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トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(5) 核家族レジームは機能したか

 

目次

核家族レジームは機能したか

「識字化した核家族」の近代にあって、とりわけ大きな混乱にみまわれた地域。その代表格といえるのは、バルカン半島と中東です。

旧オスマン帝国の領土であったこれらの土地は、覇権が共同体家族から「識字化した核家族」に移行する中で何を経験したのか。それが今回のテーマです。

のちに「民族紛争と宗教紛争の巣窟」と化してしまうこの地域を、オスマン帝国はどのように治めていたのかを、改めて確認しておきます。

オスマン帝国 スレイマーン1世(在位1520年-1566年)

林佳世子先生は、帝国の性格について、次のように述べています。

「オスマン帝国は、当該地域、すなわちバルカン、アナトリア、アラブ地域のそれ以前の伝統を受け継ぎ、諸制度を柔軟に統合し、効果的な統治を実践した中央集権国家だった。帝国の周辺での対外的な戦争により、内側の安定と平和を守った国でもあった。」

『オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫、2016年)23頁

「あえて支配層の民族的帰属を問題にするならば、オスマン帝国は、「オスマン人」というアイデンティティを後天的に獲得した人々が支配した国としかいいようがない。「オスマン人」の集団に入っていったのは、現在いうところの、セルビア人、ギリシャ人、ブルガリア人、ボシュナク人、アルバニア人、マケドニア人、トルコ人、アラブ人、クルド人、アルメニア人、コーカサス系の諸民族、クリミア・タタール人などである。少数ながらクロアチア人、ハンガリー人もいる。要は、何人が支配したかは、ここでは意味をもっていなかったのである。」

同・14頁

前半は、以前ご紹介した鈴木董先生の「柔らかい専制」の趣旨と一致していますね。

ここでは、帝国における「民族」の扱いに注目します。

オスマン帝国が、多民族、多言語、多宗教の人々を効果的に統治していたことはよく知られていますが、林先生はここで、支配層についても、民族的帰属が問題になっていなかったことを明確にしています。

オスマン帝国は、被支配民に関してだけでなく、支配層の人間についても民族的帰属を問わない、「何人の国でもな」い帝国であったのです。

その「何人の国でもなかった」国は、しかし、帝国解体後、「近代国家」を目指すと、直ちに、民族紛争、宗教紛争が荒れ狂う地となってしまった。いったい、なぜなのでしょうか。

「何人の国でもなかった」旧オスマン帝国領土は、帝国解体後、直ちに民族紛争、宗教紛争が荒れ狂う地となった。なぜ?

バルカン半島のその後

(1)ユーゴスラヴィアの解体

オスマン帝国末期以降、バルカン半島に暮らしていた諸民族は、紆余曲折を経て独立し、ギリシャを除く南スラヴ地域は一度はユーゴスラヴィアとして統一されます。しかし、メソ紀53世紀末(5290年代(1990年代))の内戦でバラバラになり、現在、バルカンの地には、ギリシャを含む8つの国連加盟国と、国際社会から一致した承認を得られていないコソヴォ共和国が存在しています(コソヴォ紛争についてはこちらをご覧ください)。

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平たくいうと、バルカンの人々は、「帝国」から解き放たれた後、西欧にならって国民国家の成立を目指したが成功せず、部族国家といいたいほどの小規模の国家の分立状態に立ち至ってしまった、ということになるでしょう。

なぜそんなことになってしまったのか。家族システムの変遷と関連づけて国家の歴史を見てきた後では、その理由は、かなりはっきりしているように思えます

メソポタミアに近接するこの地域、古くから多様な民族が出入りし、混ざり合って暮らしていたこの地域を、辺境の島国で生まれた「国民国家」の流儀でまとめるという目標には無理があった。そういうことではないでしょうか。

バルカン半島は一度はユーゴスラヴィアとしてまとまったものの
内戦により粉々に。核家族レジームとの齟齬が関係?

(2)オスマン帝国のバルカン

バルカンがどんな感じのところなのかをイメージするために、ビザンツ帝国が後退した後、オスマン帝国の支配が確立する前のバルカンの状況を、再び林佳世子先生に教えていただきましょう。

まず、前提として、バルカンの地形や都市の構造について。

「バルカン地域の特徴は、東部では東西に、西部では南北に延びる山脈が峻険な山岳地帯を形づくっている一方で、山脈と山脈の間には平野部が開け、平野部は、河川に導かれて外の世界とつながっていることにある。このため、バルカンの諸地域はその複雑な地形のわりに人口の移動が多く、山脈に分断された諸地域に多くの民族を内包することになった。」

『オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫、2016年)50頁

バルカンを私たちは「ヨーロッパ」だと思っていますが、実はトルコと一つながり、というところも、ポイントのようです。

「山がちな地形は、海峡をはさんでアジア側(アナトリア)ともよく似ている。農耕を行う定住農民、山と平地を往来する遊牧民(牧羊民)、そして山中に隠れる賊たち、農産物の集散地として点在する都市といった社会の仕組みも、共通項が多い。天水に頼る農業の手法も、基本的に同じである。ビザンツ帝国とオスマン帝国が、コンスタンティノープルをコンパスの視点として支配したアジアとヨーロッパは、自然環境やそれに規定された生産活動の面で一つながりの地域であった。」

同50頁

バルカン半島には、ビザンツ帝国が健在であった時代から、スラブ系の民族が侵入して、14世紀には「ビザンツ帝国の後退、スラブ系諸侯の分裂で、西アナトリア以上に激しい分裂状態になってい」ました。

一番有力だったセルビア王国もなんだかんだで結局は分裂してしまい、その他の地方でも、

「諸侯や王族が割拠し、互いに争う状況が生まれた。諸勢力のなかには、在地の諸侯だけでなく、黒海北岸から進出したトルコ系のノガイ族やアナトリアからの雇い兵として動員されたアイドゥン侯国などのトルコ系騎馬軍団、カタロニア兵などヨーロッパからの雇い兵軍団、ヴェネチアやハンガリーからの派遣隊など、外来の部隊。集団も含まれていた。彼らの存在によって、軍事的なバランスは非常に複雑だった。」

52-53頁

オスマン帝国の祖、オスマンは、似たような状況のアナトリアで、実力でのし上がった人でした。そして、息子オルハンは、その軍勢を率いて、バルカンに入り、勢力を固めていきます。

彼らが帝国を築いたその地は、要するに、民族も出身も立場も文化もまったく異なる勢力がつねに出入りしていて、放っておけば、諸勢力の割拠、複雑な離合集散、収まることのない騒乱‥‥といった状態に必然的に陥ってしまう、そのような地理的・歴史的な環境だったのです。

こういうところで、国をまとめるのに、「民族」などという概念を用いるバ‥‥いえ、為政者はいません。

そういうわけで、オスマン帝国は、被支配層はもちろん、支配層についても民族的帰属を問題にしない「何人の国でもな」い国となりました。

メソポタミアで生成した共同体家族システムが、ユーラシア大陸の中央部に定着し広く拡大していったのは、多様な民族が行き来し、言語・文化が入り混じるその土地での秩序形成に適した家族システムであったからだと考えられます。

一方で長期の安定性を欠いたそのシステムは、内婚制共同体家族に進化することで、「温かさ」「柔軟さ」を付け加え、支配の安定性に寄与しました。「オスマン帝国500年の平和」は、おそらく、その基層の上で初めて成り立っていたのです。

ビザンツ帝国の後退後、諸侯や王族が割拠して争い、激しい分裂状態となっていたバルカン地方をまとめたのが内婚制共同体家族のオスマン帝国だった

(3)否定された「帝国」の遺産

西欧近代の台頭で、オスマン帝国が退陣を強いられたとき、彼らの基層がもたらす価値は、すべて「時代遅れ」のものに見えたと思います。

トッドに学んだ私たちは、西欧の「近代化」の核心部分にあったのは「識字化」であり、「自由と民主」や「国民国家」といったスローガンではないことを知っています。

しかし、当時の人々には、「「帝国」が負け、「国民国家」が勝った」と見えたはずです。したがって、当然、彼らは、無理矢理にでも「民族」を意識し、「国民国家」を目指して、悪戦苦闘を重ねていく。彼らの意識の中で、オスマン帝国は、「否定し、克服すべき対象」でしかありませんでした。

「19世紀、20世紀の歴史のなかで、多くの国が、自分たちの抱える構造的な問題を『オスマン帝国の負の遺産』とみなし、その責任を、いわば過去のオスマン帝国に押し付けてきた。」

「しかし、実際には、すべての国々に有形無形のオスマン帝国の遺産は引き継がれていた。負の遺産として挙げられる『近代化の遅れ』ばかりでなく、オスマン帝国の官僚制や政治風土、生活文化や習慣などさまざまなものが、意識されないまま引き継がれている。それらは「トルコの影響」ではなく、オスマン帝国の共有の財産・遺産である。」

しかし、それらの価値が正当に評価されることは決してありません。

「‥‥オスマン帝国が支配下にある民族を「整理」しなかったという点は各地域にマイナスの遺産を残したとして強調され、現在のバルカンや中東の民族紛争の原因として常に挙げられる。」

なんと、「何人の国でもなかった」ことによって、500年の平和を保持したオスマン帝国の偉大な歴史が「マイナスの遺産」とは。

「とはいえ、民族を「整理」しなかったこと自体がマイナスであったはずはない。」

その通り、としかいいようがありません。ともかく、進化の頂点である内婚制共同体家族から辺境の核家族へのレジーム・チェンジは、これほどの価値観の転倒をもたらしたのだ、ということを、確認しておきましょう。

帝国解体後の苦境の中、核家族レジームとの齟齬から来る諸問題の責任がすべて「帝国の負の遺産」になすりつけられた

(4)早すぎた「近代化」

次のような疑問が生じるかもしれません。

「識字化した核家族の土地に自由主義的な国民国家が生まれ、識字化した直系家族の土地により秩序志向の強い国民国家が生まれ、外婚制共同体家族の土地に共産主義的な権力集中国家が生まれた。内婚制共同体家族は、なぜ、これと同じように、彼らの相応しい「近代国家」を生み出すことができなかったのか。」

これは、彼らの将来にも関わる問いです。

将来の可能性は次回(最終回)検討しますが、オスマン帝国崩壊後について言うと、彼らがなぜ「自分らしい近代」に到達できなかったのかははっきりしています。

まだ、近代化の準備ができていなかったのです。

バルカン地域の識字率に関する歴史的データを私は持っていませんが、20-24歳の男性の識字率が50%を超えた時期は、トルコが5232年(1932年)、ロシアが5200年(1900年)ですから、バルカン地域は、早くてもこの中間のどこかでしょう。*下の「追記」をご参照ください。

要するに、彼らは、「十分な識字化人口」という、自律的な近代化に不可欠なものを、まだ持っていませんでした。

西欧近代は、まだ準備が整っていない彼らから、帝国の保護を奪い、「国民国家」の理想を与えました(もちろんそれだけでなく、列強はそれぞれの思惑でいろいろと介入もしました)。

しかし、どこにどう線を引いても、それぞれの領域の中に、民族は混じり合っているのです。

ちなみにいうと、彼らは、言語も違うし、宗教もさまざまに分布していますが、家族システムも多様です。

旧ユーゴ内では、セルビア人、ボスニア人、マケドニア人は共同体家族、スロヴェニア人は直系家族、モンテネグロ人、クロアチア人、アルバニア人は核家族です(コソボの人口の9割はアルバニア人)。

オスマン帝国の下では、民族の違いを意識することもなく暮らしていた彼らも、「民族自決」の掛け声のもとで、近代国家を作るとなれば、話は違います。

歴史的に見て(また家族システムから見ても)、セルビアが指導的な立場に立ったことは自然であったように思えますが、同時期にオスマン帝国から独立した対等であるはずの民族間で、安定した支配-非支配関係を構築するのが容易であるはずはありません。

その上、ちょうどその時期が「移行期危機」に重なっているのですから‥‥バルカン、そしてユーゴスラヴィアは、「帝国」を離れて、国民国家を目指したその日から、いくつもの時限爆弾を抱えていたようなものだったといえるでしょう。

爆弾が破裂して、例えば、ユーゴスラヴィア連邦内の一共和国が、あるいは共和国内の一地域が「独立」を目指して蜂起したとき、かりにオスマン帝国が宗主国であったら、直ちに反乱軍を鎮圧し、国としての統合を維持しようとしたでしょう。ユーゴ紛争のとき、ロシアに力があったら同じことを試みたかもしれません。

しかし、現代の覇権国、絶対核家族のアメリカは、「権力への抵抗」とか「独立のための戦い」となると、一も二もなく支援に走ります。

大量の武器を送り込み、何なら軍を動員してまで、旧来の秩序に抵抗する側を支持し、結果として、地域をバラバラに分解する。

そうやって出来上がったのが、現在のバルカン世界である、と言えると思います。

西欧近代は、準備不足の人々から帝国の保護を奪い、複雑な民族構成のバルカンに「民族自決」の理想を与えた。

純粋核家族は、統合維持の困難を理解せず、問題が起こればつねに「独立」側を支持して、解体を促進した。

[追記]ユーゴスラヴィアについて『帝国以後』に記載があるのを発見しました(68頁以下)。箇条書きで紹介します。
・旧ユーゴの近代化(識字率上昇≒出生率低下)は、キリスト教系住民とムスリム系住民の間で時間的にズレがあった。
・キリスト教系住民が中心であるセルビア、クロアチア、スロヴェニアの人口転換は1955年までには概ね完了しており、彼らの近代化が共産主義の伸張をもたらした。
・キリスト教系(カトリックと正教徒)とムスリムが混在するボスニア、マケドニアは、それぞれ1975年、1984年前後に出生率が低下し、正教徒とムスリムが混在するアルバニアとコソヴォは1998年前後に低下する。
・共産主義の崩壊は、セルビア人、クロアチア人には移行期危機の出口となりうるはずであったが、ちょうどその時期にムスリム系住民の移行期危機が重なり「殺人の悪夢に変わってしまった」。

人口学的移行期が時間的にずれていたために、連邦全体の規模で、異なる住民集団間の相対的比重が絶えず変わることになり、その結果、圏域全体の主導権について全般化した不安が醸成された‥‥。より早期に出産率を制御したので、セルビア人とクロアチア人は己の人口増加が減速するのを感じ、急速に人口を増やしていく「ムスリム」住民に直面して、人口的に侵略され呑み込まれる過程が進行すると予想した。共産主義後の民族的強迫観念が、こうした速度と時期を異にする人口動態によって誇張されることとなり、クロアチア人とセルビア人の分離をめぐる問題系の中に導入されたのである。

・なお、アメリカやNATOの介入についてはつぎのように述べています(苦言を呈しているといってもよいでしょう)。

「はるか以前に近代化の苦悩から抜け出た軍事大国が行う介入には、歴史的・社会学的理解の努力が伴わなければならないだろう。ユーゴスラヴィア危機は、多くの人の道徳的態度を呼び起こすことになったが、分析作業はほとんど呼び寄せていない。いかにも残念なことである。

エマニュエル・トッド『帝国以後』70頁

中東のその後

オスマン帝国終焉ののち、部族国家サイズの国家の分立状態に立ち至ったもう1箇所は、中東、とりわけアラブ世界です。

この地域の多民族、多宗教、多言語性について、あえて言及する必要はないでしょう。しかし、バルカンと同様、この地域でも、近代以前において「民族」「宗教」が問題化することはなかったということは、よくよく確認しておく必要があります。

(1)内婚制共同体家族の洗練

地域のイスラム化が進んで以降(この講義の観点からは、内婚制共同体家族の拡大を意味します)、アラブ世界を含む中東では、アラブ系、イラン系、トルコ系のイスラム王朝がいくつも盛衰しましたが、

そのすべてが民族・文化のるつぼであり、いくつもの文化層が堆積されているイスラーム世界の政治権力の常として、程度の差こそあれ、コスモポリタンな性格をもっていた。そのため、イスラーム世界の住民は、コスモポリタンな性格をもつ中央権力のもとで、王朝がアラブ系であるか非アラブ系であるかに関係なく、社会・経済生活を営んでいた。

この点、オスマン帝国も例外ではなかった。確かにこの帝国は、それまでのイスラーム諸王朝にくらべて、きわだって中央集権的な軍事・統治機構をもっていた。しかし、この帝国は同時に、納税を条件に多くの宗教共同体(ミレット)に大幅な内部自治をあたえる「ズィンマ」(保護)の制度というような、イスラーム世界に伝統的な住民を間接的に支配する方法をも引き継いでいた。こうして、住民の生活の現実は、オスマン帝国下にあってもそれまでとさほど変わらなかったと考えられる。

加藤博「オスマン帝国下のアラブ」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)166頁

オスマン帝国の時代、アラブの中心部、シリアと北イラクは、トルコやバルカンと同様の直接支配地域となっていましたから、彼らは、「オスマン人」のアイデンティティも持っていたかもしれません。しかし、いずれにせよ、彼らを含むアラブ世界の人々は、それぞれに、宗教・宗派、言語、地域等に対する複合的な帰属意識を持ちながら1彼らの「複雑で複合的な帰属意識構造」につき、加藤博「アラブ世界の近代」坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』(講談社現代新書、1993年)74頁以下。、洗練されたコスモポリタン的な世界を生きていました。

この洗練された社会体制の基層に、家族システムの「進化」を見て取るのは容易です。繰り返しになりますが、共同体家族(とりわけ内婚制共同体家族)は、このような、長い歴史を持ち、多種多様な民族・文化が混淆する世界をまとめるのに最適であったからこそ、大陸中央部を席巻することになったに違いないのですから。

内婚制共同体家族の基層の上で、オスマン帝国時代のアラブの人々は、それぞれの宗教・宗派、言語、地域に対する複雑な帰属意識を保ちつつ、民族にとらわれないコスモポリタン的世界を生きていた

(2)帝国の終焉と「核家族国家」化

しかし、識字化した核家族が作った「西欧近代」のレジームによって、帝国の時代は終わりを迎えます。

「オスマン帝国の中東」に関していうと、まず、オスマン帝国は、帝国自身の近代化の努力により、「トルコ人の国民国家」に変貌を遂げる。

それまで「オスマン人」であったはずのアラブ世界の人々は、突然「トルコ人に支配されるアラブ人」の立場に置かれることとなって反発し、彼らは彼らで独立を目指します。

彼らが作る「近代国家」には、本来、多様な選択肢があったはずです。「アラブ」としてまとまるのか、「イスラーム」としてもっと大きなまとまりを作るのか。

しかし、バルカンについて述べたのと同様に、彼らもまた、識字化した人口を十分に持ってはいなかった。つまり、準備が整っていなかったのです。

彼らは悪戦苦闘を重ねつつ、欧米列強の手玉に取られていくことになっていきます。人口的な国境線が引かれ、小国家の分立状態に置かれた挙句に、核家族と直系家族の(狭量な‥‥)「国民国家」が生み出した「ユダヤ人問題」の精算のために、パレスチナ問題まで押しつけられる。

彼らは、「識字化した核家族」によってバラバラにされ、紛争の種を巻かれた土地の上で、識字率を上昇させて本当の「近代化」に向かうと同時に、移行期危機を迎えることになります。(続く)

準備不足の状態で「近代国家」を押し付けられた人々は、彼らに相応しい多様な選択肢を検討する間もなく欧米列強の手玉に取られていく

彼らは現在、「識字化した核家族」によってバラバラにされ、紛争の種をまかれた土地の上で、移行期危機を迎えている