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トッド後の社会科事典

学問(近代)

識字化が進み、天上の王国(キリスト教)を信じることができなくなった心(集合的メンタリティ)が、観念の世界に築き上げた王国。

宗教(一神教)が(家族システムにおける)権威の代替物として機能していた文化圏(核家族の西欧・アメリカ)において、近代化(=世俗化)の開始から約300年間、唯一絶対の神に代わる(共有物としての)「正しさ」の供給母体となった。

人文・社会科学において彼らが生み出すイデオロギーが極めて理想主義的であり、また、自然科学が自然界(人間の身体を含む)の操作・改変に向かう強い傾向を有しているのは、学問が(天上の王国を司る)唯一絶対の神と同じ役目を担っているためと考えられる。

宗教と学問

西欧では、信仰心の高まりと識字化は一直線の過程だった。キリスト教は世俗の王による国家の樹立を助けた後、民衆の間に広まり、識字化の原動力となった。唯一絶対の神を希求する心は、識字化によって「客観的真実」探究の情熱に転じ、近代国家の建設・運営を支えた。

宗教と学問は実質的に一つのものであり、生き生きとした信仰こそが、彼らの批判精神、そして新たな理想(目標としての「正しさ」)を目指す情熱の源であったといえる。

神が消滅する過程で花開き、百花繚乱の様相を呈した学問は、脱宗教化の完成によって、理想を信じる力と批判精神(疑う力)を同時に喪失し、その生命を失ったのである。

以来、学問は、空虚な理想を語る言辞の裏で、欧米を中心とする西側世界の自己保存(おかねに支えられた覇権)に仕えるだけの存在となっている。

  • 西欧世界における学問(近代)は、一神教(キリスト教)に代わる権威の代替物
  • 唯一絶対の神の代わりに「客観的真実」をいただく観念の王国は、識字化し天上の王国を信じることができなくなった核家族によって築かれた
  • 学問は脱宗教化の過程で開花し、脱宗教化の完成によってその生命を失った

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宗教(一神教)

(家族システムが未分化であるために)地上で国家を生成する能力を欠く原初的核家族が天上に作り上げた王国。

唯一絶対の神は、家族システム(=集合的メンタリティ)における権威の代替物として機能し、原初的核家族や絶対核家族が国家を生成・維持することを可能にした。

古典的な事例はユダヤ教であるが、時代が進むにつれ(→キリスト教→イスラム教)、原初的核家族を含む多様な集団を一つの秩序の下に統合する手段としての性格を色濃く持つようになった。

なお、エマニュエル・トッドは、人間社会における宗教の影響力を過大に評価していると筆者には見える。宗教を過大に評価してしまうのは、彼が西欧の歴史を基礎に世界を見ているからである。

西洋の衰退の根源には宗教的危機(信仰の衰退・消滅)があるとする彼の指摘は正当である。しかし、西洋において信仰の消滅(トッドは「宗教ゼロ」状態と呼ぶ)が致命的であったのは、国家の生成・維持に不可欠な権威の役割を一神教の神が代わりに務めていたからである。究極的な問題は、宗教ではなく、家族システムの次元にあるのだ。

核家族の西洋では、一神教の神は、地上のすべての規範(法、倫理)や共同性の源であった。しかし、一神教を擁する共同体家族や多神教を擁する直系家族の場合、地上の「正しさ」は家族システムに支えられており、宗教はそれを補強しているにすぎない。宗教的危機が国家的秩序を弱めることがあったとしても、崩壊(「国家ゼロ」状態)を導くとは考えにくい。

  • 一神教の神は、地上における権威の代替物
  • 原初的核家族が国家生成の必要のために発明し、後には共同体家族による帝国経営(核家族を含む多様な集団の統合)に役立てられた
  • 宗教的危機が「西洋の敗北」を招いたのは、西欧・アメリカ文化圏では、一神教の神が(家族システム=集合的メンタリティに欠けている)権威の代わりを務めていたため

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おかね(付・資本主義経済)

財やサービスの交換の際の決済手段。形(トークン、粘土版に刻んだ印、帳簿上の数字など)にかかわらず、市場において決済に使用できる媒体はおかねである。

おかねの機能

おかねの基本的な機能は、財の流通の促進・容易化である。原初的な社会では、財は家族類似の集団の中で共有(分配)されるほかは、贈与・互酬の関係を通じて主に親族集団の内部を流通したと考えられる。文明が始まり、都市国家が生まれる頃、交易が始まり、同時におかねの使用も始まった。以来、人間界では、共同体(社会)の内外で、おかねのネットワークが構築され、財の円滑な流通を支えている。

一定の規模を超えた社会で、人々に生活必需品(衣食住に必要な財)を行き渡らせるには、おかねのネットワークを通じた財の流通が不可欠であることから、おかねはしばしば人体における血液にたとえられる。

社会の健康状態(健全性)は、流通するおかねの質と量によって大きく左右される。この点でも、血液の比喩は有意義である。

  • おかねの基本的な機能は、財の流通の促進・容易化である
  • おかねの質と量は社会の健全性を大きく左右する

おかねの価値の源泉

おかねの価値の源泉は、財やサービスとの交換可能性にある。人々がおかねによる決済を受容するのは、そのおかねで別の財やサービスを手にいれることができるからである。この意味で、おかねには「財やサービスを要求する」という性格がある。

社会を流通するおかねの量が増えると、同時に、社会を流通する財やサービスの量も増える。おかねは「財やサービスを要求する」からである。

社会の側から見ると、おかねの増量は「豊かさ」の増加である。一方、自然の側から見ると、おかねの増量は「資源の減少」にほかならない。

地球上の財やサービスは、例外なく(直接・間接に)地球上の資源を原料として生み出されるからである。

19世紀後半以降の化石燃料の大量消費、20世紀後半以降の大規模な森林破壊は、いずれも、各時期におけるおかねの総量の増大がもたらした現象として説明可能である。

ドルの流通量 https://fred.stlouisfed.org/series/CURRCIR
  • おかねの価値の源泉は、財やサービスとの交換可能性であり、おかねには「財やサービスを要求する」性質がある
  • おかねの増量は、社会から見ると「豊かさの増加」であるが、自然の側から見ると「資源の減少」である
  • 化石燃料の大量消費、森林破壊などによる環境破壊はおかねの総量の増加の帰結として説明できる

おかねの信用源

おかねの価値は、おかねそのものの物質的価値ではなく「財やサービスとの交換可能性」にある。おかねが貴金属(金や銀)でできている場合もこの性質に違いはない。

紙幣(紙切れ)や預金(数字)の場合に顕著だが、「財やサービス」そのものではないおかねを決済手段として通用させるには、人々におかねの価値(交換可能性)を信用させるための何かが必要である。通常の場合、おかねの信用の元となるのは、発行者の経済的信用である。

近代以前に紙幣の流通を成功させた事例(中国やモンゴル)では、1️⃣国家(政府)が、2️⃣自らの権威と財力(税金収入や政府自身の事業収入)を信用源として発行・通用させていた。この場合、おかねの信用の基礎は、国内の経済活動(経済的活力)にあるといえる。

現代のおかねは「資本としてのおかね」であり、1️⃣民間の金融機関(銀行)が、自らの財力ではなく、2️⃣貸付(投資)と回収による金回り を信用源として発行する点に特徴がある。

  • おかねを通用させるにはその信用を支える何か(信用源)が必要である
  • 現代のおかねは(発行者の財力ではなく)貸付(投資)と回収の金回りを信用源とする「資本としてのおかね」である

資本としてのおかね(資本主義経済)の誕生

資本主義経済とは、「資本としてのおかね」を基礎として発展した経済のことである。資本主義の基本的な性格を理解するため、この「資本としてのおかね」の誕生の経緯を確認しよう。

(1)民間金融業者が「資本としてのおかね」を発行

「資本としてのおかね」が生まれたのはイギリスである。17世紀のロンドンは「商業革命」(外国から魅力的な商品を掠め取ってきて国内外で売りまくる新規ビジネスの隆盛)にわき、資金需要が高まっていた。

辺境の三流国家であった当時のイギリスの政府に、新しい経済を回すのに必要なおかねを発行する能力はなかった(権威も経済的信用も確立していなかった)。

しかし、当座の資金さえ用意できればいくらでも成功の機会があるというこの状況を見逃す手はない。

そこで、民間の金融業者が手形(紙切れ)や口座(数字)による貸付をはじめ、それらがおかねとして機能(流通・通用)することで「資本としてのおかね」が誕生したのである。

(2)法定通貨化と基軸通貨化

民間の金融業者が発行したおかねの信用源は、「貸せば利子をつけて戻ってくることが確実」(貸付(投資)と回収による金回り)という見込みにある。原資がなくても発行できる点は便利だが、金回りに行き詰まれば即座に信用を失う、不安定なおかねである。

しかし、自身もつねにおかねに困っていたイギリス政府は「貸付によっておかねを生む」というこの魔法に飛びつき、国家財政の中核に据えた(いわゆる「財政革命」→イングランド銀行の設立・国債制度の確立)。ロンドンの街角で生まれたおかねは、 1️⃣民間業者の発行、2️⃣貸付と回収の金回りが信用源 という基本的性格を保持したままで、国の法定通貨になったのである。

魔法のおかねを手にしたイギリスは世界の覇者となり、ポンドは世界に通用する通貨(基軸通貨)となった。やがて、貿易でも工業でもなく金融(貸付)こそがイギリスの基幹産業となり、イギリスは世界に向けて大量のポンドを発行し続けた。

ポンドが「グローバル資本としてのおかね」に成長したこの時期までに、資本主義経済の基本的性格は確立されていた。

(3)「永遠の経済成長」の夢

現代に至る資本主義の性格を定めたのは「グローバル資本としてのおかね」の信用源である。

ロンドンの街角で生まれた「資本としてのおかね」は、三角貿易に代表される植民地貿易の成功によって生まれた。

「資本としてのおかね」は、最初から「無限に広がる(と見えた)ビジネス・チャンス」を信用源としていたが、民間人の貿易だけでは成長は頭打ちだったはずである。

しかし、国家との結びつきはイギリスに成長を「力づくで」もぎ取る力を与えた。さらに、基軸通貨の地位は、世界中の成長機会をイギリスの成長に接続した。

イギリスの覇権が続く限り無限に続くと思われた成長。「グローバル資本としてのおかね」は、こうして、「永遠の経済成長」の夢を信用源として発行され、世界中に流通するものとなったのである。

(3)「成長」の主体はあくまで「自分たち」

重要なことはもう一つある。おかねの信用を支えた「永遠の経済成長」の中身が、最初から最後まで、世界中の富や成長機会を利用した「自分たちの」(イギリス自身の)経済成長であったという点である。

覇者となったイギリスが、このおかねを、世界を搾取するためではなく、世界を真に豊かにするために用いることは(理論的には)可能であったと思われる。しかし、事実として、彼らはその道を選択しなかった。

「自分たちの永遠の経済成長」だけが信用源(金融機関がおかねを発行する動機)であるという性格は、次に基軸通貨となるドルにも自然に受け継がれ、「一部の国(西側諸国)だけを利する」という、資本主義経済の基本的性格を決定した。

  • 現代の資本主義経済を支える「グローバル資本としてのおかね」は、世界の富や成長機会を利用した「自分たちの」「永遠の経済成長」の夢(に依拠した金回り)を信用源とするおかねとして確立した
  • 上記の性格はドルに受け継がれ、資本主義経済は「西側諸国だけを利する」ものとなった

劣化する資本主義経済

二つの世界大戦を経てポンドが(事実上)破綻した後、(自分たちの)「永遠の経済成長」の夢を信用基盤とする基軸通貨の地位はドルに引き継がれた。

大戦直後にはまさに「永遠の経済成長」を体現するように見えたアメリカが、産業力を大幅に上回る旺盛な消費(軍事費含む)によって赤字大国に転落するのに時間はかからず、ドルは1960年代の後半にはすでに破綻の危機に直面していた。

このとき、ドルを支えたのは西側諸国(ヨーロッパと日本)である。戦後の復興の過程で西側諸国はドルのネットワークに深く組み込まれ、ドルの命運は西側諸国を中心に広がる「世界経済」の命運を左右するようになっていた。ドルは、アメリカ一国を超えて、西側諸国全体にとっての(自分たちの)「永遠の経済成長」の夢を背負う存在になっていたのである。

西側諸国は、赤字を抱えるアメリカに支払いを迫ってドルを破綻させる代わりに(黒字分で)アメリカ国債を買い(=アメリカにおかねを貸し)、為替市場ではドル買い介入をしてドルを支えた。

しかし、結果的に見ると、支援によって状況はさらに悪化したといえる。いくら赤字を出しても破綻しない状況下で、アメリカはドルによる大量消費を継続し、西側世界はドルのさらなる過剰供給に苦しむこととなったからである。血液の比喩でいえば、西側諸国は、成長を終えた身体に質の悪い血液を大量に注入された状態となっていた。

それでもなお、ドルの暴落を防ぐため、西側諸国(アメリカを含む)は血眼(ちまなこ)になってフロンティア(新たな投資先)を探し、新たな金融手法の開発、IT・AI・宇宙ビジネスや創薬、新興国への搾取的な投資など、「無限の可能性」の期待をそそる事業への投資を続けた。

近代化の初期や戦後復興期にはたしかに(少なくとも西側諸国の)実質的な経済成長を支えた「グローバル資本としてのおかね」は、こうして、見事なまでに劣化を遂げた。

暮らしむきの向上と無関係の「経済成長」に人々を駆り立て、新興国の富や労働力を搾取して彼らの実質的な成長を阻害し、地球上の資源を徒に浪費して、自身の延命を自己目的とする。「グローバル資本としてのおかね」は、そのような存在に成り下がったのである。

  • 成長期を過ぎてもなお「永遠の経済成長」に向けた大量発行が続けられた結果「グローバル資本としてのおかね」は著しく劣化し、世界を分断・自然を破壊するだけの有害な存在となった

「永遠の経済成長」の夢の終わり

ドルの形をとった「グローバル資本としてのおかね」は、2008年に事実上破綻し、現在は延命治療によって生き永らえている状態であるが、破綻が顕在化するのは時間の問題である。

現在の世界の歪みと混迷の原因は、世界を流れる「血液」であるおかね(グローバル資本)が、1️⃣特定の国家に帰属し、かつ、2️⃣彼ら自身の「永遠の経済成長」という法外な夢(に基づく金回り)を信用源とするおかねであったことにある。

ドル崩壊後も「資本としてのおかね」の利用は続くであろう。しかし、新たな国際通貨(グローバル資本としてのおかね)は、1️⃣異なる家族システム(集合的メンタリティ)に依拠する複数の国家・社会がそれぞれor共同で、2️⃣相当程度の公的管理の下で、3️⃣それぞれの集合的メンタリティに見合った経済活動に資する目的のために発行するおかねとなることが予想され(いわゆる多極化 [multipolarization])、単一の勢力の暴走によって生じた苛烈な紛争、自然破壊、経済的・社会的格差の増大といった問題は、(時間をかけて)抑制されていくはずである。

ドルの終わりは、西側諸国が見た(自分たちの)「永遠の経済成長」という法外な夢の終わりである(近代の終わりでもある)。

不安ですか?
いやいや。

西側諸国を含むすべての人間に、より公平で、常識的で、持続可能な社会への道を開く、絶好のチャンスの到来である。

  • ドルの終わりは「(西側諸国の)永遠の経済成長」という法外な夢の終わりであり、より公平で、常識的で、持続可能な世界への第一歩である

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近代

ヨーロッパが世界の中心に躍り出て覇権を握った時代のこと(概ね16世紀ー現代)。

近代より前、文明の進歩は社会の絆(家族システム)の革新とともにあった。家族システムの進歩とは無縁であったヨーロッパが突如文明の中心地となった要因は、全人口における識字率の急激な上昇にある。

先に文明の進歩を経験していた地域では、安定性を志向した社会の構造化の中で、文字の自由な使用が知識人階級に限定される傾向が見られたが、ヨーロッパはそうした制約を持たなかった(ゆるかった)。そのため、精神的・物質的な諸条件が整うと一気に識字率が高まり、文化力が爆発的に開花したのである。

それ以前の文明と深く接続していなかったヨーロッパは、自らが近代に達成した事績のすべてを「進歩」とみなし、覇権の拡大とともにその価値観は全世界に広まった

しかし、実際には、その多くは、かなり単純に、核家族的メンタリティの具現化そのものであり、世界中がそれを模範とすることが妥当であった(る)とは考えられない。

近代以降の社会科学は、近代=ヨーロッパ文明を「進歩」とみなすところから出発している。そのすべてを相対化することが「トッド後」と銘打つ本事典の基本的な視座である。

  • 近代とはヨーロッパが覇権を握った時代のこと
  • 全世界に先駆けての大衆識字化が覇権の根幹。その要因は社会が単純なまま維持されていたこと
  • 近代社会の特徴とされるものは概して核家族メンタリティの具現化そのもの

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幸せ(幸福)

社会を構成する一人ひとりに自らの人生を司るものとして与えられた規範。「正しさ」とセットで社会の構築・維持のために機能する

「正しさ」と同様、社会の精神的絆(家族システム)の在り方によって基準や深度が異なる傾向にある。

誕生の経緯等については「正しさ」の項目を参照のこと。

  • 「幸せ」は「正しさ」の個人版(個人の人生向け)

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正しさ(正義)

人間が、精神的な絆(社会)を構築・維持するために作り出した観念。自然界には存在しない

人類の社会化(約70000年前)と同時に誕生したと推測されるが、社会の複雑化 ≒ 国家の成立とともに、がぜん大きな役割を担うようになった。

原初的社会の正しさの基準はもっぱら「自分と仲間」(身内)の生存と快楽にあったと考えられる。人口増加により社会内部の秩序維持が課題となると、より普遍的な正しさをもって社会を律することが必要となる。人間の社会は、この状況に対応するために、縦型の権威の軸を生み出し、以後はこの権威を支えとして、宗教や法、常識などのかたちで、正しさを定立・拡充していった。

各社会における正しさの基準は、通常は、社会の精神的絆の在り方(家族システム)に左右され、例えば、直系家族の場合には家系の永続、共同体家族の場合には国家の安寧、緩和された共同体家族の場合には世界の平和(神の秩序?)が指導理念となる。

なお、権威の確立した社会では、構成員の(ある程度の)総意をもって、社会内に一つの正しさを定立することが可能である。しかし、権威の確立していない社会では、正しさは、利害や意見の異なる者同士の戦いによって決定されるのが通常となる。

  • 正しさは社会の構築・維持のために人間が作り出した観念。自然界には存在しない
  • 国家の成立とともに役割が巨大化した
  • 正しさを支えるのは権威
  • 権威が確立されていない社会では戦いが決する

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社会

人間が営む共同体。自然や外敵からの防衛、食糧の確保、老いや病・出産育児の際の生活支援(相互扶助)を主目的とする点は他の動物の群れと同じだが、精妙な精神的(感情的・霊的・知的)紐帯で結ばれている点に特徴がある。

本サイトの理解によれば、この「社会」の形成(≒ 精神的深化)こそが、生物種としての人間に独特の生存戦略であり、地球上における人間の繁栄を可能にした要素である。したがって、人間を理解するには、社会の成り立ちを理解することが決定的に重要である。

社会と家族

社会の実体は、個体と個体を結ぶ精神的な絆の中にある。絆の在り方を決めているのは、家族・親族の在り方である(家族システム)。

社会にとっての家族システムの重要性は、人間が家族の中に生まれ落ちる生物であることの単純な帰結と考えられる。

進化のはじまり

人間が人間となった当時(約70000年前)の社会は、地球上に(少なくとも)比較的最近まで存在した狩猟採集社会と同種のものであったと考えられる。核家族(夫婦と成人前の子どもからなる世帯)を基本に、その周囲に事実上存在する親族集団が必要に応じて協力し合うごく緩やかな共同体である(規模は大きくて1000人程度)。

その後も長い間、人間は同種の社会を営み続け、地球上にこうした人間の集団が散在する状態が続いた。

進化の第一歩が踏み出されたのは、前4000年頃の西アジアにおいてである。農耕文明の中心地であった同地で、人口増加による土地不足のため、農地を親から一人の子ども(多くは長子)に受け継ぐ慣行が行われるようになったことが革新の契機となった。

成人した子どもが全員家を出て(農村の場合は新たな土地を開墾して)新たな核家族を作る仕組みの下では、家族と家族、集団と集団の間に「親族である」という以上の関係性が生じることはない。

長子相続は、こうした世界に、親と子、祖先と子孫をつなぐ一筋の絆をもたらした。上の世代と下の世代を権威関係で結ぶ縦型の堅固な軸が、社会を構造化する柱の役割を果たし、以後、社会は一気に国家の形成へと向かったのである。

異質な社会が併存する世界

緩やかな親族集団からスタートした人間の社会は、家族システムの進化(個人と個人をつなぐ精神的絆の構造化)とともに変化を続け、小規模な国家(都市国家)が成立した後、帝国(複数の都市国家を統一した国家)、世界帝国(より広域の帝国)へと発展していった。

ある地域で家族システムの進化が生じると、その家族システムは支配や模倣を通じて周辺に拡散したが、歴史を通じて、一つのシステムが世界を覆い尽くすほど拡大することはなかった。

その結果、この世界には、進化の段階を異にする多様な家族システム(→異なる種類の精神的絆に依拠する社会〔国家や各種共同体〕であり、異質な集合的メンタリティを有する社会)の併存状態がもたらされることになったのである。

社会が担う二つの役割:戦争と平和

社会の基本的機能は種の保存であり、精神的絆の構築により生物種としての効果的な生存を図るというのが人間の採用した戦略である。

原初的な核家族システムは、社会の絆をもっぱら「外部との戦い」(外部から来る危険や困難に共同で立ち向かう)のために用いることで、この機能を果たしていたが、家族システムの進化は、社会に「内部の融和」(共同体内部の紛争の解決・予防)という新たな役割を付け加えた。

人口増加による紛争の多発状況が、家族システムの進化を生んだという事情を考えれば当然のことではあるが、これによって人間が、「自己保存」(身内の生存・生活の防衛)の価値に加え、「共存共栄」(他者との平和的共存)という価値を内面化するようになったことは、それなくして人間がこれほどまでに地球上に繁茂することはなかったであろう、画期的な進歩であったといえる。

現状

膨大な数の人間が地球上に広がり、人間が巨大な自然破壊力(高度な科学技術)を手にしている現在、人間界の秩序が(ある程度)保たれることは生態系全体にとって死活的に重要となっているが、家族システムの進化にも関わらず、人間界の平和は実現していない。

その理由としては、1️⃣異なるシステム(=異なるメンタリティ)の社会が併存し相互理解に限界があること、2️⃣「近代」以降、原初的な核家族に近いシステムの社会が人間界の覇権を握っていること、などが挙げられる。

しかし、最大の理由は、以下の点にあるのではないかと筆者は考えている(仮説である)。

3️⃣人間の社会は、自己保存(外部との戦い)の価値と共存共栄(他者との平和的共存)の価値の双方を内在している場合でも、究極的には前者が優先される仕組みになっている。

人間が、平和を謳う一方で、いとも簡単に他者(他の社会)を敵視することができるのは、社会(=集合的メンタリティ)の優先順位があくまで「自己保存のための絆の構築」にあるからではないか。

平和への希望は、人間が、その精神の自由を、人間自身の精神性の限界(少なくともその可能性)を認識・制御する方向に向けることができるか否かにかかっていると思われる。

  • 社会の実体は、個体と個体を結ぶ精神的絆の中にある
  • 社会ごとの絆のあり方は、家族システムによって決まっている
  • 家族システムの進化が国家を可能にし、進化が一様に進まなかったことが多様なシステムの国家の併存状態をもたらした
  • 家族システムの進化は、生物の本能から来る「自己保存」に加え、「共存共栄」(他者との平和的共存)の価値を人間の集合的心性に付加した
  • 社会の優先順位があくまで「自己保存のための絆の構築」にあるためか、人間界の平和は実現していない

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トッド用語事典

原初的核家族

家族システムは文明とともに分化(differentiation)(進化といってもよい)を始め、多様性を獲得していくが、トッド(や、おそらくかなり人類学一般)によると、進化が始まる以前には、一つの単純なシステム(柔軟な核家族システム)が、世界を覆い尽くしていた。原始社会のこの単純で柔軟な家族のあり方を、このサイトでは、原初的核家族と呼んでいる。

後述の通り、原初の家族の特徴は「ひたすら柔軟である」という点にあり、そのあり方は、家族が「システム化以前」の状態にあることを示している。トッドや本サイトが、原初的核家族を「システム」と呼ぶことがあるのは、単に、便宜上の言葉遣いであることにご留意いただきたい。

核家族の「後進性」の発見

西欧に多く見られる核家族は、一般に「近代的な」(=「進歩した」)家族システムであると理解されていた。しかし、人類学は、従前から、未開人の集団の中には、西欧によく似た核家族システムが見出されることを報告しており、これは一種の謎と見做されていた(下はトッドの引用するレヴィ・ストロース)。

近代社会において一夫一婦婚、若い夫婦の独立居住、親子関係の温かさ ーーこれらは未開人の見慣れない慣習や制度の複雑に入り組んだネットワーク越しに認知することが、必ずしも常に可能ではない要素であるーーを特徴としているあの家族類型は、それでも最も初歩的な分化水準に留まり続けた(か、舞い戻った)と思われる集団の中のいくつかにおいて、明瞭に存在が証明されているように思われる。インド洋の島々に居住するアンダマン人、南アメリカの南端のフエゴ島人、中央ブラジルのナンビクワラ人、南アフリカのブッシュマンーーいくつかの例のみを引くに留めるがーーのような集団は、半放浪的な小さなバンドを作って生活している。政治組織はほとんど、もしくは全くない。技術水準はきわめて低い。‥‥ しかしながら、彼らにおいて社会構造の名に値する唯一のものは、家族であり、その家族は主に一夫一婦制である。現場で観察する研究者が夫婦のカップルを特定するのには何の困難もない。夫婦は、感情的絆、経済的協力関係、そしてまた彼らの結婚から生まれた子供たちの教育によって、緊密に結び合わされているのである。

エマニュエル・トッド「家族システムの起源I」(上・26-27頁)(出典はLevi-Strauss C,, La famille”, p94-95 )

イングランド人、アンダマン人、フエゴ島人、ナンビクワラ人‥‥という配置から、現代の核家族システムは、決して「近代的な」新しいシステムではなく、むしろ、かつて支配的であった古いシステムの残存であるという事実を突き止めたのが、エマニュエル・トッドである。

この発見は、家族システムの進化を基礎とした世界史の書き換えという壮大なビジョンをもたらす糸口となったものであり、トッドの業績の中でも、最大級のものの一つといえる。

原初的核家族の類型

では、その原初的核家族とはどんなものなのか。トッド自身に説明してもらおう。

ここまで来れば、人類の原初的な人類学的システムを単純化し、理念型として記述することができる。

家族は核家族である。けれども核家族型に教条的にこだわるわけではなく、若いカップルと年配の両親が一時的に同居することもあり得る。

女性のステータスは高い。親族システムは双系的、あるいは未分化と呼ばれ得るシステムで、母方の親族と父方の親族に、子供から見た世界の輪郭の中で同等のステータスを与える。

婚姻は外婚制で、本イトコよりも遠い関係の人々のうちに配偶者を求める。しかし、このルールにも教条的に固執するわけではない。離婚は可能。

兄弟たちや姉妹たちの家族同士の相互影響関係は強く、それがローカルな集団を構造化する。

どんな関係も完全に安定的ではない。家族も、個人も、分かれたり、再び結集したりする。

家族を超える集合には二つのレベルが存在する。

(a) 複数の核家族が、大抵は親族関係にある核家族だが、一つの移動グループを構成する。

(b) それらのグループがいくつもあり、おそらく1000人程度の人口が暮らすテリトリーにおいて、相互に配偶者を交換する。しかし、その境界線は多孔的で、かなり自由に出入りできる。

エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか』(上・145-6頁)(適宜改行したー辰井)

ヨーロッパ(とくにイギリスやオランダ)の核家族と原初的核家族は、他の地域が家族システムの進化によって獲得していった特質(縦型の権威、平等など)を一つも持っていないという点は共通している。

しかし、原初的核家族が、「核家族であってもなくてもどっちでもいい」「必要があればどんな結びつきも可能である」という無限の柔軟性を特徴とするのに対し、イギリスやオランダでは核家族は規範である。

ヨーロッパの核家族は、現存の家族システムの中でもっとも未発達なものではあるが、「柔軟性」という原始の人間が持っていた(おそらく)最大の強みを失っている。その意味では、両者の違いはかなり大きい。

他方、アメリカはどうか。また東南アジアの核家族地域はどうか。この辺りは、トッドも、また本サイトも、明確な答えを見出していない領域と思われる。

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トッド後の社会科事典

人間

比較的貧弱な身体能力にかかわらず地球上の食物連鎖のトップに君臨する生物。他の生物と同様に自然界(宇宙)に存在するが、発達した大脳機能を駆使して脳内に「社会」という疑似的な宇宙(宇宙内宇宙)を作り上げ、主としてその中で生活をする点に最大の特徴がある

人類が「社会」の形成を始めたのは約70000年前である。言語的コミュニケーション、抽象的思考に基づく文化的営為、高度な技術を用いた生態系への介入等を特徴とする種としての人間は、この時期に誕生した。以後の遺跡に見られる大型動物の狩猟、埋葬、身体装飾、象徴(記号や絵)の痕跡は、精神的(感情的・霊的・知的)な絆で結ばれた共同体が構築され始めたことの証である。

スティルベイ文化の代表的遺跡(ブロンボス遺跡)からの出土品
https://kids.britannica.com/students/article/Blombos-Cave/606844

人間が作り出した高度な社会や文化は、直立歩行に由来する身体的特徴(発達した大脳、上肢(手と腕)の自由な使用)と関連づけて捉えられることが多い。しかし、人類は、直立歩行に適した身体と大きな脳を持つ生物として登場した後も長い間、文明とは無縁の暮らしを送っており(ホモ・ハビリスの登場は約240万年前、ホモ・サピエンスは約20万年前)、人類の「人間化」の直接的な原因を直立歩行(脳の大きさや手の使用)に求めるのは無理がある。

人間への飛躍をもたらした究極的な原因や機序を特定することはできないが、火山の巨大噴火が引き起こした寒冷化や最終氷期の開始といった気候変動と関連づける有力な仮説が存在し、魅力的である。こうした仮説に依拠した場合、人類の「人間化」は、種としての生存の危機に追い込まれた人類が、その克服のために、社会化と精神性(感情・霊性・知性)の開花を同時に成し遂げた結果として説明されることになる。

「人間は考える葦である」(パスカル)「われ思う、故にわれあり」(デカルト)等の語に顕著なように、近代文明は精神性を人間の「個」性(や個人の尊厳)の源と捉える強い傾向を持っている。しかし、精神性が(種としての)人間の生存のために担った役割を省みれば、その主要な機能が仲間との絆の構築にあることは疑いない。生存可能性を高めるために人間が開発した特異的な能力は「信じる力」(虚構を真実として共有する能力)の方であり、疑う力(自由に考える能力・批判的思考力)はその裏面にすぎないという想定すら成り立つであろう。

人間の集団が共有する観念や物語は、総じて、生物(とくに動物)にとって本源的な感情や欲求(死の恐怖、食餌・生殖への欲求、仲間を求める感情等)を増幅・誇張する内容となっており、生物の自然的欲求を(大脳機能によって)集団的に増幅することで生成される一種の「危機意識」の共有が人間の生存戦略であることをうかがわせる。

この生存戦略の副作用として、生物としての自然的欲求と大脳の増幅・誇張機能によって得られた欲求を区別することが困難となった人間は、つねに過剰な欲求をいだき、欲求を満たそうとすると往々にして自然の矩を超えてしまうという難儀な運命を抱え込むこととなった。

他の生物種との競争に圧勝した人間は、地球上(の陸地)に最も広く分布する生物として繁栄したが、個体数の増えすぎ、および、「社会」の論理への過剰適応により、1️⃣人間間の争い、2️⃣人間の介入による自然界への負荷 がいずれも制御困難となり、自然の生態系全体を危機に晒すに至っている。

  • 人間の特徴は「社会」の構築
  • 人類が人間になったのは約7万年前
  • 種としての生存の危機を克服するための「社会化+精神性の開拓」か
  • 精神性(感情・霊性・知性)の第一の機能は絆の構築
  • 危機意識の共有という生存戦略のために、人間はつねに自然的必要性を超えた過剰な欲求を抱えることになった
  • 個体数の増えすぎと「社会」への過剰適応が、生態系の危機をもたらしている

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「トッド後」の近代史
(4)近代のメンタリティ③ 敵 権利/自由(完)

目次

はじめに

本連載の最終回です。

しばし物騒な話が続きますが、最後はそれなりに落ち着くところに落ち着きます。どうか心安らかにご参加くださいますように。

(1)掠奪の法観念史

さて、前回予告した奇跡のような書物とは、こちら(↓)。

2024年5月に「増補新装版」が出ていますが、私の手元にあるのは旧版です(東京大学出版会、1993年)。

法制史家の山内進さんによる、
『掠奪の法観念史ー中・近世ヨーロッパの人・戦争・法』
です。 

まず、あらかじめお断りしておく必要がありますが、著者の山内さんこの本を書かれた目的は、「 ”抗争と掠奪と500年” の深層に迫ろう」という私たちの目的とは異なります。

少し長くなりますが、山内さんの前提とされている歴史認識が表れている部分を引用させていただきます。

近代以前のヨーロッパは、本質的には、「暴力」的社会だった。それは、権力分散的で、自力救済を基軸とする社会だった。人は自らの実力を頼りとし、生計を維持し紛争の解決をはかるにも、しばしば生の実力つまり暴力に訴えた。‥‥

言うまでもなく、近代世界はそうではない。「暴力」は、そのすべてを国家が権力として独占し、私人が暴力を振るうことは本質的に否定される。私人はあくまで「権力を持たない社会(societas sine imperio)」のうちに暮らす平和的市民であり、自力救済はごく限定的にしか認められない。正当防衛でさえ、その「正当」さが認められる範囲はかなり狭い。一般の国民が唯一公然と暴力を振るう機会である戦争においても、その暴力は完全に国家によって管理されている。その管理から逸脱する暴力行為はすべて不法であり、犯罪である。「掠奪」も、管理された暴力行使からの逸脱として犯罪とされる。われわれにとって、それは自明なことである。

山内進『掠奪の法観念史』ⅰ-ⅱ(はしがき)

山内さんご自身は、あくまで、近代以前のヨーロッパが持つ「暴力」性は、近代化によって克服されたという前提に立っている。その上で、われわれの住む世界とは「異なる」ものとしての「中・近世ヨーロッパ世界」を知るために、この本を書かれているのです。

しかし、私たちはもう「家族システムに基づく集合的メンタリティはそう簡単に変わらない」ことを知っていますので‥‥

そう。そんなわれわれにとって、この本は、近現代に通底する欧米世界のメンタリティを知るための本にほかなりません。

「掠奪」を主題に、戦争に関する法と法理論を探究するこの書物は、「自由だの、人権だの、なんちゃら主義だの・・」に飾られてキラキラ光る近代化ストーリーの陰に隠された深い穴の奥底で、ふつふつと煮えたぎっていた彼らの深層のメンタリティを白日の下に晒す、まさに奇跡の書、なのです。

著者の山内さんには、無断での「目的外使用」をお詫びするとともに、このような研究を残して下さったことについて、心よりお礼を申し上げます。

(2)三十年戦争:17世紀の破壊力

Jacques Callot, Plundering a Large Farmhouse(農家の略奪) c.1633
https://www.nga.gov/collection/art-object-page.51925.html

出発点は、三十年戦争(1618-1648)。ちょうど、イギリスがインド洋に出て行ったのと同じ頃に、ヨーロッパで起きていた戦争です。全ヨーロッパを巻き込んだその戦争は、近代化への一里塚(主権国家体制の確立)として知られるとともに、その破壊の凄まじさでも有名です。

死者数は、ヨーロッパ全体で推計450万人から800万人(wiki英語版)。主戦場となったドイツの人口は、なんと、戦争前の3分の1から4分の1にまで激減しました。

兵士だけでそれほど多くの死者が出るはずもなく、上述の死者数には、兵士よりもはるかに多い民間人の犠牲がカウントされています(死者数における兵士:民間人の比率は約1:5)。

しかし、当時は、銃火器の使用が始まっていたとはいえ、せいぜい、小銃の斉射戦術が取り入れられ、大砲が野戦で活用できるようになったという程度の時代です。もちろん、大量破壊兵器もないし、無差別爆撃の技術もない。

いったい、どうやると、これほど多くの民間人の犠牲を出せるのでしょうか?

まず、現象面について、山内さんのご説明をうかがいましょう。

三十年戦争下で非交戦者の被害が大きかったのは、‥‥ とにかく全住民が直接的に攻撃、掠奪されたからである。とりわけ広く見られたのは、敵や味方側の兵士による掠奪行為である。住民が殺害されるのは、しばしば掠奪行為と虐殺行為が密接に繋がるからである。その一連の行為が戦争規模の拡大によって非常に広範に生じたことが、戦場であったドイツのあまりにも多数の住民の死を招いたのである。

山内進『掠奪の法観念史』(東京大学出版会、1993年)6頁(本文中の引用も)

掠奪。
戦争には掠奪が付きもので、掠奪は虐殺につながりがちであると。

では、なにゆえ、戦争と掠奪は一体であり、戦争となると、全住民が当然のように攻撃・掠奪の対象とされたのか。

『掠奪の法観念史』は、直接的には、この問いに答えるために書かれた本といえます。再び少し長くなりますが、引用します。

では、この三十年戦争期に、交戦者のみならず、非交戦者の殺害、その財産の破壊、奪取を一般的にもたらした「掠奪」行為はなぜそれほど広範にみられたのであろうか。戦争一般における、人間の攻撃本能の解放ということだけでは、説明は十分につかない。なぜなら、たとえそのような本能がわれわれに備わっているとしても、この攻撃欲は、近代国際社会においては、ただ組織的に解放されるだけであって、その対象は本質的には交戦者である兵士=軍人にほかならず、直接的で公然とした、住民からの掠奪は行われないからである。無差別爆撃ですら、住民の生命や財産を直接、狙うものではなく、あくまで交戦者の能力を削減するためのものにすぎない。したがって、近代国際法は一般住民の殺害はもとより、彼らに対する攻撃や掠奪を厳しく禁止している。南京事件‥‥のごとき行為は道義的にも法的にも許されず、あくまで軍の本来の行動からの逸脱と考えられる。それは本来、あってはいけないことなのである。

ところが、三十年戦争期においては、戦時下の掠奪は必ずしも「逸脱」ではない。それは当時の時代環境の下では、なかば常識に属することであり、ある意味で必然的なものであった。だからこそ、それがいたるところで見られたのである。むろん、それが「戦争の惨禍」を生み出すものであるとの認識はあった。それは不幸なものであった。だが、掠奪は、実は広く行われる一般的な慣習であり、その行為自体における後ろめたさというものは、少なくとも今日に比すれば、殆どなかった。それは、公然と実行されたのであり、その行為を隠す必要すらない、いわば自明の出来事だったのである。

だが、問題は、その自明さの根拠であり、当時の人々の常識、共通感覚の在り方である。戦時下の掠奪はどのような意味において、どのような感覚の下で、自明だったのであろうか

山内進『掠奪の法観念史』6-7頁

「戦時下の掠奪は、どのような意味において、どのような感覚の下で、自明だったのであろうか。」

皆さんは、この問いが、「抗争と掠奪の500年」の深層にあるメンタリティを探究するわれわれの関心とピッタリ重なっていることにお気づきでしょう。

探り当てられた答えは、どんなものなのか。さっそく見てまいりましょう。

戦争の経済と掠奪:兵士と家族の食い扶持は‥

近代国家の成立以前、国家の戦争を主に戦ったのは傭兵です。彼らはいわば「兵士であることを職業とする、半ば独立的な自営業者」ですから、武器はもちろん、衣服や食料も自分で賄わなければならない。戦争と一体であった掠奪は、当然、彼らの生活の手段となりました。給与は大抵不十分でしたし、そもそも、傭兵の雇用主(君主です)は、最初から掠奪による補足分を見込んで給与の額を設定していたといいます。掠奪は、すでに、戦争の経済に組み込まれていたのです。

また、当時は、銃後の家族を国家が養ってくれるといったこともありませんので、兵士たちの行軍は家族と一緒。彼らもまた、掠奪に参加しました。

「被害の多くは、何百台もの荷車に乗り、何百頭もの家畜をひきつれて行軍につき従い、いなごの群れのように農村地帯をおおいかつ襲った、兵士たちの妻、売春婦、少年、子供、御者、召使の一団によるものであった。進軍するにつれて、軍隊はまるで集団移住といった相貌を呈するほどであった。」

掠奪が戦争の経済に組み込まれていたことが、戦場における掠奪の「原因」といわれることもありますが、おそらく順序は反対で、「戦争の際に掠奪を行うのは常識」という観念があったからこそ、掠奪が当然のように傭兵の食い扶持となったものと思われます。真実に近づくには、やはり「戦争と掠奪は一体」という感覚の根っこにあるメンタリティを知る必要があるのです。

(3)「敵」と戦うー掠奪のメンタリティ

①倫理的義務としての戦争

山内さんによると、戦争と掠奪が一体であった当時、戦争(+掠奪)は、単に許容される行為であるだけでなく、戦える立場の者にとっては、倫理的義務であり、名誉を高める行為でもありました。

何故に、戦争(+掠奪)が、倫理的義務なのか。その理由を示すのが、次の一文です。

封建的中世ヨーロッパの戦争は、その本質においてすべてフェーデであった。

山内進『掠奪の法観念史』34頁

フェーデ?
辞書を引きましょう。

侵害された権利を、実力で回復する。一種の自力救済のための戦いということですね。

なるほど、自力救済だから、掠奪を伴いがちである、ということはわかります。しかし、実力で回復する「権利」があるからといって、直ちに、それが「義務」である、ということにはなりませんね。

さしあたり、「上記の辞書の記載だけでは、なぜ当時の人々が戦争(+掠奪)を倫理的義務と感じ、熱心に掠奪に興じていたのかまではわからない」ということを確認し、次に進みましょう。

②「敵」

ほほう、これは‥‥。
「敵」ですか。

実をいいますと、『掠奪の法観念史』(全5章)の第4章のタイトルは「敵」。

『掠奪の法観念史』もまた、フェーデとしての戦争(+掠奪)、そして中・近世ヨーロッパの法観念の核心部分に「敵」の概念があった、という結論に達しているのです。

③権利のための闘争:相手は「敵」

いきなりの結論で恐縮ですが、『掠奪の法観念史』は、中・近世ヨーロッパ世界の根底にある「法観念」を、ひとことで、次のようにまとめています。

「中・近世ヨーロッパ世界」に特有の、そしてその根底にある「法観念」は、ひとことで表現するなら、「自己自身の生命、財産、名誉ならびに自身の親族もしくは親族類似のもののために実力をもって戦うことは正当である」というものであろう。この文字通りの「権利のための闘争」の観念こそ、人々の行動と意義、社会や政治的共同体そして共同体相互の関係を規律し、法と法理論を貫くものであった。「掠奪」もまた、この観念の一翼を担い、その下で実行され、自明視され、法的に正当とされたのである。

山内進『掠奪の法観念史』41頁(第1章)

ただし、これは冒頭部分の記載なので、端的に結論を知りたい私たちとしては、第4章で登場した「敵」の観念を補足して読む必要があります。

そこで、上の文章(マーカー部分)に、「敵」の観念を補足して修正してみたものが、つぎの文章です(大きく変えた部分だけマーカーします)。

「中・近世ヨーロッパ世界」に特有の、そしてその根底にある「法観念」は、ひとことで表現するなら、「自己自身(ならびに親族・親族類似のもの)の生命、財産、名誉を脅かす他者は敵であり、敵と戦うことは正義である」というものであろう。この「正義の回復=集団的懲罰としての戦争」の観念、「敵を懲らしめることは正義であり、正義の回復のために武器を取ることは義務である」という規範こそ、人々の行動と意義、社会や政治的共同体そして共同体相互の関係を規律し、法と法理論を貫くものであった。「掠奪」もまた、この観念の一翼を担い、その下で実行され、自明視され、法的に正当とされたのである。

いかがでしょう。修正前の文章と、修正後の文章では、ずいぶん雰囲気が違うと感じられるのではないでしょうか。

修正前の文章における「権利のための闘争」は、私たちの知るヨーロッパと地続きです。実力行使を許す点に荒っぽさが残るとはいえ、自由と権利を重んじる近代ヨーロッパの原風景がここにある、という感じがする。

修正後の方はどうでしょう。

純然たる復讐ではなく「正義」を論じる点にわずかに文明の息吹が感じられないことはない。しかし、利害の対立する他者は「敵」であり、「敵」と決まった相手とは戦うほかない、というあり方には、合理性のかけらも、人道主義の気配も感じられません。

それでも、山内さんが最終的にたどり着いた結論により近いのは、間違いなく、この後者の方なのです。

何故に、当時の人々は、戦争(+掠奪)を倫理的義務と捉え、激しい掠奪を実行したのか。その答えは、以下の引用部分に明確に記されています。

ヨーロッパ中世の戦争は本質的にフェーデであり、権利のための闘争(→「敵」に対する、正義の回復=集団的懲罰としての戦争)であった。この考え方が、根本のところで戦争つまりフェーデの実行方法を規定した。正しいフェーデの正当な実行手段は3つある。
(1) 敵対者およびその援助人の殺害、
(2) 敵対者およびその援助人の捕獲、つまり彼らを捕虜にすること、
(3) 敵対者およびその援助人に損害を与えることである。
第三の手段は、具体的にいうと、主に掠奪と放火である。オットー・ブルンナーは、この三つの手段のうち、第三の掠奪と放火を「フェーデ実行の主要な手段」と考えている。なぜなら、フェーデは、敵対者(敵対集団)から損なわれた権利を回復し、不法を排除することを本来の目的としているから、血讐の場合を除けば、相手を殺害するよりも、むしろ相手集団に損害を与えてその力を弱め、自己の権利を実現すべく強制することの方がより妥当と考えられたからである。「そのようなわけで、フェーデはとくに『掠奪と放火(Raub und Brand)』、劫掠と破壊によって実行された。人は敵の勢力下に侵攻して『領国を破壊しなければならない(ad destruendam terram)』。そして、敵の領国を『荒廃させ(oede machen)』ねばならない」。

36-37頁(文中の引用はブルンナー 太字は辰井の加筆

当時の人々が、「権利のための闘争」を、(単なる権利ではなく)「倫理的義務」と感じていたのは、大前提として、「利害が対立する他者はおしなべて敵である」、もっといえば、「利害が対立する他者は不法=悪であり、懲罰の対象である」という観念があったからです。

フェーデとは、したがって、決して、単なる自力救済のための戦いではない。その主目的は、むしろ、「敵」を懲らしめ、その戦闘力(=敵対的に行動する能力)を奪うことにこそあるのです。

当時のヨーロッパの戦争は、すべて、その本質において、「敵を懲らしめ、敵の戦闘力を奪う」ためのフェーデであった。

だからこそ、当時の人々は、敵対する共同体の全成員に対して、共同体が求める倫理的義務として、堂々と、熾烈な掠奪を実行したのです。

(4)近代とは何か

①なぜ「敵」なのかー「文明との遭遇」再び

では、この「敵」の観念、利害が異なる他者を「敵」と見て、懲らしめることを義務と見る。その感じ方は、どこから来たものなのでしょうか。

トッドに学んで、探究を続けてきた私たちには、すでに、かなりのことが明らかだと思います。

当時のヨーロッパの大部分は核家族(原初的核家族)であり、一部に生まれていた直系家族もまだ確固としたものではなかった。

つまり、この頃のヨーロッパ人は、再び、文明世界に投げ込まれた狩猟採集民そのものだったのですから。

前々回(狩猟採集社会)、前回(旧約聖書)の探究を踏まえて、彼らのメンタリティを追体験してみましょう。

見渡す限り、親族集団以外の人間は存在せず、他の集団とすれ違っても関わりを持たない(他者は存在しない)。万一攻撃をしてくる人間がいたら、そのときは「敵」と見做し、戦って追い払う。

そんな暮らしをしていた人々が、反対に、見渡す限り人が住まない土地はない、人口密度の高い世界に暮らすことになったとき、何が起きるか。

身内以外のすべての人間が、本来存在してはならない幽霊か、牙を向いて向かってくる「敵」に見えてしまう彼らにとって、「満員の世界」はホラーの世界です。

「こんなところでは、生きていけない!」

恐怖に震える彼らは、自分たちの周りを線で囲い「入ってくるな」というでしょう。

ズカズカと入ってくる(と彼らが感じた)人間は誰であれ「敵」と見做して追い払い、二度と自分たちの領域が侵されることがないよう、全力で戦うでしょう(フェーデですね)。

その実態は、自力救済や正当防衛というよりは、「やられる前にやる」方式の、かなり攻撃的な戦いであることがほとんどだと思います。

しかし、彼らから見れば、それは、純然たる「自衛のための戦い」であり、「敵」から共同体を守るための、正義と名誉をかけた戦いなのです。武器を取って戦いに赴くことは、当然、成年男子の義務、と感じられるでしょう。

こうして、「敵」と戦うことによって、「敵」と戦うことによってのみ、彼らは、「満員の世界」を生き抜き、国家の形成に向かうことができたのではないか。

第1回で紹介した「人間の本性」に関するトッドのコメント(↓)は、おそらく、「文明との遭遇を果たした原初的核家族」という限定された対象にこそ、もっともよく当てはまるものなのです。

集団の一体性は、他の集団への敵意に依存する。内部での道徳性と外部への暴力性は機能的に結合している。したがって、外部への暴力性のあらゆる低下は、最終的には、集団内で道徳性と一体性を脅かす。平和は、社会的に問題なのである。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上』154頁

②「文明化」への歩み

こうして何とか文明に適合し、国家を作り上げた彼らが、のちに家族システムを進化させたかといえば、さにあらず。彼らの多くは、人口を増やし、教育水準を上げてもなお、核家族であり続けました。

その代わり、彼らは、ローマ帝国の遺産を譲り受け、一神教という「代替権威」を支柱として用いた。キリスト教の存在は、彼らの「文明化」にとって、本当に貴重で、有意義なものだったと思います。

しかし、信仰は、彼らの最も深い部分のメンタリティ(家族システム)にまで影響を及ぼすことはなく、やがて、彼らは、識字化の進展とともにそれを投げうってしまう。

結局、集団の一体性を保つための道具として、彼らがその集合的メンタリティの中に一貫して持ち続けたのは「敵意原則」それだけだったのです。

「利害が対立する他者は敵である」「敵と戦うことは権利であり義務である」という前提に立つ彼らは、文明国家の流儀に則り、その規範を、仔細に法律文書に書き込みました(『掠奪の法観念史』の資料となったものです)。

ところが、そのままスクスクと成長を続けた彼らが、「正義」「名誉」「権利の回復」などといいながら、「敵との戦い」を続けると、17世紀のある時、地上に地獄が現れた。

三十年戦争の壮大な破壊を目の当たりにした人々は、粛然とし、「敵である以上、そのすべてを破壊し荒廃させることこそが正義であり、名誉ある者の義務である」という規範の問題性に気づきます。

そこで、彼らは、規範のとげとげしさを緩和するなどの方法で、さらなる「文明化」を図ろうとしました。

三十年戦争の戦後処理の過程では、主権国家の概念を確立し、国家間の関係を律する法律を作り(国際法)、勢力均衡を図って、戦争の惨禍を軽減しようと努めた。二つの世界大戦を経ては、各種の国際組織を作り、戦争を原則として違法とし、紛争の平和的解決を義務付けたりもした。

そうして、彼らは「文明化」を成し遂げた、というのが、教科書的な筋書きなのですが。‥‥

本当のところは、どうだったのでしょうか?

③西欧は変わったのか?

そうした様々な試み、様々な努力は、果たして、彼らの集合的メンタリティに変化をもたらしたのか。

いま、私たちが、躊躇うことなく、問わなければならないのはこの問いだと思います。

急いで付け加えますが、私は、もちろん、彼らの努力を軽く見ているわけではありません。

ウェストファリア条約(三十年戦争の講和条約・世界初の近代的国際条約であるとされる)、国際法、国際社会、国際組織の確立、こうした事象は、紛れもなく「文明化」への第一歩であったでしょう。

他者は存在しない。眼前に現れた他者は敵である。集団性を保つ唯一の方法は、敵と戦うこと。そんなメンタリティの人々が、曲がりなりにも、「他者との平和的共存」を目指して進み始めたのですから。

彼らにとって「文明化」への道は、苦痛と恐怖を伴うものであったに違いなく、それでも、文明の高みを目指した彼らの真率に対して、私は、いささかの疑義も持ちません。

しかし、果たして、その努力は報われ、彼らは「文明人」に変貌を遂げることができたのか。

彼らのメンタリティは、多少なりとも、進化した家族システムのメンタリティに近づき、この地球上において、「人類の平和的共存」を支えうる存在となったのか。

答えは「否」である、と私は考えます。

④核家族にとって「文明化」とは何か

事実を確認しましょう。

西欧の中で戦争を律する機運が生まれていたちょうどその頃、地球の裏側では「抗争と掠奪」の活性化が観測されていました。主体は、彼ら自身です。

近代国家の生成に際しては、イギリスはアイルランド人、アメリカは先住民に対して、旧約聖書の神もかくやと思われるほどの、激しい殲滅戦争を展開しました。

その後、主に欧米圏内部での多数の国際戦争と、二度の世界大戦を経て、彼らはついに、西側諸国の間では、戦争をやめたように見える。しかし、世界各地での彼らの戦争行動はむしろ活性化しているのです。

最初は冷戦(舞台は全世界でした)。

ソ連崩壊後は、西アジアや中央アジアに「敵」が見出されました。

ここ最近は、ロシアを「敵」と定めてウクライナ戦争を引き起こし、中国に対する敵意を煽って「台湾有事」を目論み、西アジアでの掠奪と破壊と虐殺に(控えめにいっても)大いに加担している。

彼らの集合的無意識の中で「平和的共存」に資する要素がそれなりの位置を占めているとは到底思えない様相である、といわなければなりません。

一方、彼らのメンタリティが狩猟採集時代のままであると仮定すると、以上の事実は、次のように説明できると思います。

狩猟採集民にとっては、彼らが暮らす世界がすべて。世界は一つです。

そんな彼らが、そのままの状態で文明に放り込まれると、世界は二つに分離します。自分たち(以下「身内」)の住む世界と、「他者=敵」の住む世界です。

彼らはまず、他者を敵とみなし、「敵意原則」を活用して集団をまとめ、国家を成立・発展させました。

しかし、「敵と戦う」という、彼らなりの正義の追究が、地上に地獄を顕現させたのを見て、彼らはついに「文明化」を志す。

その「文明化」とは何であったかが、ここでの問題です。

「文明化」のために彼らが行ったのは、実質的には「身内の拡大」ではなかったか、と私は見ています。

身内とは、(彼らの世界観では)「敵」の反対概念です。「自分の延長」とでもいったらよいでしょうか。

多少の利害の対立(もめごと)があったとしても、(少なくとも直ちには)「敵」と観念されることはなく、したがって、フェーデ(戦争)の対象にはならない。そういう対象がここでいう「身内」です。

古くは親族集団のみであった「身内」は、やがて地域の共同体(?)などに拡大したと思われますが、三十年戦争終結後にはこれが主権国家にまで拡大します。 

以後、第二次世界大戦の終結までの期間に、「身内」の範囲は漸次拡大を続け、最終的には、西ヨーロッパとその派生地域のすべてが「身内」の範疇に入ったのです。

狩猟採集時代の自由なメンタリティのままで、これほど広い範囲を「身内」に収めることができるなんて、なんて素晴らしい達成でしょう!

おそらく、この感嘆こそが、国際連合憲章の採択、世界人権宣言の起草・採択といった平和への動きに伴う多幸感の源にあったものです。

しかし、彼ら自身、気づいてはいなかったと思いますが、彼らの一体感を可能にしたものは、実際には、オスマン帝国やロシア帝国(→ソ連邦)、日本という明確な「敵」の存在にほかならなかったのです。

絶大な国力を誇るアメリカという覇権国が誕生し、誰もがアメリカの下での平和を願ったにもかかわらず、実現しなかったのは、おそらく、彼らにとってはいささか広すぎる「身内」の結束を維持するために、それに見合った「敵」が必要だったからです。

彼らは、必要に迫られて、まずは冷戦を戦いました。「必要」こそが、彼らを戦いに駆り立てているのですから、冷戦が終わったからといって、戦争をやめることはできない。一つの敵が倒れたら、また新たな敵を探すだけです。

ちょうど、この間、世界各地では、それまで彼らにとって「存在しない他者」でしかなかった人々が、識字率を上げ、存在感を増していた。この人々は、もちろん、彼らの目には「自分たちの権利を侵害する敵」にしか見えません。

世界を圧倒する豊かさを実現したにもかかわらず、なお、周辺の民を帝国の臣民として同化させるというやり方を知らない彼らは、すべての「敵」に、従属(隷属?)を求めます。

しかし、別に戦争をして負けたわけでもないのに、誰も彼もが大人しく従属する道を選ぶはずはない。まして、その「敵」は、近代化の過程を歩んでいる最中の、勢いのある人々なのですから。

世界の半分以上を占める「敵」に怯える彼らは、彼らの「自由」と「権利」を守るため、「敵」が強者となって彼らの前に現れることが決してないように、「敵」を蹂躙し、掠奪し、その力を奪い尽くそうとします。三十年戦争の頃の掠奪とまったく同じように。

それでも抵抗をやめない者には消えてもらうしかない。彼らはそう考えるでしょう。

ああ、そして、もし、彼らの集団が真に存続の危機に陥った(と彼らが感じた)ときには、他者のすべてを殺害し、文明のすべてを破壊しても、自分たちだけは生き延びようとするのではないでしょうか。

世界は、こうして、現在のこの局面に到達した、ということではないでしょうか。

⑤近代とは何かー核家族の現在

近代の基礎にあるのは、原初的核家族が文明と接触したことで生成した「他者は敵」という観念であり、「敵とは戦わなければならない」という強迫観念である(いずれも無意識の次元に存在します)。

以上が本連載(近代のメンタリティ)の結論です。なんとまあ、物騒な仮説にたどり着いたことでしょう。

しかし、研究者としての私は、大いに満足しています。なぜって、この仮説は、私が長年感じていたモヤモヤの全てを払拭して余りあるものであるからです。

人類が、地球上の一生物(いちせいぶつ)として破格の物質的豊かさ(安定した生存環境)を手に入れてもなお、競争に明け暮れ、経済成長を続けなければならないのはなぜなのか。

二度に渡る凄惨な世界大戦を経てアメリカという圧倒的な覇者を得た世界が、少しも平和にならなかったのはなぜなのか。

敵対する相手(大抵自分より弱い)を、挑発して挑発して挑発して挑発して、耐えられなくなった相手が攻撃を仕掛けてくると、鬼の首でも取ったように「権利」を主張し、正義の名の下に、激しい殲滅戦を展開して破滅に追い込む。そんなことを、17世紀から現代まで、ずっと繰り返しているのはなぜなのか。

仕方ありません。だって、「他者は敵」であり、「敵とは戦わなければならない」。そして、そうしなければ、自分たちの生存が危うい、と彼らの無意識は信じているのですから。

彼らは彼らなりに努力をしたけれど、結局、本物の「帝国」や「世界帝国」のメンタリティを持つことはできなかった。それは、私たちが、努力に努力を重ねても、西欧近代のメンタリティを持つことができなかったのと全く同じです。

戦って、戦って、築いてきた覇権が失われようとしている現在、彼らがその心の奥深くで感じている恐怖のほどは、想像に余りある、といわなければなりません。

新しい世界が顕現する過程で、彼らが見せるであろう狂気と混乱。同じ人類として、しっかりと受け止めましょう。

権利/自由

(1)近代法の本質ー権利とは何か

えーっと、後ろの方で手を挙げている方がいるようです。ご質問、あるいは抗議でしょうか。どうぞ。

「彼らは、自由、基本的人権、民主主義、法の支配といった普遍的価値を世界にもたらしてくれた人々です。そんな彼らを駆動していたメンタリティが「他者は敵である」「敵とは戦わなければならない」だなんて、あり得ない。何かの間違いではないでしょうか。」

質問者は以前の私、あるいは、ひょっとして私の元学生さんかも‥‥貴重な機会を与えていただいてありがとうございます! しっかりとお答えします。

最初に申し上げますが、私は、これらの「普遍的価値」が、日本において、また世界において、果たしてきた役割を、否定するつもりも、軽視するつもりもありません。

しかし、これからも、世界の中心で燦然と輝く、特別な存在であり続けるべきなのか、と問われれば、現在の私の答えは「否」です。その点に迷いはありません。

理由を説明させていただきますね。

(2)民主化を指南した「権利」

まず、自由、基本的人権、(欧米流の)民主主義、法の支配。これらすべての「普遍的価値」の根本にあるのが「権利」の観念である、ということはご理解いただけると思います。

一人ひとりの人間には、守られるべき「権利」というものがあり、人民は自ら戦うことで「権利」を勝ち取ることができる。この「権利のための闘争」こそが、自由で民主的な社会における、人民の責務なのだ。

それまで、「お上には従うもの」とばかり思っていた日本の、そして非西欧世界の若い国民たちは、このロックな(?)考え方に激しい衝撃を受け、自分たちもまた、拳を振り上げる彼らの一員に加わることを決めたわけです。

では、その「闘争」は、誰に対する戦いであったのか、というと、日本、そして非西欧世界の文脈で想定された「敵」は、いうまでもなく、上位者として民衆を支配する権威(政治権力、既得権益層、帝国主義支配を行う宗主国等)でした。その場合、「権利のための闘争」とは、要するに、民主化闘争ですよね?

西欧から少し遅れて識字率を上げた諸国民にとって、「権利のための闘争」の思想は、先を行く西欧が託してくれた「民主化の指南書」として機能し、彼らを励まし、支えることになったのです。

(3)「敵」とともに「権利」は生まれた

もちろん、西欧でも、識字率の上昇局面(民主化過程)での「闘争」相手が、教会や国王に代表される支配層であったことに違いはありません。

しかし、私たちがあまり意識してこなかった、非常に重要なことは、「権利」の観念は、彼らにとっては、近代よりもずっと前、まだもっともらしい権力など存在しなかった(彼らの)歴史の最初期から、馴染みの観念であった、ということなのです。

ヨーロッパにやってきた原初的核家族のゲルマン社会は、フェーデの由来である「血の復讐」(blood feud)を行なっていたとき、すでに「権利」の観念を持っていました。

血讐
けっしゅう

古代国家の形成過程に現れた復讐制度をいう。古ゲルマン社会において、氏族(ゲンス、ジッペ)の構成員が他の氏族の構成員から法益(生命、身体、財産、名誉)を侵害された場合、被害者の氏族の構成員には復讐の義務があった。氏族構成員が殺された場合、加害者の属する氏族のだれに対しても血の復讐をしなければならなかった。‥‥ [佐藤篤士]

ー日本大百科全書(ニッポニカ)ー より一部を抜粋

上の説明でニュートラルに「法益」と表現されているものが、ここでいう「権利」に当たります。

権利は、いつ、どのように発生したのか。実は、私たちは、その瞬間をすでに追体験しています。大事なところなので、少し長めに再掲します(飛ばして読んでください)。

見渡す限り、親族集団以外の人間は存在せず、他の集団とすれ違っても関わりを持たない(他者は存在しない)。万一攻撃をしてくる人間がいたら、そのときは「敵」と見做し、戦って追い払う。

そんな暮らしをしていた人々が、反対に、見渡す限り人が住まない土地はない、人口密度の高い世界に暮らすことになったとき、何が起きるか。

身内以外のすべての人間が、本来存在してはならない幽霊か、牙を向いて向かってくる「敵」に見えてしまう彼らにとって、「満員の世界」はホラーの世界です。

「こんなところでは、生きていけない!」

恐怖に震える彼らは、自分たちの周りを線で囲い「入ってくるな」というでしょう。(→「権利」が発生しました!)

ズカズカと入ってくる(と彼らが感じた)人間は誰であれ「敵」と見做して追い払い、二度と自分たちの領域が侵されることがないよう、全力で戦うでしょう(フェーデの由来です)。

「敵」(≒ 悪)に怯える彼らは、自分たちの領域を、絶対に侵されてはならない「権利」(right)の領域と観念し、戦いによってこれを守り抜くことを誓いました。

そして、彼らが彼らのやり方で戦っても、地獄に落ちたり、お尋ね者になったりしないよう、戦うための「権利」を確保し、制度を整えていきました。

ざっくりいえば、こうして誕生したのが「権利」の観念であり、西欧が世界に誇る「近代法システム」なのです。

(4)日本の場合ー不当なことは何もない

欧米人は一般に権利意識が高く、裁判を通じてであれ、自らの正義を主張し、権利を守るためには、徹底的に戦う意志を持っている。彼らのそうした態度こそが、自由で民主的で「法の支配」の行き届いた「進んだ」文明の証とされてきました。

それに引き換え、日本の国民は、権利主体としての意識に欠け、お上にいわれるがままで、司法制度の利用率も低くて‥‥ということが、明治期以来、一貫して「問題」とされてきたわけです。

しかし、いまや、日本や非西欧諸国に「権利」という強い観念が生まれなかった理由は明白だと思います。

集団の共存のために進化した(「権威」を伴う)家族システムを持つ人々にとって、他者とは「何とかうまくやっていくべき相手」であり、「敵」ではありません。

利害の対立は、相互の調整によって解決されるべきものであり、相手を「敵」とみなして打ちのめし、自分だけが「権利=利益」を勝ち取ろうなんてもってのほかだ。

このようなメンタリティが、「権利の擁護」よりも「共存のための調整」を重視する法や社会制度をもたらした。この点に、不当なところは何もないと言わなければなりません。

「すべての人間には天から与えられた権利があって、幸福を追求する自由があるなんて、なんて素敵なことだろう‥‥」

こう、うっとりした後、皆さんの多くは、ハタと立ち止まりましたでしょう?

「でも、そのためには、裁判で戦ったり、選挙に打って出たり、声高に意見を主張したり、デモ行進をしたり、議論を戦わせたりしないといけないんですよね?」(そんなこと、ちょっと、私にはできないな‥‥)

真面目な方なら、そんな自分に罪悪感を感じ、自分自身を責めたり、一所懸命に努力して攻撃性を身につけたり(!)したかもしれません。

しかし、そのメンタリティは、明らかに、他者との平和的共存のために進化した家族システムから来るものであり、断じて「遅れている」わけではない。

このことは、はっきりさせておきたいと思います。

(5)権利と自由 ー「戦い」以外の方法を探そう

西欧近代は、私たちに、人間は、文明国家の国民である以前に、狩猟採集時代と変わらぬ一個の人間であることを教えてくれました。

人間には、一個の生物として、自らに関わることを自分で決めたいという自然な願望がある。この自由の観念こそが、世界中の人々の共感を呼んだのです。

しかし、その自由を得るためには、私たちも、権利意識を高め、徹底的に戦う姿勢を身につけなければ‥‥いけないのでしょうか?

「自由」はなぜつねに戦いや競争を要求するのか。これは、私が法学の研究者であった頃から、いつも何となく疑問に思っていたことなのですが、いま、ようやく、その理由がわかりました。

原初的核家族は、自分たちが狩猟採集社会において持っていた単純な自由(事実状態としての自由、とでもいいましょうか)を、「権利としての自由」に変えてしまった。

そのせいで、「自由」は、個人や集団が「権利のための(敵との!)闘争」によって死守しなければならない対象に変わってしまったのです。

もちろん、この顛末は、まったく必然的ではありません。

私たちにとって、他者は敵ではありません。他者との共存のためには、人類が狩猟採集時代に持っていた自由を(一定程度)制限する必要があることだって、百も承知している。

そうしたメンタリティの社会において、「もう少し自由の領域を広げた方が‥」とか「私たちにこういう自由を認めてほしいんですけど‥」といった意見は、「社会をよりよくするための建設的な提案」にすぎません。戦いなんか、必要ない。

ああ、それなのに、私たちの社会は、「自由=権利を守るために敵と戦う」ことを基本仕様とする法・政治制度を(公式には)採用しているのです。

「なんで、戦わなければならないの?」
「戦うくらいなら、自分ががまんした方が100倍まし」

となるのは、当然ではないでしょうか。

私は、日本の人たちが、社会に対する関心が薄いとはまったく思いません。多くの人は、社会に関心もあるし、社会の役に立ちたいと願っている。

政治や司法や言論が「戦いの場」となっているから、一般の人たちは関わろうとしない。それを、欧米基準の指標で測って「日本人は政治に関心が低い」「社会正義に関する意識が弱い」「社会に対する主体性が低い」などとレッテルを貼り、当人たちもそう思い込んでしまう。

何と馬鹿げたことでしょう!!

「権利」という観念の根っこにある「他者は敵」という世界観が、毎日毎日、絶えることなく、抗争と掠奪、暴力と殺戮、そして凄まじい破壊を生じ続けている現状を見るにつけ、この期に及んで(欧米流の)「普遍的価値」の称揚を続けるのは、ちょっと非常識だし、無責任である、と思われてなりません。

私たちに必要なのは「戦い」以外の方法だし、たぶん、世界も、「戦い」以外の方法を必要としている(平和のためです!)。

私たちが、「普遍的価値」の無批判な称揚をやめ、足元を見つめ直し、これまで目を向けて来なかった文化圏のあり方を真剣に学ぶことを始めれば、その方法は、案外簡単に見つかるのではないでしょうか。

おわりに

ふう‥‥ ようやく終わりましたね。

まずは、探究にご同行いただいた皆さんに、心からお礼を申し上げます。どうもありがとう!

なかなか激しい旅であったと思うので、もしよければ、感想などお聞かせくださいね。

ところで、今回の探究は、「抗争と掠奪の500年と和解する」というミッションを帯びていました。

私自身は「なるほど、まあ仕方なかったんだな」と感じ、それなりに納得感を得ましたが、皆さんはいかがでしょうか。

きっと、「和解はまだ無理」という方もおられると思います。それはそれでもっともなので、「こんなめちゃめちゃな世界にしたのは、あんたたちだ!」と、彼らを非難してみてもいいと思います。

しかし、想像してみると‥‥
彼らは、多分、こう答えるのでは。

「私たちは、何も間違ったことをしていません。私たちは、ただ、神のお造りになったまま、全き人間であっただけです。あなた方が、文明とやらを打ち立て、無闇に人間の数を増やしたから、こんなことになったのではないですか?」

西アジアの惨状を横目に、宇宙からこのやりとりを眺めている生命体がいたら、泣きながら爆笑してしまうのではないでしょうか‥‥

・ ・ ・

最後に一つ、誤解があってはいけないので、ずっと空欄であった右下のマスを埋めておきましょう。

識字化した核家族の基幹的価値には、何と書き込めばよいでしょう。「敵」それとも「敵と戦う」?

本講座は、正解は(原初的核家族と同じ)「自己保存」であると考えています。

「自己保存」という価値は、すべての生物の基本であって、何ら不穏当なものではありませんね。

それなのに、なぜ、近現代は「抗争と掠奪」「暴力と殺戮」の時代になってしまったのか。

本講座の仮説によると、それは、彼らが「満員の世界」への適応(=権威)を持たないまま、文明社会を生きる羽目になったためにほかなりません。それ以上でも、それ以下でもないのです。

この先、この世界をどう生きるかは、全面的に、私たちの創意工夫に委ねられている。私は、以前にも増して、強くそう感じています。

だって、決まりきった正しさなんて、もう、本当に、どこにもないでしょう?

今日のまとめ

  • 17世紀ヨーロッパの戦争では民間人に膨大な死者が出た
  • ヨーロッパの法観念の基礎には「利害が対立する他者は敵であり、敵と戦うことは正義である」という観念があった
  • 当時の戦争は「敵」から自分たちの権利を守るための戦い(フェーデ)であり、人々は「敵を懲らしめ、敵の戦闘力を奪う」べく、倫理的義務として、熾烈な掠奪(+往々にして虐殺)を遂行した
  • ヨーロッパは「満員の世界」に投げ込まれた狩猟採集民の恐怖が生み出した「敵」の観念を持ち続けた
  • 識字化した核家族は、「身内の拡大」によって「敵との戦い」の対象範囲を縮減し、欧米世界内部の戦争を克服したが、「敵との戦い」を集団をまとめる唯一の手段とする集合的メンタリティは克服していない
  • 「敵」の観念と同時に「権利」の観念が生まれ(=自由が「権利」に変わり)、やがて「敵から権利を守るための戦い」を正当化する仕組みとして近代法体系が生成した
  • 近代の基礎にあるのは、原初的核家族が文明と接触したことで生成した「他者は敵」「敵とは戦わなければならない」という強迫観念である
  • 識字化した核家族の基幹的価値は「自己保存」。それが「敵との戦い」に転じたのは、彼らが「満員の世界」に適応するためのツール(権威)を持たないためである