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トッド入門講座

エマニュエル・トッドの道具箱
ー家族システム、教育、人口動態

はじめに

エマニュエル・トッドは1976年の著書でソ連崩壊(1991年)を予言して、その名を世に知られるようになりました。

予言はその後も続き、2007年の著書では「アラブの春」(2009年~)を、2014年のインタビューではイギリスのEU離脱(国民投票は2016年)を、2002年以降の一連の著書では金融危機(2008年)からトランプ大統領選出に至るアメリカの危機を予測しています。

トッドは好んで自らを「ブリコラージュ屋」と称します。「ブリコラージュ(bricolage)」の原義は「日曜大工」。素人がガラクタでも何でも使って器用に物を作る、といったニュアンスの言葉です。

一見、自身を卑下するようなこの言い回しには、大袈裟な理論体系を打ち立てながら現実に触れることができないアカデミズムへの皮肉が込められているのだと私は理解しています。

実際、トッドが世界を観察するのに使っている道具は、比較的簡単なものです(以下に「予言」の根拠をまとめました)。しかし、その簡素な道具立てから驚きの「予言」が生まれ、真実に触れる命題の数々が発掘されるのですから、私たちも是非それを手に入れて使ってみたいではないですか。

予想した事象根拠とした指標
ソ連崩壊人口動態(乳児死亡率の上昇)
アラブの春識字率、人口動態(出生率低下)
BREXIT家族システム
アメリカの危機人口動態(白人45~54歳の死亡率上昇)

今回は、トッドの理論の概要をお伝えしつつ、道具箱の中身を一挙にご紹介させていただきます。

 

概要3種の道具

トッドの社会科学に対する功績は、以下の3点にまとめることができます。(トッドの功績についてはこちらもぜひご覧ください。)

①家族システムとイデオロギーの相関関係を発見・解明した。
②教育の進展を基礎とした発展モデルを構築した。
③家族システムの発展過程を跡付け、人間理性を中心とした啓蒙主義的歴史観や経済を中心とする歴史観に代わる人類学的歴史観を構築した。

こう書くと、体系的に物を考える思想家の仕事のようですが、実際はたぶんこんな感じです。

「家族システムの威力、すごくない?」

『第三惑星』執筆時

「これに識字率と人口動態のデータを組み合わせたら、近代化の過程が手にとるように分かるじゃないか」
    

『世界の幼少期』執筆時

「家族システムの分布は偶然かと思ったが違うのか。共同体家族が「革新」で、核家族が原型? えっ? これって、全世界史の流れを書き換える大発見かも‥」

「新人類史序説」(『世界像革命』所収)から『家族システムの起源』

と、このようにして、トッドがその価値を発見し、使用法を確立していったのが、家族システム、教育、人口動態 の三種類のデータです。

この3つは、大まかに言うと下の図のような感じで、社会の診断に役立てられます。

 

上記の「予言」についていうと、トッドは、人口動態のデータ(乳児死亡率・成人死亡率の上昇)を見て、ソ連、アメリカの社会の健全性が損なわれていることを察知しました。識字率の上昇人口動態(出生率の低下)からアラブの近代化を確認し、イギリスの家族システム(絶対核家族)が、EUの多数および中核を占めるシステム(ドイツなどの直系家族)と異なることから「体質的に耐えられない」と判断したのです。

 

家族システム

(1)家族システムとは何か

トッド自身は定義をしていませんが、「概要」としてお伝えする都合上、私の言葉で説明させていただきます。

人類は、配偶者を得て、子供を作り、育て、知恵なり財産なりの価値あるものを伝承することで、種として生存します。この一連の過程、つまり、人類の婚姻と世代継起のあり方に関する慣習的なルールの体系、それが家族システムである、とお考えください。

人類学による家族システムの研究は主に未開社会の研究で発達したものですが、トッドはこれを近代社会の分析に応用して大きな成果を上げました。彼の「ブリコラージュ」の最高傑作の一つといえます。

なお、以下でいう「家族システム」」は、近代化する前の社会で観察されたシステムであることをお断りしておきます。家族システムは人類の社会を統合するシステムであり、現代でも機能を続けていると考えられるのですが、近代化後の社会ではその機能の中心は家族から公共空間に移行し、家族という場での観察は難しくなっているからです。

 

(2)家族システムとイデオロギー

①家族システムの定義

家族システムとイデオロギーの相関関係を示す際に用いられる主な項目は親子関係と兄弟関係の2つです。それぞれが2つに分かれ、4種の家族システムを定義します。

 

表現される価値判断基準
親子関係自由 / 権威同居の規則(三世代同居の有無)
兄弟関係平等 / 非平等相続慣習

ルールは次の通りです。

1)親子関係は社会の縦の関係を規律する

  • 自由主義的か権威主義的かの二択
  • 判断基準は同居の規則
    • 親子の分離(子どもが成人すると直ちに別世帯を作る)→自由主義
    • 親子の同居(成人後も親世帯にとどまる)→権威主義

2)兄弟関係は、社会の横の関係を規律する

  • 平等か非平等(不平等)か
  • 判断基準は相続慣習
    • 兄弟に平等に遺産を配分 → 平等主義
    • 長子相続、末子相続など特定の一人を優遇 → 不平等(差異を固定)
    • ルールが存在せず、親が恣意的に決定 → 非平等(平等に無関心)

 

親子関係兄弟関係
①絶対核家族(英、米)自由非平等
②平等主義核家族(仏、西)自由平等
③直系家族(日、韓、独)権威不平等
④共同体家族(アラブ、中、露)権威平等

②4つの家族システム

1) 絶対核家族:自由 (イギリス他のアングロサクソン諸国、オランダ、デンマーク等)

子どもたちは早期に独立し(親子関係が自由主義的)、厳密な相続規範がなく遺言が使用される(兄弟間の平等に無関心)。親子の自由、兄弟間の連帯の不存在によって、家族システムの中でもっとも個人主義的。

2) 平等主義核家族:自由と平等 (フランス、スペイン、南米問等)

親子関係の自由は絶対核家族と同様だが、厳密な相続規則が兄弟の平等を保証している。成人後も(少なくとも親が死ぬまでは)兄弟間の関係が続く分、絶対核家族より個人主義の度合いが低い。

3) 直系家族:権威と不平等 (日本、韓国、ドイツ、スウェーデン等)

跡取りとなる子(多くは長男だが末子の場合も女子の場合もある)は結婚しても親と同居(長期に渡り親の権威の下に置かれる)。土地や主要な財産は全て跡取りのものであり、他の兄弟姉妹は下位に位置付けられる(安定的な継承のために兄弟関係の不平等が規範となる)。家系の継続を眼目とするシステム。

4) 共同体家族:権威と平等 (アラブ諸国、ロシア、中国、ベトナム等)

親子間の権威主義と兄弟の平等の組合わせ。兄弟は結婚後も全員妻とともに親と同居する。兄弟世帯の同居による横の広がりと三世代同居の縦の広がりによる大規模な家族構造の頂点に父親が君臨する形であり、親の権威は絶大。兄弟に序列がないため、父親の死が直ちに集団の危機につながる不安定性を持つ。

*二種類の共同体家族

共同体家族は、アラブ圏と中国・ロシアの家族システムですが、両者の間には重要な違いがあります。婚姻制度です。

中国・ロシアは多くの国と同様に外婚制(いとこ婚を認めない)です(共産主義はこちらに対応します)。これに対し、アラブ圏ではいとこ同士の結婚が好んで行われます。この内婚の規則が、共同体家族の苛烈さを和らげる機能を果たしているとトッドは指摘しています。

一つは、大規模家族の頂点に君臨する父親の絶大な権威の性質です。アラブ的内婚には「理想」があり、それは父の兄弟の娘(叔父方のいとこ)との結婚です。このような理想の存在は、子どもの結婚という重大事を決めるのが父親個人というよりは慣習であることを示しています。つまり、内婚制共同体家族では、強大な権威の源は父親の人格というより「慣習」である。その分だけ、現実の父親(リーダー)が行使する権威の力は緩和されているといえます。

もう一つは女性の立場です。共同体家族では(ただでさえ地位の低い)女性は男性優位の大家族の中に後から一人で入っていかなければならないという厳しい立場にあります。しかし、いとこ同士なら、女性は子どもの頃からよく知っている叔父の家に嫁ぐわけで、温かみのある家族の絆のうちにとどまることができる。同じ大家族でも、雰囲気はずいぶんと異なるのです。

権威の源が慣習であること、女性を家族の絆から排除しない仕組みは、集団の安定性にも寄与しているように思えます。その意味では、家族システムの「発達」の頂点といえるのは、内婚制共同体家族の方なのかもしれません。

(3)家族システムの使い道

家族システムは、教育の進展や人口動態という他の指標と合わせて使うことで絶大な威力を発揮しますが、単体でもかなりの役をこなします。

例えば、アメリカは共産主義の拡大を防ぐという名目で数多くの戦争を戦いました。ベトナム戦争のときには、ベトナムだけでなく、カンボジアやラオスにまで戦線を広げ大量の爆弾を投下しましたが、家族システムを見れば、ベトナムの共産主義化が必然的である一方で、カンボジアやラオスに共産主義が定着するおそれはないということが分かります(北ベトナムは外婚制共同体家族、カンボジア、ラオスは核家族です)。

また、バイデン大統領は、「自由と専制主義の戦い」を強調し、「民主主義サミット」などというものまで開催して自由主義陣営の拡大を図っています。しかし、アメリカがどれだけ頑張っても、ロシアや中国が権威主義的な体制を放棄することはないし、中東が、やはりある種の権威主義的システムを保ち続けるであろうことも間違いないと思われます。

ロシアや中国(程度の差はあれ日本もですが)が権威的な社会しか作ることができないのは、アメリカやイギリスが自由な社会しか作れないのと全く同じ理由です。だとしたら、私たちにできることは一つしかない。異なる価値観の存在を受け入れることです。

人間は社会に属さなければ生きられない動物です。したがって、私たちは、自分の所属する社会の「体質」を引き受けるしかないし、世界に多様な家族システムがある以上、世界の多様性を引き受けるしかない。自分の社会を愛し、誇りに思うのは自然なことですが、それは同時に、他のシステムの価値観を尊重しなければならないということでもあるのです。

 

キーワード教育人口の再生産民主主義の形経済差別
絶対核家族自由、個人主義、社会的移動△(規律のなさ+女性の地位)リベラルデモクラシー(政権交代型)超自由主義、流動性、革新、短期的利益差異に無頓着(差別を温存)
平等主義核家族自由と平等、個人主義、連帯△(規律の無さ+女性の地位)リベラルデモクラシー平等志向の自由主義差異を否認(一時的に激しい差別)
直系家族秩序、規律、序列、家族的集団主義、歴史意識○(規律+女性への一定の敬意)×(教育熱心+女性の抑圧)安定志向のデモクラシー(政権交代稀)保護主義、継続性、技術の完成、高品質、貯蓄差異による秩序(差別を創出・固定化)
共同体家族統制、強い権威と人民の平等△〜○(規律+女性蔑視〜規律+女性の地位(ロシア))権力集中型デモクラシー中央による統制差異を否認(一時的に激しい差別、

*なお、市民間の平等の指標である「兄弟」は、男の兄弟だけを指す場合もあるので、性差別の指標にはなりません。核家族から共同体家族に至る過程は、父親の権威を高める過程であると同時に、体系的に女性の地位を下げる過程です。したがって性差別の指標となるのは親子関係の方であることになります(ロシアの例外は北欧の影響だということです)。

(4)家族システムの原型ー未分化の核家族と絶対核家族

 

①核家族から共同体家族へ

現存する(あるいは比較的最近まで現存した)狩猟採集民族集団の研究によって、家族システムの原型がどんなものであったかはおおよそ分かっています。

基礎的な単位は婚姻したカップルの二人。つまり、核家族です。この原初的な核家族の周りに、緩やかにつながる親族集団がある、というのが、原初的な集団の基本のあり方だそうです。

トッドの研究は、家族システムは、このような核家族から、直系家族等を経て、最も発達した形態である共同体家族に展開していったことを明らかにしています(『家族システムの起源』)。

つまり、もっとも近代的で発達した家族システムであると考えられている核家族が、実はもっとも原始的なシステムであった。この逆説こそが、単純な西欧中心主義的な進歩史観に代わる新しい歴史観の基礎となる、重要な命題です。

とはいえ、イギリスの核家族と原初的な核家族が同じものなのかといえば、そうではありません。トッドの著書でもあまり丁寧な説明はされていないのですが、家族システムの理論を使いこなすためには重要な点なので、最初に説明をさせていただきます。

 

②未分化の核家族と絶対核家族柔軟性と形式性

未分化の核家族と絶対核家族(および平等主義核家族)は、基本単位が夫婦であること、女性のステータスが高いこと、(個人と集団の)移動性が高いことなどの共通の特徴を持ちます。したがって「自由」のイデオロギーは共通です。

違いは「型」の有無にあります。

未分化の核家族の場合、基本の単位は夫婦なのですが、カップルは二人で暮らして子どもを育てることもあるし、妻の家族の誰か、あるいは夫の家族の誰かと同居する場合もある。状況に応じていかようにもなる柔軟性、「型」の不存在こそが、「未分化の核家族」とも呼ばれる原初的家族の特徴です。

これに対し、絶対核家族の方は、核家族であることを「絶対」、つまりルールとします。もちろん現実には例外がありますが、絶対核家族には、子どもは成人すれば家を出て、別世帯を営む「べき」という規範があり、できるだけこれを守ろうとする。「親子関係の自由」は彼らにとっての規範であり、相互に拘束する自由はないのです。

イギリスの絶対核家族が確立したのは16世紀から17世紀頃、つまり、特別に「古い」というわけではありません。絶対核家族は、貴族階級に定着しつつあった直系家族(貴族階級はその地位や財産を安定的に継承するために直系家族を営む理由があります)への反動としてでき上がったもので、だからこそ「こうでなければならない」という形式性があるのです。

③「柔軟」の弱点秩序も重要だ

イギリスがいち早く近代化の道を歩み始めたのは、核家族というシステムの(直系家族や共同体家族と比較した場合の)柔軟性と関係があります。では、家族システムは柔軟なら柔軟なほどよいのかというと、少なくとも現代の社会のあり方を前提とする限り、そうとはいえません。

世界には、未分化な核家族システムを持つ地域も存在していますが、それらの地域には共通の弱点が観察されています。未分化な核家族システムは、おそらくその過度の柔軟性のゆえに、安定的な中央集権国家を機能させることができないようなのです。

例えば、ベルギー、そしてポーランド、ルーマニア、ウクライナという「中間ヨーロッパ」(トッドが用いる言葉ですが、西と東の「中間」という意味でしょう)。西欧中心主義的な価値観は自由を絶対視しますが、未分化の核家族システムのあり方は、秩序の重要性を教えてくれます。西側諸国がウクライナの自由独立を謳いあげても、同国の安定にロシアが貢献してきた事実を否定することはできない(ウクライナはソ連解体による独立後に大幅に人口を減らし、政治的な一体性も危うくなっています)。ウクライナとロシアの問題を考えるには、この辺りのことも視野にいれる必要があると思われます。

 

教育

(1)ストーンの法則

男性識字率50% → 民主化革命(ストーンの法則)

エマニュエル・トッドは、普遍的な(「家族システム等を問わない」という意味です)社会の進歩の指標として、教育を重視します。「経済が先ではない。教育が先であり、経済の発展はその結果である」というのが、彼の歴史観の最重要命題の一つです。

「トッド・クロニクル(2・完)」でご紹介したように、トッドは、男性識字率の上昇と近代化革命の関連性についてのローレンス・ストーンの指摘を定式化し、「ストーンの法則」と名づけました。

各地域の識字率上昇と近代化過程の関連性は後でより詳しく紹介しますが、代表的な近代化革命および産業革命の開始時期との相関はこのような感じです。

 

 

(2)近代化のモデル

トッドは「ストーンの法則」を出発点として、近代化のモデル理論を確立します。このようなものです。

 

なお、近代化の過程には、もう一つ、付随するものがあります。トッドが「移行期危機」と呼ぶ現象です。これについては、彼の雄弁な説明を聞きましょう。

「文化的進歩は、住民を不安定化する。識字率が50%を超えた社会がどんな社会か、具体的に思い描いてみる必要がある。それは、息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界なのだ。全般化された教育は、やがて家族内での権威関係を不安定化することになる。教育水準の上昇に続いて起こる出生調節の普及の方は、これはこれで、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがすことになる。この二つの権威失墜は、二つ組合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。別の言い方をするなら、識字化と出生調節の時代は、大抵の場合、革命の時代でもある、ということになる。この過程の典型的な例を、イングランド革命、フランス革命、ロシア革命、中国革命は供給している。」

エマニュエル・トッド  ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳)『文明の接近 「イスラーム VS 西洋」の虚構』(藤原書店、2008年)59頁。

なお、近代化の過程が完了し社会が安定するまでには100年から数百年の時間がかかります。そして、移行期における住民の不安定化の度合いは、強固な権威構造を持つ「発展した」家族システムを持つ社会ではより強いと考えられます。

絶対核家族イングランドの革命でも大勢の人が死にましたが、「平等主義」フランスの革命はより激しく凄惨でした。ドイツの直系家族は早期の識字化にもかかわらず長期に渡って近代化に抵抗し、移行期にはホロコーストの惨劇をもたらしました。ロシア革命や文化大革命(中国)の死者数は諸説あるものの間違いなく最大級でした。

*興味深いことに、家族システムは危機の態様にも影響します。平等の観念を持たないシステムは異民族を殺戮し(とりわけ直系家族はジェノサイドに走る傾向があり)、平等主義は無差別に粛清するのです。

現在、シリアでは内戦が続き、ミャンマーでも軍事政権による政権奪取を機に内戦に近い状態が生じていると言われています。「一体何なの?」と疑問に思った時、識字率や出生率の推移を調べると(英語の大まかな情報であればインターネット上で非常に容易に入手できます)、彼らは今まさに近代化の過程にあることがわかる。これは移行期危機であり、全ての先進国がくぐり抜けてきた過程を、彼らもまた通り抜けているだけなのだということがわかるのです。  

近代化の過程には「移行期危機」が付随し、大勢の人が死ぬ

 

(3)人口学との接合:人口転換論、ユースバルジ論

①近代化モデル

トッドの近代化モデルも、ブリコラージュの産物といえます。彼が使った道具の一つはストーンの法則、もう一つは、人口転換論(demographic transition)という、人口学が提示する近代化モデルです。

「人口転換」とは、近代化を経て、社会が「多産多死」社会から「少産少死」社会に移行する現象のことをいいます。

人口に着目すると、近代化の過程は、通常以下のように進みます。

多産多死(前近代:高い出生率 + 高い死亡率)
  ↓
死亡率低下(高出生率+低死亡率となり人口が増大。ときに「人口爆発」といわれる事態となる)
  ↓
出生率低下(やや遅れて出生率が低下。人口増加率が落ち着く)
  ↓
少産少死(人口が安定し、近代化完了)

 

トッドのモデルは、識字率上昇を決定的徴候と見るストーンの法則の中に人口転換モデルを組み込み、死亡率低下と出生率低下の時差の原因を識字率上昇時期の男女差によって説明することで、人口転換論をより総合的(かつ、歴史観として見るとより本質に即した)な近代化モデルに作り替えたものと見ることができます。

②移行期危機

人口学の議論の中には、「移行期危機」に対応すると考えられるものもあります。「ユースバルジ」の議論です。

人口学の研究者は、内戦における虐殺や革命期の大粛清といった暴力が若者人口の極大期に発生していることを指摘し「ユースバルジ」と名づけました(日本語でいう(若者の)「団塊」と同趣旨)。

近代化の過程で発生する「人口爆発」は、通常「若年人口の爆発」という形を取ります(おそらく死亡率低下の際にもっとも顕著に下がるのが乳児死亡率であるため)。「ユースバルジ」は、近代化に必ず付随する現象ということになりますので、トッドがこれを参考にして「移行期危機」の理論を立てたと考えることは一応可能です。

しかし、私は、トッドがこれを参考にして理論を組み立てたとは考えていません。おそらく、トッドは識字率から出発し、人口学は人口動態から出発して、両者がほぼ同様の現象を特定するに至った、ということなのではないかと思います。

トッドは、『第三惑星』(1983年)の時点で、近代化への移行期における精神の動揺がナチスドイツやスターリン主義をもたらしたことを明確に述べています。

1984年(『世界の幼少期』)には、識字率上昇に出生率を組み込んだ近代化のモデルを構築し、識字率上昇との関係で移行期の危機に言及しています。つまり、この段階ですでに「移行期危機の理論」は確立しているのです。

一方、政治学や人口学が「ユースバルジ」への言及を始めるのは1995年以降(政治学者Gary Fullerが民族紛争における残虐行為の分析という文脈で「ユースバルジ」の語を用いたのが最初という。https://second.wiki/wiki/youth_bulge)なのです。

ただし、「ユースバルジ」の理論にはトッドの理論を補う利点があります。識字率上昇から近代化を経て社会が安定に達するまでにかかる時間は数百年に及びます。「ユースバルジ」は、その期間内のどの時点で危機が発生するかを説明するのです。トッドの「ブリコラージュ」精神に共鳴する私としては、移行期危機の理論の補完的理論として「ユースバルジ」を組み合わせて使うのがいいのではないか、と考えています(実際に使ってみた事例として、こちら(「昭和の戦争について」)をご参照ください)。

 

人口動態

トッドは、自分の言っていることは人口学者にとっては常識であり、とくに独創的なことを述べているわけではない、というようなことをよく言います。

しかし、人口学の入門書や教科書を見てみても、人口転換の記載はあっても、識字率の上昇が近代化の指標であるとか、乳児死亡率の増大は社会の後退を告げる徴候である等の記述はありません。

つねに人口という尺度で物を見ている人々にとっては、社会の何らかの変化が人口動態に現れるということは「常識」なのかもしれませんが、私がちらと調べた限りでは、判断基準として確立され、共有されているということはなさそうです。そのような人口動態の用い方も、トッドによる「ブリコラージュ」なのかもしれません。

トッド自身による体系的な解説もないので、残念ながら、人口動態に関する事項を「確かな道具」として提示することはできません。しかし、そういいながら、私自身は、トッドを読むようになって以来、そのときどきの関心に応じて人口動態を調べ、ちょっとした見立てに役立てているのです。

というわけで、ここでは、そのいくつか(出生率はもちろん重要ですがここではそれ以外のもの)を、なるべくトッド自身の言葉に依拠しながら、共有させていただこうと思います(彼の言葉がないところは私が適当に書いているのだとご理解ください)。

①乳児死亡率(1歳未満の乳児の死亡率)

トッドは、乳児死亡率を社会システムの健全性の指標として重視しています。

乳児死亡率はまず近代化の際に(識字率上昇に伴って)低下します。社会がうまくいっていれば、乳児死亡率は下がるところまで下がり、低い数値が維持される。再度上昇傾向を見せた場合、それは社会が機能不全に陥っている証拠です。

「1976年に、私はソ連で乳児死亡率が再上昇しつつあることを発見しました。

その現象はソ連の当局者たちを相当面食らわせたらしく、当時彼らは最新の統計を発表するのをやめました。というのも、乳児死亡率の再上昇は社会システムの一般的劣化の証拠なのです。私はそこから、ソビエト体制の崩壊が間近だという結論を引き出したのです。」

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』81頁

「乳児死亡率は、おそらく現実の社会状態の最も重要な指標である」とトッドは言います。この数値は、医療的・福祉的ケアのシステム、社会のインフラ、母子に与えられる食料や住居、女性の教育水準など、社会の重要な機能のすべてが関わる、総合的な指標であるためです。

乳児死亡率は現実の社会状態を表す最も重要な指標である

 

乳児死亡率について詳しくはこちらをご覧ください

②その他死亡率

乳児死亡率が「総合点」だとして、それ以外の死亡率にも社会の何かが現れます。

アメリカでは1999年から2013年に45歳-54歳の白人男性の死亡率が増加しました(このようなことは「これまで世界のどこの先進国でも起こったことがない現象」だそうです)。その主な原因は薬物、アルコール中毒、自殺でした。トッドはここから、グローバリズムがアメリカの中産階級の生活に破壊的な影響を及ぼしている徴候を読み取りました(この話は別途詳しく扱う予定です)。

トッドは「ソビエト崩壊における「乳児死亡率の上昇」にあたるのは、トランプ大統領の選出においては、この成人死亡率の上昇である」とも述べています。(Lineages of Modernity, p243)。

③人口

人口の増減も一般的には社会が機能しているかどうかを表す指標のようです。人口爆発の時期を終えた社会では穏やかに増えていくというのが望ましい状態で、減少は社会の停滞なり、何らかの機能不全の徴候であるといえます。

先進国の中でもとくに日本や韓国、ドイツという直系家族地域は人口の再生産に問題を抱えていて、まもなく減少局面に入ることが予想されています。

これはこれで問題ですが、まだ発展途上であるはずの地域で人口が減少している場合には、何か問題が起こっている徴候と考えられます。

④年齢

平均年齢とか年齢の中央値といった指標も、私はよくチェックするようになりました。単純に、社会の若さとか、活力を示す指標です。先程見た「ユースバルジ」的状況の可能性を判別する簡易的な指標にもなるような気がします(適当ですみません)。

・ ・ ・

なお、人口動態には、社会の状態を表す指標としてきわめて優れている、ということに加え、もう一つ、非常に重要な利点があります。トッド自身に語ってもらいましょう。

「人口学的なデータはきわめて捏造しにくいのです。内的な整合性を持っていますからね。
 ある日、誕生を登録された個々人は、死亡証明書に辿り着くまで、彼らの人生の節目節目で統計に現れてこなければなりません。だからこそソビエト政府は、かつて乳児死亡率が芳しくなくなった時、それを発表するのをやめたのです。
 経済や会計のデータの場合とは全然違うのです。経済や会計のデータは易々と捏造できます。
 何十年もの間、ソビエト政府がやったように、あるいは、ゴールドマン・サックスのエキスパートたちが、ギリシャがユーロ圏に入れるようにその政府会計の証明書を作らなければならなかったときにやったようにね‥‥。」 

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』82頁以下

   

   人口動態データはほぼ捏造できない

おわりに

これがトッドの道具箱のすべてです。「これだけ?」と思われるでしょうか。そうです。これだけです。

この道具たちを使いこなすことで、どれほどのことがわかり、どれほど豊かな世界像を描くことができるのか。

この先の講座で少しずつご紹介させていただきます。

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 「異端認定」がもたらしたもの ー 若者の楽観から歴史家の楽観へ

 

世の中から受けた攻撃について、トッドは、率直に、まだ何も成し遂げていない若い研究者だった自分にとっては、「かなり辛いこと」だったと述べています(『問題は英国ではない、EUなのだ』95-97頁)。

いったいこの本が何を引き起こしてしまったのか、まだ若かった私は理解するのに時間がかかった」とも(『エマニュエル・トッドの思考地図』190頁)。

それはそうだろう、と思う一方で、その後の展開を知る者からみると、このとき以降トッドが被り続けた拒否反応や反感が、社会を見るトッドの視線をいっそう研ぎ澄ませ、虚飾なしの真実をつぎつぎと映し出す「魔法の鏡」的に機能したこともじじつであるように思えます。

これ以前、トッドは、「しっかり勉強し、賢ければその努力は報われる」(『エマニュエル・トッドの思考地図』189頁で「母の教訓」として述べている)。つまり努力して、学術的な成果を上げれば(=真実を発見すれば)、社会は正当に評価してくれると考える、純朴な若者であったのです。

彼の「アンガジュマン」の前提にも、社会とりわけエリートに対する素朴な信頼感があったはずです。

しかし、それらは裏切られ続けます。学術界には無視され、曲解される。政治の世界でも、人々は聴く耳を持たないか、理解を示す人々がいても現実は何も変わらない。そのような経験が、何度も何度も、何度も何度も、繰り返されることによって、彼は、自らが発見した事実の重みを、より深く理解するようになっただろうと思います。

フランスやイギリスでの人々の反応を見て、トッドは、明らかな証拠とともに提示された自らの仮説を拒否しているのが、彼らの知性ではなく、核家族システムに由来する「自由」の価値観であったり、アカデミアのグループシンク(集団浅慮)であることを知ったはずです。EUの通貨統合、反イスラム主義、自由主義経済への幻想と闘ってみれば、一人一人の漠然とした思い込みが集まって集団的心性となったときの、その岩盤のような強さを思い知ったはずです。このようにして、トッドは、人間の集合的心性、つまり、社会というもののままならなさを、身を持って体験していくのです。

トッドは、つねに、楽観的な構えを崩さない学者です。それは現在も変わりません。しかし、楽観の「質」は、異なってきていることが感じ取れます。

『第三惑星』や『新ヨーロッパ大全』で彼の発見を世に問うていた頃、トッドは、「家族システムの決定作用を知ることは、真の自由に近づくことである」という趣旨のことを述べていました。

より具体的に、『第三惑星』の段階でこの仮説が広く受け入れられていたなら、ユーゴスラビアやルワンダでの悲劇を予見し、被害を軽減するための手立てを打つことができたのではないか、と述べたこともあります(『世界の多様性』20頁)。

つまり、この段階では、「人間とは、正しく理解すれば、正しい行動が取れるものである」と考えていたわけです。

しかし、数々のアンガジュマンを経て、彼は、科学者として必要な情報を提供すれば、指導層がしかるべき行動を取ってくれるだろうと期待したことを、大きな間違いだったと、はっきりと述べるようになりました。

エリートについての経験主義的な研究が不足していたことで、しばしば彼らの知性や責任感、道徳性を過大評価していました。

だから私は、何度も何度もフランスの指導層が結局はユーロの失敗を認めて、自分たちが引きずり込んだ通貨の泥沼から、社会を引き出してくれるだろうと思ってしまいました。


結局、違った。ユーロは機能していない。けれども消えていません。若者がひどい扱いを受け、とくに移民系で最も弱い人たちのグループがのけ者になる事態は続きました。

『グローバリズム以後』10-11頁

こうして、彼はエリートに対する漠然とした期待や、世の中が彼の望む方向に進歩するという意味での楽観とは縁を切ります。

「彼はあきらめたのだ」と言う人は言うかもしれませんが、事実は違います。市民としてのトッドが怒り、がっかりする一方で、研究者トッドは「真実」に目を見張ります。「そうだったのか」と嘆息した後、彼はエリートを観察し、記録することを始めるのです。

1999年の『経済幻想』の頃から、学界やエリートは「期待をむける対象」であるより「研究対象」としての比重が重くなり、その研究は、教育水準の上昇がもたらす社会の変化をよりよく理解することに役立てられていきました。

人類学についてはフィールドワークをしていないというのが欠点です。私の唯一のフィールドはもしかしたら大学というフィールドかもしれませんが。というのも、私は長年、大学や学術界、そこに安住する人々としばしば対立してきました。ですから、その内部で何が起きているかは、客観的な観察者として知り尽くしているのです。

『エマニュエル・トッドの思考地図』53頁

現在、彼がどんな風な「楽観」を抱いているのか。
私の好きなトッドの発言をいくつかご紹介します。

政治指導者は歴史上、誤りが想像しうるときに、必ずその誤りを犯してきました。だから私は、人類の真の力は、誤りを犯さない判断力ではなく、誤っても生き延びる生命力だと考えています。

『自由貿易という幻想』265頁 (初出『毎日新聞』2011年1月13日)

アメリカ合衆国とロシアの衝突の根強い存続、イランとシリアの解体と、イスラム国の出現という恐怖にもかかわらず、私は未来に対する根本的な楽観の姿勢を保持せずにはいられない‥(略)‥。いずれにせよ人類史は、これまでつねに混沌状態にあったのであり、人口学者として死者の数を数えてみるなら、現在は人類史の中でとりたてて暴力的な局面にあるわけではないということが分かるのである。ヨーロッパや中国の全体主義の時代になされたことを尺度にとるなら、現在の世界全体の暴力の水準は、いささか口にするのが憚られるが、どちらかと言えば低い。

『トッド 自身を語る』2-3頁(2015年)

私は自分の好みを打ち出すのをやめてしまいました。政治的な戦いでは、私はつねに負けてきました。私が望んだことが選ばれることはありませんでした。だから、私は好まないでいることを好むようになりました。あるいは、自分の好みはそっと秘密にしておく。


今はなにかを予測しようということにそんなに心を砕きません。むしろ今起きている重要なことに敏感でありたいと思うのです。それを察知すること、それだけで大きな仕事です。

 『グローバリズム以後』52頁、61頁(発言は2016年)

トッドは、人間についての極めて現実的な見方に到達したにもかかわらず、同時に、その生命力に魅せられ、人類の歴史を眺め、底流の真実を感知することに喜びを感じている。なんか、すばらしいなことだな、と思ってしまいます。

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トッドとマルクス

 

「トッド・クロニクル(1)」の最後で「マルクスのように」という比喩を使ったのは、トッドには「次代のマルクス」的な面が大いにあるからです。学説は(ある意味では)正反対ですし、トッドは活動家ではない。しかし、二人が歴史(=社会)を見つめる仕方、社会と学問に臨む姿勢にはたしかに共通性があり、トッド自身も、マルクスを尊敬していると公言しています。そこで、両者の違い、共通点がどのあたりにあるのかを、まとめておきたいと思います。

(1)経済か心性か

以下は、マルクス『ドイツ・イデオロギー』の序文です。

人間はこれまで、自分自身について、自分たちがなんでありまたなんであるべきかについて、いつもまちがった観念をいだいてきた。神とか規範的人間とかについての自分達の観念にしたがって、自分達の諸関係をつくってきた。‥‥人間を萎縮させているこうした夢想、理念、教条、空想というくびきから、われわれは人間を解放しようではないか。われわれは、思想のこのような支配に反逆しようではないか。ある者は、こうした思い込みを人間の本質にふさわしい思想にとりかえることを人間に教えようと言い、他の者は、こうした思い込みにたいして批判的な態度をとることを教えようと言い、また別の者は、そうしうたものを頭のなかから追い出そうと言う。そうすれば、今ある現実は崩れさるであろう、というのだ。‥中略‥
 かつて、あるけなげな男が、人間が水におぼれるのはたんに重力の思想にとりつかれているからにすぎないと思いこんだ。だから‥‥この観念〔重力の思想〕を‥‥頭から追放してしまえば、人間はどんな水難からもまぬかれるというのだ。この男は、生涯をかけて重力という幻想‥‥とたたかった。このけなげな男こそ、ドイツの新しい革命的な哲学者たちの典型だったのである。

新訳刊行委員会『新訳 ドイツ・イデオロギー』(現代文化研究所 2000年)8-10頁

この文章で、マルクスは彼の出身国ドイツの知識人を批判しているのですが‥‥これを初めて読んだとき、私は「なんだ。まるでトッドが書いたみたいじゃないか」と感じました。

最後の「ドイツの新しい革命的な哲学者」の部分を、「フランスの典型的知識人」に変えてみて下さい。彼らの観念論、思想ばかりを重大視して現実を見ず、思想を変革すれば現実が変わると信じている愚かしさを笑い物にするこの姿勢、トッドとマルクスはまるで双子のように似ています。

マルクスとトッドは、現実に対する感受性を共有しているのです。彼らは「何かが現実を動かしている」ことを感じ取っています。知識人が論じる思想や哲学とは無関係の「何か」。彼らが揃って行ったのは、その探究だと思います。

出した結論は異なりました。

マルクスは、現実の土台にあるのは、物質=経済だと考えた。マルクスは「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と述べていますが、階級闘争をもたらすのは資本家による労働者の搾取などの、経済上の矛盾であると考えました。

マルクスにおける「経済」の部分を(家族システムや教育が規定する)「心性」に変えたのがトッドです。

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両者の違いについて、トッドは次のように語ります。

論理的に言えば、イデオロギーは社会・経済的階層構造に一致するとの立場から出てくる説明モデルと、イデオロギーは家族構造に一致するとの立場から出てくる説明モデルとの間には、たしかに違いはない。マルクス主義的モデルと人類学的モデルの真の違いは、前者は観察された事実を説明できないのに対して、後者はそれを説明するという点なのである。共産主義型の革命は、大量の労働者階級を抱えた進んだ工業国には起こらず、伝統的農民文化が共同体型であった国に起こった。別の言葉で言えば、歴史的な事実のデータは、マルクス主義的仮説の無効を証明し、人類学的仮説の正しさを証明するのである

『新ヨーロッパ大全 I 』2頁(『世界の多様性』にもほぼ同じ文章がある)

ちょっと不遜に聞こえるでしょうか。トッドは「マルクスの説は間違っていたが自分の説は正しい。そこが違う」と言っている。実際、トッドとマルクスは、「マルクスが見誤った真実をトッドが見出した」といってよい関係にあります。

しかし、トッドは、マルクスよりも自分の方が優れているとは思っていないと思います。単に、マルクスには十分なデータがなく、自分にはあった。そう考えていると思います。「科学者」としてのこのような姿勢も、トッドとマルクスの共通点といえると思います(私はマルクスのことはそれほどよく知りませんが)。

歴史を動かすものは何か?-- 啓蒙、マルクス、トッド

   マルクス以前の主流、啓蒙主義の伝統を汲む哲学者たち(ヘーゲルとか)は、歴史の中心に当然のように「人間精神」を置いていました。これに対し、マルクスは「人間精神(思想やイデオロギー)を規定しているのは物質的基盤(経済構造)である」と考えた。マルクスは「人間精神の進歩 → 経済(その他もろもろの)発展」と考える啓蒙主義の伝統を打ち捨てて、経済それ自体を発展をもたらす自律的な要素と捉えたわけです。

   なぜマルクスはこのように考えるに至ったのか。その一因として、トッドは、マルクス・エンゲルスが見た19世紀中葉のヨーロッパにおける「教育と経済の分離」を指摘しています。当時、いち早く産業革命を達成していたのは、より識字化が進んでいたドイツ、スウェーデン、スイスではなく、教育面では凡庸なイギリスでした。トッドによれば、これは一時的なもの、それも単純な工場労働者のみを必要とした第一次産業革命の間だけのことで(+イギリスの先行は家族システムから説明ができる)、発展が多様化をもたらす第二次産業革命の局面では、教育水準と経済発展の軌道は再び一致するのですが、ともかく19世紀の一時期には両者は分離していた。この状況において、イギリスの「工業的テイクオフと、それに引き替えてのドイツの遅れに仰天したマルクスとエンゲルスは、経済発展の自律性を主張する解釈モデルを作り上げた」のだとトッドは述べています(『新ヨーロッパ大全  I』189頁)。

   トッドは再び人間精神を歴史の中心に据えましたので、その点では啓蒙の伝統を受け継いでいるといえます。しかし、その中身は、「思想やイデオロギー」ではなく、無意識的なメンタリティである。啓蒙からマルクス、トッドへの流れは、下の図のように整理することが可能です。
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(2)「アカデミズムなどクソ喰らえ」

トッドは国立の研究機関に定年まで勤めたカタギの研究者ですが、研究成果の発表の仕方、アカデミアとの距離感など、研究者としての奔放さは相当なものです。この点について、トッドはマルクスへの共感を隠しません。

私の生涯のすべての時期にわたって、マルクスという人物、マルクスが体現する思想家としての型、それに、全面的に己の作品の中にアンガジュマンを行いながら、大学等が要求する約束事からは全面的に自由であったそのあり方は、一種、実存的モデルであった

『トッド 自身を語る』92頁(発言は2012年)

『シャルリとは誰か?』のアカデミックではない、攻撃的な書き方は、マルクスを意識しています。少なくとも私としては、あの本は、マルクスへのオマージュのつもりです。大学アカデミズムなどクソ喰らえ、というマルクスの姿勢への共鳴です

『問題は英国ではない、EUなのだ』101-102頁(発言は2016年)

トッド・クロニクル 1951~1976 の中で、家系における非フランス的要素などから、トッドは、フランス社会を「外部者」として見ていると自認していることを書きましたが、その点でも、マルクスとの共通点を感じているようです。

「彼はドイツ系ユダヤ人でした。そして父親はルター派に改宗した人間です。その後、フランスに渡り、イギリスへの行きます。彼はドイツ語で書いていましたが、ドイツの思想を批判し、またフランスの階級社会を外からの視点で批判しました。さらに、イギリスの政治経済状況をも批判しています。なぜこうしたことが可能だったかというと、彼自身が宗教的なマイノリティ出身だったのみならず、その家系がその宗教から抜け出していたからでしょう。また、そのころ支配的であったヨーロッパの三か国を見たというのも重要な点だと思います。」

『エマニュエル・トッドの思考地図』127頁

「私にとってマルクスは重要な存在です。マルクスは、ドイツ、イギリス、フランスというヨーロッパ文化の三代潮流の交差点に位置し、ヨーロッパ・ユダヤ人の典型です。「マルクス主義」ではなく、そのような存在としてのマルクスが私にとっては大事なのです。」

『問題は英国ではない、EUなのだ』101-102頁(発言は2016年)『エマニュエル・トッドの思考地図』127頁にも類似の発言がある。

トッドは、マルクスが発見できなかった真実をついに発見したにもかかわらず、学界からは拒絶され、政治的なアンガジュマンにおいても、エリートたちから無視されて終わります。その過程で、トッドはマルクスへの敬慕を一層深めていったことでしょう。

そうこうするうちに、資本主義はマルクスの時代のそれのように「獰猛」な様を見せ、「利潤率に取り憑かれた人たち、資本の蓄積の虜になった人たちが再び姿を現」すようになった。

ここに至って、トッドは、かつては「形而上学だ」と思った1「読もうとしたができなかった」とも(『トッド 自身を語る』29頁)という『資本論』を「ついに真剣に」読む態勢になっている、と述べています(『最後の転落』21−22頁(発言は2012年))。

この先、トッドとマルクスの関係にはもう一段、新たな展開があるのかもしれません(フランス語ではすでに『21世紀フランスの階級闘争』(2020年)という本が出ているようです)。

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トッド・クロニクル(2)ー大発見とその後

発見前夜 ー 経済中心思想との決別 (1979)

1976年の『最後の転落』の後、トッドは、「ル・モンド」の記者として歴史関係の書評やインタビューなどをこなしながら(『トッド 自身を語る』26頁等)、自由に研究を続けていました。

この時期の著作(1979年の『狂人とプロレタリア』、1981年の『フランスの創出』)は、どちらも邦訳書が出ていないのですが(英訳も出ていないので私は読んでいないのですが)、仄聞する限り、どちらも、その後完成する理論の準備段階に位置づけられるもののようです。

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まず、『狂人とプロレタリア』。第一次世界大戦を取り上げたこの本で、トッドはは、歴史をメンタリティの観点から分析するという方法を正面から採用します。

この頃、「精神分析に関心を持ち、人間の非合理的な面を重視するように」なっていたトッドは、デュルケム(社会学者)の『自殺論』に倣って、西欧諸国のアルコール依存症や精神疾患の患者数といった指標を用いた分析を行い、第一次世界大戦を中産階級の集団的狂気」として描きました。

この本の執筆の過程で、トッドは、心性に関連する指標の説明力の高さを実感し、「経済主義」の不毛さに確信を抱いたものと思われます(読んでません!)。

また、第一次世界大戦という(とくに)バルカン諸国の近代化の過程における「集団的狂気」の分析は、「大発見」を機にトッドの脳内情報が一気に整理されたそのときに、近代化理論の一部に組み込まれていったと考えられます

この本を振り返って、トッドは「若書きを恥ずかしいと思うと同時に、誇らしい」。なぜなら「マルクス主義的もしくは自由主義的な「経済主義」と決別するきっかけとなった本だから」、と語っています。

フランスの創出L’Invention de la France)』の方は、人口学者であるエルヴェ・ル・ブラーズと共に、フランスの人類学的多様性を分析した著書のようです(それ以外にも重要な要素があるかもしれませんが、わかりません)。そうだとすると、これ以降のトッドによるフランスに関する分析の基盤をなす研究業績だということになるでしょう。

なお、ル・ブラーズは、この頃トッドが就職した国立人口学研究所の同僚で、これ以降も共著(『不均衡という病』(2013年)(邦訳は2014年))を出しています。『文明の接近』(2007年)(邦訳は2008年)の共著者ユセフ・クルバージュも研究所人脈ですから、人口学の専門家との交流はトッドにとってよい刺激となったようです。

  • 『狂人とプロレタリア』でマルクス主義的 or 自由主義的「経済主義」と決別
  • 国立人口学研究所に就職し人口学人脈を得る

大発見を世に問う ー 『第三惑星』 出版(1983)

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トッドが「大発見」にみまわれたのは、そんなある日のことでした。

ある日、後に母から相続することになるアパルトマンのソファーに寝転がっていたところ、「外婚制共同体家族の分布図」と「共産圏の地図」とが突如、重なったのです!まさに啓示でした!私は何らかの目論見からこの二つを重ねようとしたのではありません。とにかく「二つが一致する」ことを突如、発見したのです

『問題は英国ではない、EUなのだ』91頁

トッドはこの「啓示」をきっかけに、家族システムとイデオロギーの関係性に思い至った、とあちこちで述べているのですが、これはやや眉唾、というか誇張があるのではないか、と私は見ています。

先ほど、トッドのケンブリッジ時代、トッドとラスレットの「根本的不一致」について書きましたが、この件について、トッドはこうも語っているのです。

私は家族制度と政治的イデオロギーの間には関連がある、過去の農民の中に18世紀から20世紀にかけてイデオロギー化されたものを観察することができる、フランスが自由と平等の理念を信じるのは、パリ盆地の農民たちが自由と平等を信じていたからだ、ロシアが共産主義になったのは、ロシアの農民が一種の権威主義的かつ平等主義的な大家族の中で生きていたからだ、と考えましたが、ラスレットはそうした命題全体に反対でした。

『世界像革命』108頁

つまり、ケンブリッジでヨーロッパの家族システムの研究をしていたトッドは、その段階から、ヨーロッパの家族システムとイデオロギーの間には関連性があるという感触を持っていた。

アパルトマンでの「啓示」は、家族システムとイデオロギーの関係を「ヨーロッパの現象」として捉えていたトッドの目を、世界全体に開くものだったのではないでしょうか。

外婚制共同体家族の分布図には、ロシアだけではなく、ユーゴスラヴィア、中国、ベトナム、キューバといった国々が含まれます。この全てが、共産主義が成功した国々であると気づいたときの驚き。

「!」

ヨーロッパについて漠然と抱いていた感覚が、世界全体の謎に接続した瞬間です。

この発見の後、半年かけて、パリの人類博物館の図書室に閉じこもり、地球上の家族構造を分類し、自分の直感が正しいかどうかを検証しました。「農村社会の家族構造によって近代以降の各社会のイデオロギーを説明できる」という仮説が本当に妥当するのかどうか、神秘を前にするような不安のなかで、一つ一つ検証していったのです。私の仮説を無効にしてしまう家族構造が、いつどこから現れてきても不思議ではありませんでした。けれども、ヨーロッパの中心部から南部へ、アジアからラテン・アメリカへと解読作業を進めるに連れて、この仮説が強力に機能していると確信していったのです。

『問題は英国ではない、EUなのだ』92頁

トッドはこの発見を大急ぎで論文にまとめ、1983年『第三惑星ー家族構造とイデオロギー・システム』というタイトルで出版しました(邦訳は『世界の多様性』に所収)。

なぜそんなに大急ぎだったかというと、トッドは「先を越される」ことを恐れていたからです。共産主義と外婚性共同体家族の一致は、トッドにとっては四の五の言う必要のない「明白な」事実であって、単に気づくかどうかだけの問題だった。彼と同じようなデータを扱っている研究者たちの顔も目に浮かびました。

出版しさえすれば、他の研究者たちにも「明白なものとして速やかに受け入れられると」、ごく楽観的に構えていた彼は、博士論文に言及して自分が家族システムの専門家であることを知らしめることも、彼がラスレットやマクファーレンの系譜の中にあることを明記することもせず、「イデオロギー的な幻想に対して‥‥喜々としてまた残酷なまでの批判を突きつけ」るこの本を、いわば「丸腰で」、世の中に送り出したのでした(以上につき『世界の多様性』22-23頁)。

*なお、トッドの仮説の形成においては、アラン・マクファーレン『イギリス個人主義の起源』(1978年)の影響も重要です。トッドは「仮説を立てた時点では‥‥すっかり忘れていた」らしいのですが、「ル・モンド」の記者時代に、イギリスの古い核家族と個人主義イデオロギーの関係を指摘したこの本を絶賛する書評まで書いているのです。マクファーレンはケンブリッジの人類学教授でもありましたから、同書出版以前に彼の着想を知る機会もあったかもしれません。彼の影響を思い出して以降は、トッド自身、家族システムとイデオロギーに関する彼の理論の系譜は「ラスレット→マクファーレン→トッド」であると明言しています(『トッド 自身を語る』19頁、『家族システムの起源I 上』20-23頁)。

近代化理論の完成 ー 『世界の幼少期』 (1984)

トッドは、翌1984年には『世界の幼少期』という本を出版しています(邦訳は『世界の多様性』に所収)。

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『第三惑星』で、トッドは、世界の主要な国々に見られる家族システムを類型化し、政治経済に関わるイデオロギーとの関係を示しました。

『世界の幼少期』では、識字率のほか、婚姻、出生に関わる人口動態データを用いて、家族システムの影響を組み込んだ「近代化理論」を打ち出し、成長に関する現状(ある地域はなぜ高度に成長していてある地域はそうでないのか、ある地域では女性の地位が高くある地域ではそうでないのはなぜか、等)の説明と近未来の予測を提示してみせました。

この本で、トッドは、成長を主に経済的現象と見る社会通念を否定し、成長とは文化的(心的)現象、とりわけ教育に関わる現象であるという事実を明らかにしたのです。

近代化のメカニズムの解明を通じて、社会の表層で起きる現象に対して、家族システム、教育という指標が、経済的指標などその他の指標をはるかに凌駕する説明力を持っていることを証明した。これがトッドの社会科学に対する基本的な貢献です。つまり、『第三惑星』『世界の幼少期』の2冊で、トッドの理論は、ほぼ完成しているのです。

「啓示」を受けたトッドがあっという間に2冊の著書をまとめるこの手際の良さを見ると、やはり、「啓示」は、ある程度の青写真をすでに持っていたトッドのところに訪れて、ブレイクスルーをもたらしたと考えるのが自然だと思います。

すでに見たように『第三惑星』の青写真は、ケンブリッジ時代に、ラスレットやマクファーレンの影響下で、トッドの脳裏に浮かんでいたものでした。では『世界の幼少期』の方は、どこから来たのか?

この着想をトッドにもたらしたのは、ローレンス・ストーン(Lawrence Stone)というイギリスの歴史学者でした。

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もし識字化に関するわれわれの数値が正しいなら、それは大まかではあっても、イングランド革命、フランス革命、ロシア革命という、西洋の三大近代化革命は、男性の識字率が三分の一と三分の二の間にあり、それ以上でもそれ以下でもない、そうした時に起こっているということを示唆している。

Literacy and Education in England 1640-1900, Past Present, Volume 42, Issue 1, February 1969, p.138 (翻訳は『デモクラシー以後』105頁をそのままお借りしました)

トッドは1964年および1969年に公刊されたストーンの論文(The Educational Revolution in England, 1560-1640, Past and Present, Vol.28, 1964, pp.41-80)を(おそらく学生時代に)読み、強い印象を受けました。

識字化が民主制の伸張に主導的な役割を果たしたことは、もう何年も前にストーンの論文を読んで以来、私には自明のことのように見えた。

『デモクラシー以後』107頁

それにも関わらず、識字化の指標が学術界で十分に生かされていないことを知り、トッドは「男性識字率50%超過→政治的民主化」という命題を「ストーンの法則」と命名し、自身の理論の中で大いに活用していくのです。

「それでも地球は動く」 ー トッド、異端者となる

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なぜ近代化の牽引役となったのがヨーロッパの端っこの島国イギリスだったのか。市民革命を起こしたフランスがヴィシー政権でナチスドイツに屈したのはなぜか。他のどの工業先進国でもなく後進のロシアで共産主義革命が起こったのはなぜか。ベトナム、キューバのように共産主義化する国が他にも現れるのか。ロシアや中国はいつか西側諸国と同じ民主主義国家となるのか。中東や中東アジアはどうか。彼の地やアフリカ各地、アジアの後進地域で現在起きている動乱はいったい何なのか。彼らはこの先安定した近代国家を構築できるのか。できるとすればそれはいつなのか。‥‥

こういったことを全て一定の蓋然性の下で説明・予測できる理論を見出したとしたら、それは「大発見」というほかありません。

トッドは、(おそらく)DNAの二重らせん構造を発見したワトソン、クリックが大急ぎで論文をまとめたときのような気分で、超特急で本を執筆・出版しました(『エマニュエル・トッドの思考地図』94-95頁、『問題は英国ではない、EUなのだ』95頁)。

もちろん、彼は、ワトソン、クリックが受けたような賞賛が自らを待っていると期待していたでしょう。「思想に関する幻想から解放してくれたと多くの人々から感謝されるだろうとすら」思っていた、と後に語っています(『エマニュエル・トッドの思考地図』189頁、192頁)。

ところが、実際に彼を待っていたのは、曲解、敵意、酷評。つまり、新しい理論に対する拒否反応でした。

私はこの刊行によって、偉大な研究者として認めてもらえることを夢見ていたのに、まるでガリレオのような状態に陥ったのです。

『エマニュエル・トッドの思考地図』192頁

1983年に刊行された『第三惑星』の主な読者はフランスの知識人でした(英訳が出るのは1985年です)。彼らはこの本の何を拒絶したのか。

彼らが拒否したのは、この本の「思想」でした。フランスの知識人たちは、この本に、決定論の思想、人間の自由を否定する思想を読み取り、拒否反応を示したのです。

1980年代前半、知識人たちは、マルクス主義の「経済決定論」を葬り去り、自由の勝利を謳歌しようとしていました。「実際、単純な説明で理解することができるという考えそのものが、信念の単純さから開放されたと感じ、世界と生命に複雑さを発見しようとしていた人々にとっては耐え難いものと映ったのである。この時代の思想の流行は、‥‥「複雑性」であり、「システミック」であったのだ」(『世界の多様性』16頁)。そのような時代背景が一つ。

より本質的な要因は、彼らの人間観であり、世界観だと思います。フランスやイギリスの人々は、自分たちの精神は自由であると信じ、誇りに思っています。その自由を最大限に使って、民主主義を発明し、「自由、平等、博愛」のスローガンで世界を鼓舞し、自由で民主的で豊かな世界の実現に貢献してきたと自負しています。

「それなのに、トッドという奴は何だ? 家族がイデオロギーを決定するだと?保守反動もいい加減にしろ。人間の自由への冒涜だ!」

「せっかく階級から解放されたと思ったら、今度は家族だと?冗談じゃない!」

とまあ、そういうわけで、トッドは、保守反動の差別主義者という訳のわからないレッテルを貼られ、知識人世界の反発を一身に受けることになるのです。

念のため、確認しておきますが、トッドが世に問うたのは「思想」ではありません。事実です。トッドは家族システムとイデオロギーの間に相関関係があるという「事実」を発見し、それを公表した。しかし、人々は、その事実としての妥当性を評価する前に「自分の世界観に合致しない」という思想上の理由でそれを拒絶したのです。

トッドはつぎのように述べています。

重力は人間の自由を束縛するから、重力を発見した科学者はファシストだとでもいうのだろうか。重力は存在しないと宣言すれば、人間は自由になれるとでもいうのだろうか。重力を否定する科学者は確実に重大な事故を引き起こすだろう。しかし重力の存在を認めてモデル化するなら、飛行機を発明することも、月に到達することもできるのである。(『世界の多様性』19-20頁を趣旨はそのまま改変)

*「トッドとマルクス」でご紹介したマルクスの文章にも、重力の例が使われていました。

 

リベンジ! ー 1990 『新ヨーロッパ大全』刊行

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『第三惑星』『世界の幼少期』の出版という胸躍るイベントは、正当な評価を受けないまま終わりました。しかし、何にしろ、偉大な発見を、このままで終わりにするわけにはいきません。

トッドは、その後、7年間を費やして、範囲をヨーロッパに絞って、家族システムとイデオロギーについての仮説をより丁寧に綿密に検証する作業を行い、彼の理論をより学術的で説得力の高い著書として完成させました(『新ヨーロッパ大全 I・II』フランスでの刊行は1990年)。

*「トッドの学術的な著作をどれか一つ読んでみたい」という読者には、私はこれをお勧めします。読むたびにその説明力に唖然としてしまう。すごいの一言です。 

トッドのアンガジュマン(社会参加)

そうこうしているうちに、楽観的な80年代を生きる浮かれた若者だったトッドは40歳を過ぎ、フランス、というか 、先進国はみな、深刻な景気後退局面を迎えていました。

自らの理論への一層の確信と、より練り上げられた理論を手にする彼の目の前には、経済的格差の増大、排外主義の高まりの中で、希望を見出せずにいる庶民、若者、移民出身者たちがいて、他方に目を移すと、そこには、危機に対して何ら意味のある行動を取ることができず、自己利益のために国民の大半を犠牲にして恥じない政治家、エリートたちがいた。

‥‥科学者として、政治家たちがその国に暮らす人びとの内でも最も弱くて脆い立場にいる人びとを無益に苦しめつつ、全体を災厄へと引っ張っていくのを目の当たりにして激しく苛立つことがあるのです。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』4-5頁

トッドは、家族システムを中心とした歴史人類学研究を深化させていく一方で、「アンガジュマン」を開始することになります。

トッドは基本的に、フランス市民として、フランス人の科学者として、フランスのエリートに論争を仕掛けていくというやり方を取るのですけど、フランスが抱えていた(る)問題のほとんどは、程度や現れ方の違いはあっても、日本と共通です。景気の低迷、グローバル経済の中での格差の増大、排外主義の活性化、アメリカのプレゼンスの低下や各種(国際的)地域情勢への対応、等々。

しかも、それらは何も解決していないので‥‥この「入門講座」の中では、トッドの基礎理論の部分だけでなく、「アンガジュマン系」の議論についても、ご紹介していく予定です。

近未来への展望 ー 非西欧文明の若者たち

家族システムとイデオロギー、そして「成長」に関するトッドの理論は、「第三惑星」の出版から40年になろうとする現在も、正当な評価を受けているとはいえません。

トッドの言によれば、学者としてのトッドは、「どちらかというと国外の、アメリカの経済学者やオランダの学術界で少しずつ認められてきてはいますが、フランスでは一部の若者層を除き、認められていない」(『エマニュエル・トッドの思考地図』187頁)。トッドには悪いですが「学術界」ということでいえば、日本でも状況は同じです。

*フランスのウェブ(テレビ)番組から生まれた本『アラブ革命はなぜ起きたか』(2011)を読むと、「一部の若者層に」認められているという雰囲気が少し感じられる気がします。それはそれとして、トッドの理論の入門書としては、この本をお勧めします。

トッドは今年で72歳になります。この間、ずっと活発に執筆活動、社会的発言を続け、それでもこの程度の認知しか得られなかった。彼の理論は、このままフェイドアウトしていく運命にあるのでしょうか?

私には、一つ、確信していることがあります。

それは、この先、そう遠くない将来に、中東や中央アジア、アフリカなどの若者たちが、トッドあるいはその精神的後継者の理論を発掘し、役立てていくだろう、ということです。

上述の地域は、現在、近代化の過程の只中にあるか、これからそれを迎えようという地域です。そこでは、非常に若い人口が(例えばアフガニスタンの2020年の年齢中央値は18.4歳です(日本は48.4歳))、人口を大幅に増やしつつ、今から民主化を達成し、自分たちに見合った社会を作ろうとしている。

先進国がトッドを拒絶した(あるいは少なくとも歓迎しなかった)理由というか背景の一つは「人口の老化」であると私は見ています。老いた文化圏には「新しい真実」など、煩わしいだけですから。

しかし、今から成長しようとしている地域は違います。

数々の問題を抱え、停滞している西欧文明を横目に見ながら、新しい社会を作っていく彼らには、真新しい真実こそが必要です。

そして、先進国によって長らく「遅れた」というレッテルを貼り付けられてきた彼らには、自分たちは何者なのかを知りたい。知らなければならないという強い願望があるはずです。

彼らは、西欧社会が描いた歴史地図から抜け出して、新しい社会の設計図を描くため格好の道具として、トッドの理論を発見するでしょう。夢中になって読み漁り、西欧文明とは何だったのか、自分たちに今何が起きているのか、自分たちは何者でありうるのか。その全てを知り、未来を作るために、彼の理論を役立てていくでしょう。

・ ・ ・

私は、ただ自分のために、自分がどんな世界に生きているのかを知るために、トッドの理論を学びました。今、こうして「講座」を開いているのは、この理論が、それぞれの人の「自分のため」の探究に役立つ道具であることを確信しているからです。

それでも、私自身の探究が彼らのそれと重なって、どこかで協力しあえたらと思わずにいられないし、「老いた社会」に暮らす若い人たちの探究が、彼らのそれと重なって、停滞の中でのサバイバルなんかではない、新しい社会を作る作業に連なっていくようにということも、願わずにはいられません。

トッドはどこかで「この理論を国連に採用してほしいのだが‥」と冗談めかして語っていたことがあります(どの本で読んだか思い出せないのですが)。「私もそう思う!」と言いたい。冗談ではなく。

考えられる限りフラットなこの鏡(=歴史観)を手にしていれば、進歩とは競争ではないことがわかるし、違いは怖れる対象ではないことがわかる。自分と彼らは同じ世界に住んでいることがわかり、「自分のため」の探究が、必ずや、彼らのそれと重なっていくであろう、ということもわかるのです。

今、私が社会科学者としてできる一番の貢献は、この理論を伝えることだと思うので、この先、彼の理論を明快に分かりやすくお届けするために、できる限りのことをするつもりです。

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トッド・クロニクル(1) 1951ー1976 ー修業時代のトッドー

エマニュエル・トッドは、不思議な研究者です。歴史家、歴史人口学者、家族人類学者などいろいろな肩書きがあって、権威ある出版社から何冊も学術書を出している著名な研究者なのに、大学に所属していない。

同じ知識人でも、思想家やジャーナリストであれば、大学人でないのは普通です。しかしトッドは学術研究者なのです。17世紀や18世紀ならともかく、学問の制度化が進み、大学が学術全般を統括するのが当たり前となったこの時代において、彼のような学者の存在は、かなり珍しいことといえます1トッドの肩書きが定まらないのも、彼が大学という制度に属していないためと考えられます。

しかし、この自由な立ち位置があってこそ、トッドはトッドになり得たのだと私は思うので、いったいどうやるとこういう研究者ができあがるのか。その成り立ちを追ってみました。

1951  「パリ盆地のフランス」 と 非フランス的要素

エマニュエル・トッドは、1951年、パリ郊外のサンジェルマン・アン・レー(Saint-Germain-en-Laye)というコミューンで生まれました。行政単位でいうと、イル・ド・フランス地域圏(首府はパリ)イヴリーヌ県に属します。

トッドの本には「パリ盆地のフランス」という言葉が出てきます。後でご説明する家族システムによる分類では、フランスは大きく2つに分かれるのです。自由主義的で平等主義的な核家族のフランスと、権威主義的な直系家族のフランス。このうち、前者、自由主義的で平等主義的な価値観を代表するのが、「パリ盆地のフランス」です。

トッドは、その「パリ盆地」で生まれ育った人であるということは、記憶にとどめていただくとよいかもしれません。

一方で、彼は、自らの家系の中にある「非フランス的要素」にもよく言及します。母方にユダヤ系の知識人の系譜があること(『シャルリとは誰か?』239頁以下、『エマニュエル・トッドの思考地図』121頁以下等)、父方はイギリス出身の家系であること(『思考地図』122頁等)、等々。

トッドがこれらに「よく言及する」のは、彼の学問にとって重要な(と彼が考える)2つの要素を象徴しているためです。

1つは、彼が、フランス社会のど真ん中にいる知識人とは少し異なり、「外側から」フランス社会を見る視点を持っているということ、もう1つは、彼はイギリス的な経験主義(実証主義)をよしとする「アンチ観念論」の伝統に与しているということです。

後者について、少し続けます。

彼の父、オリヴィエは、ジャーナリストとして成功した人ですが、すでに述べたようにイギリス系の家系で、自身も、大学教育はイギリスで受けています。観念的な大陸哲学に批判的なバートランド・ラッセルヴィトゲンシュタインが活躍していたその時代に、ケンブリッジで哲学を学んだ人です。

また、トッドが「とても知的で、厳格な知性の持ち主であった」と語る母アンヌ・マリーは、彼に「ただ言葉を羅列するだけの無意味なおしゃべり」をしないよう厳しく躾けたといいます。アンヌ・マリーの父ポール・ニザン(文学者、ジャーナリスト、共産主義の活動家)は、やはりフランスの大学における哲学に批判的な人でした。

トッドは、くだけたおしゃべりの中で、私は自分自身の家系からフランスとドイツの哲学に対する敵愾心を引き継いだ(『問題は英国ではない、EUなのだ』86頁)、と語っていますが、「家系」の影響かどうかはともかく、彼が、哲学や思想を概して「無意味なおしゃべり」と考えていること、事実に基づく分析こそが真実への道であると考えるタイプの知識人であることはじじつであり、重要な点といえます。

  • 「パリ盆地のフランス」で生まれ育つ 
  • 家系の「非フランス的要素」が外部者の視点を育んだ
  • 観念的な哲学・思想を嫌い、イギリス的経験主義(実証主義)を好む

1961 トッド10歳の夢 歴史と科学的発見

少年トッドは将来に何を夢見ていたのか。
彼は2つのことを語っています。

1つは、歴史家になりたかったということ(『エマニュエル・トッドの思考地図』23頁、『問題は英国ではない、EUなのだ』78頁等)、もう1つは、偉大な学者になりたかった、それも、パスツールやニュートンのように新しいことを発見する人になりたかった(『世界像革命』122頁)、ということです。

とにかく私は、10歳のとき、「歴史家になりたい」と思いました。なぜかはよく分かりません。
                                                   

『問題は英国ではない、EUなのだ』78頁

「歴史家」というのは、彼の中では「歴史を観察する」人間のことで、「歴史を哲学する」人間のことではありません。この点は一貫しています。考古学の本やら、古代文明の本やらを読んで、「こうだったのか、ああだったのか」と想像し、自ら地図を描いたりしてみる。歴史上の戦争に胸をときめかせ、スパルタの強さ、カルタゴの将軍ハンニバルに魅了される。少年トッドの情熱は、ひたすら歴史の本を読み漁り、歴史上の事実に触れることにありました。

一方で、彼は、偉大な学者になりたいと夢見ていた。

いずれも自身による回想ですから、割り引いて聞く必要があるかもしれませんが、歴史に魅了され、かつ、パスツールニュートンのような大発見をなすことを夢見ていた少年は、その後20年の間に、まさにその通りのことを成し遂げます。

彼がどれほどの興奮と喜びでその日を迎えたか。
ちょっと想像もつかないほどのことだと思います。
ところが。

少し予告しておきます。実際には、彼の発見はまったく理解されず、受け入れられません。そして、世間の反発や無理解に立ち向かうところから、彼の本当の学者人生が始まることになるのです。

  • 歴史家になりたかった
  • パスツールやニュートンのような大発見を夢見ていた
  • 20年後、歴史学上の大発見を成し遂げた

1968 パリ 五月革命の精神

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1951年生まれのトッドは、世界中で巻き起こった大学紛争を当事者として経験した世代です(日本だと高橋源一郎さんが同じ1951年、内田樹さんが50年の生まれです)。フランスのそれはとくに激しく、学生と労働者が結集、内戦や革命が起きることが危惧されるほどでした(日本語では五月革命、フランス語ではMai 68として知られます)。

私は1968年5月(パリ五月革命)を経験しました。パリの街頭に出て、走り回って、舗道の石をはがして警官に向かって投げました。下手なので他のデモ参加者の上に落ちてしまったけれど。
                    

『グローバリズム以後』101頁

このとき、トッドは高校生で、活動家としてフランス共産党に所属していました(戦後のフランスは社会全体の共産党支持率がかなり高い社会でしたので、若者のフランス共産党所属はそれほど珍しいことではないと思われます)(『トッド自身を語る』61頁等)。

フランス的知識人の典型というものがあります。哲学者や思想家を名乗り、自らの思想を基盤に、現在進行中の社会的・政治的事象に対して積極的に態度表明することを役割と自認する。古くはジャン・ジャック・ルソージャン=ポール・サルトル、比較的最近ではジャック=デリダとか、ジャック=アタリのような人びとでしょうか。

トッドはすでに述べたように「哲学嫌い」であり、自分はこのような知識人とは違うと繰り返し述べています。

パリ型またはフランス型の知識人の役割を、私はあまり好きではないということです。‥‥私という存在を、職業的、心理的、知的なレベルで基本的に支えているのは、研究である。つまり、現実の分析であり、現実の観察、現実の描写そして現実とその多様性を理解するために努力することです。

『世界像革命』116頁

しかし、彼が、研究室に引きこもり、論文を書く以外の社会的発言を一切しない学者であったかといえば、全くそうではないのです。その研究者人生において、彼はしばしば政治的・社会的問題について公に発言し、討論に参加しました。それも、ときには人を寄せ付けないほどに断固とした態度で、敢然とそれを行ったのです。

彼が自らが科学者として得た専門的知見をどんなときに、どんなふうに使ったか。そのアンガジュマン(engagement(仏)社会参加)の仕方は、彼の中に「1968年5月」の時代精神が、最良のかたちで生き延びていることを見せつけます。少し下の世代である私から見ると「知的なものごとの価値に対する信頼感」と「社会変革への意思」というようなものが、煌めいているのです。

ただし、こちらに関しても、彼が勝利を収めることは決してありませんでした。つまり、政治的論争に参加して、彼の思い通りに事が運んだことは一度もない。

しかし、政治的敗北は、研究者としてのトッドにとっては、祝福であったように私には思えます。ままならなさに直面したことで、社会(とくに人々の心)の真実を見る彼の目線は、いっそう曇りなく磨かれることになりましたから(後でもう少し詳しく述べますね)。

  • 大学紛争世代
  • 社会に積極的に意見表明するフランス型知識人の典型を嫌う
  • 科学者として言うべきことがあれば果敢にアンガジュマン(社会参加)

1968〜1975 パリ、ケンブリッジ、フランス帰国

トッドの研究歴は、パリ・ソルボンヌ大学から始まります(彼は同時に名門グランゼコール(テクノクラート養成校)であるパリ政治学院にも通っており(修了証も取得)、得意な数学を生かして統計学の授業を取ったことを語っています(『エマニュエル・トッドの思考地図』152-3頁))。

*「けっ、エリートめ」と感じさせる学歴ですが、「エリートコースではない」というのが本人の言です。パリ大学の歴史学部というのは大した学歴ではなく(文系なら高等師範学校を目指すのがエリートだとか)、将来を案じた父親の勧めでパリ政治学院にも入学するということになったのだそうです(同前)。当時のトッドは「理系がちょっと得意というだけのまったく凡庸な生徒」であったため、「入学したものの授業についていけず、‥‥途中で退学しようとすら考え」るなど、「政治学院時代は本当に苦労した」(前掲111−112頁)と語っています。

歴史家になるために入ったソルボンヌで、トッドは、彼の歴史研究者としての方向性を定める、(便宜的に分けると)2つの潮流に出会っています。彼の理論の骨子を作り上げたものでもあるので、整理してご紹介しておきたいと思います(下の図は彼の理論のイメージです。参考までに載せておくだけなので、ここでは「へー」という感じでご覧ください)。

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(1)「心性(メンタリティ)」に出会う

1つは、この頃盛んになっていた「新しい歴史学」の潮流です。

この時代の若い歴史家たちは、歴史の記述が、一般に、著名人、大事件、政治経済に偏りすぎであることに問題意識を持っていました。

例えば、「明治維新によって日本は近代化した」というと、坂本龍馬や西郷隆盛のような「偉い人たち」が活躍したから日本は近代化することができた、という話になりますね(「大河ドラマ史観」といいましょうか)。でも、本当にそうなのか。

坂本や西郷のいた日本には同時代だけで1500万近くの人間が住み、社会を形成していました。坂本や西郷が日本を作ったというよりは、その時代そしてそれより前の時代の全ての人々の暮らしとそれらが織りなす「うねり」が坂本や西郷を生み、日本に近代化を経験させた、というのが真実のはずである。そうであるなら、歴史学は、個々の事件よりも、その「うねり」に着目するべきなのではないか。

そう考えて、それまでの歴史学があまり取り上げてこなかったものごと2要するに「ありとあらゆること」、例えば「気候、死、医学、病気、恐れ、子供、家族、性愛、父性、女性、魔女、周縁性、狂気、夢、におい、書物、民衆文化、祭りなど」(小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)(米田潔弘)を取り上げ、そこから社会を作り上げていたメンタリティ(心性)を浮かび上がらせようとした。それがこの「新しい歴史学」でした。

*「新しい歴史学」について
日本に定着した学問の名称としては「社会史」が一番普及していると思います。自身もその代表的な研究者の一人である阿部謹也さんによる解説がこちらにありますので、ぜひご覧ください。https://kotobank.jp/word/社会史-162062)

フランスの動きは「アナール学派」として有名です。「歴史人類学」という名称も用いられますが、これはおそらく「人類に関するありとあらゆることを扱う総合的な学問」として歴史学を行うという宣言なのだろうと思います。   

この「新しい歴史学」は時代の潮流でもありましたし、ソルボンヌ大学でトッドを指導したエマニュエル・ル=ロワ=ラデュリはその中心人物でした(トッドは彼の元で修士論文を書いています)。

トッドが確立した理論は、家族システムや教育の普及度から社会の現実を説明するものですが、前者(家族システムや教育の普及度)と後者(社会)を媒介するものはつねにメンタリティ(心性)です。なぜ家族システムが政治経済システムと関連し、教育の普及度が近代化の度合いに関わるのか。その答えは「それらがメンタリティ(心性)を左右するから」なのです。

トッドは、歴史の根本にあるのは経済(物質)でも思想でもなく社会の深層にあるメンタリティ(心性)であるという感覚を、この「新しい歴史学」から受け継いでいます。この感覚があればこそ、トッドは、経済中心思想(19〜20世紀の時代精神!マルクスの唯物史観はその代表だがそれだけに限りません)から抜け出し、歴史学上のブレイクスルーを達成することができたのですから、彼の歴史家としての基礎を築いたという意味で、ソルボンヌ時代の学びが及ぼした影響は甚大といえます。

(2)家族研究と出会う

もう一つ、重要なことは、歴史人口学との出会いです。

* なお、歴史人口学も「新しい歴史学」の潮流の中にある、その1ジャンルといってよい学問分野ですが、トッドの理論形成史においてとくに重要なので、区別して扱います。

ソルボンヌ大学の学部生の頃、単位を取る必要から、たまたま「歴史人口学」という科目に登録しました。
 そこで出会ったのが、ジャック・デュパキエ (1922-2010) という非常に才能豊かな先生でした。フランスの偉大な歴史人口学者の一人で、非常に授業がうまかった。彼はさまざまな資料を配布してくれました。私はそれに釘づけになりました。たとえば、18世紀フランスの農民の生活を具体的に想起させるような資料です。
 とにかく、歴史人口学の授業が面白くて仕方がなかった。歴史人口学は統計を扱う学問ですから、数学好きだったということも手伝ったのだと思います。
                                                     

『問題は英国ではない、EUなのだ』82頁

さらに、トッドは、ソルボンヌで修士号を取得した後、「家系の伝統に則っ(て)」(同前83頁)留学したイギリス・ケンブリッジ大学で、ピーター・ラスレットと出会います。

ラスレットはその頃、研究グループを立ち上げ(the Cambridge Group for the History of Population & Social Structure)、歴史人口学、中でも統計的な手法による家族や世帯の研究に熱中していました。

ここで、トッドは家族研究に出会うのです。これで、トッドの理論の核となる3要素、①心性、②家族、③教育のうちの2つが揃いました。

トッドはラスレットの下で学び、博士号を取得します(1976年。論文タイトルは「工業化以前の欧州における七つの農民共同体。フランス、イタリア及びスウェーデンの地方小教区の比較研究 (Seven peasant communities in pre-industrial Europe. A comparative study of French, Italian and Swedish rural parishes) 」)。

一方で、トッドとラスレットの間には当初から「根本的な不一致」(『世界像革命』108頁)があったこともじじつのようで、博士論文も反ラスレット的探究の産物です。

ラスレットは当時、イギリスの家族が17世紀にはすでに個人主義的で核家族であったことを発見したところでした(同前)。歴史学および一般の常識は、家族制度は「農村時代の大家族→工業化→近代的核家族」という過程で「発展」すると考えていたので(マルクスやヴェーバーが作り上げた歴史観のようです)、「工業化以前の核家族」は大きな発見でした。

「イギリスでは農村時代から核家族が普通だった」という発見の後で、何を構想するか。ここに、ラスレットとトッドの「不一致」がありました。ラスレットの方は、「ヨーロッパ中で(工業化以前から)主要な家族形態は核家族であったに違いない」と考えたそうです。「彼は一時、過去の農民大家族というのは全くの神話であると宣言し、核家族をあらゆる時代、あらゆる場所に支配的な普遍的組織様式の地位にまで高めようとしたのである。」(『家族システムの起源1上』22頁)

これに対し、トッドの方は、「ヨーロッパには多様な家族制度があったに違いない」と考え、ヨーロッパ各地を探し回った。

この点に関してはトッドの勝利(?)で、彼は実際に多様な家族制度を発見し、上記の論文を書きました(私は未読です)。これがのちの「発見」の基礎の一つとなるのですが、それはまだ少し先の話です。

  • ソルボンヌで「心性史」に触れる。
  • ケンブリッジで「家族研究」に出会う。

エドマンド・リーチの「酷評」ーアカデミアとの不和のはじまり

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ところで、トッドは、博士号を取得した後、研究者としてケンブリッジに残ることを希望していたようです。もし希望が叶っていれば、トッドは大学で研究職につき、アカデミアの一員としてキャリアを重ねていたかもしれません。しかし、大学に残る第一歩、研究員となるための審査の過程でエドマンド・リーチ(写真。人類学の大御所です)に論文を酷評され、その道は絶たれます(トッドは「これがその後も続くことになる私と大学機関との衝突の始まり」だったと述べています。(事実関係を含め『エマニュエル・トッドの思考地図』113頁))。

審査委員の三人のうち、リーチ以外の二人はトッドの論文を高く評価したということですから、彼の論文のクオリティに大きな問題があったわけではないでしょう。しかし、リーチは「酷評」し、「こんな研究を続けるのであれば博士号を授けてはダメだ」とまで言った。

トッドはリーチを「非常に尊敬していた」と言っていますが、その後のトッドの研究を知る者から見ると、リーチがトッドの研究に対して感情的に反応した理由はわかるような気がします(もちろん「気がする」だけです。人類学の専門の方に意見を聞いてみたい)。

トッドとリーチはどちらも家族システムや政治システムに関心を持っていますが、方向性はまったく違います。

研究の中で家族システムを用いるときのトッドの態度は基本的に「統計学者」のものです。教会に残る古い資料を集計して往時の家族システムを蘇らせることに喜びを見出したり、リーチのような人類学者が書いた文献をもとに家族システムを分析・分類し、家族システムと政治的イデオロギーとの関連性を解析したり。もちろん、彼は「事実」に関心を持っているのですが、この領域での彼の情熱は、深層にある真実を、統計データから探り出すことにあるのです。

統計学者として人類学データを扱うトッドの手つき、枝葉を削ぎ落としたデータから政治的イデオロギーを論じ、今すぐ歴史の書き換えにすら乗り出しかねない。そんな青年トッドの姿勢が、フィールド・ワークを事とし、慎重で粘り強い調査から社会の構造を見出し変化を跡づけようとしてきた、定年間際のリーチにどう映るか。

「何も分かってない」「こんな研究を続けるなら辞めてしまえ」とムカっ腹を立て、申請を却下する。大いにありそうなことではないでしょうか。

ともかく、トッドは、リーチによって大学に残る道を断たれ、フランスに帰国することになるのです。

エドマンド・リーチに否定され、大学に残る道を絶たれる 

1976 「最後の転落」出版 ー奔放な学問が始まった

1976年は、トッドの最初の著書「最後の転落」(La Chute Finale)が出版された年です(日本での出版は2013年)。

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これはトッドの「大発見」以前の著書であり、分析手法も「発見後」のものとはいくらか異なりますが、ともかく、冷戦の真っただ中、西欧諸国がソヴィエト連邦を超大国と見ていたそのときに、共産主義体制が崩壊の過程にあることを論じ、のちに「予言者」の名声とともに彼の名を世界に知らしめることになった本です。

大変面白い本ではありますが、中身は本講座にとっては重要ではありません。しかし、出版をめぐる経緯は、トッドのフランス社会での立ち位置を理解するという目的のために興味深いものです。

この本は、トッドの博士論文とは基本的に無関係です。彼は博士論文を書き上げた後、ハンガリーを旅行しました。そこで「現実の共産主義の物質的貧弱さ」を眼前にした後、パリに戻り、「偶然」ソ連で乳児死亡率が増加に転じていることを示すデータを目にする。かつて共産党の党員であり、共産主義の行く末に大いに関心を持つ彼は、「ソ連邦と共産主義が崩壊に向かっている」という直感を形にしたいという欲求を抱き、唐突に「最後の転落」の原稿を書き上げるのです(『最後の転落』10頁以下)。

問題はここからです。

まだ何者でもない、25歳の若者が書いた本が出版され、評判を取るというのは普通のことではありません。トッドの非凡な能力のゆえであることはもちろんとしても、もう一つの要素を指摘しないわけにはいかないでしょう。

トッドは手ぶらで書いたその原稿をどうしたか。
ケンブリッジの指導教員に見せたらお蔵入りになったに違いないこの原稿を、トッドは、ジャーナリストである父オリヴィエに見せるのです。

原稿を読んだオリヴィエと彼の友人(ジャン=フランソワ・ルヴェル(哲学者・政治批評家))が「面白い」と評価し、話をつないだことで、この本は権威ある出版社から出版されます。本は話題となり(「トッド自身を語る」74-76頁)、トッドはテレビ出演もしたそうです(『最後の転落』11頁)。つまり、本の出版(と、おそらくは「成功」)には、トッドが、知的エスタブリッシュメントの世界の子息であったという事実が大きく関わっているのです。

この辺りのことを、トッドの恩師の一人であるル=ロワ=ラデュリは「最後の転落」の批評の中で次のように書いています。

若き歴史学者が、その出発点において、かくも鋭敏で、かくも広大で、かくも大胆な本をものするのは稀である。「大御所たち」はそのことで、トッドに苦言を呈するだろうか。おそらくそんなことはすまい。有り難いことに、いまは1950年ではない。あの頃は、歴史研究者が40歳を過ぎるより前に最初の本を出版するのは、フランスの大学では時として良く見られなかったものだ。トッドは毛並みが良いから、すでに15年も得をしたわけである。
                                    『ル・モンド』1976年12月10日                    
                                                                                             

『最後の転落』439頁

この本は大変よく売れ、毀誉褒貶の渦を巻き起こしますが、やがて(多くの話題書と同様に)忘れられます。彼が「予言者」の名声を得るのは、現実にソ連が崩壊し、この本が再販された1991年以降のことです。

しかし、この本の商業的成功により、トッドは「売れる著者」としての地位を手にします。専門主義と形式主義(査読誌への論文掲載数や引用数が評価の指標となるような事態を指しています)が蔓延る、20世紀後半以降のこの学問世界において、25歳のトッドは、一人で執筆した学術的作品をいきなり著書として出版するという途方もない権利を我がものにするのです

実際、これ以降の彼の研究の成果物は、学術誌への掲載というステップを経ることなく、つねに著書として出版されていきます(トッドは大学に残ることこそできませんでしたが、博士号を取った研究者であり、まもなく国立人口学研究所という研究機関の研究員となるのですから、論文を学術誌に掲載することは可能であったはずです)。

このことは、おそらく、アカデミズムの世界で彼が受けた冷遇と無関係ではないでしょう。上述のル=ロワ=ラデュリのコメントには、「大御所たち」を牽制することで若きトッドが経験するであろう苦労を和らげようとする老婆心が見て取れますが、果たしてそれが功を奏したかどうか。

しかし、トッドが得たこのポジションが、アカデミズムの枠に囚われない、自由で奔放な学問を可能にした大きな要因であることは疑いありません。これ以降、トッドは、まるでエンゲルスの支援を得たマルクスのように、次々と問題作を世に問うていくことになるのです。

  • 『最後の転落』の成功で「学術的著作をいきなり本として出版する権利」を手にしたことが、アカデミズムの枠に囚われない活躍の大きな要因となった。

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補講 気候と人類

さて、この2回の講義で、無事人類は狩猟採集を始め、世界史の教科書に載るところ、トッドの理論の守備範囲にまでたどり着きました。この先の人類史はトッドにお任せすることにして、最後に一つだけ補足です。

現在、私たちの大きな関心事である「気候」。
その気候と人類史の関係について、ごく基本的な知識を共有させて下さい。

現在の地球は、約260万年前(ホモ・ハビリスが登場する少し前でした)に始まった「第4氷河時代」の最中です。今はそれほど寒くないですが、それは氷期と氷期の間の間氷期(温暖期)だからです。

(氷期と間氷期)

第4氷河時代に入って以降、地球の気候は、約10万年周期で(長い氷期→短い間氷期)のサイクルを繰り返しています。

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今の間氷期がいつまで続くかは分かりません。過去80万年の気候の調査結果によると、この80万年の間には11回の間氷期があり、それぞれ1〜3万年持続したと見られています。

https://agupubs.onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/2015RG000482

ちなみに、現在の間氷期が始まったのは、約1万2000年前なので、長さだけでいえば、明日終わっても、さらに2万年続いてもおかしくない、ということになります。いろいろなデータを総合した予測では、温室効果ガスの排出量が大幅に削減されない限り、あと5万年程度は続くのではないかと考えられているようです。

「温室効果ガスの排出量が大幅に削減されない限り、あと5万年程度は間氷期が続く」というところで、「ん?」と思った方がいらっしゃると思います。そうです。これは、言い方を変えると、「温室効果ガスの排出によって間氷期が伸びている可能性がある」ということです。さらに言い方を変えると、「温室効果ガスの排出がなかったら、もうとっくの昔に氷期が来ていたかもしれない」ということでもあるのです。William Ruddiman(古気候学者)という人は、アジアにおける水田農耕の普及とヨーロッパにおける大規模な森林破壊、つまり産業革命のはるか昔、約8000年前からの人類の活動が「長い間氷期」をもたらしていると主張し、「ラディマン仮説」として注目されています(ラディマンの説には批判も多いようなのですが、「温室効果ガスの排出量が大幅に削減されない限り‥‥」という議論が普通にされているところを見ると、人間の活動が間氷期を延長させているという議論自体は広範に受け容れられているように思えます)。人間を中心に考えると、温暖化を防ぐのがいいのか、よくないのか、まったく分からなくなりますが、きっと、「人間を中心に考えるな」ということなのでしょう。

(農耕の開始)

約1万2000年前。そうです。それは、農耕牧畜が始まり、磨製石器が作られ始めたとされる新石器革命の時期です。私の手元にある世界史の教科書(2017年版)には農耕の始まりは「約9000年前」と書かれていますが、より古い時代に遡る発見が各地で相次ぎ、現在では、遅くとも約12000〜11000年前(紀元前10000〜9000年頃)には麦類の栽培が始まっていたと考えられています。

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ところで、間氷期になると農耕が始まるのは、ただ「温暖だから」というわけではないようです。氷期から間氷期の変化とは、単に「寒冷→温暖」ではなく「寒冷で不安定→温暖で安定」への変化なのだそうです。来年も再来年も同じような気候が続くことが期待できる、ということが農耕の定着に不可欠な要件ですから、間氷期がもたらした気候の「安定」こそが、本格的な農耕の開始を可能にしたといえると思います(中川毅 『人類と気候の10万年史』(講談社ブルーバックス、2017年)第7章を大いに参考にしました)。

(都市文明の開始)

農耕の開始から数千年経った紀元前5000年紀頃から中国で集落の発達が確認され、紀元前3500年〜3000年頃までには、中国、メソポタミア、エジプトで都市国家が形成されますが、この背景にも、気候、というか、地学に関係する変化があったとされています。

間氷期に入って以降、地球上では、北半球の巨大氷床が融解を続けたために、海水面の上昇が続いていました。海水面が上昇するということは、海岸線の位置や河川の流れが変化し続けるということですから、人々は、生活に必要な「水」の近くに住みつつ、海岸線や河川の流れが変わるたびに洪水に見舞われ、移住を強いられていたと考えられます(下の絵はミケランジェロの『洪水』です)。しかし、その海水面の上昇は、約7000年前(紀元前5000年頃)に終わります。

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間氷期の開始により農耕が始まったことに加えて、海水面が安定し長期の定住が可能になったことが、都市文明の幕開けをもたらしたのです。

「トッド入門」の準備としては、ここまで来れば十分です。
次回はいよいよトッドの学問に入っていきたいと思います。

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文明以前の人類史(2・完)ー人間はどういう生物かー


前回、恐竜が絶滅して哺乳類の天下になったところで終わりましたので、本日はその続きです。

7 霊長類の祖先は誰?(9000万〜5500万年前)

かりに生物の興亡を神様の「実験」と考えると「大きさ」の可能性を試してみたのが恐竜のケースだという気がします。「大きすぎるのもダメか」と分かった神は、次に「社会性」(≒ 知性)の可能性を試してみようと思ったのかもしれません。

そんなわけで(?)、哺乳類の中から霊長類が生まれ、人類への進化の端緒が開かれます。9000万〜5500万年前のことです。

ところで、霊長類(サル目)から類人猿、ヒトへという流れは比較的よく知られていると思うのですが、そもそもの霊長類の祖先って誰なのでしょうか。人類をよりよく理解するためにぜひ知っておきたいポイントのように思い、調査してみました。

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ツパイ Stavenn @wikimedia commons

数ある哺乳類の種目の中で、霊長類に一番近いとされているのはヒヨケザル目(Dermoptera)やツパイ目(Scandentia)です。どちらも樹上で暮らすリス・ネズミ系統のルックスの動物で、この系統の初期の生物(約9000万年前)が霊長類の元になったと考えられています。

絶滅した初期の霊長類、プレシアダピス目の生物は下のような姿だったそうです。まさに「ツパイからサルに進化する途中」という感じですね。

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©︎N.Tamura @wikimedia commons

二日酔いの救世主? 「アルコール分3.8%の蜜」だけを食べる、酔わない動物 マレーシアの森林に棲む小さな哺乳類、ハネオツパイが餌にするヤシの花には、ライトビール並みのアルコール分が含まれている。驚く wired.jp

「人類の祖先」というと、槍をもってマンモスを狩る狩猟採集民を思い描く方が多いのではないかと思います。あるいは、森をあばれ回るチンパンジーとか(チンパンジーのオスはそれなりに獰猛です)。

しかし、その彼らの祖先は、小さく無防備な身体で、生き延びるために危機感知能力と社会性を高め(→危機意識を仲間と共有する)、樹上で葉っぱや花、果実や昆虫を食べる小型の動物だったのです。そう思うと、人類についても少し違う見方ができるような気がしませんか。

実際、初期の人類も、他の動物との関係ではどちらかといえば「食べられる」側だったようです。

8 直立二足歩行を始めた霊長類 ホミニン(約700万年前〜)

この領域では、研究の進展が日進月歩であるせいなのか、あるいは現生人類に関するトピックとして古い用語が人々の頭にこびりついてしまっているせいなのか分かりませんが、用語が今ひとつ定まっていません。

霊長類の中のサルと類人猿の系統の中から約3400万年前に類人猿のグループ(ヒト科)ができ、まずオランウータン系統(1700万〜1400万年前)、次にゴリラ系統(1000万〜700万年前)が分岐し、最後に700万〜600万年前頃のアフリカでチンパンジーとヒトが分化したとされています。

専門用語で説明すると、ヒト科(Hominidae)がオランウータン亜科(Ponginae)とヒト亜科(Homininae)に分かれ、ヒト亜科がゴリラ族(Gorillini)とヒト族(Hominini)に分かれ、そのヒト族がチンパンジー亜族(Panina)とヒト亜族(Hominina)に分かれ、ヒト亜族の下にやがてヒト属(Homo)(→人類です)が生まれるのですが、このヒト亜族の中のヒト属以外の生物をなんと呼ぶかが問題です(専門的には以下でご紹介するような「アウストラロピテクス属」「サヘラントロプス属」‥‥といったものたちなのですが、それを総称したい場合にどうするか、ということです)。

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日本語のイメージとしては「猿人」に近いと思うのですが、「ヒト亜族」の概念に「猿」の要素は含まれていません。また、「猿人」のラテン語バージョンである「ピテカントロプス(Pithecanthropus)」(Pithecos(猿)+Anthoropos (人)の造語) という語がかつてホモ・エレクトゥスなどの人類(ヒト属)を表すのに使われていたというややこしさもあります。

そういうわけで、ここではラテン語の「Hominina」の簡易版として「ホミニン」という言葉を用います。

ヒト属も「Hominina」に含まれるので、正確には「ヒト属以外のホミニン」ですが、それを略して「ホミニン」とします。以下、「ホミニン」という場合は、ヒト亜科ヒト亜族の中のヒト属以外の生物、とご理解ください。

また、ここでは「人類」という言葉は、ヒト亜科ヒト亜族の中のヒト属だけに用いることとします。

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ところで、身体に対して脳が大きいことは霊長類の特徴の一つですが、ホミニンと他の霊長類を分けるのは脳の大きさではありません。直立二足歩行です。

ホミニンの脳の容量は300〜500mlくらいで、ゴリラやチンパンジーと変わりません。彼らはまだ腕が長く、手や足は木登りに適した形をしていましたが、効率的ではないけれど、直立二足歩行が可能な骨格を持っていたのです。

ホミニンは、普段は樹の上で暮らし、開けた土地を移動するときなどに、一時的に直立二足歩行をしていたものと考えられています。

9 人類への進化(約250万年前〜)

不完全な二足歩行の状態を脱し、完全な直立歩行に適した身体と大きな脳を持つようになったホミニン、それがヒト属(ホモ属)です。

今のところもっとも古い人類とされているホモ・ハビリス(250万年前)は、形態は後期のアウストラロピテクス属によく似ていましたが、脳が大きく(700ml)、石器を使っていた跡があることからヒト属に分類されました。190万年前の化石が見つかっているホモ・ルドルフェンシスもよく似たタイプの人類です。

初期人類はなぜ二足歩行を始めたのか。この背景にも、気候の変動があるようです。現在の地球は、氷河時代(第4期氷河時代)の間氷期にありますが、この第4期氷河時代が始まったのが約258万年前、ちょうどホモ・ハビリスが登場したとされる頃なのです。

氷河時代が始まり北半球に氷河ができ始めるとその影響でアフリカでは乾燥化が進みます(そうらしいです。どういう仕組みか私には今のところわかりません。ご存じの方は教えて下さい)。豊かな森に覆われていたアフリカ大陸で、森が減少し、草原(サバンナ)が増えていくのです。

ホミニンは主に樹上で暮らし、開けた土地を移動するときだけ二足歩行をしていましたが、樹は減り「開けた土地」の方が増えてきました。この環境への適応として、人類は、完全な直立二足歩行を行うことになったと考えられます。

約190万年前、見渡す限り草原が多い尽くすようになった頃、現生人類(ホモ・サピエンス)により近い人類が現れます。ホモ・エルガステルです。

◉ これも「聞いたことがない」という方が多いと思います。先日亡くなった人類学者リチャード・リーキー(Richard Leakey)が発掘した全身骨格「Tulkana boy」がちょっと有名です(下の写真は骨格からの復元図。いろいろな復元図像が作られていますが、『人類史マップ』(日経ナショナル・ジオグラフィック社、2021年)33頁の復元像(エリザベト・デイネ制作)がとても素敵です)。ホモ・エレクトゥスと共通の特徴を多く持つ彼らはホモ・エレクトゥスの一種とされることもあり、独立した種類として扱うかどうかには議論があるようです。大事なのは、主にアジアで見つかっていたホモ・エレクトゥス(北京原人、ジャワ原人など)とよく似た人類が、より早い時期に、アフリカに登場していたという点です。ホモ・エルガステルを独立の種類と認めるかはともかく、約190万年前のアフリカに彼らが暮らしており、彼らこそがホモ・エレクトゥス、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・サピエンス(現生人類)の共通の祖先になったという事実は、概ね受け入れられているようです。

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By Cicero Moraes – Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24806426

ホモ・エルガステル(「働くヒト」の意)は、比較的高い身長と細身の体で、直立二足歩行に適した骨格を持っていました。彼らは複雑な社会集団を作って暮らし、かつては木に登り枝から枝へ移動するために使っていた手で道具を作って働き、すでに肉を食べていたことが知られています。

長距離を歩くことができた彼らは、アフリカを出た最初の人類とされています。190万年前以降、アフリカからコーカサス、中東、南アジア、アジア、ヨーロッパと数万年から数十万年という長い時間をかけて、その生息地を拡大していきました。

生息地が広がると、地方ごとに変異体が生じます。その結果、ホモ・エレクトゥス、ホモ・アンテセッサー(ホモ・ネアンデルターレンシスとホモ・サピエンスの共通祖先と考えられているホモ属)、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・サピエンスといった多様な人類が生まれていくのです。

10「人間らしさ」への道(約7万年前〜)

ホモ・ネアンデルターレンシス(約35万年前〜)がまだ生きていた約20万年前、アフリカにホモ・サピエンス(現生人類)が現れます。

なお、この時期あるいはこれ以降に生息していたことが確認されている人類には、ホモ・ネアンデルターレンシスのほか、ホモ・フロレシエンシス(身長1mと小型のため「ホビット」という愛称で呼ばれている)、デニソワ人(シベリアで化石が発掘。ホモ・アンテセッサーを祖先とすると考えられる人類だが、ホモ・ネアンデルターレンシスとの近縁性から「新種」認定の要否には議論があるもよう)などがいて、デニソワ人、ホモ・ネアンデルターレンシスについてはホモ・サピエンスとの交配もあったとされています。

こうしたことからも推察されるように、ホモ・サピエンスは「誕生当初から画期的な人類だった!」というわけではないのです。脳の容量も後期のホモ・エルガステルやホモ・ネアンデルターレンシスと大きく違うわけではないですし(ネアンデルターレンシスはほぼ同等です)、道具や火の使用も双方に認められています。ホモ・ネアンデルターレンシスは、少なくとも形態学的には、言語を発する能力があったそうです。

平凡な人類として生まれたホモ・サピエンスが、狩猟を始め、言語を操り、「人間らしさ」を発揮するようになったのはなぜか。その背景には、またしても、気候の変化があったもようです。

20万年前にアフリカに登場したホモ・サピエンスは世界各地に拡散しますが、間氷期を挟んだ氷期の繰り返しで、順調に数を増やすには至りません(氷期に減り、間氷期に持ち直すの繰り返しであったと考えられます)。

そうこうするうちに、トバ山の噴火(インドネシア・スマトラ島)という大事件が起きるのです(7万5000年〜7万年前)。人類史上最大であったと考えられているこの噴火により、地球は「火山の冬」に突入(地球の平均気温を5℃下げる劇的な寒冷化が6000年間続いたとされる)、その後も断続的に気温が低下して最終氷期を迎えます(現在の間氷期の直前の氷期です)。

◉ ただし、トバ山噴火の気候への影響については議論百出です(検索してみてください)。地域差が大きく大して影響を受けなかった地域もあったとか、寒冷化はせいぜい100年程度だったとか、「火山の冬」の影響を相対化する立場も力をましているようです。

リンクは2018年のナショナル・ジオグラフィックhttps://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/031400115/

この間にホモ・エルガステルやホモ・エレクトゥスは絶滅、ホモ・ネアンデルターレンシスやホモ・サピエンスも大幅に数を減らします。絶滅寸前まで行ったと考える研究者もいます。

狩猟が始まり、私たちが「人間らしい」と感じる文化が花開くのは、ざっくり言ってこの直後なのです。

先ほど、ホモ・エルガステルは「すでに肉を食べていた」と書きました。人類は早くから鳥や小型の動物を取って食べたり、大型の肉食獣が残した肉を食べたりはしていました。しかし、効率的な石器を作る知恵と技術、組織力(チームワーク)を身につけ、大型の動物を仕留めて食べるようになったのは、人類の誕生からは200万年以上、ホモ・サピエンスの登場からでも十数万年経った後、超巨大噴火による(程度はともかく)急激な気象の変化を経験したその直後のことだったようなのです。

石器製作技術を高度化させ、尖頭器やナイフ、槍などを用いた狩猟生活を始めた人類は、同時に、鳥の羽や貝で作った装飾品、ボディペイントで身を装い、動物や人の彫刻を掘り、洞窟の壁に絵を描くことを始めます。証拠を見つけるのは困難ですが、言葉を話し始めたのもこの頃だと考える人が多いようです。仲間の遺体を丁寧に埋葬し死を弔うという習慣もこの頃にはじまりました。

ただし、こうした「人間らしい」文化を享受していたのは、どうやら、ホモ・サピエンスだけではありません。同じ頃(およびそれ以降)、ホモ・ネアンデルターレンシスも、装飾を身につけ、ボディペイントをし、洞窟に絵を描き、死者を弔っていたことが、洞窟などの遺跡資料からわかっています。この点からも、ホモ・サピエンスが種として特別だったわけではないことがわかります。7万年前、地球上には多様な人類がいて、人間らしい暮らしを始めていたのです。

◉ ホモ・ネアンデルターレンシスが絶滅し、ホモ・サピエンスが残ったのはなぜかについてもいろいろな議論がありますが、私はそれほど関心を持っていません。何というか、今後、現生人類の中から「結構違う」個体が現れ、数を増やしたとしても、私たちはその人たちを「ホモ・サピエンス」から外すことはしないのではないでしょうか(どうでしょう)。そう考えると、ホモ・ネアンデルターレンシスやデニソワ人が違う種類とされているのも「たまたま」という感じがして、身を飾り死者を弔い、相互に交流もあった間柄なら「「みんな現生人類の祖先」でよくない?」と思ってしまうのです。

11 人間はどういう生物か

(1) 「人間らしさ」 は突然に

ここまで、概ね、専門家の間で共有されている(らしい)事実をご紹介してきましたが、ここから先は、私が勝手に立てた仮説です。

「人間ってどういう生物なんだ?」と疑問に思い、地球の誕生から勉強して7万年前まで来たとき、私は「なるほど、そうか‥‥」とうなっていました。

霊長類から人類が生まれ、現在の人間社会に至る流れは、一般的には、脳の機能を基礎とした漸進的な進歩の過程として理解されていると思います。直立歩行で脳を大きくした霊長類が人類となり、知恵と工夫で少しずつ社会を改良し、現在のような人間社会を築きました、という感じで。

でも、なんか、違いますよね?
ちょっと整理します。

初期の霊長類(ツパイとかです)は、捕食者として食物連鎖の上位に立つにはおよそ不向きな身体を持ちながら、危機意識を増強させ、社会性を高めることで、捕食者から逃れて生き延びました。色覚が豊かであること、脳が比較的大きいことが、霊長類の特徴とされますが、前者は森の中で食物となる昆虫や木の実を探すため、後者は、おそらく、危機対応能力と社会性の向上のために発達したものです。

ホミニンは初期霊長類と比べると身体が大きいですが、基本的な行動様式はあまり変わりません。樹上生活を基本とし、危機意識の強さと社会性で捕食を免れ(それでもときにはヒョウなどのネコ科動物に食べられたりしながら)、昆虫や木の実を食べて暮らしていたのです。

初期人類は、環境の変化によって樹から下りることを強いられ、長距離を移動するようになります。木の実はそこらへんにありませんので、とりあえず何でも食べなければならなくなるでしょう。移動生活の中で食物と寝る場所を確保し捕食を免れ、かつ子供を生み育てて生き延びていくためには、ある程度の規模の集団を作り、組織化された社会生活を行うことが必要になるでしょう。

しかし、初期人類に見られる組織化の進行が、すぐに文化の発達をもたらすわけではありません。初期人類はもうある程度の大きさの脳を持っているのですが、それでも180万年以上の間、基本的に同じレベルの生活を続けます。人類は、大きな気候変動によって生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれた後になって、突然「人間らしく」進化するのです。

(2)人類に何が起きたのか?ー 「社会」 をまとった人類

人類は、約7万年前、高度な道具を作り、大規模で組織的な狩猟を行い、羽飾りをつけ、死者を弔うようになりました。私は、ここが人類の歴史の最大の転換点だと思います。

かつて、道具の使用が人類の指標とされていたことがありました。しかし、いまでは、チンパンジーやゴリラも道具を使うことが知られています。それに、例えばカラスとか犬とかが棒を使ったとしても、それほど違和感はありません(よね?)。「かしこい!」というだけです。

しかし、カラスや犬が、身なりを気にし始めたり、仲間の死を弔ったりし始めたら、大ごとではないでしょうか。このとき人類に起きたのは、そのような「大ごと」なのです。

いったい何が起きたのか。

私が感じるのは、人類は、このとき、本拠地を、自然界から「人間社会」に移した、あるいは少なくともその準備を始めた、ということです。

人間は、単に外敵から身を守り食物を得て子どもを育てるために集団生活をするというレベルを超え(このような生活はほかの動物たちにも見られます)、自然界と個人(人間個体)の間に「社会」という観念的な構造物を作り上げ、そこを本拠地として生きることを始めたのではないでしょうか。おそらく、過酷な自然環境の中でも、種の存続を確実なものとするために。

人間にとっての「社会」は、おそらく、カタツムリにとっての「殻」と同じです。人間と人間を観念の糸でつないで複雑な構造体を作り、「社会という構造体の維持=人類の自然界での生存」という図式を各個体に内面化させる。このようなやり方で、自然界を生き延びるようになった生物、それが人類なのではないか。

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これより前、人類の関心事は、他の動物と同様、「生きること」それだけであったはずです。別に意識はしていないでしょうが、場所はもちろん、本拠地である自然界、宇宙です。しかし「社会」への移住の後、人類の主な関心事は、(自然界で)「生きること」から、「社会をどう維持するか」「社会の中でどう生きるか」に変わったのです。

(3)フィクションの中で生きる

もちろん「社会」は人間の頭の中にしかありません。フィクションです。
しかし、そのフィクションがどれほどよく機能するかを、当事者である私たちは、誰よりもよく知っています。

人間が複雑な脳機能を持つようになったのは、フィクションを現実に成り立たせることで生き延びるという、ややこしい生存戦略を採用したためだと思われます。

社会は人間の脳が人間のために作り出した新しい世界です。
そこには、自然界には存在しない「正邪の基準」があります。

狩猟動物は人類の生存に役立つ「聖なる犠牲」となり、人間の死はあってはならない忌まわしいできごとになります。

社会の維持がすべての構成員の義務となり、守るべき規範が生まれます。
社会の中に地位を確保すること、できればよりよい地位に立つことが構成員の願いとなり、自他を比較し、評価する目線を持つようになります。

こうして、人間は、洞窟に動物の絵を描き、仲間の死を悼み、装飾品を身につけるようになったのだと思います。

「社会」の構築が、優れた生存戦略であったことは、その後の人類の繁栄を見れば明らかでしょう。

当初、広大な宇宙の中の小さな繭、柔らかいシェルターのようなものにすぎなかったであろう「社会」は、どんどん複雑に作り込まれて強度と規模を増し、人間にとっては「世界」と同義になりました。

現代の私たちにとって、自然界は完全に「外部」、むしろ非現実的な場所になりました。日々の生活の中で、ヒョウに食べられる心配をすることは決してありませんし、凍死を心配することもない。

人間の生存に都合のよい場所として「社会」を作り込むことによって、人間は、社会のことだけを考えていれば、生きていけるようになったのです。

しかし、神様としては、「うわ、またやりすぎた」という感じかもしれません。人間にとっての社会適合性(≒脳の複雑な機能)は恐竜にとっての「大きさ」です。恐竜が大きくなりすぎて絶滅したように、人間は、社会というフィクションに適合しすぎることによって絶滅するのだと私は思います。

(4)脳機能の使用はそれほど「自由」ではない

この仮説において、ポイントとなる事実の一つは、その「人間らしさ」は人間が主体的に選んだものではない、進化の産物だということです。

人類は、集団としての生存を賭けて、遺伝子の改変を伴いつつ、極めて特殊な形態の「人間らしい」生活を送る生き物として進化しました。人間は、おそらく、自らの創意工夫ではなく、知らないうちに起きた進化によって、いつの間にかそんな暮らしをしていたのです。

繰り返しますが、人類という野生動物種にとって、社会とは、自然界を生き延びるために必須の装置、カタツムリにとっての殻です。

人間の脳機能が、「社会」というフィクションの中で生きることを可能にするために、天に賦与されたものだとしたら、人間にとって、脳機能(理性や感情)の使用は、それほど「自由」ではない、と考えるのが自然でしょう。

理性にせよ、感情にせよ、それらの機能は、社会を成り立たせるという目的にとって都合よく働くように作られていると考えるのが自然です。

そして、人間の意思活動のうち、「社会」の構築そのものに関わるもっとも基礎的な部分は、人間の意識の奥深く、通常は意識されない部分に隠されているに違いありません。

人類の社会にみられる諸問題、例えば、戦争、殺戮、差別などの問題は、その無意識の部分に、深く関わっていることでしょう。

エマニュエル・トッドが、このような人間観を持っているのかどうか、私は知りません。しかし、「人類ってどういう生き物なんだろうか」と考え、このような仮説を抱くようになった私の目に、トッドの理論は、こうした人間の心の仕組みの一部を解明するもののように見えるのです(うまくまとめすぎでしょうか‥‥)。

(おわり)

カテゴリー
トッド入門講座

文明以前の人類史(1)ー地球が生まれ、恐竜が絶滅するまで

はじめに:2022年の常識

この講座の目的は、タイトル通りに真実を知りたい方々、そして「戦略の練り直し?面白そう!」という能天気な方々に、自分なりに真実を探り、戦略を練り直すのに役立つ「道具」として、エマニュエル・トッドの理論をお伝えすることにあります。

開講の準備のために、トッドの理論を一通り復習した後、私はなぜか、地球誕生から、生命が生まれ、人類が狩猟を始めるまでの歴史を勉強していました。

たぶん、理由は二つあったと思います。

一つは、人間社会の仕組みを解明するトッドの理論を学んだ結果、「人間ってどういう生物種なんだろうか?」と考えるようになったこと。

もう一つは、「戦略の練り直し」にあたって、トッドの理論の射程外の事柄も知りたくなったことです。

トッドは、2000年期後半に起きた「近代化」という事件のメカニズムの解明によって、社会と人間に関する理論を打ち立てましたが、彼の理論の射程には、後期旧石器時代以降の数万年分の人類の歴史が収められています。

しかし、2000年代に入って20年以上が過ぎ、20世紀末から引きずった問題群に、パンデミックやら気候変動やらがつけ加わっていく様子を見るにつけ、

「この先の戦略を練るには、後期旧石器時代からの歴史でもちょっと短いんじゃないか」

という気がしてきたのです。

そう思って調査してみると、20世紀後半の自然科学は、地球の誕生から人類史の始まりまでに何があったのかを「そんなに?!」という程度に明らかにしていました。

解明されたのが最近すぎて、まだ一般常識に書き込まれていないのがもったいない。非常に根源的な事実たちです。

人類の社会に関するトッドの理論、地球、気候、生命の歴史、これらは、21世紀中盤を生きていく人々に向けた「社会科」の教科書にもれなく記載されるべきものだと、私は思いました。

というわけで、地球が生まれて、私たちの先祖が「人間らしい」人類になるまでの歴史、2回シリーズの第1回です。

(番外編に関する注意事項)
・教科書口調で断定的に書いてある部分がありますが、全て複数ある仮説の中の一つです。
・なるべく通説やそれに準じるスタンダードな説に準拠するよう努めましたが、同時に、新しい発見や学説で説得力があると専門家が見ている(らしい)ものがある場合には、なるべくそれを取り上げるよう心がけました。
・年代(約○年前、とか)については、現状でもどの辺が通説か分からないくらい各種文献に幅があるケースが多く、新しい発見によってつねに書き換えられている事項でもありますので、そのようなものとご理解ください。
・教科書的な書籍のほか、日本語版、英語版wikipediaを大いに活用しました(とくに日本語版のwikiは項目による信頼度の差が激しいですが、自分なりに評価をした上で利用しました)。
・新しい学説はなるべく出典がわかるようにしています。純粋に読者の便宜のためなので孫引きご容赦ください(目を通していない文献には(未)と記載します)。

1 地球が生まれ、月が道連れになる(46億年前)

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地球はずっと存在していたわけではありません(当たり前ですか?)。宇宙の中である特定の時期に生まれ、生まれた年代まで分かっているそうです。

宇宙には空気のような気体(ガス)や細かい塵(ダスト)が大量に漂っている場所があるそうです。約46億年前146億という数字ですが、私は住宅価格を手がかりにすると何とか想像できます。地方都市の建売住宅が3000万円、都内の高級マンションが1億、超高級マンション10億、ニューヨークの超高級マンションは100〜200億円。人類の全文明史は5500円です(笑)。そのような場所の一つで、ガスやダストの密度が高まり、まず太陽が形成されます。その同じ勢いで、周囲を回るガスやダストがさらに集まってまとまり、太陽系の惑星(現在の惑星の定義では、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星の8個)になりました。地球は太陽や他の惑星たちと同時に生まれたわけですね。

惑星が形成されるまでには、出来立ての原始惑星同士が衝突を繰り返しながら成長していく過程があります。地球の場合、10個程度の原始惑星が衝突を繰り返してできたと考えられているそうです。その最後の衝突のときに、月が生まれました。

最後に衝突した惑星をギリシャ神話の女神の名をとってTheia(テイア)と呼びます(視覚・光の女神とか)。Theiaが地球に衝突したとき、当時マグマの海であった地球の表面と壊れたTheiaの一部が弾け飛び、地球の軌道上で一つにまとまって月になりました。

Theiaの衝突と月の誕生は、現在の地球環境を決定づけたキーイベントの一つといえます。すごく重要なのです(当たり前でしょうか)。

まず、地球誕生当時、一日の長さ(自転周期)は3〜6時間程度と大変短かったのですが、月の引力によって引き伸ばされた結果、現在の24時間になりました。

もう一つ、地球の地軸は公転軸(太陽)に対して約23.4度傾いていますが(たしかに地球儀は何かちょっと斜めについてますね!)、この傾きも月が衝突したときに生じたといわれているのです。

地軸の傾きは、気候の変化と大きく関わっています。

まず、季節があるのは地軸の傾きのおかげです。地球のてっぺん(北極点)が太陽の側を向いているときが北半球の夏(南半球の冬)、太陽の反対側を向いているときが北半球の冬(南半球の夏)です(ぜひこちら(↓)をご覧ください)。

https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/earth/earth05.html (国立科学博物館 ウェブサイト)

さらに、地軸の向きと傾きの変化は、公転軌道の離心率の変化*と相まって、長期の周期的な気候変動をもたらすことにもなったのです(発見したセルビア人科学者の名前を取って「ミランコビッチ・サイクル」と呼ばれます)。

長期の気候変動が、生物の誕生や進化、人類が生まれた後は人類の歴史に、どれほど大きく関わっているかは、次項以降で(断片的にですが)紹介します。

でも、何ていうんでしょうか、とにかく、バクテリアが宇宙の一部であるなら当然人類も宇宙の一部なので、気候や地形の変化と人類などの生命の帰趨は一体なんだな、と私は感じます。

***

話は戻りますが、太陽や地球が生まれたときにすでに存在していて、太陽や地球の材料になった「ガスやダスト」というものは一体どこから来たのか、というと、それらは、寿命を終えた星が崩壊して溶け出したり、爆発したりした後に残った残骸なのだそうです。

宇宙では太陽や地球のような星や惑星系そのものが、何十億年という単位で、消えたりできたりを繰り返しています。50億年という気の遠くなる期間の後だとしても、地球もいずれ太陽と一緒に寿命を終え、次に生まれる他の星の材料になるということは、ほぼ間違いのない事実といえると思います。

🔹「46億年」の計算方法

ところで、いったいなぜ「46億年前」なんてことが分かるのでしょうか。過去の事象についてかなりの精度で年代を推定する手法が確立されたことが、20世紀後半のブレイクスルーをもたらした大きな要素なので、二つの主要な方法を(ごく簡単に!)ご紹介したいと思います(関心のない方は遠慮なく飛ばしてください)。

①放射年代測定 

物質の元素の中には、一定の速度で放射線を出しながら崩壊していく性質を持つものがあるそうです(放射性元素)。これをストップウォッチ代わりにすることで、物質が形成された年代を測定するのが放射年代測定という手法です。

例えばウランの一種であるウラン238は、放射線を出しながら崩壊して最終的に鉛となって安定します。要するに少しずつ鉛に変わっていくのですが、ウラン238の場合、半分が崩壊して鉛になるまでの時間(半減期)は44億6800万年であると分かっています。したがって、ウラン238が含まれている鉱物に関しては、その崩壊の程度を測定すれば、鉱物が結晶化してからどれだけの時間が経過しているかが分かるのです。

この手法は鉱物だけでなく、生物の化石に含まれる炭素(炭素14の半減期は5730年)にも使うことができ、生物の年代測定に役立てられているそうです。

②分子時計

放射年代測定が元素の変化を時計として利用し、鉱物や化石の年代を測定するのに対し、分子時計は、生物の分子構造の変化を時計(ストップウォッチ)として利用することで、生物種の誕生(進化)の年代や特定のイベントからの経過時間を測定します。

例えば、生物のDNAは複製の際に起こる突然変異によって変化していきますが、突然変異の発生頻度は概ね一定であると考えられています。変異の発生頻度を測定することで、進化の系譜を明らかにしたり(相違点が少ないほど類縁度が高く多いほど類縁度が低いことを示します)、分岐にかかった時間を算出したりすることができるわけです。

この後、生命の誕生、進化の過程の一部、人類の誕生などについて、その時期とともにご紹介していきますが、それらを明らかにする過程でも、放射年代測定や分子時計の手法が用いられています。

2 生命が生まれ、最初の「大進化」を遂げる(約39億年前〜20億年前)

地球で確認された生命の痕跡のうち、現段階で最も古いものとされるのは、海中の微生物(バクテリア(=細菌))の一種で、約39.5億年前のものだそうです。地球誕生から6億年余りで生命が誕生したことになります。しかし、目立った進化はなかなか始まりません。しばらくの間(というのは、20億年くらいです)地球上の生物は海を漂う細菌状の生物(原核生物)だけという状態が続きました。

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シアノバクテリア(NEON ja @wikimedia commo
ns)

初めての大きな変化は、約20億年前に起こります。真核生物(核を持ち、細胞の中にミトコンドリアや葉緑体などの器官を持つ生物)の発生です。ミトコンドリアや葉緑体はそれぞれ元は単体の生物だったそうで、原核生物同士がくっついたり、機能を分化させて共生関係を築いたりすることで、真核生物への進化が起こったということらしいです。

なぜ20億年前にこのような進化が起きたのか。

ほぼ争いがないのは、約24億年前に地球上の酸素濃度が急上昇した事件(「大酸化イベント(Great Oxydation Event, GOE)」)と関係があるという点です。これにより地球上の環境が激変し、環境の変化に適合した進化(変異)が生じたと。しかし、その酸素濃度の上昇がどのようなメカニズムで起きたのかについては、議論があるようです。

なぜ急に酸素が増えたかなんて、超大事なポイントじゃないか!
と私は思うので、ちょっと深入りさせていただきます。

一般向けの解説書などでよく見られる説明は、生物自身の光合成によって酸素が蓄積した、というものです。初期のバクテリアは光合成の能力を持ちませんが、砂岩に付着した痕跡から、約35億年前には光合成を行う種(シアノバクテリア(上の写真))が発生していたそうです。彼らが地道に酸素を放出し続けた結果、酸素が蓄積して大酸化イベントにつながったと。

私が最初に読んだのがこのタイプの説明で「なんて地道なんだ・・」と感動したのですが、もう少し調べてみると、これだけで説明するのはちょっと無理があるようです。

シアノバクテリアたちの光合成が関わっていることは間違いありません。しかし、シアノバクテリアが発生したとされる35億年前からGOEが起きるまでの15億年の間、大気中の酸素濃度はほとんど増えていないことが、調査の結果分かっているそうなのです。なぜ酸素濃度の上昇が15億年後になってようやく起きたのか。この点はたしかに説明が必要です。

二つの仮説を紹介します。

①プレート運動仮説

プレートテクトニクスという言葉を聞いたことがあるでしょうか。地球の表面は何枚か(現在は15)の岩盤(プレート)で構成されており、このプレートの動きによって大陸の離合集散や地震などが発生するという考えが、現在の地球科学の主流になっています。第一の仮説は、プレート運動によって地球表面の素材が変わったことに理由を求めます。

光合成生物が生まれた35億年前、地球の表面は苦鉄質岩という鉱物で覆われていました。この鉱物は酸素を取り込む性質を持つため、シアノバクテリアが放出した酸素は苦鉄質岩に取り込まれてしまっていた。

しかし25億年前に始まったプレート運動により、地球表面の物質が酸素を取り込まないタイプの花崗岩などに変わります。これによって、光合成による酸素が大気中に蓄積するようになり、20億年前に一気に濃度が上昇したのではないか。というのがこの仮説です。

https://univ-journal.jp/7294/
私は 横山祐典『地球46億年気候大変動』(講談社ブルーバックス 2018年)で読みました。

②スノーボール・アース仮説

地球の気候に氷河時代と呼ばれる寒冷な時期があることはよく知られていますが(ちなみに現在は第4氷河時代の中の間氷期(温暖期)です)、その極致として、地球全体が完全に凍ってしまったことが、過去に少なくとも3回あったと考えられているそうです。

地球初の「全球凍結(Snowball Earth)」が起きたとされているのが、約22億2000万年前。大酸化イベントと近い時期なのです。順序およびメカニズムについては複数の考え方があり、A、Bの双方が主張されています。

A 全球凍結終了→大酸化イベント→真核生物誕生
B 大酸化イベント→全球凍結→全球凍結終了→真核生物誕生

ともかく、全球凍結が引き起こした環境の激変を重視するのが、この仮説です。
https://www.pnas.org/content/117/24/13314
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2015/13.html

①と②の仮説は必ずしも相互に矛盾するわけではありませんし、どちらが妥当かを検討するのはこの講義の目的ではありません。

これらの仮説が示しているのは、生物の進化には、地球のプレートの動きや気候変動による環境の変化が大きく関わっているのだということです。私たちとしては、この点だけを確認して、先に進みましょう。

3 多細胞生物の登場(約10億年前)

①原核生物→真核生物 
②単細胞動物→多細胞生物
③無脊椎動物→脊椎動物

生物の進化のうち、「大進化」と呼ばれて重要視されているのが、①から③の3つです。

先ほど(20億年前)真核生物が誕生しましたが(①)、彼らはまだ単細胞でした。10億年前になり、生物の多細胞化(≒複雑化)が起こります。

「カンブリア大爆発」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。その名も「顕生代」(「生命が現れた時代」の意)の始まりであるカンブリア紀(5億4100万年前〜)に生物が爆発的に多様化したことを指す言葉です。この時期に「大爆発」といえる現象があって、現在生息している動物のグループがほぼ出揃ったのだ、という学説としてよく知られています。

カンブリア紀に「大爆発」といってよい現象があったことは事実のようです。しかし、現在ではより研究が進み、多様化の過程はそれ以前から始まっていたことがわかっています。

下のジオラマは、エディアカラ生物群と言われる化石群を模したものです。1946年にオーストラリアのエディアカラ丘陵で発見されました。この化石群の生物たちはおもしろくて、ふわふわしたパンケーキのような生物や、ミミズのようなくねくねした生物など(すべて水中生物です)、何ともいえない不思議な形のものばかりでした。しかも、非常に多様だったのです。

画像4

これは「カンブリア以前」の生物相を明らかにする重要な発見でした。カンブリア紀の生物の化石は、非常に多様で、よく保存されていましたが、謎というか、おかしな点が一つありました。甲羅や殻、しっかりした骨格などを持った「硬い」生き物ばかりだったのです。

画像5

生物の多様化がいきなり殻を持った生物から始まるとは、考えにくいですね。カンブリア紀の生物のように甲羅や殻や骨格を持つということは、化石として保存されやすいということですから、その前には柔らかい、保存されにくい生物がいたのではないか。

そのやわらかい生物たちを保存していたのがエディアカラ生物群でした。エディアカラの岩石層での発見以降、世界のさまざまな場所で同時期のやわらかい生物たちの化石が見つかり、真核生物からカンブリア紀までの空白が埋められたのです。

そういうわけで、現在では、次のように考えるのがスタンダードになりました。

「約10億年前に生物の多細胞化が始まり、エディアカラ紀には多様な無脊椎動物(やわらかい動物です)が生まれていた。しかし、そのほとんどはエディアカラ紀の終わりに絶滅し、カンブリア大爆発を迎えた。」

4 「捕食」のはじまり

それはそれとして、カンブリア紀(5億4100万年前〜)に「爆発的進化」が起きたことは事実です。この進化は何によってもたらされたのでしょうか。

最近まで、この時期の爆発的進化の原因も、酸素濃度の上昇であると考えられていたようです。この少し前(7億年前と6.5億年前の2回)に起きたとされる「全球凍結」との関連性も指摘されています。ただ、海底堆積物を調査したところ、そのときに起きた酸素濃度上昇の規模はさほど大きいものではなかったらしい、ということで、新たな仮説が提唱されるようになりました。

捕食(肉食)開始説です。

「捕食」ってちょっと分かりにくいですが、要するに、 生物の中に他の生物を食べる輩が現れた、ということです。

この説によると、エディアカラ紀からの流れはこうなります。

「エディアカラ紀の終わり頃、生物の中から他の動物を食べる捕食者が現れ、やわらかい生物たちは食べられて絶滅した。危機的状況の中で生物の爆発的進化が起こり、甲や殻、骨格を持つよう進化した者たちが生き延びた。」

酸素濃度の上昇は、この説にとっても意味を持ちます。

現代の海でも、酸素の少ない海域には、エディアカラ紀と同様、動かずにただ浮遊し、微生物を食べて生活する生物しかいないのだそうです。それが、酸素濃度が一定量を超えた海域では、活発に動く生物が中心になり、他の動物を食べる捕食者も登場するらしい。カンブリア爆発直前の時期に起きた酸素濃度の上昇がごくわずかであったとしても、それによって捕食者が現れ、進化が大きく促進されることは十分に考えられるのです。

https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v13/n5/カンブリア爆発の「火種」/74330

なお、ここまでに出てきた生物たちは全員、まだ海の中で生息しています。カンブリア紀に入った後もです。動物の中で初めて陸上に出たのは、ヤスデに似たルックスの節足動物で、約5億3000万年前のことだったそうです。

私の読んだ文献の中には、彼が海を出た理由を述べるものはありませんでしたが、「捕食から逃れるため」というのは、それなりに合理性のある理由のように思えます。

5 捕食が知性を生んだ (脊椎動物の登場、約5億2000年前)

生物最後の「大進化」は、約5億2000年前*、カンブリア大爆発の後期に起こります。脊椎動物の登場です。

「脊椎動物」とは「背骨がある動物」という意味ですが、脊椎動物の特徴はそれだけではありません。中枢神経系(脳と脊髄)、左右対称で頭部・胴部・尾部に分かれた身体、酸素を効率的に運ぶヘモグロビンを含んだ赤い血液などを備えた動物、それが脊椎動物です。

最古の脊椎動物である魚類のほか、両生類、爬虫類、哺乳類のすべて、つまり、動物の中で最も大きく、移動性が高く、知的な種類の一群が、このとき現れたわけです。

カンブリア紀に、甲や殻を持つ生物が発達し、その延長で脊椎動物が誕生したという事実は、前項でご紹介した「捕食開始説」の説得力をより高めています。

大きさ、移動性、知性、それらを支えるための赤い血液といった特性は、海中を漂って微生物を食べている間はまったく不要です。しかし、生物の間に捕食者が現れ、「食うか食われるか」が生物界の掟となった暁には、大いに必要なものばかりです。

捕食が始まった世界を生き延びるために知性が登場したという仮説は、なかなか趣があると思います。

6 生物の興亡ーー絶滅と進化

生物の大進化は大絶滅を伴うのが普通です。地球上の酸素濃度が高まり真核生物が登場したときには、嫌気性のバクテリアたちが死滅しました。カンブリア大爆発の前にはやわらかい生物たちが死滅しています。

カンブリア紀以降にも気候変動などが原因と見られる大量絶滅事件が数回起きていますが、中でも「ペルム紀大絶滅」(約2億5000万年前)は生物種の9割以上を絶滅あるいは大幅に減少させたとされる大事件でした。

その直後に地球上に現れたのが、恐竜です。
恐竜は約2億3000万年前に登場し、約1億5000万年に渡って陸上を支配しました。

恐竜の特徴といえば大きさです(小さい恐竜もいますが)。恐竜には草食の系統と肉食の系統がありますが、どちらも巨大であることに違いはありません(特に巨大なものが多いのは草食恐竜のようです)。

彼らが生きたジュラ紀から白亜紀は現在よりもずっと温暖だったため、恐竜を含む草食動物たちはふんだんに育つ草木を食べ、そうして大きく育った獲物を肉食動物が食べ、という形で巨大化していったようです(おとなになると成長が止まる哺乳類と異なり、爬虫類は生きている限り成長を続けるのです)。

しかし、よく知られているように、そんな彼らは、約6600万年前に起こった最後の大絶滅事件「白亜紀の大絶滅」であっけなく滅びてしまいます。

「白亜紀の大絶滅」は、小惑星の衝突が主な原因とされています。小惑星説が唱えられる以前には、ほぼ同時期に発生していた(現在の)インド・デカン高原付近の大噴火による気候変動を原因とする説が有力であったようですが、近年、隕石衝突説の方に有利な証拠が蓄積されて来ているもようです。

ただ、小惑星の衝突がなければ恐竜は絶滅しなかったのかというと、それには疑問符がついているようです。化石試料の分析により、恐竜は「大絶滅」以前(約7600年前)からその多様性を低下させていたことが明らかになっているからです。

https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/13731

たしかに「大絶滅」とはいえ、すべての生物が滅びたわけではなく、哺乳類やその他の動物は(数を減らしたとはいえ)生き延びましたし、恐竜の中でも鳥類に進化したものは現代まで生き延びています。小惑星衝突が決定打になったにせよ、恐竜の絶滅には固有の要因があったと考えるのが合理的でしょう(「大きさ」ですよね?)。

恐竜絶滅によって有利な立場を得たのは哺乳類でした。哺乳類は、恐竜が現れた直後の2億2500万年頃に登場し、長らく恐竜と共存していましたが、恐竜絶滅後の空白の中で多様な進化を遂げて地球上に広がり、やがて人類を生み出すことにもなるのです。(つづく)

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トッド入門講座

予告編 : トッドの理論はなぜ
「それほどよく知られていない」のか

はじめまして。そうでない方には、こんにちは。
辰井聡子といいます。社会科学の研究者です。

この度、web上でエマニュエル・トッド入門講座を開講することにしました。どうぞよろしくお願いします。

この記事は予告編です。講座の趣旨をご説明します。

目次

堅実な研究者としてのエマニュエル・トッド

エマニュエル・トッドは、世界情勢に関する「独自の」分析を示す知識人としての側面が(少なくとも日本では)一番よく知られていると思います。

本の宣伝には「現代最高の知性」「予言者」「緊急提言!○○に備えよ!」「本当の脅威は〇〇だ!」「大転換期に日本のとるべき道は?」といった言葉が踊っているので、「知識と頭の良さで売っているちょっと攻撃的な論客」みたいなイメージをお持ちの方も多いかもしれません。

たしかに彼にはちょっと面白いことを言って人を喜ばせるみたいなところがあります(それほど攻撃的なことをいうことはないと思います)。しかし、いずれにせよ、私たちが彼から一番学ぶべき点はそこではありません。

トッドは、社会の動き、個人と社会の関係についての法則を発見し、理論化しました。そして、その理論は、もしノーベル賞に「歴史学賞」「社会科学賞」があったら、必ず受賞するであろうというくらい、インパクトの大きいものです。

例えば、「なぜ戦争がなくならないのか」「普通の人がなぜ民族大虐殺に加担するのか」「21世紀になっても差別がなくならないのはなぜなのか」といった問いに対して、「答え」とはいえないまでも、理解の糸口を与えてくれる。そういう理論なのです。(ルトガー・ブレグマンなどがどうしてトッドの理論にたどりつかないのか、不思議でなりません。)

社会科学者として、長年、社会というものの分からなさ、ままならなさに「うーん」とうなっていた私は、彼の理論に出会ってまさに「目から鱗」の状態になり、「社会科学にもこういう「ブレークスルー」があり得るんだ!」と心の底から感動しました。

彼の「理論」は誰にでも使える

彼の理論のすばらしい点の一つは、「誰にでも使うことができる」という点です。

相対性理論を提唱したのはアインシュタインですが、今では多くの人がその考え方を理解して、みんなで宇宙現象や素粒子理論の解明に役立てています(私は理解していませんけど)。

トッドの理論も、これと同じです。トッドの理論は、彼の思想や哲学ではなく、データの解析が導いたもの、つまり科学法則のようなものなので、特別に物知りでなくても、深い思想の持ち主でなくても、内容を理解しさえすれば、歴史や社会をよりよく理解するための道具として、普通に役立てることができるのです。

しかも、理論自体はとりたてて難しいものではないのに、理解を助ける道具としての威力は絶大です。国際情勢(中東で何が起きているのか、アフリカで反政府運動が高まっているようだが何なのか、ミャンマーはどうしちゃったのか、はたまたアメリカは?、等々)から、国内のさまざまな問題、コロナ対策への疑問など、幅広い社会的事象について、大筋が掴めてしまう。「だいたいこんな感じの話だな」とわかってしまう。普通に社会に関心を持ち、素直に真実を知りたいという方であれば、これを身につけない手はないと私は思います。

一度知ってしまうと元には戻れない

世界の根本に関わる科学理論とは、世界の見方を根本的に変え、知ってしまった以上二度と元には戻れない。そういうものです。

例えば、地動説(非地球中心説)は人間の目に写る宇宙の姿を根本的に変えたと思います。今では天動説(地球中心説)に立って天体の動きを論じるなんて考えられない。同様に、進化論なしに生物の世界を眺め、遺伝学の知識なしに人間の形質や疾患を論じることもできないでしょう。

それと全く同じ理由で、私はトッドの理論を理解してから、それなしに世界というか社会を見ることができなくなってしまいました。彼の理論はそのくらい、社会の本質的な部分に関わるものです。

ところがしかし、彼の理論は、それほどよく知られていません。普通に知的な人なら誰でも知っているというものにはなっていません。そのせいで、私は、社会について考えを述べるたびに、いちいち彼の理論を説明しなければならないという、非常にめんどくさい状況に追い込まれているのです。

「こんなことを続けるくらいなら、一度ちゃんと説明しよう!」
私がこの講座を開くことにした個人的な理由です。

彼の理論はなぜ「それほどよく知られていない」のか

ここまで読んで「そんなに重要な理論が「それほどよく知られていない」なんてことがあり得るのか?」と思った方がおられるかもしれません。

彼の理論がその価値ほどに世の中に受け入れられていない理由については、この講座の中でも折々に考えていくことになると思います。しかし、単純な理由もいくつかあります。

(理由1)適当な入門書がない

エマニュエル・トッドは学者なので、その理論を学術書の形で公刊しています。

ありがたいことに、トッドの本のうち重要なものはほぼ全て読みやすい日本語で読むことができます(訳者の石崎晴己さんと藤原書店さんのおかげです)。

しかし、学術書なので、どれも分厚いのです。

トッドは、最初の「発見」の出版から数えて40年近くに及ぶ研究者人生を通じて、その理論を大いに発展させ、ブラッシュ・アップしています。初期に発表された理論も、繰り返し言及される過程で、少しずつニュアンスを変えていたりするので、その分厚い本たちを全部読まないと、ちゃんと「分かった」という感じを得られない。

彼の理論がなかなか一般に普及しないのは当然と言わなければなりません。

エマニュエル・トッドとはどういう学者なのか。どのような歴史的文脈の中で、どのような理論を立てたのか。その理論は現代のわれわれにとってどのような意味を持っているのか。そのような基本的な情報を、わかりやすく、客観的に説明した入門書が存在しない。このことは、彼の理論の浸透を阻んでいる大きな理由の一つだと思います。

(理由2)専門領域をまたいでいる

もう一つの理由に、彼の学問が特定の専門領域の中に収まっていないということがあります。これは「なぜ入門書が出ないのか」の答えでもありますが。

現在の学問の世界では、研究者はみな特定の専門領域に属していて、その専門の中で研究し、研究成果を公表し、評価を受けます。

トッドは、自らを「歴史家」であると定義していますが、大学の歴史学の教授ではありません。彼は、歴史を理解するために、人類学や人口学を多用し、自身は長くフランスの国立人口学研究所というところに勤めましたが、彼が解明した事実の全体像は、およそ人類学や人口学という専門領域に収まるようなものではない。彼がしばしば政治や経済についても発言をしますが、それは、その理論の威力によって、それらの領域でも、真の問題が理解できてしまうからであって、彼が政治学や経済学を修めたからではない。

そういうわけで、現代の学問世界に、彼の理論を正当に評価する資格のある「専門家」は存在しません。しかし、専門主義が基本仕様であるこの社会では、基本的には、専門家による評価なしに学問が普及していくことはありません。

例えば、特定の理論が教科書に載るには、まずは専門家の間での評価が必要ですね。いくら面白くて有意義でも、専門家の間で通説ないしはそれに近い学説として認められていない理論が、学校で教えられることはありません。入門書のようなものも、専門家の間で評価が高まった結果、その領域の専門家が一般向けに書き下ろすというのが普通の流れです。

トッドの理論は、専門という狭い「入り口」を通れず、社会のメインストリームに届かずにいるのです。

(理由3)欧米知識人層の忌諱に触れた

以上のような、どちらかというと形式的な理由だけでなく、彼の学問の内容に関わる理由というのもあると思います。彼の理論には、おそらく、欧米の知識人層を苛立たせ、目を背けさせる何かがあるのです。

トッドが多用する「人類学」という学問は、通常、非西欧社会、とくに未開の社会を研究対象にする学問です。彼はその方法を近代国家に適用することで大きな成果を上げました(以下で述べることはいずれ詳しくご説明することなので、ここでは適当に読み流していただいて構いません)。

近代国家?
辞書を引いておきましょう。

「一般には、17、18世紀のイギリス革命やフランス革命以後の近代社会・近代世界に登場した国民(民族)国家をいう。(中略)
 近代国家の政治原理としては、主権は国民にある(国民主権主義)、政治は国家が選出した代表者からなる会議体(議会)の制定した法律によって運営される(法の支配)、国民の権利・自由は最大限に保障され(人権保障)、そのためには民主的政治制度(代議制・権力分立)の確立を必要とする、などがあげられる。このような近代国家の論理や政治思想は、ホッブズ、ハリントン、ロック、モンテスキュー、ルソーなどによって体系化されたものである。(後略)」

日本大百科全書(ニッポニカ) 田中浩

トッドは、人類学が用いる項目の一つ「家族システム」(親子の関係性、遺産相続のあり方、婚姻のシステム等を軸として類型化された家族の在り方の体系。詳しくは次回以降にご説明します。)に基づいて西欧社会を含む近代社会を分析しました。各文化圏の近代化以前の家族システムと近代化後の政治的イデオロギーを照らし合わせてみたのです。

彼がまず気がついたのは、両者が対応関係にあるということでした。かりにA型、AB型、B型、C型の家族システムがあるとすると、A型の地域はリベラル・デモクラシー、B型の地域は共産党独裁、C型はイスラム国家というように、古来からの家族システムと近代以降のイデオロギーは見事に対応していたのです。(①)

その後、彼は、家族システムが生成する過程を調査し、多様な家族システムたちが、皆、先史時代に遡る一つの原型から進化して生まれたものであることを確認しました。進化の道筋は、西欧近代の基礎にあるA型が、B型、C型への進化から取り残された、より原型に近いものであることを指し示していました。(②)

もう一つ、彼は、歴史学の発見と人口学の理論を援用し、近代化の過程で起きた「進歩」の本体を明らかにしました。現在の標準的な考え方は、商業の発達、貨幣経済の広がり、貿易の開始といった経済的要因をもっとも重視するのですが、トッドはこれを否定し、近代化における「進歩」にとってもっとも本質的なのは、社会全体の教育水準の向上であるという説を立てます。教育を身につけることで人々の主体性が増し、伝統や神の教え、政治的権威に従順である代わりに、自分の考えに従って行動するようになった。それによって表出したのが近代社会であると、そういう考え方です。(③)

・ ・ ・

これがなぜ西欧人の気分を害することになるのでしょうか。
①〜③の理論を組み合わせると、「近代化」ーいうまでもなく、16世紀以降の歴史を決定づけた最重要の現象ですーのメカニズムが導かれます。西欧の人たちの癇に障るような(笑)やりかたでまとめてみます。

(1)「近代国家」のイデオロギー(リベラル・デモクラシー)とは、A型の価値観を持つ農民たちがもともと持っていた価値観が近代社会に投影されたものであり、ロックやルソーなどの偉大な思想家の発明品ではない。

(2)西欧がいち早く近代化を成し遂げたのは、西欧がより原型的な(≒ 遅れた)家族システムを維持していたからである。

(3)A型以外の家族システムを持つ国民は、教育水準の上昇により「進歩」を成し遂げたとしても、西欧と同様のイデオロギーを内面化する国民にはならない公算が高い。

トッドの理論は、西欧が成し遂げた近代化の価値を決して低く評価するわけではありません。彼の理論は、ただ、一口に「近代の価値」とされてきたものが、家族システムの価値観に由来する「個性」と普遍的な「進歩」に分かれることを示すだけです。

しかし、これによって、近現代史における西欧のポジションは大きく変わります。

非常に大雑把にいうと、これまで、近代化とはこんな感じのものだと考えられてきました。ヨーロッパが先頭を切って達成した進歩に、他の国々が徐々に追いついてきて、最後には世界が自由で民主的な世の中になるという、そういうイメージです。

トッド入門.002


これに対し、トッドの理論に従うと、近代化マップは、次の図表のように書き換えられます(注:この表はイメージです)。近代化に対する西欧の立ち位置は相対化され、文化圏ごとの数ある近代化パターンの一つに「格下げ」となるのです。

近代化図表(例)

近代国家の理想、それは欧米社会の誇りであり、彼らの自尊感情の基礎にあるものです。偉大な思想の導きの下、いち早く民主化革命を成し遂げ、自由で民主的で豊かな社会を築き上げたこと、そのことが、欧米こそが世界の中心であり、世界をリードする存在であるという彼らの自負心を支えています(バイデン大統領がやたらと「民主主義と専制主義の戦い」などと言っているのはそのためです)。

トッドの理論は、西欧は特別ではないというごく当たり前のことを述べているにすぎないのですが、それは、欧米社会の誇りを傷つけることにほかならない。文化・経済の停滞や、中東政策の失敗、中国の台頭(?)などで、自信を失っている欧米のエスタブリッシュメントには、それを受け止める余裕はないでしょう。

非西欧世界の人なら喜んで受け入れるとは限らない  

では「西欧は特別ではなかった」という事実を、非西欧世界の人々ならば、喜んで受け入れるかというと、そうとは言い切れない。というより「受け入れがたい」と感じる人の方が多いと思います。

世界中の人々は、憧れるにしても反発するにしても、つねに西欧文化を意識し、西欧を真似したり、追いつき追い越そうとしたり、「欧米ももう大したことない」とうそぶいてみたり、西欧を批判して「別の」道を行こうとしたり、してきました(最近は「西欧」の代わりに「グローバル社会」などといっているかもしれませんが、中身は同じです)。

西欧が世界の中心ではないということは、「西欧を真似すればよい世界を作れる」、あるいはまた「西欧を批判すれば本質的な批判をしていることになる」という前提が崩れることを意味します。

「西欧が理想だ」と信じている立場から見ると、先ほどの仮説(3)は、「家族システムが違う文化圏はどう頑張っても西欧にはなれない」という残酷な言明とも受け取れます。批判者にとっては、安心して批判を向けることのできる「巨大な敵」が失われることになり、それはそれで面白くない。

たしかに、なかなかしんどいですよ。

多くの国の国民は、「自由と民主主義」に代表される理想の追求こそが、よりよい社会への道であると信じて努力してきました。自国の社会がうまくいっていないと感じた時は、理想化された「欧米」との違いを探し、指摘し、修正を試みてきました。

それが良心的な市民の基本姿勢であり、知識人(文・理を問わないと思います)の姿勢でもありました。そのような状況が、日本についていえば、150年以上も続いてきたのです。

トッドの理論を受け入れる、あるいは正面から受け止めるということは、世の中に欧米やグローバル社会という「理想」ないし「手本」(ないしは標的)があるという考えを捨て去り、進むべき道を一から自分で考え直すこと、その覚悟をするということに他なりません。

今更そんなこと言われても困るという人はたくさんいるでしょう。それは仕方ありません。

一方で‥‥たぶん、これを読んでいる方の中にも、目が輝き、胸がときめき、お腹が暖かくなっている人がいるはずです(反応はさまざまでしょう)。いますよね?

20世紀をちゃんと終わらせ、次に進もう!

若い方はもしかしたらご存じないかもしれませんが、世界はずっとずっと前から、自由と民主主義を目指していました。過去には、より一人一人の権利が尊重され、みんながより自由に生きられるようにという気運が、いまよりも盛り上がっていた時代だってありました。差別の問題も、環境問題も、ずっとずっと前から意識されていたのです。

でも、はっきりいって、それは実現されていません。日本だけでなくどこの国でも実現していません。自由と民主主義も、差別や貧困のない世界も、クリーンで持続可能な環境も、戦争のない世界も、ずっとずっと目標であったのに、実現していないどころか、悪化さえしている。

目標自体がまちがっていたとはいえないでしょう。どれもこれも、少なくとも大筋では、よいに決まっているものばかりです。

本気でなかったから、でしょうか?
私はそうは思いません。

証明する手立てもその気もないので、みなさんを止めようとは思いませんが、今までと同じやり方で「本気を出して」頑張り続けるなんて、私はまっぴらごめんです。今までだって、みんな、本気で、真面目に取り組んできたのですから。

そうだとしたら、残る答えは一つしかありません。
目指し方がまちがっていたのです。

本気でよりよい社会、少しでも暮らしやすい社会を目指すなら、いまが戦略を練り直すときだと思います。これまでの常識をいったんカッコに入れて、真実に耳を傾け、どうやって先に進んでいくかを考えるときだと思います。

面白そう!
それ、やってみたい!

と、ときめいている素直で能天気で(失礼!)やる気にあふれた皆さんと、エマニュエル・トッドの理論を共有すること。

それがこの講座の目的です。