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トッド後の社会科事典

宗教(一神教)

(家族システムが未分化であるために)地上で国家を生成する能力を欠く原初的核家族が天上に作り上げた王国。

唯一絶対の神は、家族システム(=集合的メンタリティ)における権威の代替物として機能し、原初的核家族や絶対核家族が国家を生成・維持することを可能にした。

古典的な事例はユダヤ教であるが、時代が進むにつれ(→キリスト教→イスラム教)、原初的核家族を含む多様な集団を一つの秩序の下に統合する手段としての性格を色濃く持つようになった。

なお、エマニュエル・トッドは、人間社会における宗教の影響力を過大に評価していると筆者には見える。宗教を過大に評価してしまうのは、彼が西欧の歴史を基礎に世界を見ているからである。

西洋の衰退の根源には宗教的危機(信仰の衰退・消滅)があるとする彼の指摘は正当である。しかし、西洋において信仰の消滅(トッドは「宗教ゼロ」状態と呼ぶ)が致命的であったのは、国家の生成・維持に不可欠な権威の役割を一神教の神が代わりに務めていたからである。究極的な問題は、宗教ではなく、家族システムの次元にあるのだ。

核家族の西洋では、一神教の神は、地上のすべての規範(法、倫理)や共同性の源であった。しかし、一神教を擁する共同体家族や多神教を擁する直系家族の場合、地上の「正しさ」は家族システムに支えられており、宗教はそれを補強しているにすぎない。宗教的危機が国家的秩序を弱めることがあったとしても、崩壊(「国家ゼロ」状態)を導くとは考えにくい。

  • 一神教の神は、地上における権威の代替物
  • 原初的核家族が国家生成の必要のために発明し、後には共同体家族による帝国経営(核家族を含む多様な集団の統合)に役立てられた
  • 宗教的危機が「西洋の敗北」を招いたのは、西欧・アメリカ文化圏では、一神教の神が(家族システム=集合的メンタリティに欠けている)権威の代わりを務めていたため

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おかね(付・資本主義経済)

財やサービスの交換の際の決済手段。形(トークン、粘土版に刻んだ印、帳簿上の数字など)にかかわらず、市場において決済に使用できる媒体はおかねである。

おかねの機能

おかねの基本的な機能は、財の流通の促進・容易化である。原初的な社会では、財は家族類似の集団の中で共有(分配)されるほかは、贈与・互酬の関係を通じて主に親族集団の内部を流通したと考えられる。文明が始まり、都市国家が生まれる頃、交易が始まり、同時におかねの使用も始まった。以来、人間界では、共同体(社会)の内外で、おかねのネットワークが構築され、財の円滑な流通を支えている。

一定の規模を超えた社会で、人々に生活必需品(衣食住に必要な財)を行き渡らせるには、おかねのネットワークを通じた財の流通が不可欠であることから、おかねはしばしば人体における血液にたとえられる。

社会の健康状態(健全性)は、流通するおかねの質と量によって大きく左右される。この点でも、血液の比喩は有意義である。

  • おかねの基本的な機能は、財の流通の促進・容易化である
  • おかねの質と量は社会の健全性を大きく左右する

おかねの価値の源泉

おかねの価値の源泉は、財やサービスとの交換可能性にある。人々がおかねによる決済を受容するのは、そのおかねで別の財やサービスを手にいれることができるからである。この意味で、おかねには「財やサービスを要求する」という性格がある。

社会を流通するおかねの量が増えると、同時に、社会を流通する財やサービスの量も増える。おかねは「財やサービスを要求する」からである。

社会の側から見ると、おかねの増量は「豊かさ」の増加である。一方、自然の側から見ると、おかねの増量は「資源の減少」にほかならない。

地球上の財やサービスは、例外なく(直接・間接に)地球上の資源を原料として生み出されるからである。

19世紀後半以降の化石燃料の大量消費、20世紀後半以降の大規模な森林破壊は、いずれも、各時期におけるおかねの総量の増大がもたらした現象として説明可能である。

ドルの流通量 https://fred.stlouisfed.org/series/CURRCIR
  • おかねの価値の源泉は、財やサービスとの交換可能性であり、おかねには「財やサービスを要求する」性質がある
  • おかねの増量は、社会から見ると「豊かさの増加」であるが、自然の側から見ると「資源の減少」である
  • 化石燃料の大量消費、森林破壊などによる環境破壊はおかねの総量の増加の帰結として説明できる

おかねの信用源

おかねの価値は、おかねそのものの物質的価値ではなく「財やサービスとの交換可能性」にある。おかねが貴金属(金や銀)でできている場合もこの性質に違いはない。

紙幣(紙切れ)や預金(数字)の場合に顕著だが、「財やサービス」そのものではないおかねを決済手段として通用させるには、人々におかねの価値(交換可能性)を信用させるための何かが必要である。通常の場合、おかねの信用の元となるのは、発行者の経済的信用である。

近代以前に紙幣の流通を成功させた事例(中国やモンゴル)では、1️⃣国家(政府)が、2️⃣自らの権威と財力(税金収入や政府自身の事業収入)を信用源として発行・通用させていた。この場合、おかねの信用の基礎は、国内の経済活動(経済的活力)にあるといえる。

現代のおかねは「資本としてのおかね」であり、1️⃣民間の金融機関(銀行)が、自らの財力ではなく、2️⃣貸付(投資)と回収による金回り を信用源として発行する点に特徴がある。

  • おかねを通用させるにはその信用を支える何か(信用源)が必要である
  • 現代のおかねは(発行者の財力ではなく)貸付(投資)と回収の金回りを信用源とする「資本としてのおかね」である

資本としてのおかね(資本主義経済)の誕生

資本主義経済とは、「資本としてのおかね」を基礎として発展した経済のことである。資本主義の基本的な性格を理解するため、この「資本としてのおかね」の誕生の経緯を確認しよう。

(1)民間金融業者が「資本としてのおかね」を発行

「資本としてのおかね」が生まれたのはイギリスである。17世紀のロンドンは「商業革命」(外国から魅力的な商品を掠め取ってきて国内外で売りまくる新規ビジネスの隆盛)にわき、資金需要が高まっていた。

辺境の三流国家であった当時のイギリスの政府に、新しい経済を回すのに必要なおかねを発行する能力はなかった(権威も経済的信用も確立していなかった)。

しかし、当座の資金さえ用意できればいくらでも成功の機会があるというこの状況を見逃す手はない。

そこで、民間の金融業者が手形(紙切れ)や口座(数字)による貸付をはじめ、それらがおかねとして機能(流通・通用)することで「資本としてのおかね」が誕生したのである。

(2)法定通貨化と基軸通貨化

民間の金融業者が発行したおかねの信用源は、「貸せば利子をつけて戻ってくることが確実」(貸付(投資)と回収による金回り)という見込みにある。原資がなくても発行できる点は便利だが、金回りに行き詰まれば即座に信用を失う、不安定なおかねである。

しかし、自身もつねにおかねに困っていたイギリス政府は「貸付によっておかねを生む」というこの魔法に飛びつき、国家財政の中核に据えた(いわゆる「財政革命」→イングランド銀行の設立・国債制度の確立)。ロンドンの街角で生まれたおかねは、 1️⃣民間業者の発行、2️⃣貸付と回収の金回りが信用源 という基本的性格を保持したままで、国の法定通貨になったのである。

魔法のおかねを手にしたイギリスは世界の覇者となり、ポンドは世界に通用する通貨(基軸通貨)となった。やがて、貿易でも工業でもなく金融(貸付)こそがイギリスの基幹産業となり、イギリスは世界に向けて大量のポンドを発行し続けた。

ポンドが「グローバル資本としてのおかね」に成長したこの時期までに、資本主義経済の基本的性格は確立されていた。

(3)「永遠の経済成長」の夢

現代に至る資本主義の性格を定めたのは「グローバル資本としてのおかね」の信用源である。

ロンドンの街角で生まれた「資本としてのおかね」は、三角貿易に代表される植民地貿易の成功によって生まれた。

「資本としてのおかね」は、最初から「無限に広がる(と見えた)ビジネス・チャンス」を信用源としていたが、民間人の貿易だけでは成長は頭打ちだったはずである。

しかし、国家との結びつきはイギリスに成長を「力づくで」もぎ取る力を与えた。さらに、基軸通貨の地位は、世界中の成長機会をイギリスの成長に接続した。

イギリスの覇権が続く限り無限に続くと思われた成長。「グローバル資本としてのおかね」は、こうして、「永遠の経済成長」の夢を信用源として発行され、世界中に流通するものとなったのである。

(3)「成長」の主体はあくまで「自分たち」

重要なことはもう一つある。おかねの信用を支えた「永遠の経済成長」の中身が、最初から最後まで、世界中の富や成長機会を利用した「自分たちの」(イギリス自身の)経済成長であったという点である。

覇者となったイギリスが、このおかねを、世界を搾取するためではなく、世界を真に豊かにするために用いることは(理論的には)可能であったと思われる。しかし、事実として、彼らはその道を選択しなかった。

「自分たちの永遠の経済成長」だけが信用源(金融機関がおかねを発行する動機)であるという性格は、次に基軸通貨となるドルにも自然に受け継がれ、「一部の国(西側諸国)だけを利する」という、資本主義経済の基本的性格を決定した。

  • 現代の資本主義経済を支える「グローバル資本としてのおかね」は、世界の富や成長機会を利用した「自分たちの」「永遠の経済成長」の夢(に依拠した金回り)を信用源とするおかねとして確立した
  • 上記の性格はドルに受け継がれ、資本主義経済は「西側諸国だけを利する」ものとなった

劣化する資本主義経済

二つの世界大戦を経てポンドが(事実上)破綻した後、(自分たちの)「永遠の経済成長」の夢を信用基盤とする基軸通貨の地位はドルに引き継がれた。

大戦直後にはまさに「永遠の経済成長」を体現するように見えたアメリカが、産業力を大幅に上回る旺盛な消費(軍事費含む)によって赤字大国に転落するのに時間はかからず、ドルは1960年代の後半にはすでに破綻の危機に直面していた。

このとき、ドルを支えたのは西側諸国(ヨーロッパと日本)である。戦後の復興の過程で西側諸国はドルのネットワークに深く組み込まれ、ドルの命運は西側諸国を中心に広がる「世界経済」の命運を左右するようになっていた。ドルは、アメリカ一国を超えて、西側諸国全体にとっての(自分たちの)「永遠の経済成長」の夢を背負う存在になっていたのである。

西側諸国は、赤字を抱えるアメリカに支払いを迫ってドルを破綻させる代わりに(黒字分で)アメリカ国債を買い(=アメリカにおかねを貸し)、為替市場ではドル買い介入をしてドルを支えた。

しかし、結果的に見ると、支援によって状況はさらに悪化したといえる。いくら赤字を出しても破綻しない状況下で、アメリカはドルによる大量消費を継続し、西側世界はドルのさらなる過剰供給に苦しむこととなったからである。血液の比喩でいえば、西側諸国は、成長を終えた身体に質の悪い血液を大量に注入された状態となっていた。

それでもなお、ドルの暴落を防ぐため、西側諸国(アメリカを含む)は血眼(ちまなこ)になってフロンティア(新たな投資先)を探し、新たな金融手法の開発、IT・AI・宇宙ビジネスや創薬、新興国への搾取的な投資など、「無限の可能性」の期待をそそる事業への投資を続けた。

近代化の初期や戦後復興期にはたしかに(少なくとも西側諸国の)実質的な経済成長を支えた「グローバル資本としてのおかね」は、こうして、見事なまでに劣化を遂げた。

暮らしむきの向上と無関係の「経済成長」に人々を駆り立て、新興国の富や労働力を搾取して彼らの実質的な成長を阻害し、地球上の資源を徒に浪費して、自身の延命を自己目的とする。「グローバル資本としてのおかね」は、そのような存在に成り下がったのである。

  • 成長期を過ぎてもなお「永遠の経済成長」に向けた大量発行が続けられた結果「グローバル資本としてのおかね」は著しく劣化し、世界を分断・自然を破壊するだけの有害な存在となった

「永遠の経済成長」の夢の終わり

ドルの形をとった「グローバル資本としてのおかね」は、2008年に事実上破綻し、現在は延命治療によって生き永らえている状態であるが、破綻が顕在化するのは時間の問題である。

現在の世界の歪みと混迷の原因は、世界を流れる「血液」であるおかね(グローバル資本)が、1️⃣特定の国家に帰属し、かつ、2️⃣彼ら自身の「永遠の経済成長」という法外な夢(に基づく金回り)を信用源とするおかねであったことにある。

ドル崩壊後も「資本としてのおかね」の利用は続くであろう。しかし、新たな国際通貨(グローバル資本としてのおかね)は、1️⃣異なる家族システム(集合的メンタリティ)に依拠する複数の国家・社会がそれぞれor共同で、2️⃣相当程度の公的管理の下で、3️⃣それぞれの集合的メンタリティに見合った経済活動に資する目的のために発行するおかねとなることが予想され(いわゆる多極化 [multipolarization])、単一の勢力の暴走によって生じた苛烈な紛争、自然破壊、経済的・社会的格差の増大といった問題は、(時間をかけて)抑制されていくはずである。

ドルの終わりは、西側諸国が見た(自分たちの)「永遠の経済成長」という法外な夢の終わりである(近代の終わりでもある)。

不安ですか?
いやいや。

西側諸国を含むすべての人間に、より公平で、常識的で、持続可能な社会への道を開く、絶好のチャンスの到来である。

  • ドルの終わりは「(西側諸国の)永遠の経済成長」という法外な夢の終わりであり、より公平で、常識的で、持続可能な世界への第一歩である

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近代

ヨーロッパが世界の中心に躍り出て覇権を握った時代のこと(概ね16世紀ー現代)。

近代より前、文明の進歩は社会の絆(家族システム)の革新とともにあった。家族システムの進歩とは無縁であったヨーロッパが突如文明の中心地となった要因は、全人口における識字率の急激な上昇にある。

先に文明の進歩を経験していた地域では、安定性を志向した社会の構造化の中で、文字の自由な使用が知識人階級に限定される傾向が見られたが、ヨーロッパはそうした制約を持たなかった(ゆるかった)。そのため、精神的・物質的な諸条件が整うと一気に識字率が高まり、文化力が爆発的に開花したのである。

それ以前の文明と深く接続していなかったヨーロッパは、自らが近代に達成した事績のすべてを「進歩」とみなし、覇権の拡大とともにその価値観は全世界に広まった

しかし、実際には、その多くは、かなり単純に、核家族的メンタリティの具現化そのものであり、世界中がそれを模範とすることが妥当であった(る)とは考えられない。

近代以降の社会科学は、近代=ヨーロッパ文明を「進歩」とみなすところから出発している。そのすべてを相対化することが「トッド後」と銘打つ本事典の基本的な視座である。

  • 近代とはヨーロッパが覇権を握った時代のこと
  • 全世界に先駆けての大衆識字化が覇権の根幹。その要因は社会が単純なまま維持されていたこと
  • 近代社会の特徴とされるものは概して核家族メンタリティの具現化そのもの

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幸せ(幸福)

社会を構成する一人ひとりに自らの人生を司るものとして与えられた規範。「正しさ」とセットで社会の構築・維持のために機能する

「正しさ」と同様、社会の精神的絆(家族システム)の在り方によって基準や深度が異なる傾向にある。

誕生の経緯等については「正しさ」の項目を参照のこと。

  • 「幸せ」は「正しさ」の個人版(個人の人生向け)

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正しさ(正義)

人間が、精神的な絆(社会)を構築・維持するために作り出した観念。自然界には存在しない

人類の社会化(約70000年前)と同時に誕生したと推測されるが、社会の複雑化 ≒ 国家の成立とともに、がぜん大きな役割を担うようになった。

原初的社会の正しさの基準はもっぱら「自分と仲間」(身内)の生存と快楽にあったと考えられる。人口増加により社会内部の秩序維持が課題となると、より普遍的な正しさをもって社会を律することが必要となる。人間の社会は、この状況に対応するために、縦型の権威の軸を生み出し、以後はこの権威を支えとして、宗教や法、常識などのかたちで、正しさを定立・拡充していった。

各社会における正しさの基準は、通常は、社会の精神的絆の在り方(家族システム)に左右され、例えば、直系家族の場合には家系の永続、共同体家族の場合には国家の安寧、緩和された共同体家族の場合には世界の平和(神の秩序?)が指導理念となる。

なお、権威の確立した社会では、構成員の(ある程度の)総意をもって、社会内に一つの正しさを定立することが可能である。しかし、権威の確立していない社会では、正しさは、利害や意見の異なる者同士の戦いによって決定されるのが通常となる。

  • 正しさは社会の構築・維持のために人間が作り出した観念。自然界には存在しない
  • 国家の成立とともに役割が巨大化した
  • 正しさを支えるのは権威
  • 権威が確立されていない社会では戦いが決する

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社会

人間が営む共同体。自然や外敵からの防衛、食糧の確保、老いや病・出産育児の際の生活支援(相互扶助)を主目的とする点は他の動物の群れと同じだが、精妙な精神的(感情的・霊的・知的)紐帯で結ばれている点に特徴がある。

本サイトの理解によれば、この「社会」の形成(≒ 精神的深化)こそが、生物種としての人間に独特の生存戦略であり、地球上における人間の繁栄を可能にした要素である。したがって、人間を理解するには、社会の成り立ちを理解することが決定的に重要である。

社会と家族

社会の実体は、個体と個体を結ぶ精神的な絆の中にある。絆の在り方を決めているのは、家族・親族の在り方である(家族システム)。

社会にとっての家族システムの重要性は、人間が家族の中に生まれ落ちる生物であることの単純な帰結と考えられる。

進化のはじまり

人間が人間となった当時(約70000年前)の社会は、地球上に(少なくとも)比較的最近まで存在した狩猟採集社会と同種のものであったと考えられる。核家族(夫婦と成人前の子どもからなる世帯)を基本に、その周囲に事実上存在する親族集団が必要に応じて協力し合うごく緩やかな共同体である(規模は大きくて1000人程度)。

その後も長い間、人間は同種の社会を営み続け、地球上にこうした人間の集団が散在する状態が続いた。

進化の第一歩が踏み出されたのは、前4000年頃の西アジアにおいてである。農耕文明の中心地であった同地で、人口増加による土地不足のため、農地を親から一人の子ども(多くは長子)に受け継ぐ慣行が行われるようになったことが革新の契機となった。

成人した子どもが全員家を出て(農村の場合は新たな土地を開墾して)新たな核家族を作る仕組みの下では、家族と家族、集団と集団の間に「親族である」という以上の関係性が生じることはない。

長子相続は、こうした世界に、親と子、祖先と子孫をつなぐ一筋の絆をもたらした。上の世代と下の世代を権威関係で結ぶ縦型の堅固な軸が、社会を構造化する柱の役割を果たし、以後、社会は一気に国家の形成へと向かったのである。

異質な社会が併存する世界

緩やかな親族集団からスタートした人間の社会は、家族システムの進化(個人と個人をつなぐ精神的絆の構造化)とともに変化を続け、小規模な国家(都市国家)が成立した後、帝国(複数の都市国家を統一した国家)、世界帝国(より広域の帝国)へと発展していった。

ある地域で家族システムの進化が生じると、その家族システムは支配や模倣を通じて周辺に拡散したが、歴史を通じて、一つのシステムが世界を覆い尽くすほど拡大することはなかった。

その結果、この世界には、進化の段階を異にする多様な家族システム(→異なる種類の精神的絆に依拠する社会〔国家や各種共同体〕であり、異質な集合的メンタリティを有する社会)の併存状態がもたらされることになったのである。

社会が担う二つの役割:戦争と平和

社会の基本的機能は種の保存であり、精神的絆の構築により生物種としての効果的な生存を図るというのが人間の採用した戦略である。

原初的な核家族システムは、社会の絆をもっぱら「外部との戦い」(外部から来る危険や困難に共同で立ち向かう)のために用いることで、この機能を果たしていたが、家族システムの進化は、社会に「内部の融和」(共同体内部の紛争の解決・予防)という新たな役割を付け加えた。

人口増加による紛争の多発状況が、家族システムの進化を生んだという事情を考えれば当然のことではあるが、これによって人間が、「自己保存」(身内の生存・生活の防衛)の価値に加え、「共存共栄」(他者との平和的共存)という価値を内面化するようになったことは、それなくして人間がこれほどまでに地球上に繁茂することはなかったであろう、画期的な進歩であったといえる。

現状

膨大な数の人間が地球上に広がり、人間が巨大な自然破壊力(高度な科学技術)を手にしている現在、人間界の秩序が(ある程度)保たれることは生態系全体にとって死活的に重要となっているが、家族システムの進化にも関わらず、人間界の平和は実現していない。

その理由としては、1️⃣異なるシステム(=異なるメンタリティ)の社会が併存し相互理解に限界があること、2️⃣「近代」以降、原初的な核家族に近いシステムの社会が人間界の覇権を握っていること、などが挙げられる。

しかし、最大の理由は、以下の点にあるのではないかと筆者は考えている(仮説である)。

3️⃣人間の社会は、自己保存(外部との戦い)の価値と共存共栄(他者との平和的共存)の価値の双方を内在している場合でも、究極的には前者が優先される仕組みになっている。

人間が、平和を謳う一方で、いとも簡単に他者(他の社会)を敵視することができるのは、社会(=集合的メンタリティ)の優先順位があくまで「自己保存のための絆の構築」にあるからではないか。

平和への希望は、人間が、その精神の自由を、人間自身の精神性の限界(少なくともその可能性)を認識・制御する方向に向けることができるか否かにかかっていると思われる。

  • 社会の実体は、個体と個体を結ぶ精神的絆の中にある
  • 社会ごとの絆のあり方は、家族システムによって決まっている
  • 家族システムの進化が国家を可能にし、進化が一様に進まなかったことが多様なシステムの国家の併存状態をもたらした
  • 家族システムの進化は、生物の本能から来る「自己保存」に加え、「共存共栄」(他者との平和的共存)の価値を人間の集合的心性に付加した
  • 社会の優先順位があくまで「自己保存のための絆の構築」にあるためか、人間界の平和は実現していない

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人間

比較的貧弱な身体能力にかかわらず地球上の食物連鎖のトップに君臨する生物。他の生物と同様に自然界(宇宙)に存在するが、発達した大脳機能を駆使して脳内に「社会」という疑似的な宇宙(宇宙内宇宙)を作り上げ、主としてその中で生活をする点に最大の特徴がある

人類が「社会」の形成を始めたのは約70000年前である。言語的コミュニケーション、抽象的思考に基づく文化的営為、高度な技術を用いた生態系への介入等を特徴とする種としての人間は、この時期に誕生した。以後の遺跡に見られる大型動物の狩猟、埋葬、身体装飾、象徴(記号や絵)の痕跡は、精神的(感情的・霊的・知的)な絆で結ばれた共同体が構築され始めたことの証である。

スティルベイ文化の代表的遺跡(ブロンボス遺跡)からの出土品
https://kids.britannica.com/students/article/Blombos-Cave/606844

人間が作り出した高度な社会や文化は、直立歩行に由来する身体的特徴(発達した大脳、上肢(手と腕)の自由な使用)と関連づけて捉えられることが多い。しかし、人類は、直立歩行に適した身体と大きな脳を持つ生物として登場した後も長い間、文明とは無縁の暮らしを送っており(ホモ・ハビリスの登場は約240万年前、ホモ・サピエンスは約20万年前)、人類の「人間化」の直接的な原因を直立歩行(脳の大きさや手の使用)に求めるのは無理がある。

人間への飛躍をもたらした究極的な原因や機序を特定することはできないが、火山の巨大噴火が引き起こした寒冷化や最終氷期の開始といった気候変動と関連づける有力な仮説が存在し、魅力的である。こうした仮説に依拠した場合、人類の「人間化」は、種としての生存の危機に追い込まれた人類が、その克服のために、社会化と精神性(感情・霊性・知性)の開花を同時に成し遂げた結果として説明されることになる。

「人間は考える葦である」(パスカル)「われ思う、故にわれあり」(デカルト)等の語に顕著なように、近代文明は精神性を人間の「個」性(や個人の尊厳)の源と捉える強い傾向を持っている。しかし、精神性が(種としての)人間の生存のために担った役割を省みれば、その主要な機能が仲間との絆の構築にあることは疑いない。生存可能性を高めるために人間が開発した特異的な能力は「信じる力」(虚構を真実として共有する能力)の方であり、疑う力(自由に考える能力・批判的思考力)はその裏面にすぎないという想定すら成り立つであろう。

人間の集団が共有する観念や物語は、総じて、生物(とくに動物)にとって本源的な感情や欲求(死の恐怖、食餌・生殖への欲求、仲間を求める感情等)を増幅・誇張する内容となっており、生物の自然的欲求を(大脳機能によって)集団的に増幅することで生成される一種の「危機意識」の共有が人間の生存戦略であることをうかがわせる。

この生存戦略の副作用として、生物としての自然的欲求と大脳の増幅・誇張機能によって得られた欲求を区別することが困難となった人間は、つねに過剰な欲求をいだき、欲求を満たそうとすると往々にして自然の矩を超えてしまうという難儀な運命を抱え込むこととなった。

他の生物種との競争に圧勝した人間は、地球上(の陸地)に最も広く分布する生物として繁栄したが、個体数の増えすぎ、および、「社会」の論理への過剰適応により、1️⃣人間間の争い、2️⃣人間の介入による自然界への負荷 がいずれも制御困難となり、自然の生態系全体を危機に晒すに至っている。

  • 人間の特徴は「社会」の構築
  • 人類が人間になったのは約7万年前
  • 種としての生存の危機を克服するための「社会化+精神性の開拓」か
  • 精神性(感情・霊性・知性)の第一の機能は絆の構築
  • 危機意識の共有という生存戦略のために、人間はつねに自然的必要性を超えた過剰な欲求を抱えることになった
  • 個体数の増えすぎと「社会」への過剰適応が、生態系の危機をもたらしている

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