疑わしいものとして捉えられているが、遺伝学によって次第に認められてきたあるひとつの概念を想起させるものである。つまり偶然という概念を。

『世界の多様性』292頁(「第三惑星」最終章 「偶然」)

ところが、トッドが友人である言語学者(ローラン・サガール)に「第三惑星」を見せると、彼はつぎのように言ったのです。

他の部分は実に興味深い。しかし、「偶然」の部分で言っていることは、いい加減だ。周縁地域の保守性原則を承知している研究者なら、君の言う共同体型というやつ、ここに赤だかベージュで塗られているのは、一続きの中央部的塊をなしており、濃い緑の直系型や青や薄緑の核家族型は、周縁部に分散しているということを、すぐに見て取るはずだ。これからすると、何らかの時期に、ユーラシアのどこかの中心点で共同体型への転換という革新が起こり、それが周縁部へと広がって行ったが、まだ空間全体をすっかり覆い尽くしてはいない、ということであるのは明白だ 

『家族システムの起源 I ユーラシア 上』31頁 脚注6(以下「起源」で引用します)
ローラン・サガールが見た地図(『世界の多様性』巻末)
 赤が外婚制共同体家族、ベージュが内婚制共同体家族

〔周辺地域の保守性原則とは〕

上が 「周辺地域の保守性原則」の説明図です。

家族システムの分布図でいうと、
  特徴Bー共同体家族システム
  特徴Aー核家族システム(や直系家族システム)

となりますから、その示唆するところは明白です。

中心に広がる共同体家族は「何らかの革新が広がったもの」であり、周縁地域に残る核家族は、「空間全体でかつて支配的であった特徴の残存である可能性が高い」。

そのような事実を明瞭に示しているのです。

トッドは、家族システムの何たるかもまったく知らないサガールが、ただ単に地図上の地域の色と配置だけを見て、トッドの研究主題の核心を言い当てたことにショックを受けつつも、これを受け入れました(「彼の立論は論理的に反論の余地のないものだった」と述べています。)。(同前)1この直後に彼らは共同で論文を執筆している。E. TODD, Laurent SAGARD, Une hypothèse sur I’origine du système familial communautaire, in Diogène, no 160, octobre-décembre 1992.(邦訳は「新人類史序説ー共同体家族システムの起源」(石崎晴己・東松秀雄訳)として『世界像革命』(藤原書店, 2001年)に掲載されている。)

そして、この「ブリコラージュ」のおかげで、そして彼らの友情のおかげで、私たちは、「家族システムとイデオロギーの相関性」という、血液型占い的な(?)世界を大きく超えて、人類学を基礎とした世界史の書き換えという壮大なヴィジョンを見せてもらえることになりました。

ありがたいことですね。

家族システムの分布は、共同体家族システムが「革新」であり、核家族システムが古いシステムの残存であることを示唆している

(3)家族システム、国家、イデオロギー

この講座では、家族システムの変遷が世界史を動かす様を、主に「国家」に着目して見ていきます。

なお、トッド自身は、家族システムと歴史的国家形態との関係を体系的に論じたことはありません。したがって、今回の講座は、「トッドの理論は、誰にでも使える」という謳い文句に従い、トッドの理論の紹介と、講師自身の「使用例」を兼ねたものとしてお読みいただければと思います。

国家の歴史は、世界史の教科書的常識では、神権政治による専制国家から民主主義による近代国家(国民国家)への発展の歴史と捉えられています。

しかし、家族システムが「大家族から核家族へ」ではなく「核家族から共同体家族へ」進化したことを知っている私たちには、このシークエンスは、間違いなく「眉唾物」です。

次のような仮説が芽生えてくるのは、どうしても避けられないと思います。

家族システムの進化が「核家族→共同体家族」であったという事実は、
国家が「自由→専制」に向けて発展したという事実を示唆しているのではないか?

そこで、この講座では、社会の基底における「核家族から共同体家族へ」の進化を追いながら、その上部で「国家」がどのような変化を遂げたのかを確かめてまいります。

この探究の旅は、必ずや、「専制主義から自由主義へ」という単純な(あるいは偏狭な)近代主義とは異なる、複合的で、より公平な、世界の見方を可能にしてくれる旅となるでしょう。

家族システムの進化に関するトッドの理論は、国家の歴史が「専制から自由へ」ではなく「自由から専制へ」発展したという仮説を導く

「進化」の概要

(1)6000年の歴史—メソポタミア紀の導入

家族システムの歴史は、メソポタミアから始まります。

実際のところ、「進化」の大部分は(すべてではありません)、紀元前4000年紀から1000年紀の間に、完了しているのです。

現在の「西側」諸国(核家族か直系家族です)と、中東やロシア、中国(すべて共同体家族)が分かり合えないこと、とりわけ、前者が後者を全く理解できない理由の一つは、おそらく、この時期の歴史が「常識」から抜け落ちていることにあります。

多様な家族システム同士の相互理解を可能にするためには、西欧が活躍を始めたここ数百年の歴史を切り取るのではなく、約6000年の文明の歴史を視野に入れて、それぞれのシステムを捉える必要があるのです。

そこで、この講座では、視野を広げるための一つの方法として、「メソポタミア紀」という新しい暦を導入することにしました(「メソ紀」と略します)。

紀元は、紀元前3300年、メソポタミアにおいて文字が生まれたとされる年とします(年代は諸説あります)。

 メソ紀   元年  楔形文字誕生
 メソ紀 2000年    中国で文字誕生
 メソ紀 3300年    イエス生誕
 メソ紀 3870年  ムハンマド生誕
 メソ紀 4817年  ルター 95箇条の論題(宗教改革開始)
 メソ紀 4940年  イギリス革命開始
 メソ紀 5214年  第一次世界大戦勃発
 メソ紀 5245年  第二次世界大戦終了

私がこれを書いている西暦2022年はメソ紀5322年となります(本文では西暦を併記します)。

多様な家族システムが織りなす歴史を理解するには、6000年を視野に入れることが欠かせない

(2)家族システム、イデオロギー、国家の対応関係(標準系列)

(表1)をご覧ください。進化の方向は上から下です。

親子関係兄弟関係国家形態
原初的核家族不定(イデオロギーなし)不定(イデオロギーなし)なし
直系家族権威不平等都市国家 / 封建制 
共同体家族 権威平等帝国
(表1)家族システムの「進化」と国家

出発点は、原初的な核家族です。文字や国家の誕生以前、社会の基礎単位は夫婦(+子供)であったと考えられています。

この家族の特色は何よりも柔軟性にあります。子どもが成人した後も親子は必要があれば同居し、同居先は母方でも父方でも、兄弟でも構わない。規則がないのです。

この家族システムは、イデオロギーの未分化状態(まだ生まれていない状態)に対応しています。対応する価値を探せば「自由」が一番近いと言えますが、イデオロギーとしての「自由」とは異なる、野放図な自由です。

関係性を律する規則を持たないこの家族システムは、国家を生み出すことはありません。

原初的核家族からの最初の進化は、通常、直系家族をもたらします(メカニズムは次回ご紹介します)。

直系家族システムの誕生とは、一言で言うと、「世代をつなぐ一本の線」の誕生です。一本の縦のラインが親と子をつなぐことで「権威」が発生し、兄弟姉妹から一人だけが跡継ぎとなることで「不平等」が生まれる。そういう構造です。

歴史は、関係性が一本の線で構造化されたこの段階で、小規模の国家が可能になることを教えます。しかし、縦のラインが林立するこのシステムの上に、それほど大きな国家が形成されることはありません。

メソポタミアや中国といった文明の中心地では、直系家族は、まもなく、共同体家族に進化を遂げました。

親世代と子の世代をつなぐ縦のライン(権威)を直系家族から受け継ぎ、下半分に子どもたちを対称に配置する(平等)騎馬戦隊構造を持つこのシステムは、その基層の上に、統一国家や「帝国」の誕生を可能にします。そして、システムの強化とともに、帝国の版図は広がっていくのです。

*この講座では、帝国を「一つのシステムによって多民族・多言語・多宗教の人々を統合する版図の大きな国家」と定義します。
(小杉泰『イスラーム帝国のジハード』(講談社学術文庫、2016年)の定義を参考にしました。ただし、同書は「一つのシステム」ではなく「大きな原理」です)。

こうしてみると、家族システムの「進化」の過程とは、「権威」という価値が生まれ、強化されていく過程であることが分かります。「権威」の発生により、初めて、文字が生まれ、国家が生まれる。そして「権威」の強化によって初めて、「帝国」が可能になるのです。

近代主義の洗礼を受けている私たちに、「権威」や「帝国」を価値として認めるのは難しいかもしれません。しかし、メソポタミアに暮らしていた人々にとって、「帝国」の誕生は、福音以外の何ものでもなかったはずです。

多様な民族が行き交い、さまざまな宗教や言語、文化を生んだこの地域では、中央の権力が強まり、帝国の版図が広がることは、その分だけ、庶民の生活が安定し、平和になることを意味します。中央の統制が効く範囲が広ければ広いほど、交通の自由と安全が確保される範囲が広がり、異民族による侵略や略奪の危険性は減るわけですから。

それを可能にしたものが、共同体家族の「権威」であり、権威を頂く人々の「平等」にほかなりません。後でご紹介するように、ローマ帝国やオスマン帝国の長い平和も、共同体家族なしにはあり得なかったといえるのです。

さて、ここまでが、家族システムの「進化」の基本です。‥‥あれ、何か足りませんか。

はい、そうです。ここには、近代の主役であるイギリス、アメリカなどの絶対核家族システムが入っていません。

なぜかといいますと、実は、絶対核家族(平等主義核家族もこの点は大体同じです)の発生は、通常の進化系列からは外れた、ちょっと特殊なものなのです。

*以下、絶対核家族と平等核家族を合わせて「純粋核家族」の語を用いることがあります(トッドが「起源」で用いている用語です)。「ひたすら柔軟な原初的核家族」とは異なり、「核家族であることをイデオロギー化した核家族」(イデオロギーとして純化した核家族)という意味です。 

家族システムの進化の基本は、原初的核家族→直系家族→共同体家族。
権威が誕生し強化されていく過程である

純粋核家族の発生は、通常の進化系列から外れた特殊な事例

(3)家族システム、イデオロギー、国家の対応関係(+純粋核家族)

親子関係兄弟関係国家形態
原初的核家族不定(イデオロギーなし)不定(イデオロギーなし)なし
直系家族権威不平等都市国家 / 封建制 
共同体家族 権威平等帝国
純粋核家族(+直系家族)自由非平等(絶対)
平等(平等)
国民国家
(表2)家族システムの「進化」と国家+α

先ほどご説明した通り、イデオロギーの未分化状態である原初的核家族は、国家を生み出しません。

しかし、彼らがバラバラに暮らしているところに、直系家族がやってきて、国を作ったとすると、どうなるか。

核家族は国家的統合の核を作り出さないので、直系家族の国家との覇権争いや小国の分立状態を生じさせることはありません。彼らは単に、直系家族が作る領邦(小国)の領民になるわけです。

イデオロギーを持たなかった彼らは、しかし、初めて直系家族が持つ価値体系に触れ、それに対抗する形で、自らの価値体系を作り出すのです。

直系家族の支配下に入った原初的核家族が、
直系家族に対抗する形で作り出したのが絶対核家族システム

〔純粋核家族の国家〕 

純粋核家族に対応する国家は、国民国家(=近代国家)である、と私は理解しています。

以下のような「国民国家」の特徴には、明らかに、「直系家族によって国家の形を与えられた純粋核家族の国家」という特殊性が反映されていると考えられるからです。

(1)手頃なサイズ 直系家族が作る小国家に核家族が組み込まれることで、都市国家や領邦国家ほど小さくないが「帝国」ほど大きくない、手頃なサイズが実現

(2)「国民」概念 「直系家族+純粋核家族」が作る国家は(細かいことを言うと)単一民族ではないが、あえて「多民族」というほど、言語や宗教、文化の多様性があるわけでもない。「国民」概念にちょうどよくフィットする

(3)反権威イデオロギー 近代国家の最大の特徴である「国家権力への敵意の構造化」(「権力からの自由」としての基本的人権、権力を拘束するための法の支配)は、「支配を受ける側」のイデオロギーを構造化したものとして理解可能

現代の「西側」諸国の価値観は、基本的に、純粋核家族のイデオロギーを反映しています。「国民国家」のスタンダードもそうです。

しかし、それは果たして、普遍性を持ちうるのか。将来にわたって、世界の中心に位置し続けることができるものなのか。

そのようなことも考えながら、続きをお読みいただければと思います。

「国民国家」(近代国家)の基礎にあるのは、純粋核家族のイデオロギー(≒ 支配層への敵意)

カテゴリー
トッド入門講座

家族システムについてのよくある誤解

 

*この文章は、家族システムの概念に関する「やや立ち入った解説」です。概要についてはこちらをご覧ください。

「家族システムとは?」

家族システムの分析は、20世紀初頭から、非西欧、非先進社会の成り立ちを知るための人類学研究として開始されました(人類学では「親族構造」「親族システム」と総称されることが多いようです)。

20世紀中頃になると、歴史学もこれを用いるようになり、「歴史家」エマニュエル・トッドも、その流れの中で、家族構造の研究をすることになったわけですが、彼が家族システムと現代のイデオロギーとの関連性を「発見」するに及び、改めて、本質的な問いが浮かび上がってくることとなりました。

「家族システムって、何なんだ?」

人々の絆の中心に家族関係、親族関係がある未開社会では、家族システムの分析がイコール社会システムの分析になるのは当然です。

しかし、現代はそうではありませんね。古い家族の構造は壊れ、ほとんどの国で、現実の家族は(少なくとも都市部では)核家族がスタンダードになりました。

それでもなお、家族システムが機能しているとしたら、家族システムとは、一体、何なのでしょうか?

家族システムは「家族」のシステムではない

トッドの理論に対するよくある誤解の一つに、「トッドの理論は家族を重視している」というものがあります。当初の「保守反動」といった反発の背景には、おそらく、この誤解があったと考えられます。

私も、日常会話の延長で軽くトッドの理論に触れたときなどに、「やっぱり、家族は大事だから、そういう影響力があっても当然だよね」といった感想を受け取ることがあります。

しかし、トッドのいう「家族システム」は、現実の家族のあり様を指しているわけではない。これは重要な点です。

「家庭生活のあり方が社会のイデオロギーを決定している」とか、「過去の親族関係や家庭生活の記憶が社会のイデオロギーとなって残っている」とか、そういうことを言っているのではないのです。

では、何なのか。

人類は、配偶者を得て、子供を作り、育てる。食料を確保し、外敵から身を守り、生き延びるために、協力し合う。そのようなやり方で、種をつないでいく生物です。

そのために、人類が形成する相互扶助のネットワークが「社会」であるとすると、家族システムは、その「社会」の設計図に相当する機能を果たすものといえます。人間と人間、世代と世代をどうつなぐかを定義する。そして、そのことによって、社会の基層に一定の価値観を埋め込む。それが家族システムである、といってよいでしょう。(家族システムについての講師(私)の解釈については、こちらもご覧ください)。

近代化によって伝統的な家族が壊れても、家族システムは変わらず、社会の基盤を支え続けます。だからこそ、近代化後の社会に住む私たちは、イデオロギーという形で、それを感知することができるのです。

農村の家族によって「人類学システム」を可視化する

トッドが「日本の家族システムは直系家族である」というとき、その判断の根拠とされているのは、近代化以前の日本の家族に関するデータです。他の地域の場合も、彼は、農村時代の家族についての情報を集めることで、その社会の家族システムを検知するという手法を用います。

これが「家族を重視する理論である」という誤解のもとになっているわけですね。しかし、彼が伝統的家族を研究対象とするのは、伝統的家族を重視しているからではありません。

彼が、現代ではなく農村時代を研究対象とするのは、単に、農村という場所が、社会の設計図(家族システム)が一番見えやすく、分析しやすい場所であるからです。

「‥‥農村世界を観察現場にするという選択は、ヨーロッパのさまざまな地域の家族制度の中から、平等と不平等、権威と自由主義という諸価値を同一の方法で突きとめるための単純な指標を決定しなければならないという、技術的必要からなされたものである。」

新ヨーロッパ大全 I 47頁

近代化以前、社会の中心にあり、相互扶助のすべての機能を担っていたのは、家族であり、親族のネットワークでした。人々をどう繋ぎ、社会をどう組織するか、その基礎となる価値観は、すべて、家族のつながりの中に表れていたわけです。

一方、現代の多くの社会では、人類の生存、生殖、種の繁栄に必要な相互扶助機能の中心には、国家があり、国家の枠に包摂された様々な組織があります。

しかし、トッドが農村世界を観察して検知する「非物質的だが不動の諸価値の総体」(前掲書47頁)としての家族システムは、こうした目に見える社会形態の変化にかかわらず、現代の社会においても「設計図」として機能し続けているようなのです。

こうなると、「家族システム」という名称が、ややミスリーディングだという感じすらしてきます。

実際、トッドも、つぎのように述べているのです。

「フランス、アメリカ合衆国、イングランド、ドイツ、もしくは日本のような、同じような発展水準を見せる諸社会の間に、風俗慣習の差異が存続しているのはなぜかを説明するために、必ずやいつの日か、家族システムという観念を廃して、代わりに人類学的システムという観念を採用することが必要になるであろう。」

『デモクラシー以後』 277頁

私は、家族システムとして特定された人類学的差異が、現代においても変わらず作用していることを確信しています。かつて現実の家族を統率していたシステムは、現在、社会を統率しているシステムと同じものであり、「人類学的システム」と呼ぶに相応しいものであると確信しています。

しかし、ここでは、「厳密に実証できないことはあまり価値がないのであり、結論を出すには、今後の歴史の推移を待たなければならないだろう」(同前)というトッドの研究者としての慎重な立場を尊重し、「家族システム」の語を使い続けることにしようと思います(そういいつつ、トッドも「人類学」の語を使っている場合があるので、引用部分では混ざります)。

家族システムは、無意識のレベルで作用する

すでに何度か述べたことですが、家族システムは、社会の集合的心性の無意識レベルで作用し、「上部構造」をもっとも根本的なところで規定しています。

トッド自身の言葉で説明してもらいましょう。

「表層部には、意識的なもの、つまり経済〔等〕がある。」

「そのすぐ下には、教育上の階層組織とその動きによって規定される社会的下意識とも言うべきものが見出されるが、これは、経済より強い決定作用を発揮する。大衆識字化は、社会に平等主義的下意識を付与し、民主制を招来した。今日では新たな教育上の階層組織が形成され、不平等主義的下意識を育む傾向を見せている。」

「さらにその下に行くと、全く無意識的な深層部となるが、そこでは人類学的システムが作用している。このシステムは、過去に遡って、昔の家族構造を探ることによって把握することができるが、今日では拡散している。この人類学的システムは、変化することがあり得るのであり、その変化は、決定的だが非常に制御不可能である。」

デモクラシー以後 278頁

エマニュエル・トッドの道具箱ー家族システム、教育、人口動態」でご説明したように、家族システムは、現代の社会の政治的イデオロギー、経済システム、教育のあり方、人口の再生産、差別の態様など、あらゆる事柄を説明します。

そうすると、次に来る問いは、当然、「家族システムは、変化しないの?」というものでしょう。

家族システムの変化ー予告編

「道具箱」では、社会の「進歩」の動因として、教育が重要であることを述べました。家族システムについては、「核家族から共同体家族へ発展した」「核家族がもっとも原始的なシステムである」旨を、比較的あっさりと記述していました。

しかし、それほど本源的なものである家族システムが、もし変化するのだとしたら、そして、その変化を跡付けることができるのだとしたら、それこそが、歴史の流れを、根底から説明するものになるはずではないでしょうか。

私はしばらくの間、直系家族日本と欧米核家族地域の人類学的相違を理解し、咀嚼することでいっぱいいっぱいで(それだけで満足だったという面もあります)、メソポタミアおよび中国における共同体家族の誕生が、世界の歴史にとってどのように重要か、といったことまでは、理解が行き届いていませんでした。

しかし、最近、いくつかの偶然のおかげで、急にスイッチが切り替わり、改めて『家族システムの起源』を読んだところ、頭の中に大変スケールの大きい歴史像が描かれた上、その先に、現在の様々な事象がつながっている様が、ありありと理解できるようになりました。

興奮を呼ぶ(?)その内容は、次回、「家族システムの変遷―国家とイデオロギーの世界史―」で、ご紹介させていただきます。

 

カテゴリー
トッド入門講座

エマニュエル・トッドの道具箱
ー家族システム、教育、人口動態

はじめに

エマニュエル・トッドは1976年の著書でソ連崩壊(1991年)を予言して、その名を世に知られるようになりました。

予言はその後も続き、2007年の著書では「アラブの春」(2009年~)を、2014年のインタビューではイギリスのEU離脱(国民投票は2016年)を、2002年以降の一連の著書では金融危機(2008年)からトランプ大統領選出に至るアメリカの危機を予測しています。

トッドは好んで自らを「ブリコラージュ屋」と称します。「ブリコラージュ(bricolage)」の原義は「日曜大工」。素人がガラクタでも何でも使って器用に物を作る、といったニュアンスの言葉です。

一見、自身を卑下するようなこの言い回しには、大袈裟な理論体系を打ち立てながら現実に触れることができないアカデミズムへの皮肉が込められているのだと私は理解しています。

実際、トッドが世界を観察するのに使っている道具は、比較的簡単なものです(以下に「予言」の根拠をまとめました)。しかし、その簡素な道具立てから驚きの「予言」が生まれ、真実に触れる命題の数々が発掘されるのですから、私たちも是非それを手に入れて使ってみたいではないですか。

予想した事象根拠とした指標
ソ連崩壊人口動態(乳児死亡率の上昇)
アラブの春識字率、人口動態(出生率低下)
BREXIT家族システム
アメリカの危機人口動態(白人45~54歳の死亡率上昇)

今回は、トッドの理論の概要をお伝えしつつ、道具箱の中身を一挙にご紹介させていただきます。

 

概要3種の道具

トッドの社会科学に対する功績は、以下の3点にまとめることができます。(トッドの功績についてはこちらもぜひご覧ください。)

①家族システムとイデオロギーの相関関係を発見・解明した。
②教育の進展を基礎とした発展モデルを構築した。
③家族システムの発展過程を跡付け、人間理性を中心とした啓蒙主義的歴史観や経済を中心とする歴史観に代わる人類学的歴史観を構築した。

こう書くと、体系的に物を考える思想家の仕事のようですが、実際はたぶんこんな感じです。

「家族システムの威力、すごくない?」

『第三惑星』執筆時

「これに識字率と人口動態のデータを組み合わせたら、近代化の過程が手にとるように分かるじゃないか」
    

『世界の幼少期』執筆時

「家族システムの分布は偶然かと思ったが違うのか。共同体家族が「革新」で、核家族が原型? えっ? これって、全世界史の流れを書き換える大発見かも‥」

「新人類史序説」(『世界像革命』所収)から『家族システムの起源』

と、このようにして、トッドがその価値を発見し、使用法を確立していったのが、家族システム、教育、人口動態 の三種類のデータです。

この3つは、大まかに言うと下の図のような感じで、社会の診断に役立てられます。

 

上記の「予言」についていうと、トッドは、人口動態のデータ(乳児死亡率・成人死亡率の上昇)を見て、ソ連、アメリカの社会の健全性が損なわれていることを察知しました。識字率の上昇人口動態(出生率の低下)からアラブの近代化を確認し、イギリスの家族システム(絶対核家族)が、EUの多数および中核を占めるシステム(ドイツなどの直系家族)と異なることから「体質的に耐えられない」と判断したのです。

 

家族システム

(1)家族システムとは何か

トッド自身は定義をしていませんが、「概要」としてお伝えする都合上、私の言葉で説明させていただきます。

人類は、配偶者を得て、子供を作り、育て、知恵なり財産なりの価値あるものを伝承することで、種として生存します。この一連の過程、つまり、人類の婚姻と世代継起のあり方に関する慣習的なルールの体系、それが家族システムである、とお考えください。

人類学による家族システムの研究は主に未開社会の研究で発達したものですが、トッドはこれを近代社会の分析に応用して大きな成果を上げました。彼の「ブリコラージュ」の最高傑作の一つといえます。

なお、以下でいう「家族システム」」は、近代化する前の社会で観察されたシステムであることをお断りしておきます。家族システムは人類の社会を統合するシステムであり、現代でも機能を続けていると考えられるのですが、近代化後の社会ではその機能の中心は家族から公共空間に移行し、家族という場での観察は難しくなっているからです。

 

(2)家族システムとイデオロギー

①家族システムの定義

家族システムとイデオロギーの相関関係を示す際に用いられる主な項目は親子関係と兄弟関係の2つです。それぞれが2つに分かれ、4種の家族システムを定義します。

 

表現される価値判断基準
親子関係自由 / 権威同居の規則(三世代同居の有無)
兄弟関係平等 / 非平等相続慣習

ルールは次の通りです。

1)親子関係は社会の縦の関係を規律する

  • 自由主義的か権威主義的かの二択
  • 判断基準は同居の規則
    • 親子の分離(子どもが成人すると直ちに別世帯を作る)→自由主義
    • 親子の同居(成人後も親世帯にとどまる)→権威主義

2)兄弟関係は、社会の横の関係を規律する

  • 平等か非平等(不平等)か
  • 判断基準は相続慣習
    • 兄弟に平等に遺産を配分 → 平等主義
    • 長子相続、末子相続など特定の一人を優遇 → 不平等(差異を固定)
    • ルールが存在せず、親が恣意的に決定 → 非平等(平等に無関心)

 

親子関係兄弟関係
①絶対核家族(英、米)自由非平等
②平等主義核家族(仏、西)自由平等
③直系家族(日、韓、独)権威不平等
④共同体家族(アラブ、中、露)権威平等

②4つの家族システム

1) 絶対核家族:自由 (イギリス他のアングロサクソン諸国、オランダ、デンマーク等)

子どもたちは早期に独立し(親子関係が自由主義的)、厳密な相続規範がなく遺言が使用される(兄弟間の平等に無関心)。親子の自由、兄弟間の連帯の不存在によって、家族システムの中でもっとも個人主義的。

2) 平等主義核家族:自由と平等 (フランス、スペイン、南米問等)

親子関係の自由は絶対核家族と同様だが、厳密な相続規則が兄弟の平等を保証している。成人後も(少なくとも親が死ぬまでは)兄弟間の関係が続く分、絶対核家族より個人主義の度合いが低い。

3) 直系家族:権威と不平等 (日本、韓国、ドイツ、スウェーデン等)

跡取りとなる子(多くは長男だが末子の場合も女子の場合もある)は結婚しても親と同居(長期に渡り親の権威の下に置かれる)。土地や主要な財産は全て跡取りのものであり、他の兄弟姉妹は下位に位置付けられる(安定的な継承のために兄弟関係の不平等が規範となる)。家系の継続を眼目とするシステム。

4) 共同体家族:権威と平等 (アラブ諸国、ロシア、中国、ベトナム等)

親子間の権威主義と兄弟の平等の組合わせ。兄弟は結婚後も全員妻とともに親と同居する。兄弟世帯の同居による横の広がりと三世代同居の縦の広がりによる大規模な家族構造の頂点に父親が君臨する形であり、親の権威は絶大。兄弟に序列がないため、父親の死が直ちに集団の危機につながる不安定性を持つ。

*二種類の共同体家族

共同体家族は、アラブ圏と中国・ロシアの家族システムですが、両者の間には重要な違いがあります。婚姻制度です。

中国・ロシアは多くの国と同様に外婚制(いとこ婚を認めない)です(共産主義はこちらに対応します)。これに対し、アラブ圏ではいとこ同士の結婚が好んで行われます。この内婚の規則が、共同体家族の苛烈さを和らげる機能を果たしているとトッドは指摘しています。

一つは、大規模家族の頂点に君臨する父親の絶大な権威の性質です。アラブ的内婚には「理想」があり、それは父の兄弟の娘(叔父方のいとこ)との結婚です。このような理想の存在は、子どもの結婚という重大事を決めるのが父親個人というよりは慣習であることを示しています。つまり、内婚制共同体家族では、強大な権威の源は父親の人格というより「慣習」である。その分だけ、現実の父親(リーダー)が行使する権威の力は緩和されているといえます。

もう一つは女性の立場です。共同体家族では(ただでさえ地位の低い)女性は男性優位の大家族の中に後から一人で入っていかなければならないという厳しい立場にあります。しかし、いとこ同士なら、女性は子どもの頃からよく知っている叔父の家に嫁ぐわけで、温かみのある家族の絆のうちにとどまることができる。同じ大家族でも、雰囲気はずいぶんと異なるのです。

権威の源が慣習であること、女性を家族の絆から排除しない仕組みは、集団の安定性にも寄与しているように思えます。その意味では、家族システムの「発達」の頂点といえるのは、内婚制共同体家族の方なのかもしれません。

(3)家族システムの使い道

家族システムは、教育の進展や人口動態という他の指標と合わせて使うことで絶大な威力を発揮しますが、単体でもかなりの役をこなします。

例えば、アメリカは共産主義の拡大を防ぐという名目で数多くの戦争を戦いました。ベトナム戦争のときには、ベトナムだけでなく、カンボジアやラオスにまで戦線を広げ大量の爆弾を投下しましたが、家族システムを見れば、ベトナムの共産主義化が必然的である一方で、カンボジアやラオスに共産主義が定着するおそれはないということが分かります(北ベトナムは外婚制共同体家族、カンボジア、ラオスは核家族です)。

また、バイデン大統領は、「自由と専制主義の戦い」を強調し、「民主主義サミット」などというものまで開催して自由主義陣営の拡大を図っています。しかし、アメリカがどれだけ頑張っても、ロシアや中国が権威主義的な体制を放棄することはないし、中東が、やはりある種の権威主義的システムを保ち続けるであろうことも間違いないと思われます。

ロシアや中国(程度の差はあれ日本もですが)が権威的な社会しか作ることができないのは、アメリカやイギリスが自由な社会しか作れないのと全く同じ理由です。だとしたら、私たちにできることは一つしかない。異なる価値観の存在を受け入れることです。

人間は社会に属さなければ生きられない動物です。したがって、私たちは、自分の所属する社会の「体質」を引き受けるしかないし、世界に多様な家族システムがある以上、世界の多様性を引き受けるしかない。自分の社会を愛し、誇りに思うのは自然なことですが、それは同時に、他のシステムの価値観を尊重しなければならないということでもあるのです。

 

キーワード教育人口の再生産民主主義の形経済差別
絶対核家族自由、個人主義、社会的移動△(規律のなさ+女性の地位)リベラルデモクラシー(政権交代型)超自由主義、流動性、革新、短期的利益差異に無頓着(差別を温存)
平等主義核家族自由と平等、個人主義、連帯△(規律の無さ+女性の地位)リベラルデモクラシー平等志向の自由主義差異を否認(一時的に激しい差別)
直系家族秩序、規律、序列、家族的集団主義、歴史意識○(規律+女性への一定の敬意)×(教育熱心+女性の抑圧)安定志向のデモクラシー(政権交代稀)保護主義、継続性、技術の完成、高品質、貯蓄差異による秩序(差別を創出・固定化)
共同体家族統制、強い権威と人民の平等△〜○(規律+女性蔑視〜規律+女性の地位(ロシア))権力集中型デモクラシー中央による統制差異を否認(一時的に激しい差別、

*なお、市民間の平等の指標である「兄弟」は、男の兄弟だけを指す場合もあるので、性差別の指標にはなりません。核家族から共同体家族に至る過程は、父親の権威を高める過程であると同時に、体系的に女性の地位を下げる過程です。したがって性差別の指標となるのは親子関係の方であることになります(ロシアの例外は北欧の影響だということです)。

(4)家族システムの原型ー未分化の核家族と絶対核家族

 

①核家族から共同体家族へ

現存する(あるいは比較的最近まで現存した)狩猟採集民族集団の研究によって、家族システムの原型がどんなものであったかはおおよそ分かっています。

基礎的な単位は婚姻したカップルの二人。つまり、核家族です。この原初的な核家族の周りに、緩やかにつながる親族集団がある、というのが、原初的な集団の基本のあり方だそうです。

トッドの研究は、家族システムは、このような核家族から、直系家族等を経て、最も発達した形態である共同体家族に展開していったことを明らかにしています(『家族システムの起源』)。

つまり、もっとも近代的で発達した家族システムであると考えられている核家族が、実はもっとも原始的なシステムであった。この逆説こそが、単純な西欧中心主義的な進歩史観に代わる新しい歴史観の基礎となる、重要な命題です。

とはいえ、イギリスの核家族と原初的な核家族が同じものなのかといえば、そうではありません。トッドの著書でもあまり丁寧な説明はされていないのですが、家族システムの理論を使いこなすためには重要な点なので、最初に説明をさせていただきます。

 

②未分化の核家族と絶対核家族柔軟性と形式性

未分化の核家族と絶対核家族(および平等主義核家族)は、基本単位が夫婦であること、女性のステータスが高いこと、(個人と集団の)移動性が高いことなどの共通の特徴を持ちます。したがって「自由」のイデオロギーは共通です。

違いは「型」の有無にあります。

未分化の核家族の場合、基本の単位は夫婦なのですが、カップルは二人で暮らして子どもを育てることもあるし、妻の家族の誰か、あるいは夫の家族の誰かと同居する場合もある。状況に応じていかようにもなる柔軟性、「型」の不存在こそが、「未分化の核家族」とも呼ばれる原初的家族の特徴です。

これに対し、絶対核家族の方は、核家族であることを「絶対」、つまりルールとします。もちろん現実には例外がありますが、絶対核家族には、子どもは成人すれば家を出て、別世帯を営む「べき」という規範があり、できるだけこれを守ろうとする。「親子関係の自由」は彼らにとっての規範であり、相互に拘束する自由はないのです。

イギリスの絶対核家族が確立したのは16世紀から17世紀頃、つまり、特別に「古い」というわけではありません。絶対核家族は、貴族階級に定着しつつあった直系家族(貴族階級はその地位や財産を安定的に継承するために直系家族を営む理由があります)への反動としてでき上がったもので、だからこそ「こうでなければならない」という形式性があるのです。

③「柔軟」の弱点秩序も重要だ

イギリスがいち早く近代化の道を歩み始めたのは、核家族というシステムの(直系家族や共同体家族と比較した場合の)柔軟性と関係があります。では、家族システムは柔軟なら柔軟なほどよいのかというと、少なくとも現代の社会のあり方を前提とする限り、そうとはいえません。

世界には、未分化な核家族システムを持つ地域も存在していますが、それらの地域には共通の弱点が観察されています。未分化な核家族システムは、おそらくその過度の柔軟性のゆえに、安定的な中央集権国家を機能させることができないようなのです。

例えば、ベルギー、そしてポーランド、ルーマニア、ウクライナという「中間ヨーロッパ」(トッドが用いる言葉ですが、西と東の「中間」という意味でしょう)。西欧中心主義的な価値観は自由を絶対視しますが、未分化の核家族システムのあり方は、秩序の重要性を教えてくれます。西側諸国がウクライナの自由独立を謳いあげても、同国の安定にロシアが貢献してきた事実を否定することはできない(ウクライナはソ連解体による独立後に大幅に人口を減らし、政治的な一体性も危うくなっています)。ウクライナとロシアの問題を考えるには、この辺りのことも視野にいれる必要があると思われます。

 

教育

(1)ストーンの法則

男性識字率50% → 民主化革命(ストーンの法則)

エマニュエル・トッドは、普遍的な(「家族システム等を問わない」という意味です)社会の進歩の指標として、教育を重視します。「経済が先ではない。教育が先であり、経済の発展はその結果である」というのが、彼の歴史観の最重要命題の一つです。

「トッド・クロニクル(2・完)」でご紹介したように、トッドは、男性識字率の上昇と近代化革命の関連性についてのローレンス・ストーンの指摘を定式化し、「ストーンの法則」と名づけました。

各地域の識字率上昇と近代化過程の関連性は後でより詳しく紹介しますが、代表的な近代化革命および産業革命の開始時期との相関はこのような感じです。

 

 

(2)近代化のモデル

トッドは「ストーンの法則」を出発点として、近代化のモデル理論を確立します。このようなものです。

 

なお、近代化の過程には、もう一つ、付随するものがあります。トッドが「移行期危機」と呼ぶ現象です。これについては、彼の雄弁な説明を聞きましょう。

「文化的進歩は、住民を不安定化する。識字率が50%を超えた社会がどんな社会か、具体的に思い描いてみる必要がある。それは、息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界なのだ。全般化された教育は、やがて家族内での権威関係を不安定化することになる。教育水準の上昇に続いて起こる出生調節の普及の方は、これはこれで、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがすことになる。この二つの権威失墜は、二つ組合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。別の言い方をするなら、識字化と出生調節の時代は、大抵の場合、革命の時代でもある、ということになる。この過程の典型的な例を、イングランド革命、フランス革命、ロシア革命、中国革命は供給している。」

エマニュエル・トッド  ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳)『文明の接近 「イスラーム VS 西洋」の虚構』(藤原書店、2008年)59頁。

なお、近代化の過程が完了し社会が安定するまでには100年から数百年の時間がかかります。そして、移行期における住民の不安定化の度合いは、強固な権威構造を持つ「発展した」家族システムを持つ社会ではより強いと考えられます。

絶対核家族イングランドの革命でも大勢の人が死にましたが、「平等主義」フランスの革命はより激しく凄惨でした。ドイツの直系家族は早期の識字化にもかかわらず長期に渡って近代化に抵抗し、移行期にはホロコーストの惨劇をもたらしました。ロシア革命や文化大革命(中国)の死者数は諸説あるものの間違いなく最大級でした。

*興味深いことに、家族システムは危機の態様にも影響します。平等の観念を持たないシステムは異民族を殺戮し(とりわけ直系家族はジェノサイドに走る傾向があり)、平等主義は無差別に粛清するのです。

現在、シリアでは内戦が続き、ミャンマーでも軍事政権による政権奪取を機に内戦に近い状態が生じていると言われています。「一体何なの?」と疑問に思った時、識字率や出生率の推移を調べると(英語の大まかな情報であればインターネット上で非常に容易に入手できます)、彼らは今まさに近代化の過程にあることがわかる。これは移行期危機であり、全ての先進国がくぐり抜けてきた過程を、彼らもまた通り抜けているだけなのだということがわかるのです。  

近代化の過程には「移行期危機」が付随し、大勢の人が死ぬ

 

(3)人口学との接合:人口転換論、ユースバルジ論

①近代化モデル

トッドの近代化モデルも、ブリコラージュの産物といえます。彼が使った道具の一つはストーンの法則、もう一つは、人口転換論(demographic transition)という、人口学が提示する近代化モデルです。

「人口転換」とは、近代化を経て、社会が「多産多死」社会から「少産少死」社会に移行する現象のことをいいます。

人口に着目すると、近代化の過程は、通常以下のように進みます。

多産多死(前近代:高い出生率 + 高い死亡率)
  ↓
死亡率低下(高出生率+低死亡率となり人口が増大。ときに「人口爆発」といわれる事態となる)
  ↓
出生率低下(やや遅れて出生率が低下。人口増加率が落ち着く)
  ↓
少産少死(人口が安定し、近代化完了)

 

トッドのモデルは、識字率上昇を決定的徴候と見るストーンの法則の中に人口転換モデルを組み込み、死亡率低下と出生率低下の時差の原因を識字率上昇時期の男女差によって説明することで、人口転換論をより総合的(かつ、歴史観として見るとより本質に即した)な近代化モデルに作り替えたものと見ることができます。

②移行期危機

人口学の議論の中には、「移行期危機」に対応すると考えられるものもあります。「ユースバルジ」の議論です。

人口学の研究者は、内戦における虐殺や革命期の大粛清といった暴力が若者人口の極大期に発生していることを指摘し「ユースバルジ」と名づけました(日本語でいう(若者の)「団塊」と同趣旨)。

近代化の過程で発生する「人口爆発」は、通常「若年人口の爆発」という形を取ります(おそらく死亡率低下の際にもっとも顕著に下がるのが乳児死亡率であるため)。「ユースバルジ」は、近代化に必ず付随する現象ということになりますので、トッドがこれを参考にして「移行期危機」の理論を立てたと考えることは一応可能です。

しかし、私は、トッドがこれを参考にして理論を組み立てたとは考えていません。おそらく、トッドは識字率から出発し、人口学は人口動態から出発して、両者がほぼ同様の現象を特定するに至った、ということなのではないかと思います。

トッドは、『第三惑星』(1983年)の時点で、近代化への移行期における精神の動揺がナチスドイツやスターリン主義をもたらしたことを明確に述べています。

1984年(『世界の幼少期』)には、識字率上昇に出生率を組み込んだ近代化のモデルを構築し、識字率上昇との関係で移行期の危機に言及しています。つまり、この段階ですでに「移行期危機の理論」は確立しているのです。

一方、政治学や人口学が「ユースバルジ」への言及を始めるのは1995年以降(政治学者Gary Fullerが民族紛争における残虐行為の分析という文脈で「ユースバルジ」の語を用いたのが最初という。https://second.wiki/wiki/youth_bulge)なのです。

ただし、「ユースバルジ」の理論にはトッドの理論を補う利点があります。識字率上昇から近代化を経て社会が安定に達するまでにかかる時間は数百年に及びます。「ユースバルジ」は、その期間内のどの時点で危機が発生するかを説明するのです。トッドの「ブリコラージュ」精神に共鳴する私としては、移行期危機の理論の補完的理論として「ユースバルジ」を組み合わせて使うのがいいのではないか、と考えています(実際に使ってみた事例として、こちら(「昭和の戦争について」)をご参照ください)。

 

人口動態

トッドは、自分の言っていることは人口学者にとっては常識であり、とくに独創的なことを述べているわけではない、というようなことをよく言います。

しかし、人口学の入門書や教科書を見てみても、人口転換の記載はあっても、識字率の上昇が近代化の指標であるとか、乳児死亡率の増大は社会の後退を告げる徴候である等の記述はありません。

つねに人口という尺度で物を見ている人々にとっては、社会の何らかの変化が人口動態に現れるということは「常識」なのかもしれませんが、私がちらと調べた限りでは、判断基準として確立され、共有されているということはなさそうです。そのような人口動態の用い方も、トッドによる「ブリコラージュ」なのかもしれません。

トッド自身による体系的な解説もないので、残念ながら、人口動態に関する事項を「確かな道具」として提示することはできません。しかし、そういいながら、私自身は、トッドを読むようになって以来、そのときどきの関心に応じて人口動態を調べ、ちょっとした見立てに役立てているのです。

というわけで、ここでは、そのいくつか(出生率はもちろん重要ですがここではそれ以外のもの)を、なるべくトッド自身の言葉に依拠しながら、共有させていただこうと思います(彼の言葉がないところは私が適当に書いているのだとご理解ください)。

①乳児死亡率(1歳未満の乳児の死亡率)

トッドは、乳児死亡率を社会システムの健全性の指標として重視しています。

乳児死亡率はまず近代化の際に(識字率上昇に伴って)低下します。社会がうまくいっていれば、乳児死亡率は下がるところまで下がり、低い数値が維持される。再度上昇傾向を見せた場合、それは社会が機能不全に陥っている証拠です。

「1976年に、私はソ連で乳児死亡率が再上昇しつつあることを発見しました。

その現象はソ連の当局者たちを相当面食らわせたらしく、当時彼らは最新の統計を発表するのをやめました。というのも、乳児死亡率の再上昇は社会システムの一般的劣化の証拠なのです。私はそこから、ソビエト体制の崩壊が間近だという結論を引き出したのです。」

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』81頁

「乳児死亡率は、おそらく現実の社会状態の最も重要な指標である」とトッドは言います。この数値は、医療的・福祉的ケアのシステム、社会のインフラ、母子に与えられる食料や住居、女性の教育水準など、社会の重要な機能のすべてが関わる、総合的な指標であるためです。

乳児死亡率は現実の社会状態を表す最も重要な指標である

 

乳児死亡率について詳しくはこちらをご覧ください

②その他死亡率

乳児死亡率が「総合点」だとして、それ以外の死亡率にも社会の何かが現れます。

アメリカでは1999年から2013年に45歳-54歳の白人男性の死亡率が増加しました(このようなことは「これまで世界のどこの先進国でも起こったことがない現象」だそうです)。その主な原因は薬物、アルコール中毒、自殺でした。トッドはここから、グローバリズムがアメリカの中産階級の生活に破壊的な影響を及ぼしている徴候を読み取りました(この話は別途詳しく扱う予定です)。

トッドは「ソビエト崩壊における「乳児死亡率の上昇」にあたるのは、トランプ大統領の選出においては、この成人死亡率の上昇である」とも述べています。(Lineages of Modernity, p243)。

③人口

人口の増減も一般的には社会が機能しているかどうかを表す指標のようです。人口爆発の時期を終えた社会では穏やかに増えていくというのが望ましい状態で、減少は社会の停滞なり、何らかの機能不全の徴候であるといえます。

先進国の中でもとくに日本や韓国、ドイツという直系家族地域は人口の再生産に問題を抱えていて、まもなく減少局面に入ることが予想されています。

これはこれで問題ですが、まだ発展途上であるはずの地域で人口が減少している場合には、何か問題が起こっている徴候と考えられます。

④年齢

平均年齢とか年齢の中央値といった指標も、私はよくチェックするようになりました。単純に、社会の若さとか、活力を示す指標です。先程見た「ユースバルジ」的状況の可能性を判別する簡易的な指標にもなるような気がします(適当ですみません)。

・ ・ ・

なお、人口動態には、社会の状態を表す指標としてきわめて優れている、ということに加え、もう一つ、非常に重要な利点があります。トッド自身に語ってもらいましょう。

「人口学的なデータはきわめて捏造しにくいのです。内的な整合性を持っていますからね。
 ある日、誕生を登録された個々人は、死亡証明書に辿り着くまで、彼らの人生の節目節目で統計に現れてこなければなりません。だからこそソビエト政府は、かつて乳児死亡率が芳しくなくなった時、それを発表するのをやめたのです。
 経済や会計のデータの場合とは全然違うのです。経済や会計のデータは易々と捏造できます。
 何十年もの間、ソビエト政府がやったように、あるいは、ゴールドマン・サックスのエキスパートたちが、ギリシャがユーロ圏に入れるようにその政府会計の証明書を作らなければならなかったときにやったようにね‥‥。」 

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』82頁以下

   

   人口動態データはほぼ捏造できない

おわりに

これがトッドの道具箱のすべてです。「これだけ?」と思われるでしょうか。そうです。これだけです。

この道具たちを使いこなすことで、どれほどのことがわかり、どれほど豊かな世界像を描くことができるのか。

この先の講座で少しずつご紹介させていただきます。